強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第三部開幕です。
黒い砂漠を越えたバンが次に向かうのは、大樹海。
砂漠の毒とは違う、静かで湿った不気味さの中で、古代の遺跡と新たな災厄の気配が顔を出します。


第3部 エルソスの遺跡・アンタレス編
第13話 樹海の墓標


砂漠の次は、森だった。

 

黒い砂漠の焼けるような空気も、リオードの乾いた風も、ハルファの黒い砂の臭いも、もう遠い。

 

バンの目の前に広がっているのは、深い緑だった。

 

大樹海。

 

見上げるほどの木々が幾重にも重なり、枝葉が空を覆っている。昼だというのに、森の中は薄暗い。湿った土の匂い。苔の匂い。腐葉土の匂い。砂漠とはまるで違う、濃くて重い命の匂いが満ちていた。

 

ただし。

 

バンは足を止めた。

 

「……静かすぎねぇか」

 

森なのに、音が少ない。

 

風が葉を揺らす音はある。

枝がきしむ音もある。

遠くで水が流れる音も、かすかに聞こえる。

 

だが、鳥の声がない。

虫の羽音がない。

獣が草を踏む気配も薄い。

 

命の匂いは濃いのに、命の動きが少ない。

 

それが、妙に気持ち悪かった。

 

バンは聖棍クレシューズを肩に担ぎ、ゆっくりと森へ踏み込んだ。

 

黒い砂漠で負った傷は、すでにふさがっている。完全に元通りというわけではないが、歩くには問題ない。リオードで仕入れた香辛料も、ハルファでもらった干し肉も、残りは少ない。酒はとうに飲み干した。

 

つまり、今のバンに必要なのは飯と酒だった。

 

「森なら何か食えんだろ」

 

そう言って足元を見る。

 

苔。

落ち葉。

黒い土。

見知らぬ茸。

 

バンは茸を一つ摘み、匂いを嗅いだ。

 

「……毒だな」

 

ぽい、と捨てる。

 

その茸が地面に落ちる前に、近くの苔の隙間から小さな影が動いた。

 

かさり。

 

小さな音。

 

バンの目が細くなる。

 

影はすぐに消えた。

だが、確かに何かがいた。

 

「虫か?」

 

バンは歩き出した。

 

森の奥へ進むほど、木々は古くなっていった。幹は太く、根は地面を蛇のように這い、ところどころで石を抱き込んでいる。大昔の石畳らしいものが、土と根に覆われながら残っていた。

 

道だったのか。

神殿へ続く参道だったのか。

今となっては分からない。

 

しばらく進むと、開けた場所に出た。

 

そこには、墓標があった。

 

石の墓標。

 

いや、墓標だったもの。

 

苔に覆われ、文字はほとんど読めない。倒れているものも多く、折れた石柱のようになっているものもある。いくつかは巨大な木の根に巻き込まれ、半分ほど飲み込まれていた。

 

墓場にしては、広すぎる。

 

森の中に沈んだ、石の群れ。

まるで、遠い昔に誰かがここで大量に死に、その記憶だけが石になって残ったようだった。

 

バンは一つの墓標の前にしゃがんだ。

 

指で苔を払う。

 

古い文字が刻まれていた。

読めない。

この世界の言葉かどうかも分からない。

 

ただ、刻んだ者の手は真剣だったのだろう。線は深く、硬い。

 

「名前か」

 

バンは呟く。

 

誰の名前かは分からない。

何のために死んだのかも分からない。

 

だが、墓なら、誰かが覚えておくために立てたものだ。

 

バンは腰の袋を探った。

酒はない。

代わりに干し肉が一切れだけあった。

 

「酒がありゃよかったんだけどな」

 

バンは干し肉を少しだけ裂き、墓標の前に置いた。

 

「まあ、肉で我慢しとけ」

 

もちろん、返事はない。

 

その時。

 

かさ。

 

また音がした。

 

今度は一つではない。

 

かさかさ。

かさ、かさかさ。

 

墓標の裏。

倒れた石柱の陰。

木の根の隙間。

苔の下。

土の割れ目。

 

小さな何かが、複数、動いている。

 

バンは立ち上がり、クレシューズを手に持った。

 

「さっきから、こそこそと」

 

苔の隙間から、それが現れた。

 

サソリだった。

 

ただし、普通のサソリではない。

 

掌ほどの大きさ。

外殻は砂色ではなく、赤黒い結晶のように光っている。尾の先には鋭い針。足は細く、だが動きは速い。目らしき部分は黒く濁り、小さいくせに妙な敵意を放っていた。

 

一匹。

 

二匹。

 

三匹。

 

墓標の周囲から、次々と這い出してくる。

 

バンはそれを見下ろした。

 

「サソリかよ。毒抜きが面倒くせぇな」

 

最初の一匹が跳んだ。

 

小さい。

だが速い。

 

尾の針が、バンの足首を狙う。

 

バンは足を引き、クレシューズの先で軽く叩いた。

 

ぱきん。

 

サソリの身体が砕ける。

 

魔石は残らなかった。

 

赤黒い粒子となって、空中へ溶けるように消える。

 

バンの眉が寄る。

 

「石も残らねぇのか」

 

次の瞬間、残りのサソリたちが一斉に動いた。

 

小さい身体で、墓標を駆け上がる。

木の根を走る。

倒れた石柱の裏へ回る。

正面からではなく、足元、背後、頭上から来る。

 

バンはクレシューズを回した。

 

四節の棍がしなり、円を描く。

 

墓標に触れないよう、足元だけを払う。

木の根の上を走る個体を弾く。

飛びかかってきた一匹を横から叩き落とす。

 

ぱきん。

ぱきん。

ぱきん。

 

軽い音が続く。

 

砕けたサソリは、どれも赤黒い粒子になって消えた。

 

魔石なし。

肉なし。

殻も残らない。

 

「ほんと、食えねぇ虫だな」

 

バンは不満そうに言った。

 

だが、サソリは減らなかった。

 

むしろ、増えている。

 

墓標の奥から、さらに小さな足音が聞こえる。

石畳の隙間から這い出す。

苔を持ち上げる。

木の根の下から群れで溢れる。

 

ただの虫ではない。

 

どこかから流れてきている。

どこかへ近づけまいとしている。

 

バンは周囲を見た。

 

墓標の向こう。

森のさらに奥。

 

そこだけ、木々の密度が少し違う。

 

古い石の道が、ほとんど埋もれながらも続いている。

その先から、赤黒い光が一瞬だけ漏れたように見えた。

 

「なるほどな」

 

バンは口の端を上げた。

 

「そっちに親玉か」

 

答えるように、サソリの群れが動いた。

 

今度は地面だけではない。

 

上から来た。

 

木の枝に隠れていた個体が、雨のように落ちてくる。

 

バンはクレシューズを頭上へ振るう。

 

棍が広がり、赤黒い粒子が散る。

砕けたサソリが、月の欠片のように光って消えた。

 

数匹が腕に取りついた。

 

針が皮膚を刺す。

 

「ちっ」

 

鋭い痛み。

毒が入る。

 

だが、黒い砂漠の毒とは違う。

これは神経を痺れさせる類の毒だ。血の流れを鈍らせ、指先の感覚を奪おうとする。

 

バンは腕を振り、サソリを叩き潰した。

 

「ぴりぴりしやがる」

 

毒は効いている。

完全に無視できるわけではない。

 

だが、止まるほどではない。

 

バンは左手を軽く開いた。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

スナッチ。

 

 狙うのは群れ全体ではない。

目の前の一匹。

跳びかかろうとしていた個体の動き、その力の流れを一瞬奪う。

 

サソリの身体が空中で硬直した。

 

バンはそれを隣の個体へ叩きつける。

 

二匹まとめて砕けた。

 

「小さいと奪いやすいな」

 

そう言いながらも、バンは眉をひそめた。

 

奪った力が、妙だった。

 

普通の魔物の力ではない。

生き物の筋肉の動きでも、魔石に宿る力でもない。

 

「……繋がってやがるな」

 

低く呟く。

 

何か、大きなものの端に触れたような感覚。

 

細い糸。

群れの奥へ続く糸。

 

この小型サソリたちは、単体で完結していない。

どこかの本体から、力を受けて動いている。

 

あるいは、本体の欠片なのかもしれない。

 

「面倒くせぇ虫だな」

 

サソリたちは、バンの足を止めようとしていた。

 

殺そうとしているというより、近づけまいとしている。

墓標の奥へ。

石の道の先へ。

赤黒い光の方へ。

 

バンは一度、墓標へ視線を向けた。

 

古い墓。

読めない名前。

苔に沈んだ石。

 

この場所で死んだ誰か。

その奥にある何か。

 

そして、この不自然なサソリの群れ。

 

「せっかく肉置いたのに、墓荒らしみてぇなことさせんなよ」

 

バンはクレシューズを長く構えた。

 

次の瞬間、地面が割れた。

 

サソリの群れが一斉に飛び出す。

数十。

いや、百に近い。

 

赤黒い外殻が、薄暗い森の中で不気味に光る。

小さな尾針が一斉に持ち上がる。

 

普通の冒険者なら、数を見ただけで背筋が凍る。

毒針の群れ。

魔石を残さない異常個体。

神の恩恵の流れを鈍らせるような、妙な気配。

 

だが、バンは肩を回した。

 

「まとめて来いよ。ちまちま刺されんのは好きじゃねぇ」

 

群れが来た。

 

赤黒い波。

 

バンは前へ出た。

 

クレシューズが舞う。

 

足元を払う。

跳んだ個体を弾く。

背後から来たものを、棍のしなりで叩き落とす。

墓標を避け、木の根を避け、石の道を壊さないように、群れだけを砕いていく。

 

ぱきん、ぱきん、ぱきん。

 

砕ける音は軽い。

だが数が多い。

 

腕に一匹。

肩に一匹。

ふくらはぎに一匹。

 

針が刺さる。

毒が入る。

指先が痺れる。

 

バンは舌打ちし、クレシューズを地面へ叩きつけた。

 

衝撃が円形に広がる。

苔が剥がれ、土が跳ね、サソリの群れがまとめて宙に浮いた。

 

そこへ、クレシューズを横薙ぎ。

 

赤黒い粒子が、森の薄闇に散った。

 

静かになった。

 

バンは息を吐く。

 

「……酒代にも飯にもならねぇ戦いは疲れるな」

 

腕の毒を確認する。

少し痺れる。

だが動く。

 

森はまた静かになった。

 

静かすぎる。

 

バンは墓標の前に置いた干し肉を見た。

まだそこにある。サソリたちはそれに触れていなかった。

 

「虫も食わねぇ肉か。失礼な奴らだな」

 

干し肉を拾い、埃を払って、自分で食べた。

 

少し土の味がした。

 

「……まずくなった」

 

腹立たしそうに呟いてから、バンは石の道へ向かった。

 

森の奥へ続く古い道。

 

進むほど、墓標の数は減っていく。

代わりに、白い石の破片が増えた。古い柱。割れた床石。月の形を刻んだ小さな石板。蔦に覆われた門の残骸。

 

どこか神殿めいている。

 

だが、神の気配とは違う。

 

もっと古い。

もっと静かで、もっと薄い。

 

精霊。

 

その言葉をバンは知らないわけではない。

元の世界にも、似たような存在はいた。

 

森の奥から漂う気配は、それに近かった。

 

ただし、弱っている。

 

ほとんど消えかけている。

誰かに吸われ続けて、細くなった灯火のような気配。

 

バンは鼻を鳴らした。

 

「また飯が不味くなる感じだな」

 

石の道の先で、地面がわずかに沈んでいた。

 

そこから、赤黒い光が漏れている。

 

穴ではない。

階段だ。

 

地下へ続く石段。

苔と根に覆われながらも、下へ向かっている。

 

石段の入口には、半分崩れた石碑があった。

月を象った紋様。

そして、サソリの尾のような模様。

 

バンは石碑を見下ろした。

 

「月とサソリねぇ」

 

その時、石段の奥から音がした。

 

かさ。

 

一匹ではない。

 

かさかさ。

かさかさかさ。

 

さっきよりも深い場所から、もっと多くの足音が上がってくる。

 

それと同時に、地の底から低い鼓動のような音が響いた。

 

どくん。

 

赤黒い光が、石段の奥で脈打つ。

 

バンはクレシューズを肩に担いだ。

 

「こいつら、どっかから流れてきてるな」

 

森の静けさが、さらに深くなる。

 

鳥も鳴かない。

虫も鳴かない。

風さえ、石段の入口で止まっているようだった。

 

バンは一歩、石段へ足をかける。

 

湿った空気が、下から上がってきた。

土と苔と古い石。

それに混じる、赤黒い毒の匂い。

 

うまい飯の匂いではない。

酒の匂いでもない。

 

だが、この奥にいる何かを放っておけば、森の飯も水も酒も、いずれまずくなる。

 

それだけは分かった。

 

「面倒な虫退治になりそうだ」

 

バンは笑った。

 

「ま、腹ごなしにはなるか」

 

赤い服の旅人は、古代の墓標を背に、地下へ続く石段を下り始めた。

 

森の奥で、赤黒い光が静かに脈打っていた。




第13話でした。
第三部の開幕として、大樹海、古代の墓標、小型サソリ群、そしてエルソス遺跡への入口を描きました。
次回は第14話「砂蠍の海」。サソリの群れがさらに増え、遺跡の奥に隠された親玉の気配が濃くなっていきます。
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