宴は、まだ終わっていなかった。
廊下の向こうへ消えたゼウスとヘラは、まだ戻ってこない。少し前まで遠くから聞こえていたゼウスの悲鳴と何かが壊れるような音もいつの間にか途絶え、大広間には再び酒杯のぶつかる音と笑い声が満ち始めていた。
その中心にいるのは、当然ながら逃げ損ねたアルだった。
「だから僕は見張りをしていただけですって!」
「そこが気になるんだよ!」
「どの辺りで見張ってたんだ?」
「中の様子は見えなかったのか?」
「だから見てません!」
先ほどまで第七十一階層付近からの帰還やベヒーモスの話をしていたはずの男たちが、今では一人の下級団員を囲んで妙に真剣な顔をしている。
第一級冒険者もいる。
数日前まで深層で怪物の群れを斬り伏せ、負傷者を守りながら地上まで帰ってきた英傑もいる。
それなのに。
「ゼウス様だけ見て俺たちは知らないって、不公平じゃないか?」
「そうだぞ、アル!」
「何が不公平なんですか!?」
「歴史的な偉業を身内だけで独占するな!」
「覗きですよ!?」
「男の浪漫だろ!」
「ゼウス様と同じこと言ってる!」
バンは酒杯を片手に、しばらくその光景を眺めていた。
「……すげぇな」
「何がだ」
隣で肉を食べていたザルドが聞く。
「さっきまで世界最強の英雄みてぇな顔してた連中が、もうこれだぞ」
「戦場と酒の席を同じにするな」
「落差がありすぎんだろ」
「昔からだ」
ザルドは慣れた様子で酒を飲んだ。
少し離れたところでは、パァルが眉間へ指を当てながら団員たちを見ている。
「お前たち、そろそろやめろ。アルを問い詰めても話は増えん」
「副団長も知りたくないんですか?」
「知らん」
「即答!?」
「私は主神の後始末だけでも十分なんだ。これ以上仕事を増やすな」
「でもパァルさん、男として――」
「お前は明日の朝、遠征装備の点検を一人でやりたいらしいな」
「すみませんでした」
即座に引き下がる団員を見て、バンが笑う。
「お前、結構怖ぇな」
「誰のせいでこうなったと思っている」
「ゼウスだろ」
「主神だけならまだ楽なんだがな」
パァルの視線が周囲へ向く。
何人もの団員が素知らぬ顔で酒へ口をつけた。
「主神があれだから、似たような馬鹿が増える」
「副団長、それは言いすぎじゃないですか?」
「違うと言えるのか?」
「……」
「黙るな」
ザルドが低く笑った。
「諦めろ、パァル。この派閥で副団長になった時点で負けだ」
「お前は他人事のように言うな。何度お前の後始末もしたと思っている」
「俺は女関係では迷惑をかけていない」
「食い物関係では十分だ」
「それは否定できんな」
「認めるのかよ」
バンが吹き出す。
その間にも、アルへの追及は続いていた。
「で、本当に何も見なかったのか?」
「見てません!」
「一瞬くらいは?」
「見てませんって!」
「惜しいことしたなぁ……」
「何がですか!?」
男たちが心底残念そうな顔をする。
向かい側にいたヘラ・ファミリアの女性陣から、一斉に冷たい視線が飛んだ。
それに気づいた瞬間、さすがの男たちも声を小さくする。
「……聞こえてるぞ」
「分かってる」
「アルフィアさん、こっち見てる」
「目、閉じてるだろ」
「だから余計怖いんだよ!」
「聞こえている」
アルフィアの声が飛んだ。
男たちが黙る。
アルフィアは目を閉じたまま杯を置き、冷え切った声で吐き捨てた。
「揃いも揃って下品だな。まとめて消した方が静かになる」
「アルフィア、それは困る」
パァルが即座に言った。
「半分以上いなくなる」
「静かになっていい」
「戦力も半分近く消える」
「補充しろ」
「簡単に言うな」
「お前、苦労してんなぁ」
バンが笑う。
「もう一度言うが、笑い事ではない」
「私もパァルに同情するわ」
レグナイトが酒杯を傾けながら言った。
「そちらの男どもは昔から変わらないもの」
「女帝にまで言われた……」
誰かが小さく呻く。
「事実でしょう?」
リシェルも淡々と続ける。
「遠征中はあれほど統制が取れていたというのに、地上へ戻って一日も経たずこれですから」
「戦場では真面目なんだよ、俺たち!」
「だから余計に理解できません」
返す言葉を失った団員たちを見て、また笑いが起こった。
アルだけは笑っていない。
「何で僕だけこんな目に……」
「自業自得だ」
アルフィアが言う。
「だから見張りだっただけですって!」
「共犯だ」
「まだ言うんですか!?」
「事実は何度言っても変わらない」
「バンさん!」
今度はバンへ助けを求める。
「何だよ」
「何とか言ってくださいよ!」
「もう言っただろ。共犯だって」
「味方がいない!」
「アル」
柔らかな声だった。
アルの肩が止まる。
メーテリアは先ほどから椅子に座ったまま、騒がしいやり取りを楽しそうに眺めていた。
「まだお話は終わっていませんよ」
「……覚えてたんですか?」
「もちろんです」
にこりと笑う。
アルの顔が引きつった。
「忘れてくれてもよかったんですけど……」
「どうしてですか?」
「いえ。何でもありません」
「そうですか」
「はい」
「では、あとで続きを聞かせてくださいね」
「……はい」
あまりにも素直な返事だった。
バンは酒を飲みながら、二人を交互に見る。
アルフィアに脅されれば逃げようとする男が、メーテリアに笑顔で言われただけで大人しくなる。
少し妙だった。
「お前」
「何ですか?」
「いや」
バンは一度口を開きかけたが、やめた。
「何でもねぇ」
「今絶対何か言おうとしましたよね?」
「気のせいだ」
「その顔は絶対違う!」
「騒ぐな」
アルフィアの一言で、アルがまた黙った。
今聞くほどのことでもない。
いずれ暇な時にでも聞けばいい。
そう思って、バンは新しい酒へ手を伸ばした。
◇
それからも宴はしばらく続いた。
遠征の失敗談が暴露され、途中で誰かが腕相撲を始め、別の卓ではダンジョンで食べた保存食の不味さについて言い争いが起きた。
ゼウス・ファミリアの男たちは途中から酒場の女の話へ移り、誰がどの店の看板娘に声を掛けただの、遠征へ行っている間に誰かに先を越されていないかだのと騒ぎ始める。
「帰ってきた日にそれか」
バンが呆れる。
「遠征が長かったからな!」
「一月以上女の子とまともに話してないんだぞ!」
「死活問題だ!」
「怪物よりそっちが怖ぇのかよ」
「分かってないな、バン!」
「何が?」
「男には戦わなきゃいけない時がある!」
「それマキシムの前でも言ってみろよ」
途端に声が小さくなった。
少し離れたところで、マキシムが酒を飲んでいる。
聞こえていたのかどうか。
こちらを見てはいない。
「……やめとく」
「急に弱くなったな」
「団長は別だ」
「情けねぇ」
マキシムの肩が僅かに揺れた。
笑っているらしい。
やがて夜も更け、最初にメーテリアが席を立つことになった。長時間起きているだけでも身体へ負担が掛かるため、アルフィアがそれ以上の滞在を許さなかった。
「姉さん、私はまだ大丈夫です」
「駄目だ。もう十分いる」
「でも――」
「戻るぞ」
有無を言わせない。
メーテリアは少し困ったように笑ったものの、結局は素直に頷いた。
「分かりました」
そして立ち上がったところで、アルを見る。
「アル」
「はい?」
「少しだけ、一緒に来てもらえますか?」
「……え?」
「先ほどのお話がありますから」
アルの顔が固まった。
「今からですか?」
「はい」
「明日じゃ駄目ですか?」
「アル?」
「今行きます」
即答だった。
バンが吹き出す。
「頑張れよ」
「他人事だと思って!」
「他人事だろ」
「薄情者!」
アルフィアが冷たい目を向けた。
「早く来い、ゴミカス」
「アルフィアさんまで楽しんでません!?」
「不愉快だ。黙れ」
そんなやり取りをしながら三人は広間を出ていった。
少ししてリシェルたちも離れ、負傷が残る遠征隊員は早めに休ませられた。レグナイトとマキシムは最後まで残っている者たちへ適当に声を掛けてから、それぞれの眷族を連れて引き上げていく。
宴が本当に終わりに近づいた頃には、あれほど並んでいた料理もほとんど消え、酒瓶も空のものばかりになっていた。
「もうないのか?」
バンが酒瓶を逆さにする。
「それで最後だ」
ザルドが答えた。
「まだ飲めるぞ」
「知っている」
「なら追加しようぜ」
「店を開けさせる気か?」
「酒場ならまだやってんだろ」
「俺は行かん」
「付き合い悪ぃな」
「病人を酒場へ連れ回すな」
「ああ、そうだった」
「忘れるな」
ザルドは呆れたように言ったが、口元には僅かに笑みがある。
バンは立ち上がり、軽く身体を伸ばした。
「じゃ、オレも帰るわ」
「教会か」
「ああ」
「明日はどうする?」
「何もしねぇ」
「本当か?」
「何で疑うんだよ」
「お前の『何もしない』は信用できん」
「ひでぇな」
「第五十階層まで一人で行った男の言葉だぞ」
「それはダンジョン入った時点で何かしてんだろ」
「自覚はあるんだな」
「当たり前だ」
広間を出る前、バンは一度だけ振り返った。
つい数日前までダンジョンの奥にいた者たちが、今は机に突っ伏して眠り、別の者は残った料理を片づけ、パァルは最後まで何かの帳面を確認している。
世界最強の派閥。
英傑。
そんな肩書だけを聞けば、もっと近寄りがたい連中を想像する。
実際、戦えば化け物なのだろう。
だが酒を飲ませれば馬鹿な話をし、女の話で騒ぎ、主神が女湯を覗けば面白がる。
「……変な連中だな」
「お前が言うか?」
背後からザルドの声。
「オレは普通だろ」
「その言葉だけは認めん」
「じゃあな」
「ああ」
バンは笑いながら夜のオラリオへ出た。
◇
翌日。
古びた教会の地下室で目を覚ました時には、すでに朝と呼ぶには遅い時間になっていた。
バンはソファベッドの上で身体を起こし、しばらく天井を眺める。昨日はかなり飲んだが、身体に酒はほとんど残っていない。
「腹減ったな」
最初に考えたのはそれだった。
地下には食料も調理場もないため、起きれば街へ出るしかない。壁際に置いたクレシューズを取り、まだ新しい鞄が完成していないため使い続けている古い鞄を肩へ掛ける。
外へ出ると、昼前のオラリオはすでに騒がしかった。
商人の呼び声。
荷車の車輪。
武器を提げた冒険者。
どこからでも見えるバベル。
そして、どこかから漂ってくる肉を焼く匂い。
「今日はこっちだな」
予定はない。
ギルドからの呼び出しも、ヘファイストスの工房へ行く用事も、ダンジョンへ潜る予定もなかった。
昨日まで散々面倒事に付き合ったのだから、今日は飯を食い、酒でも飲み、まだ歩いていない場所を適当に見て回ればいい。
そう考えて、匂いにつられるまま一本の大通りへ出たところだった。
「――あいつか?」
「多分な」
「銀髪、長身、赤い服。聞いとった通りや」
聞き覚えのない声が耳へ入った。
バンは足を止めず、視線だけをそちらへ向ける。
通りの向こうには、七人ほどの一団がいた。
まず目についたのは、その中央にいる一人だった。
細身の身体に、身体の線がほとんど出ない男物めいたラフな服装。胸元も見事なまでに平坦で、糸のように細い目と、日に照らされて鮮やかに映える朱色の髪がひどく目立っている。
顔立ちは若い。
背丈もそれほど高くない。
見たところ、二十歳にも届いていない少年――あるいは、若い男にしか見えなかった。
ただし。
周囲を歩く冒険者たちとは、何かが違う。
「……神か」
最近は神々と顔を合わせる機会が増えたせいか、そのくらいは何となく分かるようになっていた。
つまり。
若い男の神。
それがバンの第一印象だった。
しかも、その男神らしき奴が明らかにこちらを見ながら、楽しそうに口元を吊り上げている。
「……面倒そうだな」
バンは何も見なかったことにして、そのまま別の道へ曲がろうとした。
「待ちぃや!」
背後から声が飛んできた。
「何で逃げんねん!」
「面倒そうだから」
「まだ何もしてへんやろ!」
「初対面の奴が大声で追ってきてる時点で十分だろ」
「それはあんたが逃げるからや!」
仕方なくバンは足を止めた。
振り返ると、朱色の髪をした神がずかずかと近づいてくる。その後ろには、先ほど見えた六人の冒険者たちも続いていた。
「で、誰だ?」
「うちはロキや。ロキ・ファミリアの主神」
「ロキ?」
「何や、知らんのか?」
「名前くらいは聞いたことあるぞ」
「おっ、さすがにうちの名前は――」
「ゼウスが言ってた」
ロキの笑顔が固まった。
「……あのエロ爺が?」
「ああ。朱色の髪した、口の悪ぃ騒がしい神がいるって」
「ほぼ悪口やないか!」
「ヘラも何か言ってたな」
「絶対もっとひどいやつやろ! 聞かんでええ!」
「何だったかな……」
「思い出さんでええって!」
バンは少し考えたものの、特に興味もなかったので肩を竦めた。
「まあいいや。それで何の用だ、坊主」
「……」
ロキが止まった。
後ろにいた大柄なドワーフの口元が、ぴくりと震える。
長い翡翠色の髪を持つエルフは目を閉じ、金髪の小人族は何とも言えない表情になった。
「……今、何て言うた?」
「何が?」
「最後」
「坊主」
「誰が坊主やぁぁぁっ!」
いきなり怒鳴られ、バンが眉を上げた。
「うるせぇな。違うのか?」
「違うわ! どこ見たらうちが男に見えんねん!」
ロキが自分の胸を指差した。
バンもそこを見る。
そして。
「……」
「……」
何もない。
本当に。
見事なまでに何もない。
服の上からでは、男女を判断する材料がほとんど存在していなかった。
「いや、そこ見ても分かんねぇぞ」
「殺すぞ!」
「あ」
そこでバンは、ようやく何かを思い出した。
「そういやゼウスが言ってたな」
「嫌な予感しかせぇへん!」
「『朱色の絶壁』」
「思い出すなぁぁぁぁぁっ!」
ロキの絶叫が大通りへ響いた。
周囲の通行人が何事かと振り返る。
バンはロキを上から下まで改めて眺めた。
「お前、女だったのか」
「今さら!?」
「てっきり男の神かと思ってた」
「神様に性別間違えられてここまで腹立ったん初めてや!」
「オレのせいじゃねぇだろ。格好も男みてぇだし」
「胸を見るな!」
「見ろって言ったのお前だろ」
「確認せぇとは言ってへん!」
その後ろで、ついに大柄なドワーフが堪えきれなくなった。
「ぶっ……はははははっ!」
「ガレスぅぅぅ!」
「す、すまん! じゃがこれは……!」
「何がおもろいねん!」
「主神様、初対面で完全に男と思われたのは久しぶりじゃのう」
「余計なこと言うな!」
翡翠色の髪のエルフ――リヴェリアが、額へ手を当てながら深く息を吐いた。
「ロキ。いい加減にしろ。街中だぞ」
「うちが悪いんか!?」
「少なくとも騒いでいるのはお前だ」
「こいつもやろ!」
指を差されたバンは首を傾げる。
「オレ?」
「お前以外誰がおんねん!」
「知らねぇよ」
「ほんま腹立つわ、こいつ……!」
ロキが額に青筋を浮かべる。
バンはそんな姿を眺めながら、もう一度だけ思った。
やはり。
面倒な神だった。
長い翡翠色の髪を持つハイエルフが、呆れたように口を挟む。
「ロキ。本題へ入れ。彼は本当に立ち去るぞ」
「分かっとるわ、リヴェリア!」
バンはロキの後ろにいる者たちへ目を向けた。
前にいる三人は、明らかに後ろの三人より場数を踏んでいる。ノワール、ダイン、バーラ。ロキ・ファミリアの古参として長く前線に立ってきた者たちだ。
その後ろにいるのが、先ほどロキに名前を呼ばれたガレスとリヴェリア。そして金髪碧眼の小人族。
どいつも弱くはない。
街を歩いている普通の冒険者とは、立ち方から違う。
「強ぇの揃えて来たな」
バンが言った。
「分かるん?」
「ああ」
「なら話が早い」
「帰っていいか?」
「何でやねん!」
「飯食いに行く途中なんだよ」
「あんた、ほんま食い物のことばっかりやな……」
「大事だろ」
「まあええ」
ロキは咳払いをしてから、妙に楽しそうな笑みを浮かべた。
「バン。あんた、うちのファミリアに入らへん?」
「嫌だ」
「早いわ!」
「聞いたから答えただけだろ」
「少しくらい考えろ!」
「考えても同じだ」
バンが再び歩こうとすると、金髪の小人族が一歩前へ出た。
「待ってくれ。せめて話だけでも聞いてほしい」
「お前は?」
「フィン・ディムナ」
「ふぅん」
「……それだけかい?」
「他に何がいる?」
フィンは少し苦笑した。
「君のことは、僕たちも聞いている。神の恩恵を持たず、どのファミリアにも所属していない。それなのにベヒーモス討伐へ参加し、その後は一人でダンジョンへ入って第五十階層まで到達した」
「……随分知ってんな」
「君ほど目立てば、嫌でも噂になる」
「勝手に調べられんのは気持ち悪ぃけどな」
フィンが一瞬言葉を失う。
ガレスがまた笑った。
「はっきり言う男じゃ」
「知らねぇところで調べられて喜ぶ奴いるか?」
「まあ、それはそうだね」
「フィン! そこで納得せんでええ!」
ロキが横から突っ込む。
フィンは気にせず続けた。
「それでも、君の力には興味がある。僕たちは今より強くならなければならない」
「何で?」
「上にいるからだ」
今度は迷わなかった。
「ゼウス・ファミリアと、ヘラ・ファミリアが」
空気が少しだけ変わる。
ロキも先ほどまでより真面目な顔になった。
「今のオラリオの頂点は、あの二つや。それはうちも認めとる」
「けど」
フィンが続ける。
「いつまでも見上げているつもりはない。僕たちはあの二つに追いつき、いつか超える。そのためには、今よりもっと力が必要だ」
「だからオレを入れたいって?」
「そういうことだ」
「やっぱ嫌だ」
「なんでや!」
ロキが叫ぶ。
「別にお前らが嫌だからじゃねぇよ。どこにも入る気がない」
「ゼウスんとこにも?」
「断った」
「ヘラんとこは?」
「同じだ」
ロキの顔が引きつった。
「……あの二つから誘われて断ったん?」
「ああ」
「何やこいつ……」
「だから言っただろ。所属する気ねぇって」
フィンがバンを見上げる。
「誰かの下につくことが嫌なのか?」
「まあ、それもあるな」
「では、誰の命令も聞かない?」
その問いにだけ、バンの返事が少し遅れた。
「いや」
フィンの目が僅かに動く。
「いるんだね」
「あ?」
「君が命令を聞いてもいいと思う人が」
バンは少し黙り、それから答えた。
「一人だけな」
「誰や?」
ロキがすぐに食いつく。
「教えねぇ」
「何でや!」
「お前らに関係ねぇだろ」
「気になるやん!」
「知らねぇよ」
ダインが腕を組んだ。
「ゼウスでもマキシムでもないのか?」
「違う」
「ヘラ側でもない?」
「違う」
「では、この都市にはいないのですね」
バーラの問いに、バンは答えなかった。
その沈黙を見て、フィンは何かを察したようだった。
「その人は、君がいた場所の人なのか」
「……まあな」
「どんな相手や?」
ロキが尋ねる。
バンは少しだけ目を細めた。
「団長だよ」
「団長?」
「ああ」
小柄な男の顔が浮かぶ。
何度喧嘩したかも分からない。
何度一緒に死線を越えたかも分からない。
馬鹿みたいに笑って、ろくでもない料理を客へ出して。
それでも誰より信用できる。
「オレが団長と認めてる奴は一人だけだ。そいつ以外の命令を聞く気はねぇ」
しばらく誰も口を挟まなかった。
やがてロキが細い目をさらに細める。
「でも、その団長は今ここにおらんのやろ?」
「ああ」
「いつ戻れるかも分からへん」
「そうだな」
「それでもか?」
「それでもだ」
即答だった。
ダインが僅かに鼻を鳴らす。
「理解できんな」
バンの視線が動く。
「何が?」
「どれだけ優れた男か知らんが、今ここにいない者だろう。お前がどれだけ危険な目に遭っても助けには来ない。何の力も貸さず、命令すら直接できない男をいつまでも団長と呼び続けて、目の前の機会を捨てるのか?」
「ダイン」
ノワールが低く名を呼ぶ。
だが、ダインは止まらなかった。
「お前ほどの力を持ちながら、存在するかどうかも分からん過去の関係に縛られるのは愚かだと言っている」
バンの顔から笑みが消えた。
「……お前」
声は大きくなかった。
怒鳴ってもいない。
それでも、その場にいた全員が言葉を止めた。
「今、何つった?」
ダインもバンを見る。
「過去に縛られるのは――」
「そこじゃねぇ」
空気が変わる。
殺気ではない。
魔力でもない。
バンはただ立っているだけだった。
それなのに、フィンの親指が僅かに動き、リヴェリアが表情を引き締める。ガレスからも笑みが消え、古参の三人まで無意識に足の位置を変えていた。
「知らねぇ奴のことを、勝手に決めんな」
「……」
「今ここにいるかどうかなんて関係ねぇよ。助けに来るかどうかも、命令できるかどうかも関係ねぇ」
バンはダインをまっすぐ見る。
「あいつが何したかも、何背負ってるかも、何も知らねぇんだろ?」
「……ああ」
「b》なら口出すな《/b》」
短かった。
それだけだった。
けれど、先ほどまで軽口を叩いていた男とは明らかに違った。
「オレがあいつを団長だって認めた。それで十分なんだよ」
ダインは黙った。
フィンが先に口を開く。
「こちらが踏み込みすぎた。すまない」
「フィン」
「僕たちは彼を勧誘しに来ただけだ。彼の仲間を侮辱するためじゃない」
ノワールもダインへ視線を向ける。
短い沈黙の後、ダインが息を吐いた。
「……言い方は悪かった」
「そうだな」
「随分はっきり言うな、お前」
「仲良くねぇ奴に気ぃ遣ってどうすんだよ」
「……なるほどな」
ダインは不満そうではあったが、それ以上は続けなかった。
バンも引きずるつもりはない。
ロキは先ほどまでのふざけた笑みを少し消し、バンを見ている。
「ほんまに大事なんやな。その団長」
「当たり前だろ」
「名前くらい教えてくれてもええやん」
「嫌だ」
「そこまで秘密にせんでもええやろ!」
「会ったばっかのお前に話す理由ねぇし」
「ぐぬぬ……」
フィンが小さく笑った。
そして、もう一度バンを見る。
「最後に一つだけいいかな」
「まだあんのか?」
「勧誘ではないよ」
「なら何だ?」
フィンは少し間を置いた。
「君は僕たちを見て、どう思う?」
「どうって?」
「僕たちと、ゼウス・ファミリア、ヘラ・ファミリアとの差だ」
ロキも、古参たちも止めなかった。
どうやら本当に知りたいらしい。
バンは七人を見渡した。
強い。
それは間違いない。
少なくとも、そこらの冒険者とは比べ物にならない。
だが。
マキシム。
レグナイト。
ザルド。
アルフィア。
パァル。
リシェル。
そして名も知らない多くの団員たち。
ベヒーモスという災害を前にしても逃げず、第七十一階層付近まで大遠征を行い、負傷者を抱えながら全員で帰ってきた連中。
「遠いな」
バンは答えた。
ダインの眉が動く。
リヴェリアの表情も僅かに硬くなった。
フィンだけは、目を逸らさない。
「どのくらい?」
「お前らが弱ぇって意味じゃねぇぞ。十分強い」
「なら、何が違う?」
「全部だな」
あっさりした返事だった。
「一人一人の強さもそうだし、人数も、経験も、戦い方も違う。あいつら、世界を滅ぼしかねねぇ化け物を殺すことを前提にしてるからな」
バンの頭に黒い砂漠が浮かぶ。
一人が強ければ勝てる戦いではなかった。
前線。
補給。
治療。
撤退経路。
結界。
何百という人間が一つの目的のために動き、ようやく災害へ届いた。
「強い奴を何人か増やせば追いつけるって差じゃねぇよ」
「……そうか」
「聞いといてへこむなよ」
「へこんではいない」
フィンは静かに笑った。
「むしろ、よかった」
「何が?」
「差があるなら、埋める場所がある」
その言葉に、バンは少しだけ目を細めた。
「そして、いつか超える」
「随分自信あんな」
「そうでも思わなければ、最初から追わないよ」
バンの口元が僅かに上がる。
「嫌いじゃねぇな、そういうの」
「おっ!」
ロキがすぐに身を乗り出した。
「ほんならうちに――」
「入らねぇ」
「最後まで言わせろや!」
ガレスが豪快に笑い、リヴェリアが深いため息を吐く。
「もう諦めろ、ロキ」
「嫌や! こんなん目の前におって諦められるか!」
「オレもう行くぞ」
「待ちぃ!」
「腹減った」
「飯くらいうちが奢ったる!」
バンの足が一瞬だけ止まった。
ロキの顔が輝く。
「おっ?」
「何食わせてくれんだ?」
「引っかかった!」
「じゃあいい」
「ああ待て待て! 今のなし! ほんまに奢るから!」
「勧誘すんだろ?」
「ついでにちょっとだけ!」
「嫌だね」
バンは再び歩き出した。
「待ちぃや、バン!」
ロキの声が背後から飛ぶ。
「まだ話終わってへん!」
「オレは終わった」
「勝手に終わらすな!」
今度はフィンの声も聞こえた。
「バン!」
「何だよ」
「いつか、もう一度聞かせてもらう」
「何を?」
「僕たちと、あの二つとの差を」
バンは振り返らず、片手だけを上げた。
「覚えてたらな」
「覚えさせるよ」
「そうかよ」
それだけ返して歩き続ける。
朱色の髪の女神の声は、しばらく後ろから聞こえていた。
バンには、この街の派閥争いなどどうでもいい。
ゼウスとヘラが頂点にいようが。
ロキがそこへ追いつこうが。
自分の帰る場所は別にある。
ただ。
最後までこちらを見ていた小人族の目だけは、少し印象に残った。
「……まあ、頑張れよ」
誰にも聞こえない程度に呟く。
直後。
風に乗って肉を焼く匂いが漂ってきた。
バンの意識はあっさりそちらへ向いた。
「お、こっちか」
結局。
今の彼にとっては、オラリオの頂点争いよりも。
昼飯の方が、よほど重要だった。