強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第99話 灰色の森林

 第五十階層へ続く石門を潜った瞬間、バンは足を止めた。

 

 第49階層〈大荒野モイトラ〉を吹き抜けていた乾いた風も、その背後に連なる〈紅蓮の山岳〉の熱気も、境界を越えた途端に遠ざかる。

 

 代わって頬を撫でたのは、湿り気を含んだ冷たい空気だった。

 

「涼しいな」

 

 目の前には、灰色の森林が広がっている。

 

 太い幹も、複雑に重なる枝も、その先に茂る葉も、すべてが灰を被ったように色褪せていた。枯れているわけではない。枝先には小さな水滴が残り、足元の柔らかな土からは湿った植物の匂いが漂っている。

 

 赤熱した岩と黒い灰ばかりの階層を歩いてきた後では、色の乏しい森林でさえ目に優しく感じられた。

 

 バンは焦げと砂で黒ずんだ赤い長衣を軽く叩く。

 

 細かな灰が舞い落ちた。

 

 裾や肩には新しい焦げ跡と裂け目が増えている。第四十八階層で熱風と落石から鞄を守った際には、長衣を鞄へ巻きつけたため、背中側の布が特に傷んでいた。

 

 しかし、その下にあるバンの身体には何の異常もない。

 

 煉獄を生身で歩き、そこに棲む怪物と戦い続けた肉体にとって、〈紅蓮の山岳〉の熱は比べるまでもなく生ぬるかった。

 

 問題だったのは、あくまで服と荷物の方である。

 

「長衣は、また直してもらわねぇとな」

 

 背中の鞄へ手を回す。

 

 長く高熱へ晒された革は硬くなり、表面へ細かなひびが走っている。岩壁へ何度も擦ったことで傷も増え、左側の紐は半分ほどの太さしか残っていなかった。

 

 中には大型の魔石と素材。

 

 保存食。

 

 空になった水袋。

 

 まだ水の残っているもう一つの水袋。

 

 そして、高熱で生温かくなった酒瓶が詰め込まれている。

 

「こっちも、よく持ったな」

 

 バンは鞄の位置を直し、灰色の木々の間へ続く道を歩き始めた。

 

 地面には無数の靴跡と車輪の跡が重なっている。

 

 第四十九階層から続いていた白い杭も、森の奥へ一定の間隔で並んでいた。その近くには、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリア、それぞれの紋章を描いた布が結ばれている。

 

 進むほど、人の気配が濃くなった。

 

 木々の間に張られた天幕。

 

 積み上げられた木箱。

 

 水を満たした巨大な樽。

 

 食料を運ぶ団員。

 

 武器を打つ金属音。

 

 負傷者を運ぶ者たちの声。

 

 森林の一角が、そのまま一つの町へ変えられているようだった。

 

「随分いるな」

 

 第四十四階層や第四十九階層で出会った分隊とは比べものにならない。

 

 見える範囲だけでも百人を超えている。

 

 さらに奥にも魔石灯が並び、その下で大勢の冒険者が動いていた。

 

 天幕や物資置き場には二つの派閥の紋章が分けて掲げられているが、団員たちは完全に別々で行動しているわけではない。

 

 負傷者を運ぶ者。

 

 装備を修理する者。

 

 食料を配る者。

 

 魔石や素材を選別する者。

 

 長い遠征の帰路では、派閥の違いよりも、全員を無事に地上へ帰すことが優先されているらしい。

 

 バンが最初の見張り台へ近づいた時、頭上から鋭い声が飛んだ。

 

「止まれ!」

 

 灰色の木の太い枝へ組まれた足場から、弓を構えた冒険者が矢を向けている。

 

 同時に、左右の木陰から四人が現れた。

 

 二人は槍。

 

 一人は片手剣。

 

 残る一人は、負傷者や物資を守るように大楯を前へ出した。

 

 バンは立ち止まる。

 

 クレシューズは節を縮めた状態で片手に持っていた。

 

「何だ?」

 

「その武器を地面へ置け」

 

「歩く時に使ってるだけだぞ」

 

「いいから置け」

 

「面倒だな」

 

 バンはクレシューズを足元へ下ろした。

 

 神器の四つの節が、湿った土の上へ横たわる。

 

 槍を持つ男が一歩前へ出た。

 

「お前はどの部隊の者だ? 見たことがない」

 

「どの部隊でもねぇぞ」

 

「ゼウス側か、ヘラ側か?」

 

「どっちでもねぇ」

 

 見張りたちの表情が険しくなる。

 

 男はバンの背後を確認した。

 

「同行者はどこだ?」

 

「いねぇぞ。一人だ」

 

「……一人?」

 

「ああ」

 

「ここまで単独で下りてきたと言うのか?」

 

「ああ」

 

「第五十階層まで?」

 

「門に五十って書いてあっただろ」

 

「数字を聞いているんじゃない!」

 

 男の声が大きくなる。

 

 見張り台の弓使いも矢を下ろさない。

 

 大楯を構えた女は、焦げた長衣と壊れかけた鞄を見て眉を寄せた。

 

「どこかの分隊とはぐれたのではないの?」

 

「だから、最初から一人だって言ってんだろ」

 

「第四十九階層の戦場整理班には会った?」

 

「ああ。百足みてぇな奴が出たから、一緒に倒したぞ」

 

「指揮官の名前は?」

 

「聞いてねぇな」

 

「確認にならないわね……」

 

 女が困ったように息を吐く。

 

 その時、頭上の枝が僅かに揺れた。

 

 灰色の影が木から木へ飛び移り、見張りたちの頭上を音もなく越える。

 

 短い灰色の髪。

 

 琥珀色の瞳。

 

 頭部から伸びる狼の耳と、外套の下で揺れる灰色の尾。

 

 腰には二本の短剣が下げられていた。

 

 狼人の女はバンたちの間へ静かに着地する。

 

「騒ぎが聞こえた」

 

「シグネ殿」

 

 見張りたちが僅かに姿勢を正した。

 

 シグネ・ヴァルグは返事をせず、バンを観察する。

 

 顔。

 

 長衣。

 

 鞄。

 

 足元のクレシューズ。

 

 それから鼻を僅かに動かした。

 

「第四十九階層の乾いた土。第四十八階層の赤い灰。飛行種の焦げた臭い。第四十七階層の岩粉も付いている」

 

「臭いだけで分かんのか?」

 

「ああ」

 

 シグネはバンの周囲を一度だけ歩く。

 

「遠征隊の団員の臭いは、第四十四階層と第四十九階層で付いたものだけだ。それ以外の階層では、誰かと長く行動した痕跡がない」

 

 槍を持つ男が目を見開く。

 

「では、本当に一人で……?」

 

「少なくとも、単独で下りてきたという話は嘘ではない」

 

「バンだぞ」

 

「そうか」

 

 シグネの反応は薄い。

 

 名前を記憶するだけで、驚きも疑問も表へ出さなかった。

 

「第四十九階層の整理班から連絡が来ている。赤い長衣を着た無所属の男。触れずに魔石を抜くとも聞いた」

 

「伝わってんじゃねぇか」

 

「外周の全員へ報告が届くには時間が掛かる」

 

 シグネは見張りたちへ視線を向けた。

 

「敵意はない。武器を向ける必要もない」

 

「ですが、所属不明者を本隊へ入れるのは――」

 

「私が確認する」

 

 短く告げた後、シグネはバンの鞄を見た。

 

「その荷物は下ろした方がいい」

 

「第五十階層まで持ったんだから、もう少し平気だぞ」

 

「左の紐が切れる」

 

「まだ繋がってんだろ」

 

「あと十歩も持たない」

 

 バンが肩越しに鞄を見る。

 

 確かに左側の紐は細くなっているが、完全には切れていない。

 

「中央までなら――」

 

 鈍い音がした。

 

 言葉の途中で、左の紐が千切れる。

 

 鞄が大きく傾いた。

 

「おっと」

 

 バンは片手を後ろへ回し、落ちかけた鞄を掴む。

 

 しかし、長く熱へ晒された革は紐だけでなく、本体まで傷んでいた。

 

 荷物の重さが一か所へ集中したことで、鞄の側面へ新たな亀裂が走る。

 

 内側から大型の魔石が革を押し広げた。

 

「動かすな」

 

 シグネが告げるのとほぼ同時に、野営地の奥から重い足音が近づいてきた。

 

「そのまま支えとけ! 下手に傾けるな!」

 

 腹へ響くような声。

 

 黒鉄の重装鎧をまとったドワーフが、集まった団員たちを押し退けて現れる。

 

 短い暗灰色の髪。

 

 赤褐色の長い髭は、太い三本の編み込みにされている。

 

 片手には修理用の金槌を持ち、背中には巨大な戦槌〈グランド・アンヴィル〉を担いでいた。

 

 ドルガン・バルクはバンの前へ来ると、破れかけた鞄を見て顔をしかめた。

 

「何を詰めたら、革鞄がこんな形になる」

 

「魔石と素材だな」

 

「見りゃ分かる! 量を聞いとるんだ!」

 

「覚えてねぇぞ」

 

「馬鹿者が!」

 

 ドルガンは金槌を腰へ差し、地面へ片膝をつく。

 

「鞄をゆっくり下ろせ。傾けるな。瓶が割れていれば、中身ごと駄目になるぞ」

 

「酒は割れてねぇぞ」

 

「酒を入れとるのか!?」

 

「ああ」

 

「この鞄へ!?」

 

「ああ」

 

 ドルガンの動きが止まった。

 

「水や食料と大型魔石を一緒に詰めて、紅蓮の山岳を越えたのか」

 

「布で包んであるぞ。バジリスクの鱗も入れた」

 

「工夫する場所が根本から間違っとる!」

 

 怒鳴りながらも、ドルガンの手つきは慎重だった。

 

 鞄の底へ両手を差し入れる。

 

「今から荷物を固定する。勝手に手を離すな」

 

 足元へ重い魔力が広がった。

 

「【グランド・アンカー】」

 

 見えない杭が地面へ打ち込まれたように、傾いていた鞄が止まる。

 

 重さが消えたわけではない。

 

 鞄と、それを支えるバンの身体が一時的にその場所へ固定され、破れた革へ掛かる負担が減っていた。

 

 ドルガンは見張りへ振り返る。

 

「補修用の厚布と太縄を持ってこい! それから大型の箱と台車だ!」

 

「箱は幾つ必要ですか?」

 

「三つだ!」

 

「三つも?」

 

「中身を見りゃ分かる!」

 

 二人の団員が野営地の奥へ走っていく。

 

 バンは鞄を支えながら尋ねた。

 

「直せんのか?」

 

「直すのではない。これはもう鞄として死んどる。中身を移すまで形を保たせるだけだ」

 

「地上まで使えねぇのか?」

 

「無理だ」

 

「気に入ってたんだけどな」

 

「なら、もっと大事に使え!」

 

 ドルガンは破れた部分へ厚い革布を当て、太い縄で鞄全体を巻き始めた。

 

「大型魔石は何個だ」

 

「大きいのが五つか六つくらいだったか?」

 

「五つか六つ!?」

 

「途中で小さいのも入れたぞ」

 

 ドルガンの手が再び止まる。

 

 シグネも無言で鞄を見る。

 

「全部、一人で回収したのか」

 

「ああ」

 

「どこから?」

 

「二十九階層辺りからだったか?」

 

「そこから第五十階層まで?」

 

「そうだぞ」

 

 シグネの狼の耳が僅かに動いた。

 

 驚いているらしいが、表情にはほとんど現れない。

 

 ドルガンは大きく息を吐いた。

 

「中身を確認するのは物資整理区画だ。ここで開けば、見張りの足元へ魔石が雪崩れ込む」

 

「オレが運ぶぞ」

 

「持たせん!」

 

「何でだ?」

 

「次に破れたら、森中へ散らばるからだ!」

 

 ドルガンの怒声が響いた直後、灰色の木々の間から別の人影が走ってきた。

 

 黒い短髪。

 

 黒い猫耳と、先端だけ白い尾。

 

 手には杖と槍を組み合わせたような長柄武器〈アスクレピア〉を持っている。

 

「負傷者はどこ?」

 

 ネリネ・フェルカは周囲を見回し、最後にバンへ視線を止めた。

 

「その人ね」

 

「負傷者じゃねぇぞ」

 

「第四十八階層を一人で越え、衣服の広範囲が焼けている。診察を受けない理由にはならないわ」

 

 ネリネは返事を待たず、バンの正面へ立った。

 

 淡い黄緑色の瞳が、頭から足までを細かく追う。

 

 バンが一歩動こうとすると、ドルガンが怒鳴った。

 

「動くな! 鞄がずれる!」

 

「面倒な奴らだな」

 

「黙って診せなさい」

 

 ネリネが手をバンの胸元へ近づけた。

 

 直接触れず、僅かな距離を空けたまま目を細める。

 

 【命脈観測(ヴィータ・サイン)】。

 

 呼吸。

 

 心拍。

 

 血流。

 

 魔力の循環。

 

 疲労。

 

 負傷の有無。

 

 治療役として磨き上げた感覚が、バンの身体を隅々まで読み取っていく。

 

 数秒後、ネリネの猫耳がぴくりと動いた。

 

「……何もない」

 

「何かあったか?」

 

「だから、何もないのよ」

 

 ネリネは焦げた赤い長衣を見た。

 

 裾と肩にはいくつもの穴が開き、背負っていた鞄も高熱と摩擦によって壊れかけている。

 

 それにもかかわらず、その下にあるバンの皮膚には火傷も赤みもない。

 

 呼吸にも異常はなく、灰や熱気による喉や肺への影響も見られない。

 

 体内の水分も正常な範囲に保たれ、疲労の蓄積すらほとんどなかった。

 

「火傷なし。呼吸器の損傷なし。脱水も疲労もない……」

 

「なら、問題ねぇだろ」

 

「それが問題なのよ。第四十八階層まで一人で歩いてきたのでしょう?」

 

「ああ」

 

「紅蓮の山岳の高熱を受けながら?」

 

「あれくらい、煉獄と比べりゃ圧倒的にぬるいぞ」

 

「ぬるい……? それに、煉獄って……あなたは一体、どこで何をしていたの?」

 

「長いこと過ごしてただけだぞ。オレは平気だったけど、服と荷物が駄目になりかけたな」

 

 ネリネはもう一度、バンの身体を確認した。

 

 診断結果は変わらない。

 

 身体の機能は正常。

 

 心拍も呼吸も安定している。

 

 長期間の単独探索を終えた者とは思えないほど、消耗も少なかった。

 

「煉獄で長いこと過ごした、で納得できると思っているの?」

 

「ああ」

 

「できるわけないでしょう!」

 

 ネリネの尾が大きく膨らんだ。

 

        ◇

 

「何の騒ぎだ?」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 バンが顔を上げる。

 

 野営地の奥から、数人の団員を連れた大柄な男が歩いてくる。

 

 使い込まれた鎧。

 

 腰へ下げた武器。

 

 マキシムの傍らで遠征隊を指揮していた、ゼウス・ファミリアの副団長。

 

 パァルだった。

 

「パァルじゃねぇか」

 

 バンが片手を上げる。

 

 パァルは数歩進んだところで止まった。

 

 焦げて黒ずんだ赤い長衣。

 

 破裂寸前の鞄。

 

 それを固定するドルガン。

 

 バンの身体を何度も確認しているネリネ。

 

 周囲を囲む見張り。

 

 一つずつ状況を確認し、最後にバンの顔を見る。

 

「……バン?」

 

「ああ」

 

「何でお前がここにいる」

 

「歩いてきたぞ」

 

「それは見れば分かる!」

 

 パァルの声が森へ響く。

 

「オラリオにいたんじゃなかったのか!?」

 

「暇だったから潜ってみた」

 

「暇で第五十階層まで来る奴がいるか!」

 

「ここにいるぞ」

 

「そういう話をしているんじゃない!」

 

 パァルは額へ手を当てた。

 

 ベヒーモスとの戦いでバンの行動を知っているため、嘘を言っていないことだけは理解しているようだった。

 

 見張りの男がおそるおそる尋ねる。

 

「副団長、本当にお知り合いなのですか?」

 

「ああ。知り合いだ」

 

「では、マキシム団長とも?」

 

「知っている。ヘラ側の団長とも面識がある」

 

 見張りたちの視線が一斉にバンへ向いた。

 

「言っただろ」

 

 バンは当然のように答える。

 

 槍を向けていた男が気まずそうに視線を逸らした。

 

「所属不明者への確認としては間違っていない。気にするな」

 

 パァルは見張りへ告げる。

 

「武器を向けたことも問題ない。こいつは見た目も行動も怪しすぎる」

 

「ひでぇな」

 

「無所属の男が、地図も案内役もなく第五十階層へ現れたんだ。どう見れば怪しくなくなる」

 

「普通に見りゃいいだろ」

 

「お前の普通をこちらへ押しつけるな」

 

 パァルは大きく息を吐き、バンの背後を確認した。

 

「本当に同行者はいないのか?」

 

「ああ」

 

「第二十九階層付近から、ずっと一人で?」

 

「途中で冒険者とは会ったぞ」

 

「地図は?」

 

「持ってねぇな」

 

「方角は分かるのか?」

 

「分かんねぇぞ」

 

 パァルが黙る。

 

 しばらく灰色の木々を見上げた後、現実を受け入れるように長く息を吐いた。

 

「よくここまで来られたな」

 

「白い布と足跡を追ってきたぞ」

 

「目印を残した遠征隊に感謝しろ」

 

「道を教えてもらった分、途中で怪物を倒してやったぞ」

 

「第四十四階層の帰還分隊と、第四十九階層の整理班を助けたそうだな」

 

「ああ」

 

 パァルは表情を改め、バンへ頭を下げた。

 

「こちらから礼を言う。負傷者と物資を守ってくれたことに感謝する」

 

「別にいいぞ」

 

「お前にとってはそうでも、こちらにとっては違う」

 

 頭を上げたパァルは、そこで何かを思い出したようにバンを見る。

 

「そうだ。ザルドとアルフィアはどうしている?」

 

「二人か?」

 

「ああ。俺たちが遠征へ出た時には、まだオラリオへ戻っていなかった。こちらには、その後の知らせも届いていない」

 

 パァルの声から、先ほどまでの呆れが消える。

 

「二人とも、無事に戻ったのか?」

 

「ああ。オラリオにいるぞ」

 

「そうか……」

 

 パァルの肩から、僅かに力が抜けた。

 

「ザルドの毒は?」

 

「まだ完全に抜けたわけじゃねぇみたいだけどな。普通に歩いて、飯も食ってたぞ」

 

「負傷の方は?」

 

「治療は続けてたな。本人はもう動けるって言ってたけど、周りに止められてたぞ」

 

「ザルドらしいな」

 

 パァルは小さく苦笑した。

 

「アルフィアは?」

 

「相変わらずだな」

 

「相変わらずでは分からん」

 

「咳はしてたぞ。長く動くと苦しそうだったけど、オレに文句を言うくらいには元気だったな」

 

「それを元気と言っていいのか迷うところだな……」

 

「飯も食ってたぞ」

 

「なら、少なくとも動けない状態ではないか」

 

「ああ」

 

 パァルは静かに頷いた。

 

 遠征へ出発してから、長い時間が経っている。

 

 深層では地上からの知らせなど簡単には届かない。仲間が生きてオラリオへ戻ったことさえ、今この瞬間まで確かめる術がなかったのだ。

 

「二人が無事に戻ったと聞けただけでも安心した。マキシムにも伝えなければならないな」

 

「ああ」

 

「それで、お前がダンジョンへ潜ることは、二人も知っているのか?」

 

「言ってねぇぞ」

 

 パァルの表情が再び固まった。

 

「なぜだ」

 

「言ったら止めるからな」

 

「止められるようなことをしている自覚はあるんだな?」

 

「ああ」

 

「なら、なぜやる」

 

「潜ってみたかったからだ」

 

 パァルは額へ手を当てた。

 

「アルフィアが知った時のことを考えたか?」

 

「怒るだろうな」

 

「怒るだけで済むと思っているのか?」

 

「ザルドが止めんだろ」

 

「ザルドまで一緒に怒る可能性は考えないのか」

 

「その時はその時だな」

 

「お前は……」

 

 パァルは言葉を失い、長く息を吐いた。

 

「地上へ戻った後のことは、自分でどうにかしろ。俺は間に入らないぞ」

 

「頼んでねぇぞ」

 

「先に言っておかなければ、必ず巻き込まれる気がしたんだ」

 

 パァルは、縄で固められた鞄へ視線を移した。

 

「まずはその荷物をどうにかする。その状態で中央区画を歩かせれば、途中で全部落とす」

 

「オレは平気だぞ」

 

「周りが平気ではない!」

 

 野営地の奥から、先ほど走っていった団員たちが戻ってきた。

 

 厚い布。

 

 太い縄。

 

 大きな木箱を載せた低い台車。

 

 ドルガンは一度確認し、頷いた。

 

「鞄ごと台車へ載せるぞ」

 

「中身は出さねぇのか?」

 

「ここでは出さん。何が飛び出すか分からん」

 

「魔石しか出ねぇぞ」

 

「酒瓶もあるだろうが!」

 

「ああ」

 

「だから信用できんと言っとる!」

 

 ドルガンの指示で数人の団員が鞄の周囲へ集まる。

 

 【グランド・アンカー】を解除する前に、厚い布を鞄の下へ差し込んだ。

 

「合図で持ち上げる。傾けるな。急に引くな。中身を落とした奴は、第五十階層から地上まで全部背負って帰れ」

 

「それは勘弁してください」

 

「なら慎重にやれ」

 

 ドルガンが魔法を解除する。

 

 固定されていた鞄の重さが戻った。

 

 団員たちは布の端を掴み、声を合わせて持ち上げる。

 

「重っ……!」

 

「何が入っているんだ、これ!」

 

「止めるな! そのまま載せろ!」

 

 鞄がゆっくりと台車へ載せられる。

 

 木製の台が大きく軋んだ。

 

 側面を太い縄で固定し、ようやく全員が手を離す。

 

「これを一人で背負ってきたのか……」

 

「軽かったぞ」

 

「お前にとってだけだ!」

 

 団員たちの声が重なった。

 

        ◇

 

 野営地の中へ入ると、外から見ていた以上に多くの冒険者がいた。

 

 灰色の木々の間へ、役割ごとに天幕が張られている。

 

 負傷者を収容する治療区画。

 

 食料と水を管理する補給区画。

 

 魔石や素材を分類する回収品置き場。

 

 壊れた武器と防具を修理する作業場。

 

 合同遠征隊は第七十一階層付近の調査を終え、長い帰還の途中にある。

 

 全員が疲労しているはずだが、野営地の動きは止まっていなかった。

 

 治療区画の前では、大柄な猪人の女が負傷者を乗せた担架を片手で持ち上げていた。

 

 赤褐色の髪。

 

 短い牙。

 

 背中には巨大な大楯〈ヒルド・ガルズ〉。

 

 腰には大剣〈グラム・バルカ〉。

 

 ブリュン・ガルディアは担架を天幕へ運び終えると、近くの団員へ指示を出した。

 

「その者は左の寝台だ。胸部を強く打っている。ネリネが戻るまで動かすな」

 

「はい!」

 

 ブリュンが振り返る。

 

 パァルとシグネ。

 

 その後ろを歩くバン。

 

 台車へ載せられた巨大な鞄。

 

 状況を確認し、僅かに眉を上げた。

 

「例の単独行か」

 

「もう伝わってんのか」

 

「外からパァルの声が聞こえた。嫌でも分かる」

 

「俺のせいにするな」

 

 パァルが疲れた声で返す。

 

 ブリュンはバンを上から下まで見る。

 

「その身体で、あの荷物を背負ってきたのか」

 

「この身体って何だよ」

 

「私と比べれば細い」

 

「そりゃそうだな」

 

 ブリュンは豪快に笑い、バンの肩を叩く。

 

 普通の冒険者なら姿勢を崩しかねない力だったが、バンは僅かにも動かなかった。

 

「第五十階層まで一人で来る馬鹿なら、嫌いではない」

 

「ブリュン、褒めるな。調子に乗る」

 

「褒めてはいない。馬鹿だと言っただけだ」

 

「そうか」

 

 次の担架が運ばれてくると、ブリュンの表情が一瞬で変わった。

 

「そちらの負傷者を先に運べ! 呼吸が浅い、急げ!」

 

 大柄な身体からは想像できない初速で走り、数歩のうちに担架へ到達する。

 

「速ぇな、あいつ」

 

「ヘラ・ファミリアの幹部だ。見た目だけで判断しない方がいい」

 

 パァルが答えた。

 

 修理区画へ入る。

 

 何十人もの鍛冶師や団員が武器を並べ、刃を研ぎ、防具の歪みを直している。

 

 その一角。

 

 灰色の木の根元へ腰掛けたエルフの女が、一本の長剣を布で拭いていた。

 

 淡い金銀色の髪。

 

 青緑色の瞳。

 

 白と深緑を基調とした軽鎧。

 

 膝の上には、魔装長剣〈シルヴァリオン〉が置かれている。

 

 セレーネ・アウレリアは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。

 

「まあ……お客様でしょうか?」

 

「客というより、迷い込んできた男だ」

 

 パァルが答える。

 

「一人で第五十階層まで来た」

 

「お一人で?」

 

「ああ」

 

「それは、とても大変でしたね」

 

「別にそうでもねぇぞ」

 

「そうなのですか?」

 

「地図も持たず、方角も分からず、足跡だけを辿ってきた男だ」

 

「まあ……」

 

 セレーネは少し考える。

 

「それでも到着できたのですから、旅がお上手なのでは?」

 

「お前まで肯定するな」

 

 パァルが呆れる。

 

 セレーネは何がいけなかったのか分からないように首を傾けた。

 

 その時、修理区画の奥で金属が滑る音がした。

 

 台へ立て掛けられていた大きな刃が倒れ、近くの団員へ向かう。

 

 セレーネの表情が変わった。

 

 おっとりとした瞳が鋭くなり、立ち上がると同時に〈シルヴァリオン〉を抜く。

 

 刀身を倒れる刃の側面へ正確に当てた。

 

 僅かな風が起こる。

 

 重い刃は軌道を変え、誰もいない場所へ落ちた。

 

「固定が甘いです」

 

 声からも、先ほどまでの柔らかさが消えていた。

 

「負傷者を増やす余裕はありません。留め具をすべて確認してください」

 

「す、すみません!」

 

「謝罪は後で構いません。ほかにも緩んでいる物がないか、今すぐ確認を」

 

「はい!」

 

 団員たちが動き始める。

 

 危険がないことを確認すると、セレーネは剣を鞘へ戻した。

 

 鋭い空気も消える。

 

「驚かせてしまいましたね」

 

「別人みてぇだったぞ」

 

「戦いと危険には、誰より真剣でなければなりませんから」

 

 そう言って、再び穏やかに微笑んだ。

 

        ◇

 

 野営地の中心へ近づくほど、警備の人数が増えていった。

 

 灰色の木々の間には、薄い魔力の膜が張られている。

 

 外敵を完全に防ぐ壁ではなく、異常や侵入を知らせる結界らしい。

 

 その前に、淡い金色の長髪を背へ流したハイエルフが立っていた。

 

 濃紺の外套。

 

 手には大きな魔杖。

 

 リシェル・ヴァン・アステリアは、複数の魔導士へ落ち着いた声で指示を出している。

 

「西側の第三結節を弱めてください。維持へ魔力を回しすぎています。今夜の警戒交代まで持たせることを優先します」

 

「承知しました、副団長」

 

「治療区画上部の結界は維持してください。負傷者に灰や胞子が入らないように」

 

 指示を終えたリシェルが、パァルたちへ視線を向ける。

 

 バンを見た瞬間、僅かに目を見開いた。

 

「バンさん?」

 

「久しぶりだな」

 

「なぜ、あなたが第五十階層にいるのですか?」

 

「暇だったから来たぞ」

 

 リシェルは数秒、何も言わなかった。

 

 それからパァルを見る。

 

「説明をお願いできますか?」

 

「俺も今、説明を求めているところだ」

 

「そうですか……」

 

 リシェルは深く息を吐く。

 

 副団長としての冷静さは保っているが、頭痛を堪えているようにも見えた。

 

「ひとまず敵ではありません。結界を開いてください」

 

 魔導士たちが魔杖を動かす。

 

 薄い膜の一部が左右へ分かれ、中央区画へ続く道が開いた。

 

「マキシム団長とレグナイト団長は、中央天幕にいらっしゃいます」

 

「女帝の名前、レグナイトっていうのか」

 

 バンが何気なく言う。

 

 リシェルの足が止まった。

 

「ご存じなかったのですか?」

 

「女帝としか聞いてなかったぞ」

 

「名前も知らずに、本人を女帝と呼び続けていたのですか?」

 

「ああ」

 

「それでよく無事でしたね」

 

「何でだ?」

 

「……いえ。今さらでした」

 

 リシェルは考えることをやめたように首を横へ振った。

 

 中央天幕は、ほかの物より一回り大きい。

 

 入口にはゼウスとヘラ、二つのファミリアの紋章が並んでいた。

 

 周囲には護衛役の団員が立ち、地図や記録板を抱えた伝令が頻繁に出入りしている。

 

 パァルが入口へ近づいた。

 

 天幕の内側から、低い声が聞こえる。

 

「外が騒がしいな」

 

 布が持ち上げられ、大柄な男が姿を現した。

 

 ゼウス・ファミリア団長、マキシム。

 

 遠征を終えたばかりらしく、鎧には深い傷が残り、左腕には包帯が巻かれている。それでも立っているだけで、周囲の団員とは明らかに異なる圧力を放っていた。

 

 マキシムは入口の前にいる者たちを順番に見る。

 

 パァル。

 

 リシェル。

 

 シグネ。

 

 台車へ載せられた巨大な鞄。

 

 そして、焦げた長衣をまとったバン。

 

「……何でお前がここにいるんだ?」

 

「遊びに来たぞ」

 

「一人でか?」

 

「ああ」

 

「第五十階層まで?」

 

「ああ」

 

「……本当に来やがったのか」

 

 マキシムは額へ手を当てた。

 

 しかし、すぐに肩が震え始める。

 

「くっ……ははっ!」

 

 堪えきれなくなったように笑い出した。

 

「俺たちが帰る時を狙ったみたいに現れやがって!」

 

「お前らがいるとは知らなかったぞ」

 

「なら、なおさら質が悪い!」

 

 マキシムの笑い声が中央区画へ響く。

 

 その背後から、一人の女がゆっくり姿を現した。

 

 黒と金を基調とした戦装束。

 

 両腕には、重厚な戦闘用手甲〈レガリア〉。

 

 剣も槍も持っていない。

 

 彼女自身の拳と脚が、どの武器よりも強力だからだ。

 

 ヘラ・ファミリア団長。

 

 Lv.9。

 

 【女帝】レグナイト。

 

 レグナイトはマキシムの隣へ立ち、バンを見る。

 

 焦げた長衣。

 

 長い単独探索を終えたとは思えない、何の消耗も見せない立ち姿。

 

 足元の神器。

 

 そして、何人もの団員によって運ばれてきた鞄。

 

「一人でここまで来たそうね」

 

「ああ」

 

「誰の許可を得て?」

 

「誰にも聞いてねぇぞ」

 

「そうでしょうね」

 

 レグナイトは僅かに口元を上げた。

 

 怒っているのか、面白がっているのか判別しにくい笑みだった。

 

「相変わらず、退屈とは無縁の男ね」

 

「そっちも元気そうだな、レグナイト」

 

 初めて名前を呼ばれた女帝の眉が僅かに動く。

 

 リシェルは後ろで静かに目を閉じた。

 

 パァルも何かを察し、顔を逸らす。

 

「今まで私の名前を知らなかったの?」

 

「ああ。さっき聞いたぞ」

 

 中央区画が静まり返った。

 

 マキシムだけが再び笑い始める。

 

「ははははっ! お前、女帝の名前も知らずに喧嘩を売ってたのか!」

 

「売ってねぇぞ」

 

「似たようなものよ」

 

 レグナイトはゆっくりバンへ近づいた。

 

 Lv.9の圧力が一歩ごとに増していき、周囲の団員が無意識に道を空ける。

 

 バンは動かない。

 

 レグナイトは目の前で足を止め、顔を覗き込んだ。

 

「私の名前を知らなかった罰を与えてもいいけれど……」

 

 その視線が台車へ移る。

 

「その前に、あれを開けなさい」

 

「鞄か?」

 

「一人で第五十階層まで下り、何を持ち帰ったのか興味があるわ」

 

「酒と飯も入ってるぞ」

 

「それ以外を聞いているのよ」

 

 台車の隣に立つドルガンが口を挟む。

 

「開けるなら物資整理区画へ移動してからだ。ここで縄を解けば、団長たちの足元へ魔石が雪崩れ込むぞ」

 

「そんなに入っているの?」

 

「本人も数を覚えとらん」

 

 レグナイトの笑みが僅かに深くなる。

 

 マキシムも台車へ近づき、縄で固められた鞄を眺めた。

 

「よし。会議は一度中断だ」

 

「団長、帰還経路の最終確認が残っています」

 

 パァルが止める。

 

「少しくらい待てる」

 

「負傷者と物資の移動予定が掛かっています」

 

「十分で終わらせる」

 

「この鞄を十分で確認できると思いますか?」

 

「……二十分だ」

 

「増やすな」

 

 パァルが即座に返した。

 

 レグナイトは二人のやり取りを気にせず、バンへ向き直る。

 

「中身を見せなさい。詳しい話はそれからよ」

 

「いいぞ。もう鞄に入らねぇからな」

 

 バンは台車を押す団員たちの後へ続いた。

 

 第二十九階層から始まった単独探索は、第50階層〈灰色の森林〉への到達をもって、ひとまず終わりを迎えた。

 

 だが、合同遠征隊の者たちはまだ知らない。

 

 壊れかけた鞄へ無造作に詰め込まれた一つ一つの魔石と素材が、バンが一人で歩いてきた道を示す証拠であることを。

 

 そして、その中には本人さえ価値を理解していない、深層の戦利品が紛れ込んでいることを。




第99話までお読みいただき、ありがとうございます。

シグネ、ドルガン、ネリネ、ブリュン、セレーネについては、それぞれの役割を実際に果たしている場面から登場させました。

引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
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