灰と熱に覆われた第四十五階層の奥へ、バンは靴跡を追って進んでいた。
地面に積もった灰は、歩くたびに赤い長衣の裾まで舞い上がる。
足跡の数は十人分以上。
その横には、幅の広い二本の溝が続いていた。荷車か、荷物を載せた橇のような物を引いた痕跡だろう。
進む方向は同じだった。
第四十六階層へ続く道を知らないバンにとって、これほど分かりやすい目印はない。
「消えねぇうちに追った方がよさそうだな」
山肌から赤い蒸気が噴き出すたび、積もった灰の表面が崩れていく。
何度も噴出が起これば、靴跡も荷車の跡も埋もれてしまうだろう。
バンは歩く速度を少し上げた。
先ほど赤い煙の中へ消えた朱色の影は、まだ近くにいるらしい。
姿は見えないが、ときおり低い鳴き声が山々の間に響いていた。
鳥の声に似ている。
だが、羽ばたく音は重く、一度空気を叩くたびに灰が舞い上がる。
足跡が細い谷へ入った。
左右の岩壁は高く、頭上には赤黒い煙が溜まっている。
煙の奥で何かが動いた。
バンが顔を上げる。
朱色の影が、岩壁から岩壁へ飛び移った。
今度は全身が見えた。
細長い身体。
前後に二対、合計四本の脚。
背中には、腕ほど長い骨を朱色の皮膜で繋いだ一対の翼がある。
頭部は蜥蜴に似ていたが、顎の両脇から後方へ向かって湾曲した角が伸びている。
怪物は岩壁へ爪を食い込ませ、逆さに張りついた。
喉が膨らむ。
鱗の隙間から赤い光が漏れた。
「吐く奴か」
バンは進行方向から横へ動いた。
怪物の口から、炎が細長く吐き出される。
火球ではない。
赤く細い炎が鞭のように谷を横切り、バンが立っていた地面を焼いた。
灰が一瞬で吹き飛び、黒い岩肌が赤く変色する。
炎はバンを追うように横へ動いた。
バンは地面を蹴り、岩壁へ向かって跳ぶ。
クレシューズの先端を突き出た岩へ巻きつけ、そのまま身体を引き上げた。
炎が足元を通り過ぎる。
赤い長衣の裾が熱風に煽られた。
「それ、荷物に当てんなよ」
怪物は炎を止め、翼を広げる。
岩壁から飛び立とうとした瞬間、バンが片手を向けた。
「獲物狩り(フォックスハント)」
朱色の胸から魔石が引き抜かれた。
怪物の翼から力が抜ける。
岩壁を離れた身体が、飛ぶことなく谷底へ落ちた。
地面へ激突する直前に灰へ変わり、朱色の鱗だけが数枚残る。
バンの手元へ飛んできた魔石は、握り拳より少し大きい。
「また増えちまったな」
捨てようとして、背中の鞄へ目を向ける。
第四十四階層で倒した赤岩種の魔石は、帰還分隊へ渡してきた。
わずかなら隙間がある。
バンは鞄を下ろし、魔石を布の隙間へ押し込んだ。
酒瓶へ直接触れない位置へ入れる。
鞄の口を閉じた時、頭上から再び鳴き声が聞こえた。
一つではない。
三つ。
さらに後ろから二つ。
赤い煙の中に、複数の朱色の影が浮かんでいる。
「群れだったのか」
一体ずつ魔石を抜いても倒せる。
しかし、炎を同時に吐かれれば荷物を守る方が面倒だった。
バンは鞄を背負い直す。
呼吸を浅くし、身体から漏れる気配を薄くしていく。
「絶気配(ゼロサイン)」
谷を進むバンの存在感が消えた。
朱色の怪物たちは翼を動かしながら、谷底を見下ろしている。
灰の上には、バンの足跡が残っていた。
だが、怪物たちの視線はその先にいる本人を敵として捉えていない。
一体が低空まで降りてきた。
長い尾がバンの頭上を通り過ぎる。
怪物は灰の中へ鼻先を近づけ、先ほど倒された仲間の臭いを嗅いでいた。
バンはすぐ横を歩いて通り抜ける。
怪物が顔を上げる。
一瞬だけ視線が重なった。
しかし、敵を見つけた反応はない。
首を傾けたあと、再び地面へ鼻を近づけた。
「便利だな、これ」
声は出さない。
気配を消したまま、谷の出口まで進んだ。
朱色の怪物たちは追ってこなかった。
◇
谷を抜けると、荷車の跡が途切れていた。
正確には、地面そのものが途切れている。
巨大な亀裂が山道を横切り、反対側まで二十メートル以上離れていた。
亀裂の底には赤熱した液体が流れている。
激しい熱気が吹き上がり、上方の景色を歪ませていた。
こちら側の崖には、太い杭が二本打ち込まれている。
切れた縄が垂れ下がっていた。
反対側にも同じ杭が見える。
「橋があったのか」
遠征隊が張ったものか、以前から使われていたものかは分からない。
谷へ落ちたのか、焼けて切れたのか、現在は縄の一部しか残っていなかった。
荷車の跡は崖の手前で大きく曲がっている。
右側。
山肌に沿うように、細い迂回路が伸びていた。
バンは迂回路を見る。
人が一人通れるほどの幅しかない。
左側は岩壁。
右側は赤い谷。
途中には、崩れかけた場所も見えた。
「荷車であそこ通ったのか?」
地面に残る溝は、確かに迂回路へ続いている。
十数人で荷車を支え、少しずつ運んだのだろう。
バン一人なら、崖を直接越えた方が早い。
クレシューズを伸ばす。
先端が反対側の杭へ巻きついた。
数度引き、杭が抜けないことを確認する。
バンは後ろへ下がった。
地面を蹴る。
亀裂の上へ身体が飛び出した。
下から噴き上がる熱風が鞄を持ち上げる。
「おっと」
片手で鞄の紐を掴む。
身体が谷の中央まで来た瞬間、反対側の岩壁から赤い蒸気が噴き出した。
視界が赤く覆われる。
熱そのものは問題ない。
だが、蒸気がクレシューズの節と節の間へ吹きつけ、金属が急速に熱を持った。
バンは腕へ力を込める。
長くぶら下がれば、鞄の革や長衣が焼ける。
クレシューズを縮め、反対側へ一気に身体を引き寄せた。
崖の縁へ足が掛かる。
直後、杭の周囲へ細い亀裂が走った。
「崩れんのかよ」
岩ごと杭が抜け始める。
バンはクレシューズを解き、崖の縁を掴んだ。
杭と大きな岩塊が谷へ落ちる。
赤熱した液体へ沈み、激しい火花と蒸気が噴き上がった。
バンは片腕だけで身体を引き上げた。
鞄を背負ったまま、崖の上へ転がる。
「危ねぇな」
立ち上がり、鞄を下ろす。
革の一部が熱くなっている。
水袋は破れていない。
酒瓶にもひびはない。
クレシューズの節は赤くなっていたが、神器の表面に変形は見られなかった。
バンは近くの岩へ腰を下ろす。
「ちょっと冷ますか」
水をクレシューズへ掛けることはしなかった。
急激に冷やせば、どのような影響が出るか分からない。
神器なら壊れない可能性も高いが、試す必要もない。
代わりに鞄を岩陰へ置き、自分の身体で熱風を遮る。
しばらく待つ。
クレシューズから赤みが消えた頃、バンは水袋を取り出した。
一口飲む。
水はかなり温かい。
喉を潤すというより、薄い湯を飲んでいるようだった。
「地上に戻ったら、冷てぇ酒飲みてぇな」
今持っている酒も、すでに同じような温度になっているだろう。
それでも捨てる気はなかった。
水袋を鞄へ戻し、立ち上がる。
崖の先には、遠征隊が残した白い矢印があった。
矢印の近くに、縦へ二本の傷。
その下には、数字の四十六が刻まれている。
「次の階層か」
バンは第四十六階層へ足を踏み入れた。
◇
第四十六階層は、第四十五階層よりも暗かった。
赤い亀裂の光は強い。
だが、空中を漂う黒い煙が光を吸い込み、少し先の景色さえ霞ませている。
山は低くなっていた。
代わりに、地面を深く切り裂く谷が増えている。
谷底には赤熱した液体が流れ、何本もの赤い川となって山岳地帯を分断していた。
足跡と荷車の溝は、再び地面へ現れていた。
遠征隊は迂回路を使い、この場所まで荷物を運んだらしい。
バンは跡を追う。
しばらく進むと、地面に大きな円形の跡が残っていた。
直径は十メートルほど。
中心部の岩は粉々に砕け、周囲へ向かって放射状に亀裂が伸びている。
近くの岩壁には、何か巨大な物が叩きつけられたような窪みがあった。
「派手にやったな」
怪物の灰も残っていない。
戦闘から時間が経ち、ダンジョンが修復を始めているようだった。
円形の窪みの底では、黒い岩が少しずつ盛り上がっている。
砕けた岩壁も、表面が粘土のように蠢き、元の形へ戻ろうとしていた。
荷車の溝は、修復途中の窪みを避けて曲がっている。
バンもその外側を進んだ。
正面の道には、巨大な岩が横たわっていた。
自然に落ちた物ではない。
片側には深い爪痕があり、黒い血のようなものが乾いている。
遠征隊が怪物を倒した際、岩壁から崩れ落ちたのだろう。
足跡は岩の手前で二つに分かれている。
軽装の者は左側の細い隙間を通り、荷車は右へ大きく迂回していた。
バンは巨大な岩へ手を触れる。
「邪魔だな」
持ち上げることはできる。
だが、投げれば山道や谷の壁を壊す可能性がある。
この場所で大きな音を立てれば、周囲にいる怪物も寄ってくる。
バンは岩の向こう側を確かめた。
道幅は狭い。
岩全体を動かさなくても、人が通れる隙間を作れば十分だった。
片手を伸ばす。
「強奪(スナッチ)」
巨大な岩の表面から、必要な部分だけが引き剝がされた。
黒い岩片が宙へ浮かび、バンの横へ移動する。
もう一度。
さらに一度。
岩を砕くのではなく、道を塞いでいる箇所だけを少しずつ奪い取っていく。
やがて、人一人と鞄が通れる穴が開いた。
「これでいいな」
外した岩片は、崖から離れた場所へ静かに置く。
バンは穴を潜り抜けた。
背中の鞄が上部へ擦れそうになり、身体を低くする。
反対側へ出たところで、背後から小さな音が聞こえた。
削った岩の一部へ亀裂が入る。
「崩れんのか?」
バンが振り返る。
だが、落石ではなかった。
岩の表面が内側から膨らんでいる。
黒い岩肌を突き破り、太い腕が現れた。
続いて、頭部。
岩壁の中で新しい怪物が生まれようとしている。
「こんな所から出んのか」
現れたのは、人間を大きくしたような上半身だった。
皮膚は黒い岩に覆われ、胸部の亀裂から赤い光が漏れている。
下半身はまだ岩壁と繋がったまま。
怪物が片腕を振り上げた。
狭い通路で避ければ、背中の鞄が岩壁へぶつかる。
バンは怪物の胸へ手を向けた。
「獲物狩り(フォックスハント)」
形成途中の身体から、魔石が引き抜かれる。
怪物は拳を振り下ろす前に動きを止めた。
岩壁から出ていた上半身が灰へ変わる。
その奥では、ダンジョンの壁が再び蠢いていた。
新しい怪物を生むのではなく、今度は空いた穴を埋めようとしている。
「勝手に出て、勝手に直すのか」
灰が埋まり、数分も経たないうちに黒い壁へ戻った。
バンは魔石を手に取る。
鞄へ入れる場所はない。
岩の上へ置こうとしたが、少し考えて赤い長衣の内側へ入れた。
「小せぇし、これくらいならいいか」
先へ進む。
◇
第四十六階層を進むにつれ、山岳地帯は静かになった。
怪物の声が聞こえない。
岩が転がる音もない。
代わりに、地面の下から低い振動が続いている。
一定ではない。
強くなり、弱くなり、再び強くなる。
バンは足を止めた。
「何か来んのか?」
地面へ手を触れる。
振動は遠くから伝わっているのではない。
階層全体が、ゆっくりと脈打っているようだった。
少し先の岩壁に、遠征隊が刻んだ傷がある。
縦に三本。
そのすぐ横には、矢印ではなく、半円の印が描かれていた。
半円が示す方向を見る。
岩壁の一部が内側へ窪み、人が数人入れる空間になっている。
「入れってことか?」
振動が強くなる。
足元の小石が跳ね始めた。
周囲の赤い亀裂が、先ほどまでより明るく光る。
バンは迷わず窪みへ入った。
直後、階層全体から轟音が響いた。
山の呼吸。
そう呼びたくなるほど巨大な音だった。
谷底を流れていた赤熱した液体が一斉に膨れ上がる。
複数の噴出口から炎と蒸気が噴き出した。
山肌から赤い岩が剝がれ、広範囲へ降り注ぐ。
バンが入った窪みの前にも、大小の岩が落ちてきた。
入口を塞ごうとする。
「なるほどな」
遠征隊が残した三本の傷は、噴出の前兆を知らせる印だったらしい。
バンはクレシューズを構えた。
落ちてくる岩をすべて砕けば、破片が鞄や長衣を傷つける。
代わりに先端を伸ばし、大きな岩の側面へ巻きつけた。
振り抜くのではない。
落下の向きだけを横へ変える。
一つ目の岩が入口の左側へ落ちる。
二つ目は右へ。
小さな岩は腕で弾き、足元へ落とした。
だが、最後に山肌から剝がれた岩は、窪みの入口よりも大きかった。
そのまま落ちれば、完全に閉じ込められる。
「邪魔だぞ」
バンは空いている片手を伸ばした。
「強奪(スナッチ)」
巨大な岩の中心部から、塊が引き抜かれる。
穴の開いた岩は、落下しながら自重で二つに割れた。
左右へ分かれ、窪みの入口を避けて地面へ激突する。
激しい振動。
赤い灰が吹き込んだ。
バンは長衣で鞄を覆い、噴出が収まるのを待った。
轟音はしばらく続いた。
やがて赤い液体の膨張が収まり、山肌から落ちる岩も減っていく。
地面の振動が弱くなった。
バンは窪みから出る。
目の前の景色は、先ほどまでと変わっていた。
道の一部が岩に埋まり、谷底の赤い流れは別の方向へ進んでいる。
白い布も何本か焼け落ちていた。
「道まで変わんのかよ」
幸い、遠征隊の足跡は完全には消えていない。
噴出を避けた者たちが窪みから出た後に残した、新しい足跡が別の道へ続いていた。
バンはその跡を追った。
◇
足跡の先には、長い下り坂があった。
第四十六階層の赤黒い山々を抜け、さらに深い場所へ続いている。
下へ進むにつれ、空気の中に混ざる灰は少なくなった。
代わりに、熱がさらに重くなる。
呼吸するだけで肺の奥まで温められるような空気。
普通の冒険者なら、鎧の内側へ冷却用の布や道具が必要になるだろう。
坂の途中には、空になった水袋が捨てられていた。
一つだけではない。
破れた物。
熱で変形した物。
口の部分が使えなくなった物。
遠征隊も、この山岳地帯を抜けるために大量の水を使ったらしい。
バンは自分の鞄へ手を回す。
二つあった水袋のうち、一つはすでに半分以下。
もう一つは、まだほとんど残っている。
「第五十階層までは持ちそうだな」
食料もある。
酒も残っている。
鞄と長衣は焦げているが、まだ使える。
探索を続けられないほどではなかった。
下り坂の終わりへ、黒い石柱が二本立っている。
中央には、四十七の数字。
バンは石柱の間を通り抜けた。
第四十七階層。
そこには、これまで以上に巨大な谷が広がっていた。
谷の両側には黒い山脈がそびえ、壁面のいたるところから赤い液体が滝のように流れ落ちている。
赤い滝は谷底へ届く前に細かな火花となり、暗い空間を照らしていた。
遠くには、一本の細い岩道が見える。
谷の中央を横切り、反対側の山へ続いていた。
だが、その道の手前は大量の岩で塞がれている。
先ほどの噴出で起きた崩落らしい。
さらに、岩山の周囲には複数の足跡が残っていた。
人間のものではない。
太く、大きく、深い。
崩れた岩の向こう側から、何かが地面を引っかく音が聞こえる。
バンはクレシューズを肩から下ろした。
「道塞いでんのは、岩だけじゃねぇみたいだな」
赤い滝の光に照らされながら、崩落した道へ向かって歩き始めた。
第96話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は第四十五階層から第四十七階層まで進み、〈紅蓮の山岳〉特有の高熱、噴出、崩落によって道そのものが変化する危険を描きました。
バンは戦闘を避けられる場面では《絶気配》を使い、障害物に対しても力任せに破壊するのではなく、《強奪》で必要な部分だけを取り除いています。本人が無傷でも、荷物や足場を守らなければならない点は引き続き意識しています。
引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。