強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第11話です。
赤い旅人の続きになります。


第11話 眠る災害

黒砂酒は、喉を焼く。

 

飲み込んだ瞬間、熱が胸の奥へ落ちる。

少し遅れて、苦味が舌の上に残る。

うまいかどうかで言えば、素直にうまい酒ではない。

 

だが、ハルファという集落には合っていた。

 

黒い砂漠の縁で生きる人間が、眠る前に腹へ火を入れるための酒。

怖さを忘れるためではない。

怖いものがそこにあると知ったうえで、それでも明日を迎えるための酒。

 

バンは酒場の壁にもたれ、木の杯を揺らしていた。

 

外は夜だ。

 

酒場の中には、まだ何人かが残っている。

 

ナジュは炉の火を落とさないよう薪を足している。

ジャミルは砂漠の地図を広げ、リオードまでの道を確認している。

サイモンは伝令用の荷をまとめていた。

ダリオとミラは武器の手入れをしている。

サナは薬草の袋をひとつずつ確認していた。

 

誰も、大きな声では喋らない。

 

だが、誰も眠ろうとはしなかった。

 

黒砂の縁が近づいている。

 

井戸の水の味が変わった。

 

黒砂に染まった魔物が、外へ逃げている。

 

そして、地面の奥で、巨大な何かが動いている。

 

酒場の中にいる全員が、それを知っていた。

 

バンは杯を口へ運ぶ。

 

「……苦ぇ」

 

ナジュが炉のそばから言う。

 

「なら飲むんじゃないよ」

 

「苦いのがいいんだろ」

 

「分かってるじゃないか」

 

「飯には合う」

 

「酒単体で褒めな」

 

「酒は飯と飲むもんだろ」

 

ナジュは小さく笑った。

 

「酒場の主人としては、いい客だね」

 

「だろ」

 

「ただし、面倒ごとを連れてくる」

 

「俺が連れてきたんじゃねぇよ。そっちから来てる」

 

バンは窓の外を見る。

 

黒い砂漠は見えない。

 

だが、方角は分かる。

 

空気がそちらへ沈んでいる。

 

まるで夜の中に、さらに重い夜が横たわっているようだった。

 

サナが薬草袋を抱えたまま、バンのそばに来る。

 

「傷、痛みますか?」

 

「ちょいとな」

 

「見せてください」

 

「さっき巻いたろ」

 

「黒砂持ちにかすった傷です。時間を置いて変化することもあります」

 

「医者みてぇなこと言うな」

 

「薬師の助手です」

 

「そうだったな」

 

バンは面倒そうにしながらも、脇腹の包帯を少しずらした。

 

傷は浅い。

 

だが、普通の切り傷とは少し違っていた。

 

傷口の周りがうっすらと黒ずんでいる。

 

血が悪くなっているというより、細かな砂が皮膚の下に入り込んだような見た目だった。

 

サナの顔が曇る。

 

「まだ残ってます」

 

「黒砂か」

 

「たぶん。深くはありません。でも、放っておくのはよくないです」

 

「削るか?」

 

「痛いですよ」

 

「痛いのはもう分かってる」

 

サナは少しだけむっとした。

 

「我慢すればいいって話じゃありません」

 

「じゃあどうする」

 

「洗って、薬草を変えます。あと……」

 

サナは言いにくそうにバンを見る。

 

「バンさん、自分で何かできますか」

 

「何かって?」

 

「昼間、黒砂蜥蜴から黒いものを少し抜きましたよね。自分の傷からも、同じように」

 

バンは脇腹の傷を見た。

 

できるかできないかで言えば、たぶんできる。

 

だが、自分に入り込んだ黒砂の流れを自分で盗るのは、気分のいい作業ではない。

 

下手をすれば、傷口の周りの生命力まで一緒に削る。

 

不死身だった頃なら雑に試したかもしれない。

 

今は違う。

 

無茶をすれば、そのまま代償が残る。

 

「少しだけだな」

 

バンは右手を傷の上にかざした。

 

奪うのは肉ではない。

血でもない。

痛みでもない。

 

傷口の奥に入り込んだ、ざらつく流れ。

 

黒砂の欠片。

 

深く掴むな。

 

表面だけ。

 

指先で引っかけるように。

 

「強奪《スナッチ》」

 

小さく呟く。

 

傷口から、黒い粒のようなものがわずかに浮いた。

 

バンの指先へ引かれる。

 

だが、すぐに崩れ、空気中へ散った。

 

右手に痺れが走る。

 

同時に、脇腹の痛みが強くなった。

 

「っ……」

 

バンは顔をしかめた。

 

サナが慌てる。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「大丈夫だ。ちょっと腹立つだけだ」

 

「腹立つ?」

 

「こいつ、盗られ方まで気持ち悪ぃ」

 

サナは困った顔をしながら、灰と薬草で傷を洗った。

 

黒ずみは少し薄くなっている。

 

完全には消えていない。

 

だが、広がる感じはなくなった。

 

サナはほっと息を吐く。

 

「これなら、しばらく様子を見られます」

 

「助かった」

 

「無理しないでください」

 

「それ、今日だけで何回目だ」

 

「何回でも言います」

 

「ナジュみたいになってきたな」

 

サナは少しだけ笑った。

 

その時だった。

 

地面が鳴った。

 

低く、長く。

 

酒場の杯が震える。

天井から砂粒が落ちる。

炉の火が一瞬、細く揺れる。

 

全員が動きを止めた。

 

ナジュが顔を上げる。

 

「またか」

 

地鳴りはすぐには止まらなかった。

 

遠くから、深い腹の底で唸るような音が響いてくる。

 

獣の声ではない。

風でもない。

地面そのものが、巨大な肺のように動いている。

 

バンは立ち上がった。

 

杯の中の黒砂酒が揺れている。

 

「寝返りにしちゃ、騒がしいな」

 

ジャミルが地図を畳む。

 

「外へ出るぞ」

 

酒場の外に出ると、ハルファの住人たちもすでに家から顔を出していた。

 

見張り台の上で、若者が黒砂の方角を見ている。

 

夜の砂漠。

 

黒い砂漠の方角だけ、星が少ないように見えた。

 

空が曇っているわけではない。

 

だが、黒砂の上に薄い靄のようなものが漂い、星明かりを遮っている。

 

その奥で、砂丘が沈んだ。

 

遠い。

 

かなり遠い。

 

それでも分かった。

 

黒い砂丘の一つが、ゆっくりと形を変えた。

 

風で崩れたのではない。

 

下から押されたように盛り上がり、その後で、重みに耐えられず沈んだ。

 

リクが見張り台から叫ぶ。

 

「南東の黒砂帯が沈みました!範囲が広いです!」

 

ナジュが短く問う。

 

「魔物は?」

 

「まだ見えません!でも……」

 

リクの声が震える。

 

「砂が流れています。こっちへ」

 

ジャミルが舌打ちした。

 

「砂波だ」

 

「砂波?」

 

サイモンが聞く。

 

ジャミルは黒砂の方角を睨みながら答えた。

 

「地面の下で大きなものが動くと、砂が波のように押し出されることがある。普通の砂なら途中で崩れて止まる。だが黒砂は重い。流れ出すと、低い場所へ集まる」

 

ナジュの顔が険しくなる。

 

「水路の方へ来るか」

 

「風向き次第だが、あり得る」

 

ハルファの貯水池と井戸は、集落の命そのものだ。

 

そこへ黒砂が入り込めば、集落は終わる。

 

ナジュは即座に指示を出した。

 

「水路を塞ぐ準備!布と板を持ってきな!子どもは屋内へ!見張りは魔物の動きを確認!」

 

集落が一斉に動き出した。

 

眠っていた者たちも飛び起き、布、板、土嚢代わりの砂袋を運び始める。

 

バンはその様子を見て、黒砂の方角へ目を向けた。

 

重い。

 

遠くにあるのに、圧が近い。

 

まるで巨大な生き物が、地面の下で身体を伸ばし、息を吐いたかのようだった。

 

バンの右手が疼く。

 

強奪《スナッチ》が、あの流れを感じ取ってしまう。

 

黒砂の波。

 

砂の流れ。

 

地面の奥の力。

 

盗れるか。

 

そう考えた瞬間、バンは自分で口元を歪めた。

 

「馬鹿か、俺は」

 

あんなものを正面から盗れば、右手どころか身体ごと持っていかれる。

 

盗るなら、端だけだ。

 

流れの一部。

 

こちらへ向かってくる黒砂の勢いを、ほんの少しずらす。

 

それくらいなら。

 

ジャミルがバンの顔を見る。

 

「何かする気か」

 

「水路がやられると飯が終わるんだろ」

 

「ああ」

 

「なら、ちょいと押し返す」

 

「無理をするな」

 

「深くは盗らねぇよ」

 

バンはクレシューズを手に、集落の外壁へ向かった。

 

黒砂の波は、まだ遠い。

 

だが、砂漠の表面がゆっくりと動いているのが見える。

 

普通の砂とは違う。

 

黒い粒が夜の中で鈍く光り、低い場所へ流れ込もうとしていた。

 

その先には、ハルファの外側を巡る浅い水路がある。

 

水路といっても、常に水が流れているわけではない。

雨や井戸の余り水を逃がすための溝だ。

 

だが、その溝が黒砂を集めれば、黒砂は貯水池の方へ流れ込む。

 

集落の男たちが板を運び、溝を塞ごうとしている。

 

だが、間に合わない。

 

黒砂の先端が、ゆっくりと近づいていた。

 

バンは外壁の前に立つ。

 

クレシューズを砂に突き立てる。

 

直接、黒砂には触れない。

 

触れるのは、流れの手前。

 

黒砂を押し出す普通の砂。

 

その動きの端。

 

バンは右手を伸ばした。

 

奪うのは、黒砂そのものではない。

 

黒砂をこちらへ運ぶ、砂の流れ。

 

その勢いの一部だけ。

 

「強奪《スナッチ》」

 

指先に、重さが来た。

 

想像以上に重い。

 

砂の流れの奥に、黒い何かの呼吸が絡んでいる。

 

バンは歯を食いしばった。

 

深く掴むな。

 

引きずられるな。

 

表面だけ削れ。

 

黒砂の先端が、わずかに横へずれた。

 

水路へ向かっていた流れが、少しだけ石壁の外側へ逸れる。

 

だが、その分だけバンの右腕に痺れが走った。

 

肩の傷が疼く。

 

脇腹の傷も熱を持つ。

 

「……っ、重ぇな」

 

ジャミルが叫ぶ。

 

「もういい!こっちで塞げる!」

 

男たちが板を打ち込み、布を詰め、砂袋を置く。

 

黒砂の流れは完全には止まらない。

 

だが、バンがずらしたことで、水路へ直接流れ込む量は減った。

 

ナジュが指示を飛ばす。

 

「今だ!右側を塞げ!」

 

「板を重ねろ!」

 

「水袋を下げろ!黒砂に触れさせるな!」

 

集落の者たちが必死に動く。

 

バンはもう一度、流れを盗ろうとした。

 

だが、その瞬間、地面の奥から低い音が響いた。

 

ただの地鳴りではない。

 

音というより、圧。

 

巨大な何かが、遠くで息を吐いた。

 

バンの《強奪》の感覚が、その圧に触れた。

 

ほんの一瞬。

 

その一瞬で、右手が焼けるように熱くなった。

 

「――っ!」

 

バンは即座に手を引いた。

 

クレシューズを支えにして、膝をつく。

 

視界が一瞬だけ揺れる。

 

まずい。

 

今のは、砂の流れではない。

 

奥にいる何かの力の端だった。

 

盗るどころか、触れただけで持っていかれそうになる。

 

ジャミルが駆け寄る。

 

「バン!」

 

「……触るとこ、間違えた」

 

「何をした!」

 

「でけぇ寝息に、指引っかけた」

 

「意味が分からん!」

 

「俺も説明すんのが面倒だ」

 

バンは立ち上がろうとして、右腕に力が入りづらいことに気づいた。

 

痺れている。

 

感覚が鈍い。

 

動くが、細かな動作がしづらい。

 

「面倒くせぇな」

 

ジャミルはバンの腕を見て顔をしかめる。

 

「下がれ。これ以上は駄目だ」

 

「水路は?」

 

「塞いだ。お前がずらした分で間に合った」

 

その言葉で、バンは黒砂の流れを見た。

 

確かに、先端は水路の手前で逸れている。

 

完全に止まったわけではないが、貯水池へ流れ込むほどではない。

 

男たちが必死に土嚢を積み、布で隙間を埋めている。

 

ナジュがこちらへ駆けてきた。

 

「何をしたんだい!」

 

「ちょっと盗った」

 

「ちょっとの顔じゃないよ」

 

「顔に出てるか?」

 

「出てる。馬鹿の顔だ」

 

「ひでぇな」

 

「自業自得だよ」

 

ナジュはバンの右腕を見て、すぐにサナを呼んだ。

 

サナは薬箱を持って走ってくる。

 

「またですか!?」

 

「またって言うな」

 

「またです!」

 

サナは半泣きで怒っていた。

 

バンは少しだけ視線を逸らす。

 

「悪かったって」

 

「本当に思ってますか?」

 

「半分くらい」

 

「半分!」

 

ナジュがバンの後頭部を軽く叩いた。

 

「反省しな」

 

「痛ぇな」

 

「痛いくらいで済んでるうちに覚えな」

 

バンは文句を言おうとして、やめた。

 

黒砂の奥を見る。

 

遠い。

 

だが、そこにいる。

 

今の一瞬で、はっきり分かった。

 

あれは、魔物というより災害だ。

 

巨大な肉体。

大地に沈んだ力。

周囲の砂、魔物、水、空気にまで影響を与える存在。

 

まだ目覚めていない。

 

少なくとも、完全には。

 

ただ寝返りを打ち、息を吐き、身体の一部を動かしただけで、この有様だ。

 

バンは右腕の痺れを感じながら、口元を歪めた。

 

「冗談じゃねぇな」

 

ナジュが低く言う。

 

「笑ってるように見えるけど」

 

「笑うしかねぇだろ」

 

「怖くないのかい」

 

「怖くねぇ奴は、長生きできねぇよ」

 

ナジュは少しだけ黙った。

 

バンは続けた。

 

「ただ、怖いからって飯がなくなるのを黙って見るのも、後味悪ぃだろ」

 

ナジュは何も言わなかった。

 

その代わり、サナに目で合図する。

 

サナはバンの右腕に薬草を巻き、灰と水で何度も洗った。

 

痺れはすぐには消えない。

 

だが、広がる感じはない。

 

深く持っていかれる前に手を引いたのが幸いしたらしい。

 

集落の者たちは夜遅くまで作業を続けた。

 

黒砂の流れを外側へ逃がし、水路を塞ぎ、貯水池を布で覆う。

 

黒砂に触れた道具は分けて置かれ、後で焼くか洗浄することになった。

 

井戸の周りには、見張りが立った。

 

誰もが疲れていた。

 

それでも、ハルファは持ちこたえた。

 

夜明け前。

 

酒場に戻ると、ナジュが全員に温かい汁を出した。

 

豆も肉も少ない。

ほとんど湯に近い薄い汁。

 

だが、塩と苦草が効いている。

 

疲れた身体には、それだけで十分だった。

 

バンは右腕を動かしながら、椀を左手で持つ。

 

「薄いな」

 

ナジュが睨む。

 

「文句あるなら飲まなくていい」

 

「文句じゃねぇよ。疲れた時にはこのくらいがいい」

 

「……なら最初からそう言いな」

 

「褒めてるぞ」

 

「下手なんだよ」

 

バンは汁を飲む。

 

熱い。

 

胃に落ちる。

 

黒砂酒とは違う熱だ。

 

生きて戻った後の飯はうまい。

 

死にかけた後の汁は、さらにうまい。

 

サナが向かいに座り、眠そうな目で言う。

 

「右手、しばらく無理しないでください」

 

「飯食うには左手がある」

 

「戦う時の話です」

 

「戦わなきゃいいんだろ」

 

「本当にそうしてください」

 

「相手次第だな」

 

サナはまた怒りそうな顔をした。

 

だが、疲れの方が勝ったのか、ため息だけをついた。

 

ジャミルが酒場へ戻ってくる。

 

「水路は持った。貯水池も無事だ」

 

ナジュは頷く。

 

「よし」

 

サイモンが地図を広げる。

 

「リオードへの伝令は、予定を早めた方がいい。今夜の黒砂の動きで分かった。待てば待つほど道が悪くなる」

 

ジャミルも同意する。

 

「夜が明けて少し休んだら出る。黒砂の流れが落ち着いているうちに抜けるべきだ」

 

ナジュはバンを見る。

 

「赤いの。腕は」

 

「動く」

 

「無理は?」

 

「するなって言われてる」

 

「聞いてるのかい」

 

「聞いてはいる」

 

「守りな」

 

「善処する」

 

「一番信用できない返事だね」

 

バンは笑った。

 

だが、右腕の痺れは確かに残っている。

 

次に黒砂持ちと戦うなら、今まで以上に盗り方を絞る必要がある。

 

大きく奪うな。

 

深く触るな。

 

相手の流れの端だけを盗る。

 

それでも足りないなら、クレシューズと体術で崩す。

 

災害そのものには、まだ触れない。

 

触れるなら、命を削る覚悟がいる。

 

バンは窓の外を見た。

 

東の空が少しだけ白んでいる。

 

黒い砂漠の方角は、まだ暗い。

 

夜が明けても、そこだけは夜のまま残りそうだった。

 

ナジュが全員へ告げる。

 

「少し休みな。日が昇ったら、リオードへ伝令を出す」

 

サイモンが頷く。

 

「砂漠船を準備する」

 

ジャミルが言う。

 

「道は俺が読む」

 

ダリオとミラも、同行する意志を示した。

 

サナは薬箱を抱える。

 

「私も行きます」

 

ナジュが止めようとした。

 

だが、サナは首を横に振る。

 

「黒砂の傷を見られる人が必要です。薬師様はハルファに残らないといけません」

 

ナジュはしばらくサナを見ていた。

 

そして、短く言った。

 

「死ぬんじゃないよ」

 

「はい」

 

バンはそのやり取りを見ていた。

 

小さな集落。

粗い飯。

強い酒。

口の悪い女将。

怒りっぽい薬師見習い。

砂を読む船頭。

腕の立つ冒険者たち。

商売人。

 

黒砂に飲まれるには、少し惜しい。

 

いや、かなり惜しい。

 

バンは椀の残りを飲み干し、立ち上がる。

 

「じゃあ、ちょっと寝るか」

 

ナジュが言う。

 

「右腕を使うんじゃないよ」

 

「寝るのに右腕はいらねぇだろ」

 

「寝相が悪そうだから言ってるんだよ」

 

「失礼だな」

 

「当たってるだろ」

 

「まあな」

 

酒場に、ほんの少しだけ笑いが起きた。

 

黒砂の夜を越えた後の、かすかな笑いだった。

 

バンはそれを聞いて、少しだけ満足そうに目を細める。

 

泣き声より、笑い声の方が飯はうまい。

 

なら、この笑い声もまだ消すわけにはいかない。

 

赤い旅人は、重い右腕を軽く振りながら、仮眠用の部屋へ向かった。

 

黒い砂漠の奥では、眠る災害がまた静かに息をしている。

 

まだ目覚めてはいない。

 

だが、その寝息だけで、人の暮らしは揺らいでいた。

 

そして、ハルファからリオードへ向かう伝令の道も、すでに黒砂の影に呑まれ始めていた。




第11話でした。
修正版では、ベヒーモス本体を直接出さず、黒砂の波、地鳴り、井戸や水路への影響を通して「眠っているだけで災害になる存在」として描きました。

また、バンが黒砂の流れを少しだけ逸らす一方、奥にいる巨大な存在の力に触れかけて反動を受けることで、三大クエスト級には安易に《強奪(スナッチ)》を使えないことを強調しました。

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