第104話 両隣の客
バベルを抜け出したバンが最初に向かったのは、廃教会ではなかった。
酒場だった。
昼を過ぎた店内には、仕事を終えた冒険者や商人たちの声が響いている。その一角で、バンは大皿に盛られた肉料理を片端から平らげていた。
卓上には、空になった皿と酒瓶が並んでいる。
「やっぱ地上の酒はうめぇな」
迷宮へ持ち込んだ酒も悪くはなかった。
だが、残量を気にしながら飲む酒と、金を払えば次が出てくる酒では違う。
バンは杯を空にすると、近くを通った店員へ手を上げた。
「酒と肉、追加だぞ」
「まだ食べるのかい?」
「ああ。何日も潜ってたからな」
呆れた店員が空の皿を下げていく。
その時、左右から二つの声が聞こえた。
「隣、いいか?」
「ここへ座るぞ」
バンは運ばれてきたばかりの酒瓶へ手を伸ばしながら答える。
「ああ、いいぞ」
右側の椅子が引かれる。
続いて左側の椅子も動いた。
バンは隣へ来た二人を見なかった。
酒瓶の栓を抜き、杯へ注ぐ。続いて焼き上がった肉を切り分け、口へ運んだ。
右隣の男が尋ねる。
「随分と飲んでいるな」
「ああ」
「何かあったのか?」
「ダンジョンに潜ってたからな。帰ってきた祝いだぞ」
左隣から、冷たい声が飛んだ。
「どこまでだ」
「第五十階層だな」
答えた直後。
酒場の喧騒が、妙に遠くなった気がした。
だが、バンは気にせず次の肉へ手を伸ばす。
「本当は持ち帰った魔石と素材を売って、その金でもっと飲むつもりだったんだけどな」
「売らなかったのか?」
「帰ってすぐ、面倒な奴らに捕まりそうになったんだぞ。事情があって、荷物を受け取る前に逃げてきた」
「事情?」
「個室まで来いって言われた」
「それで逃げたのか」
「ああ」
左側から、低い声が落ちる。
「誰にも言わず、単独で第五十階層まで潜り、戻った後はギルド職員から逃げたのか」
「よく知ってんな」
そこでようやく、バンは肉を切る手を止めた。
右隣を見る。
大柄な男が、腕を組んで座っている。
「よう」
ザルドが笑った。
バンの頬が僅かに引きつる。
ゆっくりと左を見る。
長い灰色の髪。
閉じられた瞼。
黒い衣装を纏った女が、音もなく座っていた。
「……いつからいた?」
「隣へ座った時からだ」
「許可したのはお前だ」
アルフィアが答える。
バンは手にしていた肉を口へ入れた。
十分に噛む。
酒で流し込む。
それから静かに立ち上がろうとした。
「どこへ行く」
「酒が足りねぇから、別の店に行くぞ」
「ここにまだある」
「急に飲みたくなくなったな」
椅子から腰を浮かせた瞬間。
アルフィアの瞼が開いた。
灰色と翠色。
二つの瞳が、真横からバンを射抜く。
「座れ」
「嫌だぞ」
バンは卓上に残っていた肉を一つ掴むと、そのまま後方へ跳んだ。
「福音(ゴスペル)」
美しい鐘の音が鳴り響いた。
「げっ!」
バンは空中で身体を捻る。
目に見える光も、飛来する弾丸もない。
それでも、全身を刺す危険へ従い、床を蹴って横へ飛び込んだ。
直後。
先ほどまでバンが立っていた場所を、不可視の轟音が貫いた。
卓が砕ける。
椅子が弾け飛ぶ。
音の塊はそのまま酒場の壁へ衝突し、大穴を開けて通りへ抜けた。
威力は明らかに抑えられている。
それでも、酒場で放ってよい魔法ではなかった。
「本気で撃ってんじゃねぇぞ!」
「本気なら、店ごと消えている」
「そういう問題じゃねぇだろ!」
客たちの悲鳴が上がる。
バンは肉を咥えたまま、開いた壁の穴から通りへ飛び出した。
アルフィアも立ち上がる。
追おうとしたザルドの耳へ、再び鐘の余韻が届いた。
彼は一歩だけ進み、止まる。
「……追えば巻き込まれるな」
ザルドは椅子へ座り直した。
砕けた卓の端には、バンがまだ開けていない酒瓶が一本残っている。
それを拾い、栓を抜いた。
「勝手にいなくなった迷惑料として、これはもらっておくか」
「待ちな!」
店主が、崩れた壁を見て叫ぶ。
「この修理代、誰に請求すればいいんだい!?」
「ヘラ・ファミリアだ」
「またかい!」
◇
バンは人通りの多い大通りを全速力で走っていた。
背後を振り返る。
アルフィアの姿はまだ見えない。
「何で帰ってきて早々、こんな目に遭うんだよ!」
通行人の間を縫い、荷車を飛び越える。
角を曲がり、細い路地へ入る。
そのまま建物の裏手へ回り込み、積まれていた空樽の陰へ身を伏せた。
息を殺す。
足音は聞こえない。
鐘の音も鳴らない。
「……撒いたか?」
「誰をだ」
「うおっ!」
頭上から声が落ちた。
バンが見上げる。
屋根の縁に、アルフィアが立っていた。
彼女はバンが走った跡を見るように、路地へ視線を落としている。
「どうやって見つけた?」
「お前が蹴った木箱が倒れている。飛び越えた屋根の瓦もずれていた」
「細けぇな!」
バンは樽を蹴り飛ばし、反対側の路地へ走る。
背後から、鐘の音が鳴った。
視線を向ける余裕もなく、バンは横の窓枠を掴み、身体を引き上げる。
不可視の砲撃が路地を通過した。
石畳が沈み、積まれた樽がまとめて粉砕される。
「危ねぇだろ!」
窓の庇から屋根へ跳ぶ。
砲撃は過ぎた。
今なら、破壊された路地を横切って逆側へ抜けられる。
そう判断して下へ飛び降りた瞬間。
「炸響(ルギオ)」
「――げっ」
その場に残っていた音の魔力が起爆した。
先ほどと同等の不可視の衝撃が、同じ路地でもう一度発生する。
バンは地面へ着く直前に壁を蹴り、無理やり進路を変えた。
背中を余波が掠める。
赤い長衣が激しくはためき、身体が隣の建物の屋根まで吹き飛ばされた。
バンは屋根を転がり、縁へ手をかけて止まる。
「二回目があんのかよ!」
「次は外さない」
「その台詞、さっきも聞いたぞ!」
バンは屋根から屋根へ飛び移った。
鐘の音が聞こえるたびに進路を変え、看板の陰へ潜り、露店の天幕を滑り抜ける。
人混みへ紛れても、立ち止まらない。
赤い長衣は目立ちすぎる。
途中で長衣を脱ごうとも考えたが、置いていけば拾いに戻らなければならない。
何より、アルフィアは服がなくても見つける気がした。
「くそっ、しつけぇな!」
背後を振り返る。
アルフィアは走っていなかった。
だが、バンが角を曲がるたび、次の道に現れる。
人の流れ。
屋根の高さ。
逃げ込めそうな路地。
バンが選ぶ道を読んで、先へ回っている。
再び鐘の音が響いた。
「またかよ!」
バンは通り沿いの石柱へ飛びつき、身体を回転させる。
不可視の砲撃が頭上を通過し、背後の看板を粉々にした。
店主が悲鳴を上げる。
「請求はヘラ・ファミリアにしろ!」
走りながら叫ぶと、遠くからアルフィアの声が返ってきた。
「勝手に決めるな」
「撃ったのお前だろ!」
言い返した直後、短い咳が聞こえた。
バンは一瞬だけ足を緩める。
だが、次の角へアルフィアが姿を現すと、すぐに走り出した。
長引かせるわけにはいかない。
アルフィアの身体にも限界がある。
だからといって、止まれば自分が何をされるか分からない。
「どっか、あいつが撃てねぇ場所は……」
走りながら考える。
ザルドのところへ戻る。
駄目だ。
さきほど助けなかった男が、今さら止めてくれるとは思えない。
ゼウスのところへ逃げる。
アルフィアはゼウス相手でも撃つ。
ヘラなら止めるかもしれないが、その前にバンまで怒られそうだった。
その時。
廃教会で見た光景が、脳裏に浮かんだ。
メーテリアが咳をした瞬間。
窓から逃げたアルを追おうとしていたアルフィアが、即座に足を止めた。
殺意も魔法も忘れ、妹のもとへ戻っていた。
「あいつの妹の前じゃ、さすがに撃てねぇよな」
安全だという確証はない。
だが、ほかに思いつく手もなかった。
バンは進路を変えた。
◇
ヘラ・ファミリア本拠。
正面入口の扉が、勢いよく開いた。
中にいた女性団員たちが、一斉に振り返る。
赤い長衣の男が広間へ飛び込み、左右に延びる廊下を見比べた。
「メーテリアの部屋はどこだ!」
「な、何者ですか!?」
「説明は後だぞ!」
バンは近くの廊下へ走り込む。
だが、すぐに足を止めた。
内部へ入ったのは初めてだ。
同じような扉と柱が並び、どちらへ進めばいいのか分からない。
「くそっ、どっちだ!」
「うわっ!?」
すぐ横の柱の陰から、人影が飛び出した。
バンとぶつかりかけた男が、慌てて後ろへ下がる。
紅玉のような赤い瞳が、バンを見上げた。
「何だ、あんた!」
「お前、アルか!」
「しっ! 声がでかいって! 団員たちに見つかるだろ!」
アルは口元へ指を当てる。
だが、すぐにバンの顔を見直した。
「あんた、教会にいた……バンか!」
「ああ。それより、メーテリアの部屋はどこだ!」
「いきなり何を――」
遠くから、美しい鐘の音が響いた。
アルの顔から、一瞬で血の気が引く。
「……今の音、まさか」
「アルフィアだ! さっさと案内しろ!」
「何したんだよ、あんた!」
「ちょっとダンジョンに潜っただけだぞ!」
「ちょっと潜っただけで、本拠まで追ってくるわけないだろ!」
「第五十階層まで行ったくらいだ!」
「それのどこがちょっとなんだよ!」
玄関側から、何かが砕ける音が響いた。
バンはアルの肩を掴む。
「詳しい話は後だ! メーテリアの前なら、あいつも撃てねぇ!」
「それ、メーテリアちゃんを盾にするってことか!?」
「違ぇよ。近くにいさせてもらうだけだぞ」
「ほとんど同じだろ!」
「早くしねぇと、お前も見つかるぞ」
アルは背後の廊下を見る。
前方からは、複数の女性団員の話し声が近づいている。
後方からは、アルフィアの気配が迫っていた。
「……こっちだ!」
アルが走り出す。
バンもその後を追った。
「次の角を右! その先の階段は使わない!」
「何でだ?」
「団員たちの詰め所がある!」
「お前、詳しいな」
「何度も来てるからな!」
「正面から来りゃいいだろ」
「できたら苦労してないよ!」
二人は角を曲がる。
向こうから女性団員が現れると、アルが反対側の小部屋へバンを押し込んだ。
通り過ぎるのを待ち、別の扉から廊下へ戻る。
バンは後方を警戒し。
アルは前方の団員たちを警戒する。
「何でオレまで隠れんだ?」
「あんたも勝手に本拠へ入ってきたんだろ!」
「入口から入ったぞ」
「堂々と侵入しただけじゃないか!」
階段を上り、長い廊下へ出る。
その瞬間。
後方から、静かな声が届いた。
「……生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
アルの肩が大きく跳ねた。
振り返った先に、アルフィアが立っている。
「ち、違います! 今回は俺が連れてきたんじゃありません! この人が勝手に本拠へ入ってきたんです!」
「前にも思ったが、知り合いにしては長ぇ呼び方だな」
「今そこを気にしてる場合じゃないだろ!」
「二人とも、止まれ」
「止まったら何されるか分からねぇだろ!」
「俺まで一緒にしないでくれ!」
バンとアルは同時に走り出した。
アルフィアも無言で追う。
ここまで来ると、彼女は《福音》を唱えなかった。
メーテリアの部屋が近いからなのか、本拠の団員を巻き込まないためなのか。
理由は分からない。
だが、背後から迫る足音は、先ほどの鐘よりも恐ろしかった。
「次を左!」
「本当に合ってんだろうな!」
「何度も来てるって言っただろ!」
「何度も忍び込んでんのか?」
「今は聞くな!」
二人は最後の角を曲がった。
廊下の先に、一つの扉がある。
アルが駆け寄り、取っ手を掴んだ。
「ここだ!」
「開けろ!」
「分かってる!」
扉を開き、二人そろって部屋へ飛び込む。
静かな室内。
窓辺の椅子に座り、本を読んでいた女性が顔を上げた。
雪のような髪。
蒼い瞳。
メーテリアは、息を切らした二人を交互に見る。
「まあ。お二人とも、どうしたのですか?」
その直後。
開いたままの扉の前に、アルフィアが現れた。
バンは素早くメーテリアの隣へ移動する。
アルも反対側へ回り込んだ。
アルフィアの瞼が、僅かに震える。
「……そこを退け」
「嫌だぞ」
バンは即答した。
第13部の第104話でした。
ギルドから逃げたバンを待っていたのは、数日間帰りを待たされていたザルドとアルフィアでした。《福音》の不可視の砲撃と、《炸響》による二段目から逃げ続けた末、バンはアルとともにメーテリアの部屋へ辿り着きます。