強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第11話です。
第二部最大の戦闘回です。
ベヒーモスが本気で世界を壊しにきて、バンが身体を壊しながらも角を折り、黒獣を討ちます。


第11話 黒獣討伐

黒い砂漠が、怒っていた。

 

風が唸る。

砂が渦を巻く。

黒い岩が軋み、地面の亀裂から赤黒い光が漏れる。

 

それは、ベヒーモスの怒りだった。

 

陸の王者。

黒獣。

歩くだけで大地を腐らせる災厄。

 

その巨体が、今、初めて明確に一人の男へ怒りを向けていた。

 

バンは黒い砂の上に立っていた。

 

エンジ色のロングコートは裂け、黒砂と血で汚れている。脇腹からは血が流れ、右腕は肩から先が重い。肋骨は何本か折れている。呼吸のたびに胸の奥が痛んだ。

 

だが、立っている。

 

聖棍クレシューズを肩に担ぎ、口元の血を拭う。

 

「怒ったか」

 

ベヒーモスが咆哮した。

 

黒い砂漠全体が、その声に揺れた。

遠くの岩が砕け、砂丘が崩れ、空に舞った黒砂が昼の光をさらに奪う。

 

ディオスは遠くの岩陰で、膝をついていた。

 

「っ……耳が、割れる……!」

 

イリスも魔石灯を捨て、両手で耳を押さえる。

魔石灯はもう光っていなかった。黒い砂の上で、ただの石のように沈黙している。

 

「これ以上近づけません……!」

 

「近づく気もねぇよ!」

 

ディオスは叫び返した。

 

距離がある。

それでも、身体の内側が震える。神の恩恵の流れが乱れ、膝に力が入りにくい。

 

ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》は、さらに強まっていた。

 

周囲の魔力を喰らい、黒砂を巻き上げ、死んだ大地から最後の力まで吸い上げる。

黒い砂漠は、もはや地形ではない。ベヒーモスの胃袋だった。

 

その中心に、バンだけが立っている。

 

恩恵なし。

魔法なし。

魔石装備なし。

 

喰うものがない男。

それゆえ、喰われきらない男。

 

だが、喰われないからといって、潰されないわけではない。

 

ベヒーモスが前脚を踏み込んだ。

 

たった一歩で、地面が裂けた。

 

亀裂がバンへ向かって走る。亀裂の中から黒い砂と赤黒い毒気が噴き上がり、刃のように地表を割って迫る。

 

「今度は足元かよ」

 

バンは横へ跳ぶ。

 

避けた先に、黒い岩槍が生えた。

地面から突き出す無数の黒い突起。砂と岩と毒が混ざった、ベヒーモスの怒りそのもの。

 

バンはクレシューズを振るう。

 

一つを砕く。

二つ目を絡めて折る。

三つ目を蹴って飛び越える。

 

だが、数が多い。

 

黒い槍の一本が太腿を掠めた。肉が裂け、血が飛ぶ。そこへ黒砂が入り込もうとする。

 

「っ……しつけぇ」

 

バンは指で傷口を押さえ、血ごと黒砂を払う。

 

足は動く。

まだ走れる。

 

ベヒーモスが前へ出る。

 

巨体が近づくだけで、空気が潰れる。

影が落ちる。

世界が狭くなる。

 

バンは真正面へ走った。

 

逃げてもどうせ、あの一歩で距離を潰される。

なら近づく。

 

黒い砂を蹴る。

足が沈む。

肺が焼ける。

胸が痛む。

 

それでも前へ。

 

ベヒーモスの前脚が振り下ろされる。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

スナッチ。

 

狙うのは落下の勢い。

全部ではない。全部奪えば、身体が砕ける。

指先で川の流れを掬うように、ほんの一瞬、ほんの一部だけ。

 

重さが流れ込む。

 

「ぐっ……!」

 

腕の血管が浮き、肩が悲鳴を上げる。

喉から血が込み上げる。

 

だが、落下はわずかに鈍った。

 

バンはその隙を使い、前脚の下を潜る。

 

直後、背後で地面が爆ぜた。

 

衝撃が背中を殴る。

身体が前へ押し出される。

 

その勢いすら利用し、バンはベヒーモスの胸元へ飛び込んだ。

 

そこには、黒い外殻の隙間があった。

呼吸のたびにわずかに開く、肉と殻の境目。

 

「そこか」

 

クレシューズを突き込む。

 

しなる棍の先端が、外殻の隙間へ食い込んだ。

 

手応え。

浅くない。

 

ベヒーモスが吠えた。

 

巨体が跳ねる。

ただ身じろぎしただけで、バンの身体が宙へ放り出された。

 

だが、バンはクレシューズを離さない。

 

棍がしなり、節が軋む。

バンの肩が外れそうになる。

 

「っ、逃がすかよ……!」

 

身体を引き戻す。

そのままベヒーモスの胸元へ蹴りを入れ、再び同じ傷へクレシューズを叩き込む。

 

二撃目。

 

赤黒い液体が噴いた。

毒を含んだ血がバンの腕にかかり、皮膚を焼く。

 

「熱っ……つぅか臭ぇ!」

 

バンは顔をしかめた。

 

ベヒーモスの胸元から、黒砂が噴き出す。

傷を埋めるように、砂が肉の隙間を塞いでいく。

 

自己修復。

いや、違う。

 

黒い砂漠そのものを体内に流し込み、傷を黒砂で埋めている。

 

ベヒーモスは、大地を殺しているのではない。

殺した大地を、自分の一部にしている。

 

「ほんと、食い意地張ってんな」

 

バンは笑った。

 

「俺が言うのも何だけどよ」

 

ベヒーモスが頭を下げた。

 

二本の角が、黒い空を切る。

巨大な角が突き出され、バンへ迫る。

 

真正面から受ければ、串刺しでは済まない。

身体ごと粉砕される。

 

バンはクレシューズを伸ばし、角の一本へ絡めた。

 

「こいつが邪魔だな」

 

棍が角へ巻きつく。

 

次の瞬間、ベヒーモスが首を振った。

 

世界が横へ流れた。

 

バンの身体が空へ投げ出される。

クレシューズを握ったまま、振り回される。黒い砂漠がぐるりと回り、空と地面が入れ替わる。

 

腕が千切れそうだった。

 

「っ、重……すぎんだろ……!」

 

ディオスが遠眼鏡を握り締める。

 

「角に絡めた! 馬鹿かあいつ!」

 

「角を狙っています」

 

「分かってる! 分かってるけど、普通はやらねぇ!」

 

イリスは息を呑んでいた。

 

ベヒーモスの角。

それは黒獣の象徴であり、黒い砂漠を生む災厄の核の一部とも言われる部位。

傷つけるどころか、近づくことすら不可能なはずだった。

 

その角に、赤い旅人は絡みついている。

 

ベヒーモスがさらに首を振る。

 

バンの身体が岩へ叩きつけられた。

岩が砕け、血が散る。

 

それでも、手は離さない。

 

クレシューズがしなる。

節が悲鳴を上げる。

 

バンは岩壁を蹴り、角へ向かって自分の身体を引き寄せた。

 

「こっち、来い……!」

 

来るわけがない。

山のような巨獣が、人間一人に引かれるはずがない。

 

だから、逆だった。

 

バンが、角へ向かって飛んだ。

 

クレシューズを支点に、身体を黒い空へ投げる。

角の根元へ着地する。

そこは熱く、毒気が濃く、足裏から焼けるような痛みが走った。

 

バンは歯を食いしばる。

 

角の根元には、赤黒い筋が脈打っていた。

黒い砂が、そこから生まれているように見える。

大地を腐らせる毒の流れ。

魔石を鈍らせる魔力捕食の流れ。

水を濁らせ、酒を駄目にする力の通り道。

 

「ここか」

 

バンはクレシューズを振り上げた。

 

だが、ベヒーモスも黙ってはいない。

 

角の根元から黒い砂が噴き上がる。

毒の奔流が、バンを包む。

 

喉が焼ける。

目が痛む。

皮膚が裂ける。

傷口という傷口に、黒砂が入り込む。

 

バンの膝が落ちた。

 

「っ……」

 

身体が重い。

呼吸が浅い。

血が足りない。

腕が上がらない。

 

ベヒーモスの魔力捕食が、周囲のすべてを吸い上げる。

バンの中には喰える魔力がない。

だが、生命そのものへの圧はある。

命を削る重さはある。

 

不死身ではない。

痛みもある。

血も流れる。

限界もある。

 

それでも。

 

バンの頭に、ハルファの子どもの笑顔が浮かんだ。

 

あったかい。

 

小さな器を抱え、豆と干し肉の鍋を食べた子どもの声。

 

その横で飲む酒が、うまくなるかどうか。

 

答えは分かりきっている。

 

「……酒が、まずくなんだろうが」

 

バンは立ち上がった。

 

足元が揺れる。

角の上で、ベヒーモスの巨体が暴れる。

 

クレシューズを両手で握る。

 

狙うのは、角そのものではない。

角の根元。

力の流れ。

 

バンは左手を伸ばした。

 

「ちょいと、借りるぜ」

 

スナッチ。

 

今までより深く。

今までより危険に。

 

ベヒーモスの角に流れる力。

黒い砂漠を広げる勢い。

大地を腐らせる流れ。

魔力を喰らう吸引の端。

 

それを、ほんの一瞬だけ奪う。

 

瞬間、バンの身体が悲鳴を上げた。

 

目から血が滲む。

皮膚の下で血管が裂ける。

心臓を巨大な手で握られたような圧が走る。

 

「が、あ……!」

 

奪いすぎた。

だが、離さない。

 

ベヒーモスの角の根元で、赤黒い筋が一瞬だけ鈍る。

 

黒砂の噴出が止まる。

 

その一瞬。

 

バンはクレシューズを振り下ろした。

 

一撃。

 

角の根元に亀裂が入る。

 

ベヒーモスが咆哮する。

黒い砂漠が暴れる。

 

二撃目。

 

亀裂が広がる。

黒い破片が飛ぶ。

バンの腕がしびれる。

 

三撃目。

 

角が、鳴った。

 

折れる音ではない。

山の内部に亀裂が走るような、重い音。

 

バンは血を吐きながら笑った。

 

「硬ぇ……けど」

 

四撃目。

 

「折れろ」

 

クレシューズが叩き込まれた。

 

黒い角が、根元から砕けた。

 

轟音。

 

折れた角が空中へ跳ね、黒い砂を撒き散らしながら落ちていく。

それは塔が倒れるような光景だった。

 

ベヒーモスが絶叫した。

 

今までの咆哮とは違う。

怒りと痛みが混じった、初めての悲鳴だった。

 

黒い砂漠が大きく揺れる。

周囲の黒砂が一斉に吹き上がり、空へ逆流する。

 

ディオスが叫んだ。

 

「折った! 角を折りやがった!」

 

イリスは言葉を失っていた。

 

記録しなければならない。

だが、手が動かない。

 

神の恩恵を持たない男が。

黒獣ベヒーモスの角を。

一人で折った。

 

それをどう書けばいいのか、彼女には分からなかった。

 

バンは折れた角の根元から吹き飛ばされた。

 

空中で回転し、ベヒーモスの肩を転がり落ちる。

外殻に何度も叩きつけられ、最後に地面へ落ちた。

 

受け身は不完全。

全身が軋む。

 

それでも、バンは笑っていた。

 

「一本、もらったぜ」

 

ベヒーモスは狂ったように暴れた。

 

前脚が地面を叩く。

尾が砂丘を薙ぐ。

残った角が黒い空を裂く。

 

だが、動きが乱れている。

 

片角を失い、黒砂の流れが歪んでいる。

魔力捕食の渦も乱れ、黒い砂漠全体が軋んでいた。

 

バンはそれを見逃さなかった。

 

勝機があるとすれば、今しかない。

 

立つ。

 

膝が笑う。

視界が揺れる。

呼吸が浅い。

 

それでも立つ。

 

「終わらせるか」

 

ベヒーモスが突進した。

 

片角を失っても、その質量は変わらない。

黒い山が、怒りに任せてバンへ向かってくる。

地面がめくれ、砂丘が消え、岩が砕ける。

 

真正面から受ければ死ぬ。

避けても、衝撃で吹き飛ぶ。

逃げ場はない。

 

バンはクレシューズを構えた。

 

狙うのは、突進そのもの。

 

全部は奪えない。

全部奪えば、身体が粉々になる。

 

だが、方向なら。

勢いの端なら。

突進の流れを、ほんの一瞬だけずらせるなら。

 

ベヒーモスが迫る。

 

黒い壁。

赤黒い眼。

残った角。

地面を削る脚。

 

バンは息を吸った。

 

「悪いな」

 

左手を伸ばす。

 

「酒の邪魔なんだわ」

 

スナッチ。

 

世界が重くなった。

 

ベヒーモスの突進の力が、バンへ流れ込む。

山の重さ。

大地を砕く勢い。

黒い砂漠を広げる怒り。

 

ほんの一部。

それでも、人間一人が受け止めていいものではなかった。

 

骨が軋む。

筋肉が裂ける。

血が吹き出す。

視界が真っ赤に染まる。

 

バンの足が砂に沈む。

膝が砕けかける。

 

それでも、引く。

 

突進の流れを、斜め下へ。

 

ほんの少し。

 

ベヒーモスの巨体が傾いた。

 

失った角の側へ。

踏み込みを乱した後ろ脚の側へ。

先ほど傷を入れた関節の側へ。

 

山が、均衡を失う。

 

バンはクレシューズを地面へ突き立て、全身の力で跳んだ。

 

狙うは、折れた角の根元。

 

黒砂の流れが乱れ、赤黒い筋が露出している場所。

 

「これで」

 

クレシューズを振り上げる。

 

「勘定だ」

 

全力で叩き込んだ。

 

根元の亀裂が砕ける。

 

ベヒーモスの頭部が大きく揺れた。

突進の勢いが、バンのスナッチでずらされた流れに乗り、そのまま黒い岩場へ叩きつけられる。

 

黒獣の巨体が、地面へ沈んだ。

 

轟音。

 

黒い砂漠が爆発した。

 

地面が割れ、黒砂が空へ吹き上がり、赤黒い光が裂け目から溢れる。

ベヒーモスの身体が痙攣する。

折れた角の根元から、黒い砂が滝のように流れ出す。

 

バンは吹き飛ばされ、砂の上を転がった。

 

もう、すぐには立てなかった。

 

だが、ベヒーモスも動かない。

 

巨体が沈んでいる。

前脚が痙攣し、尾が砂を叩く。

残った角が地面にめり込み、赤黒い眼の光が揺れている。

 

ベヒーモスの胸元で、何かが重く鳴った。

 

魔石。

 

黒獣の奥深くにある核が、軋んでいた。

 

音は軽くない。

ぱきん、などという小さな音ではない。

 

地下深くの岩盤が砕けるような、重く、鈍い音だった。

 

ご、ん。

 

ご、ん。

 

ご、ぎん。

 

赤黒い光が、ベヒーモスの体内から漏れ出す。

 

魔石が砕ける。

 

その瞬間、黒い砂漠が悲鳴を上げた。

 

ベヒーモスの巨体から、黒い光が溢れた。

血ではない。魔力でもない。

終焉そのもののような毒の光。

 

それが地面へ流れ込み、周囲の砂をさらに黒く染める。

 

バンは砂の上で片目を開けた。

 

「最後まで……迷惑な奴だな」

 

身体を起こす。

 

腕が震える。

膝が動かない。

それでも、上体だけは起こした。

 

ベヒーモスの巨体が、崩れ始める。

 

外殻が割れ、黒い砂になって流れる。

骨のような突起が砕ける。

肉は毒に溶け、砂に沈む。

 

だが、完全に消えるわけではなかった。

 

折れた角。

外殻骨の一部。

巨大な爪。

牙。

 

災厄の名残が、黒い砂の中に残っていく。

 

バンはそれを見た。

 

「……肉は、やっぱ無理か」

 

心底残念そうに言った。

 

遠くで、ディオスが尻もちをついた。

 

「倒した……のか?」

 

イリスは答えられなかった。

 

黒い砂嵐が弱まっていく。

魔力捕食の圧が消えていく。

喉を締めつけていた重さが、少しずつ薄れる。

 

ベヒーモスは、動かない。

 

黒獣は討たれた。

 

神の恩恵を持たない、赤い旅人によって。

 

バンはクレシューズを杖代わりにして、ようやく立ち上がった。

 

視界は揺れている。

足元もおぼつかない。

血は流れ続けている。

 

それでも、立った。

 

黒い砂漠の風が、少しだけ変わった。

 

まだ毒は残っている。

大地は死んだまま。

水もすぐには戻らない。

酒の道も、明日開くわけではない。

 

だが、黒い風は止まった。

 

バンは折れた巨大な角を見上げた。

小国が買えるほどの価値があるとも知らず、外殻骨が伝説級の防具になるとも知らず、ただ邪魔そうに眺める。

 

「でけぇな。持って帰ったら邪魔だろ、これ」

 

そして、背を向けた。

 

目指すのはハルファ。

水と飯と、咳き込む子どものいる場所。

 

それから、いつか飲む砂葡萄酒。

 

バンはふらつきながら歩き出した。

 

「……酒、飲みてぇな」

 

黒い砂漠の中心で、陸の王者は沈黙した。

 

そして赤い旅人は、また腹を空かせて歩き出した。




第11話は、黒獣ベヒーモス討伐回でした。
バンは角を折り、突進の力を一瞬奪って流れをずらし、黒獣を地に沈めました。
ただし、終焉汚染と巨大な素材は残ります。
次回、第12話「赤い服の旅人」は第二部の締めです。ハルファへの帰還、砂漠の民との交流、ローランの砂葡萄酒、そしてゼウス・ヘラ側への報告を描きます。
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