翌朝。
古びた廃教会の地下室に、地上から扉を叩く音が響いてきた。
一度。
二度。
少し間を置いて、三度。
古びたソファベッドの上では、明るい銀色の短髪を乱したバンが横になっている。赤い長衣を掛け布団代わりに身体へかけ、片腕を頭の下へ入れたまま目を閉じていた。
「バン。起きているか」
聞き覚えのある声が、床板の向こうから届く。
バンは片目を開いたが、起き上がらない。
「…………」
「いるのは分かっている。返事をしろ」
なおも黙っていると、今度は地下へ続く入口が開く音がした。
「おい、勝手に入んなよ」
「起きているではないか」
階段を下りてきたパァルが、呆れた顔で地下室を覗き込んだ。
バンはようやく上半身を起こし、乱れた髪を掻く。
「朝から何だよ……」
「昨日の約束を忘れたのか?」
「覚えてるって」
「なら話は早い。支度しろ」
バンの動きが止まった。
「……今から?」
「今からだ」
「まだ飯も食ってねぇんだけど」
「途中で食えばいい」
「酒も?」
「朝から飲むな」
「朝だから飲んじゃいけねぇって決まりでもあんのか?」
「少なくとも、これからギルドの事情聴取を受ける人間が飲むものではない」
「ったく……面倒だな」
口では不満を漏らしながらも、バンはソファベッドから立ち上がった。
逃げるという選択肢が頭を過ぎらなかったわけではない。
だが、昨日メーテリアの部屋で交わした会話を思い出す。
『姉さんに、迎えに行っていただきます』
『逃げれば、今度は捕まえる』
バンは数秒だけ黙り込み、諦めたように赤い長衣へ腕を通した。
「……行くか」
「最初からそうしろ」
「アルフィアが迎えに来るよりマシだからな」
「判断基準がおかしい」
壁際に置いてあった聖棍クレシューズを肩へ担ぐ。
地下室を出た二人は礼拝堂を抜け、そのまま朝のオラリオへ出た。
道中、バンは露店で肉を挟んだパンを二つ買った。片方を食べ終えたところで、隣を歩くパァルが横目を向ける。
「一つ確認しておく」
「ん?」
「今日は逃げるな」
バンは二つ目のパンへ齧りつきながら眉を寄せた。
「逃げねぇって」
「昨日、地上へ戻った直後にギルド職員から逃げただろう」
「あれは捕まりそうになったからだ」
「今日もこれから捕まるようなものだ」
「じゃあ逃げてもいいってことか?」
「なぜそうなる!」
珍しく声を荒らげたパァルに、バンが鼻で笑う。
「冗談だって。今日はちゃんと行く」
「その言葉を信じたいものだな……」
◇
ギルド本部へ入った途端、バンは足を止めた。
受付の向こうに、見覚えのある女性が立っていたからだ。
紺色の制服をきっちりと着込み、茶色い髪を後ろでまとめている。二十代半ばほどの女性は、バンの姿を見つけた瞬間、持っていた書類を机へ置いた。
「……来ましたね」
「来たけど?」
「本当に来た……」
「来いって言ったのお前らだろ」
「昨日、同じことをお願いした時は逃げましたよね!?」
女性の声が大きくなり、周囲の冒険者や職員が何事かと振り返る。
彼女はすぐに気づいて、小さく咳払いをした。
「……失礼しました」
「声でけぇな」
「誰のせいですか!」
「またでかくなってるぞ」
「あなたが――!」
そこで女性はぐっと言葉を飲み込んだ。
深く息を吸う。
吐く。
どうにか冷静さを取り戻してから、改めて姿勢を正した。
「以前にも対応しましたが、正式には名乗っていませんでしたね。ギルド職員のマレナ・フォルクです」
「マレナか」
「はい」
「覚えやすいな」
「どういう意味です?」
「オレをダンジョンに入れなかった奴」
「そこを基準に覚えないでください!」
パァルが横で額へ手を当てた。
「先に進めてくれ。ここで続けていても終わらん」
「……そうですね」
マレナは受付の奥を指し示した。
「確認したいことが多数あります。あちらの個室までご同行ください」
「また個室かよ……」
バンの顔から露骨にやる気が消えた。
「何ですか、その反応は!」
「昨日、それ聞いて逃げたんだよな」
「今日は逃がしません!」
「言い切ったな」
「パァルさんもいらっしゃいますから」
バンが横を見る。
パァルは腕を組んでいた。
「諦めろ」
「二人がかりかよ」
「あなたが素直に来れば一人で済んだんです!」
◇
案内された個室には、長机と数脚の椅子が置かれていた。
机の上には何枚もの記録用紙が準備されている。
バンが椅子へ座ると、パァルはその隣。マレナは向かい側へ腰を下ろし、筆記具を手に取った。
「では、順番に確認します」
「どれくらいかかる?」
「あなたの回答次第です」
「早く飯食いに行きてぇんだけどな」
「先ほど二つ食べていましたよね?」
「あれは朝飯だ。次は昼飯」
「まだ昼には早いです!」
早くも疲れたように額を押さえたマレナだったが、すぐに表情を引き締める。
「まず、ダンジョンへ入った目的です。最初から第五十階層を目指していたのですか?」
「いや。クレシューズを直したばっかだったから、使い心地を確かめたかっただけだ」
バンは肩に立て掛けた神器へ目を向ける。
「少し潜って、適当に魔物でも相手にして帰るつもりだった」
「……それが、なぜ第五十階層まで?」
「先が気になったから」
「それだけですか?」
「ああ。知らねぇ階層が出てくるたびに、もうちょい見てから帰るかって進んでたら、結構下まで来てた」
「結構どころではありません!」
「昨日も言われたよ、それ」
「では昨日の方に全面的に同意します!」
マレナは勢いよく記録へ書き込んでから、次の質問へ移った。
「途中で帰ろうとは?」
「何度か思った」
「では、なぜ帰らなかったのですか?」
「食料も水も残ってたし、身体も何ともなかったからな。だったら、もう少しくらいいいだろって」
「その『もう少し』を何回繰り返したのですか……」
「覚えてねぇ」
「でしょうね!」
マレナが机へ突っ伏しかける。
パァルは静かに目を閉じていた。第50階層から地上まで行動を共にした彼には、今さら驚く内容でもないらしい。
「次に、準備についてです。最初にあなたがダンジョンへ来た時は、十分な探索装備を持っていませんでした」
「あの後で買った」
「具体的には?」
「保存食、水、酒。鍋に鉄板、調味料。それと素材を入れる袋。でかい鞄も買ったな」
「……酒?」
「必要だろ」
「水の方が必要です」
「両方持ってった」
マレナは酒について何か言おうとしたが、諦めたように筆を動かした。
「保存食は何日分です?」
「店の奴が十日は持つって言ってた」
「十日間探索する計画だったのですか?」
「いや」
「では、なぜ十日分も?」
「多い方が困らねぇだろ」
マレナの手が止まった。
「……そこだけ聞けば、かなり慎重なんですが」
「オレだって何も考えてねぇわけじゃない」
「目的地も帰還予定日も決めていない人が言う台詞ではありません!」
「食いもんは大事だからな」
「そこだけは強く同意しますが!」
パァルが小さく咳払いをした。
「マレナ、話を戻せ」
「……はい」
彼女は一枚紙をめくった。
ここから声の調子が変わる。
「では、入場方法について確認します」
バンの赤い瞳がマレナへ向いた。
「以前、私はあなたに入場を認められないと伝えました。にもかかわらず、その後あなたはダンジョンへ入りましたね?」
「ああ」
「どうやって入口の監視を抜けたのですか?」
「見つからねぇように入った」
「……それは昨日も聞きました」
「なら同じ答えでいいだろ」
「よくありません!」
マレナが身を乗り出す。
「入口には常に職員と冒険者がいます。無断でそこを突破できる方法があるのなら、ギルドとして確認しなければならないんです!」
「でも、ちゃんと見つからなかっただろ?」
「それが問題なんです!」
バンは頬杖をついた。
「別に誰か傷つけたわけじゃねぇ。人の邪魔もしないで入った。それでいいだろ」
「よくありません!」
「またそれか」
「当たり前です!」
「マレナ」
パァルの声が割って入った。
「その件については、これ以上ここで聞いても進まん」
「ですが……」
「本人が説明する意思を見せていない。それに、これは一職員の判断で処理できる話でもない」
マレナは唇を結んだ。
しばらくして、不承不承ながら頷く。
「……分かりました。入場方法については、上層部へ判断を委ねます」
「最初からそうすりゃ早かったのにな」
「誰のせいでこんなに長くなったと思っているんですか!?」
バンが少し笑った。
完全に遊ばれている。
マレナはそれに気づいたのか、頬を引きつらせながら次の紙へ移った。
「道中、他の冒険者へ危害は?」
「加えてねぇよ」
「むしろ助けている」
今度はパァルが答えた。
「上層では新人の一団を救っている。下層以降でも、帰還中の冒険者や整理部隊の戦闘に介入した記録がある。第五十階層で我々と合流してからは、荷物の運搬、負傷者の補助、モンスターへの対処も行った」
マレナが目を瞬く。
「それは……本当ですか?」
「本当だ」
「道を教えてもらったりしたからな。借りっぱなしは気持ち悪いだろ」
あまりにも自然に言うので、マレナは少しだけ返事に詰まった。
「……そうですか」
そして再び筆を走らせる。
「第五十階層から地上までは合同遠征隊と行動した、と」
「ああ」
「それは私が保証する」
パァルがはっきりと言った。
「第50階層で合流して以降、バンは我々の隊列に入った。命令を完全に聞いていた、とは言わんが」
「おい」
「事実だろう」
「まあ、そうだけどな」
「少なくとも、隊を危険に晒す行動はしていない。むしろ帰還には貢献している」
マレナはその証言を丁寧に書き留める。
そして最後の紙を取った。
「では……昨日についてです」
「まだあんの?」
「あります!」
「長ぇなぁ……」
「あなたが逃げたから増えたんです!」
バンが面倒そうに椅子へ沈む。
「なぜ、帰還後の事情確認から逃げたのですか?」
「個室に来いって言われたから」
「だから、どうしてそれで逃げるんですか!」
「面倒そうだったし、腹も減ってた」
「……それだけ?」
「ああ」
「それだけで!?」
「酒も飲みたかったな」
「追加しなくていいです!」
とうとうマレナが頭を抱えた。
その時だった。
個室の扉が二度、叩かれる。
「入るぞ」
返事を待たずに入ってきたのは、豪奢な服を纏った肥えたエルフの男だった。
マレナが即座に立ち上がる。
「ロイマン様!」
パァルも姿勢を正した。
一人だけ事情を知らないバンが、座ったまま男を眺める。
「誰だ?」
「ギルド長、ロイマン・マルディールだ」
「こいつが?」
パァルから名前を聞いても、バンの態度は変わらない。
ロイマンは眉間へ皺を寄せたものの、何も言わず机の上の書類へ目を通した。
「無所属。冒険者登録なし。正式な入場を拒否された後、監視を抜けて迷宮へ侵入。単独で第五十階層まで到達し、帰還後は事情聴取から逃走……か」
「最後のはいらなくねぇか?」
「一番分かりやすくお前の性格を表している」
「初対面でひでぇな」
ロイマンは返事をせず、書類を机へ戻した。
「この件は通常の規則だけでは処理できん。それに、確認すべきこともまだ残っている」
「まだあんのかよ……」
「ある」
ロイマンが扉へ向かう。
「バン。ついて来い」
「どこへ?」
「来れば分かる」
「また個室じゃねぇだろうな」
「違う」
バンはマレナを見る。
「帰っていい?」
「駄目です!」
「聞くだけ無駄だったな」
渋々立ち上がり、クレシューズを肩へ担ぐ。
パァルも腰を上げようとしたが、ロイマンが視線だけで制した。
「お前はここまでだ、パァル」
「承知した」
「一緒に来ねぇの?」
「私の役目は、遠征隊との合流から帰還までを証言することだ」
パァルはバンを見る。
「余計なことをするなよ」
「するつもりはねぇって」
「それを聞くと余計に不安になる」
「信用ねぇな」
◇
ロイマンに案内された先は、それまでバンが歩いたギルドの内部とは明らかに違っていた。
人の姿が消える。
職員の声も聞こえない。
階段を下り、幾つもの扉を抜け、さらに奥へ進む。
「ずいぶん下まで行くな」
「黙って歩け」
「どこまで行くんだよ?」
「もうすぐだ」
やがて、二人は何の変哲もない石壁の前で止まった。
ロイマンが壁の一部へ手を掛ける。
鈍い音を立て、石壁がゆっくりと動いた。
その向こうには、薄暗い一本道が続いている。
「ここから真っ直ぐ行け」
ロイマンはその場から動かなかった。
バンが通路とロイマンを交互に見る。
「お前はついてこねぇのか?」
「ウラノス様がお呼びなのは、お前だけだ」
「ギルドの神だっけ?」
「そうだ」
「神様がわざわざオレに何の用だよ」
「それを聞くために行くんだろう」
バンは細い通路の奥を見る。
枝分かれは見えない。
ただ真っ直ぐ、暗闇の先へ続いている。
「迷わねぇ?」
「道は一本だ」
「ならいいか」
バンが歩き出そうとすると、背後からロイマンの声が飛んだ。
「一つだけ忠告しておく」
「何だ?」
「ウラノス様の前だ。少しは礼儀を覚えろ」
「善処する」
聞き覚えのない言葉に、ロイマンが怪訝な顔をする。
「……本当に分かっているのか?」
「行ってくるわ」
片手だけを上げ、バンは一人で通路へ入った。
背後で石壁が閉じる。
それまで聞こえていた街の音も、人の気配も完全に消えた。
残ったのは、自分の足音だけ。
しばらく歩くと、前方の空間が大きく開いた。
天井の高い、巨大な地下神殿。
古びた石造りの空間の最奥に、一柱の老神が座していた。
誰かを待つようでもなく。
驚くようでもなく。
ただ静かに、こちらを見ている。
「来たか」
低く穏やかな声が、地下神殿に響いた。
バンは足を止める。
赤い瞳で老神を見返し、肩のクレシューズへ片手を添えた。
「……お前が、ウラノスか」
第106話でした。
第74話でバンのダンジョン入場を止め、第103話では帰還したバンに再び逃げられた女性職員に、今回から「マレナ・フォルク」という名前が付きました。
ようやくギルドで事情確認を受けたバンでしたが、通常の規則だけでは処理できない存在であることに変わりはありません。
そして最後に待っていたのは、迷宮都市オラリオを長く見守り続けてきた老神ウラノスでした。