出発の日は、それから間もなく訪れた。
早朝のオラリオ南西門には、リヴァイアサン討伐へ向かう者たちと大量の荷車が集まっていた。ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの団員だけではない。ゴブニュ・ファミリアの職人やヘファイストス・ファミリアの鍛冶師、各派閥から選ばれた冒険者たちも加わっている。
ただし、これが討伐軍の全てではなかった。まだオラリオで準備を続けている者も多く、今回先行してメレンへ向かうのは、ポセイドン・ファミリアとの打ち合わせや海上要塞の確認に必要な者たちが中心だった。
「近いとは聞いてたけど、本当にすぐそこなんだな」
新しい鞄を肩に掛けたバンが、街道の先を眺めながら言った。
「メレンはオラリオから南西へ三キロほどよ」
リシェルが答える。
「三キロ?」
「ええ」
「それでこんだけ荷物積んでんのかよ」
「問題はメレンまでではありません。その先でしょう」
「ああ、島まで行くんだったな」
オラリオからメレンまでなら、冒険者にとって移動と呼ぶほどの距離ですらない。しかし職人や大量の資材を積んだ荷車も一緒となれば、好き勝手に走っていくわけにもいかなかった。
それでも昼を待つほどの旅ではない。
やがて街道の先から水の匂いが混じった風が吹き始め、景色の向こうに大きな水面が見えてきた。
「……湖?」
バンが目を細める。
「ロログ湖だ」
隣を歩いていたマキシムが答えた。
「かなり大きいでしょう?」
「ああ。向こう岸がほとんど見えねぇな」
それはバンが想像していた湖より、はるかに巨大だった。
ロログ湖は海と繋がる汽水湖であり、その湖畔に築かれたメレンは国外から来た船も立ち寄る港街でもある。オラリオから僅かな距離にありながら、城壁と迷宮を中心とした都市とは空気がまるで違っていた。
街へ入れば、最初に目につくのは船乗りと漁師だった。
荷を担いで港を行き交う男たち。魚を並べる露店。船具を扱う店に、潮と魚、それから料理の匂い。桟橋には大小さまざまな船が並び、そのさらに奥では帆を張った大型船まで停泊している。
「いい街じゃねぇか」
バンの視線が早速、魚を焼いている屋台へ向いた。
「まだ食うなよ」
パァルが横から言う。
「何も言ってねぇだろ」
「顔を見れば分かる」
「朝飯食ったし、今すぐ食う気はねぇよ」
「なら屋台へ歩いていくな」
言われてから、バンは自分が一行から少し外れていることに気づいた。
「……後でな」
「誰に言っている」
バンが屋台へ未練を残しながら戻る一方、港へ近づくにつれて街の様子にも少しずつ違和感が見えてきた。
活気がないわけではない。漁師も商人も普段通り仕事を続けている。しかし港の一角には武装した者の姿が多く、湖上にも何隻もの小型船が巡回していた。
「警戒してんな」
バンが言う。
「あれはポセイドン・ファミリアだろう」
ルヴァンが沖を見ながら答える。
湖上を進む船には、共通した印が掲げられていた。漁に出ている様子ではなく、一定の間隔を保ちながら水面や岸辺を確認している。
街へ入って間もなく、ポセイドン・ファミリアの団員が一行を迎えに現れた。
「お待ちしていました。ゼウス、ヘラ両ファミリアの方々ですね」
「ああ」
マキシムが答える。
「状況は?」
「メレンそのものに大きな異常はありません。ただ、湖底の入口付近については監視を増やしています」
「モンスターが増えているの?」
リシェルの問いに、男は少し考えてから答えた。
「増えたというより、動きが変わっています。普段なら入口周辺から離れない水棲種が別の場所で確認されたり、逆に浅い場所まで上がってくる個体も出ています。ただし、街へ押し寄せているわけではありません」
「やっぱり何か感じて逃げてんのかねぇ」
バンが湖へ目を向ける。
水面は穏やかだった。
漁船が浮かび、鳥が飛び、港では人々が仕事を続けている。一見すれば、巨大な怪物が目覚めた影響などどこにもない。
だからこそ妙だった。
ベヒーモスが動き出した時も、最初から災厄そのものが姿を現したわけではない。先に周囲の生き物が逃げ始めた。
「第二入口の方へ戦力を回す必要はあるか?」
マキシムが尋ねる。
「現状ではありません。通常より監視人数を増やしていますが、それで対応できています。主神からも、そちらへ討伐戦力を割く必要はないとの指示が出ています」
「なら予定通りね」
レグナイトが言った。
「こちらはリヴァイアサンだけを見るわ」
「はい。その件ですが、主神がお待ちです」
男は港の奥へ視線を向けた。
そこには他の船より明らかに大きな一隻が停泊していた。甲板では何人もの船員が動き回り、運び込まれる物資の確認が進められている。
「あれで島へ行くのか?」
バンが尋ねる。
「いいえ。島へ向かう船は別に準備しています。まずは主神から現在の海域について説明があります」
「まだ何か変わったのか?」
男の表情が僅かに険しくなる。
「昨夜、リヴァイアサンの位置が再び変わりました」
騒がしい港の中で、その言葉だけが妙にはっきりと聞こえた。
「詳細はポセイドン様から直接お聞きください」
レグナイトが歩き出す。
「案内しなさい」
「こちらです」
一行はポセイドン・ファミリアの団員に続き、港の奥へ向かった。
バンはその途中でもう一度だけロログ湖を振り返った。
見えるのは静かな水面だけだ。
だが、この水の先は海へ続いている。
そして、そのさらに向こうでは――海の覇王が動き始めていた。