物資整理区画で鞄の中身をすべて取り出した後、バンはマキシムたちに連れられ、野営地中央の天幕へ入った。
もっとも、本人は連れてこられたという感覚すら持っていない。
「話が終わったら酒飲んでいいんだろ?」
「まずは話を終わらせろ」
パァルが疲れた声で答えた。
天幕の中央には、大きな机が置かれている。
その上へ広げられていたのは、ダンジョン深層の地図だった。
紙一枚に収まるような大きさではない。何枚もの皮紙を繋ぎ合わせ、確認済みの通路や安全に休める場所、モンスターの出現域、崩落や噴出の危険がある箇所が細かく書き込まれている。
地図の周囲には、木札や色分けされた小石が置かれていた。
遠征隊の部隊。
負傷者。
物資。
休息地点。
帰還時に使用する経路を示しているらしい。
マキシムとレグナイトが机の向こうへ立ち、その隣にはパァルとリシェルが並ぶ。
シグネも地図を確認するため、天幕へ入っていた。
「座らねぇのか?」
バンは空いている椅子へ勝手に腰を下ろした。
レグナイトが片眉を上げる。
「人に尋ねながら、もう座っているじゃない」
「立ってんの面倒だからな」
「長い説明になりそうだ。座っていて構わん」
マキシムも椅子を引いた。
パァルとリシェルは立ったまま、手元の記録板を開いている。
シグネは地図の端へ移動すると、第四十階層付近へ指を置いた。
「まず、バンが通った経路を確認する」
「もうここまで来たんだから、いいんじゃねぇか?」
「今後、同じ経路を使う者が出る可能性がある。通常の通路が塞がれている場所や、新しいモンスターが現れた場所は記録する必要がある」
「面倒だな」
「お前が覚えていなければ、私が質問する」
シグネの指が地図上をゆっくり動いた。
「第二十九階層から、どちらへ進んだ?」
「どっちって言われても分かんねぇぞ」
「通路の形は?」
「岩が多かったな」
「第二十九階層は、ほぼ全域に岩がある」
「じゃあ、広い方だな」
「広い通路も複数ある」
「適当に歩いたぞ」
シグネが黙った。
パァルは予想していたように額へ手を当てる。
「地図を持たない男へ、経路を尋ねてもこうなると思っていた」
「本人の記憶だけに頼るつもりはない」
シグネは机の脇へ置いていた布袋を開いた。
中から取り出したのは、バンの長衣や鞄へ付着していた灰、細かな岩片、植物の欠片だった。
「臭いと付着物の順番から、おおよその経路は判別できる」
「いつ取ったんだ?」
「鞄の中身を確認している間だ」
「勝手に取ったのか?」
「不要な灰と土だ。返す必要があるなら返す」
「いらねぇぞ」
「なら問題ない」
シグネは赤黒い灰を地図の一か所へ置いた。
「第四十八階層の西側を通過している。東側より噴出が多く、帰還隊が使う経路から外れている場所だ」
「ああ。地面から火が出てたな」
「なぜ、そちらへ進んだ?」
「足跡があったからだぞ」
「どの程度残っていた?」
「少しだな。途中で消えたけど、そのまま進んだ」
「足跡が消えた時点で引き返せ」
パァルが即座に口を挟んだ。
「先へ道があったから、問題ねぇだろ」
「結果だけで判断するな」
シグネは次の岩片を地図へ置く。
「第四十七階層では、正規経路の一部が落石で塞がれていたはずだ」
「岩を退かして通ったぞ」
「どのように?」
「邪魔な部分を奪った」
バンは片手を軽く上げる。
「《強奪(スナッチ)》でな」
シグネは驚かなかった。
ベヒーモス戦の後、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの幹部には、バンが持つ魔力についての情報が共有されている。
離れた場所から物体や力を奪う《強奪》。
モンスターへ直接触れず、その体内から魔石だけを抜き取ることもできる。
ただし、その応用範囲や限界まで把握している者は少ない。
「お前の《強奪》が物を奪えることは聞いている。だが、ダンジョンの壁まで対象にできるとは聞いていなかった」
「邪魔だったからな」
「壁のどの程度を奪った?」
「全部じゃねぇぞ。通れる分だけだ」
「現在、その場所はどうなっている?」
「知らねぇな。後ろ見てねぇから」
「ダンジョンの壁なら、すでに修復が始まっている可能性が高いでしょう」
リシェルが地図へ印を付ける。
「帰還時には使用できないものとして扱います」
「別の道を通んのか?」
「そうなるな」
パァルが答えた。
「遠征隊は負傷者と大量の物資を抱えている。お前が一人で抜けた穴を、全員が通れるとは限らない」
「広げりゃいいだろ」
「ダンジョンの壁を余計に刺激するな」
「面倒だな」
「帰還中に、その言葉を何度口にするつもりだ」
バンは肩をすくめた。
シグネはさらに経路を辿っていく。
第四十五階層で飛行種を倒した場所。
第四十四階層で帰還分隊と出会った地点。
第四十三階層でラムトンと再び遭遇した場所。
第四十九階層で戦場整理班を助けた地点。
バンの説明はどれも大雑把だったが、シグネが臭いや付着物、回収された素材と照らし合わせることで、少しずつ一本の経路へ結びついていった。
「ここでラムトンを倒したのね」
レグナイトが第四十三階層の印を見る。
「ああ」
「以前遭遇した個体と同じものだと思う?」
「たぶんな。オレを見るなり向かってきたぞ」
「階層を越えて追跡してきた可能性があるのか」
マキシムの表情から笑みが消える。
「執念深いとは聞いていたが、そこまで獲物へ固執する個体は珍しいな」
「魔石を抜いたから、もう来ねぇぞ」
「お前にとっては、それで終わる話でしょうけれどね」
レグナイトは地図に置かれた印を見つめる。
「遠征隊の負傷者が同じ個体に狙われていれば、被害が出ていた可能性がある。討伐したこと自体は助かったわ」
「なら、酒くれ」
「なぜ報酬が酒になるの?」
「金は地上に戻ってからだろ」
「そういうところだけ妙に現実的ね」
確認が終わると、リシェルは地図へ新たな印を書き加えた。
「バンさんの証言だけでは正確な記録になりませんが、帰還時に該当地点を確認します。シグネさんにも痕跡を調べていただきましょう」
「分かった」
シグネは短く答え、回収した灰や岩片を布袋へ戻す。
バンは椅子へ深く座り直した。
「今度はそっちの話か?」
「ああ。俺たちがどこまで進んだか、気になっているんだろう?」
マキシムが地図の下側へ指を置いた。
バンが歩いた範囲より、さらに遠い場所。
第五十階層からも二十階層以上離れた深部である。
「合同遠征隊は、第七十一階層付近まで到達した」
「七十一か」
「そこまでの経路と環境、モンスターの出現状況を調査した。だが、すべてを把握したわけではない」
「もっと下には行かなかったのか?」
「行けなかった、が正しいわね」
レグナイトが答える。
「負傷者が増え、装備と物資の消耗も限界へ近づいていた。進めば進むほど、地上へ戻れる者が減る。目的は全滅することではないわ」
「強い奴が二人もいるのにか?」
「団長だけが生きて帰れば、遠征成功になると思う?」
「ならねぇだろうな」
「そういうことよ」
レグナイトは机へ置かれた帰還隊列の木札を動かした。
「私とマキシムが先へ進めても、負傷者や物資を置き去りにはできない。団員全員を連れて帰るところまでが遠征よ」
バンは地図上へ並べられた木札を見る。
治療を受けなければ歩けない者。
担架で運ばれている者。
武器や防具を失った者。
帰還に必要な水、食料、薬、回収した魔石や素材。
一人で動くなら考える必要のないものばかりだった。
「面倒そうだな」
「そうだ。だが、それを承知で皆ここまで来ている」
マキシムは腕を組む。
「俺たちは明朝、第50階層を出る。お前も一緒に戻るんだな?」
「ああ。帰り道分かんねぇからな」
「自信満々に言うことではない」
パァルが即座に返す。
「ただし、帰還中は勝手に隊列を離れるな。追いかける余裕はない」
「道が続いてりゃ離れねぇぞ」
「信用できない返答だな」
「バンさんには、遊撃役として動いていただくのがよいのではないでしょうか」
リシェルが提案する。
「固定された場所へ置くより、隊列周辺の異常に対処していただく方が能力を生かせます」
「好きに歩いていいのか?」
「隊列から見える範囲で、です」
「面倒だな」
「その条件は変えません」
柔らかな声だったが、リシェルに譲る気はないらしい。
レグナイトが小さく笑う。
「勝手に動く男へ、勝手に動ける役割を与える。ただし、私たちの目が届く範囲で。悪くないわ」
「俺も異論はない。ただし、指示には従え」
マキシムが続ける。
「嫌な時は?」
「従え」
「面倒だな」
「諦めろ」
パァルの返答を最後に、帰還時のバンの役割が決まった。
◇
地図と経路の確認を終えると、バンは椅子から立ち上がった。
「酒飲みに行くぞ」
「待ちなさい」
レグナイトに止められ、バンは振り返る。
「まだあんのか?」
「ザルドとアルフィアの話よ。パァルから無事にオラリオへ戻ったとは聞いたけれど、詳しい状態は聞いていないわ」
マキシムも真剣な表情でバンを見る。
遠征隊がオラリオを出た時、ザルドとアルフィアはベヒーモス戦の後処理と治療を続けており、まだ戻っていなかった。
深層まで潜った遠征隊に、地上の新しい情報は届いていない。
「二人ともオラリオにいるぞ」
「それは聞いた。ザルドの毒はどうだ?」
マキシムが尋ねる。
「まだ身体に残ってるみてぇだな。治療は続けてたぞ」
「歩ける状態なのか?」
「ああ。飯も普通に食ってたな」
「食事量は?」
「かなり食ってたぞ」
「なら、少なくとも最悪の状態は抜けたか」
マキシムの肩から、僅かに力が抜ける。
ザルドにとって、食べられるかどうかは状態を判断する大きな目安になるらしい。
「本人はすぐ動こうとしてたけど、周りに止められてたな」
「目に浮かぶようだ」
マキシムは呆れたように笑った。
「毒が残っていても、自分なら戦えると言ったんだろう?」
「ああ。そんな感じだったぞ」
「戻ったら、俺からも釘を刺す必要があるな」
「聞くと思うか?」
「聞かないだろうな」
二人の答えが重なった。
今度はレグナイトが口を開く。
「アルフィアは?」
「相変わらず咳してたぞ」
「頻度は?」
「知らねぇな。ずっと見てたわけじゃねぇぞ」
「長く動いた時に、息を乱していた?」
「ああ。胸押さえてる時もあったな」
レグナイトの目が僅かに細くなる。
「治療は受けていたの?」
「受けてたぞ。本人は必要ねぇって言ってたけどな」
「でしょうね」
レグナイトは短く息を吐いた。
リシェルも静かに目を伏せる。
アルフィアの病が治療魔法では治らないことを、二人とも理解している。それでも、症状を抑え、身体への負担を減らすことはできる。
「飯は食ってたぞ」
バンが付け加える。
「オレに文句言うくらいには元気だったな」
「何について文句を言われたの?」
「酒飲みすぎとか、勝手にどっか行くなとかだな」
「どちらも正しいわね」
「そうか?」
「そして、その忠告を聞かずにダンジョンへ潜ったのね」
レグナイトの視線が冷たくなる。
「潜るとは言ってねぇからな」
「なぜ言わなかったの?」
「止めるからだぞ」
「止められる理由があると分かっていたのね」
「ああ」
「それでも黙って来たと」
「ああ」
天幕の中が静かになる。
マキシムは笑いを堪えるように口元を押さえた。
パァルはすでに同じ話を聞いているため、何も言わず目を逸らす。
リシェルだけが、穏やかな表情で告げた。
「地上へ戻られた後は、早めにお二人へ無事を知らせた方がよいでしょう」
「そのうち会うだろ」
「会うまで逃げるつもりではありませんよね?」
「別に逃げねぇぞ」
「ギルド職員からは逃げそうだがな」
パァルが小さく呟いた。
「何か言ったか?」
「何も言っていない」
レグナイトは額へ手を当て、やがて諦めたように息を吐いた。
「二人の状態は分かったわ。知らせてくれたことには感謝する」
「別にいいぞ」
「この件はマキシムと私から、団員たちにも伝えておく。二人の帰還を心配していた者は多いから」
「好きにしろ」
バンは天幕の入口へ向かう。
「今度こそ酒飲んでいいんだろ?」
「ええ。明日の出発に遅れない範囲でね」
「酒飲んでも遅れねぇぞ」
「飲みすぎて、別の方向へ歩くなよ」
マキシムが笑いながら言う。
「元から方向分かんねぇぞ」
「それを聞いた後では、まったく安心できんな」
◇
灰色の森林に夜はない。
ダンジョンの天井に空はなく、太陽も月も存在しない。だが、遠征隊は地上と同じ時間に合わせて休息を取っていた。
野営地では魔石灯の数が減らされ、見張り以外の団員たちが交代で食事を始めている。
大きな鍋で煮込まれていたのは、干し肉と豆、保存の利く根菜を使った濃いスープだった。
焼いた硬いパン。
干し肉。
塩漬けにされた野菜。
豪華な食事ではない。
それでも、長い深層遠征を終えた者たちにとって、温かい食事は何よりありがたいものらしい。
バンは大きな器へスープを受け取り、焚き火の近くへ座った。
「酒はどうした?」
隣へ腰を下ろしたマキシムが尋ねる。
「ドルガンに取られたぞ」
「取られたのではない。瓶と中身を確認しとるんだ!」
少し離れた場所から、ドルガンの声が飛んでくる。
物資整理用の机では、回収した酒瓶が一本ずつ確認されていた。
高熱によって封が傷んでいないか。
瓶へ細かな亀裂が入っていないか。
魔石や毒素材と同じ鞄へ入れていたため、外側へ危険な成分が付着していないか。
ネリネまで加わり、妙に厳重な検査が行われている。
「飲んでも平気だぞ」
「お前が平気でも、ほかの者が平気とは限らん!」
ドルガンは瓶の外側を布で拭きながら怒鳴った。
「面倒だな」
「お前が面倒を増やしたんだ」
パァルが反対側へ座る。
手には食事ではなく、翌日の隊列を記した板を持っていた。
「飯食わねぇのか?」
「これを確認した後だ」
「冷めんぞ」
「分かっている」
パァルは返事をしながら、木札の位置を書き直していく。
前衛。
中央。
負傷者。
物資。
後衛。
各隊列の交代時間まで決められていた。
「お前ら、帰るだけなのに大変だな」
「帰るだけだから大変なんだ」
パァルは板から目を離さない。
「行きより物資は減っているが、負傷者と回収品が増えている。戦える者も疲労している。深層遠征は、目的地へ着いた時点では終わらない」
「全員が地上へ戻って、初めて成功になる」
マキシムがスープを飲みながら続けた。
「女帝も同じこと言ってたな」
「珍しく意見が合った」
「珍しくとは何よ」
背後から声がして、レグナイトが現れた。
手には小さな器を持っている。
レグナイトはバンたちから少し離れた場所へ腰を下ろした。
「帰還については、最初から意見が一致していたでしょう」
「遠征中は何度も進路で揉めたがな」
「あなたが危険な方ばかり選ぶからよ」
「その方が早かった」
「全員が通れなければ意味がないわ」
バンは二人の顔を交互に見る。
「似た者同士だな」
「どこがだ」
「どこがよ」
今度はマキシムとレグナイトの声が重なった。
バンはスープへ浸した硬いパンを口へ運ぶ。
「同じこと言ってんぞ」
二人は互いを見た後、何も言わず食事へ戻った。
少しして、ドルガンとネリネが酒瓶を持ってきた。
「三本は問題ない。二本は封が緩んどる。そちらは地上へ戻ってから処分を決める」
「飲めねぇのか?」
「今は飲むな」
「もったいねぇな」
「毒素材と密着していた瓶もあるのよ。表面は洗浄したけれど、安全を確認できない物まで口にしないで」
ネリネが厳しい声で告げる。
ドルガンは問題がないと判断した一本をバンへ渡した。
「ただし、生温いぞ」
「飲めりゃいい」
バンは封を開け、そのまま瓶へ口を付けようとする。
「器を使え!」
「面倒だな」
「皆で飲むなら使え!」
仕方なく、バンは用意された器へ酒を注いだ。
最初にマキシム。
次にパァル。
レグナイトは少量だけ受け取る。
仕事を終えたブリュンとセレーネも焚き火の近くへ加わった。
シグネとルヴァンは見張りの交代が終わってから来るらしい。
「単独で第五十階層まで到達した旅人へ」
マキシムが器を掲げる。
「それと、遠征隊の無事な帰還を願ってな」
「まだ帰ってねぇぞ」
「だから願うんだ」
「そういうもんか」
バンも器を上げる。
全員が軽く器を合わせ、酒を口へ運んだ。
高熱へ晒されたことで味が変わっていないかとドルガンは気にしていたが、バンには十分飲める味だった。
「悪くねぇな」
「本当に大丈夫でしょうね?」
ネリネが疑うように見る。
「うまいぞ」
「あなたの感想を基準にしていいのかしら」
レグナイトも一口飲み、僅かに眉を上げた。
「香りは少し飛んでいるけれど、飲めないほどではないわね」
「だろ?」
「ただし、次からはもっと丁寧に運びなさい」
「次も持ってくるか分かんねぇぞ」
「次も一人で潜る気なの?」
「ああ。そのうちな」
ネリネの猫耳が立ち、パァルが深く息を吐く。
マキシムは声を上げて笑った。
「第五十階層まで来て、まだ足りないらしい!」
「下にも道があるんだろ?」
「ああ。いくらでもある」
「なら、いつか見に行くぞ」
バンは酒を飲みながら、灰色の森林の奥へ視線を向けた。
この先にも、まだ見たことのない場所が続いている。
第七十一階層。
さらに、その下。
ダンジョンがどこまで続いているのか、ここにいる誰も知らない。
「その時は、せめて誰かへ伝えてから行きなさい」
レグナイトが告げる。
「考えとくぞ」
「今の返事は、ほぼ伝えないという意味よね」
「付き合いが短いのに、よく分かったな」
バンが笑う。
レグナイトは呆れたように器を傾けた。
◇
食事を終えた後、バンは用意された天幕へ向かわず、灰色の木の根元へ腰を下ろした。
遠征隊の声が少しずつ小さくなる。
武器を整える音。
見張りを交代する声。
負傷者の様子を確認して回るネリネの足音。
荷物を固定するドルガンの怒声。
静かになり始めた野営地でも、完全に動きが止まることはない。
「そこで寝るのか?」
頭上から声がした。
見上げると、灰色の枝へシグネが立っている。
「ああ。天幕よりこっちの方が楽だぞ」
「冷える」
「平気だ」
「そうだったな」
シグネはそれ以上何も言わず、周囲の森へ視線を戻す。
バンは木の幹へ背を預けた。
「明日はどっちに行くんだ?」
「第四十九階層へ戻る」
「そっちじゃねぇ。右か左かだぞ」
「お前は隊列の中央近くにいろ。方向は先導役が決める」
「自分で決めなくていいのか?」
「ああ」
「楽だな」
「勝手に別の道へ入らなければな」
「入らねぇぞ。たぶんな」
シグネの狼の耳が僅かに動いた。
「今の言葉は、パァルには聞かせない方がいい」
「何でだ?」
「眠れなくなる」
そう答えると、シグネは別の枝へ音もなく移動していった。
バンは口元を僅かに上げ、目を閉じる。
第二十九階層から始めた単独探索は、第五十階層で区切りを迎えた。
行きは一人だった。
帰りは、数え切れないほどの冒険者と一緒になる。
負傷者。
物資。
倒したモンスターから回収した戦利品。
長い深層遠征を終えたゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリア。
一人なら気にする必要のないものを守りながら、全員で地上を目指す。
「面倒そうだな」
そう呟きながらも、バンの口元には笑みが残っていた。
灰色の森林に、遠征隊の休息時間を告げる静寂が訪れる。
次の活動時間になれば、合同遠征隊は地上へ向けて動き始める。
バンもまた、彼らとともに、歩いてきた道を戻ることになるのだった。
第101話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、第50階層〈灰色の森林〉で、バンが合同遠征隊へ自身の通ってきた経路を報告する場面を描きました。
マキシムとレグナイトたちは、バンからザルドとアルフィアが無事にオラリオへ戻ったことや、二人の現在の様子を聞いています。また、合同遠征隊が第七十一階層付近まで調査を進めたものの、負傷者や物資の消耗を考えて帰還を決断したことも明らかになりました。
後半では、遠征隊の食事へバンも加わり、持ち込んだ酒を飲みながら幹部たちと交流しています。単独で進んだ行きとは異なり、帰りは多くの負傷者と物資を守る合同遠征隊へ同行することになりました。
引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。