メレンを出た船は、ログ湖を横切り、やがて外海へと進路を変えた。
湖と海が繋がっているとはいえ、その景色は大きく異なる。陸地に囲まれた湖面を離れれば、視界の先にはどこまでも続く水平線が広がり、船体を揺らす波も次第に大きくなっていった。潮風が甲板を吹き抜け、船縁に砕けた白い飛沫が散る。
バンは手すりに寄りかかり、変わりゆく海を眺めていた。船に乗ること自体は初めてではないが、これほど大勢の人間が目的を持って海へ出る光景には、まだ馴染みがない。
「陸の上とは勝手が違うな」
「当然だ。海では足場も、視界も、敵の位置も安定しない。陸上での戦い方をそのまま持ち込めば、思わぬところで命を落とす」
隣に立ったポセイドンが、穏やかな口調で答えた。
彼の視線は水平線ではなく、船の周囲に向けられている。波の形や風の流れ、船体の揺れ方まで確かめているようだった。船員たちも無駄口を叩かず、それぞれの持ち場で作業を続けている。海上での判断が遅れれば、それだけで船全体が危険に晒される。彼らの動きには、長年この海を渡ってきた者たちの確かな慣れがあった。
「ポセイドン・ファミリアは、こういう海を進むのが本業ってわけか」
「そうだ。海の調査、航路の確保、水棲の魔物の討伐。陸の冒険者とは異なる経験を積んできた者たちだ。水中で活動できる者もいる」
「なるほどな。頼もしいじゃねぇか」
バンは船員たちの動きを眺めながら、短く笑った。海での戦いに慣れていない自分が、彼らと同じように動けるとは思っていない。ならば、自分にできる役割を見極めるだけだ。
甲板の反対側では、ヘファイストスとゴブニュが船体の構造を確認していた。今回の目的地にあるという古代の海上要塞。その修復に必要なものを考えるためにも、まずは現物を見なければならない。
「実物を見ないことには、どこまで直せるか判断できないね」
「うむ。古い建造物ならば、外から見える損傷だけでは済まぬだろう。内部の構造も確かめる必要がある」
「そのために私たちが呼ばれたんだろう。期待に応えられるかどうかは、見てからだ」
二柱の鍛冶神は、すでに修復のことを考え始めているらしい。もっとも、現時点では要塞の全容すら分かっていない。できることを決めつけるつもりはなかった。
その後も船は進み続けた。ポセイドン・ファミリアの者たちが交代で周囲を警戒し、水中へ潜った者から定期的に報告が届く。海の魔物がまったくいないわけではないが、今のところ船を脅かすような異常は確認されていなかった。
やがて、見張りの一人が前方を指差した。
「見えました! 島影です!」
船員たちの視線が一斉に前方へ集まる。
水平線の向こうに、巨大な島が姿を現していた。遠目にも分かるほど大きな山が中央にそびえ、その周囲を濃い緑の森が覆っている。海岸線には岩場が続き、遠くから見る限り、人の住む町や港らしきものは見当たらない。
「ここが、目的地か」
マクシムが島を見上げる。ポセイドンは頷いた。
「ああ。私がこの島を見つけたのは、航海の途中だった。食料と水を探すために上陸したのだが、まさかあのようなものが眠っているとは思わなかった」
「外から見れば、ただの無人島だな」
バンの言葉に、ポセイドンは小さく頷いた。
「そう見えるように、長い年月を過ごしてきたのだろう。少なくとも、最初に訪れたときは人工物の存在など分からなかった」
船は島の周囲を慎重に進み、波の穏やかな入り江へと向かった。大きな船をそのまま岸へ寄せることはできないため、船員たちが水深と海底の様子を確認しながら停泊位置を定める。
錨が下ろされ、船体の揺れが落ち着くと、上陸の準備が始まった。
「ここから先は徒歩だ。島の奥へ進むことになる」
ポセイドンの案内で、一行は小舟に分乗して岸へ渡った。足を砂浜に下ろしたバンは、周囲を見回す。潮の匂いに混じって、湿った土と植物の青い香りが漂っていた。波音以外に目立った音はなく、森の奥から鳥の鳴き声が聞こえる程度だ。
人の手が入った形跡はない。獣道らしきものはあるが、整備された道も、建物も見当たらなかった。
「山の方だ。ついてきてくれ」
ポセイドンが森へ向かって歩き出す。
木々の間を抜けるにつれて、地面は少しずつ険しくなっていった。巨大な根が地表を這い、湿った岩肌には苔が張り付いている。何年、何十年という時間ではない。人が立ち入らなくなってから、相当な年月が経過しているように見えた。
「本当にこんな場所にあるのか?」
マクシムが尋ねると、ポセイドンは足を止めずに答えた。
「私も最初は信じられなかった。だが、間違いない」
しばらく進んだところで、先頭を歩いていたポセイドンが立ち止まった。
「ここだ」
彼が示した先には、山肌を覆う植物の隙間から、灰色の石が覗いていた。近づいて蔦を払い、土を取り除いていくと、それは自然に転がった岩ではないことが分かる。表面は長方形に整えられ、石同士の継ぎ目も不自然なほど正確だった。
「これは……」
ゴブニュが石壁に手を触れ、表面を確かめる。ヘファイストスもその隣に立ち、壁の奥へと視線を向けた。
植物に覆われた山肌の一部に、人工的な通路が続いている。自然の岩場に紛れるように造られているが、その幅も高さも、人が通ることを前提にしたものだった。
「間違いない。人の手で造られたものだ」
ゴブニュの言葉に、ポセイドンが頷く。
「この先にある。私が見つけたのは、ここからだ」
バンは通路の奥を覗き込んだ。光が届く範囲の先は暗く、どれほど奥まで続いているのか分からない。山そのものに隠されていたものが、今になって姿を現そうとしている。
「ずいぶん大掛かりなものを隠してやがったな」
「だからこそ、今まで誰にも知られずに残っていたのかもしれない」
ポセイドンが先頭に立ち、通路へ足を踏み入れる。続いて一行も、長い年月を経てなお崩れずに残る石造りの道を進み始めた。
その先に何があるのか。まだ誰も、その全貌を知らない。
ただ一つ確かなのは、この島が単なる無人島ではないということだった。
深い山の内側で、古代の遺産が眠り続けていた。