強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第100話 旅人の鞄

 縄で幾重にも固められた鞄を載せ、台車は野営地の中央から物資整理区画へ向かっていた。

 

 車輪が木の根を越えるたび、荷台が大きく軋む。

 

 前から二人が引き、後ろから二人が押している。それでも速度は、人が歩くより少し遅い程度だった。

 

「本当に重いな……」

 

「押す手を緩めるな。傾けば鞄ごと裂けるぞ」

 

 ドルガンの注意に、団員たちは慌てて姿勢を立て直す。

 

 その横を、鞄の持ち主であるバンは手ぶらで歩いていた。右手には縮めたクレシューズだけを持ち、台車を引く四人を不思議そうに見ている。

 

「一人で持った方が早ぇんじゃねぇか?」

 

「持たせんと言っただろうが!」

 

「まだ中身落としてねぇぞ」

 

「落としかけたから、こうなっとるんだ!」

 

 ドルガンの声が灰色の森林へ響いた。

 

 先頭を歩いていたパァルが、振り返らずに口を開く。

 

「バン。荷物を確認する前に、今のうちに紹介しておく」

 

「誰をだ?」

 

「お前が勝手に本隊へ現れたせいで、名前も知らない者に囲まれているだろう」

 

「別に、知らなくても困らねぇぞ」

 

「こちらが困る。帰還時には同じ隊列で地上へ戻る可能性があるんだ。最低限、幹部の名前と役割くらいは覚えろ」

 

「長くなりそうだな」

 

「お前が人の名前を覚える努力をすれば、すぐ終わる」

 

 パァルは、音もなくバンの隣を歩く狼人の女へ手を向けた。

 

「まずはシグネ・ヴァルグ。ゼウス・ファミリアの幹部だ。斥候、追跡、先行偵察を任せている」

 

「シグネってのは、さっき聞いたぞ」

 

 バンは灰色の狼耳を見る。

 

「臭い嗅いで、オレが一人だって分かった奴だな」

 

「言い方を選べ」

 

「間違ってはいない」

 

 シグネ本人は気にした様子もなく答えた。

 

「シグネでいい。お前の歩いた経路には興味がある」

 

「足跡なら、もう消えてんじゃねぇか?」

 

「足跡以外にも痕跡は残る。傷ついた壁、倒されたモンスター、移動した岩、途切れた臭い。お前の通過した道は、普通の冒険者より分かりやすい」

 

「そうなのか?」

 

「壊し方が独特だからな」

 

 第四十六階層では、《強奪》で岩の必要な部分だけを奪い取って道を作った。第四十八階層でも、噴出から鞄を守るために周囲の岩を動かしている。

 

 シグネなら、それらを見ただけでバンが通ったと判断できるらしい。

 

 パァルは、台車の横で鞄を睨んでいるドワーフへ顔を向ける。

 

「あれがドルガン・バルク。同じくゼウス・ファミリアの幹部だ。装備の整備、物資の管理と防衛、それから負傷者を守る際の重防御を担当している」

 

「ドルガンだ。次からは魔石、毒素材、食料、水、酒を同じ鞄へ詰めるな」

 

「覚えてたらな」

 

「今覚えろ!」

 

 ドルガンが太い眉をつり上げる。

 

 バンは返事をせず、台車の上にある鞄を見た。

 

「地上まで戻ったら、新しい鞄作れんのか?」

 

「素材と金を払うならな。ただし、お前の使い方に耐える鞄となれば、普通の革では足りん」

 

「丈夫なら何でもいいぞ」

 

「何でもいいと言った奴ほど、完成した後で文句を言う」

 

「オレは言わねぇぞ」

 

「では、酒瓶を入れる場所と魔石を入れる場所は分ける」

 

「酒が割れねぇならいいぞ」

 

「最初からその話をしとる!」

 

 ドルガンとバンの声を聞き、台車を押す団員たちが苦笑する。

 

 物資整理区画へ近づいたところで、前方の木の上から一人の男が降りてきた。

 

 淡い青緑色の髪。

 

 長い耳。

 

 背中には、本人の身長に近いほど巨大な弓を背負っている。

 

 男は音を立てずに着地すると、まず周囲の木々へ目を向けた。異常がないことを確認してから、パァルたちの前へ歩み寄る。

 

「西側上空の警戒を終えた。飛行種の接近はない」

 

「ご苦労だった、ルヴァン」

 

 パァルが頷く。

 

「ちょうどいい。こちらはルヴァン・セルディア。ゼウス・ファミリアの幹部で、遠距離射撃と対空迎撃を任せている」

 

 ルヴァンは深い青色の瞳でバンを見た。

 

「君が、単独で第五十階層へ到達した旅人か」

 

「バンだぞ」

 

「ルヴァンだ。よろしく頼む」

 

「その弓、でけぇな」

 

 差し出された言葉より先に、バンの視線は背中の大弓へ向いていた。

 

「遠方の大型種を射抜くための弓だ」

 

「どれくらい遠くまで届くんだ?」

 

「地形と風次第だ。視界に捉えられるなら、この森林の端から端へ届かせることもできる」

 

「面白そうだな。後で撃ってみていいか?」

 

「駄目だ」

 

 ルヴァンは即答した。

 

「何でだ?」

 

「弓は使用者に合わせて調整してある。それに、試し撃ちで森林を貫かれては困る」

 

「少しくらい平気だろ」

 

「君の言う『少し』を信用するには、会ってからの時間が短すぎる」

 

「賢明な判断だ」

 

 パァルが横から頷く。

 

 バンは少し残念そうに大弓を眺めたが、奪おうとはしなかった。

 

 物資整理区画へ到着する。

 

 灰色の木々の間を大きく切り開き、地面へ厚い布が何枚も敷かれていた。周囲には分類前の魔石や素材を載せる台、毒物を保管する金属箱、記録用の板と筆が並んでいる。

 

 リシェル、マキシム、レグナイトも中央天幕から移動してきていた。

 

 ブリュンとセレーネも、それぞれの仕事を一時的に引き継がせ、整理区画へ姿を見せている。

 

 ネリネだけはバンの近くへ残り、まだ納得できない表情で身体を観察していた。

 

「まだ見んのか?」

 

「何度見ても異常がないことが異常なのよ」

 

「元気でいいだろ」

 

「治療役にとって、理由の分からない正常は安心材料にならないわ」

 

 パァルはネリネへ手を向ける。

 

「こちらはネリネ・フェルカ。ヘラ・ファミリアの幹部で、治療、負傷者の救出、体調管理を担当している」

 

「さっきからオレを見てる奴だな」

 

「ネリネよ」

 

 猫人の女は杖槍〈アスクレピア〉を片手に、バンを睨む。

 

「あなたには、煉獄について詳しく話してもらうから」

 

「話すことなんてねぇぞ」

 

「あるわ。『長いこと過ごしていた』で終わらせる気でしょうけれど、私は納得していないから」

 

「アルフィアみてぇだな」

 

 バンが何気なく漏らすと、ネリネの猫耳が動いた。

 

「アルフィアは、診察を受けない時に『必要ない』と言うわ。あなたより短いだけ、まだ話が早い」

 

「どっちも面倒だな」

 

「患者にだけは言われたくないわ」

 

「患者じゃねぇぞ」

 

「今は異常なしと判断しただけよ。患者候補から外した覚えはないわ」

 

「候補って何だよ」

 

 パァルは二人の会話を途中で切り、治療区画側に立つ大柄な猪人へ顔を向けた。

 

「あちらがブリュン・ガルディア。ヘラ・ファミリアの幹部だ。前衛防衛と近接迎撃を担っている」

 

「ブリュンってのは、さっき聞いたぞ」

 

 バンが言うと、ブリュンは大きく笑った。

 

「顔と名前が一致したなら十分だ。私はブリュン・ガルディア。大楯〈ヒルド・ガルズ〉と大剣〈グラム・バルカ〉を使う」

 

「楯持ってんのに、剣もでけぇな」

 

「どちらか一つでは守れないものもある。敵を止める楯と、止めた敵を斬る剣。両方必要だ」

 

「重くねぇのか?」

 

「お前の鞄よりは軽いだろう」

 

「なら軽いな」

 

「そういうことにしておこう」

 

 ブリュンは豪快に笑い、太い腕を組んだ。

 

 最後にパァルが、静かに立つエルフの女を示す。

 

「あちらがセレーネ・アウレリア。ヘラ・ファミリアの幹部で、中衛の迎撃と魔法攻撃への対処を担当する魔法剣士だ」

 

「セレーネ・アウレリアです。よろしくお願いしますね、バンさん」

 

 セレーネは柔らかな微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。

 

「長ぇ名前だな」

 

「エルフの名前としては、それほど長くないと思いますけれど……」

 

「セレーネでいいか?」

 

「はい。私もバンさんとお呼びしますね」

 

「呼び捨てでいいぞ」

 

「では……バン?」

 

 少し間を置いて呼んだ後、セレーネは自分で不思議そうに首を傾ける。

 

「何だか、まだ慣れませんね」

 

「そのうち慣れんだろ」

 

「そうですね。ゆっくり慣れることにします」

 

 先ほど危険を察した時の鋭さはなく、普段のセレーネはやはり穏やかだった。

 

 パァルが全員を見回す。

 

「これで、今回新しく顔を合わせた幹部の紹介は終わりだ。覚えたか?」

 

 バンは順番に顔を見る。

 

「シグネ、ドルガン、でけぇ弓の奴、ネリネ、ブリュン、おっとりした奴だな」

 

「二人の名前が消えているぞ!」

 

「ルヴァンだ」

 

 大弓を背負ったエルフが冷静に訂正する。

 

「セレーネです」

 

 セレーネも穏やかに名乗り直した。

 

「ああ。覚えたぞ」

 

「今の間は何だ」

 

「思い出してただけだな」

 

 パァルは額へ手を当てた。

 

「地上へ着くまでに覚えればいい……」

 

「副団長ですので、必要なら私からも繰り返しお伝えします」

 

 リシェルが静かに補足する。

 

「それはやめてくれ」

 

 パァルの返答に、マキシムが声を上げて笑った。

 

        ◇

 

「紹介が終わったなら、鞄を開けるぞ」

 

 ドルガンが台車の前へ立った。

 

 数人の団員が厚い布の端を持ち、鞄を台車から地面へ下ろす。

 

 【グランド・アンカー】によって荷物を固定した後、ドルガンは外側へ巻いた太縄を一本ずつ解いていった。

 

「急に開くかもしれん。正面へ立つな」

 

「鞄が襲ってくんのか?」

 

「中身が飛んでくるんだ!」

 

 最後の縄を外す。

 

 破れた革の側面が、内部の圧力に押されて僅かに広がった。

 

 ドルガンは厚布を敷いた地面へ鞄を横倒しにする。

 

「バン。上から順に出せ。無理に引くな」

 

「ああ」

 

 最初に出てきたのは、焦げた布で何重にも包まれた酒瓶だった。

 

 バンは割れないよう慎重に持ち上げ、地面へ置く。

 

 マキシムが瓶を覗き込む。

 

「本当に酒を第五十階層まで持ってきたのか」

 

「ああ」

 

「何のために?」

 

「飲むためだぞ」

 

「質問した俺が馬鹿だった」

 

 次に、水袋と保存食。

 

 熱除けとして鞄の背面へ入れていた、バジリスクの大きな鱗。

 

 ドルガンが鱗を受け取り、表面を確認する。

 

「外側は焦げているが、内側まで熱は通っていない。鞄へ入れた使い方は乱暴だが、判断そのものは悪くない」

 

「役に立っただろ」

 

「だからといって、食料と毒牙を隣に置くな」

 

 鱗の下から、布へ包まれた二本の牙が現れた。

 

 ネリネがすぐに近づく。

 

「待って。開かないで」

 

 彼女は手袋を着け、布ごと牙を受け取った。

 

「バジリスクの毒牙ね。破損はないけれど、包み方が甘いわ」

 

「刺さらねぇようにしてたぞ」

 

「布を貫けば意味がないでしょう。毒物用の金属箱へ移します」

 

「売れんのか?」

 

「状態が良ければ高値になるわ。ただし、扱いを間違えれば売る前に人が死ぬ」

 

「オレには効かなかったぞ」

 

「あなたを基準にしないで」

 

 続いて、ペルーダの毒針が束になって出てきた。

 

 ネリネの表情がさらに険しくなる。

 

「これも同じ鞄に?」

 

「ああ」

 

「酒瓶と?」

 

「ああ」

 

「食料とも?」

 

「ああ」

 

 ネリネは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

 

「ドルガン。新しい鞄を作る時は、絶対に毒物専用の収納を付けて」

 

「最初からそのつもりだ」

 

「勝手に決めんなよ」

 

「お前に任せた結果がこれだろうが!」

 

 二人の声が重なり、周囲の団員たちが笑いを堪える。

 

 次に現れたのは、アルマロサウルスの棘。

 

 黒い爪。

 

 赤黒い岩殻。

 

 朱色の鱗。

 

 バンが通過した階層の環境と戦闘を示す素材が、一つずつ厚布の上へ並べられていく。

 

 シグネは素材へ鼻を近づけ、僅かに目を細めた。

 

「この朱色の鱗は、第四十五階層以降にいる飛行種のものだ」

 

「ああ。火を吐いてきた奴だな」

 

「外傷が少ない。どう倒した?」

 

「魔石抜いたぞ」

 

「やはりか」

 

 シグネは鱗を裏返す。

 

「傷を負わせずに倒したため、素材の状態がいい。普通なら討伐時に焼けるか、矢や剣で傷つく」

 

 ルヴァンも近づき、鱗を手に取った。

 

「翼の付け根に近い部分だ。薄いが魔力をよく通す。弓の羽飾りではなく、防具や魔道具の風除けに向いている」

 

「これも売れんのか?」

 

「十分にな。ただし、枚数が少ない」

 

「拾ってねぇからな。勝手に鞄に付いてたんだろ」

 

「戦利品として持ち帰ったのではないのか」

 

「魔石の方が高そうだったから、そっち入れたぞ」

 

 バンが鞄の奥へ手を伸ばす。

 

 最初に取り出した魔石は、両手で抱えるほど大きかった。

 

 厚布へ置かれた瞬間、周囲から声が漏れる。

 

 表面には黒紫色の光が残り、普通の上層種とは比べものにならない魔力を内包していた。

 

 ドルガンが両手で持ち上げ、重さと形を確かめる。

 

「強化種のものか」

 

「ああ。随分しつこかった奴だな」

 

「どの階層で倒した」

 

「三十階層より下だったと思うぞ」

 

「その答えでは記録にならん」

 

「覚えてねぇな」

 

 記録板を持つ団員が困ったようにパァルを見る。

 

「戦闘内容から階層を推定しろ。本人に正確な記録を期待するな」

 

「分かりました……」

 

 さらに魔石が出てくる。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 握り拳ほどのものから、人間の頭部を超えるものまで大きさはさまざまだ。

 

 バンが無造作に厚布へ置くたび、記録役が形、色、大きさを確認して書き留めていく。

 

 五つ目の大型魔石を取り出したところで、ドルガンが首を傾げた。

 

「五つか六つと言っていたな」

 

「ああ」

 

「すでに大型だけで六つだぞ」

 

「じゃあ、もう終わりか?」

 

「まだ鞄が膨らんどるだろうが!」

 

 バンは再び腕を入れる。

 

 七つ目。

 

 八つ目。

 

 さらに、長衣の内側へ入れていた小型の魔石まで取り出した。

 

「忘れてたぞ」

 

「なぜ服から出てくる!」

 

「鞄に入らなかったからな」

 

 ドルガンの額に太い血管が浮かぶ。

 

 マキシムは横で腹を抱えて笑い、レグナイトは腕を組んだまま興味深そうに魔石を見下ろしていた。

 

「これだけの数を、すべて一人で?」

 

 セレーネが尋ねる。

 

「ああ。途中で怪物の魔石を抜いて、遠征隊の奴らに渡したこともあったけどな」

 

「倒したものをすべて回収していたなら、さらに多かったということですか?」

 

「鞄に入るならな」

 

「まあ……」

 

 セレーネは魔石の列を見渡し、穏やかな表情のまま言葉を失った。

 

 ブリュンが大きな魔石を片手で持ち上げる。

 

「これだけ抱えて紅蓮の山岳を越えたのか。荷物を捨てようとは思わなかったのか?」

 

「売ったら金になるんだろ?」

 

「命よりは安い」

 

「オレは困ってねぇぞ」

 

「本人より先に鞄の命が尽きたようだがな」

 

 ブリュンの言葉に、ドルガンが力強く頷いた。

 

 鞄の底近くから、赤黒い大きな魔石が現れた。

 

 先ほどまでのものより一回り大きく、表面には螺旋状の筋が走っている。

 

 バンは両手で持ち上げると、厚布の中央へ置いた。

 

 シグネの目が僅かに細くなる。

 

「この臭いは……ラムトンか」

 

「ああ。前に倒した奴が、また来たから魔石抜いたぞ」

 

 周囲の空気が変わった。

 

 第四十三階層より下へ潜る冒険者で、ラムトンを知らない者はいない。

 

 巨大な蛇型モンスター。

 

 階層を越えて獲物を追い、地中を移動する危険種。

 

 その大魔石を前に、記録役の手が止まっていた。

 

「単独で倒したのか?」

 

 ルヴァンが尋ねる。

 

「ああ」

 

「正面から?」

 

「穴から出てきたところで、魔石抜いたぞ」

 

「……そうか」

 

 ルヴァンは短く答えたが、深い青色の瞳には驚きが浮かんでいる。

 

 レグナイトが赤黒い魔石の前へ立った。

 

「これだけでも、相当な価値になるわね」

 

「酒どれくらい買えんだ?」

 

「最初に考えることがそれなの?」

 

「ああ」

 

「下手をすれば、酒場ごと買えるわ」

 

「なら買うか」

 

「冗談よ」

 

「何だ」

 

 バンは僅かに残念そうな顔をした。

 

「もっとも、並べられた魔石と素材をすべて換金すれば、一般的な酒場を一軒買う程度では済まないでしょうね」

 

 リシェルが記録板を確認しながら答える。

 

「正確な価値は地上で鑑定しなければ分かりませんが、保存状態の良い毒牙、毒針、強化種の魔石、ラムトンの大魔石だけでも莫大な額になります」

 

「そんなにか?」

 

「ご本人が一番分かっていないのですね」

 

「売ったことねぇからな」

 

 鞄の中身も残り少なくなった。

 

 最後にバンが取り出したのは、布へ包まれた一本の黒い爪だった。

 

 人間の前腕ほどの長さ。

 

 表面には銀色の筋が走り、先端は欠けていない。

 

「それは、先ほどの爪とは別だな」

 

 ドルガンが受け取る。

 

 指で表面を叩き、音を聞く。

 

 次に魔力を僅かに流すと、銀色の筋が淡く光った。

 

「妙だな」

 

「何がだ?」

 

「硬さだけなら深層素材として珍しくはない。だが、魔力を流した時の反応が異常に速い」

 

 ルヴァンも爪へ触れる。

 

「魔力を内側へ溜めず、そのまま先端へ通している。矢尻に加工すれば、射出魔法との相性が良さそうだ」

 

 セレーネは〈シルヴァリオン〉の柄へ触れながら、爪を観察した。

 

「刃へ加工しても、付与した魔法を逃がさず先端へ集められそうですね」

 

「どの怪物から取った?」

 

 ドルガンが尋ねる。

 

「黒くて、でけぇ爪の奴だな」

 

「それだけか?」

 

「ああ」

 

「階層は?」

 

「覚えてねぇぞ」

 

 ドルガンは目を閉じた。

 

「せめて見た目を詳しく話せ」

 

「暗くてよく見えなかったな。魔石抜いたら灰になったぞ」

 

「何一つ鑑定の助けにならん!」

 

「爪は残ったぞ」

 

「見れば分かる!」

 

 シグネが爪へ顔を近づけ、臭いを確かめた。

 

「第四十階層より下の臭いだ。ただ、遠征隊が記録している通常種とは一致しない」

 

「新しい種類か?」

 

 パァルが尋ねる。

 

「可能性はある。あるいは、既知の個体が強化されたものか」

 

 リシェルが記録役へ指示する。

 

「未確認素材として封印してください。地上へ戻った後、ギルドと鍛冶師へ鑑定を依頼します」

 

「売れんのか?」

 

「価値が分かるまでは売らない方がいいでしょう」

 

「じゃあ、持っててくれ」

 

「随分あっさり預けるのね」

 

 レグナイトが尋ねる。

 

「オレが持ってても使わねぇからな。なくすよりいいだろ」

 

「自分が入手した物への執着が薄いのか、金への執着があるのか、よく分からない男ね」

 

「酒買えるなら売るぞ」

 

「そこだけは一貫しているわね」

 

 すべての中身を出し終える。

 

 空になった鞄は、革の形を保つこともできず、その場で平らに潰れた。

 

 ドルガンが持ち上げ、裂け目を確認する。

 

「修理は不可能だ。使える革だけ外して、新しい鞄の補強材にする」

 

「捨てんのか?」

 

「一部は残る。文句を言うな」

 

「ならいいぞ」

 

 厚布の上には、バンが一人で歩いてきた二十九階層から第五十階層までの戦利品が並んでいた。

 

 大きさの異なる魔石。

 

 毒牙。

 

 毒針。

 

 鱗。

 

 棘。

 

 岩殻。

 

 正体不明の黒い爪。

 

 その一つ一つが、普通なら複数の冒険者が隊列を組み、命を懸けて回収する品だった。

 

 マキシムは腕を組み、魔石の列を眺める。

 

「お前、本当に遊びに来ただけなんだな」

 

「ああ」

 

「目的もなく潜り、地図も持たず、ついでにこれだけ持ってきたのか」

 

「途中で面白そうなの拾っただけだぞ」

 

「お前にとっては、これが散歩の土産か」

 

 マキシムは呆れたように笑った。

 

「それで、この先へ行くつもりはあるのか?」

 

 バンは灰色の森林のさらに奥を見る。

 

 第五十一階層。

 

 それより下へ続く道。

 

 見たことのない景色と怪物は、まだ先にいくらでもいる。

 

 だが、現在の合同遠征隊は第七十一階層付近から帰還してきたばかりだ。負傷者も多く、物資も地上へ運ばなければならない。

 

 何より、バン自身も最初から第五十階層を単独探索の区切りにするつもりだった。

 

「今回は、ここまででいいぞ」

 

「意外ね」

 

 レグナイトが片眉を上げる。

 

「止めても下へ行くと思っていたわ」

 

「行こうと思えば行けるけどな。酒も鞄も駄目になったし、下の道も知らねぇぞ」

 

「道を知っていれば行ったのか?」

 

「そのうちな」

 

 パァルが即座に口を挟む。

 

「今回は俺たちと地上へ戻れ。少なくとも第五十階層から上は、帰還隊列の中に入ってもらう」

 

「別にいいぞ」

 

「素直だな」

 

「帰り道分かんねぇからな」

 

「やはり、それが理由か……」

 

 パァルは深く息を吐いた。

 

 リシェルは記録板を閉じる。

 

「では、バンさんの戦利品は合同遠征隊の物資とは分けて保管します。帰還後に正式な鑑定と換金を行いましょう」

 

「ああ」

 

「盗難や取り違えが起きないよう、封印と記録はこちらで行います。副団長ですので、責任を持って管理いたします」

 

「任せたぞ」

 

 リシェルは僅かに微笑んだ。

 

 レグナイトは物資整理区画を離れる前に、バンへ振り返る。

 

「鞄の中身は確認したわ。次は、あなたがここへ来るまでの話を聞かせてもらう」

 

「今話しただろ」

 

「魔石を取り出しただけでしょう」

 

「歩いて、怪物倒して、ここまで来たぞ」

 

「それで済ませるつもり?」

 

「ああ」

 

「済ませないわよ」

 

 ネリネが横から続ける。

 

「煉獄の話も残っているわ」

 

「まだ聞くのか?」

 

「当然でしょう」

 

 ドルガンも潰れた鞄を持ち上げる。

 

「新しい鞄の仕様も決めるぞ」

 

「勝手に作ってくれ」

 

「お前の持ち歩く物を聞かなければ設計できん!」

 

 シグネは静かにバンを見る。

 

「通ってきた経路も確認したい」

 

 ルヴァンも大弓を背負い直す。

 

「第四十五階層の飛行種について、もう少し詳しく聞かせてもらう」

 

 ブリュンは腕を組み、豪快に笑った。

 

「人気者だな、バン」

 

「面倒な奴が増えただけだぞ」

 

「諦めろ。自分から遠征隊の中央へ現れたんだ」

 

 パァルの言葉に、バンは周囲を見回した。

 

 ゼウス・ファミリア。

 

 ヘラ・ファミリア。

 

 顔見知りの者。

 

 今日初めて名前を知った者。

 

 長い深層遠征を終え、地上への帰還を控える冒険者たち。

 

「まあ、酒飲みながらなら話してもいいぞ」

 

 バンは厚布の端へ置かれた酒瓶を拾おうとした。

 

 その手を、ドルガンとネリネが同時に止める。

 

「中身を確認してからだ!」

 

「高熱へ晒された酒を、いきなり飲まないで!」

 

「割れてねぇぞ」

 

「瓶の話だけではない!」

 

 二人の声が物資整理区画へ響く。

 

 マキシムが再び笑い、レグナイトも僅かに口元を上げた。

 

 第五十階層へ到達した旅人の単独探索は終わった。

 

 しかし、彼が持ち込んだ戦利品と、それ以上に常識から外れた本人の存在によって、合同遠征隊の休息は少しだけ騒がしいものへ変わり始めていた。




第100話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は第99話で顔を合わせたシグネ、ドルガン、ルヴァン、ネリネ、ブリュン、セレーネが、バンへ正式に紹介されました。それぞれの役割や性格も、会話と戦利品の確認を通して描いています。

また、壊れかけた鞄を開き、バンが第二十九階層以降で回収した魔石や素材を整理しました。バジリスクの毒牙、ペルーダの毒針、強化種の魔石、ラムトンの大魔石に加え、遠征隊の記録と一致しない黒い爪も未確認素材として保管されています。

バンは今回の単独探索を第五十階層で終え、合同遠征隊とともに地上へ戻ることを決めました。

引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
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