強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第9話です。
赤い旅人の続きになります。


第9話 黒砂酒の会議

ハルファの酒場に戻ると、鍋の匂いがまだ残っていた。

 

黒砂酒の熱い匂い。

豆と乾燥肉の煮込み。

苦草の焦げたような香り。

砂と汗と革の匂い。

 

外では、黒砂に染まった魔物の死骸が処理されている。

 

黒く汚れたサンドホーン。

砂蜥蜴。

小さな砂蟲。

 

どれも肉体は残っていた。

 

だが、食材として扱う者はいない。

 

肉の内側にまで黒い筋が入り、切り口からは嫌な臭いが上がっている。

血というより、古い泥を煮詰めたような匂いだった。

 

ナジュは外で処理をしている者たちへ短く指示を出してから、酒場の中へ戻ってきた。

 

「触った手で飯を食うんじゃないよ。水と灰でよく洗いな」

 

男たちが「分かってる」と返す。

 

バンは自分の右手を見た。

 

戦いの中で、黒砂に染まった魔物の流れを少しだけ盗った手。

 

まだ痺れが残っている。

 

深く盗ったわけではない。

ほんの少し、突進の向きをずらしただけ。

 

それでも、指先に薄い不快感がまとわりついていた。

 

バンは顔をしかめる。

 

「飯前に触るもんじゃねぇな」

 

ナジュが水の入った桶を足元へ置く。

 

「なら洗いな」

 

「あいよ」

 

バンは手を洗った。

 

水で流す。

灰をすり込む。

もう一度水で洗う。

 

それだけで完全に落ちたわけではない。

だが、指先の嫌な感覚は少し薄れた。

 

ナジュはそれを見て、目を細める。

 

「あんた、黒砂に触ったのかい」

 

「直接じゃねぇ。黒くなった魔物をちょっとな」

 

「普通は、それだけでも気分が悪くなる」

 

「気分は悪ぃよ」

 

「顔に出てない」

 

「飯の前だから我慢してんだ」

 

「理由がそれかい」

 

ナジュは呆れたように言ったが、少しだけ笑っていた。

 

酒場の奥では、長い卓が寄せられていた。

 

集落の者たちが集まり始めている。

 

砂漠の民。

商人。

護衛。

冒険者。

薬師。

鍛冶場の親方。

水場を管理する老人。

見張り台の若者。

 

誰もが黒砂の方角を一度は見てから、酒場へ入ってくる。

 

そこにいるだけで、今のハルファがただの休憩地ではないことが分かる。

 

境界集落。

 

人が住む場所と、踏み込んではいけない場所の境目。

 

バンは卓の端に座り、残していた煮込みを受け取った。

 

ナジュが椀を置く。

 

「約束の残りだ」

 

「いい女将だな」

 

「働いた分だよ」

 

「酒は?」

 

「会議が始まってからにしな」

 

「会議に酒が出るのか」

 

「黒砂酒なしで黒砂の話なんか聞けるかい」

 

「いい会議だな」

 

近くにいた冒険者の男が吹き出した。

 

腕に包帯を巻いた男だ。

 

「兄さん、あんた本当に変わってるな」

 

「よく言われる」

 

「俺はダリオ。こっちはミラ」

 

男は隣の女冒険者を指した。

 

槍を持った寡黙な女だった。

 

ミラは軽く顎を引いただけで、ほとんど喋らない。

 

バンは椀を持ったまま言う。

 

「バンだ」

 

「聞いたよ。さっきの戦い、助かった」

 

「飯の途中だったからな」

 

「飯の途中で出てきてくれるなら、十分ありがたい」

 

「戻ったら飯が残ってるって言われたしな」

 

ダリオは笑った。

 

ミラは無表情のまま、わずかに口元を緩めた。

 

やがて、酒場の中央にナジュが立った。

 

彼女は店主であると同時に、この集落のまとめ役の一人らしい。

 

声を張るわけではない。

だが、低く通る声だった。

 

「始めるよ」

 

酒場のざわめきが止まる。

 

ナジュは卓の上に、黒い砂を少量入れた皿を置いた。

 

その瞬間、空気がわずかに重くなる。

 

ただの砂ではない。

 

バンは目を細めた。

 

皿の上の黒砂は、乾いているのに湿って見えた。

光を反射せず、そこだけ夜の欠片のように沈んでいる。

 

「今朝、北東の見張りが拾ったものだ」

 

ナジュが言う。

 

「黒砂の縁が、昨日よりこちら側へ伸びている」

 

酒場の中に低いざわめきが広がった。

 

ジャミルが腕を組む。

 

「どれくらいだ」

 

見張り台の若者が答える。

 

「場所によりますが、半日分ほど。風で飛んできたというより、地面ごと染み出した感じです」

 

「半日分……」

 

サイモンが青い顔をする。

 

「それが本当なら、交易路にかかるぞ」

 

水場を管理する老人が頷いた。

 

「すでに古い井戸の一つが濁った。黒砂が混じったわけではない。だが、水の味が変わっておる」

 

ナジュが続ける。

 

「魔物の動きもおかしい。小型が外へ逃げているだけじゃない。黒く染まった個体が、集落の方へ来るようになった」

 

ダリオが包帯を巻いた腕を上げる。

 

「昨日、俺たちが見た群れも同じだ。あいつらは腹が減っていたわけじゃない。何かから逃げていた。だが、黒砂に染まったせいで、逃げながら目につくものを壊す」

 

ミラが短く言う。

 

「命令されているようにも見えた」

 

その一言で、空気がさらに重くなった。

 

ナジュはミラを見る。

 

「根拠は?」

 

「動きが揃いすぎていた。小型の砂蟲とサンドホーンが同じ方向へ流れていた。種が違うのに、逃げる向きが同じだった」

 

ジャミルが低く唸る。

 

「何かに押し出されている」

 

「あるいは、何かの呼吸に合わせて動いている」

 

ミラの言葉に、誰もすぐには反応しなかった。

 

バンは皿の黒砂を見ていた。

 

呼吸。

 

その言葉は、妙にしっくりきた。

 

黒い砂漠の奥で感じた、巨大な寝息のような気配。

 

地面そのものが、眠っている獣の背中のように動く感覚。

 

もし本当に、あの奥に何かが眠っているのなら。

 

その呼吸だけで、周囲の魔物が狂い、砂が染み、井戸の味が変わる。

 

そういう規模の存在。

 

バンは煮込みを食べる手を止めた。

 

「ベヒーモスってのは、そんなにでけぇのか」

 

酒場中の視線がバンへ向いた。

 

ナジュが目を細める。

 

「あんた、ベヒーモスの名を知らなかったのかい」

 

「ああ。ここで聞いた」

 

ダリオが驚いた顔をする。

 

「三大クエストを知らずにこの辺りを旅してるのか?」

 

「昨日までは、飯と酒があるかどうかの方が大事だったからな」

 

「普通は三大クエストの方が大事だ」

 

「飯食わねぇと、三大だろうが四大だろうが考えられねぇだろ」

 

何人かが苦笑した。

 

ナジュはため息をつきながらも、説明を始めた。

 

「ベヒーモスは、神代から語られる世界規模の怪物だ。三大クエストの一つ。国や都市が総出で挑むような相手で、普通の魔物とは違う」

 

「魔石は?」

 

バンが聞く。

 

ナジュは少し眉を上げた。

 

「さあね。そんなものを取り出して帰ってきた奴はいない」

 

「肉は?」

 

酒場が一瞬静まり返った。

 

ジャミルが額を押さえる。

 

「お前は本当に……」

 

ダリオが笑いをこらえる。

 

「ベヒーモスを食う気か?」

 

「食えるか聞いただけだ」

 

ナジュは少し考え、真面目に答えた。

 

「食うな。仮に肉が残ったとしても、まともな食材じゃないだろう。あれは獣じゃなく、災害に近い」

 

「災害ねぇ」

 

バンは黒砂酒の杯を受け取る。

 

ナジュがいつの間にか注いでいた。

 

バンはそれを一口飲んだ。

 

喉が焼ける。

 

苦い。

 

だが、今の話には合っていた。

 

「で、その災害が起きそうって話か」

 

ナジュは頷く。

 

「まだ分からない。だが、黒砂の広がり、魔物の逃走、井戸の変化、地鳴り。全部が重なっている。無視はできない」

 

水場の老人が言う。

 

「ハルファだけの問題なら、集落を捨てればいい。だが、黒砂が交易路まで伸びれば、リオードにも影響が出る。さらに広がれば、砂漠西部の国々にも届く」

 

サイモンが唇を噛む。

 

「商路が死ぬ。水場が汚れれば、砂漠船も通れない。物資が止まる」

 

ジャミルが静かに続ける。

 

「砂漠の民は移動できる。だが、黒砂が広がり続けるなら、逃げ場は減る」

 

酒場の中の空気が沈んでいく。

 

バンはその空気をあまり好まなかった。

 

飯がまずくなる。

 

黒砂酒まで苦すぎる。

 

「で、どうすんだ」

 

バンが言う。

 

ナジュが答える。

 

「調べるしかない」

 

「誰が?」

 

「明朝、調査隊を出す。黒砂の縁まで行き、広がり具合と魔物の流れを見る。奥へは入らない」

 

ダリオが苦い顔をする。

 

「奥へ入らなくても危ない」

 

「分かってる。だから人数を絞る」

 

ナジュは卓の上に簡単な地図を広げた。

 

布に描かれた地図だ。

 

ハルファ。

井戸。

古い見張り石。

黒砂の縁。

古い交易路。

崩れた祠。

さらに奥には、ほとんど何も描かれていない黒い空白。

 

バンはその黒い空白を見た。

 

地図に描けない場所。

 

人が戻らない場所。

 

そういう意味の空白だった。

 

ナジュは地図の一か所を指す。

 

「まずはここ。古い見張り石まで行く。そこから黒砂の縁を確認し、魔物の流れを見る。異常があれば戻る」

 

ダリオが言う。

 

「俺たちは行く。昨日やられた分の確認もしたい」

 

ミラも頷く。

 

ジャミルは少し考えた。

 

「俺も行こう。砂と風を読める者が要る」

 

サイモンが慌てる。

 

「ジャミル、船は?」

 

「お前たちはハルファで待て。船を動かすのは戻ってからだ」

 

ナジュはバンを見た。

 

「赤い旅人。あんたはどうする」

 

バンは煮込みを食べ終え、椀を置いた。

 

「飯は出るのか」

 

「朝飯なら出す」

 

「酒は?」

 

「戻ったら出す」

 

「なら行く」

 

あまりにも軽い返事だった。

 

酒場の何人かがぽかんとする。

 

ナジュは片眉を上げた。

 

「理由はそれだけかい」

 

「あと、あれだ」

 

バンは黒砂の皿を指す。

 

「こいつに触れた魔物、盗ると気持ち悪ぃ。何が混じってるか気になる」

 

ナジュの目が鋭くなる。

 

「盗る?」

 

「ああ。俺の魔力みてぇなもんだ。相手の力とか流れを盗る」

 

酒場にざわめきが広がる。

 

ダリオが目を丸くした。

 

「そんな魔法、聞いたことないぞ」

 

「神の恩恵は?」

 

ミラが聞く。

 

「ない」

 

「ファミリアは?」

 

「入ってねぇ」

 

「ステイタスは?」

 

「ねぇよ」

 

またざわめき。

 

バンは面倒そうに頭をかく。

 

「何回も聞かれるな、それ」

 

ナジュはじっとバンを見る。

 

「神の恩恵なしで、黒砂持ちのサンドホーンを逸らしたのかい」

 

「深く盗ると嫌な感じがしたから、向きだけな」

 

ジャミルが補足する。

 

「こいつは恩恵持ちではない。だが、砂漠船を一人で押した。サンドホーン四匹も船を守りながらしのいだ」

 

ダリオが乾いた笑いを漏らす。

 

「何だそれ。化け物か?」

 

「旅人だ」

 

バンは即答した。

 

ナジュは少しだけ考え、頷いた。

 

「分かった。来るなら助かる。ただし、黒砂の中へ勝手に踏み込むな」

 

「飯も酒もないんだろ」

 

「ない」

 

「なら行かねぇ」

 

「その判断基準、今は助かるね」

 

会議は続いた。

 

調査隊の人数。

水の量。

戻る合図。

魔物が出た場合の対処。

黒砂に染まった死骸の処理。

井戸の監視。

 

バンは途中から少し退屈になっていた。

 

だが、聞いていないわけではない。

 

飯を食べながらでも、酒を飲みながらでも、必要なことは拾う。

 

黒砂に触れた魔物は食べない。

素手で触らない。

傷を受けたらすぐ洗う。

水場を汚さない。

黒砂の奥から地鳴りがしたら退く。

無理に倒そうとしない。

 

どれも、砂漠で生きてきた者たちの知恵だった。

 

バンはそういうものを嫌いではない。

 

強い奴がただ殴って勝つより、生き残ってきた奴の知恵の方が役に立つことがある。

 

煉獄でもそうだった。

 

力だけでは足りない。

食えるものを見分け、水を探し、危ない匂いを避け、眠る場所を選ぶ。

 

生きるとは、そういう細かいことの積み重ねだ。

 

会議が終わる頃には、夜がかなり更けていた。

 

外では、黒砂に染まった死骸が焼かれている。

 

肉を焼く匂いではない。

 

焦げた泥と苦い薬草のような臭いが、風に乗って酒場へ届いた。

 

バンは鼻を鳴らす。

 

「まずそうな匂いだな」

 

ナジュが言う。

 

「食うものじゃないからね」

 

「黒砂に染まってなきゃ、サンドホーンは食えたんだがな」

 

「明日、普通のやつに出会ったら焼いてやるよ」

 

「いい女将だ」

 

「食材を持って帰れたらね」

 

ダリオが笑う。

 

「明日の調査、魔物を狩りに行くんじゃないんだぞ」

 

「分かってる」

 

バンは立ち上がる。

 

「でも食えるやつが出たら、持って帰るだろ」

 

ジャミルが肩をすくめる。

 

「否定できないのが困る」

 

その夜、バンは酒場の裏にある簡素な部屋を借りた。

 

寝台は硬い。

布はざらついている。

窓は小さく、砂除けの布がかけられている。

 

だが、屋根がある。

 

火も近い。

飯も酒もあった。

 

悪くない。

 

バンは寝台に腰を下ろし、クレシューズを膝の上に置いた。

 

指先の痺れはほとんど消えている。

 

だが、記憶には残っていた。

 

黒砂持ちの魔物に触れた時の感覚。

 

盗ってはいけないものが混じっている。

 

もし、あの奥にいるものが本当にベヒーモスなら。

 

三大クエストと呼ばれる世界災害級の怪物なら。

 

それを正面から全部盗ろうとすれば、どうなるか。

 

バンは想像して、少しだけ笑った。

 

「身体がもたねぇな」

 

不死身ではない。

 

今の自分は、傷を負えば血が出る。

毒も受ける。

力を奪いすぎれば、身体が軋む。

贈物を使えば、自分の生命力も削れる。

 

それでも、やれることはある。

 

全部を盗らなくていい。

 

流れの端を盗る。

向きをずらす。

足を止める。

隙を作る。

誰かが逃げる時間を作る。

 

それだけでも、戦いは変わる。

 

バンはクレシューズを軽く持ち上げる。

 

「相手が災害だろうが、盗れるもんはあるだろ」

 

そう呟いた時、遠くで地鳴りがした。

 

低く、長く。

 

酒場の壁がわずかに震える。

 

天井から砂粒が落ちた。

 

バンは立ち上がり、窓の布を少しだけ開ける。

 

外は暗い。

 

だが、黒い砂漠の方角だけ、さらに黒かった。

 

夜の中に、もう一つ夜が横たわっているようだった。

 

風が吹く。

 

重い風。

 

その奥から、巨大な何かの寝息のような気配が届く。

 

バンはしばらく、それを見ていた。

 

腹は満ちている。

酒も飲んだ。

身体は休めた方がいい。

 

だが、眠りにつく前に一つだけ分かったことがある。

 

この集落の飯と酒は、明日も食いたい。

 

ここにいる連中の顔も、悪くない。

 

なら、黒砂に飲まれて消えるのは少し気に入らない。

 

「飯がまずくなる前に、どかすか」

 

バンは窓の布を戻し、寝台に横になった。

 

外では、黒砂の風が低く鳴っていた。

 

明日の朝、調査隊は黒い砂漠の縁へ向かう。

 

ベヒーモスという名の災害が本当に眠っているのか。

 

それとも、別の何かが黒砂を動かしているのか。

 

まだ分からない。

 

ただ一つ、バンに分かることがあった。

 

面倒なことになりそうだ。

 

そして、面倒なことほど、たいてい飯と酒の味を左右する。




第9話でした。
修正版では、ハルファの会議を通して、黒砂の広がり、魔物の異常、井戸への影響、そしてベヒーモスの名を整理しました。

また、バンが黒砂に染まった魔物を深く《強奪(スナッチ)》しない理由と、三大クエスト級の相手には「全部を盗る」のではなく「流れの端を盗る」方針を描写しました。

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