翌朝。古びた教会の扉を叩く音で、バンは目を覚ました。
「……うるせぇな」
地下室のソファベッドから身体を起こす。昨日はロキに絡まれ、その後はフレイヤという女神に呼び止められ、結局そのまま夕方まで街を歩き回っていた。
今日は昼まで寝る。そう決めていたはずだった。だが、地上から響いてくる音は止まらない。むしろ先ほどより強くなった。
「バンさん! いますか!」
聞き覚えのある声まで聞こえてくる。
「……アルか」
仕方なく起き上がり、クレシューズを手にして階段を上る。扉を開けると、予想した通りアルが立っていた。いつもなら少しくらい冗談を言ってやるところだが、その顔を見てバンは口を閉じた。
「何かあったか?」
「はい」
アルは息を整えながら頷いた。
「ゼウス様とヘラ様からです。すぐに来てほしいと」
「朝っぱらから?」
「ポセイドン・ファミリアの急使がオラリオに到着しました」
バンの眠気が消えた。
「ポセイドン?」
「海で活動しているファミリアです。ゼウス様たちとも昔から協力関係があります」
「それで?」
アルの表情がさらに険しくなる。
「海で、大きな異変が起きています」
◇
ゼウス・ファミリアの本拠へ着いた時には、すでに主要な面々が集まっていた。ゼウス。ヘラ。マキシム。レグナイト。パァル。ザルド。アルフィア。リシェル。普段なら誰か一人くらい軽口を叩いていてもおかしくない面子だが、今日は誰も笑っていない。
長机の向こうには、見慣れない男が立っていた。
日に焼けた肌。潮風に晒され続けたのか、髪は乾いて硬く、衣服にも塩の跡が残っている。腰には短い剣があり、背中には水を弾くためなのか厚い布で包まれた荷物を背負っていた。何より目につくのは、疲労だった。長い距離をほとんど休まず移動してきたのだろう。
「来たか」
ゼウスが言った。
「悪いのう、バン。朝から呼び出して」
「それはいいけどよ」
バンは空いている椅子へ座る。
「海で何があった?」
急使の男がこちらを見る。
「この方が?」
「バンじゃ」
「……なるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「いえ。話は聞いています」
「またか」
バンが嫌そうな顔をすると、ザルドが僅かに口元を緩めた。
「諦めろ。お前はもう有名だ」
「面倒くせぇ」
「今はその話ではない」
アルフィアの一言で空気が戻る。急使も表情を引き締めた。
「では、最初から報告します」
男は机に広げられた海図へ手を置いた。
「異変が確認され始めたのは十日ほど前です」
「十日?」
マキシムが眉を寄せる。
「気づくのが遅くないか」
「最初は異変と判断できる規模ではありませんでした。潮の流れが通常より強くなり、一部海域で魚群の位置が変わった。それだけなら珍しくありません」
海には季節がある。風向きが変われば潮も変わり、水温が変われば魚も移動する。ポセイドン・ファミリアほど長く海で活動している者たちだからこそ、最初は自然現象として観察を続けていた。
「ですが五日前から、明らかにおかしくなりました」
男の指が海図の一点から、いくつもの方向へ動く。
「海洋モンスターの大移動が始まっています」
「群れか?」
パァルが問う。
「いいえ。一種類ではありません」
急使は首を振った。
「普段なら縄張りを争う種同士が、同じ方向へ逃げています。浅海種も深海種も関係ありません。大型種まで含まれています」
誰かが息を呑んだ。バンは黙って海図を見る。
「船を襲ってんのか?」
「逆です」
急使が答えた。
「こちらが近づいても襲ってきません」
「……逃げてるだけか」
「はい」
その一言で。バンの頭に、黒い砂漠が浮かんだ。
ベヒーモス。まだあの怪物の姿を見るより前。砂漠を歩いていた時、モンスターたちの様子がおかしかった。人間という餌が目の前にいる。それでも襲わない。もっと恐ろしいものから逃げることだけを考えていた。
「同じだな」
バンが呟く。
「何がだ?」
マキシムがこちらを見る。
「ベヒーモスの時だよ」
ザルドの表情が変わった。バンは続ける。
「あいつに会う前も、モンスターが逃げてた。オレらがいても見向きもしねぇでな」
「……そうだったな」
ザルドが低く答える。
「生物は、自分より強い捕食者から逃げる」
アルフィアが静かに言った。
「それが複数種に渡っているのなら、原因は一つと考える方が自然だ」
「まだあります」
急使の言葉に全員の視線が戻る。
「三日前、複数の船が帰港しませんでした」
リシェルが尋ねる。
「ポセイドン・ファミリアの船ですか?」
「一隻は我々の偵察船です。残りは民間船です」
室内の空気が重くなる。
「残骸は?」
「一部だけ」
「沈没したと断定できる?」
「できません」
「なぜ?」
「船体が見つからないからです」
急使は拳を握った。
「浮いていたのは樽や木箱、それに帆布の一部だけでした。破壊されたならもっと残骸が出るはずです。しかし、船そのものがありません」
「海へ引きずり込まれたか」
パァルが言う。
「その可能性があります」
バンが眉を寄せた。
「船ってどれくらいでかい?」
「我々の偵察船なら、海洋モンスターと戦うことを前提に造っています。大型種の突進を一度受けた程度で沈むものではありません」
「それが丸ごとか」
「はい」
急使はそこで一度息を吸った。
「そして昨日」
誰も口を挟まない。
「我々の監視船が、異常な波を観測しました」
「嵐か?」
「空は晴れていました」
「地震?」
「確認されていません」
ゼウスの顔から、普段の軽さが完全に消えていた。
「続けよ」
「風もない。雨もない。にもかかわらず、水平線の向こうから巨大な波が来ました。通常の高波とは違います。一度だけです」
「一度?」
「はい」
「津波なら何度か続くだろう」
マキシムが言う。
「我々もそう考えました」
急使の声が僅かに低くなる。
「ですが、その直後です」
男は海図のさらに沖を指差した。
「見張りが、海面の下に巨大な影を確認しました」
静寂。
「どれくらいだ?」
レグナイトが初めて口を開いた。急使はすぐには答えなかった。
「正確には分かりません」
「見間違いではないでしょうね」
「三人が同時に確認しています」
「大きさを聞いているのよ」
「……船より大きかった」
「当たり前でしょう」
レグナイトの目が鋭くなる。
「大型の海洋モンスターなら珍しくもないわ」
「違います」
男が首を振る。
「あれは、その程度ではありません」
もう一度。沈黙。
「影の端が」
急使は言葉を選ぶ。
「見えませんでした」
バンが僅かに目を細めた。
「どういう意味だ?」
「我々の船の下を通ったわけではありません。かなり離れていました。それでも、海面の下に黒い影が広がっていた。見張り台から見ても、どこまでが身体なのか分からなかったんです」
「島でも見たんじゃないのか?」
「動きました」
即答だった。
「その影が動いた直後、海流が変わりました」
誰も笑わなかった。急使はさらに続ける。
「付近にいた海洋モンスターが、一斉に逃げました」
「……なるほどのう」
ゼウスが椅子の背へ身体を預ける。だが、その目だけは笑っていない。ヘラも腕を組んだまま、海図を見下ろしていた。
「ポセイドンは?」
「主神は現在も海上です」
「本人が確認したの?」
「まだです。我々の主力が影を確認した海域へ向かっています」
「なら、この報告は先走りではないかしら」
ヘラの言葉は冷静だった。急使は頷く。
「その通りです」
「では、どうしてあなたをオラリオまで走らせたの?」
男が一瞬だけ黙る。
「主神からの命令です」
「内容は?」
急使は背負っていた荷物を下ろした。防水布を解き、その中から小さな金属製の筒を取り出す。
「ゼウス様とヘラ様へ、直接届けろと」
パァルが受け取り、封を確認する。
「開けるぞ」
ゼウスとヘラが頷く。
中には一枚の紙が入っていた。海水を避けるためか、厚手の素材に短い文章が書かれている。パァルがそれを読み。僅かに眉を寄せた。
「何と?」
マキシムが問う。パァルは紙を机へ置いた。
「『最悪を想定しろ』」
それだけではなかった。
「『海は、あれが眠っていた頃と同じ兆候を見せている』」
ゼウスの目が細くなる。ヘラの指が机を一度叩いた。
「ほかには?」
「『確証を得次第、再度連絡する』」
そして。最後の一文。
「『その時は――海上要塞を起こす』」
「海上要塞?」
バンが聞き返す。
「何だそれ」
「今はまだ説明する段階ではないわ」
ヘラが答えた。
「ポセイドンの判断が正しければ、嫌でも知ることになる」
「随分でけぇ話っぽいな」
「ええ」
レグナイトが静かに言う。
「世界の海を相手にする話よ」
バンは周囲を見る。ゼウス。ヘラ。マキシム。レグナイト。ザルド。アルフィア。ベヒーモスの時にも顔を合わせた者たちだ。あの時と同じ。誰もまだ断定していない。だが。全員が同じ名前を考えている。
「なあ」
バンが口を開く。
「お前ら、心当たりあんだろ」
ゼウスが小さく息を吐いた。
「ある」
「ベヒーモスと同じやつか?」
「同じ三大クエストという意味なら、そうじゃ」
「残り二つのうち?」
「そうよ」
今度はヘラが答えた。
「陸の覇王がベヒーモス」
彼女の指が、海図へ触れる。
「そして海には――別の怪物がいる」
バンは海図を見た。
「名前は?」
一瞬。誰も答えなかった。やがてアルフィアが、いつもの冷たい声でその名を口にした。
「リヴァイアサン」
バンの視線が上がる。
「……そいつが?」
「まだ確定ではない」
マキシムが言う。
「巨大な海洋モンスターである可能性は他にもある。影を見ただけで三大クエストと決めつけるのは早い」
「だが」
ザルドが続ける。
「モンスターの異常な逃走。船の消失。海流の変化。巨大な影」
「偶然として片づけるには重なりすぎています」
リシェルも同意する。レグナイトはしばらく黙って海図を見ていた。そして。
「マキシム」
「何だ」
「遠征帰りだから休ませる、という話は撤回するわ」
「最初からそんなつもりはない」
「そう」
女帝の口元が僅かに上がる。
「パァル。ゼウス側の戦力状況をまとめなさい」
「分かった」
「リシェル」
「はい」
「こちらも同じよ。負傷者、装備、魔導士隊、治療要員まで全部」
「承知しました」
「アルフィア」
「何だ」
「休みなさい」
アルフィアの眉が動いた。
「必要ない」
「命令よ」
「まだ何も決まっていない」
「だからよ」
レグナイトは一切引かなかった。
「本当にリヴァイアサンなら、お前を使わずに済むとは思っていない」
「……」
「今から無駄に消耗するな」
アルフィアは不満そうに目を細めたが、それ以上は反論しなかった。バンはそのやり取りを眺める。
「で、オレは?」
レグナイトがこちらを見る。
「何?」
「また呼んだってことは、何かあんだろ」
「まだ何も頼んでいないでしょう」
「帰っていいのか?」
「駄目よ」
「やっぱあんじゃねぇか」
ゼウスが小さく笑った。ほんの僅か。室内に張りつめていた空気が緩む。
「バン」
「何だ?」
「もし本当に奴じゃった場合」
白髭の大神が言う。
「また力を貸してくれるかの?」
バンは少し考えた。
ベヒーモス。黒い砂漠。毒。何人もの人間が死にかけ、それでも最後まで食らいついた戦い。あれと同じ三大クエスト。今度は海。
「まだ見てもねぇ奴のこと聞かれてもな」
「それもそうじゃな」
「でもまあ」
バンは椅子から立ち上がった。
「見に行くくらいは付き合ってやるよ」
「それで十分じゃ」
「その代わり」
「何じゃ?」
「船には酒積めよ」
一瞬の沈黙。ザルドが額へ手を当てた。
「お前は……」
「長旅になるんだろ?」
「まだ出発するとすら決まっていない」
「だったら決まった時でいい」
パァルがため息を吐く。
「酒より先に考えるものがあるだろう」
「飯?」
「違う」
ほんの少しだけ笑いが起きた。だが。それも長くは続かなかった。
海図の上には、急使が印を付けた海域が残っている。誰も見たことのない巨大な影。逃げ続ける海の怪物。消えた船。異常な潮。そして。ポセイドンから届いた一文。
――最悪を想定しろ。
バンはその言葉を見下ろした。
「三大クエスト、か」
小さく呟く。
一つは終わった。だが。世界には、まだ二つ残っている。そのうち一つが。今。海の底で目を覚まそうとしていた。