第二部最大の戦闘回です。
ベヒーモスが本気で世界を壊しにきて、バンが身体を壊しながらも角を折り、黒獣を討ちます。
黒い砂漠が、怒っていた。
風が唸る。
砂が渦を巻く。
黒い岩が軋み、地面の亀裂から赤黒い光が漏れる。
それは、ベヒーモスの怒りだった。
陸の王者。
黒獣。
歩くだけで大地を腐らせる災厄。
その巨体が、今、初めて明確に一人の男へ怒りを向けていた。
バンは黒い砂の上に立っていた。
エンジ色のロングコートは裂け、黒砂と血で汚れている。脇腹からは血が流れ、右腕は肩から先が重い。肋骨は何本か折れている。呼吸のたびに胸の奥が痛んだ。
だが、立っている。
聖棍クレシューズを肩に担ぎ、口元の血を拭う。
「怒ったか」
ベヒーモスが咆哮した。
黒い砂漠全体が、その声に揺れた。
遠くの岩が砕け、砂丘が崩れ、空に舞った黒砂が昼の光をさらに奪う。
ディオスは遠くの岩陰で、膝をついていた。
「っ……耳が、割れる……!」
イリスも魔石灯を捨て、両手で耳を押さえる。
魔石灯はもう光っていなかった。黒い砂の上で、ただの石のように沈黙している。
「これ以上近づけません……!」
「近づく気もねぇよ!」
ディオスは叫び返した。
距離がある。
それでも、身体の内側が震える。神の恩恵の流れが乱れ、膝に力が入りにくい。
ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》は、さらに強まっていた。
周囲の魔力を喰らい、黒砂を巻き上げ、死んだ大地から最後の力まで吸い上げる。
黒い砂漠は、もはや地形ではない。ベヒーモスの胃袋だった。
その中心に、バンだけが立っている。
恩恵なし。
魔法なし。
魔石装備なし。
喰うものがない男。
それゆえ、喰われきらない男。
だが、喰われないからといって、潰されないわけではない。
ベヒーモスが前脚を踏み込んだ。
たった一歩で、地面が裂けた。
亀裂がバンへ向かって走る。亀裂の中から黒い砂と赤黒い毒気が噴き上がり、刃のように地表を割って迫る。
「今度は足元かよ」
バンは横へ跳ぶ。
避けた先に、黒い岩槍が生えた。
地面から突き出す無数の黒い突起。砂と岩と毒が混ざった、ベヒーモスの怒りそのもの。
バンはクレシューズを振るう。
一つを砕く。
二つ目を絡めて折る。
三つ目を蹴って飛び越える。
だが、数が多い。
黒い槍の一本が太腿を掠めた。肉が裂け、血が飛ぶ。そこへ黒砂が入り込もうとする。
「っ……しつけぇ」
バンは指で傷口を押さえ、血ごと黒砂を払う。
足は動く。
まだ走れる。
ベヒーモスが前へ出る。
巨体が近づくだけで、空気が潰れる。
影が落ちる。
世界が狭くなる。
バンは真正面へ走った。
逃げてもどうせ、あの一歩で距離を潰される。
なら近づく。
黒い砂を蹴る。
足が沈む。
肺が焼ける。
胸が痛む。
それでも前へ。
ベヒーモスの前脚が振り下ろされる。
「ちょいと借りるぜ」
スナッチ。
狙うのは落下の勢い。
全部ではない。全部奪えば、身体が砕ける。
指先で川の流れを掬うように、ほんの一瞬、ほんの一部だけ。
重さが流れ込む。
「ぐっ……!」
腕の血管が浮き、肩が悲鳴を上げる。
喉から血が込み上げる。
だが、落下はわずかに鈍った。
バンはその隙を使い、前脚の下を潜る。
直後、背後で地面が爆ぜた。
衝撃が背中を殴る。
身体が前へ押し出される。
その勢いすら利用し、バンはベヒーモスの胸元へ飛び込んだ。
そこには、黒い外殻の隙間があった。
呼吸のたびにわずかに開く、肉と殻の境目。
「そこか」
クレシューズを突き込む。
しなる棍の先端が、外殻の隙間へ食い込んだ。
手応え。
浅くない。
ベヒーモスが吠えた。
巨体が跳ねる。
ただ身じろぎしただけで、バンの身体が宙へ放り出された。
だが、バンはクレシューズを離さない。
棍がしなり、節が軋む。
バンの肩が外れそうになる。
「っ、逃がすかよ……!」
身体を引き戻す。
そのままベヒーモスの胸元へ蹴りを入れ、再び同じ傷へクレシューズを叩き込む。
二撃目。
赤黒い液体が噴いた。
毒を含んだ血がバンの腕にかかり、皮膚を焼く。
「熱っ……つぅか臭ぇ!」
バンは顔をしかめた。
ベヒーモスの胸元から、黒砂が噴き出す。
傷を埋めるように、砂が肉の隙間を塞いでいく。
自己修復。
いや、違う。
黒い砂漠そのものを体内に流し込み、傷を黒砂で埋めている。
ベヒーモスは、大地を殺しているのではない。
殺した大地を、自分の一部にしている。
「ほんと、食い意地張ってんな」
バンは笑った。
「俺が言うのも何だけどよ」
ベヒーモスが頭を下げた。
二本の角が、黒い空を切る。
巨大な角が突き出され、バンへ迫る。
真正面から受ければ、串刺しでは済まない。
身体ごと粉砕される。
バンはクレシューズを伸ばし、角の一本へ絡めた。
「こいつが邪魔だな」
棍が角へ巻きつく。
次の瞬間、ベヒーモスが首を振った。
世界が横へ流れた。
バンの身体が空へ投げ出される。
クレシューズを握ったまま、振り回される。黒い砂漠がぐるりと回り、空と地面が入れ替わる。
腕が千切れそうだった。
「っ、重……すぎんだろ……!」
ディオスが遠眼鏡を握り締める。
「角に絡めた! 馬鹿かあいつ!」
「角を狙っています」
「分かってる! 分かってるけど、普通はやらねぇ!」
イリスは息を呑んでいた。
ベヒーモスの角。
それは黒獣の象徴であり、黒い砂漠を生む災厄の核の一部とも言われる部位。
傷つけるどころか、近づくことすら不可能なはずだった。
その角に、赤い旅人は絡みついている。
ベヒーモスがさらに首を振る。
バンの身体が岩へ叩きつけられた。
岩が砕け、血が散る。
それでも、手は離さない。
クレシューズがしなる。
節が悲鳴を上げる。
バンは岩壁を蹴り、角へ向かって自分の身体を引き寄せた。
「こっち、来い……!」
来るわけがない。
山のような巨獣が、人間一人に引かれるはずがない。
だから、逆だった。
バンが、角へ向かって飛んだ。
クレシューズを支点に、身体を黒い空へ投げる。
角の根元へ着地する。
そこは熱く、毒気が濃く、足裏から焼けるような痛みが走った。
バンは歯を食いしばる。
角の根元には、赤黒い筋が脈打っていた。
黒い砂が、そこから生まれているように見える。
大地を腐らせる毒の流れ。
魔石を鈍らせる魔力捕食の流れ。
水を濁らせ、酒を駄目にする力の通り道。
「ここか」
バンはクレシューズを振り上げた。
だが、ベヒーモスも黙ってはいない。
角の根元から黒い砂が噴き上がる。
毒の奔流が、バンを包む。
喉が焼ける。
目が痛む。
皮膚が裂ける。
傷口という傷口に、黒砂が入り込む。
バンの膝が落ちた。
「っ……」
身体が重い。
呼吸が浅い。
血が足りない。
腕が上がらない。
ベヒーモスの魔力捕食が、周囲のすべてを吸い上げる。
バンの中には喰える魔力がない。
だが、生命そのものへの圧はある。
命を削る重さはある。
不死身ではない。
痛みもある。
血も流れる。
限界もある。
それでも。
バンの頭に、ハルファの子どもの笑顔が浮かんだ。
あったかい。
小さな器を抱え、豆と干し肉の鍋を食べた子どもの声。
その横で飲む酒が、うまくなるかどうか。
答えは分かりきっている。
「……酒が、まずくなんだろうが」
バンは立ち上がった。
足元が揺れる。
角の上で、ベヒーモスの巨体が暴れる。
クレシューズを両手で握る。
狙うのは、角そのものではない。
角の根元。
力の流れ。
バンは左手を伸ばした。
「ちょいと、借りるぜ」
スナッチ。
今までより深く。
今までより危険に。
ベヒーモスの角に流れる力。
黒い砂漠を広げる勢い。
大地を腐らせる流れ。
魔力を喰らう吸引の端。
それを、ほんの一瞬だけ奪う。
瞬間、バンの身体が悲鳴を上げた。
目から血が滲む。
皮膚の下で血管が裂ける。
心臓を巨大な手で握られたような圧が走る。
「が、あ……!」
奪いすぎた。
だが、離さない。
ベヒーモスの角の根元で、赤黒い筋が一瞬だけ鈍る。
黒砂の噴出が止まる。
その一瞬。
バンはクレシューズを振り下ろした。
一撃。
角の根元に亀裂が入る。
ベヒーモスが咆哮する。
黒い砂漠が暴れる。
二撃目。
亀裂が広がる。
黒い破片が飛ぶ。
バンの腕がしびれる。
三撃目。
角が、鳴った。
折れる音ではない。
山の内部に亀裂が走るような、重い音。
バンは血を吐きながら笑った。
「硬ぇ……けど」
四撃目。
「折れろ」
クレシューズが叩き込まれた。
黒い角が、根元から砕けた。
轟音。
折れた角が空中へ跳ね、黒い砂を撒き散らしながら落ちていく。
それは塔が倒れるような光景だった。
ベヒーモスが絶叫した。
今までの咆哮とは違う。
怒りと痛みが混じった、初めての悲鳴だった。
黒い砂漠が大きく揺れる。
周囲の黒砂が一斉に吹き上がり、空へ逆流する。
ディオスが叫んだ。
「折った! 角を折りやがった!」
イリスは言葉を失っていた。
記録しなければならない。
だが、手が動かない。
神の恩恵を持たない男が。
黒獣ベヒーモスの角を。
一人で折った。
それをどう書けばいいのか、彼女には分からなかった。
バンは折れた角の根元から吹き飛ばされた。
空中で回転し、ベヒーモスの肩を転がり落ちる。
外殻に何度も叩きつけられ、最後に地面へ落ちた。
受け身は不完全。
全身が軋む。
それでも、バンは笑っていた。
「一本、もらったぜ」
ベヒーモスは狂ったように暴れた。
前脚が地面を叩く。
尾が砂丘を薙ぐ。
残った角が黒い空を裂く。
だが、動きが乱れている。
片角を失い、黒砂の流れが歪んでいる。
魔力捕食の渦も乱れ、黒い砂漠全体が軋んでいた。
バンはそれを見逃さなかった。
勝機があるとすれば、今しかない。
立つ。
膝が笑う。
視界が揺れる。
呼吸が浅い。
それでも立つ。
「終わらせるか」
ベヒーモスが突進した。
片角を失っても、その質量は変わらない。
黒い山が、怒りに任せてバンへ向かってくる。
地面がめくれ、砂丘が消え、岩が砕ける。
真正面から受ければ死ぬ。
避けても、衝撃で吹き飛ぶ。
逃げ場はない。
バンはクレシューズを構えた。
狙うのは、突進そのもの。
全部は奪えない。
全部奪えば、身体が粉々になる。
だが、方向なら。
勢いの端なら。
突進の流れを、ほんの一瞬だけずらせるなら。
ベヒーモスが迫る。
黒い壁。
赤黒い眼。
残った角。
地面を削る脚。
バンは息を吸った。
「悪いな」
左手を伸ばす。
「酒の邪魔なんだわ」
スナッチ。
世界が重くなった。
ベヒーモスの突進の力が、バンへ流れ込む。
山の重さ。
大地を砕く勢い。
黒い砂漠を広げる怒り。
ほんの一部。
それでも、人間一人が受け止めていいものではなかった。
骨が軋む。
筋肉が裂ける。
血が吹き出す。
視界が真っ赤に染まる。
バンの足が砂に沈む。
膝が砕けかける。
それでも、引く。
突進の流れを、斜め下へ。
ほんの少し。
ベヒーモスの巨体が傾いた。
失った角の側へ。
踏み込みを乱した後ろ脚の側へ。
先ほど傷を入れた関節の側へ。
山が、均衡を失う。
バンはクレシューズを地面へ突き立て、全身の力で跳んだ。
狙うは、折れた角の根元。
黒砂の流れが乱れ、赤黒い筋が露出している場所。
「これで」
クレシューズを振り上げる。
「勘定だ」
全力で叩き込んだ。
根元の亀裂が砕ける。
ベヒーモスの頭部が大きく揺れた。
突進の勢いが、バンのスナッチでずらされた流れに乗り、そのまま黒い岩場へ叩きつけられる。
黒獣の巨体が、地面へ沈んだ。
轟音。
黒い砂漠が爆発した。
地面が割れ、黒砂が空へ吹き上がり、赤黒い光が裂け目から溢れる。
ベヒーモスの身体が痙攣する。
折れた角の根元から、黒い砂が滝のように流れ出す。
バンは吹き飛ばされ、砂の上を転がった。
もう、すぐには立てなかった。
だが、ベヒーモスも動かない。
巨体が沈んでいる。
前脚が痙攣し、尾が砂を叩く。
残った角が地面にめり込み、赤黒い眼の光が揺れている。
ベヒーモスの胸元で、何かが重く鳴った。
魔石。
黒獣の奥深くにある核が、軋んでいた。
音は軽くない。
ぱきん、などという小さな音ではない。
地下深くの岩盤が砕けるような、重く、鈍い音だった。
ご、ん。
ご、ん。
ご、ぎん。
赤黒い光が、ベヒーモスの体内から漏れ出す。
魔石が砕ける。
その瞬間、黒い砂漠が悲鳴を上げた。
ベヒーモスの巨体から、黒い光が溢れた。
血ではない。魔力でもない。
終焉そのもののような毒の光。
それが地面へ流れ込み、周囲の砂をさらに黒く染める。
バンは砂の上で片目を開けた。
「最後まで……迷惑な奴だな」
身体を起こす。
腕が震える。
膝が動かない。
それでも、上体だけは起こした。
ベヒーモスの巨体が、崩れ始める。
外殻が割れ、黒い砂になって流れる。
骨のような突起が砕ける。
肉は毒に溶け、砂に沈む。
だが、完全に消えるわけではなかった。
折れた角。
外殻骨の一部。
巨大な爪。
牙。
災厄の名残が、黒い砂の中に残っていく。
バンはそれを見た。
「……肉は、やっぱ無理か」
心底残念そうに言った。
遠くで、ディオスが尻もちをついた。
「倒した……のか?」
イリスは答えられなかった。
黒い砂嵐が弱まっていく。
魔力捕食の圧が消えていく。
喉を締めつけていた重さが、少しずつ薄れる。
ベヒーモスは、動かない。
黒獣は討たれた。
神の恩恵を持たない、赤い旅人によって。
バンはクレシューズを杖代わりにして、ようやく立ち上がった。
視界は揺れている。
足元もおぼつかない。
血は流れ続けている。
それでも、立った。
黒い砂漠の風が、少しだけ変わった。
まだ毒は残っている。
大地は死んだまま。
水もすぐには戻らない。
酒の道も、明日開くわけではない。
だが、黒い風は止まった。
バンは折れた巨大な角を見上げた。
小国が買えるほどの価値があるとも知らず、外殻骨が伝説級の防具になるとも知らず、ただ邪魔そうに眺める。
「でけぇな。持って帰ったら邪魔だろ、これ」
そして、背を向けた。
目指すのはハルファ。
水と飯と、咳き込む子どものいる場所。
それから、いつか飲む砂葡萄酒。
バンはふらつきながら歩き出した。
「……酒、飲みてぇな」
黒い砂漠の中心で、陸の王者は沈黙した。
そして赤い旅人は、また腹を空かせて歩き出した。
第11話は、黒獣ベヒーモス討伐回でした。
バンは角を折り、突進の力を一瞬奪って流れをずらし、黒獣を地に沈めました。
ただし、終焉汚染と巨大な素材は残ります。
次回、第12話「赤い服の旅人」は第二部の締めです。ハルファへの帰還、砂漠の民との交流、ローランの砂葡萄酒、そしてゼウス・ヘラ側への報告を描きます。