メーテリアの部屋へ飛び込んだバンは、窓辺に置かれた椅子の隣へ素早く移動した。
反対側にはアルが回り込み、二人そろって入口へ視線を向ける。そこには、長い灰色の髪を揺らしたアルフィアが立っていた。
追跡の間に乱れた呼吸を整えながら、アルフィアは室内を見渡す。メーテリアに怪我はない。驚いてはいるが、苦しそうな様子もない。それを確かめた後、左右に陣取った二人へ冷たい視線を向けた。
「……そこを退け」
「嫌だぞ」
バンは即答した。
「ここなら撃てねぇだろ」
「姉さん、この部屋で魔法は禁止です」
メーテリアが穏やかに告げる。
「使わない。だから退け」
「使わねぇなら、別にここにいてもいいだろ」
「よくない」
アルフィアが一歩進むと、バンも椅子に合わせて半歩ずれた。メーテリアを盾にするつもりはない。ただ、彼女の近くなら少なくとも《福音》は飛んでこない。その考えを隠そうともしていなかった。
メーテリアは左右を見比べた後、最初にアルへ顔を向けた。
「アル」
「はい」
「どうして、また本拠へ忍び込んでいるのですか?」
アルの肩が僅かに下がる。
「メーテリアちゃんに会いたかったからです」
「正面から来てくださればよかったのでは?」
「それができたら苦労しないって。入口から入ったら、団員たちに止められるし、運が悪ければアルフィアさんに見つかるし……」
「運が悪くなくても見つける」
「ほら、こうなるじゃん!」
アルが入口を指すと、アルフィアの瞼が僅かに動いた。
「それで、柱の陰に隠れていたのですね」
「メーテリアちゃんの部屋まで来るなら、団員たちの巡回を避けないといけないからね。今日はうまくいくと思ってたんだけど……」
アルは横にいるバンを見る。
「この人が大声で飛び込んできたせいで、全部台無しになった」
「案内役がいて助かったぞ」
「俺は助かってないよ!」
メーテリアは困ったように微笑み、今度はバンへ向き直った。
「バンさんは、どうして姉さんに追われているのですか?」
「ダンジョンに潜ってたからだぞ」
「それだけで、姉さんが街中で魔法を使うとは思えません」
「誰にも言わずに行ったからだな」
入口から冷たい気配が強まった。
「どこまで行かれたのですか?」
「第五十階層だぞ」
「第五十!?」
アルが声を上げた。直後、廊下に響いた自分の声に気づき、慌てて口元を押さえる。
「誰と潜ったんだよ。マキシムさんたちの遠征隊と一緒だったのか?」
「第五十階層で会ったぞ。帰りは一緒だったな」
「そこまでは?」
「一人だぞ」
アルの紅玉の瞳が大きく見開かれた。
「一人で!? 恩恵もないのに、第五十階層まで一人で行ったのか!?」
「ああ」
「俺が逃げ足の話をしてる場合じゃないだろ! 何でそんなことになってるんだよ!」
バンは騒ぐアルを不思議そうに見る。
「最初から、そこまで行くつもりじゃなかったぞ」
「では、どこまで行く予定だったのですか?」
「直した武器の調子を確かめて、少し潜ったら戻るつもりだったな」
メーテリアの表情はまだ穏やかだった。しかし、蒼い瞳から先ほどまでの柔らかさが少しずつ消えていく。
「それが、なぜ第五十階層まで?」
「知らねぇ階層が続くから、次を見たら戻るって進んでたんだ。食料も酒も残ってたしな。気づいた頃には、かなり下まで来てたぞ」
「第五十階層を『かなり下』で済ませるなよ!」
「いつの間にか、で済ませてよいことではありません」
メーテリアの声は変わらず静かだった。
それでもバンは、アルフィアに追われていた時とは別の危険を感じた。怒鳴られてはいない。睨まれてもいない。ただ、穏やかな笑顔が消えている。
「無事に戻ってきたんだから、いいだろ」
「よくありません」
「怪我もしてねぇぞ」
「結果だけのお話ではありません」
即座に返され、バンは僅かに視線を逸らした。
アルフィアは妹の言葉を遮らず、入口に立ったままバンを見ている。その沈黙の方が、街中で響いた鐘よりも重かった。
◇
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。
しばらくして扉の前へ現れたのは、空になった酒瓶を片手に持つザルドだった。背後には、突然本拠へ侵入した男と、その男を追ってきたアルフィアの騒動を聞きつけた女性団員たちがいる。
ザルドは部屋の中を見渡し、メーテリアの左右へ座るバンとアルを見つけた。
「ずいぶんと妙な集まりだな」
「遅い」
アルフィアが言う。
「お前が壊した酒場と通りを迂回してきた」
「壊したのはアルフィアだぞ」
「原因はお前だ」
「オレは逃げただけだろ」
「黙ってダンジョンへ入り、帰還後にギルドから逃げ、そのまま酒場で飲んでいた男が言うことではない」
ザルドは空の酒瓶を近くの卓へ置いた。
「その酒、オレのだろ」
「追跡へ出る前に置いていったものだ。迷惑料としてもらった」
「一本全部飲んだのかよ」
「悪くなかった」
バンが不満そうに酒瓶を見る一方、ザルドは腕を組んだ。
「なぜ、俺たちに何も言わなかった」
「言ったら止めただろ」
「当然だ」
「当然だ」
ザルドとアルフィアの声が重なった。
「だから言わなかったぞ」
「胸を張って言うことではありません」
メーテリアに窘められ、バンは背もたれへ身体を預ける。
「クレシューズを試すだけなら、浅い階層で十分だったはずだ」
「最初はそのつもりだったぞ」
「途中で戻れ」
「次の階層が気になったからな」
「それを繰り返して第五十階層まで行くな」
ザルドは深く息を吐いた。
「お前が持ち帰った魔石と素材は、遠征隊の荷車に残っている。パァルたちが管理しているはずだ」
「じゃあ、売ればもっと酒が飲めるな」
「その前に、ギルドへ行け」
「嫌だぞ」
「換金だけの話ではない」
ザルドの声が低くなる。
「無断でダンジョンへ入り、入口の監視を抜け、冒険者登録もないまま第五十階層まで進んだ。帰還後の事情確認からも逃げた。このまま呼び出しを無視すれば、近いうちに指名手配される」
「指名手配?」
「最悪の場合、闇派閥の関係者だと疑われてもおかしくない」
「闇派閥って何だ?」
バンが尋ねると、アルも少し表情を硬くした。
「詳しい話は、また今度だ」
「今教えろよ」
「簡単に言えば、神も人も騒乱へ巻き込み、殺しや破壊を繰り返すイカれた集団だ」
「オレと一緒にすんなよ」
「それを判断してもらうために、ギルドへ行けと言っている」
ザルドの言葉を聞き、メーテリアが静かに頷いた。
「では、明日はきちんとギルドへ行きましょう」
「嫌だぞ」
「行きましょうね」
「嫌だって言ってんだろ」
「行きましょうね」
メーテリアは声を荒らげなかった。だが、バンが何を言っても、笑顔のまま同じ答えを返す気でいるらしい。
しばらく視線を合わせた後、バンは隣にいるアルへ顔を向けた。
「お前からも何か言えよ。さっき、オレがアルフィアを引きつけてなかったら、団員たちに見つかってただろ」
「誰のせいで本拠の中を追い回されたと思ってるんだよ!」
「メーテリアの部屋まで来られたんだから、結果は同じだぞ」
「案内したのは俺だ! あんたは突然現れて、俺を巻き込んだだけだろ!」
「困ってたから助けてやったじゃねぇか」
「俺が助けたんだよ!」
アルは声を抑えながら言い返した後、メーテリアとザルド、そして入口にいるアルフィアを順番に見た。
「それに今回は、どう考えてもメーテリアちゃんの言う通りだ。無断で入って、一人で第五十階層まで行って、戻ったらギルドから逃げたんだろ?」
「ああ」
「何でそんなに堂々としてるんだよ!」
「悪いことした覚えがねぇからな」
「今、ザルドさんが全部説明しただろ! 俺まで闇派閥の仲間だと思われたくないんだよ!」
「裏切ったな」
「最初から味方になった覚えはない!」
メーテリアが小さく息を吐き、話をまとめるように口を開いた。
「バンさん。明日は、ギルドの方へきちんと事情を説明してください」
「一人で行くのか?」
「パァルを同行させる」
ザルドが答える。
「俺は今回の遠征へ参加していない。第五十階層で合流してから地上へ戻るまでを直接見ていたパァルなら、証言もできる。戦利品の所在も把握している」
「監視役でもあるな」
「自覚があるなら話が早い」
バンは露骨に嫌そうな顔をした。
「行かなかったらどうなる?」
メーテリアは入口に立つ姉へ目を向ける。
「姉さんに、迎えに行っていただきます」
アルフィアの灰色と翠色の瞳が、バンだけを見ていた。
「逃げれば、今度は捕まえる」
バンはしばらく黙った後、椅子へ深く座り直した。
「……行くぞ」
「最初からそう言え」
「アルフィアが迎えに来なきゃ行く」
「パァルから逃げるなよ」
「まだ逃げてねぇだろ」
「昨日逃げた」
ザルドの指摘に、バンは返事をしなかった。
メーテリアはようやく柔らかな笑みを戻すと、念を押すように言った。
「約束ですよ、バンさん」
「ああ。明日はギルドに行くぞ」
その返事を聞き、アルフィアもようやく入口から一歩退いた。
バンは胸を撫で下ろしかけたが、廊下にはヘラ・ファミリアの団員たちが集まり、突然本拠へ侵入した二人を待ち構えている。
アルがその光景を見て、顔を引きつらせた。
「……ところで、俺たちはここからどうやって出るんだ?」
「入ってきた道を戻ればいいだろ」
「あんたは正面から入ったからいいよ! 俺は見つかったら終わりなんだって!」
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
「まだ終わってなかった!」
アルの悲鳴が、メーテリアの部屋へ響いた。
第105話では、バンが第五十階層まで単独で潜った経緯をメーテリアたちへ説明しました。無事に帰還したことだけでは納得してもらえず、翌日、パァルとともにギルドへ向かうことになります。