赤い旅人の続きになります。
黒砂酒は、喉を焼く。
飲み込んだ瞬間、熱が胸の奥へ落ちる。
少し遅れて、苦味が舌の上に残る。
うまいかどうかで言えば、素直にうまい酒ではない。
だが、ハルファという集落には合っていた。
黒い砂漠の縁で生きる人間が、眠る前に腹へ火を入れるための酒。
怖さを忘れるためではない。
怖いものがそこにあると知ったうえで、それでも明日を迎えるための酒。
バンは酒場の壁にもたれ、木の杯を揺らしていた。
外は夜だ。
酒場の中には、まだ何人かが残っている。
ナジュは炉の火を落とさないよう薪を足している。
ジャミルは砂漠の地図を広げ、リオードまでの道を確認している。
サイモンは伝令用の荷をまとめていた。
ダリオとミラは武器の手入れをしている。
サナは薬草の袋をひとつずつ確認していた。
誰も、大きな声では喋らない。
だが、誰も眠ろうとはしなかった。
黒砂の縁が近づいている。
井戸の水の味が変わった。
黒砂に染まった魔物が、外へ逃げている。
そして、地面の奥で、巨大な何かが動いている。
酒場の中にいる全員が、それを知っていた。
バンは杯を口へ運ぶ。
「……苦ぇ」
ナジュが炉のそばから言う。
「なら飲むんじゃないよ」
「苦いのがいいんだろ」
「分かってるじゃないか」
「飯には合う」
「酒単体で褒めな」
「酒は飯と飲むもんだろ」
ナジュは小さく笑った。
「酒場の主人としては、いい客だね」
「だろ」
「ただし、面倒ごとを連れてくる」
「俺が連れてきたんじゃねぇよ。そっちから来てる」
バンは窓の外を見る。
黒い砂漠は見えない。
だが、方角は分かる。
空気がそちらへ沈んでいる。
まるで夜の中に、さらに重い夜が横たわっているようだった。
サナが薬草袋を抱えたまま、バンのそばに来る。
「傷、痛みますか?」
「ちょいとな」
「見せてください」
「さっき巻いたろ」
「黒砂持ちにかすった傷です。時間を置いて変化することもあります」
「医者みてぇなこと言うな」
「薬師の助手です」
「そうだったな」
バンは面倒そうにしながらも、脇腹の包帯を少しずらした。
傷は浅い。
だが、普通の切り傷とは少し違っていた。
傷口の周りがうっすらと黒ずんでいる。
血が悪くなっているというより、細かな砂が皮膚の下に入り込んだような見た目だった。
サナの顔が曇る。
「まだ残ってます」
「黒砂か」
「たぶん。深くはありません。でも、放っておくのはよくないです」
「削るか?」
「痛いですよ」
「痛いのはもう分かってる」
サナは少しだけむっとした。
「我慢すればいいって話じゃありません」
「じゃあどうする」
「洗って、薬草を変えます。あと……」
サナは言いにくそうにバンを見る。
「バンさん、自分で何かできますか」
「何かって?」
「昼間、黒砂蜥蜴から黒いものを少し抜きましたよね。自分の傷からも、同じように」
バンは脇腹の傷を見た。
できるかできないかで言えば、たぶんできる。
だが、自分に入り込んだ黒砂の流れを自分で盗るのは、気分のいい作業ではない。
下手をすれば、傷口の周りの生命力まで一緒に削る。
不死身だった頃なら雑に試したかもしれない。
今は違う。
無茶をすれば、そのまま代償が残る。
「少しだけだな」
バンは右手を傷の上にかざした。
奪うのは肉ではない。
血でもない。
痛みでもない。
傷口の奥に入り込んだ、ざらつく流れ。
黒砂の欠片。
深く掴むな。
表面だけ。
指先で引っかけるように。
「強奪《スナッチ》」
小さく呟く。
傷口から、黒い粒のようなものがわずかに浮いた。
バンの指先へ引かれる。
だが、すぐに崩れ、空気中へ散った。
右手に痺れが走る。
同時に、脇腹の痛みが強くなった。
「っ……」
バンは顔をしかめた。
サナが慌てる。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ。ちょっと腹立つだけだ」
「腹立つ?」
「こいつ、盗られ方まで気持ち悪ぃ」
サナは困った顔をしながら、灰と薬草で傷を洗った。
黒ずみは少し薄くなっている。
完全には消えていない。
だが、広がる感じはなくなった。
サナはほっと息を吐く。
「これなら、しばらく様子を見られます」
「助かった」
「無理しないでください」
「それ、今日だけで何回目だ」
「何回でも言います」
「ナジュみたいになってきたな」
サナは少しだけ笑った。
その時だった。
地面が鳴った。
低く、長く。
酒場の杯が震える。
天井から砂粒が落ちる。
炉の火が一瞬、細く揺れる。
全員が動きを止めた。
ナジュが顔を上げる。
「またか」
地鳴りはすぐには止まらなかった。
遠くから、深い腹の底で唸るような音が響いてくる。
獣の声ではない。
風でもない。
地面そのものが、巨大な肺のように動いている。
バンは立ち上がった。
杯の中の黒砂酒が揺れている。
「寝返りにしちゃ、騒がしいな」
ジャミルが地図を畳む。
「外へ出るぞ」
酒場の外に出ると、ハルファの住人たちもすでに家から顔を出していた。
見張り台の上で、若者が黒砂の方角を見ている。
夜の砂漠。
黒い砂漠の方角だけ、星が少ないように見えた。
空が曇っているわけではない。
だが、黒砂の上に薄い靄のようなものが漂い、星明かりを遮っている。
その奥で、砂丘が沈んだ。
遠い。
かなり遠い。
それでも分かった。
黒い砂丘の一つが、ゆっくりと形を変えた。
風で崩れたのではない。
下から押されたように盛り上がり、その後で、重みに耐えられず沈んだ。
リクが見張り台から叫ぶ。
「南東の黒砂帯が沈みました!範囲が広いです!」
ナジュが短く問う。
「魔物は?」
「まだ見えません!でも……」
リクの声が震える。
「砂が流れています。こっちへ」
ジャミルが舌打ちした。
「砂波だ」
「砂波?」
サイモンが聞く。
ジャミルは黒砂の方角を睨みながら答えた。
「地面の下で大きなものが動くと、砂が波のように押し出されることがある。普通の砂なら途中で崩れて止まる。だが黒砂は重い。流れ出すと、低い場所へ集まる」
ナジュの顔が険しくなる。
「水路の方へ来るか」
「風向き次第だが、あり得る」
ハルファの貯水池と井戸は、集落の命そのものだ。
そこへ黒砂が入り込めば、集落は終わる。
ナジュは即座に指示を出した。
「水路を塞ぐ準備!布と板を持ってきな!子どもは屋内へ!見張りは魔物の動きを確認!」
集落が一斉に動き出した。
眠っていた者たちも飛び起き、布、板、土嚢代わりの砂袋を運び始める。
バンはその様子を見て、黒砂の方角へ目を向けた。
重い。
遠くにあるのに、圧が近い。
まるで巨大な生き物が、地面の下で身体を伸ばし、息を吐いたかのようだった。
バンの右手が疼く。
強奪《スナッチ》が、あの流れを感じ取ってしまう。
黒砂の波。
砂の流れ。
地面の奥の力。
盗れるか。
そう考えた瞬間、バンは自分で口元を歪めた。
「馬鹿か、俺は」
あんなものを正面から盗れば、右手どころか身体ごと持っていかれる。
盗るなら、端だけだ。
流れの一部。
こちらへ向かってくる黒砂の勢いを、ほんの少しずらす。
それくらいなら。
ジャミルがバンの顔を見る。
「何かする気か」
「水路がやられると飯が終わるんだろ」
「ああ」
「なら、ちょいと押し返す」
「無理をするな」
「深くは盗らねぇよ」
バンはクレシューズを手に、集落の外壁へ向かった。
黒砂の波は、まだ遠い。
だが、砂漠の表面がゆっくりと動いているのが見える。
普通の砂とは違う。
黒い粒が夜の中で鈍く光り、低い場所へ流れ込もうとしていた。
その先には、ハルファの外側を巡る浅い水路がある。
水路といっても、常に水が流れているわけではない。
雨や井戸の余り水を逃がすための溝だ。
だが、その溝が黒砂を集めれば、黒砂は貯水池の方へ流れ込む。
集落の男たちが板を運び、溝を塞ごうとしている。
だが、間に合わない。
黒砂の先端が、ゆっくりと近づいていた。
バンは外壁の前に立つ。
クレシューズを砂に突き立てる。
直接、黒砂には触れない。
触れるのは、流れの手前。
黒砂を押し出す普通の砂。
その動きの端。
バンは右手を伸ばした。
奪うのは、黒砂そのものではない。
黒砂をこちらへ運ぶ、砂の流れ。
その勢いの一部だけ。
「強奪《スナッチ》」
指先に、重さが来た。
想像以上に重い。
砂の流れの奥に、黒い何かの呼吸が絡んでいる。
バンは歯を食いしばった。
深く掴むな。
引きずられるな。
表面だけ削れ。
黒砂の先端が、わずかに横へずれた。
水路へ向かっていた流れが、少しだけ石壁の外側へ逸れる。
だが、その分だけバンの右腕に痺れが走った。
肩の傷が疼く。
脇腹の傷も熱を持つ。
「……っ、重ぇな」
ジャミルが叫ぶ。
「もういい!こっちで塞げる!」
男たちが板を打ち込み、布を詰め、砂袋を置く。
黒砂の流れは完全には止まらない。
だが、バンがずらしたことで、水路へ直接流れ込む量は減った。
ナジュが指示を飛ばす。
「今だ!右側を塞げ!」
「板を重ねろ!」
「水袋を下げろ!黒砂に触れさせるな!」
集落の者たちが必死に動く。
バンはもう一度、流れを盗ろうとした。
だが、その瞬間、地面の奥から低い音が響いた。
ただの地鳴りではない。
音というより、圧。
巨大な何かが、遠くで息を吐いた。
バンの《強奪》の感覚が、その圧に触れた。
ほんの一瞬。
その一瞬で、右手が焼けるように熱くなった。
「――っ!」
バンは即座に手を引いた。
クレシューズを支えにして、膝をつく。
視界が一瞬だけ揺れる。
まずい。
今のは、砂の流れではない。
奥にいる何かの力の端だった。
盗るどころか、触れただけで持っていかれそうになる。
ジャミルが駆け寄る。
「バン!」
「……触るとこ、間違えた」
「何をした!」
「でけぇ寝息に、指引っかけた」
「意味が分からん!」
「俺も説明すんのが面倒だ」
バンは立ち上がろうとして、右腕に力が入りづらいことに気づいた。
痺れている。
感覚が鈍い。
動くが、細かな動作がしづらい。
「面倒くせぇな」
ジャミルはバンの腕を見て顔をしかめる。
「下がれ。これ以上は駄目だ」
「水路は?」
「塞いだ。お前がずらした分で間に合った」
その言葉で、バンは黒砂の流れを見た。
確かに、先端は水路の手前で逸れている。
完全に止まったわけではないが、貯水池へ流れ込むほどではない。
男たちが必死に土嚢を積み、布で隙間を埋めている。
ナジュがこちらへ駆けてきた。
「何をしたんだい!」
「ちょっと盗った」
「ちょっとの顔じゃないよ」
「顔に出てるか?」
「出てる。馬鹿の顔だ」
「ひでぇな」
「自業自得だよ」
ナジュはバンの右腕を見て、すぐにサナを呼んだ。
サナは薬箱を持って走ってくる。
「またですか!?」
「またって言うな」
「またです!」
サナは半泣きで怒っていた。
バンは少しだけ視線を逸らす。
「悪かったって」
「本当に思ってますか?」
「半分くらい」
「半分!」
ナジュがバンの後頭部を軽く叩いた。
「反省しな」
「痛ぇな」
「痛いくらいで済んでるうちに覚えな」
バンは文句を言おうとして、やめた。
黒砂の奥を見る。
遠い。
だが、そこにいる。
今の一瞬で、はっきり分かった。
あれは、魔物というより災害だ。
巨大な肉体。
大地に沈んだ力。
周囲の砂、魔物、水、空気にまで影響を与える存在。
まだ目覚めていない。
少なくとも、完全には。
ただ寝返りを打ち、息を吐き、身体の一部を動かしただけで、この有様だ。
バンは右腕の痺れを感じながら、口元を歪めた。
「冗談じゃねぇな」
ナジュが低く言う。
「笑ってるように見えるけど」
「笑うしかねぇだろ」
「怖くないのかい」
「怖くねぇ奴は、長生きできねぇよ」
ナジュは少しだけ黙った。
バンは続けた。
「ただ、怖いからって飯がなくなるのを黙って見るのも、後味悪ぃだろ」
ナジュは何も言わなかった。
その代わり、サナに目で合図する。
サナはバンの右腕に薬草を巻き、灰と水で何度も洗った。
痺れはすぐには消えない。
だが、広がる感じはない。
深く持っていかれる前に手を引いたのが幸いしたらしい。
集落の者たちは夜遅くまで作業を続けた。
黒砂の流れを外側へ逃がし、水路を塞ぎ、貯水池を布で覆う。
黒砂に触れた道具は分けて置かれ、後で焼くか洗浄することになった。
井戸の周りには、見張りが立った。
誰もが疲れていた。
それでも、ハルファは持ちこたえた。
夜明け前。
酒場に戻ると、ナジュが全員に温かい汁を出した。
豆も肉も少ない。
ほとんど湯に近い薄い汁。
だが、塩と苦草が効いている。
疲れた身体には、それだけで十分だった。
バンは右腕を動かしながら、椀を左手で持つ。
「薄いな」
ナジュが睨む。
「文句あるなら飲まなくていい」
「文句じゃねぇよ。疲れた時にはこのくらいがいい」
「……なら最初からそう言いな」
「褒めてるぞ」
「下手なんだよ」
バンは汁を飲む。
熱い。
胃に落ちる。
黒砂酒とは違う熱だ。
生きて戻った後の飯はうまい。
死にかけた後の汁は、さらにうまい。
サナが向かいに座り、眠そうな目で言う。
「右手、しばらく無理しないでください」
「飯食うには左手がある」
「戦う時の話です」
「戦わなきゃいいんだろ」
「本当にそうしてください」
「相手次第だな」
サナはまた怒りそうな顔をした。
だが、疲れの方が勝ったのか、ため息だけをついた。
ジャミルが酒場へ戻ってくる。
「水路は持った。貯水池も無事だ」
ナジュは頷く。
「よし」
サイモンが地図を広げる。
「リオードへの伝令は、予定を早めた方がいい。今夜の黒砂の動きで分かった。待てば待つほど道が悪くなる」
ジャミルも同意する。
「夜が明けて少し休んだら出る。黒砂の流れが落ち着いているうちに抜けるべきだ」
ナジュはバンを見る。
「赤いの。腕は」
「動く」
「無理は?」
「するなって言われてる」
「聞いてるのかい」
「聞いてはいる」
「守りな」
「善処する」
「一番信用できない返事だね」
バンは笑った。
だが、右腕の痺れは確かに残っている。
次に黒砂持ちと戦うなら、今まで以上に盗り方を絞る必要がある。
大きく奪うな。
深く触るな。
相手の流れの端だけを盗る。
それでも足りないなら、クレシューズと体術で崩す。
災害そのものには、まだ触れない。
触れるなら、命を削る覚悟がいる。
バンは窓の外を見た。
東の空が少しだけ白んでいる。
黒い砂漠の方角は、まだ暗い。
夜が明けても、そこだけは夜のまま残りそうだった。
ナジュが全員へ告げる。
「少し休みな。日が昇ったら、リオードへ伝令を出す」
サイモンが頷く。
「砂漠船を準備する」
ジャミルが言う。
「道は俺が読む」
ダリオとミラも、同行する意志を示した。
サナは薬箱を抱える。
「私も行きます」
ナジュが止めようとした。
だが、サナは首を横に振る。
「黒砂の傷を見られる人が必要です。薬師様はハルファに残らないといけません」
ナジュはしばらくサナを見ていた。
そして、短く言った。
「死ぬんじゃないよ」
「はい」
バンはそのやり取りを見ていた。
小さな集落。
粗い飯。
強い酒。
口の悪い女将。
怒りっぽい薬師見習い。
砂を読む船頭。
腕の立つ冒険者たち。
商売人。
黒砂に飲まれるには、少し惜しい。
いや、かなり惜しい。
バンは椀の残りを飲み干し、立ち上がる。
「じゃあ、ちょっと寝るか」
ナジュが言う。
「右腕を使うんじゃないよ」
「寝るのに右腕はいらねぇだろ」
「寝相が悪そうだから言ってるんだよ」
「失礼だな」
「当たってるだろ」
「まあな」
酒場に、ほんの少しだけ笑いが起きた。
黒砂の夜を越えた後の、かすかな笑いだった。
バンはそれを聞いて、少しだけ満足そうに目を細める。
泣き声より、笑い声の方が飯はうまい。
なら、この笑い声もまだ消すわけにはいかない。
赤い旅人は、重い右腕を軽く振りながら、仮眠用の部屋へ向かった。
黒い砂漠の奥では、眠る災害がまた静かに息をしている。
まだ目覚めてはいない。
だが、その寝息だけで、人の暮らしは揺らいでいた。
そして、ハルファからリオードへ向かう伝令の道も、すでに黒砂の影に呑まれ始めていた。
第11話でした。
修正版では、ベヒーモス本体を直接出さず、黒砂の波、地鳴り、井戸や水路への影響を通して「眠っているだけで災害になる存在」として描きました。
また、バンが黒砂の流れを少しだけ逸らす一方、奥にいる巨大な存在の力に触れかけて反動を受けることで、三大クエスト級には安易に《強奪(スナッチ)》を使えないことを強調しました。
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