強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第102話 地上への帰路

 合同遠征隊が第50階層〈灰色の森林〉を出発したのは、バンが木の根元で目を閉じてから数刻後だった。

 

 野営地を照らしていた魔石灯が一つずつ片づけられ、張られていた天幕も畳まれていく。

 

 負傷者は担架へ。

 

 回収した魔石や素材は、封を施した木箱へ。

 

 食料、水、薬品、予備の武器は、それぞれ専用の荷車へ積み込まれていた。

 

 バンが持ち帰った戦利品も、遠征隊の物資と混ざらないよう、印を付けた三つの箱へ分けられている。

 

 壊れた鞄は、ドルガンが使える革だけを回収するために預かっていた。

 

「オレの酒は?」

 

「お前の荷物を入れた箱の中だ」

 

 出発前の点検をしていたパァルが答える。

 

「出してくれ」

 

「駄目だ」

 

「何でだ?」

 

「移動中だからだ!」

 

 バンは納得していない顔をしたが、木箱を勝手に開けようとはしなかった。

 

 合同遠征隊の隊列は長い。

 

 先頭では、シグネを中心とした斥候隊が進路を確認する。

 

 その後方に、戦闘可能な団員を集めた前衛。

 

 中央には負傷者と治療役、食料や水を積んだ荷車。

 

 さらに後ろへ回収品と予備装備が続き、最後尾を別の戦闘部隊が守っていた。

 

 ルヴァンは大弓を背負い、地上と木々の上を行き来しながら遠方を警戒している。

 

 ブリュンは負傷者の近く。

 

 ドルガンは荷車。

 

 ネリネは治療区画。

 

 セレーネは中央と前衛の間を歩き、どちらへ異常が起きても動ける位置にいた。

 

 マキシム、レグナイト、パァル、リシェルも、それぞれ異なる場所から隊列全体を見ている。

 

 バンへ与えられた位置は、中央より少し前。

 

 異常が起きればすぐに動けるが、勝手に隊列から離れれば、全員の目に入る場所だった。

 

「見張られてんな」

 

「当然だ」

 

 隣を歩いていたパァルが即答する。

 

「お前は少し目を離すと、知らない通路へ入っていくからな」

 

「行きはそれで着いたぞ」

 

「帰りに試すな。今度は何百人もの進路を乱すことになる」

 

「分かってるぞ」

 

「本当だろうな?」

 

「たぶんな」

 

 パァルは何か言い返そうとしたが、出発の合図が響いたため、先に隊列の確認へ戻っていった。

 

 灰色の森林を抜ける。

 

 第50階層の石門を越えると、湿った空気は遠ざかり、再び乾いた風が吹きつけてきた。

 

 第49階層〈大荒野モイトラ〉。

 

 広大な荒野には、バロールとの戦いによって残された巨大な痕跡が、今も消えずに残っている。

 

 抉られた大地。

 

 砕けた岩盤。

 

 遠くまで続く亀裂。

 

 単独で訪れた時、バンはそれらを眺めながら好きな方向へ歩いた。

 

 しかし、帰還する合同遠征隊は違う。

 

 斥候が足場を確かめる。

 

 亀裂を避けるために進路を変える。

 

 荷車が通れない段差には土や岩を敷き、担架を運ぶ者たちは一定の間隔で交代する。

 

 一人なら飛び越えられる亀裂も、遠征隊は時間を掛けて迂回した。

 

「遠回りすんのか?」

 

 バンが尋ねる。

 

「荷車と負傷者がいる」

 

 先頭から戻ってきたシグネが答えた。

 

「右側なら早いぞ」

 

「地面が脆い。お前一人が通れても、荷車が通れば崩れる」

 

「荷物を持って跳べばいいだろ」

 

「一台ではない」

 

 遠くを見れば、いくつもの荷車が列を作っていた。

 

 バンは一度そちらを見てから、肩をすくめる。

 

「面倒だな」

 

「全員で帰るとは、そういうことだ」

 

 シグネはそれだけ言うと、再び先頭へ戻っていった。

 

        ◇

 

 合同遠征隊が第四十階層付近へ到達するまでには、バンが一人で歩いた時の何倍もの時間が掛かった。

 

 第48階層から第44階層に連なる〈紅蓮の山岳〉では、移動速度がさらに落ちた。

 

 バンにとっては、煉獄と比較することすらできないほど生ぬるい熱でしかない。

 

 だが、遠征隊にとっては違う。

 

 熱気を遮る外套。

 

 魔法による防熱。

 

 決められた間隔での水分補給。

 

 負傷者の呼吸と体温の確認。

 

 荷車へ積んだ薬品や食料が高熱で傷まないよう、何重にも布を掛ける必要があった。

 

 ネリネは休息のたびに負傷者を診察し、少しでも状態が悪化した者がいれば、隊列の配置を変更した。

 

「止まる回数、多くねぇか?」

 

 岩へ腰を下ろしたバンが言う。

 

「多くありません」

 

 近くの負傷者を診ていたネリネが、振り返らずに答えた。

 

「さっきも休んだぞ」

 

「さっきの休息から、地上の時間で一刻以上進んでいます」

 

「まだ歩けんだろ」

 

「あなたを基準にしないで」

 

 ネリネは診察を終え、次の担架へ移動する。

 

「歩ける者が歩けなくなるまで進ませるのは、指揮ではありません。余裕が残っているうちに休ませるから、次の休息地点まで到達できるのよ」

 

「倒れたら運びゃいいだろ」

 

「運ぶ者にも限界があります」

 

「オレが運ぶぞ」

 

 バンが立ち上がる。

 

 ネリネは初め、冗談かと思ったように振り返った。

 

 しかしバンは、荷車の近くに置かれていた大型の木箱を二つ持ち上げる。

 

 どちらも複数の団員で運ぶ予定だったものだ。

 

「これ、次まで持ってきゃいいのか?」

 

「待ちなさい。それは回収した魔石が――」

 

「軽いぞ」

 

 バンは片腕に一箱ずつ抱えた。

 

 木箱の底が軋んだが、バンの身体は少しも傾かない。

 

 周囲の団員たちが呆然と見る。

 

「軽いわけがないでしょう……」

 

「オレには軽いぞ」

 

 ネリネは何か言おうとしたが、近くで休んでいる運搬役の団員たちを見た。

 

 長い遠征によって消耗し、腕や肩へ包帯を巻いている者もいる。

 

「……箱を傾けないで。中身を混ぜないこと。勝手に開けるのも禁止よ」

 

「ああ」

 

「隊列から離れないで」

 

「分かってるぞ」

 

「絶対に投げないで」

 

「投げねぇよ」

 

 念を押された後、バンは二つの木箱を抱えたまま歩き始めた。

 

 その後、次の休息地点へ着いても、息一つ乱れていなかった。

 

 紅蓮の山岳を進む途中、岩壁の奥から複数のモンスターが現れた。

 

 熱を帯びた岩殻を持つ四足獣。

 

 火口付近を飛び回る飛行種。

 

 地面の裂け目から這い出す小型種。

 

 だが、遠征隊の隊列は乱れなかった。

 

「左側、来る」

 

 シグネの声が届く。

 

 次の瞬間には、ルヴァンの矢が空を裂いた。

 

 遠方から接近していた飛行種が翼を貫かれ、岩場へ落ちていく。

 

 中央へ迫った四足獣は、ブリュンの大楯によって受け止められた。

 

「止まれ!」

 

 大楯〈ヒルド・ガルズ〉が地面へ突き立てられる。

 

 突進を真正面から受けたブリュンの足元が僅かに沈んだ。

 

 しかし、後方の担架と荷車は一つも動かない。

 

 ブリュンが大剣を振り下ろす前に、別方向から巨大な岩塊が転がり落ちてきた。

 

「荷車を固定しろ!」

 

 ドルガンが戦槌を地面へ打ちつける。

 

「【グランド・アンカー】!」

 

 傾斜で動き始めていた荷車が、その場へ縫い止められたように止まる。

 

 セレーネが〈シルヴァリオン〉を抜いた。

 

「《風壁装》」

 

 広がった風の壁が、岩塊とともに飛んできた破片を逸らす。

 

 それでも、最も大きな岩だけは勢いを失わない。

 

 負傷者を運ぶ隊列へ向かって落ちてくる。

 

 バンは抱えていた木箱を近くの団員へ渡した。

 

「少し持ってろ」

 

「少しって――重っ!?」

 

 団員が二人掛かりで箱を受け止める。

 

 バンは落下する岩へ片手を向けた。

 

「《強奪(スナッチ)》」

 

 空中で、巨大な岩塊の一部が消えた。

 

 正確には、隊列へ衝突する部分だけが、見えない力によって奪い取られていた。

 

 形を崩した岩は二つに割れ、負傷者と荷車の左右へ落下する。

 

 地面が大きく揺れた。

 

 だが、被害はない。

 

「壁だけでなく、落下中の岩も奪えるのか」

 

 少し離れた場所から、シグネが呟く。

 

「邪魔なところだけな」

 

 バンは団員たちから木箱を受け取った。

 

 二人は腕を震わせながら、ようやく手を離す。

 

「戦闘は終わっていないわよ」

 

 レグナイトの声が響いた。

 

 ブリュンが止めていた四足獣へ、レグナイトの拳が叩き込まれる。

 

 衝撃が岩殻を突き抜け、巨体が後方へ吹き飛んだ。

 

 同時に、マキシムが前衛を抜けようとした別の個体を仕留める。

 

 残った小型種は団員たちが隊列を崩さず撃破した。

 

 バンがすべてを倒す必要はなかった。

 

 一人で進んだ時には、現れたモンスターを自分の方法で排除するだけだった。

 

 だが今は、斥候が接近を知らせ、遠距離役が数を減らし、前衛が進路を塞ぎ、守備役が荷車と負傷者を守る。

 

 それぞれの役割が繋がることで、長い隊列は少しも崩れずに進んでいた。

 

「オレが全部倒した方が早くねぇか?」

 

 戦闘後、バンが尋ねる。

 

 パァルは周囲の安全を確認しながら答えた。

 

「お前が前方の敵を倒している間に、後方から別の群れが現れたらどうする」

 

「戻って倒すぞ」

 

「その間に負傷者が襲われたら?」

 

「近くの奴が守んだろ」

 

「だから、最初から全員で守っているんだ」

 

 パァルは隊列を進める合図を出す。

 

「お前一人が強くても、隊列全体が強くなるわけではない。全員が役割を果たすから、負傷者と物資を守って帰れる」

 

「そういうもんか」

 

「ああ」

 

 バンは再び木箱を抱え、動き始めた隊列へ戻った。

 

        ◇

 

 第四十階層を越え、第39階層の安全地帯へ到着した時には、遠征隊の疲労は目に見えて濃くなっていた。

 

 歩ける者の多くも、地面へ腰を下ろした途端に動かなくなる。

 

 武器を手から離さないまま眠る者。

 

 食事より先に防具を外す者。

 

 負傷者の状態を確かめる治療役。

 

 野営地を作る作業も、第50階層にいた時より時間が掛かっていた。

 

 それでも、誰一人として仕事を放り出さない。

 

 天幕を張る。

 

 見張りを置く。

 

 食料と水を数える。

 

 負傷者を奥へ運ぶ。

 

 荷車の車輪や軸を確認する。

 

 地上へ帰るために必要な作業を、全員が黙々と続けていた。

 

 バンは運んできた木箱を指定された場所へ置く。

 

「ここでいいか?」

 

「ああ。助かった」

 

 運搬役の男が深く息を吐いた。

 

「これを二箱持って、あの山岳を歩いたのか……」

 

「軽かったぞ」

 

「俺たちにとっては、四人で運ぶ物なんだ」

 

「そうなのか」

 

 男はバンの腕を見る。

 

 長い移動の後だというのに、震えも疲労も見られない。

 

「本当に何なんだ、お前は」

 

「バンだぞ」

 

「名前を聞いたんじゃない」

 

「じゃあ、何だ?」

 

「……もういい」

 

 男は諦めたように笑った。

 

 安全地帯で短い休息を取った後、遠征隊は再び上層を目指した。

 

        ◇

 

 それから先の帰路では、いくつもの階層が後方へ流れていった。

 

 深層の暗い通路。

 

 怪物が巣を作る広間。

 

 足場の悪い岩場。

 

 狭い通路を荷車が通れず、積み荷を一度下ろして人の手で運んだ場所。

 

 床の一部が崩れ、予定していた経路を変更した場所。

 

 負傷者の状態が悪化し、数刻にわたって移動を止めたこともあった。

 

 何度もモンスターの群れに遭遇した。

 

 だが、帰路を一つずつ語るほど、大きな戦いは起きなかった。

 

 シグネが危険を避ける。

 

 ルヴァンが遠方から接近する敵を射抜く。

 

 ドルガンが荷車を守る。

 

 ブリュンが負傷者の前へ立つ。

 

 セレーネが隊列の隙間へ入り込んだ敵を斬る。

 

 ネリネが傷を治し、リシェルが魔導士たちを指揮する。

 

 マキシムとレグナイトが全体を見渡し、パァルが移動速度と休息時間を調整した。

 

 そして、バンは必要な場所へ移動した。

 

 進路を塞ぐ岩があれば奪い取る。

 

 荷車が動かなくなれば持ち上げる。

 

 モンスターの群れが隊列の近くへ現れれば、《獲物狩り(フォックスハント)》で魔石を抜き取る。

 

 負傷者を運ぶ者が疲れれば、担架ごと受け取った。

 

 一人で歩いていた時よりも、戦う回数は少ない。

 

 それでも、考えることは多かった。

 

「右側へ行けば早ぇぞ」

 

「担架が通れない」

 

「こいつら倒して進めばいいだろ」

 

「巣を刺激すれば数が増える」

 

「休むの早くねぇか?」

 

「次の安全な場所まで距離がある」

 

 バンが何かを言うたび、シグネかパァル、あるいはネリネから理由が返ってきた。

 

 一人なら最短の道を選べる。

 

 危険なら戦えばいい。

 

 岩があれば壊し、穴があれば跳び越えられる。

 

 しかし、何百人もの遠征隊では、最も強い者が進める道ではなく、最も弱っている者でも通れる道を選ぶ必要があった。

 

 それでも全体の速度が上がらない時は、バンが担架や荷物を運んだ。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 時には、負傷者を乗せた担架を片手で持ち、反対の手で木箱を抱える。

 

 最初は止めようとした団員たちも、何度か繰り返すうちに何も言わなくなった。

 

 ただし、ネリネだけは毎回、

 

「揺らさないで」

 

「急に走らないで」

 

「担架を片手で振り回さないで」

 

 と注意を続けた。

 

「振り回してねぇぞ」

 

「あなたは普通に持っているつもりでも、運ばれている人には高さがあるのよ!」

 

 そのやり取りも、遠征隊の中では次第に見慣れたものになっていった。

 

        ◇

 

 第三十階層付近へ到達した頃、バンは見覚えのある岩壁を見つけた。

 

「ここ、通ったぞ」

 

 隊列の横を歩いていたシグネが足を止める。

 

「確かか?」

 

「ああ。向こうから来たな」

 

 バンが指した方向には、幅の狭い脇道が続いている。

 

 シグネは地面へ膝をつき、薄く残る傷と岩粉を確認した。

 

「バンの臭いが残っている。間違いない」

 

「まだ臭うのか?」

 

「僅かにな」

 

 周囲を見ると、岩壁の一部が不自然な形で抉れていた。

 

 刃物や打撃で壊された跡ではない。

 

 そこにあった岩だけが、途中から消えている。

 

「ここでも《強奪》を使ったのか?」

 

「ああ。道が狭かったから広げたぞ」

 

「一人なら、広げなくても通れそうだが」

 

「魔石入れた鞄が引っかかったんだ」

 

 シグネはバンを見る。

 

「身体ではなく、鞄のために壁を奪ったのか」

 

「ああ」

 

「……そうか」

 

 少し離れたところで話を聞いていたパァルが、頭を抱えている。

 

「何だ?」

 

「お前が本当に、あの鞄を背負ってここまで下りたのだと改めて実感しただけだ」

 

「言っただろ」

 

「言葉で聞くのと、痕跡を見るのとでは違う」

 

 遠征隊の団員たちも、抉られた岩壁へ視線を向けていた。

 

 第二十九階層から第五十階層まで、地図も同行者もなく進んだ男。

 

 最初は話を疑っていた者もいる。

 

 しかし、帰路の途中には、バンが残した痕跡が幾つもあった。

 

 魔石だけを抜かれ、傷の少ない素材を残したモンスターの討伐跡。

 

 通路から一部分だけ消えた岩。

 

 一人分の足跡。

 

 壁や床へ残った、クレシューズによる独特の打撃痕。

 

 シグネがそれらを確認するたび、バンの話が嘘ではなかったことが証明されていった。

 

「無茶な道を歩いたものだ」

 

 ルヴァンが抉られた壁を見ながら言う。

 

「普通に来ただけだぞ」

 

「普通なら、単独でこの階層へ来ない」

 

「そうなのか?」

 

「第五十階層まで来て、まだ分からないのか」

 

 ルヴァンは呆れながらも、僅かに笑っていた。

 

 第30階層付近を抜けた後、遠征隊は第28階層の安全地帯で再び大きな休息を取った。

 

 そこでは、荷物の量が整理され、負傷者の隊列も組み直された。

 

 深層で回収した素材の一部は、封印が緩んでいないか確認される。

 

 バンの戦利品が入った箱も開けずに点検されたが、ドルガンが厳重に固定していたため、何も問題はなかった。

 

「酒は?」

 

「問題ない」

 

「じゃあ飲むぞ」

 

「地上まで待て!」

 

 ドルガンの怒声が、安全地帯へ響いた。

 

        ◇

 

 第28階層を出てからも、遠征隊は地上へ向かって進み続けた。

 

 階層を上るほど、出現するモンスターの脅威は下がっていく。

 

 代わりに、ほかの冒険者と遭遇する回数が増え始めた。

 

 最初は少人数の探索隊。

 

 次に、物資を運ぶ支援者を含めた中規模のパーティー。

 

 合同遠征隊を見つけた者たちは、皆、道を空けた。

 

 ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリア。

 

 オラリオ最大級の二つの派閥。

 

 傷ついた装備。

 

 大量の負傷者と戦利品。

 

 彼らが長い深層遠征から戻ってきたことは、説明されなくても分かる。

 

 視線は団長であるマキシムとレグナイトへ集まり、次に幹部たちへ向いた。

 

 そして最後には、隊列の中を平然と歩く赤い長衣の男へ止まった。

 

「あの男は、どちらのファミリアだ?」

 

「見たことがないぞ」

 

「荷物と担架を一人で持っていなかったか?」

 

 小声で交わされる言葉を、バンは気にしなかった。

 

 本人よりも、パァルの方が周囲の視線を気にしていた。

 

「お前、少し中央へ入れ」

 

「何でだ?」

 

「余計な注目を集めている」

 

「別にいいだろ」

 

「地上へ着く前に、根も葉もない噂が広がる」

 

「噂なんて気にしねぇぞ」

 

「お前はな。こちらはギルドへ説明しなければならない」

 

「何をだ?」

 

「無所属の冒険者を一人、第五十階層から連れ帰った理由だ」

 

「一緒に帰ってるだけだぞ」

 

「それを説明する必要があると言っている」

 

「面倒だな」

 

 パァルは、何か嫌な未来を予感したように眉間を押さえた。

 

        ◇

 

 第18階層へ到着した時、合同遠征隊の中に初めて明確な安堵が広がった。

 

 長く続いていた岩の通路を抜ける。

 

 視界が開けると、青い水晶の光に照らされた森林と湖が現れた。

 

 地上の空ではない。

 

 それでも、閉ざされた通路を何階層も歩き続けてきた者たちにとって、広大な安全地帯の景色は地上へ近づいた証のように見えた。

 

 その中心には、冒険者たちの街〈リヴィラ〉がある。

 

 木と石を組み合わせた建物。

 

 酒場。

 

 宿。

 

 商店。

 

 物資を積んだ荷車。

 

 普段から騒がしい街だったが、合同遠征隊の姿が見えた瞬間、喧騒の質が変わった。

 

「帰ってきたぞ!」

 

「ゼウスとヘラの合同遠征隊だ!」

 

「道を空けろ! 負傷者がいる!」

 

 叫び声が広がる。

 

 宿や酒場から冒険者たちが飛び出し、街の通りにはあっという間に人が集まった。

 

 先行して到着した団員が事情を伝えていたらしく、治療に使う建物と物資置き場はすでに空けられている。

 

 負傷者を乗せた担架が優先して運ばれた。

 

 ネリネと治療役たちは、そのまま休むことなく診察へ入る。

 

 ドルガンは荷車の損傷を確認し、明日以降の移動へ備えて修理を始めた。

 

 シグネとルヴァンは、外周警戒の交代を決める。

 

 ブリュンとセレーネも、自分の担当する団員たちの様子を確認していた。

 

「ここで一度、大きく休む」

 

 パァルがバンへ告げる。

 

「地上へ行かねぇのか?」

 

「負傷者の状態と装備を整えてからだ。ここから先は深層ほど危険ではないが、油断していい理由にはならない」

 

「酒場あるぞ」

 

 バンの視線は、すでに通りの向こうへ向いている。

 

 大きな看板。

 

 開いた扉。

 

 中から聞こえる笑い声。

 

 酒と焼いた肉の匂い。

 

「行くなとは言わない」

 

「いいのか?」

 

「ただし、出発時刻までには戻れ。騒ぎを起こすな。勝手に下の階層へ戻るな。遠征隊の戦利品へ触れるな」

 

「分かってるぞ」

 

「それから――」

 

「長ぇな」

 

 バンはパァルの話が終わる前に、酒場へ向かって歩き始めた。

 

「待て! まだ話は終わっていない!」

 

「聞こえてるぞ」

 

「なら止まれ!」

 

 パァルの声がリヴィラへ響く。

 

 周囲の冒険者たちは、二人のやり取りを驚いたように見ていた。

 

「あの赤い服、何者だ?」

 

「パァル副団長にあんな口を利いているぞ」

 

「ゼウス・ファミリアの新しい幹部か?」

 

「いや、紋章がない」

 

 バンは視線も噂も気にせず、酒場の入口へ向かう。

 

 途中でマキシムが声を掛けた。

 

「飲みすぎるなよ!」

 

「分かってるぞ」

 

「お前の『分かってる』は信用できん!」

 

「心配なら一緒に来るか?」

 

「行きたいところだが、先に報告と負傷者の確認だ」

 

「大変だな、団長ってのも」

 

「お前には絶対に務まらんだろうな」

 

「ああ。面倒だからな」

 

 マキシムは声を上げて笑った。

 

 少し離れた場所では、レグナイトが腕を組んでバンを見ている。

 

「好きにさせていいの?」

 

 リシェルが尋ねた。

 

「ここで止めても、別の隙に行くだけよ」

 

「出発時刻までに戻られますでしょうか」

 

「酒がなくなれば戻るでしょう」

 

「むしろ、酒を探して街中を歩き回る可能性もあります」

 

「……パァルへ見張らせなさい」

 

「すでに追いかけています」

 

 リシェルの視線の先では、パァルがバンを止めようと酒場へ向かっていた。

 

 レグナイトは僅かに口元を上げる。

 

「なら問題ないわね」

 

「パァルさんにとっては、大きな問題だと思います」

 

 合同遠征隊は、第18階層〈リヴィラ〉へ到達した。

 

 地上までは、あと僅か。

 

 第50階層から始まった帰路で、バンは一人で進む時とは異なる歩き方を知った。

 

 最も早く進める道ではなく、全員が通れる道を選ぶこと。

 

 敵をすべて一人で倒すのではなく、それぞれが役割を果たして隊列を守ること。

 

 負傷者と荷物に歩幅を合わせ、最後の一人まで連れて帰ること。

 

 もっとも、当の本人がそれをどこまで理解しているのかは、誰にも分からない。

 

「まずは酒だな」

 

 バンは酒場の扉を開ける。

 

 背後から追いついたパァルの声が響いた。

 

「一杯だけにしろ!」

 

 第18階層へ到着した合同遠征隊の最初の休息は、深層で過ごした夜とは少し異なる騒がしさの中で始まった。




第102話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、第50階層から第18階層〈リヴィラ〉までの帰路を、印象的な地点を中心に描きました。

第四十階層付近では、単独ならば平然と進めるバンと、負傷者や物資を守りながら慎重に進む合同遠征隊の違いが表れています。第三十階層付近では、壁の一部を《強奪》で奪った跡など、バンが単独で進んだ痕跡も確認されました。

また、バンはモンスターを倒すだけでなく、荷物や担架を運ぶことで帰還隊を支えています。最も強い者が進める道ではなく、全員が帰れる道を選ぶことが、単独探索との大きな違いとなりました。

長い帰路を経て、合同遠征隊は第18階層〈リヴィラ〉へ到着しています。
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