強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第10話です。
赤い旅人の続きになります。


第10話 黒砂の縁

ハルファの朝は、静かだった。

 

静かすぎた。

 

砂漠の朝には、本来なら風の音がある。

砂が石壁を撫でる音。

水を汲む桶の音。

荷を積む商人の声。

砂漠船の帆布を叩く乾いた音。

 

だが、その朝はどれも小さかった。

 

誰もが、声を落としていた。

足音まで、砂に吸われるように低い。

 

バンは酒場の前に置かれた低い椅子に座り、朝飯を食べていた。

 

硬いパン。

豆と乾燥肉の煮込み。

黒砂酒ではなく、薄めた酸っぱい果実水。

 

酒ではないのが不満だったが、味は悪くない。

 

ナジュが鍋をかき混ぜながら言う。

 

「今日は酒は出さないよ」

 

「朝から強い酒は駄目ってか」

 

「あんたが飲めても、黒砂の縁まで歩く連中に酒は飲ませない」

 

「戻ったら?」

 

「戻ったら出す」

 

「いい女将だな」

 

「戻れたらね」

 

ナジュは冗談めかして言ったが、声は軽くなかった。

 

バンは煮込みを口に運ぶ。

 

豆は硬め。

肉も筋張っている。

だが、苦草の風味が昨日より少し抑えられていた。

 

「味、変えたな」

 

ナジュは少し眉を上げる。

 

「分かるのかい」

 

「苦味が弱い。朝用か?」

 

「黒砂の縁に行く前に、腹を重くしすぎるわけにはいかないからね。苦草を入れすぎると胃が重くなる」

 

「よく考えてんな」

 

「ここで飯を出すってのは、そういうことだよ」

 

バンは少しだけ笑った。

 

ただ腹を満たすだけではない。

 

この集落では、飯も道具の一つなのだ。

 

砂漠を歩くため。

黒砂に近づくため。

戻ってくるため。

 

ナジュの飯は粗いが、雑ではない。

 

バンはそういう飯が嫌いではなかった。

 

やがて、調査隊の面々が酒場の前に集まった。

 

砂漠の案内役であるジャミル。

腕に包帯を巻いた冒険者ダリオ。

槍を持つ女冒険者ミラ。

見張り台の若者、リク。

ハルファの薬師の助手である小柄な少女、サナ。

そして、バン。

 

サイモンは今回は同行しない。

 

砂漠船と荷を守るため、ハルファに残ることになっていた。

 

サイモンは不安そうな顔で言う。

 

「本当に行くのか」

 

ジャミルが答える。

 

「行かなければ、次にどこまで黒砂が伸びるか分からん」

 

「それは分かるが……」

 

サイモンはバンを見る。

 

「あんたも、気をつけてくれ」

 

「戻ったら酒が出るらしいからな」

 

「それ、命をかける理由になるのか?」

 

「十分だろ」

 

サイモンは困った顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 

ナジュが全員に布袋を渡す。

 

中には、乾いたパン、塩、薬草、少量の干し肉が入っている。

 

「黒砂には素手で触るな。傷を負ったらすぐ洗う。妙な匂いのする魔物は食うな。黒い筋の入った肉も駄目。水を無駄にするな。地鳴りが二度続いたら戻る」

 

バンが言う。

 

「飯は?」

 

「袋に入れた」

 

「酒は?」

 

「ない」

 

「つまんねぇな」

 

「死にたくなきゃ水を飲みな」

 

バンは肩をすくめた。

 

「分かったよ」

 

ナジュはバンの腰のクレシューズを見る。

 

「それと、赤いの」

 

「あ?」

 

「あんたの盗る力。黒砂相手には深く使うんじゃないよ」

 

バンは少しだけ目を細めた。

 

「分かってる」

 

「本当かい」

 

「盗ってまずいもんくらい、さすがに分かる」

 

「ならいい」

 

ナジュはそう言って、最後に小さな革袋を渡した。

 

「灰と薬草を混ぜたものだ。黒砂持ちに触れたら、これで洗いな」

 

「助かる」

 

「代金は戻ってから働いて払いな」

 

「飯代じゃねぇのか」

 

「それは別」

 

「商売上手だな」

 

「生き残るにはね」

 

バンは笑って、革袋を懐に入れた。

 

調査隊はハルファの東門を出た。

 

黒い砂漠へ向かう道は、道とは呼びにくかった。

 

砂の上に、ところどころ石が並べられている。

古い目印の柱。

半分埋もれた骨。

風で削られた岩。

 

人が歩いた痕跡はある。

だが、それは暮らしの道ではない。

 

必要に迫られた者だけが使う、境界への道だった。

 

ハルファから離れるにつれ、風が重くなる。

 

砂の色も少しずつ変わった。

 

最初は薄い黄土色。

そこに灰色が混じり、やがて黒い粒が目立ち始める。

 

ジャミルは先頭を歩きながら、地面を見ていた。

 

「昨日より黒い粒が多い」

 

リクが緊張した声で答える。

 

「見張り台から見た時も、縁が近くなっているように見えました」

 

ダリオが槍を担ぎ直す。

 

「気のせいであってほしかったな」

 

ミラは黙って周囲を見ている。

 

その槍の穂先には、布が巻かれていた。

 

黒砂に直接触れた魔物と戦う時、血や砂が手元へ飛ばないようにするためらしい。

 

サナは薬草袋を胸に抱え、何度も足元を確認している。

 

まだ若い。

 

トマとそう変わらない年頃かもしれない。

 

バンはその様子を横目で見た。

 

「怖ぇなら、戻ってもいいんじゃねぇか」

 

サナはびくっと肩を震わせた。

 

だが、すぐに首を横に振る。

 

「薬師の手が必要になるかもしれません。私は、手当てならできます」

 

「無理すんなよ」

 

「……バンさんに言われると、説得力があるような、ないような」

 

「あるだろ」

 

ダリオが笑う。

 

「無茶してそうな顔してるからな、兄さんは」

 

「顔で決めんな」

 

「実際、昨日も無茶してた」

 

「飯の途中だったから早く終わらせたかっただけだ」

 

サナが少し笑った。

 

緊張がほんの少しだけ緩む。

 

ジャミルはそれを見て、何も言わなかった。

 

しばらく進むと、古い見張り石が見えてきた。

 

黒砂の縁を監視するために置かれた石柱だという。

 

本来なら、砂の中から人の背丈ほど突き出ているはずだった。

 

だが、今は半分ほど埋まっていた。

 

しかも、石の下部が黒く染まっている。

 

リクが顔をこわばらせる。

 

「昨日見た時は、ここまで埋まっていませんでした」

 

ジャミルが膝をつき、砂を手袋越しにすくう。

 

指の間から、黒い粒がこぼれた。

 

「ただ飛んできた砂ではないな」

 

「どういうことだ」

 

ダリオが聞く。

 

「下から混じっている。黒砂が表面に乗ったのではなく、普通の砂の下から染み出している」

 

ミラが周囲を見る。

 

「地面が変わっている?」

 

「そういうことだ」

 

バンは見張り石のそばへ近づいた。

 

石に手を伸ばそうとして、やめる。

 

ナジュに言われたからではない。

 

触る前から、嫌な感じがした。

 

石そのものはただの石だ。

だが、下から染み上がる黒砂が、石の表面に薄く絡んでいる。

 

魔物ではない。

生き物でもない。

 

それなのに、何かの息がかかっているようだった。

 

「……気持ち悪ぃな」

 

リクが青い顔で聞く。

 

「何か分かるんですか?」

 

「分かんねぇ。分かんねぇけど、飯前に触るもんじゃねぇ」

 

ダリオが苦笑する。

 

「結局そこか」

 

「大事だろ」

 

ジャミルは見張り石の位置を地図に書き込み、昨日の記録と見比べる。

 

「縁が近い。半日どころではない。場所によっては、かなり速い」

 

ミラが言う。

 

「奥で何かが動いた?」

 

「その可能性が高い」

 

その時、砂の上を何かが走った。

 

小さな影。

 

バンの目が動く。

 

「右」

 

言葉と同時に、ミラが槍を構えた。

 

砂の下から、黒い筋の入った砂蜥蜴が飛び出す。

 

だが、ミラの反応は速かった。

 

槍の石突きで頭を叩き落とす。

 

砂蜥蜴は地面を転がり、すぐに逃げようとする。

 

ダリオが槍で押さえた。

 

「黒砂持ちだ」

 

砂蜥蜴の身体には、黒い筋が走っていた。

 

昨日の個体ほど全身が染まっているわけではない。

だが、目が濁り、口から黒い砂混じりの唾液が落ちている。

 

サナが震える声で言う。

 

「まだ完全には染まっていない……?」

 

バンはしゃがみ込み、距離を取って観察した。

 

魔石の気配はない。

 

地上の魔物だ。

 

だが、身体の中に黒砂の流れが入り込んでいる。

 

血に混ざっているのか。

魔力に絡んでいるのか。

それとも、もっと別のものか。

 

バンは右手を少しだけ伸ばす。

 

ジャミルが鋭く言った。

 

「深くやるな」

 

「分かってる」

 

盗るのではなく、触れる。

 

力の表面をなぞるだけ。

 

バンは砂蜥蜴の動きの端に意識を合わせた。

 

呼吸。

脚の痙攣。

逃げようとする力。

 

そこに、黒い何かが混じっている。

 

ざらつく。

 

普通の魔力とは違う。

 

生き物の流れに、砂の重さが食い込んでいる。

 

バンはすぐに手を引いた。

 

指先がじんと痺れる。

 

「まだ浅いな。こいつ自体は戻せそうな気もするが……」

 

サナが目を見開く。

 

「治せるんですか?」

 

「治すってほどじゃねぇよ。黒いのを抜けば、少しはマシになるかもってだけだ」

 

ダリオが眉をひそめる。

 

「やるのか?」

 

バンは砂蜥蜴を見た。

 

小さい。

 

狂ってはいるが、まだ黒砂に完全に飲まれてはいない。

 

食えるかどうかで言えば、食わない方がいい。

素材価値も大したことはない。

 

だが、試す価値はあった。

 

この程度の黒砂も抜けないなら、この先もっと大きなものには触れない。

 

バンは軽く息を吐く。

 

「ちょっとだけだ」

 

クレシューズの先で砂蜥蜴の身体を押さえる。

 

直接触れない。

 

右手を伸ばし、力の端を掴む。

 

奪うのは、砂蜥蜴の生命力ではない。

身体能力でもない。

黒く入り込んだ異物の流れ。

 

ただし、全部ではなく、ほんの表面だけ。

 

「強奪《スナッチ》」

 

指先に、ざらりとした感触が絡みついた。

 

砂を握り込んだような不快感。

 

黒い筋の一部が、砂蜥蜴の身体から浮き上がる。

 

バンの手元へ引かれる。

 

だが、次の瞬間、それはただの砂のように崩れ、空気中に散った。

 

バンはすぐに手を振り払う。

 

指先から黒い粒が落ちた。

 

「っ、まずいな」

 

サナが慌てて灰と薬草の袋を差し出す。

 

「洗ってください!」

 

「あいよ」

 

バンは灰を手にすり込み、水で洗う。

 

指先の痺れは強くなったが、耐えられないほどではない。

 

砂蜥蜴はしばらく痙攣し、それから動きを止めた。

 

死んだのではない。

 

呼吸はある。

 

目の濁りが少しだけ薄くなっていた。

 

しかし、黒い筋は完全には消えていない。

 

ミラが静かに言う。

 

「少し抜けた」

 

「少しだけな」

 

バンは顔をしかめた。

 

「全部やると、こっちが持ってかれる」

 

ジャミルが砂蜥蜴を布袋に入れる。

 

「ハルファへ持ち帰る。薬師に見せる」

 

ダリオが驚く。

 

「生かして持ち帰るのか」

 

「情報になる」

 

バンは頷いた。

 

「食えねぇなら、せめて役には立ってもらわねぇとな」

 

サナは砂蜥蜴の袋を見つめていた。

 

「黒砂を抜けるなら、人も助けられるかもしれません」

 

「かもな」

 

バンは短く答えた。

 

期待させすぎるのは嫌だった。

 

黒砂はただの毒ではない。

呪いとも違う。

 

バンが少し盗れたのは、相手が小さく、染まりきっていなかったからだ。

 

人間に入り込んだ時。

大型魔物に染み込んだ時。

そして、黒い砂漠の奥にいる何かから直接流れてきた時。

 

同じようにできる保証はない。

 

調査隊はさらに進んだ。

 

古い見張り石を越えると、黒砂の密度が明らかに増した。

 

普通の砂の上に黒い粒が混じるのではない。

 

ところどころ、砂そのものが黒い。

 

踏むと、音が違う。

 

さらさらではなく、ずしりと重い。

 

ジャミルは全員に布を巻くよう指示した。

 

「ここからは風に気をつけろ。黒砂が目に入ると厄介だ」

 

リクが見張り台で使う遠眼鏡を取り出す。

 

遠くの地形を確認するためだ。

 

「古い祠が見えます。けど……半分崩れてます」

 

ジャミルが地図を見る。

 

「祠までは行かない。今日は縁の確認だけだ」

 

バンは遠くを見る。

 

確かに、砂丘の向こうに石造りの何かが見えた。

 

半分ほど黒砂に埋もれている。

 

その周囲に、骨のような白いものが散らばっていた。

 

獣の骨か。

魔物の殻か。

人のものではないといいが。

 

その時、地面が低く鳴った。

 

一度。

 

全員が止まる。

 

ジャミルが片手を上げる。

 

「動くな」

 

砂が震えている。

 

足元から伝わる、深い振動。

 

黒砂の奥からだった。

 

バンは息を止めた。

 

地面の下に、何かがいる。

 

近いわけではない。

だが、あまりにも大きい。

 

遠くで山が寝返りを打ったような振動が、砂を通して届いている。

 

バンの右手が疼く。

 

強奪《スナッチ》が反応している。

 

盗れるものがあるからではない。

 

あまりにも巨大な流れが、そこにあるからだ。

 

川を見れば水の流れが分かる。

風を受ければ空気の流れが分かる。

 

それと同じように、バンの魔力が、黒砂の奥にある巨大な力の動きを感じ取ってしまっている。

 

「……でけぇ」

 

思わず声が漏れた。

 

ダリオが小声で聞く。

 

「何が見える」

 

「見えちゃいねぇよ」

 

「じゃあ何が」

 

「地面の下で、馬鹿でけぇ何かが動いてる」

 

サナの顔が青くなる。

 

「ベヒーモス……?」

 

誰も答えなかった。

 

答えられなかった。

 

地鳴りがもう一度響いた。

 

二度目。

 

ジャミルの顔が変わる。

 

「戻る」

 

ナジュの言葉が全員の頭にあった。

 

地鳴りが二度続いたら戻る。

 

ダリオが頷く。

 

「異論なし」

 

ミラも槍を構え直す。

 

「魔物が動く」

 

その言葉の直後だった。

 

黒砂の表面があちこちで盛り上がった。

 

ワーム。

砂蜥蜴。

小型の甲虫。

種類の違う魔物が、同じ方向へ逃げ出してくる。

 

その先には、調査隊がいた。

 

リクが叫ぶ。

 

「来ます!」

 

「走れ!」

 

ジャミルの号令で、全員が来た道を戻り始めた。

 

だが、砂は重い。

 

黒砂混じりの地面は、足を取る。

 

サナが一度つまずいた。

 

バンはすぐに襟首を掴み、引き上げる。

 

「走れるか」

 

「はいっ」

 

「転ぶなよ。飯が遅くなる」

 

「こんな時にそれですか!?」

 

「こんな時だからだろ」

 

サナは息を切らしながらも、少しだけ表情を戻した。

 

背後から魔物の群れが迫る。

 

逃げているだけの個体もいる。

だが、黒砂に染まった個体は、動くものを見ると襲いかかってくる。

 

ダリオが一匹を槍で弾く。

 

ミラが別のワームを突き落とす。

 

ジャミルは道を見失わないよう、目印の石を確認している。

 

バンは最後尾に回った。

 

「先行け」

 

ダリオが振り返る。

 

「一人で止める気か!」

 

「止めねぇよ。流すだけだ」

 

バンはクレシューズを構えた。

 

群れが来る。

 

小型が多い。

だが、数が厄介だ。

 

深く強奪は使えない。

 

黒砂の流れをまとめて掴めば、右手どころでは済まない。

 

だから、奪うのは一瞬だけ。

 

方向。

 

勢い。

 

足並み。

 

「こっちじゃねぇよ」

 

クレシューズが伸びる。

 

先頭のワームを叩き、横へ流す。

砂蜥蜴の跳躍の勢いを少しだけ盗り、進路をずらす。

甲虫の脚を絡めて転ばせる。

 

倒す必要はない。

 

殺す必要もない。

 

ただ、調査隊の進路から外す。

 

バンは次々に流れを変えていった。

 

だが、黒砂持ちが混じるたびに、手首へ嫌な痺れが返る。

 

「っ、しつけぇな」

 

黒い筋の入ったサンドホーンの若い個体が突っ込んできた。

 

まだ成体ほど大きくはない。

だが、角は鋭く、勢いはある。

 

バンはクレシューズを角へ絡める。

 

深く盗らない。

 

向きだけ。

 

そう思った瞬間、黒い流れが指先へ噛みつくように絡んだ。

 

「……!」

 

バンは即座に切る。

 

奪うのをやめ、身体をひねる。

 

サンドホーンの角が赤いロングコートをかすめた。

 

布が裂け、脇腹に浅く血が滲む。

 

バンは舌打ちしながら、クレシューズを畳んで首の隙間を打った。

 

サンドホーンが横倒しになる。

 

倒した。

 

だが、右手が強く痺れる。

 

脇腹も痛む。

 

不死身ではない身体が、痛みをきっちり伝えてくる。

 

「面倒くせぇ……!」

 

それでも、足は止めない。

 

バンは砂を蹴り、調査隊の後を追う。

 

ハルファへ戻る道は、来た時よりずっと長く感じた。

 

黒砂の縁が背後で蠢いている。

 

地鳴りはもう止んでいる。

だが、一度動いた魔物の群れは、まだ散りきっていない。

 

ようやく古い見張り石まで戻ったところで、ジャミルが叫んだ。

 

「ここまで来れば、少し軽くなる!」

 

確かに、砂の色が薄くなった。

 

足取りも少し戻る。

 

リクが息を切らしながら遠眼鏡を覗く。

 

「追ってくる数、減りました!」

 

ダリオが肩で息をしながら笑う。

 

「助かった……」

 

ミラはまだ油断せず、槍を構えている。

 

サナは袋の中の黒砂蜥蜴を守るように抱えていた。

 

バンは一番後ろで足を止め、黒砂の方を見た。

 

遠くの砂丘が、ゆっくりと沈んでいた。

 

地面が落ちている。

 

いや、何かが下を通ったのかもしれない。

 

巨大なものが、砂の下で身じろぎした。

 

その影響だけで、砂丘が形を変えている。

 

バンは脇腹を押さえながら、笑った。

 

「寝返りでこれかよ」

 

ジャミルが隣に立つ。

 

「見たか」

 

「見えちゃいねぇよ。でも分かった」

 

「何が」

 

「今の俺じゃ、正面から盗る相手じゃねぇ」

 

ジャミルは何も言わなかった。

 

バンは続ける。

 

「全部盗ろうとしたら、こっちが潰れる。盗るなら、端だな。足先か、呼吸か、流れの切れ目。そういうとこだけだ」

 

「災害から盗むつもりか」

 

「盗れるもんがあるならな」

 

ジャミルはしばらくバンを見ていた。

 

そして、低く笑う。

 

「やはり、お前は変な男だ」

 

「よく言われる」

 

調査隊はハルファへ戻った。

 

集落の門では、ナジュとサイモンが待っていた。

 

全員が戻ったのを見て、ナジュは一瞬だけ安堵した顔をした。

 

だが、すぐに厳しい表情に戻る。

 

「報告は中で聞く。怪我人は?」

 

サナが答える。

 

「バンさんが脇腹を。あと、黒砂持ちを一匹、生きたまま持ち帰りました」

 

ナジュの目が鋭くなる。

 

「生きたまま?」

 

「少しだけ黒砂を抜きました。完全ではありませんが、反応が落ち着いています」

 

ナジュはバンを見る。

 

「あんた、また無茶したね」

 

「ちょっと試しただけだ」

 

「その顔で言うんじゃないよ」

 

「顔に出てるか?」

 

「出てる。腹が減ってる顔だ」

 

「なら飯だな」

 

ナジュは呆れたように息を吐く。

 

「まず傷を見せな」

 

「飯は?」

 

「手当ての後」

 

「酒は?」

 

「報告の後」

 

「順番が多いな」

 

「生きて戻っただけありがたいと思いな」

 

バンは肩をすくめた。

 

傷は浅い。

 

だが、黒砂持ちにかすめられた場所だ。

 

放っておくのはまずい。

 

ナジュとサナに半ば強引に酒場の奥へ連れて行かれ、傷を洗われる。

 

水。

灰。

薬草。

苦い匂いの塗り薬。

 

脇腹がじりじりと痛む。

 

バンは顔をしかめた。

 

「酒で洗った方がよくねぇか」

 

ナジュが即答する。

 

「飲む分が減る」

 

「それは駄目だな」

 

「分かればいい」

 

サナが小さく笑いながら、包帯を巻いた。

 

「無理しないでください」

 

「無理しねぇと戻れなかっただろ」

 

「それは、そうですけど」

 

「ならいい」

 

「よくないです」

 

サナは少し怒った顔をした。

 

バンはそれを見て、ふっと笑う。

 

「怒る元気があるなら、大丈夫だな」

 

「バンさんの心配をしてるんです」

 

「俺か?」

 

「そうです」

 

「変な奴だな」

 

「バンさんに言われたくないです」

 

ナジュが吹き出した。

 

手当ての後、調査隊は再び酒場に集まった。

 

卓の上には、地図。

黒砂の入った小皿。

そして、布袋に入れられた黒砂蜥蜴。

 

黒砂蜥蜴はまだ生きていた。

 

ただ、暴れない。

 

目は濁っているが、先ほどより落ち着いている。

 

薬師の老人がそれを見て、唸った。

 

「黒砂の侵食が浅い部分だけ抜けておる。完全ではないが、進行が鈍ったようにも見える」

 

ナジュがバンを見る。

 

「それが、あんたの盗る力かい」

 

「ああ。ただ、深くやるとこっちが危ない」

 

ジャミルが報告する。

 

「黒砂の縁は確実に伸びている。古い見張り石は半分埋まった。地鳴りは二度。奥で巨大なものが動いた可能性が高い」

 

ダリオが続ける。

 

「魔物は逃げていた。襲撃というより、押し出されている。黒砂に染まった個体は判断が狂う」

 

ミラが短く言う。

 

「奥にいるものが起きかけている」

 

酒場が静まり返った。

 

誰も、ベヒーモスの名を口にしなかった。

 

だが、全員がそれを考えていた。

 

バンはようやく出された煮込みを食べながら、言った。

 

「で、どうする」

 

ナジュが答える。

 

「ハルファだけでは抱えきれない。リオードに伝令を出す。オラリオにも知らせる必要がある」

 

サイモンが頷く。

 

「俺の砂漠船を使う。リオードまでは走れる」

 

ジャミルが言う。

 

「だが、黒砂持ちがまた出れば足止めされる」

 

ダリオが腕を組む。

 

「なら、護衛がいるな」

 

視線が自然とバンへ集まった。

 

バンは煮込みを食べる手を止める。

 

「何だよ」

 

ナジュが言う。

 

「あんた、飯と酒で動くんだろ」

 

「言い方」

 

「戻ったら黒砂酒を一樽出す」

 

バンの目が少しだけ動いた。

 

サイモンが慌てる。

 

「一樽!?ナジュ、それは高いんじゃ」

 

「命の方が高い」

 

ナジュはバンを真っ直ぐ見た。

 

「リオードまで伝令を守ってくれ。あんたがいると、黒砂持ち相手でも逃げ道を作れる」

 

バンはしばらく黙った。

 

黒砂の奥の巨大な気配。

生きたまま持ち帰った黒砂蜥蜴。

井戸の異変。

逃げる魔物。

ハルファの飯と酒。

 

放っておけば、この集落は飲まれる。

 

そうなれば、ここの煮込みも、黒砂酒も、ナジュの嫌味も、サナの怒った顔も、ジャミルの砂漠船も、全部消える。

 

飯がまずくなるどころではない。

 

飯そのものがなくなる。

 

バンは椀を置いた。

 

「一樽な」

 

ナジュが頷く。

 

「一樽だ」

 

「なら、やる」

 

サイモンが安堵したように息を吐く。

 

ジャミルは小さく笑った。

 

「本当に酒で動くのか」

 

「酒だけじゃねぇよ」

 

バンは黒砂の方角を見た。

 

酒場の小さな窓の外。

 

遠く、黒い砂漠が沈んでいる。

 

「ここの飯、まだ食い足りねぇ」

 

ナジュは少しだけ目を丸くし、それから笑った。

 

「なら、ちゃんと戻ってきな」

 

「酒もあるしな」

 

バンはそう言って、黒砂酒の杯を受け取った。

 

喉を焼く苦い酒。

 

飲み込むと、腹の奥に火が落ちる。

 

外では、黒い砂漠の風が低く鳴っていた。

 

その奥で眠る巨大な何かが、本当に目を覚ましつつあるのか。

 

まだ誰にも分からない。

 

ただ一つ、分かっていることがある。

 

黒砂の縁は、確実にハルファへ近づいていた。




第10話でした。
修正版では、調査隊が黒砂の縁へ向かい、黒砂の広がり、魔物の侵食、奥に眠る巨大な気配を確認する流れにしました。

また、黒砂に染まった小型魔物から一部だけ《強奪(スナッチ)》で抜く描写を入れ、バンが「完全に奪う」のではなく、危険を見極めながら一部だけ盗る方向へ調整していることを描写しました。

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