赤い旅人の続きになります。
日が昇る頃、ハルファの東門には砂漠船が用意されていた。
昨夜の黒砂の波で、集落の外側はまだざわついている。
水路には板と布が詰められ、外側には黒い砂が薄く積もっていた。
男たちが交代で見張り、黒砂が集落の内側へ流れ込まないようにしている。
貯水池には布がかけられ、井戸の周りには薬師の老人と見張り役が立っていた。
ハルファは持ちこたえた。
だが、それはあくまで一晩だけの話だった。
黒い砂漠の奥で眠る巨大な何かが、もう一度大きく身じろぎすれば、次も同じようにしのげる保証はない。
だから、リオードへ伝令を出す。
さらにその先、オラリオへも知らせを届ける必要がある。
黒砂の異常。
魔物の暴走。
井戸への影響。
地鳴り。
そして、ベヒーモスの名。
ハルファだけで抱えるには、重すぎる話だった。
砂漠船のそばには、出発する者たちが集まっていた。
船頭のジャミル。
商人のサイモン。
冒険者のダリオとミラ。
薬師見習いのサナ。
そして、赤い旅人バン。
バンは船の縁に腰をかけ、左手で硬いパンをかじっていた。
右腕には薬草を巻いた布。
脇腹にも包帯。
昨夜、黒砂の流れを逸らそうとして受けた反動は、まだ右腕に残っている。
動かせる。
握れる。
戦えないわけではない。
だが、細かい感覚が鈍い。
いつものように深く《強奪》を使うのは危ない。
バンは右手を開き、閉じる。
「……面倒くせぇな」
ナジュが水袋を運びながら言った。
「面倒なのはこっちの台詞だよ。怪我人が出発前から文句を言ってるんだからね」
「怪我人扱いか」
「怪我人だろう」
「動くぞ」
「動くから厄介なんだよ」
ナジュは水袋を船に積み、バンの前に小さな包みを置いた。
中には、豆の焼き固め、干し肉、苦草入りの塩、そして黒砂酒をしみ込ませた布で包んだ小さな干し果実が入っていた。
バンは包みを開け、少し目を細める。
「酒は駄目なんじゃなかったのか」
「飲む酒じゃない。気付け用だよ。口に含むだけにしな」
「飲んだら?」
「殴る」
「怖ぇ女将だな」
「生きて戻ってきたら、樽で飲ませてやる」
バンは笑った。
「それ、忘れんなよ」
「忘れるもんか。あんたが忘れても、私は請求する」
「俺が飲む側だろ」
「そうだったね」
ナジュはそう言って、少しだけ表情を緩めた。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「いいかい。黒砂持ちを深く盗るんじゃないよ。昨夜みたいなことを何度もやれば、腕だけじゃ済まない」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶんな」
「信用できないね」
ナジュは呆れたように息を吐いた。
サナも薬箱を抱えながら近づいてくる。
「右腕、無理しないでください」
「さっきも聞いた」
「何回でも言います」
「ナジュ二号かよ」
「褒め言葉ですか?」
「半分くらい」
「半分……」
サナは少し不満そうにしたが、その目には心配があった。
バンはそれを見て、肩をすくめる。
「死なねぇよ」
「不死身じゃないんですよね」
「そうだな」
「なら、死なないって言い方は駄目です」
バンは少し黙った。
それから、にやりと笑う。
「じゃあ、まだ死なねぇ」
サナは一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。
「それなら、少しだけ許します」
ジャミルが船の上から声をかけた。
「そろそろ出るぞ。風が変わる前に黒砂の影を抜ける」
ナジュが全員を見渡す。
「リオードに着いたら、まず砂漠船組合に伝えな。次にイスラファンの役人。それから、オラリオへ向かう商隊に知らせを渡す。余裕があればギルドにもだ」
サイモンが頷く。
「分かってる。俺の商会の印を使う。リオードなら話は通るはずだ」
ダリオが槍を担ぐ。
「途中で黒砂持ちが出たら?」
ナジュは答える。
「戦うな。逃げな。水と伝令を守るのが優先だ」
ミラが静かに頷く。
「討伐ではなく、護送」
「そういうことだね」
バンは硬いパンの最後を口へ放り込み、立ち上がった。
「逃げる戦いか」
ジャミルが言う。
「砂漠では、逃げる判断ができる者が生き残る」
「悪くねぇな」
「意外だな。正面から殴る方が好きかと思った」
「飯と酒が遠ざかるなら逃げるだろ」
「お前の判断基準は、時々かなり正しい」
「時々かよ」
砂漠船が動き出した。
ハルファの門が背後で閉じる。
見張り台から、リクが手を振っていた。
バンは軽く手を上げる。
ナジュは腕を組んだまま、最後まで見送っていた。
その後ろには、集落の者たちがいる。
粗い飯を作る者。
水を守る者。
黒砂を掃く者。
傷ついた道具を直す者。
怯えながらも、まだそこに残る者たち。
バンはそれを見て、少しだけ目を細めた。
あの集落の飯は、まだ食い足りない。
黒砂酒も、樽で飲む約束がある。
だから、戻る理由はある。
砂漠船は風を受け、砂の上を滑り始めた。
進路はリオード。
ただし、来た道をそのまま戻るわけではない。
昨夜の黒砂の流れで、一部の砂丘が変わった。
地面が沈み、黒砂が染み出した場所もある。
ジャミルは舵を取りながら、慎重に風と砂の流れを読んでいた。
「右へ寄せる。昨日の道は使えない」
サイモンが荷を押さえながら聞く。
「どのくらい迂回する?」
「風次第だ。黒砂がこれ以上伸びていなければ、半日遅れで済む」
「伸びていたら?」
「別の道を探す」
ダリオが苦い顔をする。
「別の道があればいいがな」
ミラは船の左側に立ち、遠くを見ていた。
「魔物の気配が多い」
バンも同じ方向を見た。
黒砂の縁から離れているはずなのに、砂の下にざわめきがある。
小型の魔物が移動している。
こちらを狙っているわけではない。
だが、同じ方向へ押し出されている。
昨日までと同じだ。
奥にいる何かが動くたび、砂漠の生き物たちが逃げ場を失っている。
「また逃げてんな」
バンが言う。
ジャミルが短く答える。
「なら、流れに逆らうな。逃げる魔物の進路を横切ると面倒だ」
「正面からぶつかるなってことか」
「そうだ」
「分かりやすい」
砂漠船は進路を少しずらした。
だが、すべてを避けられるわけではない。
しばらく進むと、前方の砂が不自然に盛り上がった。
小さな砂蜥蜴の群れだ。
ただし、普通の砂蜥蜴ではない。
背中に黒い筋が走っている個体が混じっている。
数は二十ほど。
ほとんどは船を避けるように逃げていく。
だが、黒砂に染まった数匹が、急に進路を変えた。
動くものに反応したのか、船へ向かってくる。
ダリオが槍を構える。
「来るぞ!」
ジャミルが叫ぶ。
「止まるな!止まれば囲まれる!」
ミラが船縁から槍を突き出し、飛びかかってきた一匹を弾いた。
サイモンは水袋を船の中央へ寄せる。
サナは薬箱を抱え、身を低くした。
バンはクレシューズを抜く。
右腕が少し重い。
なら、左手を多めに使う。
クレシューズは両手で扱える。
右手の細かい感覚が鈍くても、間合いと軌道は身体が覚えている。
「深く盗るな、だったな」
バンは小さく呟く。
最初の一匹が船の側面へ跳んだ。
バンは《強奪》を使わない。
クレシューズの節を伸ばし、頭を叩く。
砂蜥蜴が弾き飛ばされる。
次の一匹は、船底へ潜り込もうとした。
バンはその進路だけを読む。
尾の振り。
足の蹴り。
砂を掻く動き。
黒砂の筋には触れない。
生き物としての動きだけを、ほんの少し引っかける。
「強奪《スナッチ》」
盗ったのは、跳躍の勢いの端。
砂蜥蜴の身体が空中で失速する。
ミラの槍がそこへ入り、砂の上へ叩き落とした。
バンの右手には、わずかな痺れ。
だが、深くはない。
「このくらいならいけるな」
ダリオが笑う。
「なら、どんどん頼む!」
「調子に乗んな。右手が酒瓶持てなくなったらどうすんだ」
「そこが心配なのかよ!」
黒砂持ちの砂蜥蜴は五匹。
倒すのに時間はかからなかった。
だが、その間にも船の速度は落ちる。
ジャミルが帆を操作し、風を拾い直す。
「進むぞ!」
砂漠船が再び加速した。
背後に、倒れた砂蜥蜴たちが遠ざかっていく。
肉体は残る。
だが、誰も拾わない。
黒砂に染まった肉は食えない。
素材としても、処理に手間がかかる。
バンは少しだけ不満そうに見送った。
「もったいねぇな」
サナが真顔で言う。
「食べちゃ駄目です」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「バンさん」
「分かってるって」
サイモンが苦笑した。
「この状況で食材の心配をするのは、あんたくらいだ」
「食えるものを無駄にするのは嫌いなんだよ」
ミラが静かに言う。
「食えないものを食えば死ぬ」
「それも嫌いだ」
「ならいい」
短いやり取りの後、船の上には再び緊張が戻った。
進むほど、砂の様子が悪くなる。
黒い粒が混じる場所が増えた。
砂丘の形が崩れ、ところどころ地面が沈んでいる。
昨日までは固かったはずの道が、柔らかくなっている。
ジャミルは顔をしかめた。
「思ったより早い」
「黒砂がか?」
ダリオが聞く。
「ああ。このままなら、夕方までに古い交易路の一部が使えなくなる」
サイモンが青ざめる。
「それはまずい。リオードへ知らせても、道が潰れていたら救援が遅れる」
「だから急ぐ」
だが、急げば危険も増える。
砂漠船が速く進むほど、魔物の群れと衝突した時に避けにくい。
バンは船の前方へ移動し、目を細めた。
砂の流れを読む。
自分は砂漠の民ではない。
だが、力の流れなら少し分かる。
風。
砂。
魔物。
黒砂。
すべてが同じ方向へ流れているわけではない。
黒砂は低い場所へ。
魔物は黒砂から逃げる方向へ。
風はリオードへ向かう進路を斜めに押している。
その中に、一か所だけ妙な流れがあった。
前方右側。
砂の下が空洞のようになっている。
「ジャミル」
「あ?」
「右前、避けろ」
ジャミルの反応は早かった。
理由を聞かず、舵を切る。
砂漠船が左へ滑る。
次の瞬間、右前方の砂が沈んだ。
丸く、深く。
もしそのまま進んでいれば、船底を取られていた。
サイモンが息を呑む。
「今の……」
「沈み砂だ」
ジャミルが低く言う。
「黒砂が下に入り、普通の砂を浮かせていた。踏めば沈む」
ダリオがバンを見る。
「よく分かったな」
「流れが変だった」
「何の流れだよ」
「砂の」
「砂の流れを読む旅人か」
「便利だろ」
ジャミルが小さく笑う。
「悔しいが、助かった」
「酒一杯な」
「ハルファに戻ったらな」
「借りが増えてくな」
「生きて戻れば払う」
砂漠船はさらに進んだ。
昼を過ぎた頃、遠くに岩場が見えた。
リオードへ向かう途中の休憩地の一つだ。
そこまで行けば、一度水を確認し、船体を見直せる。
だが、その手前で風が落ちた。
帆が力を失う。
砂漠船の速度が落ちる。
ジャミルが舌打ちした。
「まずい」
ミラが槍を構える。
「後ろ」
背後の砂が盛り上がっていた。
今度は小型ではない。
サンドホーン。
黒砂に染まっていない普通の個体が数匹。
だが、その後ろに、一回り大きい黒い個体がいた。
甲殻が黒ずみ、角の先から砂がこぼれている。
黒砂持ちだ。
しかも、かなり染まっている。
ジャミルが叫ぶ。
「船を押す!岩場まで逃げるぞ!」
ダリオが叫び返す。
「あれに追いつかれるぞ!」
バンは黒いサンドホーンを見た。
力の流れが荒い。
黒砂にかなり食われている。
深く盗れば、右腕どころでは済まない。
だが、放っておけば船が割られる。
水袋も荷も伝令も終わりだ。
バンはクレシューズを握る。
「ジャミル、船を真っ直ぐ岩場へ向けろ」
「何をする!」
「後ろを少し黙らせる」
「一人で止めるな!」
「止めねぇよ。遅らせるだけだ」
バンは船尾へ移動する。
右手は鈍い。
なら、奪う量をさらに絞る。
黒砂持ち本体から盗るな。
角の先に乗る力。
地面を蹴る脚のタイミング。
群れ全体の足並み。
そのうち、黒砂に触れていない部分だけを盗る。
難しい。
だが、やるしかない。
船が遅くなる。
サイモンとダリオが棒で船を押す。
ジャミルが帆を調整し、わずかな風を拾う。
ミラは後方へ矢のように槍を構えている。
サナは水袋を押さえ、薬箱を守っている。
黒いサンドホーンが近づく。
角が船尾へ向く。
突進の力が集まる。
バンは息を吐いた。
「こっち向け、馬鹿甲虫」
クレシューズが伸びる。
節が黒いサンドホーンの角へ絡みかけた瞬間、バンは直接触れるのを避けた。
角そのものではない。
角の周囲の砂。
突進で巻き上がる砂の流れを引っかける。
「強奪《スナッチ》」
盗ったのは、砂煙の流れ。
視界を奪うための砂。
黒いサンドホーンの前方で、砂が横へ流れた。
視界が一瞬だけ乱れる。
魔物の突進がわずかに曲がる。
船尾ではなく、横へ。
だが、完全には外れない。
「ミラ!」
バンが叫ぶ。
ミラはすでに動いていた。
槍を投げる。
狙いは黒いサンドホーンではなく、手前の普通のサンドホーン。
槍がその脚の隙間へ入り、普通の個体が転ぶ。
転んだ個体に、黒いサンドホーンの進路がぶつかる。
黒い個体の足が一瞬止まった。
その一瞬で、船は少しだけ距離を稼ぐ。
ダリオが叫ぶ。
「今だ!押せ!」
サイモンも必死に船を押す。
バンは船尾から飛び降りた。
砂に足を取られながら、クレシューズを構える。
黒いサンドホーンが再び起き上がる。
怒りか、狂気か。
目が黒く濁り、口から砂混じりの泡を吹いている。
バンを見た。
狙いが船からバンへ移る。
「そうだ。こっち来い」
バンは笑った。
サナが船の上から叫ぶ。
「バンさん!」
「水守ってろ!」
黒いサンドホーンが突っ込んでくる。
真正面。
受ければ潰れる。
止めようとすれば、黒砂に触れる。
なら、避ける。
ただ避けるだけではない。
避けながら、向きを盗る。
バンはギリギリまで引きつけた。
角が胸へ届く直前、身体を横へ流す。
クレシューズの先が、魔物の前脚の付け根へ触れる。
黒砂に染まっていない、わずかな隙間。
そこだけを叩く。
同時に、前脚の踏み込みの勢いをほんの少し盗る。
「そこだけ、もらうぞ」
前脚が鈍る。
黒いサンドホーンの巨体が傾く。
だが、倒れない。
黒砂に侵された身体が、無理やり力を捻じ曲げる。
バンの肩に角がかすった。
赤いコートが裂け、肩に新しい血が滲む。
「っ、しぶといな」
黒いサンドホーンが再び向きを変える。
バンは距離を取りながら、船を見る。
岩場までもう少し。
ジャミルたちは船を押し、何とか休憩地の固い地面へ近づいている。
あと少し時間を稼げばいい。
倒す必要はない。
バンはそう判断した。
黒いサンドホーンが二度目の突進に入る。
その瞬間、地面が鳴った。
遠く、黒砂の方角から。
低い地鳴り。
魔物の動きが一瞬乱れる。
黒いサンドホーンだけではない。
周囲の普通のサンドホーンも、何かに怯えるように身を震わせた。
奥にいるものの気配。
眠る災害の寝息。
バンはその一瞬を逃さなかった。
「ビビってんなら、逃げとけよ」
クレシューズを伸ばす。
今度は魔物ではなく、足元の砂を叩く。
砂が跳ねる。
黒いサンドホーンの視界が潰れる。
その動きの迷いを、ほんの少しだけ盗る。
突進の向きがさらにずれた。
黒いサンドホーンはバンの横を通り過ぎ、砂丘へ突っ込んだ。
その間に、バンは船へ向かって走る。
右腕が痺れる。
脇腹が痛む。
肩から血が流れる。
不死身ではない身体は、正直に文句を言ってくる。
だが、まだ動く。
まだ死んでいない。
なら十分だ。
バンは船尾へ飛び乗った。
ジャミルが叫ぶ。
「掴まれ!」
帆が風を拾った。
砂漠船が一気に前へ滑る。
岩場の固い地面へ乗り上げるように入り、船底が大きく揺れた。
全員が体勢を崩す。
だが、船は止まった。
休憩地までたどり着いた。
黒いサンドホーンは追ってこない。
いや、追えない。
さっきの地鳴りの後、魔物たちは一斉に別方向へ逃げ始めていた。
黒砂の方角から、また何かが押し出されている。
ジャミルは荒い息を吐く。
「助かった……」
サイモンは水袋を確認する。
「水は無事だ!荷も、伝令筒もある!」
ダリオがその場に座り込んだ。
「生きた心地がしなかったぞ……」
ミラはバンを見る。
「傷」
サナがすでに薬箱を持って駆け寄っていた。
「バンさん!」
「うるせぇな。まだ死んでねぇよ」
「そういう問題じゃありません!」
サナは泣きそうな顔で怒っていた。
バンは少し困ったように頭をかく。
右手がうまく上がらず、左手でかいた。
「悪かったって」
「また半分くらいですか」
「今回は、七割くらい」
「全部にしてください!」
ダリオが笑いそうになり、脇腹を押さえた。
「怒られてるな、兄さん」
「見りゃ分かる」
サナはまず肩の傷を洗った。
黒砂持ちに深く噛まれたわけではない。
かすめただけ。
だが、砂が混じっている可能性がある。
灰と薬草。
水。
布。
塗り薬。
サナの手は震えていたが、処置は確かだった。
「痛みますか?」
「痛ぇよ」
「我慢してください」
「お前もナジュに似てきたな」
「いいことです」
「そうか?」
「そうです」
サナは包帯を巻き終え、ようやく息を吐いた。
「しばらく右腕も肩も休めてください」
「次に何も来なきゃな」
「来ても休めてください」
「無茶言うな」
「無茶してるのはバンさんです」
バンは何も言い返せなかった。
岩場の休憩地には、浅い井戸があった。
幸い、水はまだ黒く濁っていない。
ジャミルは水を確認し、慎重に補給を行った。
全員が少しだけ水を飲む。
バンも飲んだ。
ぬるい。
砂っぽい。
だが、今はそれが妙にうまかった。
「酒じゃねぇのにうまいな」
ジャミルが答える。
「砂漠では、水が一番強い酒だ」
「酔えねぇだろ」
「酔っている場合ではない」
「それもそうだ」
サイモンは伝令筒を確認しながら言った。
「ここからリオードまで、通常なら半日少し。でも今の道だと、夕方までに着けるかどうか」
ジャミルは空を見た。
「風が続けば着く。だが、黒砂の影響で風が乱れている。無理に進めば船を壊す」
ダリオが槍を握る。
「休みすぎても、追いつかれる」
ミラは静かに言った。
「魔物は逃げている。黒砂の奥で何かが動くたび、進路が変わる。次にどちらへ流れるか分からない」
全員が黙る。
休むべきか。
進むべきか。
バンは水袋を置き、荷袋からナジュにもらった包みを取り出した。
豆の焼き固めをかじる。
硬い。
だが、塩と苦草が効いていて、疲れた身体には悪くない。
「飯食ったら進めばいいだろ」
サイモンが呆れたように見る。
「こんな時でも食べるのか」
「こんな時だから食うんだよ。腹減ったまま逃げたら、足も頭も鈍る」
ジャミルは頷いた。
「正しい。短く食って、短く休む。その後、風を見る」
サナも小さく頷いた。
「怪我人も、食べないと動けません」
バンは豆の塊をもう一口かじる。
「怪我人扱いはやめろ」
「怪我人です」
「はいはい」
サナは少し満足そうにした。
短い休憩の間、バンは岩場の上へ登った。
遠くに、黒い砂漠の帯が見える。
そこから逃げるように、砂の上に小さな影がいくつも流れていた。
魔物。
獣。
虫。
黒砂に染まっていないものもいる。
染まりかけているものもいる。
完全に黒くなり、狂ったように走るものもいる。
災害が起きる時、最初に逃げるのは人ではない。
獣だ。
バンはそう思った。
そして今、この砂漠では、魔物たちが逃げている。
その奥にいるものが、どれほどの存在なのか。
考えるだけで面倒だった。
「ベヒーモス、ねぇ」
名前だけは知った。
三大クエスト。
世界規模の怪物。
災害に近い存在。
だが、まだ姿は見ていない。
見ていないのに、ここまで人の暮らしが揺らいでいる。
それだけで十分だった。
正面から全部盗る相手ではない。
昨夜、黒砂の流れに触れた時点で分かっている。
盗るなら、端。
呼吸の切れ目。
足元の流れ。
相手そのものではなく、相手が動かす周囲。
そうでなければ、こちらが壊れる。
バンは右腕を軽く振った。
まだ痺れる。
「ま、考えるのは後だな」
岩場の下からジャミルが呼ぶ。
「出るぞ!」
「あいよ」
砂漠船は再び動き出した。
風は弱いが、完全には死んでいない。
ジャミルが丁寧に帆を操り、少しでも進む力へ変える。
バンは船尾に座り、後方を見ていた。
今度は無理に一人で飛び降りない。
必要なら動く。
だが、今は見張る。
自分が全部を止める必要はない。
ジャミルが道を読む。
サイモンが伝令を守る。
ダリオとミラが左右を守る。
サナが傷を見る。
バンは、流れをずらす。
それぞれの役割がある。
旅をしていると、そういうことがよく分かる。
酒場も同じだった。
料理を作る者。
酒を注ぐ者。
皿を洗う者。
客と喋る者。
喧嘩を止める者。
一人で全部やれば、店は回らない。
災害相手も、たぶん同じだ。
「一人で食う飯より、何人かで食う飯の方がうまいしな」
バンがぼそりと言う。
サナが近くで聞いていた。
「何の話ですか?」
「何でもねぇよ」
「また説明が面倒なやつですか」
「分かってきたじゃねぇか」
サナは少し笑った。
その時、前方にリオードの外壁が見えた。
砂漠の向こうに、水と石の色が浮かび上がる。
サイモンが大きく息を吐いた。
「見えた……!」
だが、安心するにはまだ早かった。
リオードの手前、砂漠船の進路上に、黒い筋が走っていた。
昨日まではなかったはずの黒砂の帯。
細い。
だが、確実に交易路を横切っている。
ジャミルの顔が険しくなる。
「……もうここまで来たか」
リオードは見えている。
だが、その手前に黒砂がある。
細い帯とはいえ、油断すれば船底を取られる。
黒砂持ちの魔物が潜んでいる可能性もある。
サイモンが伝令筒を握りしめる。
「ここまで来て……」
バンは立ち上がった。
「越えるしかねぇだろ」
ジャミルが頷く。
「一気に行く。帆を全開にする。黒砂の上で止まるな」
ダリオが槍を構える。
「出た魔物は?」
ミラが答える。
「落とす。止まらない」
サナは水袋を押さえ、薬箱を固定する。
バンはクレシューズを握った。
「俺は前を見る。船底に来たら叩く」
ジャミルが叫ぶ。
「行くぞ!」
砂漠船が加速した。
風を受け、船底が砂を滑る。
黒砂の帯が近づく。
バンは船首に立ち、目を凝らす。
黒砂の中に、小さな動き。
ワームだ。
だが、数は少ない。
船が近づいた瞬間、黒砂の中から三匹が跳ねた。
「邪魔だ」
クレシューズが走る。
一匹目を弾き、二匹目を叩き落とす。
三匹目は船底へ入ろうとした。
バンは深く盗らない。
ワームの跳ねる勢いだけを少し奪い、軌道をずらす。
ミラの槍がそれを突き落とした。
船底が黒砂の上を滑る。
重い音。
ぎし、と船が軋む。
ジャミルが舵を押さえる。
「止まるな……!」
サイモンが息を止める。
サナは目を閉じそうになりながらも、必死に水袋を押さえている。
黒砂の帯を抜けた。
船体が軽くなる。
普通の砂へ戻る。
その瞬間、全員が息を吐いた。
リオードの城壁が、もう近い。
門の見張りたちがこちらに気づき、慌てて声を上げている。
砂漠船は速度を落としながら、リオードの南門へ滑り込んだ。
門前の砂地で、ようやく止まる。
サイモンは伝令筒を胸に抱え、船から飛び降りた。
「砂漠船組合へ!黒砂が交易路まで来ている!」
門番たちの顔色が変わった。
ジャミルも続く。
「ハルファからの緊急伝令だ!組合長と役人を呼べ!」
リオードの中が、一気に騒がしくなる。
バンは船の上で息を吐いた。
肩が痛い。
右腕も重い。
脇腹も熱い。
だが、伝令は届いた。
水も守った。
サナも、サイモンも、ジャミルも、ダリオも、ミラも生きている。
なら、悪くない。
サナが小さく言う。
「着きましたね」
「ああ」
「バンさん、無茶しましたね」
「少しな」
「少しじゃないです」
「じゃあ、まあまあ」
「本当に……」
サナは呆れながらも、ほっとした顔をしていた。
バンはリオードの市場の方を見る。
香辛料の匂い。
焼いた肉の匂い。
砂葡萄酒の甘い匂い。
昨日とは違い、今日はその匂いが妙にありがたかった。
「とりあえず、飯だな」
サナは一瞬だけ固まり、それから笑った。
「やっぱりそこなんですね」
「生きて着いたら飯だろ」
「はい。今日は、少し分かります」
バンは口元を上げた。
砂漠の向こうでは、黒い砂の帯が交易路を横切り始めている。
眠る災害の影は、もうハルファだけのものではなくなっていた。
だが、伝令は届いた。
ここから先は、もっと多くの人間が動き出す。
それが良いことか、さらに面倒なことかは分からない。
ただ、バンにとっては一つだけ確かなことがあった。
生きてたどり着いた後の飯は、うまい。
そして、戻れば黒砂酒が一樽待っている。
なら、まだ倒れるわけにはいかなかった。
第12話でした。
修正版では、ハルファからリオードへ伝令を届けるための護送・撤退戦を描きました。
今回は討伐ではなく、水、伝令、仲間を守って逃げ切ることを目的にし、バンも黒砂持ちを深く《強奪(スナッチ)》せず、流れや進路をずらして時間を稼ぐ形にしています。
1日の投稿数、どれくらいが読みやすいですか?
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1日3〜4話(現状維持)
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1日5話ペース
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1日6話ペース
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1日7話ペース
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1日8話ペース
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1日9話ペース
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1日10話ペース
-
1日10話以上!
-
ストックある限り全部!
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その他(感想欄へ)