強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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間章 帰らない旅人

 バンがダンジョンへ入った日の昼過ぎ。

 

 第七区画の古びた廃教会に、灰色の髪を持つ女が訪れた。

 

 アルフィアは軋む扉を開け、薄暗い礼拝堂の中へ視線を巡らせる。

 

 崩れかけた壁。欠けた長椅子。割れた窓から差し込む日差し。そのどれも、以前に来た時と変わっていない。

 

 変わっていたのは、長椅子に寝転がっているはずの男がいないことだけだった。

 

「……いないのか」

 

 アルフィアの声が、誰もいない教会へ落ちる。

 

 壁際に置かれていた荷物もない。

 

 赤い長衣も、聖棍クレシューズも見当たらなかった。

 

 もっとも、バンが朝から出歩いていること自体は珍しくない。酒場を巡ることもあれば、市場へ食材を見に行くこともある。オラリオへ来てからまだ日は浅いが、じっと一か所に留まるような男ではなかった。

 

 アルフィアは礼拝堂の奥まで進み、バンが普段使っている長椅子を見る。

 

 何かを書き残した紙はない。

 

 行き先を示すものもない。

 

「余計なことを考えるなと言ったはずだ」

 

 思い出すのは、ヘファイストスの工房での会話だった。

 

 修復を終えたクレシューズを肩へ担ぎ、ダンジョンの話へ目を輝かせていたバン。

 

 ゼウスから迷宮について聞くたびに、魔石や素材だけでなく、食べられるモンスターや酒の有無まで尋ねていた。

 

 アルフィアが釘を刺した時、バンは確かに答えた。

 

『まだ何も考えてねぇぞ』

 

 あれが嘘だったとは思わない。

 

 あの時点では、本当に何も決めていなかったのだろう。

 

 ただし、工房を出る頃には違っていた。

 

 アルフィアは長椅子の端へ腰を下ろした。

 

 バンが戻ってきたら、何をしていたのか問い詰める。それだけだ。

 

 別に、帰りを待っているわけではない。

 

 疑わしい行動を取る男を監視する必要があるだけだった。

 

        ◇

 

 日が傾き、割れた窓から差し込む光が赤く染まっても、バンは戻らなかった。

 

 アルフィアは一度も立ち上がらず、長椅子へ座ったまま礼拝堂の入口を見ていた。

 

 通りから聞こえていた人々の声が減り、代わりに酒場の明かりが灯り始める。

 

 やがて教会の内部が暗くなると、アルフィアは立ち上がった。

 

「……くだらない」

 

 誰に対する言葉なのか、自分でも決めないまま吐き捨てる。

 

 バンがどこで何をしようと、アルフィアには関係がない。

 

 そう考えながら、彼女は廃教会を後にした。

 

 翌朝。

 

 今度は大柄な男が教会を訪れた。

 

 ザルドは片手に食料を入れた包みを持ち、開いたままの扉から中へ入る。

 

「バン。いるか」

 

 返事はない。

 

 ザルドは礼拝堂を見回し、壁際の長椅子へ近づいた。

 

 バンの姿はない。

 

 昨日の夜に飲んだ酒瓶も、朝食を食べた跡もなかった。いつもなら適当に置かれている木杯すら、洗われたまま動いていない。

 

「朝から出かけた、という様子ではないな」

 

 持ってきた食料を長椅子へ置く。

 

 バンは以前、ザルドが教会へ来た時に、食事を持ってくるなら酒も持ってこいと言っていた。

 

 そのため今日は、包みの中へ小さな酒瓶も入れている。

 

 昼まで待つつもりはなかった。

 

 腹が減れば、バンは勝手に戻ってくる。

 

 そう思って教会を出ようとした時、入口に灰色の髪が見えた。

 

 アルフィアが、ザルドの持ってきた食料と誰もいない礼拝堂を順に見る。

 

「お前もか」

 

「何の話だ」

 

「昨日も来たのだろう」

 

「なぜ分かる」

 

「長椅子の埃が、一人分多く払われている」

 

 アルフィアは答えず、ザルドの横を通り過ぎた。

 

 昨日と同じように、教会の内部を確認する。

 

「いつから戻っていない」

 

「少なくとも、昨日の昼にはいなかった」

 

「そうか」

 

 ザルドは腕を組み、壁へ背を預けた。

 

「クレシューズもない。鞄も持っていっている」

 

「街の外へ出た可能性はある」

 

「なら、一言くらい残すだろう」

 

「あいつが?」

 

「……残さないな」

 

 二人の間に沈黙が落ちた。

 

 同時に思い出していたのは、同じ光景だった。

 

 ヘファイストスの工房。

 

 ダンジョンの話。

 

 修復されたクレシューズ。

 

 中央にそびえる塔を見上げていた、バンの楽しそうな顔。

 

「今日は行かないと言っていた」

 

 アルフィアが低く言う。

 

「一日待てと言われたから、ともな」

 

「その一日は、すでに過ぎている」

 

 ザルドの眉間に皺が寄った。

 

「ギルドへ行くぞ」

 

        ◇

 

 パンテオンの中央広間には、今日も多くの冒険者が行き交っていた。

 

 地下へ向かう者。

 

 魔石を持って帰還した者。

 

 負傷した仲間へ肩を貸す者。

 

 その流れの中を、ザルドとアルフィアが進む。

 

 二人の姿に気づいた冒険者たちが、慌てて道を空けた。

 

 ゼウス・ファミリアの幹部と、ヘラ・ファミリアの幹部。

 

 オラリオで二人を知らない者は少ない。

 

 受付へ近づくと、紺色の制服を着た女性職員が顔を上げた。茶色い髪を後ろで束ねた、二十代半ばほどの女性だ。

 

 アルフィアが前置きもなく尋ねる。

 

「赤い長衣の男が来なかったか」

 

「赤い長衣……」

 

「明るい銀色の髪。長い四節棍を持っている」

 

 女性職員は、すぐに思い当たったようだった。

 

「来ました。二日前の朝です」

 

「中へ入ったのか」

 

「いいえ。無所属で、神の恩恵も受けていないとのことでしたので、私がお断りしました」

 

 アルフィアの目が僅かに細くなる。

 

「その後は」

 

「広間を出ていきました。少なくとも、私が見ていた間は入口へ戻っていません」

 

「見ていた間は、か」

 

 ザルドが呟く。

 

 女性職員は不審そうに二人を見る。

 

「何かあったのでしょうか」

 

「まだ分からん」

 

 ザルドが答え、アルフィアへ視線を向けた。

 

 バンには、他者の意識から自分の存在を外す技術がある。

 

 正面から止められた程度で、諦める男ではない。

 

「ダンジョンへ入ったな」

 

「断定するには早い」

 

「お前もそう思っている顔だ」

 

「否定はしない」

 

 二人はパンテオンを出た。

 

 その後、冒険者向けの店が並ぶ通りを回る。

 

 赤い長衣。

 

 銀色の髪。

 

 奇妙な四節棍。

 

 特徴を伝えるまでもなく、バンを覚えている店主は多かった。

 

『初めて潜ると言いながら、十日分の保存食を買っていった』

 

『水袋を三つと、火酒を二本だ』

 

『鍋と鉄板と調理用のナイフまで選んでいた』

 

『回収袋は、大きなものまで買っていったぞ』

 

 食料品店の店主は、最後にこう付け加えた。

 

『どこへ行くのか聞いたら、ちょっとダンジョンにな、と言っていた』

 

「……あの男」

 

 アルフィアの周囲から、音が消える。

 

 ザルドは額へ手を当てた。

 

「準備だけはしていたようだな」

 

「そこを評価するな」

 

「評価してはいない。最悪よりはましだと言っている」

 

「単独で迷宮へ入った時点で同じだ」

 

 アルフィアは踵を返す。

 

「どこへ行く」

 

「教会だ」

 

「戻っている可能性は低いぞ」

 

「帰ってきた時、すぐに分かる」

 

 その日から。

 

 アルフィアとザルドは、それぞれ別の時間に廃教会を訪れるようになった。

 

 朝。

 

 昼。

 

 夕方。

 

 時には夜。

 

 互いに約束したわけではない。

 

 どちらも、ただ近くを通っただけだと言い張った。

 

 だが、ザルドが置いた食料は手つかずのまま残り、酒瓶も開けられなかった。

 

 一日が過ぎる。

 

 二日が過ぎる。

 

 それでも、バンは戻らない。

 

 アルフィアは表情を変えなかった。

 

 ザルドも、余計な言葉を口にしなかった。

 

 ただ、二人が教会を訪れる間隔だけが、少しずつ短くなっていった。

 

        ◇

 

 合同遠征隊がオラリオへ帰還したとの報告が届いたのは、それから数日後だった。

 

 ゼウス・ファミリアの本拠。

 

 遠征隊の帰還を待っていたゼウスとヘラの前へ、ギルドからの伝令が駆け込んでくる。

 

 その場には、ザルドとアルフィアもいた。

 

「合同遠征隊は、全隊帰還しました。負傷者はおりますが、死者については現在確認中です」

 

 ゼウスが安堵の息を吐き、ヘラが静かに目を閉じる。

 

 伝令は続けた。

 

「また、遠征隊は帰路の第五十階層にて、単独の探索者と合流しております」

 

「単独の探索者?」

 

 ゼウスが聞き返す。

 

「赤い長衣を着た、銀髪の男性です。ゼウス・ファミリア、ヘラ・ファミリア、いずれの団員でもないと報告されています」

 

 ザルドとアルフィアの視線が、同時に伝令へ向いた。

 

「名は」

 

「バンと名乗ったとのことです」

 

 室内の空気が止まった。

 

 数日の不在。

 

 大量の保存食。

 

 水と酒。

 

 回収袋。

 

 修復されたクレシューズ。

 

 すべてが一つにつながる。

 

「第五十階層……」

 

 アルフィアの声は小さかった。

 

 それでも、伝令は反射的に背筋を伸ばした。

 

「単独で、そこまで行ったのか」

 

「遠征隊と合流するまでは、一人だったとの報告です」

 

 ゼウスが、一度目を見開く。

 

 次の瞬間には、腹を抱えて笑い始めた。

 

「かっかっか! 本当に行きおったか! それも第五十階層までとはのう!」

 

「笑い事ではないわ!」

 

 ヘラの鋭い声が飛ぶ。

 

「無所属で、ファルナもなく、誰にも告げずに深層まで入ったのよ!」

 

「じゃが、無事に戻ったのじゃろう?」

 

「結果だけで無謀を正当化するな!」

 

 ザルドは深く息を吐いた。

 

「言えば止められると分かっていたから、黙っていたのだろうな」

 

「当然、止めた」

 

 アルフィアが答える。

 

「俺も止めた」

 

「だから言わなかった。あいつならそう考える」

 

「考えたのではない。ただ好きにしただけだ」

 

 アルフィアの声は冷たい。

 

 だが、数日間、消えることのなかった張り詰めたものが、僅かに薄れていた。

 

 生きている。

 

 第五十階層まで行った。

 

 正気とは思えないが、遠征隊とともに地上へ帰ってきた。

 

 それだけは確かだった。

 

 その時、別のギルド職員が部屋へ駆け込んできた。

 

「失礼いたします! 先ほどの赤い長衣の男性について、追加の報告です!」

 

「何じゃ?」

 

「帰還後、ギルド職員が事情を確認しようとしたところ、重傷者が運び込まれまして……その対応中に、姿を消しました」

 

 ゼウスの笑い声が、先ほどよりも大きくなる。

 

「帰って早々、逃げおったか!」

 

「ゼウス」

 

「す、すまぬ。じゃが、実にあやつらしいではないか」

 

「笑うな」

 

 アルフィアが立ち上がった。

 

 ヘラが尋ねる。

 

「どこへ行くつもり?」

 

「探す」

 

「オラリオのどこにいるか分かるのか」

 

「酒場だ」

 

 即答だった。

 

 ザルドも立ち上がる。

 

「俺も行こう」

 

「必要ない」

 

「今のお前を一人で行かせれば、バンを見つける前に店が壊れる」

 

「壊さない」

 

「信用できん」

 

「邪魔をするな」

 

「お前の魔法に巻き込まれた店主や通行人を守るためだ」

 

 アルフィアは答えず、部屋を出た。

 

 ザルドも、その後を追う。

 

 ゼウスが二人の背中へ声を投げた。

 

「バンを見つけても、あまり怒るでないぞ! 無事に帰ってきたのじゃから!」

 

「お前は黙っていろ!」

 

 ヘラの怒声が響き、ゼウスの笑いが止まる。

 

 すでにアルフィアとザルドの姿は、廊下の先へ消えていた。

 

 向かう先は同じだった。

 

 ダンジョンから帰還し。

 

 ギルドから逃げ出し。

 

 何事もなかったように、酒と料理を楽しんでいるであろう男のもとへ。

 

 旅人はまだ知らない。

 

 自分が帰らなかった数日間。

 

 二人が何度、誰もいない教会の扉を開いたのかを。

 

 そして。

 

 酒場へ向かっている二人のうち、一人がどれほど怒っているのかを。

 

        ◇

 

 ――第12部〈恩恵なき迷宮行〉完――




第12部の最後として、バンがダンジョンへ入っていた間のザルドとアルフィアを描きました。

誰にも行き先を告げず、単独で第五十階層まで潜ったバン。無事に帰ってきたとはいえ、二人が黙って見過ごすはずもありません。

次回から第13部が始まります。
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