強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第16話です。
アンタレスの糸を切る手がかりを掴んだバンですが、相手は単体の魔物ではありません。
毒針、結晶槍、サソリの群れ、そして月の精霊を喰らう糸。
今回は、バンの強欲とアンタレスの捕食が真正面からぶつかります。


第16話 毒針と強欲

糸を切れば、痛がる。

 

それが分かっただけで、戦い方は変わる。

 

バンは赤黒く濁った月光の下で、クレシューズを肩に担ぎ直した。

 

目の前には巨大な蠍。

 

アンタレス。

 

白い石の祭壇を背に、赤黒い外殻を鳴らしながら身を低くしている。胸の奥には魔石ではなく、穴のような光がある。そこから無数の糸が伸び、祭壇へ、床へ、柱へ、小型サソリへと絡みついていた。

 

一本切れば、痛がる。

 

なら、切ればいい。

 

単純だ。

 

ただし、数が多すぎる。

 

「料理で言うなら、骨が多すぎる魚だな」

 

バンはぼやいた。

 

アンタレスの複眼が光る。

 

返事の代わりに、尾が振られた。

 

月光の矢が飛ぶ。

 

赤黒く濁った光の矢。刺さった場所を巣に変え、砕けば小型サソリを生む厄介な攻撃。

 

バンは床を蹴った。

 

一本目を避ける。二本目を柱の影へ誘導する。三本目はクレシューズで叩き落とさず、先端だけを横から弾いた。

 

矢は軌道をずらされ、床へ刺さらず壁の古い紋様へかすった。

 

そこから小型サソリが二匹だけ生まれる。

 

「砕くと増える。刺さると巣になる。だったら、当てねぇのが一番か」

 

面倒な料理だ、とバンは思った。

 

焼いても駄目。煮ても駄目。切り方を間違えれば毒が回る。

 

なら、包丁を入れる場所を選ぶしかない。

 

アンタレスが脚を鳴らした。

 

白い床の亀裂から、小型サソリが湧く。赤黒い外殻の群れが、床を這い、柱を登り、天井へ広がっていく。

 

バンは走った。

 

狙いは本体ではない。

 

祭壇へ伸びる糸。

 

先ほどフォックスハントで一本盗った時、祭壇の黒い染みが薄れた。奥に聞こえた月の泣き声も、ほんの少しだけ澄んだ。

 

つまり、アンタレスはまだ喰っている。

 

封印を。

 

月の精霊の残響を。

 

この遺跡が守ろうとしていた何かを。

 

「食い意地張ってんのは嫌いじゃねぇけどよ」

 

バンはクレシューズを伸ばした。

 

「他人の皿に手ぇ突っ込むな」

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

クレシューズの先端が、宙に浮かぶ赤黒い糸へ走る。

 

糸は細い。

 

だが、目に見える細さと違って、触れれば重い。古い封印の力と、濁った月光と、アンタレスの毒が混ざっている。

 

バンはそれを盗ろうとした。

 

瞬間、糸がうねった。

 

生き物のように暴れ、クレシューズの先へ巻きつく。

 

「おっと」

 

糸から毒が流れ込む。

 

クレシューズの節が赤黒く染まり、バンの手首まで痺れが走った。

 

「道具越しでも来るのかよ」

 

バンは舌打ちし、手首を返した。

 

盗るのをやめるのではない。

 

奪う角度を変える。

 

糸そのものを丸ごと奪おうとすれば、毒ごと引き込まれる。なら、糸の中を流れる力だけをつまみ取る。

 

スナッチ。

 

赤黒い流れの端を、ほんの少しだけ盗る。

 

糸が一瞬だけ鈍った。

 

その隙にクレシューズが跳ねる。

 

ぷつん。

 

糸が切れた。

 

祭壇の黒い染みが、また少し薄くなる。

 

奥から、かすかな声が漏れた。

 

ありがとう、にも聞こえた。痛い、にも聞こえた。

 

バンは眉を寄せる。

 

「礼なら酒でいいぞ」

 

アンタレスが絶叫した。

 

遺跡全体が鳴る。柱が震え、天井から砂が落ち、小型サソリたちが一斉に跳ねた。

 

怒り。

 

明確な怒りだ。

 

アンタレスの尾が、真上へ振り上がる。

 

毒針が開いた。

 

針の先が割れ、中から赤黒い液体が浮かび上がる。水滴のようなそれは空中で丸くなり、次の瞬間、無数の細い針へ変わった。

 

毒の雨。

 

「うわ、最悪だな」

 

バンは走った。

 

毒針が降る。

 

床へ刺さる。柱へ刺さる。小型サソリへ刺さる。

 

刺さった場所から赤黒い結晶が生え、そこからさらに小型サソリが這い出す。

 

増える。

 

増える。

 

増える。

 

地下神殿の床が、再び砂蠍の海に変わっていく。

 

バンはクレシューズを頭上で回した。

 

毒針を弾く。

 

だが、全ては弾けない。

 

避けようと思えば、避けられた。

 

だが、全てを避ければ背後の祭壇に針が降る。

あの奥には、まだ声がある。

泣いているのか、助けを求めているのかも分からない、月の残響がある。

 

バンは舌打ちし、クレシューズの回転をわずかに内側へ絞った。

 

自分を守る範囲ではなく、背後の祭壇を守る範囲へ。

 

その分だけ、防御が薄くなる。

 

肩に一本。

 

脇腹に一本。

 

左腕に二本。

 

針が刺さる。

 

「っ……」

 

毒が入った。

 

冷たい。

 

黒砂の毒とも、先ほどのサソリの毒とも違う。これは熱ではなく冷えだ。血の中に月の冷たさを流し込み、筋肉を内側から固めようとしてくる。

 

左手の感覚が鈍る。

 

呼吸が浅くなる。

 

クレシューズを握る右手にも力が入りにくい。

 

バンは口元を歪めた。

 

「毒の種類くらい統一しろよ。味が散らかってんだろ」

 

冗談を言いながら、足元のサソリを踏み砕く。

 

だが、動きは確かに鈍っていた。

 

アンタレスはそれを見逃さない。

 

結晶槍が宙に浮かぶ。

 

一本ではない。

 

十数本。

 

月光を固めたような槍が、赤黒い毒をまとって一斉にバンへ向いた。

 

バンは目を細めた。

 

真正面から受けるには数が多い。

 

避ければ、背後の祭壇に刺さる。祭壇に刺されば、またサソリが増える。何より、あの泣き声の主に近い場所を汚される。

 

「面倒くせぇな」

 

バンはクレシューズを短く持った。

 

気配を薄める。

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

薄闇へ沈む。呼吸を消す。殺気を消す。目の前にいても、目の焦点が滑るような存在になる。

 

結晶槍のいくつかが、狙いを失って軌道を乱した。

 

小型サソリの群れも一瞬だけ動きを鈍らせる。

 

だが、完全には消えない。

 

床がバンの足音を伝える。月光が影を拾う。アンタレスの糸が神殿全体を震わせ、見えない網のようにバンの位置を探る。

 

アンタレスの複眼が、ゆっくりと動いた。

 

「だよな」

 

バンは笑った。

 

「見えなくても、床が喋るか」

 

次の瞬間、結晶槍が来た。

 

バンは横へ跳ぶ。

 

一本目が頬を掠める。二本目をクレシューズで弾く。三本目を足場にして空中へ跳び、四本目を避ける。

 

五本目。

 

避けきれない。

 

バンは左手を伸ばした。

 

「借りるぜ」

 

フィジカルハント。

 

狙うのはアンタレス本体ではない。

 

槍を飛ばす瞬発力。

 

尾を振って命令を通す力。

 

結晶を射出する動き、その端。

 

奪う。

 

槍の速度が、ほんのわずかに落ちた。

 

その分の力がバンへ流れ込む。

 

冷たい。

 

重い。

 

毒の混じった力だ。筋肉の力というより、遺跡の奥から押し出された異物の流れに近い。

 

バンの左腕が軋む。

 

「っ……相変わらず、食い合わせ最悪だな」

 

だが、その一瞬で十分だった。

 

バンは槍を避け、床へ着地する。

 

そのままサソリの群れの中へ踏み込んだ。

 

奪った力は長く持たない。持たせる気もない。身体に悪いものを飲み込んだ時のように、早く使って吐き出す必要がある。

 

バンは一気に加速した。

 

毒で鈍った身体に、奪った瞬発力を無理やり乗せる。

 

床を蹴る。

 

小型サソリの群れが、赤黒い波のように割れる。

 

バンは祭壇へ伸びる太い糸の前へ出た。

 

さっき切ったものより太い。

奥へ深く繋がっている。

これを切れば、アンタレスはもっと痛がる。

 

だが、同時にバンの身体にも反動が来る。

 

「まあ、毒も食らってるしな」

 

バンは笑う。

 

「今さら一品増えても変わんねぇか」

 

クレシューズを伸ばす。

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

今度は、盗るのではなく、引きずり出す。

 

糸の流れを掴み、祭壇から引き剥がす。

 

赤黒い光が暴れた。

 

糸の中から、声が流れ込む。

 

泣き声。

 

祈り。

 

古い言葉。

 

助けを求める声。

 

そして、数千年分の疲れ。

 

バンの表情が少しだけ変わった。

 

「……ずいぶん長く、食われてたんだな」

 

その声は、軽くなかった。

 

アンタレスが暴れる。

 

尾が振られる。

サソリの海が跳ねる。

結晶槍が再び生まれる。

 

だが、バンは離さない。

 

「ちょいと、返してもらうぜ」

 

強奪《スナッチ》。

 

糸の中を流れる月の力を、アンタレスから盗る。

 

全部ではない。

 

全部盗れば、バンが壊れる。

そもそも、それはバンのものではない。

 

だから、奪うのはアンタレスが飲み込もうとしている分だけ。

 

盗って、祭壇へ返す。

 

赤黒い糸が白く光った。

 

祭壇の月紋様が一瞬だけ澄む。

 

地下神殿に、冷たいが綺麗な月光が差した。

 

小型サソリたちが悲鳴のような音を立てる。

 

アンタレスの胸の穴が激しく脈打った。

 

バンの腕から血が吹き出す。

 

「ぐっ……!」

 

左腕の血管が、毒を吸い上げたようにどす黒く浮き出た。

クレシューズを握る指先には、薄い霜のようなものが張りついている。

熱いのに冷たい。焼けるのに凍る。

身体の中で、毒と月光が喧嘩しているようだった。

 

奪った力が、身体を通っていく。

 

バンは器ではない。

 

月の精霊の力を受け止めるための存在ではない。

神の恩恵も、精霊の加護もない。ただ煉獄で鍛えられた肉体と、強奪という魔力で無理やり流れを動かしているだけだ。

 

負荷は当然来る。

 

肩が軋む。

左腕の感覚が消えかける。

口から血が漏れる。

 

それでも、流す。

 

アンタレスから祭壇へ。

 

濁った月光から、少しだけ澄んだ月光へ。

 

糸が弾けた。

 

ぷつん。

 

太い糸が切れる。

 

祭壇の黒い染みが、大きく剥がれた。

 

奥から、今度こそはっきりと声が聞こえた。

 

ありがとう。

 

それは、確かにそう聞こえた。

 

バンは血を吐きながら笑った。

 

「礼は酒でいいっつったろ」

 

アンタレスが怒り狂った。

 

今までよりも激しく、地下神殿が震える。

 

胸の穴から赤黒い光が溢れ、背中の月光結晶が次々と割れていく。割れた結晶は槍にならず、アンタレスの外殻へ溶け込んだ。

 

体が変わる。

 

脚が太くなる。

尾が長く伸びる。

毒針がさらに鋭くなる。

 

小型サソリの群れが、次々とアンタレスへ吸い込まれていった。

 

赤黒い粒子となって、本体へ戻る。

 

バンは目を細めた。

 

この世界の魔物は、倒せば魔石を残す。

魔石が壊れれば、身体は灰になる。

少なくとも、バンがこの世界で見てきた魔物はそうだった。

 

だが、こいつらは違う。

 

魔石を残さない。

灰にもならない。

泥が混ざるように、同族を本体へ吸収していく。

 

「子分を食ったか」

 

バンはクレシューズを握り直した。

 

「ほんと、ルールの外にいやがるな」

 

アンタレスは答えない。

 

ただ、巨大な尾を振り上げた。

 

その尾針の先に、赤黒い月が生まれる。

 

毒の塊。

 

当たれば、ただ刺されるだけでは済まない。身体の中に巣を作られ、そこから内側を喰われる。

 

バンは左腕を軽く振った。

 

感覚は鈍い。

毒はまだ残っている。

フィジカルハントの反動もある。

スナッチで月の力を流したせいで、身体の奥が冷たい。

 

それでも、立っている。

 

「強欲でね」

 

バンはクレシューズを構えた。

 

「借りたもんは、ちゃんと返す主義なんだよ」

 

アンタレスの尾が落ちる。

 

赤黒い月が、毒針となってバンへ迫る。

 

バンは前へ出た。

 

逃げない。

 

毒針が迫る直前、クレシューズを絡める。

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

狙うのは毒針そのものではない。

 

毒針の中に溜め込まれた、アンタレスの毒の核。

 

盗る。

 

赤黒い核が、針の先から引き抜かれる。

 

だが、重い。

 

毒そのものが、バンの腕へ噛みつくように抵抗する。

 

「っ……!」

 

腕が焼ける。

冷える。

痺れる。

 

痛みの種類がぐちゃぐちゃだった。

 

それでも、盗った。

 

毒針の光がわずかに鈍る。

 

バンは身体を横へずらす。

 

尾針が肩を掠め、背後の床へ突き刺さった。

 

床が赤黒く膨らみ、そこから小型サソリが生まれかける。

 

バンは盗った毒核を、そのままクレシューズの先で叩きつけた。

 

毒核が床の亀裂へ落ちる。

 

そこに群がろうとした小型サソリたちが、逆に毒に呑まれて砕けた。

 

「自分の毒で腹壊しとけ」

 

アンタレスが身を引く。

 

初めて、わずかに後退した。

 

バンはそれを見逃さなかった。

 

「お」

 

口元が上がる。

 

「嫌がったな」

 

アンタレスの複眼が光る。

 

怒り。困惑。警戒。

 

その全部が混じっている。

 

この男は喰えない。

 

神の理に引っかからないだけではない。

糸を盗る。

力を返す。

毒を奪う。

こちらの捕食を、横からかすめ取る。

 

強欲。

 

アンタレスの捕食とは違う、別の強欲。

 

奪うためだけではない。

食うためだけでもない。

気に入らないものを取り返すための強欲。

 

バンは肩で息をしていた。

 

毒は効いている。

身体は重い。

左腕はまだ痺れている。

 

だが、道は見えた。

 

糸を切る。

 

月の力を返す。

 

毒針の核を盗る。

 

そして、アンタレス本体を祭壇から引き剥がす。

 

「次は、お前を皿から引っぺがす番だな」

 

バンが一歩前へ出る。

 

アンタレスが尾を振り上げる。

 

地下神殿の月光が、白と赤黒の間で揺れた。

 

毒針と強欲が、再びぶつかろうとしていた。




第16話でした。
今回はアンタレスの毒針と、バンの強奪がぶつかる回です。
バンは毒を受けながらも、糸を切り、月の力を少しだけ祭壇へ返し、さらに毒針の核を盗りました。
次回、第17話「神の足跡」では、古代の封印と月の精霊の残響、そしてアンタレスの成り立ちにさらに踏み込んでいきます。
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