第二部「黒い砂漠の強欲」の締めになります。
黒獣ベヒーモスは討たれましたが、砂漠の傷はすぐには消えません。
それでも、人は飯を食べ、酒を飲み、笑いを取り戻していきます。
黒い風は、止んでいた。
完全に晴れたわけではない。
黒い砂はまだ地面に残り、空気には喉を刺す苦みがある。遠くの砂丘は灰色に沈み、地平線の向こうには、死んだ大地の影がまだ横たわっている。
だが、風は止んでいた。
砂漠を這い、井戸を濁らせ、布を腐らせ、酒杯を黒く染めたあの風は、もう唸っていなかった。
ハルファの集落で、最初にそれに気づいたのは子どもだった。
咳き込みながら天幕の外へ出た子どもが、空を見上げた。
「……お母さん」
母親が慌てて駆け寄る。
「外に出ちゃ駄目だよ」
「風、静か」
その言葉に、周囲の大人たちが顔を上げた。
誰もすぐには信じなかった。
信じるには、彼らは黒い風に奪われすぎていた。
水。
家畜。
荷。
酒。
道。
笑い声。
だが、確かに音が違っていた。
昨日まで、黒い砂漠の方角からは、低い獣の息のような風音が絶えず聞こえていた。遠くにいても耳の奥を汚し、胸の底を重くする音だった。
それが、ない。
ハルファの男たちは、恐る恐る集落の外へ出た。
ガラムは砂栗船の縁に立ち、黒い砂漠の方角を見ている。
ニロは水袋を抱えたまま、唇を噛んでいた。
ラシードは一言も発さず、湾曲剣の柄に手を置いている。
ラドは帳簿を開くことも忘れ、ただ黒い砂の先を見つめていた。
「……止まった、のか」
誰かが呟いた。
答える者はいなかった。
その時、黒い砂の向こうに、赤いものが見えた。
最初は、布切れかと思った。
黒い砂漠の中で、風に揺れる赤。
だが、それはゆっくりと近づいてきた。
人影だった。
エンジ色のロングコート。
肩に担がれた四節の棍。
血と黒砂に汚れた顔。
裂けた服。
ふらつく足取り。
それでも、その男は歩いていた。
ラドが息を呑む。
「バンさん……!」
ニロが駆け出そうとして、ラシードに肩を掴まれた。
「待て。黒砂が残っている」
「でも!」
「俺が行く」
ラシードが前へ出ようとした時、赤い旅人の方が先に手を上げた。
「来んな」
声は掠れていた。
だが、はっきり届いた。
「砂、まだまずい」
ガラムが顔を歪める。
「第一声がそれか、馬鹿野郎」
バンは黒い砂の境目まで来ると、そこで一度足を止めた。
靴についた黒砂を、面倒くさそうに何度か地面へ叩きつける。完全には落ちない。
それでも、ハルファ側の砂へ踏み出した。
その瞬間、彼の膝が揺れた。
ラシードが駆け寄る。
バンは倒れなかった。
クレシューズを杖代わりにして、どうにか立つ。
「触んな。砂がつく」
「自分の状態を見ろ」
「見たくねぇな。飯が不味くなる」
ラシードは歯を食いしばった。
バンの傷はひどかった。
脇腹、肩、太腿、頬。あちこちが裂け、毒砂に焼かれ、血で固まっている。右腕はまともに上がっていない。呼吸も浅い。
普通なら立っている方がおかしい。
だが、この男は立っていた。
ラドが震える声で尋ねる。
「ベヒーモスは……?」
バンは少し考えた。
「でかいのなら、どかした」
それだけだった。
ハルファの空気が止まった。
黒獣を。
ベヒーモスを。
災厄を。
どかした。
まるで、道に落ちていた邪魔な石を脇へ寄せたような言い方だった。
ガラムが低く笑った。
「本当に、酒の道を空けやがったのか」
「まだ飲んでねぇからな」
バンはそう言って、ふらりと歩き出す。
向かった先は、咳き込んでいた子どもの天幕だった。
母親が驚いて立ち上がる。
「ちょっと、あんた、その傷で」
「ガキは」
子どもは毛布にくるまっていた。
顔色はまだ悪い。だが、昨日より呼吸は少しだけ楽そうだった。黒い風が止んだせいか、咳の間隔も長くなっている。
子どもはバンを見て、目を丸くした。
「おじさん、帰ってきた」
「おじさんじゃねぇ」
「赤い服のおじさん」
「余計悪くなったな」
子どもは少し笑った。
笑ってから、咳をした。
だが、昨日より短い咳だった。
バンはそれを見て、小さく息を吐いた。
「飯、食ったか」
「まだ」
「鍋は?」
母親は呆れたように言った。
「あんた、帰ってきて最初にそれかい」
「腹減ってると治るもんも治らねぇだろ」
ハルファの中央で、また鍋が火にかけられた。
今回は昨日より少しだけ材料が多かった。
ガラムが船に残していた豆を出し、ラドが干し肉を出した。ラシードはサバハの香辛料を小袋から分けた。ニロは水袋を慎重に運び、こぼさないよう両手で抱えた。
バンは座ったまま、鍋を見ていた。
本当なら、自分で作りたかった。
だが、腕が上がらない。立っているだけでも身体中が軋む。
それを察したラシードが、鍋の前に座る。
「指示を出せ」
「お前が作んのか」
「不満か」
「焦がすなよ」
「誰に言っている」
「香辛料、入れすぎんな。弱ってる奴にはきつい。干し肉は細かく切れ。脂、捨てんな。豆に吸わせろ」
ラシードは黙って従った。
ガラムがそれを見て笑う。
「サバハの護衛が料理人の弟子みてぇだな」
「黙れ、船長」
「香辛料、もう少し入れた方がうまいんじゃねぇか?」
「弱ってる奴にはきついと言われただろう」
「お、弟子が師匠を守ったぞ」
ラシードのこめかみが動いた。
バンは少しだけ笑った。
笑うと脇腹が痛んだ。
「痛ぇな、くそ」
「だから寝ていろと言っている」
「飯の匂いがするのに寝られるかよ」
鍋から湯気が立つ。
豆と干し肉、少しの香辛料。
昨日より肉の匂いが強い。黒い砂の匂いも、少し遠くなっている。
ハルファの人々が集まってきた。
器は足りない。
木の杯、割れた皿、古い椀、何でも使った。
少しずつ、全員に回す。
豪華な飯ではない。
リーヴァ大鱒のような華やかさも、リオードの黒だれ羊肉のような力強さもない。
だが、温かい。
それだけで、人は少し息をつける。
子どもが器を抱えて、ゆっくり食べた。
「昨日より、お肉の味がする」
「なら、昨日よりマシだな」
バンが言う。
子どもはバンを見上げた。
「おじさん、英雄なの?」
周囲の大人たちが静かになった。
黒い風を止めた男。
ベヒーモスをどかした男。
黒い砂漠から帰ってきた赤い旅人。
それを英雄と呼ばずに、何と呼ぶのか。
バンは少し嫌そうな顔をした。
「違ぇよ。旅人だ」
「でも黒いの倒したんでしょ?」
「酒の邪魔だったからな」
子どもはきょとんとした。
それから、声を出して笑った。
小さな笑い声だった。
咳に混じりながら、それでも確かに笑っていた。
その笑い声は、黒い砂漠の風よりもずっと小さい。
だが、ハルファにいた者たちには、その音の方がはるかに大きく聞こえた。
ガラムが鼻を鳴らす。
「黒獣を酒の邪魔扱いか」
ラドが苦笑する。
「バンさんらしいです」
ラシードは鍋をかき混ぜながら、静かに言った。
「サバハでも、その話は語られるだろうな」
「やめろ。面倒くせぇ」
「無理だ。もう遅い」
バンは舌打ちした。
夕方になり、ハルファへ一隻の小さな砂栗船が戻ってきた。
船体は傷だらけだったが、帆は黒く染まっていない。
乗っていたのは、サバハ方面から逃げ遅れていた商人たちだった。
彼らは黒い風が止んだことで、命からがらハルファへ辿り着いたのだという。
そして、彼らは持っていた。
一本の酒壺を。
ローランの砂葡萄酒。
壺は小さく、封は古い布で巻かれている。商人が命より大事に抱えていた最後の一本だった。
「本物か」
ラシードの声がわずかに震えた。
商人は頷く。
「ローランの北蔵で積んだ。黒い風に追われて、ほとんど捨てた。これが最後だ」
ガラムがバンを見る。
「だとよ、赤コート」
バンはゆっくり顔を上げた。
「開けろ」
誰も反対しなかった。
むしろ、誰もがそれを望んでいた。
黒い風が止んだ夜。
黒獣が沈黙した日。
失われかけた交易路の先から、最後の砂葡萄酒が届いた。
飲むなら、今しかない。
酒壺の封が切られた。
ふわりと、香りが広がる。
葡萄の甘さ。
砂漠の夜風のような冷たさ。
蜂蜜に似た丸み。
そして、ほんの少しだけ土と木の皮の苦み。
木の杯に注がれた酒は、琥珀色をしていた。
火の光を受けると、杯の中で小さな夜が揺れるようだった。
ラシードが杯をバンへ差し出す。
「最初の一杯は、お前だ」
「いいのか」
「お前が道を空けた」
「どかしただけだ」
「なら、どかした者が飲め」
バンは杯を受け取った。
珍しく、すぐには飲まなかった。
香りを嗅ぐ。
黒い砂の臭気で鈍っていた鼻が、少しずつ酒の香りを思い出す。
口をつける。
一口。
冷たいわけではない。
だが、喉を通ると、砂漠の夜風が胸の奥に落ちたようだった。
蜂蜜の淡い甘み。葡萄の酸味。舌に残るわずかな渋み。
それから、灼けた砂の上を歩いた後にだけ分かる、静かな涼しさ。
バンは目を細めた。
「……悪くねぇな」
ラシードが小さく笑う。
「それは、かなりうまいという意味か」
「分かってんじゃねぇか」
ガラムが杯を掲げた。
「赤い旅人に」
ラドが続ける。
「黒い風が止んだ夜に」
ラシードが言う。
「サバハとローランへ続く道に」
ニロが少し迷ってから、声を上げた。
「あと、温かい鍋に!」
子どもが笑った。
杯が掲げられる。
ハルファに、久しぶりの酒の匂いと笑い声が戻った。
その頃、黒い砂漠の奥では、別の二人がベヒーモスの残骸を見ていた。
ディオスは、折れた角の前で口を開けていた。
「……でけぇ」
角は、倒れた塔のようだった。
根元は砕け、赤黒い筋が石化したように固まっている。表面には黒い砂がこびりつき、近づくだけで肌がひりつく。
イリスは外殻骨の一部に触れない距離で膝をつき、慎重に観察していた。
「触れないでください。まだ終焉汚染が残っています」
「触らねぇよ。触りたくもねぇ」
「この角だけで、小国が一つ買えます」
「は?」
「外殻骨を加工すれば、最強級の防具になります。爪、牙、砕けた魔石片……どれも伝説級の素材です」
ディオスは遠い目をした。
「あいつ、何て言ってた?」
イリスは沈黙した。
二人の脳裏に、バンの声が蘇る。
でけぇな。持って帰ったら邪魔だろ、これ。
ディオスは両手で顔を覆った。
「小国を邪魔扱いかよ」
「報告します」
「どう書くんだよ」
「黒獣ベヒーモス討伐。討伐者は神の恩恵を持たぬ赤い旅人。討伐後、伝説級素材には興味を示さず、肉が残らなかったことを残念がり、ハルファへ帰還」
「上の人間、絶対信じねぇぞ」
「事実です」
「出たよ、事実」
イリスは折れた角を見上げた。
ベヒーモスは討たれた。
だが、黒い砂漠はすぐには消えない。
毒は残り、大地は傷つき、終焉汚染は砂の奥に染み込んでいる。
勝利は完全ではない。
それでも、黒い風は止まった。
ハルファに笑いが戻った。
サバハへの道は、いつか開く。
ローランの砂葡萄酒も、再び運ばれるだろう。
それを成した男は、英雄と呼ばれることを嫌い、今ごろ酒を飲んでいるに違いない。
「赤い服の旅人」
イリスは小さく呟いた。
「その名で、報告しましょう」
同じ頃、遠くオラリオ。
ゼウス・ファミリアの拠点では、一人の男が巨大な肉を食っていた。
ザルド。
暴食の名を持つ男は、骨付き肉を噛み砕きながら、届いた第一報を聞いていた。
「黒い砂漠の風が止まった?」
報告役の眷属が頷く。
「詳細は不明です。ただ、監視に出ていたディオスから早馬が。黒獣ベヒーモスが沈黙した可能性あり、と」
ザルドの咀嚼が止まった。
空気が変わる。
「誰がやった」
「それが……赤い服の旅人、と」
「ファミリアは」
「不明。少なくとも、神の恩恵の気配はなかったと」
ザルドは骨を置いた。
肉を食う手が止まるほどの報告。
それだけで、周囲の者たちは息を呑む。
ザルドは低く呟いた。
「俺たちの獲物を喰ったのは、どこの誰だ」
一方、ヘラ・ファミリアの広間。
冷たい石造りの空間で、アルフィアは報告を聞いていた。
白い髪。
静かな瞳。
病を抱えた身体。
だが、その存在感は鋭い刃のようだった。
「神の恩恵を持たず、黒き獣を討った……?」
報告役は緊張した声で答える。
「イリスからの第一報です。詳細な報告は後ほど。ただ、ベヒーモスの角が一本折られ、魔石崩壊を確認したと」
「馬鹿げている」
アルフィアはそう言った。
だが、否定ではなかった。
興味だった。
神の恩恵を持たない。
魔法もない。
ファミリアにも属さない。
それでいて、三大クエストの一角へ手を届かせた。
「その男の名は」
「不明です。現地では、赤い服の旅人と呼ばれているようです」
アルフィアは少しだけ目を細めた。
「赤い服の旅人、か」
その声には、冷たい興味が混じっていた。
ハルファの夜は、更けていく。
黒い砂漠の方角には、まだ暗い影が残っている。
だが、風は静かだった。
鍋は空になり、酒壺も軽くなった。
子どもは母親の膝で眠っている。咳はまだある。だが、眠れる程度には落ち着いていた。
バンは集落の端に座り、空を見上げていた。
星が見える。
黒い砂に曇っていた空の一部が晴れ、細い星明かりが降っていた。
ラドが隣に座る。
「本当に、あなたは何者なのですか」
バンは杯を揺らした。
「ただの旅人だ」
「ただの旅人は、黒獣を討ちません」
「酒の邪魔だった」
「それで納得する人は少ないでしょうね」
「知らねぇよ」
バンは砂葡萄酒をもう一口飲んだ。
身体は痛い。
傷は熱い。
明日になれば、もっと痛むかもしれない。
だが、酒はうまい。
ハルファには笑い声がある。
子どもは眠っている。
鍋は空になった。
なら、悪くない。
ラドは小さく息を吐いた。
「あなたの話は、広まりますよ」
「面倒くせぇな」
「止められません。黒い風を止めた赤い服の旅人。砂漠の民は、そういう話を忘れません」
「英雄じゃねぇぞ」
「ええ。あなたは、そう言うでしょう」
ラドは笑った。
バンは杯を空にし、立ち上がろうとして、少しよろめいた。
「寝てください」
「腹減った」
「今ですか」
「戦ったからな」
ラドは呆れた顔をした。
そして、少しだけ嬉しそうに笑った。
「では、明日の朝に豆の鍋を作りましょう」
「肉多めでな」
「努力します」
バンはクレシューズを肩に担いだ。
夜風が、赤いロングコートを揺らす。
黒い砂漠はまだそこにある。
傷は残る。
毒も残る。
ベヒーモスが残した角も、外殻も、終焉汚染も、すぐには消えない。
だが、黒い風は止んだ。
道は、いつか戻る。
酒も、いつかまた届く。
バンは夜の砂漠を見て、口の端を上げた。
「悪くねぇな」
赤い服の旅人。
その名はこの夜から、砂漠を渡り、商隊を渡り、酒場を渡り、やがてオラリオへ届く。
本人が望むかどうかなど、関係なく。
飯と酒を求めて歩く男の足跡は、もうこの世界の歴史に刻まれ始めていた。
第12話でした。
これで第二部「黒い砂漠の強欲」は一区切りです。
黒獣ベヒーモスは討たれましたが、黒い砂漠の傷と終焉汚染は残ります。
そして、赤い服の旅人の噂は、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアへ届き始めました。