赤い旅人の続きになります。
ハルファの酒場に戻ると、鍋の匂いがまだ残っていた。
黒砂酒の熱い匂い。
豆と乾燥肉の煮込み。
苦草の焦げたような香り。
砂と汗と革の匂い。
外では、黒砂に染まった魔物の死骸が処理されている。
黒く汚れたサンドホーン。
砂蜥蜴。
小さな砂蟲。
どれも肉体は残っていた。
だが、食材として扱う者はいない。
肉の内側にまで黒い筋が入り、切り口からは嫌な臭いが上がっている。
血というより、古い泥を煮詰めたような匂いだった。
ナジュは外で処理をしている者たちへ短く指示を出してから、酒場の中へ戻ってきた。
「触った手で飯を食うんじゃないよ。水と灰でよく洗いな」
男たちが「分かってる」と返す。
バンは自分の右手を見た。
戦いの中で、黒砂に染まった魔物の流れを少しだけ盗った手。
まだ痺れが残っている。
深く盗ったわけではない。
ほんの少し、突進の向きをずらしただけ。
それでも、指先に薄い不快感がまとわりついていた。
バンは顔をしかめる。
「飯前に触るもんじゃねぇな」
ナジュが水の入った桶を足元へ置く。
「なら洗いな」
「あいよ」
バンは手を洗った。
水で流す。
灰をすり込む。
もう一度水で洗う。
それだけで完全に落ちたわけではない。
だが、指先の嫌な感覚は少し薄れた。
ナジュはそれを見て、目を細める。
「あんた、黒砂に触ったのかい」
「直接じゃねぇ。黒くなった魔物をちょっとな」
「普通は、それだけでも気分が悪くなる」
「気分は悪ぃよ」
「顔に出てない」
「飯の前だから我慢してんだ」
「理由がそれかい」
ナジュは呆れたように言ったが、少しだけ笑っていた。
酒場の奥では、長い卓が寄せられていた。
集落の者たちが集まり始めている。
砂漠の民。
商人。
護衛。
冒険者。
薬師。
鍛冶場の親方。
水場を管理する老人。
見張り台の若者。
誰もが黒砂の方角を一度は見てから、酒場へ入ってくる。
そこにいるだけで、今のハルファがただの休憩地ではないことが分かる。
境界集落。
人が住む場所と、踏み込んではいけない場所の境目。
バンは卓の端に座り、残していた煮込みを受け取った。
ナジュが椀を置く。
「約束の残りだ」
「いい女将だな」
「働いた分だよ」
「酒は?」
「会議が始まってからにしな」
「会議に酒が出るのか」
「黒砂酒なしで黒砂の話なんか聞けるかい」
「いい会議だな」
近くにいた冒険者の男が吹き出した。
腕に包帯を巻いた男だ。
「兄さん、あんた本当に変わってるな」
「よく言われる」
「俺はダリオ。こっちはミラ」
男は隣の女冒険者を指した。
槍を持った寡黙な女だった。
ミラは軽く顎を引いただけで、ほとんど喋らない。
バンは椀を持ったまま言う。
「バンだ」
「聞いたよ。さっきの戦い、助かった」
「飯の途中だったからな」
「飯の途中で出てきてくれるなら、十分ありがたい」
「戻ったら飯が残ってるって言われたしな」
ダリオは笑った。
ミラは無表情のまま、わずかに口元を緩めた。
やがて、酒場の中央にナジュが立った。
彼女は店主であると同時に、この集落のまとめ役の一人らしい。
声を張るわけではない。
だが、低く通る声だった。
「始めるよ」
酒場のざわめきが止まる。
ナジュは卓の上に、黒い砂を少量入れた皿を置いた。
その瞬間、空気がわずかに重くなる。
ただの砂ではない。
バンは目を細めた。
皿の上の黒砂は、乾いているのに湿って見えた。
光を反射せず、そこだけ夜の欠片のように沈んでいる。
「今朝、北東の見張りが拾ったものだ」
ナジュが言う。
「黒砂の縁が、昨日よりこちら側へ伸びている」
酒場の中に低いざわめきが広がった。
ジャミルが腕を組む。
「どれくらいだ」
見張り台の若者が答える。
「場所によりますが、半日分ほど。風で飛んできたというより、地面ごと染み出した感じです」
「半日分……」
サイモンが青い顔をする。
「それが本当なら、交易路にかかるぞ」
水場を管理する老人が頷いた。
「すでに古い井戸の一つが濁った。黒砂が混じったわけではない。だが、水の味が変わっておる」
ナジュが続ける。
「魔物の動きもおかしい。小型が外へ逃げているだけじゃない。黒く染まった個体が、集落の方へ来るようになった」
ダリオが包帯を巻いた腕を上げる。
「昨日、俺たちが見た群れも同じだ。あいつらは腹が減っていたわけじゃない。何かから逃げていた。だが、黒砂に染まったせいで、逃げながら目につくものを壊す」
ミラが短く言う。
「命令されているようにも見えた」
その一言で、空気がさらに重くなった。
ナジュはミラを見る。
「根拠は?」
「動きが揃いすぎていた。小型の砂蟲とサンドホーンが同じ方向へ流れていた。種が違うのに、逃げる向きが同じだった」
ジャミルが低く唸る。
「何かに押し出されている」
「あるいは、何かの呼吸に合わせて動いている」
ミラの言葉に、誰もすぐには反応しなかった。
バンは皿の黒砂を見ていた。
呼吸。
その言葉は、妙にしっくりきた。
黒い砂漠の奥で感じた、巨大な寝息のような気配。
地面そのものが、眠っている獣の背中のように動く感覚。
もし本当に、あの奥に何かが眠っているのなら。
その呼吸だけで、周囲の魔物が狂い、砂が染み、井戸の味が変わる。
そういう規模の存在。
バンは煮込みを食べる手を止めた。
「ベヒーモスってのは、そんなにでけぇのか」
酒場中の視線がバンへ向いた。
ナジュが目を細める。
「あんた、ベヒーモスの名を知らなかったのかい」
「ああ。ここで聞いた」
ダリオが驚いた顔をする。
「三大クエストを知らずにこの辺りを旅してるのか?」
「昨日までは、飯と酒があるかどうかの方が大事だったからな」
「普通は三大クエストの方が大事だ」
「飯食わねぇと、三大だろうが四大だろうが考えられねぇだろ」
何人かが苦笑した。
ナジュはため息をつきながらも、説明を始めた。
「ベヒーモスは、神代から語られる世界規模の怪物だ。三大クエストの一つ。国や都市が総出で挑むような相手で、普通の魔物とは違う」
「魔石は?」
バンが聞く。
ナジュは少し眉を上げた。
「さあね。そんなものを取り出して帰ってきた奴はいない」
「肉は?」
酒場が一瞬静まり返った。
ジャミルが額を押さえる。
「お前は本当に……」
ダリオが笑いをこらえる。
「ベヒーモスを食う気か?」
「食えるか聞いただけだ」
ナジュは少し考え、真面目に答えた。
「食うな。仮に肉が残ったとしても、まともな食材じゃないだろう。あれは獣じゃなく、災害に近い」
「災害ねぇ」
バンは黒砂酒の杯を受け取る。
ナジュがいつの間にか注いでいた。
バンはそれを一口飲んだ。
喉が焼ける。
苦い。
だが、今の話には合っていた。
「で、その災害が起きそうって話か」
ナジュは頷く。
「まだ分からない。だが、黒砂の広がり、魔物の逃走、井戸の変化、地鳴り。全部が重なっている。無視はできない」
水場の老人が言う。
「ハルファだけの問題なら、集落を捨てればいい。だが、黒砂が交易路まで伸びれば、リオードにも影響が出る。さらに広がれば、砂漠西部の国々にも届く」
サイモンが唇を噛む。
「商路が死ぬ。水場が汚れれば、砂漠船も通れない。物資が止まる」
ジャミルが静かに続ける。
「砂漠の民は移動できる。だが、黒砂が広がり続けるなら、逃げ場は減る」
酒場の中の空気が沈んでいく。
バンはその空気をあまり好まなかった。
飯がまずくなる。
黒砂酒まで苦すぎる。
「で、どうすんだ」
バンが言う。
ナジュが答える。
「調べるしかない」
「誰が?」
「明朝、調査隊を出す。黒砂の縁まで行き、広がり具合と魔物の流れを見る。奥へは入らない」
ダリオが苦い顔をする。
「奥へ入らなくても危ない」
「分かってる。だから人数を絞る」
ナジュは卓の上に簡単な地図を広げた。
布に描かれた地図だ。
ハルファ。
井戸。
古い見張り石。
黒砂の縁。
古い交易路。
崩れた祠。
さらに奥には、ほとんど何も描かれていない黒い空白。
バンはその黒い空白を見た。
地図に描けない場所。
人が戻らない場所。
そういう意味の空白だった。
ナジュは地図の一か所を指す。
「まずはここ。古い見張り石まで行く。そこから黒砂の縁を確認し、魔物の流れを見る。異常があれば戻る」
ダリオが言う。
「俺たちは行く。昨日やられた分の確認もしたい」
ミラも頷く。
ジャミルは少し考えた。
「俺も行こう。砂と風を読める者が要る」
サイモンが慌てる。
「ジャミル、船は?」
「お前たちはハルファで待て。船を動かすのは戻ってからだ」
ナジュはバンを見た。
「赤い旅人。あんたはどうする」
バンは煮込みを食べ終え、椀を置いた。
「飯は出るのか」
「朝飯なら出す」
「酒は?」
「戻ったら出す」
「なら行く」
あまりにも軽い返事だった。
酒場の何人かがぽかんとする。
ナジュは片眉を上げた。
「理由はそれだけかい」
「あと、あれだ」
バンは黒砂の皿を指す。
「こいつに触れた魔物、盗ると気持ち悪ぃ。何が混じってるか気になる」
ナジュの目が鋭くなる。
「盗る?」
「ああ。俺の魔力みてぇなもんだ。相手の力とか流れを盗る」
酒場にざわめきが広がる。
ダリオが目を丸くした。
「そんな魔法、聞いたことないぞ」
「神の恩恵は?」
ミラが聞く。
「ない」
「ファミリアは?」
「入ってねぇ」
「ステイタスは?」
「ねぇよ」
またざわめき。
バンは面倒そうに頭をかく。
「何回も聞かれるな、それ」
ナジュはじっとバンを見る。
「神の恩恵なしで、黒砂持ちのサンドホーンを逸らしたのかい」
「深く盗ると嫌な感じがしたから、向きだけな」
ジャミルが補足する。
「こいつは恩恵持ちではない。だが、砂漠船を一人で押した。サンドホーン四匹も船を守りながらしのいだ」
ダリオが乾いた笑いを漏らす。
「何だそれ。化け物か?」
「旅人だ」
バンは即答した。
ナジュは少しだけ考え、頷いた。
「分かった。来るなら助かる。ただし、黒砂の中へ勝手に踏み込むな」
「飯も酒もないんだろ」
「ない」
「なら行かねぇ」
「その判断基準、今は助かるね」
会議は続いた。
調査隊の人数。
水の量。
戻る合図。
魔物が出た場合の対処。
黒砂に染まった死骸の処理。
井戸の監視。
バンは途中から少し退屈になっていた。
だが、聞いていないわけではない。
飯を食べながらでも、酒を飲みながらでも、必要なことは拾う。
黒砂に触れた魔物は食べない。
素手で触らない。
傷を受けたらすぐ洗う。
水場を汚さない。
黒砂の奥から地鳴りがしたら退く。
無理に倒そうとしない。
どれも、砂漠で生きてきた者たちの知恵だった。
バンはそういうものを嫌いではない。
強い奴がただ殴って勝つより、生き残ってきた奴の知恵の方が役に立つことがある。
煉獄でもそうだった。
力だけでは足りない。
食えるものを見分け、水を探し、危ない匂いを避け、眠る場所を選ぶ。
生きるとは、そういう細かいことの積み重ねだ。
会議が終わる頃には、夜がかなり更けていた。
外では、黒砂に染まった死骸が焼かれている。
肉を焼く匂いではない。
焦げた泥と苦い薬草のような臭いが、風に乗って酒場へ届いた。
バンは鼻を鳴らす。
「まずそうな匂いだな」
ナジュが言う。
「食うものじゃないからね」
「黒砂に染まってなきゃ、サンドホーンは食えたんだがな」
「明日、普通のやつに出会ったら焼いてやるよ」
「いい女将だ」
「食材を持って帰れたらね」
ダリオが笑う。
「明日の調査、魔物を狩りに行くんじゃないんだぞ」
「分かってる」
バンは立ち上がる。
「でも食えるやつが出たら、持って帰るだろ」
ジャミルが肩をすくめる。
「否定できないのが困る」
その夜、バンは酒場の裏にある簡素な部屋を借りた。
寝台は硬い。
布はざらついている。
窓は小さく、砂除けの布がかけられている。
だが、屋根がある。
火も近い。
飯も酒もあった。
悪くない。
バンは寝台に腰を下ろし、クレシューズを膝の上に置いた。
指先の痺れはほとんど消えている。
だが、記憶には残っていた。
黒砂持ちの魔物に触れた時の感覚。
盗ってはいけないものが混じっている。
もし、あの奥にいるものが本当にベヒーモスなら。
三大クエストと呼ばれる世界災害級の怪物なら。
それを正面から全部盗ろうとすれば、どうなるか。
バンは想像して、少しだけ笑った。
「身体がもたねぇな」
不死身ではない。
今の自分は、傷を負えば血が出る。
毒も受ける。
力を奪いすぎれば、身体が軋む。
贈物を使えば、自分の生命力も削れる。
それでも、やれることはある。
全部を盗らなくていい。
流れの端を盗る。
向きをずらす。
足を止める。
隙を作る。
誰かが逃げる時間を作る。
それだけでも、戦いは変わる。
バンはクレシューズを軽く持ち上げる。
「相手が災害だろうが、盗れるもんはあるだろ」
そう呟いた時、遠くで地鳴りがした。
低く、長く。
酒場の壁がわずかに震える。
天井から砂粒が落ちた。
バンは立ち上がり、窓の布を少しだけ開ける。
外は暗い。
だが、黒い砂漠の方角だけ、さらに黒かった。
夜の中に、もう一つ夜が横たわっているようだった。
風が吹く。
重い風。
その奥から、巨大な何かの寝息のような気配が届く。
バンはしばらく、それを見ていた。
腹は満ちている。
酒も飲んだ。
身体は休めた方がいい。
だが、眠りにつく前に一つだけ分かったことがある。
この集落の飯と酒は、明日も食いたい。
ここにいる連中の顔も、悪くない。
なら、黒砂に飲まれて消えるのは少し気に入らない。
「飯がまずくなる前に、どかすか」
バンは窓の布を戻し、寝台に横になった。
外では、黒砂の風が低く鳴っていた。
明日の朝、調査隊は黒い砂漠の縁へ向かう。
ベヒーモスという名の災害が本当に眠っているのか。
それとも、別の何かが黒砂を動かしているのか。
まだ分からない。
ただ一つ、バンに分かることがあった。
面倒なことになりそうだ。
そして、面倒なことほど、たいてい飯と酒の味を左右する。
第9話でした。
修正版では、ハルファの会議を通して、黒砂の広がり、魔物の異常、井戸への影響、そしてベヒーモスの名を整理しました。
また、バンが黒砂に染まった魔物を深く《強奪(スナッチ)》しない理由と、三大クエスト級の相手には「全部を盗る」のではなく「流れの端を盗る」方針を描写しました。
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ストックある限り全部!
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