アンタレスの糸を切る手がかりを掴んだバンですが、相手は単体の魔物ではありません。
毒針、結晶槍、サソリの群れ、そして月の精霊を喰らう糸。
今回は、バンの強欲とアンタレスの捕食が真正面からぶつかります。
糸を切れば、痛がる。
それが分かっただけで、戦い方は変わる。
バンは赤黒く濁った月光の下で、クレシューズを肩に担ぎ直した。
目の前には巨大な蠍。
アンタレス。
白い石の祭壇を背に、赤黒い外殻を鳴らしながら身を低くしている。胸の奥には魔石ではなく、穴のような光がある。そこから無数の糸が伸び、祭壇へ、床へ、柱へ、小型サソリへと絡みついていた。
一本切れば、痛がる。
なら、切ればいい。
単純だ。
ただし、数が多すぎる。
「料理で言うなら、骨が多すぎる魚だな」
バンはぼやいた。
アンタレスの複眼が光る。
返事の代わりに、尾が振られた。
月光の矢が飛ぶ。
赤黒く濁った光の矢。刺さった場所を巣に変え、砕けば小型サソリを生む厄介な攻撃。
バンは床を蹴った。
一本目を避ける。二本目を柱の影へ誘導する。三本目はクレシューズで叩き落とさず、先端だけを横から弾いた。
矢は軌道をずらされ、床へ刺さらず壁の古い紋様へかすった。
そこから小型サソリが二匹だけ生まれる。
「砕くと増える。刺さると巣になる。だったら、当てねぇのが一番か」
面倒な料理だ、とバンは思った。
焼いても駄目。煮ても駄目。切り方を間違えれば毒が回る。
なら、包丁を入れる場所を選ぶしかない。
アンタレスが脚を鳴らした。
白い床の亀裂から、小型サソリが湧く。赤黒い外殻の群れが、床を這い、柱を登り、天井へ広がっていく。
バンは走った。
狙いは本体ではない。
祭壇へ伸びる糸。
先ほどフォックスハントで一本盗った時、祭壇の黒い染みが薄れた。奥に聞こえた月の泣き声も、ほんの少しだけ澄んだ。
つまり、アンタレスはまだ喰っている。
封印を。
月の精霊の残響を。
この遺跡が守ろうとしていた何かを。
「食い意地張ってんのは嫌いじゃねぇけどよ」
バンはクレシューズを伸ばした。
「他人の皿に手ぇ突っ込むな」
獲物狩り《フォックスハント》。
クレシューズの先端が、宙に浮かぶ赤黒い糸へ走る。
糸は細い。
だが、目に見える細さと違って、触れれば重い。古い封印の力と、濁った月光と、アンタレスの毒が混ざっている。
バンはそれを盗ろうとした。
瞬間、糸がうねった。
生き物のように暴れ、クレシューズの先へ巻きつく。
「おっと」
糸から毒が流れ込む。
クレシューズの節が赤黒く染まり、バンの手首まで痺れが走った。
「道具越しでも来るのかよ」
バンは舌打ちし、手首を返した。
盗るのをやめるのではない。
奪う角度を変える。
糸そのものを丸ごと奪おうとすれば、毒ごと引き込まれる。なら、糸の中を流れる力だけをつまみ取る。
スナッチ。
赤黒い流れの端を、ほんの少しだけ盗る。
糸が一瞬だけ鈍った。
その隙にクレシューズが跳ねる。
ぷつん。
糸が切れた。
祭壇の黒い染みが、また少し薄くなる。
奥から、かすかな声が漏れた。
ありがとう、にも聞こえた。痛い、にも聞こえた。
バンは眉を寄せる。
「礼なら酒でいいぞ」
アンタレスが絶叫した。
遺跡全体が鳴る。柱が震え、天井から砂が落ち、小型サソリたちが一斉に跳ねた。
怒り。
明確な怒りだ。
アンタレスの尾が、真上へ振り上がる。
毒針が開いた。
針の先が割れ、中から赤黒い液体が浮かび上がる。水滴のようなそれは空中で丸くなり、次の瞬間、無数の細い針へ変わった。
毒の雨。
「うわ、最悪だな」
バンは走った。
毒針が降る。
床へ刺さる。柱へ刺さる。小型サソリへ刺さる。
刺さった場所から赤黒い結晶が生え、そこからさらに小型サソリが這い出す。
増える。
増える。
増える。
地下神殿の床が、再び砂蠍の海に変わっていく。
バンはクレシューズを頭上で回した。
毒針を弾く。
だが、全ては弾けない。
避けようと思えば、避けられた。
だが、全てを避ければ背後の祭壇に針が降る。
あの奥には、まだ声がある。
泣いているのか、助けを求めているのかも分からない、月の残響がある。
バンは舌打ちし、クレシューズの回転をわずかに内側へ絞った。
自分を守る範囲ではなく、背後の祭壇を守る範囲へ。
その分だけ、防御が薄くなる。
肩に一本。
脇腹に一本。
左腕に二本。
針が刺さる。
「っ……」
毒が入った。
冷たい。
黒砂の毒とも、先ほどのサソリの毒とも違う。これは熱ではなく冷えだ。血の中に月の冷たさを流し込み、筋肉を内側から固めようとしてくる。
左手の感覚が鈍る。
呼吸が浅くなる。
クレシューズを握る右手にも力が入りにくい。
バンは口元を歪めた。
「毒の種類くらい統一しろよ。味が散らかってんだろ」
冗談を言いながら、足元のサソリを踏み砕く。
だが、動きは確かに鈍っていた。
アンタレスはそれを見逃さない。
結晶槍が宙に浮かぶ。
一本ではない。
十数本。
月光を固めたような槍が、赤黒い毒をまとって一斉にバンへ向いた。
バンは目を細めた。
真正面から受けるには数が多い。
避ければ、背後の祭壇に刺さる。祭壇に刺されば、またサソリが増える。何より、あの泣き声の主に近い場所を汚される。
「面倒くせぇな」
バンはクレシューズを短く持った。
気配を薄める。
絶気配《ゼロサイン》。
薄闇へ沈む。呼吸を消す。殺気を消す。目の前にいても、目の焦点が滑るような存在になる。
結晶槍のいくつかが、狙いを失って軌道を乱した。
小型サソリの群れも一瞬だけ動きを鈍らせる。
だが、完全には消えない。
床がバンの足音を伝える。月光が影を拾う。アンタレスの糸が神殿全体を震わせ、見えない網のようにバンの位置を探る。
アンタレスの複眼が、ゆっくりと動いた。
「だよな」
バンは笑った。
「見えなくても、床が喋るか」
次の瞬間、結晶槍が来た。
バンは横へ跳ぶ。
一本目が頬を掠める。二本目をクレシューズで弾く。三本目を足場にして空中へ跳び、四本目を避ける。
五本目。
避けきれない。
バンは左手を伸ばした。
「借りるぜ」
フィジカルハント。
狙うのはアンタレス本体ではない。
槍を飛ばす瞬発力。
尾を振って命令を通す力。
結晶を射出する動き、その端。
奪う。
槍の速度が、ほんのわずかに落ちた。
その分の力がバンへ流れ込む。
冷たい。
重い。
毒の混じった力だ。筋肉の力というより、遺跡の奥から押し出された異物の流れに近い。
バンの左腕が軋む。
「っ……相変わらず、食い合わせ最悪だな」
だが、その一瞬で十分だった。
バンは槍を避け、床へ着地する。
そのままサソリの群れの中へ踏み込んだ。
奪った力は長く持たない。持たせる気もない。身体に悪いものを飲み込んだ時のように、早く使って吐き出す必要がある。
バンは一気に加速した。
毒で鈍った身体に、奪った瞬発力を無理やり乗せる。
床を蹴る。
小型サソリの群れが、赤黒い波のように割れる。
バンは祭壇へ伸びる太い糸の前へ出た。
さっき切ったものより太い。
奥へ深く繋がっている。
これを切れば、アンタレスはもっと痛がる。
だが、同時にバンの身体にも反動が来る。
「まあ、毒も食らってるしな」
バンは笑う。
「今さら一品増えても変わんねぇか」
クレシューズを伸ばす。
獲物狩り《フォックスハント》。
今度は、盗るのではなく、引きずり出す。
糸の流れを掴み、祭壇から引き剥がす。
赤黒い光が暴れた。
糸の中から、声が流れ込む。
泣き声。
祈り。
古い言葉。
助けを求める声。
そして、数千年分の疲れ。
バンの表情が少しだけ変わった。
「……ずいぶん長く、食われてたんだな」
その声は、軽くなかった。
アンタレスが暴れる。
尾が振られる。
サソリの海が跳ねる。
結晶槍が再び生まれる。
だが、バンは離さない。
「ちょいと、返してもらうぜ」
強奪《スナッチ》。
糸の中を流れる月の力を、アンタレスから盗る。
全部ではない。
全部盗れば、バンが壊れる。
そもそも、それはバンのものではない。
だから、奪うのはアンタレスが飲み込もうとしている分だけ。
盗って、祭壇へ返す。
赤黒い糸が白く光った。
祭壇の月紋様が一瞬だけ澄む。
地下神殿に、冷たいが綺麗な月光が差した。
小型サソリたちが悲鳴のような音を立てる。
アンタレスの胸の穴が激しく脈打った。
バンの腕から血が吹き出す。
「ぐっ……!」
左腕の血管が、毒を吸い上げたようにどす黒く浮き出た。
クレシューズを握る指先には、薄い霜のようなものが張りついている。
熱いのに冷たい。焼けるのに凍る。
身体の中で、毒と月光が喧嘩しているようだった。
奪った力が、身体を通っていく。
バンは器ではない。
月の精霊の力を受け止めるための存在ではない。
神の恩恵も、精霊の加護もない。ただ煉獄で鍛えられた肉体と、強奪という魔力で無理やり流れを動かしているだけだ。
負荷は当然来る。
肩が軋む。
左腕の感覚が消えかける。
口から血が漏れる。
それでも、流す。
アンタレスから祭壇へ。
濁った月光から、少しだけ澄んだ月光へ。
糸が弾けた。
ぷつん。
太い糸が切れる。
祭壇の黒い染みが、大きく剥がれた。
奥から、今度こそはっきりと声が聞こえた。
ありがとう。
それは、確かにそう聞こえた。
バンは血を吐きながら笑った。
「礼は酒でいいっつったろ」
アンタレスが怒り狂った。
今までよりも激しく、地下神殿が震える。
胸の穴から赤黒い光が溢れ、背中の月光結晶が次々と割れていく。割れた結晶は槍にならず、アンタレスの外殻へ溶け込んだ。
体が変わる。
脚が太くなる。
尾が長く伸びる。
毒針がさらに鋭くなる。
小型サソリの群れが、次々とアンタレスへ吸い込まれていった。
赤黒い粒子となって、本体へ戻る。
バンは目を細めた。
この世界の魔物は、倒せば魔石を残す。
魔石が壊れれば、身体は灰になる。
少なくとも、バンがこの世界で見てきた魔物はそうだった。
だが、こいつらは違う。
魔石を残さない。
灰にもならない。
泥が混ざるように、同族を本体へ吸収していく。
「子分を食ったか」
バンはクレシューズを握り直した。
「ほんと、ルールの外にいやがるな」
アンタレスは答えない。
ただ、巨大な尾を振り上げた。
その尾針の先に、赤黒い月が生まれる。
毒の塊。
当たれば、ただ刺されるだけでは済まない。身体の中に巣を作られ、そこから内側を喰われる。
バンは左腕を軽く振った。
感覚は鈍い。
毒はまだ残っている。
フィジカルハントの反動もある。
スナッチで月の力を流したせいで、身体の奥が冷たい。
それでも、立っている。
「強欲でね」
バンはクレシューズを構えた。
「借りたもんは、ちゃんと返す主義なんだよ」
アンタレスの尾が落ちる。
赤黒い月が、毒針となってバンへ迫る。
バンは前へ出た。
逃げない。
毒針が迫る直前、クレシューズを絡める。
獲物狩り《フォックスハント》。
狙うのは毒針そのものではない。
毒針の中に溜め込まれた、アンタレスの毒の核。
盗る。
赤黒い核が、針の先から引き抜かれる。
だが、重い。
毒そのものが、バンの腕へ噛みつくように抵抗する。
「っ……!」
腕が焼ける。
冷える。
痺れる。
痛みの種類がぐちゃぐちゃだった。
それでも、盗った。
毒針の光がわずかに鈍る。
バンは身体を横へずらす。
尾針が肩を掠め、背後の床へ突き刺さった。
床が赤黒く膨らみ、そこから小型サソリが生まれかける。
バンは盗った毒核を、そのままクレシューズの先で叩きつけた。
毒核が床の亀裂へ落ちる。
そこに群がろうとした小型サソリたちが、逆に毒に呑まれて砕けた。
「自分の毒で腹壊しとけ」
アンタレスが身を引く。
初めて、わずかに後退した。
バンはそれを見逃さなかった。
「お」
口元が上がる。
「嫌がったな」
アンタレスの複眼が光る。
怒り。困惑。警戒。
その全部が混じっている。
この男は喰えない。
神の理に引っかからないだけではない。
糸を盗る。
力を返す。
毒を奪う。
こちらの捕食を、横からかすめ取る。
強欲。
アンタレスの捕食とは違う、別の強欲。
奪うためだけではない。
食うためだけでもない。
気に入らないものを取り返すための強欲。
バンは肩で息をしていた。
毒は効いている。
身体は重い。
左腕はまだ痺れている。
だが、道は見えた。
糸を切る。
月の力を返す。
毒針の核を盗る。
そして、アンタレス本体を祭壇から引き剥がす。
「次は、お前を皿から引っぺがす番だな」
バンが一歩前へ出る。
アンタレスが尾を振り上げる。
地下神殿の月光が、白と赤黒の間で揺れた。
毒針と強欲が、再びぶつかろうとしていた。
第16話でした。
今回はアンタレスの毒針と、バンの強奪がぶつかる回です。
バンは毒を受けながらも、糸を切り、月の力を少しだけ祭壇へ返し、さらに毒針の核を盗りました。
次回、第17話「神の足跡」では、古代の封印と月の精霊の残響、そしてアンタレスの成り立ちにさらに踏み込んでいきます。