強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

12 / 13
第12話です。
第二部「黒い砂漠の強欲」の締めになります。
黒獣ベヒーモスは討たれましたが、砂漠の傷はすぐには消えません。
それでも、人は飯を食べ、酒を飲み、笑いを取り戻していきます。


第12話 赤い服の旅人

黒い風は、止んでいた。

 

完全に晴れたわけではない。

黒い砂はまだ地面に残り、空気には喉を刺す苦みがある。遠くの砂丘は灰色に沈み、地平線の向こうには、死んだ大地の影がまだ横たわっている。

 

だが、風は止んでいた。

 

砂漠を這い、井戸を濁らせ、布を腐らせ、酒杯を黒く染めたあの風は、もう唸っていなかった。

 

ハルファの集落で、最初にそれに気づいたのは子どもだった。

 

咳き込みながら天幕の外へ出た子どもが、空を見上げた。

 

「……お母さん」

 

母親が慌てて駆け寄る。

 

「外に出ちゃ駄目だよ」

 

「風、静か」

 

その言葉に、周囲の大人たちが顔を上げた。

 

誰もすぐには信じなかった。

信じるには、彼らは黒い風に奪われすぎていた。

 

水。

家畜。

荷。

酒。

道。

笑い声。

 

だが、確かに音が違っていた。

 

昨日まで、黒い砂漠の方角からは、低い獣の息のような風音が絶えず聞こえていた。遠くにいても耳の奥を汚し、胸の底を重くする音だった。

 

それが、ない。

 

ハルファの男たちは、恐る恐る集落の外へ出た。

ガラムは砂栗船の縁に立ち、黒い砂漠の方角を見ている。

ニロは水袋を抱えたまま、唇を噛んでいた。

ラシードは一言も発さず、湾曲剣の柄に手を置いている。

ラドは帳簿を開くことも忘れ、ただ黒い砂の先を見つめていた。

 

「……止まった、のか」

 

誰かが呟いた。

 

答える者はいなかった。

 

その時、黒い砂の向こうに、赤いものが見えた。

 

最初は、布切れかと思った。

黒い砂漠の中で、風に揺れる赤。

だが、それはゆっくりと近づいてきた。

 

人影だった。

 

エンジ色のロングコート。

肩に担がれた四節の棍。

血と黒砂に汚れた顔。

裂けた服。

ふらつく足取り。

 

それでも、その男は歩いていた。

 

ラドが息を呑む。

 

「バンさん……!」

 

ニロが駆け出そうとして、ラシードに肩を掴まれた。

 

「待て。黒砂が残っている」

 

「でも!」

 

「俺が行く」

 

ラシードが前へ出ようとした時、赤い旅人の方が先に手を上げた。

 

「来んな」

 

声は掠れていた。

だが、はっきり届いた。

 

「砂、まだまずい」

 

ガラムが顔を歪める。

 

「第一声がそれか、馬鹿野郎」

 

バンは黒い砂の境目まで来ると、そこで一度足を止めた。

靴についた黒砂を、面倒くさそうに何度か地面へ叩きつける。完全には落ちない。

それでも、ハルファ側の砂へ踏み出した。

 

その瞬間、彼の膝が揺れた。

 

ラシードが駆け寄る。

 

バンは倒れなかった。

クレシューズを杖代わりにして、どうにか立つ。

 

「触んな。砂がつく」

 

「自分の状態を見ろ」

 

「見たくねぇな。飯が不味くなる」

 

ラシードは歯を食いしばった。

 

バンの傷はひどかった。

脇腹、肩、太腿、頬。あちこちが裂け、毒砂に焼かれ、血で固まっている。右腕はまともに上がっていない。呼吸も浅い。

 

普通なら立っている方がおかしい。

 

だが、この男は立っていた。

 

ラドが震える声で尋ねる。

 

「ベヒーモスは……?」

 

バンは少し考えた。

 

「でかいのなら、どかした」

 

それだけだった。

 

ハルファの空気が止まった。

 

黒獣を。

ベヒーモスを。

災厄を。

 

どかした。

 

まるで、道に落ちていた邪魔な石を脇へ寄せたような言い方だった。

 

ガラムが低く笑った。

 

「本当に、酒の道を空けやがったのか」

 

「まだ飲んでねぇからな」

 

バンはそう言って、ふらりと歩き出す。

 

向かった先は、咳き込んでいた子どもの天幕だった。

 

母親が驚いて立ち上がる。

 

「ちょっと、あんた、その傷で」

 

「ガキは」

 

子どもは毛布にくるまっていた。

顔色はまだ悪い。だが、昨日より呼吸は少しだけ楽そうだった。黒い風が止んだせいか、咳の間隔も長くなっている。

 

子どもはバンを見て、目を丸くした。

 

「おじさん、帰ってきた」

 

「おじさんじゃねぇ」

 

「赤い服のおじさん」

 

「余計悪くなったな」

 

子どもは少し笑った。

 

笑ってから、咳をした。

だが、昨日より短い咳だった。

 

バンはそれを見て、小さく息を吐いた。

 

「飯、食ったか」

 

「まだ」

 

「鍋は?」

 

母親は呆れたように言った。

 

「あんた、帰ってきて最初にそれかい」

 

「腹減ってると治るもんも治らねぇだろ」

 

ハルファの中央で、また鍋が火にかけられた。

 

今回は昨日より少しだけ材料が多かった。

ガラムが船に残していた豆を出し、ラドが干し肉を出した。ラシードはサバハの香辛料を小袋から分けた。ニロは水袋を慎重に運び、こぼさないよう両手で抱えた。

 

バンは座ったまま、鍋を見ていた。

 

本当なら、自分で作りたかった。

だが、腕が上がらない。立っているだけでも身体中が軋む。

 

それを察したラシードが、鍋の前に座る。

 

「指示を出せ」

 

「お前が作んのか」

 

「不満か」

 

「焦がすなよ」

 

「誰に言っている」

 

「香辛料、入れすぎんな。弱ってる奴にはきつい。干し肉は細かく切れ。脂、捨てんな。豆に吸わせろ」

 

ラシードは黙って従った。

 

ガラムがそれを見て笑う。

 

「サバハの護衛が料理人の弟子みてぇだな」

 

「黙れ、船長」

 

「香辛料、もう少し入れた方がうまいんじゃねぇか?」

 

「弱ってる奴にはきついと言われただろう」

 

「お、弟子が師匠を守ったぞ」

 

ラシードのこめかみが動いた。

 

バンは少しだけ笑った。

笑うと脇腹が痛んだ。

 

「痛ぇな、くそ」

 

「だから寝ていろと言っている」

 

「飯の匂いがするのに寝られるかよ」

 

鍋から湯気が立つ。

豆と干し肉、少しの香辛料。

昨日より肉の匂いが強い。黒い砂の匂いも、少し遠くなっている。

 

ハルファの人々が集まってきた。

 

器は足りない。

木の杯、割れた皿、古い椀、何でも使った。

少しずつ、全員に回す。

 

豪華な飯ではない。

リーヴァ大鱒のような華やかさも、リオードの黒だれ羊肉のような力強さもない。

 

だが、温かい。

 

それだけで、人は少し息をつける。

 

子どもが器を抱えて、ゆっくり食べた。

 

「昨日より、お肉の味がする」

 

「なら、昨日よりマシだな」

 

バンが言う。

 

子どもはバンを見上げた。

 

「おじさん、英雄なの?」

 

周囲の大人たちが静かになった。

 

黒い風を止めた男。

ベヒーモスをどかした男。

黒い砂漠から帰ってきた赤い旅人。

 

それを英雄と呼ばずに、何と呼ぶのか。

 

バンは少し嫌そうな顔をした。

 

「違ぇよ。旅人だ」

 

「でも黒いの倒したんでしょ?」

 

「酒の邪魔だったからな」

 

子どもはきょとんとした。

それから、声を出して笑った。

 

小さな笑い声だった。

 

咳に混じりながら、それでも確かに笑っていた。

 

その笑い声は、黒い砂漠の風よりもずっと小さい。

だが、ハルファにいた者たちには、その音の方がはるかに大きく聞こえた。

 

ガラムが鼻を鳴らす。

 

「黒獣を酒の邪魔扱いか」

 

ラドが苦笑する。

 

「バンさんらしいです」

 

ラシードは鍋をかき混ぜながら、静かに言った。

 

「サバハでも、その話は語られるだろうな」

 

「やめろ。面倒くせぇ」

 

「無理だ。もう遅い」

 

バンは舌打ちした。

 

夕方になり、ハルファへ一隻の小さな砂栗船が戻ってきた。

 

船体は傷だらけだったが、帆は黒く染まっていない。

乗っていたのは、サバハ方面から逃げ遅れていた商人たちだった。

 

彼らは黒い風が止んだことで、命からがらハルファへ辿り着いたのだという。

 

そして、彼らは持っていた。

 

一本の酒壺を。

 

ローランの砂葡萄酒。

 

壺は小さく、封は古い布で巻かれている。商人が命より大事に抱えていた最後の一本だった。

 

「本物か」

 

ラシードの声がわずかに震えた。

 

商人は頷く。

 

「ローランの北蔵で積んだ。黒い風に追われて、ほとんど捨てた。これが最後だ」

 

ガラムがバンを見る。

 

「だとよ、赤コート」

 

バンはゆっくり顔を上げた。

 

「開けろ」

 

誰も反対しなかった。

 

むしろ、誰もがそれを望んでいた。

 

黒い風が止んだ夜。

黒獣が沈黙した日。

失われかけた交易路の先から、最後の砂葡萄酒が届いた。

 

飲むなら、今しかない。

 

酒壺の封が切られた。

 

ふわりと、香りが広がる。

 

葡萄の甘さ。

砂漠の夜風のような冷たさ。

蜂蜜に似た丸み。

そして、ほんの少しだけ土と木の皮の苦み。

 

木の杯に注がれた酒は、琥珀色をしていた。

火の光を受けると、杯の中で小さな夜が揺れるようだった。

 

ラシードが杯をバンへ差し出す。

 

「最初の一杯は、お前だ」

 

「いいのか」

 

「お前が道を空けた」

 

「どかしただけだ」

 

「なら、どかした者が飲め」

 

バンは杯を受け取った。

 

珍しく、すぐには飲まなかった。

 

香りを嗅ぐ。

黒い砂の臭気で鈍っていた鼻が、少しずつ酒の香りを思い出す。

 

口をつける。

 

一口。

 

冷たいわけではない。

だが、喉を通ると、砂漠の夜風が胸の奥に落ちたようだった。

蜂蜜の淡い甘み。葡萄の酸味。舌に残るわずかな渋み。

それから、灼けた砂の上を歩いた後にだけ分かる、静かな涼しさ。

 

バンは目を細めた。

 

「……悪くねぇな」

 

ラシードが小さく笑う。

 

「それは、かなりうまいという意味か」

 

「分かってんじゃねぇか」

 

ガラムが杯を掲げた。

 

「赤い旅人に」

 

ラドが続ける。

 

「黒い風が止んだ夜に」

 

ラシードが言う。

 

「サバハとローランへ続く道に」

 

ニロが少し迷ってから、声を上げた。

 

「あと、温かい鍋に!」

 

子どもが笑った。

 

杯が掲げられる。

 

ハルファに、久しぶりの酒の匂いと笑い声が戻った。

 

その頃、黒い砂漠の奥では、別の二人がベヒーモスの残骸を見ていた。

 

ディオスは、折れた角の前で口を開けていた。

 

「……でけぇ」

 

角は、倒れた塔のようだった。

根元は砕け、赤黒い筋が石化したように固まっている。表面には黒い砂がこびりつき、近づくだけで肌がひりつく。

 

イリスは外殻骨の一部に触れない距離で膝をつき、慎重に観察していた。

 

「触れないでください。まだ終焉汚染が残っています」

 

「触らねぇよ。触りたくもねぇ」

 

「この角だけで、小国が一つ買えます」

 

「は?」

 

「外殻骨を加工すれば、最強級の防具になります。爪、牙、砕けた魔石片……どれも伝説級の素材です」

 

ディオスは遠い目をした。

 

「あいつ、何て言ってた?」

 

イリスは沈黙した。

 

二人の脳裏に、バンの声が蘇る。

 

でけぇな。持って帰ったら邪魔だろ、これ。

 

ディオスは両手で顔を覆った。

 

「小国を邪魔扱いかよ」

 

「報告します」

 

「どう書くんだよ」

 

「黒獣ベヒーモス討伐。討伐者は神の恩恵を持たぬ赤い旅人。討伐後、伝説級素材には興味を示さず、肉が残らなかったことを残念がり、ハルファへ帰還」

 

「上の人間、絶対信じねぇぞ」

 

「事実です」

 

「出たよ、事実」

 

イリスは折れた角を見上げた。

 

ベヒーモスは討たれた。

だが、黒い砂漠はすぐには消えない。

毒は残り、大地は傷つき、終焉汚染は砂の奥に染み込んでいる。

 

勝利は完全ではない。

 

それでも、黒い風は止まった。

ハルファに笑いが戻った。

サバハへの道は、いつか開く。

ローランの砂葡萄酒も、再び運ばれるだろう。

 

それを成した男は、英雄と呼ばれることを嫌い、今ごろ酒を飲んでいるに違いない。

 

「赤い服の旅人」

 

イリスは小さく呟いた。

 

「その名で、報告しましょう」

 

同じ頃、遠くオラリオ。

 

ゼウス・ファミリアの拠点では、一人の男が巨大な肉を食っていた。

 

ザルド。

 

暴食の名を持つ男は、骨付き肉を噛み砕きながら、届いた第一報を聞いていた。

 

「黒い砂漠の風が止まった?」

 

報告役の眷属が頷く。

 

「詳細は不明です。ただ、監視に出ていたディオスから早馬が。黒獣ベヒーモスが沈黙した可能性あり、と」

 

ザルドの咀嚼が止まった。

 

空気が変わる。

 

「誰がやった」

 

「それが……赤い服の旅人、と」

 

「ファミリアは」

 

「不明。少なくとも、神の恩恵の気配はなかったと」

 

ザルドは骨を置いた。

 

肉を食う手が止まるほどの報告。

それだけで、周囲の者たちは息を呑む。

 

ザルドは低く呟いた。

 

「俺たちの獲物を喰ったのは、どこの誰だ」

 

一方、ヘラ・ファミリアの広間。

 

冷たい石造りの空間で、アルフィアは報告を聞いていた。

 

白い髪。

静かな瞳。

病を抱えた身体。

だが、その存在感は鋭い刃のようだった。

 

「神の恩恵を持たず、黒き獣を討った……?」

 

報告役は緊張した声で答える。

 

「イリスからの第一報です。詳細な報告は後ほど。ただ、ベヒーモスの角が一本折られ、魔石崩壊を確認したと」

 

「馬鹿げている」

 

アルフィアはそう言った。

 

だが、否定ではなかった。

 

興味だった。

 

神の恩恵を持たない。

魔法もない。

ファミリアにも属さない。

それでいて、三大クエストの一角へ手を届かせた。

 

「その男の名は」

 

「不明です。現地では、赤い服の旅人と呼ばれているようです」

 

アルフィアは少しだけ目を細めた。

 

「赤い服の旅人、か」

 

その声には、冷たい興味が混じっていた。

 

ハルファの夜は、更けていく。

 

黒い砂漠の方角には、まだ暗い影が残っている。

だが、風は静かだった。

 

鍋は空になり、酒壺も軽くなった。

子どもは母親の膝で眠っている。咳はまだある。だが、眠れる程度には落ち着いていた。

 

バンは集落の端に座り、空を見上げていた。

 

星が見える。

 

黒い砂に曇っていた空の一部が晴れ、細い星明かりが降っていた。

 

ラドが隣に座る。

 

「本当に、あなたは何者なのですか」

 

バンは杯を揺らした。

 

「ただの旅人だ」

 

「ただの旅人は、黒獣を討ちません」

 

「酒の邪魔だった」

 

「それで納得する人は少ないでしょうね」

 

「知らねぇよ」

 

バンは砂葡萄酒をもう一口飲んだ。

 

身体は痛い。

傷は熱い。

明日になれば、もっと痛むかもしれない。

 

だが、酒はうまい。

 

ハルファには笑い声がある。

子どもは眠っている。

鍋は空になった。

 

なら、悪くない。

 

ラドは小さく息を吐いた。

 

「あなたの話は、広まりますよ」

 

「面倒くせぇな」

 

「止められません。黒い風を止めた赤い服の旅人。砂漠の民は、そういう話を忘れません」

 

「英雄じゃねぇぞ」

 

「ええ。あなたは、そう言うでしょう」

 

ラドは笑った。

 

バンは杯を空にし、立ち上がろうとして、少しよろめいた。

 

「寝てください」

 

「腹減った」

 

「今ですか」

 

「戦ったからな」

 

ラドは呆れた顔をした。

そして、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「では、明日の朝に豆の鍋を作りましょう」

 

「肉多めでな」

 

「努力します」

 

バンはクレシューズを肩に担いだ。

夜風が、赤いロングコートを揺らす。

 

黒い砂漠はまだそこにある。

傷は残る。

毒も残る。

ベヒーモスが残した角も、外殻も、終焉汚染も、すぐには消えない。

 

だが、黒い風は止んだ。

 

道は、いつか戻る。

 

酒も、いつかまた届く。

 

バンは夜の砂漠を見て、口の端を上げた。

 

「悪くねぇな」

 

赤い服の旅人。

 

その名はこの夜から、砂漠を渡り、商隊を渡り、酒場を渡り、やがてオラリオへ届く。

 

本人が望むかどうかなど、関係なく。

 

飯と酒を求めて歩く男の足跡は、もうこの世界の歴史に刻まれ始めていた。




第12話でした。
これで第二部「黒い砂漠の強欲」は一区切りです。
黒獣ベヒーモスは討たれましたが、黒い砂漠の傷と終焉汚染は残ります。
そして、赤い服の旅人の噂は、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアへ届き始めました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。