数日ぶりに、ゼウス・ファミリアの本拠へ多くの声が戻っていた。
長期のダンジョン遠征から帰還した団員たちは、装備の修復や回収品の整理、治療師による診察をようやく一段落させている。
その日の夕刻。
本拠の大広間には、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの主要な面々が集まっていた。
正面には主神ゼウスとヘラ。
その左右にはマキシムとレグナイト。
パァル、ザルド、シグネ、ドルガン、ルヴァン。
リシェル、ブリュン、ネリネ、セレーネ。
そして少し離れた場所にはアルフィアとメーテリア、その近くにアル・クラネルもいる。
壁際には今回の遠征へ参加していた団員たちも並んでいた。
そんな錚々たる顔ぶれの中。
「腹減ったな」
バンだけが、卓上に置かれた料理へ目を向けていた。
「まだ食うな」
隣に立つザルドから低い声が飛ぶ。
「何で?」
「報告が終わっていない」
「料理はもう出てんだろ」
「帰還した団員たちのためのものだ」
「オレも帰ってきたじゃねぇか」
「お前は勝手に潜って勝手に帰ってきただけだろう」
「細けぇなぁ」
バンが肉料理へ伸ばしかけた手を、ザルドが無言で掴む。
「痛ぇって」
「痛くないだろう」
「気分の話だ」
正面から、マキシムの低い笑い声が聞こえた。
「相変わらずだな」
大広間の空気が少しだけ緩む。
だが、マキシムが巨大な身体を前へ進めると、遠征へ参加した団員たちの顔から自然と笑みが消えた。
「報告を始める」
一言。
それだけで広間が静かになる。
「今回の合同遠征は、予定通り深層の調査と既知経路の更新を目的として進行した。最深到達域は第七十一階層付近」
バンが僅かに眉を上げる。
自分が第五十階層へ着いた時には、すでに彼らはそこから戻ってきていた。
「七十一まで行ってたのか」
「黙って聞け」
パァルに小声で叱られ、バンは肩をすくめる。
マキシムは続けた。
「進行そのものは可能だった。しかし、未知域へ入ってから負傷者が増加。予備装備、治療薬、食料、退路維持のための物資も想定を超えて消耗した」
広間に並ぶ団員たちの中には、腕を吊っている者や包帯を巻いた者もいる。
「これ以上の進行は、到達階層を一つ二つ伸ばす代わりに、帰還できない者を生むと判断した」
マキシムの目が遠征隊を見渡す。
「我々の目的は、最深到達記録を自慢することではない」
低い声が響いた。
「帰ってくることまでが遠征だ」
誰一人として異を唱えない。
「よって撤退を決断した。帰路、第50階層で――」
その視線がバンへ向く。
「予定外の馬鹿を一人拾った」
「おい」
何人かが吹き出した。
「もっとまともな言い方あんだろ」
「単独で第五十階層まで来た無所属の男、でいいか?」
「そっちの方が面倒そうだな。馬鹿でいいわ」
「自分で認めるな」
パァルがため息をつく。
マキシムも口元を上げた。
「バンは第五十階層から地上まで、我々の帰還隊へ同行した。隊列外への遊撃、モンスターの早期排除、物資運搬、負傷者の補助を行っている」
「別に報告しなくていいって」
「したことをしたと言っているだけだ」
「借りがあったから手伝っただけだよ」
「結果は同じだ」
マキシムは再び団員たちへ向き直る。
「負傷者は多い。しかし死者はない」
その言葉で、大広間の空気が変わった。
「今回も全員、帰ってきた」
しばらく静寂が続く。
やがてゼウスが立ち上がった。
「うむ!」
先ほどまでの重い空気を吹き飛ばすような大声だった。
「ならば、これ以上の報告は飯を食いながらでよかろう!」
「主神」
マキシムが振り返る。
「腹が減っては報告もできん!」
「今のバンと同じことを言っていますよ」
パァルの指摘に、ゼウスの顔が固まった。
「……それは嫌じゃな」
「何でだよ!」
バンの声と同時に、広間へ笑いが広がった。
◇
形式的な報告が終わると、広間は一気に宴の場へ変わった。
酒瓶が開き、肉料理や魚、パン、煮込みが次々と運ばれてくる。
遠征から戻った団員同士が杯を合わせ、地上に残っていた者たちが無事を喜ぶ。
バンはその中心から少し離れた卓で、すでに三皿目の肉を食べていた。
「うめぇな、これ」
「お前は遠慮というものを知らないのか?」
ザルドが酒杯を傾けながら尋ねる。
「知ってる。必要ない時に使わねぇだけ」
「それを知らないと言う」
向かい側ではメーテリアが小さく笑っていた。
その隣のアルフィアは酒には手を付けず、薄い茶を口へ運んでいる。
少し離れた席にはマキシム、レグナイト、パァル、リシェル。
ゼウスとヘラもいつの間にか同じ卓へ移っていた。
「そういえば」
ザルドがふと口を開いた。
バンが肉を咀嚼したまま目を向ける。
「何だ?」
「以前、途中で終わった話があったな」
「途中?」
「〈七つの大罪〉だ」
バンの手が止まった。
「ああ……」
「確か、お前が以前いた騎士団だったか」
アルフィアが淡々と続ける。
「全員が罪を背負っていたと言っていた」
「覚えてたのかよ」
「一度聞いたことを忘れるほど愚かではない」
「はいはい」
ゼウスも身を乗り出した。
「そうじゃ! わしも気になっておった! 七人の大罪人が集まった騎士団なのじゃろう?」
「言い方だけ聞くと最悪だな」
「違うのか?」
レグナイトの問いに、バンは杯へ酒を注ぎながら少し考えた。
「……まあ、違わねぇか」
「違わないのですね」
メーテリアが困ったように笑う。
「長ぇ話になるけど、それでも聞くか?」
「酒も飯もある」
ザルドが答える。
「問題ない」
「お前はそれでいいだろうけどな」
バンは酒を一口飲んだ。
「じゃあ、どっから話すか……」
◇
「オレのいた世界には、ブリタニアって土地がある」
いつの間にか、周囲の団員たちも聞き耳を立てていた。
「人間だけじゃねぇ。妖精族、巨人族、魔神族、女神族……色んな種族がいる」
「女神族?」
ゼウスが即座に反応した。
ヘラの目が細くなる。
「あなた。今、そこだけ反応したわね?」
「いやいや! 純粋な学術的興味じゃ!」
「あなたに学術的興味などありません」
「あるわい!」
「女神族って言っても、お前らみたいな神様じゃねぇよ」
バンが面倒そうに割って入る。
「そういう種族だ」
「ほう……」
「残念そうな顔すんなよ」
「しておらん!」
「しています」
ヘラが冷たく言い切る。
バンは無視して続けた。
「人間は誰でも魔力を使えるわけじゃねぇ。才能のある奴が鍛えたり、死にそうな目に遭ったり、感情が爆発するようなことがあって、自分だけの魔力に目覚める」
「では人外種は?」
リシェルが尋ねる。
「魔神族や女神族、妖精族、巨人族なんかは、ほとんどが生まれつき持ってるな」
「お前の《強奪》も、その人間の固有魔力か」
マキシムの問いに、バンは頷く。
「ああ」
細かな分類まで話すつもりはないらしい。
「で、そんな世界でオレがいたのが〈七つの大罪〉だ」
「七人なのか?」
「ああ。団長が一人。それと、オレ含め仲間が六名」
バンは指を折りながら名前を挙げ始めた。
「団長がメリオダス。〈憤怒の罪〉」
「団長が憤怒か」
「見た目はガキみてぇに小さいけどな」
「子供が団長?」
「違ぇよ。あいつ、魔神族だし、見た目で年齢分かんねぇから」
アルが思わず口を挟む。
「強いの?」
バンがアルを見る。
「ああ」
その返答だけは迷いがなかった。
「滅茶苦茶にな」
「お前より?」
「昔なら普通に負けてた時期もある。最後の方は……まあ、やってみねぇと分かんねぇな」
そして少し笑う。
「でも強さがどうこうじゃねぇ。オレが団長って認めてんのは、あいつだけだ」
マキシムの目が僅かに細くなった。
その言葉に含まれた重みを、団長である彼は理解したのだろう。
「次がディアンヌ。〈嫉妬の罪〉。巨人族の女だ」
「巨人族」
ブリュンが反応した。
「どの程度の巨体だ?」
「家よりでけぇ」
「……なるほど」
「大地を操るのが得意だったな。性格は、まあ素直だよ」
「お前が言うと不安になる」
「失礼だな」
「キング。〈怠惰の罪〉。妖精王だ。本名はハーレクイン」
「妖精王……本当に王なのか?」
「ああ。ついでに言っとくと、メリオダスも今じゃリオネスの王だ」
「団長まで王なのか!?」
ゼウスが目を丸くする。
「そういや、お前も王だったのう。すると〈七つの大罪〉には、今や三人も王がいるではないか!」
「別に王様集めて作った騎士団じゃねぇよ。オレもメリオダスも、王になったのは後だ」
「妖精王……」
メーテリアが静かに呟いた。
バンは一瞬だけ彼女を見る。
「そいつ、今のオレの義兄でもある」
「義兄?」
「嫁の兄貴」
メーテリアの表情が明るくなる。
「まあ」
「その話は後」
バンは指をもう一本立てた。
「ゴウセル。〈色欲の罪〉」
「女か?」
「男」
「ほう」
「人形だけどな」
「待て」
今度はレグナイトが止めた。
「人形?」
「ああ。作られた人形。動くし喋るし考える」
「お前の世界、本当に何でもいるのだな……」
パァルが呆れたように呟く。
「精神に干渉する魔力を使う。人の記憶弄ったり、心に入り込んだりな」
広間の何人かが僅かに警戒した表情を見せた。
「次がマーリン。〈暴食の罪〉」
「女か?」
ゼウスがまた食いつく。
「女」
「美人か?」
「あなた!」
乾いた音とともに、ヘラがゼウスの頭を叩いた。
「痛い!」
「聞くと思った」
バンが笑う。
アルフィアだけは別のところへ反応していた。
「その名は以前も聞いた。魔術師だったな」
「ああ。魔術のことなら、オレらの中じゃ一番詳しい。詳しいっていうか……頭ん中どうなってんのか分からねぇくらい知ってる」
「興味深い」
アルフィアが僅かに目を開く。
「お前がそんな顔すんの珍しいな」
「黙れ」
「最後がエスカノール。〈傲慢の罪〉」
「人間か?」
「ああ」
バンの声が少し落ち着いた。
「夜は気弱で、すぐ謝るような奴だった」
「傲慢なのに?」
アルが首を傾げる。
「昼になると変わるんだよ。《太陽》って力を持っててな。太陽が高くなるほど強くなって、正午が一番強ぇ」
「一日の中で強さが変化するのですか?」
セレーネが興味深そうに尋ねる。
「そういうこと」
「今もその者は?」
メーテリアの問いに。
バンの指が、酒杯の縁で止まった。
「……もういねぇ」
その一言で、空気が静かになる。
「最後まで、格好つけて死にやがった」
バンは杯を口へ運んだ。
誰もすぐには何も言わなかった。
しばらくしてザルドが口を開く。
「そしてお前が〈強欲〉か」
「ああ」
「七人全員に、罪名が付けられていたわけだ」
「そういうこと」
「なら」
レグナイトが腕を組む。
「その者たちは本当に、その名の罪を犯したのか?」
バンが口元を歪めた。
「そこ聞く?」
「当然だ」
「まあ……そうなるよな」
◇
「まずメリオダス」
バンは空になった杯へ酒を注ぐ。
「〈憤怒の罪〉。ダナフォールって国を消した」
広間が静まり返った。
「……国を?」
パァルの声が低くなる。
「ああ」
「一人でか?」
「一人で」
今度ばかりは誰も冗談だとは思わなかった。
「好きでやったわけじゃねぇ」
バンは続ける。
「大事な女を目の前で殺されて、感情を抑えられなくなった。魔力が暴走して……気づいた時には国が消えてた」
「それでも結果は変わらない」
マキシムが言う。
「ああ」
バンも否定しない。
「あいつ自身も分かってた」
次へ進む。
「ディアンヌは、師匠だったマトローナを嫉妬で殺したってことにされた」
「ことにされた?」
「冤罪だ。罠に嵌められた」
ヘラが眉を寄せる。
「なら罪人ですらないではない」
「そういう奴もいる」
「随分と雑な罪人集団ですね」
リシェルが呟いた。
「言うなって」
「キングは妖精王の責務を果たせなかった。長い間、森を離れてる間に仲間が人間を殺し続けた。それを止められなかった責任で〈怠惰〉」
「本人が虐殺したわけではないのか」
「違う。でも王として守れなかったことは、ずっと背負ってたよ」
マキシムとレグナイトが僅かに表情を変える。
二人とも、巨大なファミリアを率いる団長だ。
守るべき者の行いまで自分の責任になるという意味を理解している。
「ゴウセルは?」
メーテリアが尋ねた。
バンは少しだけ言葉を選んだ。
「ナージャって王女がいた。身体が弱い女だった」
メーテリアの蒼い瞳が僅かに揺れる。
「ゴウセルはそいつと仲が良くなって……たぶん、あいつなりに愛してたんだと思う」
「……はい」
「でもナージャは死んだ」
メーテリアの指が膝の上で重なる。
「ゴウセルは、生かしたくて自分の心臓を渡そうとした。でも、その場面だけ見た奴らには、王女を弄んで殺したように見えた」
「それで……〈色欲〉」
「ああ」
少しの沈黙。
メーテリアが静かに言う。
「その方を、生かしたかったのですね」
「……だと思う」
バンはそれ以上語らなかった。
「マーリンは?」
アルフィアが問う。
「あいつは、本当に欲深い」
「お前が言うのか」
ザルドの突っ込みに、バンが笑う。
「種類が違ぇんだよ。あいつが欲しいのは知識だ」
「知識」
「何でも知りたがる。何でも試したがる。魔神族の頂点と女神族の頂点、両方を騙して力を貰った」
今度はアルフィアの両目がはっきり開いた。
「両方?」
「ああ」
「敵対する二つの最高存在を、一人の魔術師が欺いたのか」
「マーリンだからな」
「説明になっていない」
「会えば分かる」
「会えるのなら話してみたい」
「珍しいな。お前が人に興味持つの」
「魔術にだ」
「はいはい」
アルフィアの眉間に皺が寄る。
「その結果、あいつの故郷ベリアルインは滅んだ。それで〈暴食〉」
「知識を喰らい続けた故の罪か」
リシェルが呟く。
「そんな感じ」
「エスカノールは?」
「《太陽》の力を制御できなかった。昼になると力も性格も変わる。強すぎる力で人を傷つけて、恐れられて……それで〈傲慢〉」
「しかし夜は気弱だったと」
「ああ」
バンは少し笑った。
「夜のあいつ見たら、誰も〈傲慢〉なんて思わねぇよ」
その笑みには、懐かしさが混じっていた。
ザルドが酒杯を置く。
「……半分以上、誤解か冤罪ではないか?」
「だから言ったろ。面倒なんだよ」
「では、お前は?」
ヘラが問う。
バンの笑みが止まった。
「〈強欲〉の罪は何?」
◇
「妖精王の森を焼いた」
バンは静かに口を開いた。
「不死の泉を盗んで、泉を守ってた聖女を殺した」
メーテリアが息を呑む。
「……それが罪状」
「実際は違うのですね」
彼女の問いに、バンは少しだけ笑った。
「最初は盗むつもりだったよ」
「最初は?」
「あの頃のオレは盗賊だった。不死の泉があるって聞いて、森まで盗みに行った」
「お前らしいな」
ザルドが言う。
「うるせぇ」
バンは杯を指先で回した。
「そこにいたのがエレインだ」
初めて。
妻の名前を口にした。
「妖精族。泉を守ってた」
「キングの妹なのですね」
メーテリアがすぐ気づく。
「ああ」
「初めは泉を奪うつもりで何度もやり合った。でも、話してるうちに……まあ、色々あってな」
ゼウスが身を乗り出す。
「恋に落ちたのか!」
「お前、そこだけ元気になるなよ」
「重要な部分じゃろ!」
「黙りなさい」
ヘラの一言でゼウスが縮む。
バンは呆れながら続けた。
「結局、泉はいらねぇって思った。エレインと一緒にいられりゃ、それでよかった」
メーテリアが柔らかく微笑む。
「ですが……」
「ああ」
バンの声が少し低くなる。
「赤き魔神が森を襲った」
空気が変わった。
「森を焼いたのはそいつだ。エレインもやられた」
バンの指が止まる。
「オレも死にかけてた」
「そこで泉を?」
「エレインが飲ませた」
全員が黙る。
「自分じゃなく、お前に?」
ザルドが問う。
「ああ」
「……そうか」
「オレだけ生き残った。森は焼けて、泉は消えて、エレインは死んでる。後から来た奴が見れば、まあ分かりやすいよな」
盗賊が一人。
消えた不死の泉。
死んだ守護者。
焼け落ちた森。
「だから、〈強欲の罪〉」
バンは酒を一口飲む。
メーテリアが俯きかけたが、すぐに顔を上げた。
「でも、エレインさんは……今は奥様なのですよね?」
「ああ」
「では、生き返ったのですか?」
「一度は別の力で戻った。でも、完全じゃなかった」
バンは自分の手を見る。
「最後にオレが完全に生き返らせた」
「どうやって?」
今度はネリネが反応する。
治療を担う者らしい目だった。
「《贈与》だ」
「《強奪》の逆転運用か」
ザルドはすでに知っている。
「ああ。オレが持ってた不死の力を、全部エレインに渡した」
「……全部?」
ネリネが確認する。
「全部」
「それでは、お前自身は」
「不死じゃなくなった」
静かに言い切った。
バンの現在を知っている者たちにも、その選択の意味までは知らなかった者が多い。
「不老不死を……捨てたのか?」
パァルが驚きを隠せない。
「捨てたっていうより」
バンは少し眉を寄せた。
「必要な方に渡しただけだ」
メーテリアが、ほんの僅かに目を細めた。
「後悔は?」
アルフィアが短く問う。
「するわけねぇだろ」
即答だった。
アルフィアは何も返さない。
ただ、その顔から僅かに険しさが消えた。
◇
「だが、一つ分からん」
マキシムが腕を組む。
「不死でなくなったのなら、お前の今の肉体は何だ?」
「何って?」
「紅蓮の山岳を無傷で歩き、深層の毒も大して気にしていない。以前、お前はそれを煉獄で過ごした結果だと言っていたな」
「ああ」
バンは酒杯を傾ける。
「ベヒーモスを倒した夜にも聞いた」
ザルドが低い声で続けた。
「空気を吸うだけで肉が腐り、骨まで焼く熱も、全てを凍らせる寒さもある。嵐に身体を削られ、そこに棲む獣にとって人間など餌でしかない――そんな場所で、千年以上過ごしたとな」
「よく覚えてんな」
「忘れられる話ではない」
「私も同感だ」
パァルが苦い顔をする。
あの夜を知る者たちは、程度の差こそあれ同じような表情を浮かべていた。
一方で、メーテリアやアル、セレーネたちの中には、初めてその詳細を聞いた者もいる。
「……千年以上?」
アルが目を丸くした。
「そんな場所で?」
「ああ」
バンは何でもないことのように答えた。
「ただ」
マキシムの視線が鋭くなる。
「煉獄がどのような場所かは以前聞いた。だが、お前がなぜそこへ行ったのかまでは聞いていない」
「そういや、そこは話してなかったな」
バンは空になった杯へ酒を注いだ。
「メリオダスを助けるためだ」
「団長を?」
アルが身を乗り出す。
「ああ。色々あってな。あいつの感情を取り戻す必要があった」
「……感情を?」
「その辺まで話し始めると、また長くなる。今は煉獄に行った理由だけ分かりゃいいだろ」
そう言って酒を一口飲む。
ザルドが腕を組んだ。
「では、今のお前の異常な頑丈さも、不死そのものではなく、その千年以上の経験によるものなのか」
「ああ」
バンは自分の腕へ視線を落とした。
「当時は不死だったから、どれだけ壊されても死ななかった。けどな、死なねぇってだけじゃ、あそこでまともに動けねぇんだよ」
その声から、僅かに軽さが消える。
「熱に耐えて、寒さに耐えて、毒に耐えて、あそこにいる化け物どもと何度も戦った。そんなことをずっと繰り返してるうちに、不死とは別に身体そのものが変わった」
「適応した、と?」
リシェルが尋ねる。
「そんな感じだな」
「そして、その肉体は不死を失った後も残った」
マキシムの言葉に、バンが頷く。
「ああ。不死はエレインに渡した。でも煉獄で鍛えた身体まで消えたわけじゃねぇ」
「なるほどな」
ザルドがゆっくりと酒杯を置いた。
「ベヒーモスの毒がほとんど効かなかった理由も、紅蓮の山岳をぬるいと言っていた理由も、結局はそこへ繋がるわけか」
「前にも言ったろ」
「あの時よりは納得できた」
「何だよ、それ」
その時、少し離れた席からネリネがじっとバンを見ていた。
「……やっと詳しく話してくれたわね」
「ん?」
「紅蓮の山岳で聞いたでしょう。煉獄について、あとで詳しく話してもらうって」
バンが数秒黙る。
「……まだ覚えてたのかよ」
「忘れるわけないでしょう!」
ネリネの声が少し強くなる。
セレーネが隣で小さく笑った。
「でも、一つ確認していい?」
「何だ?」
「今は本当に不死ではないのよね?」
「ああ」
「致命傷を負えば?」
「死ぬ」
「身体を大きく損傷しても、昔のように勝手に再生したりは?」
「しねぇよ」
「重傷を負ったら?」
「普通に血も出るし、治るまで時間もかかる。必要なら治療も受ける」
「だったら無茶をしないでください」
「それは内容によるな」
「してください」
間髪入れずに返され、バンが目を瞬く。
「……善処する」
「信用できません」
「今日それ何回言われんだよ」
バンが呆れたように息を吐く。
それを見て、セレーネがくすりと笑った。
先ほどまで煉獄の話に張り詰めていた空気も、少しずついつものものへ戻っていった。
◇
「エレインさんと結婚されたのは、その後ですか?」
メーテリアが尋ねる。
「ああ」
「お子さんのお名前も、まだ聞いていませんでした」
「ランスロット」
バンの声が少しだけ柔らかくなる。
「男の子ですか?」
「ああ」
「バンさんに似ています?」
「どうだろうなぁ」
バンは少し考えた。
「母親似の方が得だろ」
「それは顔の話ですか?」
「性格も」
「自分で言うのですね」
メーテリアが楽しそうに笑う。
「強いの?」
アルが興味津々に聞く。
「強ぇよ」
「バンより?」
「まだまだ」
そう答えた直後。
バンは少しだけ口元を上げた。
「でも、あいつならもっと強くなる」
父親の顔だった。
ザルドがそれに気づいたのか、酒を飲みながら微かに笑う。
「国はベンウィックだったか」
「ああ」
「妖精族の国なの?」
アルが尋ねる。
「妖精王の森の近くにある国だ。人間と妖精族が一緒に暮らしてる」
「そこをお前が治めている、と」
レグナイトが改めて言う。
「これでもな」
「今でも信じ難い」
「まだ言うか?」
「朝から酒を飲もうとし、事情聴取から逃げ、ダンジョンへ無断侵入した王だ」
「全部本当なのが腹立つな」
「よく国が保っているものだ」
「嫁が優秀なんだよ」
「丸投げではありませんか?」
メーテリアが思わず笑ってしまう。
バンも笑った。
だが、その後ヘラが静かに尋ねた。
「では、戻りたいのでしょう?」
「ああ」
「方法は?」
「今んとこ分かんねぇ」
その返答は、ウラノスへしたものと同じだった。
「こっちに来る直前、キャスって化け物と戦ってた。その時に空間が裂けて、そこへ巻き込まれた」
「空間転移の魔術ではない?」
アルフィアが問う。
「違うと思う。《混沌》って力が絡んでる」
「混沌?」
「世界の根っこみてぇな力だよ。魔神族も女神族も、元を辿ればそいつが生み出したらしい」
ゼウスとヘラの表情から僅かに笑みが消える。
神である二柱にも、その規模は理解できる。
「意思もある。光でも闇でもねぇ。オレも詳しく説明できるほど知らねぇけどな」
「マーリンなら分かる?」
アルフィア。
「たぶんな」
「ならば彼女が、お前を探している可能性もある」
「あるかもな」
バンは否定しなかった。
「オレがいきなり消えたんだ。《混沌》が原因なら、マーリンなら何か調べるだろ」
「迎えを待つのですか?」
メーテリアが聞く。
「待ってるだけは嫌だね」
バンは杯を回す。
「こっちでも手掛かりがあれば探す。向こうは向こうで、マーリンが何か見つけてるかもしれねぇ」
「必ず帰れると思っていますか?」
「知らねぇ」
短い返答だった。
「でも帰るよ」
それだけは、迷わなかった。
「嫁も息子も待ってる。国だっていつまでも放っとけねぇしな」
広間が少し静かになる。
ザルドが杯を持ち上げた。
「なら、帰るまでは生きていろ」
「言われなくても」
「お前の場合は言っておいた方がいい」
「何だよ、それ」
「同意する」
アルフィアまで加わった。
「お前は自分の身体を雑に扱いすぎる」
「お前にだけは言われたくねぇよ!」
珍しくバンの声が大きくなる。
アルフィアの目が細くなった。
「何か言ったか?」
「……何でもない」
「逃げるな」
「逃げてねぇって」
メーテリアが隣でくすくす笑っていた。
◇
重かった昔話も、料理が追加され、酒瓶が何本も空く頃には少しずつ宴へ戻っていった。
「しかし、人の言葉を話す豚までおったとはのう!」
ゼウスが腹を抱えて笑っている。
「そこに一番食いつくのかよ」
話の途中。
「七人以外に仲間はいなかったのか」と聞かれたバンが、ホークについて話した結果だった。
「名はホーク!」
「残飯処理騎士団団長!」
「一匹だけの騎士団な」
「残飯を処理するための騎士団……」
ザルドが真剣な顔で考えている。
「お前、そこに興味持つな」
「食を無駄にしない姿勢は評価できる」
「そういう立派なもんじゃねぇよ」
「豚が酒場の残飯を食べるために、自ら騎士団を名乗っているのでしょう?」
メーテリアが笑う。
「ああ。偉そうで、すぐビビるし、口だけは達者でな」
バンも笑った。
けれど。
「でも、仲間が危ねぇ時は逃げねぇ」
声が少しだけ変わる。
「魔神王の攻撃からメリオダスを庇って、一回死んだこともある」
「豚が?」
アルが目を見開く。
「ああ」
「勇敢な方なのですね」
「普段見たら絶対そう思わねぇけどな」
バンは酒を飲む。
「大事な相棒だよ」
それだけで十分だった。
「煉獄で生き返ったけどな」
「生き返ったの!?」
「お前の世界、死んだ奴戻りすぎじゃないか?」
アルの驚きとパァルの呆れ声が重なり、再び笑いが起こる。
そんな中。
「そうじゃ!」
かなり酒の入ったゼウスが突然立ち上がった。
「騎士団の勇気という話ならば、わしにも語るべき偉業がある!」
ヘラの視線が冷たくなる。
「嫌な予感しかしないわ」
「聞け、バン! このオラリオにおいて、誰にも成し得なかった伝説を――」
ザルドが顔を覆う。
「主神、やめておけ」
「何だよ?」
バンは面白そうにゼウスを見る。
「何したんだ?」
「わしはな――」
ゼウスが胸を張った。
「女神のみが入浴を許された神聖浴場へ、歴史上ただ一人――」
「ゼウス」
ヘラの声。
低い。
「侵入し、覗きを成功させた男なのじゃ!」
沈黙。
「…………」
バンがゆっくり瞬きをする。
そして。
「馬鹿じゃねぇの?」
「何じゃと!?」
「いや、普通に馬鹿だろ」
「男の浪漫じゃ!」
「それで?」
ヘラが微笑んでいた。
笑っている。
なのに、大広間の温度が一気に下がったように感じる。
「誰と行ったの?」
「……え?」
ゼウスの顔から血の気が引く。
「一人で、あそこまで入り込めるほどあなたは器用ではないでしょう?」
「いや、それは……」
バンの視線が自然と横へ動いた。
宴の途中から。
一人。
異常なほど静かになった男がいる。
アル・クラネル。
その本人は、汗を流しながら音も立てず椅子から立とうとしていた。
「お前、どこ行くんだ?」
バンが何気なく尋ねる。
「えっ!?」
アルの肩が跳ねた。
全員の視線が集まる。
「いや、僕ちょっと……急に用事を思い出して」
「座れ」
アルフィアの一言。
「はい!」
アルが勢いよく座り直した。
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
「まだ何も言ってませんけど!?」
「顔に書いてある」
「理不尽!」
ヘラがゆっくりアルを見る。
「あなた」
「はい?」
「まさか」
「いやいやいや! 僕はゼウス様に頼まれて、見張りをですね!」
「アル!」
ゼウスが叫ぶ。
「何で言うんですか!? もう無理ですよ、この空気!」
「裏切り者ぉ!」
「巻き込んだのゼウス様でしょう!」
大広間が一瞬で騒然となった。
「なるほど」
バンは酒を飲みながら納得したように頷く。
「お前ら二人で女湯覗いたのか」
「言い方!」
「事実でしょうが!」
ヘラの怒声が響く。
アルが椅子を蹴るように立ち上がり、扉へ向かおうとする。
「アル」
その背中に、静かな声が届いた。
「……え?」
アルの足が止まる。
声の主はメーテリアだった。
彼女は席を立つことなく、椅子に座ったままアルを見上げている。
いつもの柔らかな笑みは浮かんでいる。
けれど。
なぜか、逃げてはいけない気がした。
「どこへ行くのですか?」
「いや、その……僕、ちょっと急に用事を思い出して……」
「そうですか」
メーテリアはにこりと笑った。
「では、その前に少しお話をしましょうか」
「…………」
アルの頬を冷や汗が伝う。
「何で僕の方まで……」
「アル?」
「はい! 座ります!」
アルは勢いよく元の椅子へ座り直した。
バンがその様子を見て眉を上げる。
「お前、メーテリアには逆らわねぇんだな」
「逆らえるわけないでしょう……!」
「何か言いましたか、アル?」
「何も言ってません!」
メーテリアは満足そうに微笑んだ。
その隣でアルフィアが、冷めた目をアルへ向ける。
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
「何で結局アルフィアさんからも言われるんですか!?」
その瞬間。
ゼウスが勢いよく椅子から立ち上がった。
「逃げるぞ、アル!」
「えっ!?」
反射的に立ち上がりかけたアルだったが――。
「アル」
柔らかな声が飛んだ。
ぴたり。
アルの動きが止まる。
メーテリアは椅子に座ったまま、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「どこへ行くのですか?」
「…………」
「アル?」
「……どこにも行きません」
アルは静かに座り直した。
「アル!?」
「無理ですよ、ゼウス様! 僕はもう無理です!」
「裏切り者ぉ!」
「巻き込んだのゼウス様でしょう!」
「待ちなさい、ゼウス!」
「ひぃっ!」
ヘラが席を立った瞬間、ゼウスは一目散に大広間から逃げ出した。
「話せば分かる! これは男の浪漫というものが――!」
「聞く価値もないわ!」
二人の姿が廊下の向こうへ消えていく。
残されたアルは、助けを求めるように周囲を見回した。
誰も目を合わせない。
「……あの、メーテリア?」
「はい」
にこり。
相変わらず優しい笑顔だった。
「僕は本当に見張りを頼まれただけで……」
「そうだったのですね」
「はい! だから僕は覗いてはいな――」
「ですが、ゼウス様が女神様方のお風呂を覗こうとしていることは知っていたのですよね?」
「…………」
アルの額から汗が流れる。
「それは……まあ……その……」
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
隣からアルフィアの冷たい声が飛んだ。
「何でアルフィアさんまで!?」
「共犯だ」
「まだ最後まで説明してないでしょう!」
「聞く必要がない」
「理不尽だ!」
アルが頭を抱える。
メーテリアはそんな彼を見ながら、穏やかに続けた。
「大丈夫ですよ、アル」
「本当ですか!?」
「あとでゆっくりお話を聞くだけですから」
「全然大丈夫じゃない気がする……!」
その時。
廊下の遥か向こうから、ゼウスの悲鳴が響いた。
「話せば分かる、ヘラぁぁぁぁっ!」
「あなたとは千年話しても分からないわ!」
続いて、凄まじい音が響く。
大広間に残っていた団員たちは誰一人として驚かなかった。
むしろ慣れた様子で、先ほどのうちに酒瓶や料理を安全な場所へ移動させている。
「……これ、いつものことか?」
バンがザルドへ尋ねた。
「大体な」
「大変だな、お前ら」
「お前に言われたくない」
「確かに」
バンは素直に認め、酒杯へ手を伸ばした。
「……もう一杯飲むか」
「そうしろ」
ザルドが新しい酒瓶を開ける。
「バンさんは助けてくれないんですか!?」
アルが悲鳴のような声を上げた。
バンは酒を注ぎながらアルを見る。
「何で?」
「さっきまで僕たち仲良く話してたじゃないですか!」
「覗きの共犯を助ける理由にはならねぇだろ」
「だから僕は見張りだっただけで――!」
「共犯だ」
「アルフィアさんはもう黙っててください!」
メーテリアが口元へ手を添えて、くすくすと笑う。
アルにとっては笑い事ではないのだろうが、周囲の団員たちも次第に笑い始めていた。
遠征から帰った英傑たち。
異世界から迷い込んだ旅人。
二つの最強派閥。
元の世界も、背負った過去も、立場も違う。
それでも今は、同じ卓を囲んで酒を飲み、くだらないことで笑っている。
バンは杯を傾けながら、騒がしい広間を眺めた。
悪くない。
少なくとも。
帰る日が来るまで付き合う連中としては。
そう思えるくらいには、この場所にも馴染み始めていた。
第109話でした。
今回は、以前から少しずつ触れていたバンの故郷と〈七つの大罪〉について、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの面々へ詳しく話す回となりました。
〈七つの大罪〉という名前だけを見れば大罪人の集団ですが、その罪の裏には冤罪や誤解、大切な人を失った過去、それでも背負って生き続けた理由があります。そしてバン自身が〈強欲の罪〉となった原因だったエレインについても、ようやく名前と過去を語ることができました。
重い話が続いた最後は、ゼウスとアルの神聖浴場事件でいつもの騒がしさへ。
帰るべき場所を持つバンですが、こちらの世界にも少しずつ「帰るまで一緒にいる人たち」が増えています。