黒い砂漠を越えたバンが次に向かうのは、大樹海。
砂漠の毒とは違う、静かで湿った不気味さの中で、古代の遺跡と新たな災厄の気配が顔を出します。
第13話 樹海の墓標
砂漠の次は、森だった。
黒い砂漠の焼けるような空気も、リオードの乾いた風も、ハルファの黒い砂の臭いも、もう遠い。
バンの目の前に広がっているのは、深い緑だった。
大樹海。
見上げるほどの木々が幾重にも重なり、枝葉が空を覆っている。昼だというのに、森の中は薄暗い。湿った土の匂い。苔の匂い。腐葉土の匂い。砂漠とはまるで違う、濃くて重い命の匂いが満ちていた。
ただし。
バンは足を止めた。
「……静かすぎねぇか」
森なのに、音が少ない。
風が葉を揺らす音はある。
枝がきしむ音もある。
遠くで水が流れる音も、かすかに聞こえる。
だが、鳥の声がない。
虫の羽音がない。
獣が草を踏む気配も薄い。
命の匂いは濃いのに、命の動きが少ない。
それが、妙に気持ち悪かった。
バンは聖棍クレシューズを肩に担ぎ、ゆっくりと森へ踏み込んだ。
黒い砂漠で負った傷は、すでにふさがっている。完全に元通りというわけではないが、歩くには問題ない。リオードで仕入れた香辛料も、ハルファでもらった干し肉も、残りは少ない。酒はとうに飲み干した。
つまり、今のバンに必要なのは飯と酒だった。
「森なら何か食えんだろ」
そう言って足元を見る。
苔。
落ち葉。
黒い土。
見知らぬ茸。
バンは茸を一つ摘み、匂いを嗅いだ。
「……毒だな」
ぽい、と捨てる。
その茸が地面に落ちる前に、近くの苔の隙間から小さな影が動いた。
かさり。
小さな音。
バンの目が細くなる。
影はすぐに消えた。
だが、確かに何かがいた。
「虫か?」
バンは歩き出した。
森の奥へ進むほど、木々は古くなっていった。幹は太く、根は地面を蛇のように這い、ところどころで石を抱き込んでいる。大昔の石畳らしいものが、土と根に覆われながら残っていた。
道だったのか。
神殿へ続く参道だったのか。
今となっては分からない。
しばらく進むと、開けた場所に出た。
そこには、墓標があった。
石の墓標。
いや、墓標だったもの。
苔に覆われ、文字はほとんど読めない。倒れているものも多く、折れた石柱のようになっているものもある。いくつかは巨大な木の根に巻き込まれ、半分ほど飲み込まれていた。
墓場にしては、広すぎる。
森の中に沈んだ、石の群れ。
まるで、遠い昔に誰かがここで大量に死に、その記憶だけが石になって残ったようだった。
バンは一つの墓標の前にしゃがんだ。
指で苔を払う。
古い文字が刻まれていた。
読めない。
この世界の言葉かどうかも分からない。
ただ、刻んだ者の手は真剣だったのだろう。線は深く、硬い。
「名前か」
バンは呟く。
誰の名前かは分からない。
何のために死んだのかも分からない。
だが、墓なら、誰かが覚えておくために立てたものだ。
バンは腰の袋を探った。
酒はない。
代わりに干し肉が一切れだけあった。
「酒がありゃよかったんだけどな」
バンは干し肉を少しだけ裂き、墓標の前に置いた。
「まあ、肉で我慢しとけ」
もちろん、返事はない。
その時。
かさ。
また音がした。
今度は一つではない。
かさかさ。
かさ、かさかさ。
墓標の裏。
倒れた石柱の陰。
木の根の隙間。
苔の下。
土の割れ目。
小さな何かが、複数、動いている。
バンは立ち上がり、クレシューズを手に持った。
「さっきから、こそこそと」
苔の隙間から、それが現れた。
サソリだった。
ただし、普通のサソリではない。
掌ほどの大きさ。
外殻は砂色ではなく、赤黒い結晶のように光っている。尾の先には鋭い針。足は細く、だが動きは速い。目らしき部分は黒く濁り、小さいくせに妙な敵意を放っていた。
一匹。
二匹。
三匹。
墓標の周囲から、次々と這い出してくる。
バンはそれを見下ろした。
「サソリかよ。毒抜きが面倒くせぇな」
最初の一匹が跳んだ。
小さい。
だが速い。
尾の針が、バンの足首を狙う。
バンは足を引き、クレシューズの先で軽く叩いた。
ぱきん。
サソリの身体が砕ける。
魔石は残らなかった。
赤黒い粒子となって、空中へ溶けるように消える。
バンの眉が寄る。
「石も残らねぇのか」
次の瞬間、残りのサソリたちが一斉に動いた。
小さい身体で、墓標を駆け上がる。
木の根を走る。
倒れた石柱の裏へ回る。
正面からではなく、足元、背後、頭上から来る。
バンはクレシューズを回した。
四節の棍がしなり、円を描く。
墓標に触れないよう、足元だけを払う。
木の根の上を走る個体を弾く。
飛びかかってきた一匹を横から叩き落とす。
ぱきん。
ぱきん。
ぱきん。
軽い音が続く。
砕けたサソリは、どれも赤黒い粒子になって消えた。
魔石なし。
肉なし。
殻も残らない。
「ほんと、食えねぇ虫だな」
バンは不満そうに言った。
だが、サソリは減らなかった。
むしろ、増えている。
墓標の奥から、さらに小さな足音が聞こえる。
石畳の隙間から這い出す。
苔を持ち上げる。
木の根の下から群れで溢れる。
ただの虫ではない。
どこかから流れてきている。
どこかへ近づけまいとしている。
バンは周囲を見た。
墓標の向こう。
森のさらに奥。
そこだけ、木々の密度が少し違う。
古い石の道が、ほとんど埋もれながらも続いている。
その先から、赤黒い光が一瞬だけ漏れたように見えた。
「なるほどな」
バンは口の端を上げた。
「そっちに親玉か」
答えるように、サソリの群れが動いた。
今度は地面だけではない。
上から来た。
木の枝に隠れていた個体が、雨のように落ちてくる。
バンはクレシューズを頭上へ振るう。
棍が広がり、赤黒い粒子が散る。
砕けたサソリが、月の欠片のように光って消えた。
数匹が腕に取りついた。
針が皮膚を刺す。
「ちっ」
鋭い痛み。
毒が入る。
だが、黒い砂漠の毒とは違う。
これは神経を痺れさせる類の毒だ。血の流れを鈍らせ、指先の感覚を奪おうとする。
バンは腕を振り、サソリを叩き潰した。
「ぴりぴりしやがる」
毒は効いている。
完全に無視できるわけではない。
だが、止まるほどではない。
バンは左手を軽く開いた。
「ちょいと借りるぜ」
スナッチ。
狙うのは群れ全体ではない。
目の前の一匹。
跳びかかろうとしていた個体の動き、その力の流れを一瞬奪う。
サソリの身体が空中で硬直した。
バンはそれを隣の個体へ叩きつける。
二匹まとめて砕けた。
「小さいと奪いやすいな」
そう言いながらも、バンは眉をひそめた。
奪った力が、妙だった。
普通の魔物の力ではない。
生き物の筋肉の動きでも、魔石に宿る力でもない。
「……繋がってやがるな」
低く呟く。
何か、大きなものの端に触れたような感覚。
細い糸。
群れの奥へ続く糸。
この小型サソリたちは、単体で完結していない。
どこかの本体から、力を受けて動いている。
あるいは、本体の欠片なのかもしれない。
「面倒くせぇ虫だな」
サソリたちは、バンの足を止めようとしていた。
殺そうとしているというより、近づけまいとしている。
墓標の奥へ。
石の道の先へ。
赤黒い光の方へ。
バンは一度、墓標へ視線を向けた。
古い墓。
読めない名前。
苔に沈んだ石。
この場所で死んだ誰か。
その奥にある何か。
そして、この不自然なサソリの群れ。
「せっかく肉置いたのに、墓荒らしみてぇなことさせんなよ」
バンはクレシューズを長く構えた。
次の瞬間、地面が割れた。
サソリの群れが一斉に飛び出す。
数十。
いや、百に近い。
赤黒い外殻が、薄暗い森の中で不気味に光る。
小さな尾針が一斉に持ち上がる。
普通の冒険者なら、数を見ただけで背筋が凍る。
毒針の群れ。
魔石を残さない異常個体。
神の恩恵の流れを鈍らせるような、妙な気配。
だが、バンは肩を回した。
「まとめて来いよ。ちまちま刺されんのは好きじゃねぇ」
群れが来た。
赤黒い波。
バンは前へ出た。
クレシューズが舞う。
足元を払う。
跳んだ個体を弾く。
背後から来たものを、棍のしなりで叩き落とす。
墓標を避け、木の根を避け、石の道を壊さないように、群れだけを砕いていく。
ぱきん、ぱきん、ぱきん。
砕ける音は軽い。
だが数が多い。
腕に一匹。
肩に一匹。
ふくらはぎに一匹。
針が刺さる。
毒が入る。
指先が痺れる。
バンは舌打ちし、クレシューズを地面へ叩きつけた。
衝撃が円形に広がる。
苔が剥がれ、土が跳ね、サソリの群れがまとめて宙に浮いた。
そこへ、クレシューズを横薙ぎ。
赤黒い粒子が、森の薄闇に散った。
静かになった。
バンは息を吐く。
「……酒代にも飯にもならねぇ戦いは疲れるな」
腕の毒を確認する。
少し痺れる。
だが動く。
森はまた静かになった。
静かすぎる。
バンは墓標の前に置いた干し肉を見た。
まだそこにある。サソリたちはそれに触れていなかった。
「虫も食わねぇ肉か。失礼な奴らだな」
干し肉を拾い、埃を払って、自分で食べた。
少し土の味がした。
「……まずくなった」
腹立たしそうに呟いてから、バンは石の道へ向かった。
森の奥へ続く古い道。
進むほど、墓標の数は減っていく。
代わりに、白い石の破片が増えた。古い柱。割れた床石。月の形を刻んだ小さな石板。蔦に覆われた門の残骸。
どこか神殿めいている。
だが、神の気配とは違う。
もっと古い。
もっと静かで、もっと薄い。
精霊。
その言葉をバンは知らないわけではない。
元の世界にも、似たような存在はいた。
森の奥から漂う気配は、それに近かった。
ただし、弱っている。
ほとんど消えかけている。
誰かに吸われ続けて、細くなった灯火のような気配。
バンは鼻を鳴らした。
「また飯が不味くなる感じだな」
石の道の先で、地面がわずかに沈んでいた。
そこから、赤黒い光が漏れている。
穴ではない。
階段だ。
地下へ続く石段。
苔と根に覆われながらも、下へ向かっている。
石段の入口には、半分崩れた石碑があった。
月を象った紋様。
そして、サソリの尾のような模様。
バンは石碑を見下ろした。
「月とサソリねぇ」
その時、石段の奥から音がした。
かさ。
一匹ではない。
かさかさ。
かさかさかさ。
さっきよりも深い場所から、もっと多くの足音が上がってくる。
それと同時に、地の底から低い鼓動のような音が響いた。
どくん。
赤黒い光が、石段の奥で脈打つ。
バンはクレシューズを肩に担いだ。
「こいつら、どっかから流れてきてるな」
森の静けさが、さらに深くなる。
鳥も鳴かない。
虫も鳴かない。
風さえ、石段の入口で止まっているようだった。
バンは一歩、石段へ足をかける。
湿った空気が、下から上がってきた。
土と苔と古い石。
それに混じる、赤黒い毒の匂い。
うまい飯の匂いではない。
酒の匂いでもない。
だが、この奥にいる何かを放っておけば、森の飯も水も酒も、いずれまずくなる。
それだけは分かった。
「面倒な虫退治になりそうだ」
バンは笑った。
「ま、腹ごなしにはなるか」
赤い服の旅人は、古代の墓標を背に、地下へ続く石段を下り始めた。
森の奥で、赤黒い光が静かに脈打っていた。
第13話でした。
第三部の開幕として、大樹海、古代の墓標、小型サソリ群、そしてエルソス遺跡への入口を描きました。
次回は第14話「砂蠍の海」。サソリの群れがさらに増え、遺跡の奥に隠された親玉の気配が濃くなっていきます。