ついにアンタレスの本体、その異常性が見え始めます。
神の恩恵や魔法を拒む古代の怪物と、そもそも神の恩恵を持たないバン。
今回は「理に引っかからない男」と「理を壊す怪物」の初接触回です。
扉の向こうは、月の下だった。
地下だというのに、そこには月光が満ちていた。
天井は高く、古い石柱が何本も並んでいる。柱の上部には蔦と根が絡みつき、白い石の表面を黒ずんだ苔が覆っていた。床には月を象った円形の紋様が刻まれ、その中央に祭壇がある。
祭壇は白かった。
いや、白かったはずだった。
今は赤黒い亀裂が走り、そこから毒を含んだ光が漏れている。月の光に似ているのに、澄んでいない。冷たいのに、どこか腐った甘さがある。見ているだけで、舌の奥に苦みが残るような光だった。
バンは顔をしかめた。
「……月までまずそうにしやがって」
足元で、砂蠍の海が蠢いていた。
小型サソリたちは左右へ割れ、道を作っている。バンを襲うでもなく、逃げるでもなく、ただ中央の祭壇へ向かう道を開いていた。
誘っている。
そう見えた。
バンはクレシューズを肩に担いだまま、ゆっくりと歩き出した。
歩くたび、白い床に赤黒い粒子が散る。小型サソリたちは尾を持ち上げたまま動かない。数百の黒い目が、赤い旅人を追っている。
普通なら気味が悪い。
だが、バンは気味が悪いというより、腹を立てていた。
この場所は、元々こうではなかったはずだ。
白い石。月の紋様。祭壇。祈りの壁画。
どれも、何かを守るために作られたものだ。
それが今は、サソリの巣になっている。
「他人の家を荒らす趣味はねぇけどよ」
バンは祭壇を見上げた。
「荒らされてる家を見るのも、気分よくねぇな」
祭壇の奥で、巨大な尾が動いた。
石柱の影から、ゆっくりとそれが現れる。
最初に見えたのは、尾だった。
赤黒い結晶のような外殻。節ごとに月光のような白い筋が走り、先端には鋭い毒針がある。毒針は半透明で、その中に赤黒い光が脈打っていた。
次に、脚。
無数の脚が白い床を叩く。一本一本が槍のように細く、だが石を砕く力を持っている。歩くたび、床の月紋様がひび割れ、小型サソリたちがその周囲へ平伏すように身を伏せた。
最後に、胴体。
巨大な蠍。
ただし、単なる巨大な魔物ではない。
背中には、結晶化した月光のような板がいくつも突き出ていた。胸部の中心には魔石らしきものが見えない。代わりに、赤黒い穴のような光があり、そこから細い糸が無数に伸びている。
その糸が、小型サソリたちへ繋がっていた。
さらに、祭壇へ。床へ。柱へ。壁画へ。
そして、奥の封印らしき月の紋様へ。
すべてが、蠍へ繋がっている。
バンは目を細めた。
「親玉ってより、巣そのものか」
巨大蠍の頭部が上がる。
黒い目がいくつも開いた。
その奥に、赤黒い星のような光が宿っている。
アンタレス。
バンはまだその名を知らない。
だが、名前を知らなくても分かる。
こいつは、ベヒーモスとは違う。
リーヴァの蛇とも、砂漠の虫とも違う。
歩く災害ではない。
もっと嫌なものだ。
仕組みそのものに食い込む虫。
バンはクレシューズを構えた。
「で、食えんのか?お前」
アンタレスが動いた。
巨体が跳んだわけではない。
尾を振っただけだった。
毒針の先から、赤黒い光が飛ぶ。
矢。
いや、月光の形をした毒の矢。
それは音もなくバンへ迫った。
バンは横へずれる。
矢は肩のすぐ横を通り抜け、背後の石柱へ刺さった。
次の瞬間、石柱が赤黒く染まり、表面から小型サソリが這い出した。
「うわ、最悪だな」
バンは顔をしかめる。
刺した場所を巣に変える。
当たれば肉体にも同じことが起きるのだろう。
アンタレスがさらに尾を振る。
二本。
三本。
五本。
月光の矢が、赤黒く濁りながら飛ぶ。
バンは走った。
白い床を蹴り、柱の影へ入り、崩れた壁を足場にする。矢が追う。普通の矢ではない。途中で軌道を変え、バンの背中を追いかけてくる。
「追ってくんのかよ」
バンはクレシューズを伸ばし、一本を叩き落とした。
矢が砕ける。
だが、砕けた破片から小型サソリが三匹生まれた。
「増えんな」
次の一本を避ける。
床に刺さる。
そこからまたサソリが湧く。
このままでは、避けても砕いても増えるだけだ。
バンは舌打ちした。
「飯の量が増えるなら歓迎なんだけどな」
アンタレスの周囲で、赤黒い光が広がった。
空気が変わる。
祭壇を中心に、円形の結界が展開された。
月の紋様が赤黒く塗り潰され、古い文字が宙に浮かぶ。神聖文字に似ている。だが違う。神の恩恵を刻む文字を拒むような、逆さにねじれた理の文字。
神殺しの結界《ゴッド・パラドックス》。
その名を知る者がいれば、そう呼んだだろう。
神の恩恵を乱し、魔法の構成を崩し、神の理に連なる力を拒絶する古代の結界。神々が降臨する以前、神という外からの力に抗うために作られた異物。
だが、ここにいるのはバンだけだった。
神の恩恵なし。
ステイタスなし。
ファミリアなし。
魔法なし。
結界が広がる。
バンの身体を通り抜ける。
何も起きない。
いや、何も起きないわけではない。
肌にざらつくような嫌悪感はある。肺の奥を湿った布で撫でられるような気持ち悪さもある。
だが、それだけだった。
身体の奥にあるはずの神聖文字は乱れない。
そもそも、ない。
魔法の流れは崩れない。
そもそも、使っていない。
恩恵による身体強化は剥がれない。
最初から、そんなものは背負っていない。
アンタレスの複眼が、わずかに揺れた。
バンは肩を鳴らす。
「悪いな。俺、神様とは契約してねぇんだわ」
アンタレスが低く鳴いた。
それは怒りではなかった。
困惑に近い。
神の理に噛みつくための結界。
現代の冒険者なら、足を踏み入れただけでステイタスの流れを乱され、魔法の詠唱は崩れ、身体の動きに違和感を覚える。
だが、この男には刺さらない。
喰えない。
乱せない。
引っかからない。
ベヒーモスの時と同じ、だが少し違う。
ベヒーモスは魔力を喰おうとして、バンの中に喰うものが少ないことに苛立った。
アンタレスは理を壊そうとして、バンがその理の外側に立っていることに気づいた。
「歩くパラドックス、ってやつか」
バンはアンタレスを見上げて言った。
「お互い様だな」
アンタレスの尾が大きく振り上げられた。
赤黒い光が濃くなる。
床のサソリたちが一斉に動き出した。
結界が効かないなら、物理で削る。
毒で殺す。
数で埋める。
それは単純で、だから厄介だった。
小型サソリの群れが、四方からバンへ押し寄せる。
同時に、アンタレス本体から結晶槍が生えた。
背中の月光結晶が割れ、その破片が槍となって宙に浮く。
一本一本が冷たい光をまとい、先端に赤黒い毒を宿している。
槍が飛ぶ。
バンは低く身を沈めた。
絶気配《ゼロサイン》。
気配を断つ。
呼吸を薄くする。
殺気を消す。
存在を石と同じ高さまで落とす。
十戒相手にも通じた、狩人の技。
バンの輪郭が、地下神殿の薄闇に沈んだ。
小型サソリの群れが、一瞬だけ迷う。
尾を上げたまま、標的を見失ったように左右へ揺れる。
結晶槍の数本も、軌道をわずかに外した。
バンはその隙に柱の影へ滑り込む。
だが、完全には消えきれなかった。
アンタレスの複眼が、ゆっくりと柱の方を向いた。
遺跡と繋がっている。
サソリと繋がっている。
祭壇と、床と、壁と、月の封印と繋がっている。
目で見ているだけではない。
この神殿全体が、アンタレスの感覚器官になっている。
ゼロサインで気配を消しても、床を踏めば伝わる。
石を蹴れば響く。
月光の中に入れば、影の形が歪む。
バンは柱の影で笑った。
「へぇ。完全に隠れんのは無理か」
次の瞬間、柱ごと結晶槍が貫いた。
バンは横へ飛び出す。
砕けた柱の破片が頬を掠める。
足元ではサソリが跳ぶ。
バンはクレシューズを振るい、サソリを払った。
同時に、アンタレスの尾が真上から落ちてくる。
バンはクレシューズを交差させて受けた。
衝撃。
床が割れた。
バンの膝が沈む。
腕がしびれる。
尾針の先端から垂れた毒が、クレシューズの節を焼く。
「っ……重いな、虫のくせに」
押し潰される。
バンは左手を開く。
「ちょいと借りるぜ」
身体狩り《フィジカルハント》。
狙うのはアンタレス本体。
尾を振る力。
脚で踏ん張る力。
外殻の内側で動く筋肉の力。
奪う。
その瞬間、バンの身体に異質な力が流れ込んだ。
重い。
ベヒーモスほどの質量ではない。
だが、単純な筋力ではなかった。
アンタレスの力は、糸を通じて遺跡へ広がっていた。
本体だけの身体能力ではない。
小型サソリの群れ、祭壇、月光の封印、古い精霊の残響。
それらが絡まり合い、一つの身体のように動いている。
バンは奥歯を噛んだ。
「ぐっ……こいつ、混ざってやがる……!」
奪える。
だが、奪いにくい。
どこまでが本体で、どこからが遺跡なのか分かりづらい。
無理に奪えば、バンの身体に余計なものまで流れ込む。
赤黒い毒。
弱った月の力。
古い封印のきしみ。
バンはすぐに奪う量を絞った。
尾を押し込む力、その端だけを盗る。
アンタレスの尾が、わずかに軽くなった。
その一瞬で、バンは横へ抜ける。
直後、尾が床を叩き割った。
白い石が砕け、赤黒い粒子が噴き上がる。
バンは距離を取った。
身体の奥に、奪った力の反動が残る。
腕が熱い。
背中がぞわつく。
胸の奥に、知らない月の冷たさが一瞬だけ入り込んだような感覚。
「……食い合わせ悪ぃな」
バンは口元を歪める。
フィジカルハントは通じる。
だが、綺麗には奪えない。
アンタレスは単体の獣ではない。
遺跡と繋がり、群れと繋がり、精霊の残響を喰らい続けている。
歩くパラドックス。
その表現は、思ったより的を射ていた。
アンタレスが前へ出る。
白い床が割れる。
サソリの海が道を開く。
結晶槍が宙に浮かぶ。
バンはクレシューズを構え直した。
「面倒くせぇけど」
肩を回す。
「弱ってる奴の上で飯食う趣味はねぇんだわ」
祭壇の奥から、かすかな音がした。
歌。
いや、泣き声。
月の精霊の残響。
それは言葉になっていない。
ただ、助けを求めているようにも、もう終わらせてほしいと願っているようにも聞こえた。
アンタレスの胸の赤黒い穴が脈打つ。
どくん。
月光が濁る。
どくん。
祭壇の白い石が、また一つ赤黒く染まる。
バンはその音を聞いて、目を細めた。
「今も喰ってんのか」
アンタレスは答えない。
代わりに、結晶槍が一斉に放たれた。
バンは走る。
一本を避ける。
二本目をクレシューズで叩く。
三本目を足場にして跳ぶ。
空中で、クレシューズがしなる。
「獲物狩り《フォックスハント》」
狙ったのはアンタレス本体ではない。
胸から祭壇へ伸びる、赤黒い糸の一本。
クレシューズの先端が、その糸へ届く。
盗る。
糸そのものを、引き抜くように奪う。
赤黒い光が弾けた。
祭壇の一角から、黒い染みが少しだけ消える。
奥の泣き声が、ほんの一瞬だけ澄んだ。
アンタレスが絶叫した。
音ではない。
遺跡全体が軋むような悲鳴だった。
小型サソリたちが一斉に暴れる。
結晶槍が乱れ、月光が赤黒く揺れる。
バンは空中で笑った。
「それは嫌か」
直後、アンタレスの尾が横から叩きつけられた。
避けきれない。
バンはクレシューズを引き戻し、盾にする。
衝撃。
身体が吹き飛ぶ。
石柱を砕き、床を転がり、祭壇の手前で止まった。
息が詰まる。
脇腹が痛む。
口の中に血の味が広がった。
バンは片膝をつき、笑う。
「当たりだな」
アンタレスの胸から伸びる糸。
祭壇へ絡みつく赤黒い管。
月の精霊の力を喰らう通路。
そこを切れば、アンタレスは痛がる。
倒し方の手がかりは見えた。
だが、同時に問題も見えた。
糸は一本ではない。
無数にある。
祭壇へ。
床へ。
壁へ。
小型サソリへ。
地下神殿全体へ。
すべてを盗れば、バンの身体がもたない。
一本一本切っていけば、アンタレスに潰される。
バンは血を吐き捨てた。
「こりゃ、料理より下ごしらえが面倒なやつだな」
アンタレスが祭壇の前で身を低くした。
その姿が、月光の中で歪む。
蠍の巨体。
赤黒い毒。
神の理を拒む結界。
精霊を喰らう糸。
魔石を持たず、ドロップも残さない古代の異物。
バンは立ち上がった。
クレシューズを肩に担ぐ。
「いいぜ」
口元に血を残したまま、笑う。
「まずは糸切りからだ」
赤い服の旅人と、歩くパラドックスが、赤黒く濁った月光の下で向き合った。
地下神殿の奥で、月の泣き声がかすかに響いていた。
第15話でした。
アンタレス本体との初接触回です。
神の恩恵や魔法を乱す結界は、恩恵も魔法も持たないバンには刺さりきりません。
ただし、アンタレスは遺跡・小型サソリ・月の精霊の残響と繋がっているため、フィジカルハントやスナッチも綺麗には通りません。
次回、第16話「毒針と強欲」では、アンタレスの毒と糸、そしてバンの強奪がさらにぶつかります。
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1日3〜4話(現状維持)
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1日10話以上!
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ストックある限り全部!
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