強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第103話 旅人の帰還

 第18階層〈リヴィラ〉で十分な休息を取った後、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの合同遠征隊は、再び地上へ向けて動き始めた。

 

 負傷者の状態を確認し。

 

 荷車の車輪や軸を修理し。

 

 減っていた水と食料を補充する。

 

 深層から運んできた魔石や素材は、封印を確かめたうえで積み直された。

 

 バンが持ち帰った戦利品も、三つの木箱へ分けられたまま、ゼウス・ファミリア側の荷台へ載せられている。

 

 通常の魔石と素材。

 

 毒牙や毒針などの危険物。

 

 そして、遠征隊の記録にも一致しなかった黒い爪。

 

 ほかの回収品と混ざらないよう、木箱にはそれぞれ印が付けられ、ドルガンによって太い縄と金具で固定されていた。

 

「オレの箱、地上まで持つのか?」

 

「鞄と一緒にするな」

 

 最終確認をしていたドルガンが、太い眉をつり上げる。

 

「箱も荷台も正常だ。お前が余計なことをしなければ、地上まで問題なく運べる」

 

「開けねぇぞ」

 

「酒を探して開ける可能性がある」

 

「酒は別の箱だろ?」

 

「場所を覚えとるではないか!」

 

 ドルガンの怒声がリヴィラへ響く。

 

 近くで隊列を確認していたパァルは、何度目か分からないため息を吐いた。

 

「出発前から騒ぐな。バン、お前は荷台へ触れるな」

 

「分かってるぞ」

 

「その言葉を信じられるだけの実績が、お前にはない」

 

「面倒な奴らだな」

 

「誰のせいだと思っている」

 

 短いやり取りの後、隊列が動き始める。

 

 青い水晶の光に照らされた安全階層を離れ、遠征隊は第17階層へ続く通路へ入った。

 

        ◇

 

 第18階層から地上までの帰路は、深層からここへ至るまでとは比べものにならないほど穏やかだった。

 

 第17階層を抜け。

 

 岩窟のような中層を上り。

 

 次第に狭く、単純になっていく通路を進む。

 

 出現するモンスターの脅威も、階層を上るたびに下がっていった。

 

 もちろん、合同遠征隊が警戒を解くことはない。

 

 深層を生き抜いたからといって、上層のモンスターが無害になるわけではない。

 

 疲労した者。

 

 重い負傷を抱えた者。

 

 大量の荷物を運ぶ者。

 

 彼らにとって、油断から受ける一撃は、階層の深さに関係なく命取りになり得る。

 

 シグネが先行し、曲がり角や分岐の先を確認する。

 

 ルヴァンが遠方のモンスターを射抜き、隊列へ接近する数を減らす。

 

 ブリュンとドルガンは、負傷者や荷車の近くを離れない。

 

 セレーネは前衛と中央を往復し、僅かな乱れにもすぐ対応した。

 

 ネリネたちは、休息のたびに負傷者を診察する。

 

 マキシムとレグナイトが全体を見渡し、パァルとリシェルが細かな配置と速度を調整していた。

 

 バンも隊列の中を歩く。

 

 担架を運ぶ者の足が鈍れば、代わりに持つ。

 

 荷車が段差へ引っかかれば、そのまま持ち上げる。

 

 モンスターの群れが進路を塞げば、ほかの団員が陣形を整えるより早く、《獲物狩り(フォックスハント)》で魔石を抜き取った。

 

 ただし、すべてをバンが片づけることはない。

 

 深層での帰路と同じように、それぞれが自分の役割を果たしながら地上を目指した。

 

 第12階層を越える頃には、一般の冒険者と擦れ違う回数も増えていった。

 

 合同遠征隊を見た者たちは、驚いて道の端へ寄る。

 

 傷だらけの装備。

 

 並べられた担架。

 

 幾つもの荷車。

 

 ゼウスとヘラ、二つのファミリアの紋章。

 

 説明されなくても、大規模な遠征が帰還してきたことは分かる。

 

 そして、多くの者が隊列の中にいるバンへ目を向けた。

 

 焦げ跡の残る赤い長衣。

 

 肩へ担いだ四節棍。

 

 二つの大箱を一人で持ち、何事もないように歩く細身の男。

 

「あの人、ゼウス・ファミリアか?」

 

「いや、紋章がない」

 

「ヘラの団員でもないだろ」

 

「なら、どうしてあの隊列にいるんだ?」

 

 擦れ違う冒険者たちが、小声で言葉を交わす。

 

 バン本人はまったく気にしていなかった。

 

「見られてるぞ」

 

 横を歩いていたパァルが言う。

 

「そうだな」

 

「気にならないのか?」

 

「別に」

 

「お前は楽でいいな……」

 

 パァルは何かを諦めたように前を向いた。

 

 やがて、ダンジョンの壁の色が明るくなる。

 

 通路も広くなり、活動を始めたばかりの新人冒険者たちが行き交うようになった。

 

 第5階層。

 

 第4階層。

 

 第3階層。

 

 地上に近づくにつれ、冒険者たちの装備は軽くなり、顔つきにも余裕が見える。

 

 深層帰りの合同遠征隊を見つけた途端、その余裕は消えた。

 

「止まれ! 壁際へ寄れ!」

 

 先導するギルド職員が声を張る。

 

「帰還隊が通る! 負傷者を優先しろ!」

 

 通路を歩いていた冒険者たちは、慌てて左右へ分かれた。

 

 隊列のために一本の道が作られる。

 

 バンはその間を、周囲の視線を浴びながら進んでいった。

 

「随分騒がしいな」

 

「これだけの人数が帰還するんだ。当然だろう」

 

 パァルが答える。

 

「先行した団員から、地上へ連絡も送ってある。治療師と受け入れの準備がされているはずだ」

 

「じゃあ、着いたらすぐ解散か?」

 

「お前は何をするつもりだ」

 

「飯食って、酒飲むぞ」

 

「その前に確認や報告がある」

 

「オレは遠征隊の団員じゃねぇぞ」

 

「そうだな」

 

 パァルは一度頷いた。

 

「だからこそ、別の確認が必要になる可能性が高い」

 

「何のだ?」

 

「自分の胸へ聞け」

 

「何も言わねぇぞ」

 

「だろうな」

 

 短いやり取りの間にも、隊列は上へ進み続ける。

 

 そして、最後の階段が見えた。

 

 第1階層。

 

 地上とダンジョンをつなぐ、巨大な入口。

 

 階段の上から、迷宮とは異なる光が差し込んでいる。

 

 人の声。

 

 荷車の音。

 

 金属と石がぶつかる音。

 

 地上の空気が、微かに流れ込んできた。

 

「ようやくか」

 

 バンは階段の上を見上げる。

 

 行きに通った場所だった。

 

 ただし、あの時は正面から入ることを止められ、後から《絶気配》を使って人の流れへ紛れ込んでいる。

 

 帰りは、ゼウスとヘラの合同遠征隊の中央近くに立っていた。

 

 隠れる必要すらない。

 

「進め!」

 

 先頭から声が届く。

 

 合同遠征隊は、地上へ続く階段を上り始めた。

 

        ◇

 

 帰還隊がダンジョン入口の管理広間へ姿を現した瞬間、大きなどよめきが起きた。

 

 広間には、すでに大勢の人間が待機している。

 

 ギルド職員。

 

 治療師。

 

 負傷者を運ぶための担架を持った者。

 

 荷車を誘導する者。

 

 魔石や素材の搬送を担当する作業員。

 

 ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの支援者たち。

 

 先に帰還の知らせを受けていたため、受け入れの準備は整えられていた。

 

「負傷者を先に!」

 

「治療区画への道を空けてください!」

 

「重傷者は右側へ! 歩ける方は左側で待機を!」

 

 次々に指示が飛ぶ。

 

 ネリネと治療役たちは、地上へ着いても休まず負傷者へ付き添った。

 

 ブリュンが担架の通る道を作り、ドルガンは荷車を指定された場所へ誘導する。

 

 バンの戦利品を収めた三つの木箱も、ゼウス・ファミリアの回収品とともに荷台へ載ったままだ。

 

 ほかの箱と混ざらないよう印が付けられ、ドルガンの封印も残っている。

 

 バンは一度だけ、遠ざかる荷台へ目を向けた。

 

 マキシムたちへ預けている以上、今すぐ自分で持ち歩く必要はない。

 

「後でもらえばいいか」

 

 そう呟き、バンはそのまま広間の出口へ向かおうとした。

 

 一方、帰還隊の先頭では、マキシムとレグナイトが責任者らしいギルド職員と話している。

 

 その近くにはパァルとリシェルもいた。

 

「まず、帰還人数と重傷者の人数を確認させてください」

 

「記録はパァルが持っている」

 

 マキシムが答える。

 

 パァルは遠征中に使っていた記録板と、別の書類を職員へ渡した。

 

「移動中に状態が変化した者については、こちらへ追記してあります。治療区画へ運んだ順番も記載しました」

 

「確認します。回収品については、負傷者の搬送が終わり次第――」

 

「危険素材を含む箱があります」

 

 リシェルが静かに口を挟む。

 

「通常の荷物と同じ場所へ運ばないでください。封印を維持したまま、専門の管理区画へお願いします」

 

「承知しました」

 

 レグナイトは、治療区画へ続く人の流れを見ていた。

 

「正式な報告は、負傷者の受け入れが終わってからにするわ。ここで全員を立たせたまま話す内容ではないでしょう」

 

「もちろんです。団長、副団長の皆様には、この後あらためて――」

 

 ギルド職員が答えた時だった。

 

「あっ……!」

 

 少し離れた受付から、女性の声が上がった。

 

 筆が机の上を転がる。

 

 受付に座っていた女性職員は、目を大きく見開いていた。

 

 茶色い髪を後ろで束ねた、まだ若い職員。

 

 その視線の先には、出口へ向かって何食わぬ顔で歩くバンがいる。

 

 焦げ跡の残る赤い長衣。

 

 肩へ担いだ、四つの棍を鎖でつないだ奇妙な武器。

 

 見間違えるはずがなかった。

 

 以前、所属するファミリアも恩恵もない状態でダンジョンへ入ろうとし、自分が入口で止めた男である。

 

「あなたっ!」

 

 女性職員の大声が、広間へ響いた。

 

 周囲にいた冒険者や作業員が、一斉に振り返る。

 

 バンの足も止まった。

 

 肩越しに受付を見る。

 

「何だ?」

 

「何だ、ではありません! その場で止まってください!」

 

 女性職員は受付から飛び出した。

 

 人の間を縫い、声を上げながらバンへ駆け寄ってくる。

 

「面倒な奴に見つかったな」

 

「今、面倒と言いましたか!?」

 

「聞こえてたのか」

 

「聞こえる声で言ったでしょう!」

 

 女性職員はバンの前へ立ち、逃がさないように両腕を広げた。

 

 その騒ぎに気づき、マキシムたちと話していた職員も近づいてくる。

 

「どうされました?」

 

「この方です!」

 

 女性職員はバンを指した。

 

「以前、恩恵を授かっておらず、ファミリアにも所属していない状態でダンジョンへ入ろうとしていた方です。危険ですので、私が入口でお止めしました」

 

 もう一人の職員がバンを見る。

 

 次に、バンが歩いてきた方向。

 

 そして、地上へ帰還したばかりの合同遠征隊へ視線を移した。

 

「では、なぜこの方がダンジョンの中から……?」

 

「オレに聞いてんのか?」

 

「はい。こちらの方は、ゼウス・ファミリアかヘラ・ファミリアの団員でしょうか?」

 

「違うぞ」

 

 バンが先に答えた。

 

 職員の視線がマキシムたちへ向く。

 

 パァルは小さく頷いた。

 

「どちらの団員でもない」

 

「では、遠征へ臨時参加された冒険者ですか?」

 

「帰りだけ一緒だったな」

 

「帰りだけ……?」

 

 職員の表情がさらに困惑する。

 

「どこで合同遠征隊へ合流されたのですか?」

 

「第五十階層だぞ」

 

「……第五十階層?」

 

「ああ」

 

 女性職員の口が僅かに開く。

 

 もう一人の職員も、聞き間違いを疑うようにバンを見つめた。

 

「第五十階層で、遠征隊へ合流したのですか?」

 

「ああ」

 

「では、そこまで同行していたパーティーは?」

 

「いねぇぞ」

 

「途中まで同行した冒険者がいたのですか?」

 

「一人で行ったぞ」

 

 二人の職員が同時に固まった。

 

 周囲で話を聞いていた冒険者たちからも、ざわめきが起こる。

 

「一人……?」

 

「無所属で第五十階層まで?」

 

「恩恵もないって言ってなかったか?」

 

 女性職員は、何度か口を開閉した後、ようやく声を出した。

 

「待ってください!」

 

「待ってるぞ」

 

「私はあなたに、恩恵も所属先もない状態でダンジョンへ入ることはできないと、確かに説明しましたよね!?」

 

「ああ」

 

「その後、入口からお帰りになりましたよね!?」

 

「ああ」

 

「それでは、どうしてダンジョンの中にいたのですか!」

 

「見つからねぇように入ったぞ」

 

「自分から認めないでください!」

 

 女性職員の叫びが、再び広間へ響いた。

 

 マキシムが堪えるように口元を押さえる。

 

 パァルは額へ手を当てた。

 

 リシェルは静かに目を閉じ、レグナイトは腕を組んだまま成り行きを見ている。

 

「見つからないように、とは……」

 

 もう一人の職員が、慎重に尋ねた。

 

「人の流れへ紛れたぞ」

 

「入口では、通過する方を確認していたはずです」

 

「気づかれねぇようにしたからな」

 

「どうやってですか?」

 

「気配消したぞ」

 

「気配を……?」

 

「《絶気配(ゼロサイン)》だな」

 

 職員には、その言葉の意味が分からない。

 

 だが、バンが何らかの方法で監視を抜け、無断でダンジョンへ入ったことだけは理解できた。

 

 女性職員は頭を抱えそうになるのを堪え、深く息を吸う。

 

「確認したいことが多数あります。あちらの個室までご同行ください」

 

 受付の奥へ続く扉を示した。

 

 バンも扉を見る。

 

「嫌だぞ」

 

「嫌ではありません!」

 

「飯食いに行くからな」

 

「その前に事情を説明してください! 無断でダンジョンへ入り、しかも単独で第五十階層まで到達したというのですよ!?」

 

「ああ」

 

「なぜ平然としているのですか!」

 

「帰ってきたからな」

 

「帰ってくれば問題がなくなるわけではありません!」

 

 女性職員が一歩詰め寄る。

 

 もう一人の職員も、逃がさないようバンの横へ回った。

 

「第五十階層までの経路、滞在日数、使用した装備、遭遇したモンスター、ほかの冒険者との接触についても確認が必要です」

 

「さっき話したぞ」

 

「何も話していません!」

 

「歩いて、怪物倒して、五十まで行ったな」

 

「それは説明とは言いません!」

 

「面倒だな」

 

「面倒でも来ていただきます!」

 

 職員二人に左右を塞がれ、バンは受付奥の個室へ連れていかれそうになる。

 

 その時だった。

 

「誰かっ!」

 

 切羽詰まった声が、ダンジョンへ続く階段から響いた。

 

「治療師を呼んでくれ! 仲間が重傷なんだ!」

 

 広間の空気が変わる。

 

 別の冒険者パーティーが、階段を駆け上がってきた。

 

 四人。

 

 そのうち一人は、仲間二人に両脇を支えられている。

 

 鎧の脇腹が大きく裂け、当てられた布へ赤いものが広がっていた。顔からは血の気が失われ、足も地面を引きずっている。

 

「血が止まらない! 意識もほとんどない!」

 

「こちらへ!」

 

 ギルド職員が反射的に声を上げる。

 

「担架を! 治療師を呼んでください!」

 

 先ほどまでバンを囲んでいた二人も、重傷者へ顔を向けた。

 

 合同遠征隊の者たちも即座に動く。

 

「道を空けろ!」

 

 パァルが周囲の冒険者へ指示を飛ばす。

 

 ブリュンが人混みを押し分け、負傷者を運ぶための道を作った。

 

「寝かせて!」

 

 ネリネが真っ先に駆け寄る。

 

「傷口を押さえたまま、急に持ち上げないで! 呼吸は!?」

 

「浅い! さっきから呼びかけにも――」

 

「聞こえている。担架をここへ!」

 

 ネリネの声に、治療師たちが集まる。

 

 リシェルも魔導士の一人へ指示を出し、マキシムとレグナイトは混乱が広がらないよう周囲を見渡していた。

 

 広間にいた者たちの意識が、重傷者へ集中する。

 

 バンも一度だけ、そちらを見た。

 

 ネリネが傷の状態を確認している。

 

 複数の治療師が集まり、担架も運ばれてきた。

 

 助ける者は、すでに十分いる。

 

「大丈夫そうだな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 先ほどまでバンの正面にいた女性職員も、治療区画への道を空けるため、僅かに身体を横へ向けていた。

 

 もう一人の職員も、負傷者の状況を確認している。

 

 ほんの一瞬。

 

 誰の視線も、バンへ向いていなかった。

 

 バンは口元を上げる。

 

「今だな」

 

 気配が薄れる。

 

「《絶気配(ゼロサイン)》」

 

 姿が消えたわけではない。

 

 焦げた赤い長衣も。

 

 肩へ担いだクレシューズも。

 

 その場に存在している。

 

 ただ、人々の意識がバンを捉えなくなった。

 

 目の前にいても、見る必要のない通行人として流される。

 

 視界に入っても、人数へ数えられない。

 

 バンは治療師たちへ道を譲るように一歩下がり、そのまま帰還隊の団員たちの間へ入った。

 

 荷車の脇を通る。

 

 作業員の横を抜ける。

 

 入口へ向かう人の流れへ自然に混ざる。

 

 誰ともぶつからず。

 

 誰からも呼び止められず。

 

 広間の端へ移動していった。

 

「重傷者はこちらへ運びます!」

 

 治療師の声が響く。

 

 女性職員は、担架が通り過ぎたのを確認してから振り返った。

 

「それでは、あちらの個室で――」

 

 言葉が止まる。

 

「……あれ?」

 

 目の前にいたはずの男がいない。

 

 左右を見る。

 

 受付の方を見る。

 

 合同遠征隊の中へ視線を走らせる。

 

 赤い長衣は、どこにも見当たらない。

 

「先ほどの方は?」

 

 もう一人の職員も周囲を見回す。

 

「今まで、ここに……」

 

 女性職員の顔が引きつった。

 

「またですか!?」

 

 広間へ、三度目の大声が響き渡る。

 

        ◇

 

「逃げたな」

 

 パァルが額へ手を当てた。

 

「逃げましたね」

 

 リシェルも静かに頷く。

 

 マキシムは、とうとう堪えきれなくなった。

 

「ははははっ! 本当に職員の目の前から逃げやがった!」

 

「笑っている場合ではありません」

 

「いや、あれだけ正面から問い詰められて、まだ逃げるとは思わんだろう!」

 

「私は逃げると思っていました」

 

 レグナイトが淡々と答える。

 

「止めなかったのか?」

 

「重傷者の受け入れが優先でしょう。それに、追いかけるのは私たちの仕事ではないわ」

 

 パァルは広間の出口を見る。

 

「戦利品の箱は置いたままだぞ」

 

「俺たちへ預けたつもりなんだろう」

 

 マキシムは笑いを収めながら、ゼウス・ファミリア側の荷台を見る。

 

 三つの木箱は、封印されたまま残っている。

 

「金と荷物を置いていったなら、いずれ戻ってくる」

 

「その時に、ギルド職員へ引き渡しますか?」

 

 リシェルが尋ねる。

 

「俺を巻き込むな」

 

 パァルが即座に答えた。

 

「本人とギルドで解決させろ」

 

「同感ね」

 

 レグナイトは僅かに口元を上げる。

 

「もっとも、素直に個室へ入るとは思えないけれど」

 

 女性職員は、今も周囲の冒険者へ赤い長衣の男を見なかったかと尋ねている。

 

 だが、答えられる者はいなかった。

 

 つい先ほど、確かにその場を歩いていたにもかかわらず。

 

        ◇

 

 バンは管理広間を抜け、地上へ続く出口を通った。

 

 建物の外へ出てから、ようやく《絶気配》を解く。

 

 人々の意識が、再び赤い長衣の男を捉え始める。

 

 だが、もう背後の入口からは十分に離れていた。

 

 目の前には、オラリオの街が広がっている。

 

 高い建物。

 

 石畳を歩く大勢の人間。

 

 荷車の音。

 

 露店から聞こえる呼び声。

 

 焼いた肉と香辛料の匂い。

 

 どこかの酒場から漂ってくる酒の香り。

 

 ダンジョンの中にはなかった風が、赤い長衣の裾を揺らした。

 

 バンは大きく息を吸う。

 

「腹減ったな」

 

 背後から、微かに女性職員の声が聞こえてくる。

 

 赤い服の男を探しているらしい。

 

 バンは一度だけ振り返り、面倒そうに頭をかいた。

 

「戻んのは、飯食った後でいいか」

 

 誰に許可を求めるでもなく、勝手に決める。

 

 そして、酒と料理の匂いがする方へ歩き始めた。

 

 地図も持たず。

 

 仲間も連れず。

 

 神の恩恵すら受けないまま始めた、気まぐれな単独探索。

 

 バンは第29階層から歩き始め、第50階層へ到達した。

 

 帰路では、深層から戻る合同遠征隊と歩幅を合わせ、多くの負傷者と物資を地上まで運んだ。

 

 そうして無事に帰還した旅人は。

 

 最後の最後までギルドの決まりへ素直に従うことなく、迷宮都市の雑踏へ紛れ込んでいった。




第103話までお読みいただき、ありがとうございます。

バンが回収した魔石やドロップアイテムは三つの木箱へ分けられ、ゼウス・ファミリア側の荷台に載せたまま管理されています。

また、第74話でバンの入場を止めた女性職員が、ダンジョンから帰還したバンを発見しました。この場で初めて、地上のギルド職員たちは、恩恵も所属先もないバンが単独で第50階層へ到達したことを知っています。

事情を聞くため個室へ連れていかれそうになったバンでしたが、重傷者を連れた冒険者たちが帰還した隙に《絶気配(ゼロサイン)》を使い、その場から逃げ出しました。

これにて、第12部〈恩恵なき迷宮行〉は終了となります。
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