強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第15話です。
ついにアンタレスの本体、その異常性が見え始めます。
神の恩恵や魔法を拒む古代の怪物と、そもそも神の恩恵を持たないバン。
今回は「理に引っかからない男」と「理を壊す怪物」の初接触回です。


第15話 歩くパラドックス

扉の向こうは、月の下だった。

 

地下だというのに、そこには月光が満ちていた。

 

天井は高く、古い石柱が何本も並んでいる。柱の上部には蔦と根が絡みつき、白い石の表面を黒ずんだ苔が覆っていた。床には月を象った円形の紋様が刻まれ、その中央に祭壇がある。

 

祭壇は白かった。

 

いや、白かったはずだった。

 

今は赤黒い亀裂が走り、そこから毒を含んだ光が漏れている。月の光に似ているのに、澄んでいない。冷たいのに、どこか腐った甘さがある。見ているだけで、舌の奥に苦みが残るような光だった。

 

バンは顔をしかめた。

 

「……月までまずそうにしやがって」

 

足元で、砂蠍の海が蠢いていた。

 

小型サソリたちは左右へ割れ、道を作っている。バンを襲うでもなく、逃げるでもなく、ただ中央の祭壇へ向かう道を開いていた。

 

誘っている。

 

そう見えた。

 

バンはクレシューズを肩に担いだまま、ゆっくりと歩き出した。

 

歩くたび、白い床に赤黒い粒子が散る。小型サソリたちは尾を持ち上げたまま動かない。数百の黒い目が、赤い旅人を追っている。

 

普通なら気味が悪い。

 

だが、バンは気味が悪いというより、腹を立てていた。

 

この場所は、元々こうではなかったはずだ。

 

白い石。月の紋様。祭壇。祈りの壁画。

どれも、何かを守るために作られたものだ。

 

それが今は、サソリの巣になっている。

 

「他人の家を荒らす趣味はねぇけどよ」

 

バンは祭壇を見上げた。

 

「荒らされてる家を見るのも、気分よくねぇな」

 

祭壇の奥で、巨大な尾が動いた。

 

石柱の影から、ゆっくりとそれが現れる。

 

最初に見えたのは、尾だった。

 

赤黒い結晶のような外殻。節ごとに月光のような白い筋が走り、先端には鋭い毒針がある。毒針は半透明で、その中に赤黒い光が脈打っていた。

 

次に、脚。

 

無数の脚が白い床を叩く。一本一本が槍のように細く、だが石を砕く力を持っている。歩くたび、床の月紋様がひび割れ、小型サソリたちがその周囲へ平伏すように身を伏せた。

 

最後に、胴体。

 

巨大な蠍。

 

ただし、単なる巨大な魔物ではない。

 

背中には、結晶化した月光のような板がいくつも突き出ていた。胸部の中心には魔石らしきものが見えない。代わりに、赤黒い穴のような光があり、そこから細い糸が無数に伸びている。

 

その糸が、小型サソリたちへ繋がっていた。

 

さらに、祭壇へ。床へ。柱へ。壁画へ。

そして、奥の封印らしき月の紋様へ。

 

すべてが、蠍へ繋がっている。

 

バンは目を細めた。

 

「親玉ってより、巣そのものか」

 

巨大蠍の頭部が上がる。

 

黒い目がいくつも開いた。

その奥に、赤黒い星のような光が宿っている。

 

アンタレス。

 

バンはまだその名を知らない。

 

だが、名前を知らなくても分かる。

 

こいつは、ベヒーモスとは違う。

リーヴァの蛇とも、砂漠の虫とも違う。

 

歩く災害ではない。

もっと嫌なものだ。

 

仕組みそのものに食い込む虫。

 

バンはクレシューズを構えた。

 

「で、食えんのか?お前」

 

アンタレスが動いた。

 

巨体が跳んだわけではない。

尾を振っただけだった。

 

毒針の先から、赤黒い光が飛ぶ。

 

矢。

 

いや、月光の形をした毒の矢。

 

それは音もなくバンへ迫った。

 

バンは横へずれる。

 

矢は肩のすぐ横を通り抜け、背後の石柱へ刺さった。

 

次の瞬間、石柱が赤黒く染まり、表面から小型サソリが這い出した。

 

「うわ、最悪だな」

 

バンは顔をしかめる。

 

刺した場所を巣に変える。

当たれば肉体にも同じことが起きるのだろう。

 

アンタレスがさらに尾を振る。

 

二本。

三本。

五本。

 

月光の矢が、赤黒く濁りながら飛ぶ。

 

バンは走った。

 

白い床を蹴り、柱の影へ入り、崩れた壁を足場にする。矢が追う。普通の矢ではない。途中で軌道を変え、バンの背中を追いかけてくる。

 

「追ってくんのかよ」

 

バンはクレシューズを伸ばし、一本を叩き落とした。

 

矢が砕ける。

 

だが、砕けた破片から小型サソリが三匹生まれた。

 

「増えんな」

 

次の一本を避ける。

床に刺さる。

そこからまたサソリが湧く。

 

このままでは、避けても砕いても増えるだけだ。

 

バンは舌打ちした。

 

「飯の量が増えるなら歓迎なんだけどな」

 

アンタレスの周囲で、赤黒い光が広がった。

 

空気が変わる。

 

祭壇を中心に、円形の結界が展開された。

 

月の紋様が赤黒く塗り潰され、古い文字が宙に浮かぶ。神聖文字に似ている。だが違う。神の恩恵を刻む文字を拒むような、逆さにねじれた理の文字。

 

神殺しの結界《ゴッド・パラドックス》。

 

その名を知る者がいれば、そう呼んだだろう。

 

神の恩恵を乱し、魔法の構成を崩し、神の理に連なる力を拒絶する古代の結界。神々が降臨する以前、神という外からの力に抗うために作られた異物。

 

だが、ここにいるのはバンだけだった。

 

神の恩恵なし。

ステイタスなし。

ファミリアなし。

魔法なし。

 

結界が広がる。

 

バンの身体を通り抜ける。

 

何も起きない。

 

いや、何も起きないわけではない。

肌にざらつくような嫌悪感はある。肺の奥を湿った布で撫でられるような気持ち悪さもある。

 

だが、それだけだった。

 

身体の奥にあるはずの神聖文字は乱れない。

そもそも、ない。

 

魔法の流れは崩れない。

そもそも、使っていない。

 

恩恵による身体強化は剥がれない。

最初から、そんなものは背負っていない。

 

アンタレスの複眼が、わずかに揺れた。

 

バンは肩を鳴らす。

 

「悪いな。俺、神様とは契約してねぇんだわ」

 

アンタレスが低く鳴いた。

 

それは怒りではなかった。

困惑に近い。

 

神の理に噛みつくための結界。

現代の冒険者なら、足を踏み入れただけでステイタスの流れを乱され、魔法の詠唱は崩れ、身体の動きに違和感を覚える。

 

だが、この男には刺さらない。

 

喰えない。

乱せない。

引っかからない。

 

ベヒーモスの時と同じ、だが少し違う。

 

ベヒーモスは魔力を喰おうとして、バンの中に喰うものが少ないことに苛立った。

アンタレスは理を壊そうとして、バンがその理の外側に立っていることに気づいた。

 

「歩くパラドックス、ってやつか」

 

バンはアンタレスを見上げて言った。

 

「お互い様だな」

 

アンタレスの尾が大きく振り上げられた。

 

赤黒い光が濃くなる。

 

床のサソリたちが一斉に動き出した。

 

結界が効かないなら、物理で削る。

毒で殺す。

数で埋める。

 

それは単純で、だから厄介だった。

 

小型サソリの群れが、四方からバンへ押し寄せる。

 

同時に、アンタレス本体から結晶槍が生えた。

 

背中の月光結晶が割れ、その破片が槍となって宙に浮く。

一本一本が冷たい光をまとい、先端に赤黒い毒を宿している。

 

槍が飛ぶ。

 

バンは低く身を沈めた。

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

気配を断つ。

 

呼吸を薄くする。

殺気を消す。

存在を石と同じ高さまで落とす。

 

十戒相手にも通じた、狩人の技。

 

バンの輪郭が、地下神殿の薄闇に沈んだ。

 

小型サソリの群れが、一瞬だけ迷う。

尾を上げたまま、標的を見失ったように左右へ揺れる。

 

結晶槍の数本も、軌道をわずかに外した。

 

バンはその隙に柱の影へ滑り込む。

 

だが、完全には消えきれなかった。

 

アンタレスの複眼が、ゆっくりと柱の方を向いた。

 

遺跡と繋がっている。

サソリと繋がっている。

祭壇と、床と、壁と、月の封印と繋がっている。

 

目で見ているだけではない。

この神殿全体が、アンタレスの感覚器官になっている。

 

ゼロサインで気配を消しても、床を踏めば伝わる。

石を蹴れば響く。

月光の中に入れば、影の形が歪む。

 

バンは柱の影で笑った。

 

「へぇ。完全に隠れんのは無理か」

 

次の瞬間、柱ごと結晶槍が貫いた。

 

バンは横へ飛び出す。

 

砕けた柱の破片が頬を掠める。

足元ではサソリが跳ぶ。

 

バンはクレシューズを振るい、サソリを払った。

 

同時に、アンタレスの尾が真上から落ちてくる。

 

バンはクレシューズを交差させて受けた。

 

衝撃。

 

床が割れた。

 

バンの膝が沈む。

腕がしびれる。

尾針の先端から垂れた毒が、クレシューズの節を焼く。

 

「っ……重いな、虫のくせに」

 

押し潰される。

 

バンは左手を開く。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

身体狩り《フィジカルハント》。

 

狙うのはアンタレス本体。

 

尾を振る力。

脚で踏ん張る力。

外殻の内側で動く筋肉の力。

 

奪う。

 

その瞬間、バンの身体に異質な力が流れ込んだ。

 

重い。

 

ベヒーモスほどの質量ではない。

だが、単純な筋力ではなかった。

 

アンタレスの力は、糸を通じて遺跡へ広がっていた。

本体だけの身体能力ではない。

小型サソリの群れ、祭壇、月光の封印、古い精霊の残響。

それらが絡まり合い、一つの身体のように動いている。

 

バンは奥歯を噛んだ。

 

「ぐっ……こいつ、混ざってやがる……!」

 

奪える。

 

だが、奪いにくい。

どこまでが本体で、どこからが遺跡なのか分かりづらい。

 

無理に奪えば、バンの身体に余計なものまで流れ込む。

 

赤黒い毒。

弱った月の力。

古い封印のきしみ。

 

バンはすぐに奪う量を絞った。

 

尾を押し込む力、その端だけを盗る。

 

アンタレスの尾が、わずかに軽くなった。

 

その一瞬で、バンは横へ抜ける。

 

直後、尾が床を叩き割った。

 

白い石が砕け、赤黒い粒子が噴き上がる。

 

バンは距離を取った。

身体の奥に、奪った力の反動が残る。

 

腕が熱い。

背中がぞわつく。

胸の奥に、知らない月の冷たさが一瞬だけ入り込んだような感覚。

 

「……食い合わせ悪ぃな」

 

バンは口元を歪める。

 

フィジカルハントは通じる。

だが、綺麗には奪えない。

 

アンタレスは単体の獣ではない。

遺跡と繋がり、群れと繋がり、精霊の残響を喰らい続けている。

 

歩くパラドックス。

 

その表現は、思ったより的を射ていた。

 

アンタレスが前へ出る。

 

白い床が割れる。

サソリの海が道を開く。

結晶槍が宙に浮かぶ。

 

バンはクレシューズを構え直した。

 

「面倒くせぇけど」

 

肩を回す。

 

「弱ってる奴の上で飯食う趣味はねぇんだわ」

 

祭壇の奥から、かすかな音がした。

 

歌。

 

いや、泣き声。

 

月の精霊の残響。

 

それは言葉になっていない。

ただ、助けを求めているようにも、もう終わらせてほしいと願っているようにも聞こえた。

 

アンタレスの胸の赤黒い穴が脈打つ。

 

どくん。

 

月光が濁る。

 

どくん。

 

祭壇の白い石が、また一つ赤黒く染まる。

 

バンはその音を聞いて、目を細めた。

 

「今も喰ってんのか」

 

アンタレスは答えない。

 

代わりに、結晶槍が一斉に放たれた。

 

バンは走る。

 

一本を避ける。

二本目をクレシューズで叩く。

三本目を足場にして跳ぶ。

 

空中で、クレシューズがしなる。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

狙ったのはアンタレス本体ではない。

 

胸から祭壇へ伸びる、赤黒い糸の一本。

 

クレシューズの先端が、その糸へ届く。

 

盗る。

 

糸そのものを、引き抜くように奪う。

 

赤黒い光が弾けた。

 

祭壇の一角から、黒い染みが少しだけ消える。

 

奥の泣き声が、ほんの一瞬だけ澄んだ。

 

アンタレスが絶叫した。

 

音ではない。

遺跡全体が軋むような悲鳴だった。

 

小型サソリたちが一斉に暴れる。

結晶槍が乱れ、月光が赤黒く揺れる。

 

バンは空中で笑った。

 

「それは嫌か」

 

直後、アンタレスの尾が横から叩きつけられた。

 

避けきれない。

 

バンはクレシューズを引き戻し、盾にする。

 

衝撃。

 

身体が吹き飛ぶ。

石柱を砕き、床を転がり、祭壇の手前で止まった。

 

息が詰まる。

脇腹が痛む。

口の中に血の味が広がった。

 

バンは片膝をつき、笑う。

 

「当たりだな」

 

アンタレスの胸から伸びる糸。

祭壇へ絡みつく赤黒い管。

月の精霊の力を喰らう通路。

 

そこを切れば、アンタレスは痛がる。

 

倒し方の手がかりは見えた。

 

だが、同時に問題も見えた。

 

糸は一本ではない。

 

無数にある。

 

祭壇へ。

床へ。

壁へ。

小型サソリへ。

地下神殿全体へ。

 

すべてを盗れば、バンの身体がもたない。

一本一本切っていけば、アンタレスに潰される。

 

バンは血を吐き捨てた。

 

「こりゃ、料理より下ごしらえが面倒なやつだな」

 

アンタレスが祭壇の前で身を低くした。

 

その姿が、月光の中で歪む。

 

蠍の巨体。

赤黒い毒。

神の理を拒む結界。

精霊を喰らう糸。

魔石を持たず、ドロップも残さない古代の異物。

 

バンは立ち上がった。

 

クレシューズを肩に担ぐ。

 

「いいぜ」

 

口元に血を残したまま、笑う。

 

「まずは糸切りからだ」

 

赤い服の旅人と、歩くパラドックスが、赤黒く濁った月光の下で向き合った。

 

地下神殿の奥で、月の泣き声がかすかに響いていた。




第15話でした。
アンタレス本体との初接触回です。
神の恩恵や魔法を乱す結界は、恩恵も魔法も持たないバンには刺さりきりません。
ただし、アンタレスは遺跡・小型サソリ・月の精霊の残響と繋がっているため、フィジカルハントやスナッチも綺麗には通りません。
次回、第16話「毒針と強欲」では、アンタレスの毒と糸、そしてバンの強奪がさらにぶつかります。

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