赤い旅人の続きになります。
砂漠船は、リオードの南門を離れた。
帆が膨らむ。
船底が砂を噛み、乾いた音を立てながら滑り出す。
積み荷は軽くはない。
水袋。
薬草。
灰。
黒砂対策の布と板。
釘。
簡易担架。
硬いパンと干し肉。
それから、ナジュへの土産としてバンが勝手に積ませた香辛料の袋が一つ。
サイモンはそれを見つけて、頭を抱えた。
「誰だ、これを積んだのは」
「俺」
バンは船縁に座ったまま答えた。
「ハルファの飯、少し味変えたらもっとうまくなる」
「救援物資に香辛料を混ぜるな」
「飯も救援だろ」
サイモンは言い返そうとして、少し考え、結局ため息をついた。
「……否定しきれないのが嫌だ」
ザルドは船の中央で積み荷を確認していた。
巨大な体で、無駄のない動き。
大剣は背にある。
鎧をまとっているのに、砂漠船の揺れにまるで乱されていない。
その隣では、ゼウス・ファミリアの面々が準備を進めている。
情報役のエルンは地図を広げ、黒砂の位置と交易路の変化を記録していた。
前衛のロウムは盾と槍の固定具合を確認している。
治療担当のセリアは、サナと並んで薬草や包帯を分けていた。
白髪の若い支援者は、水袋の数を何度も数え直している。
バンはその支援者を見る。
「なあ、白いの」
支援者はびくっと肩を揺らした。
「ぼ、僕ですか?」
「他に白いのいねぇだろ。名前は?」
「アルヴィンです。アルヴィン・グレイ。ゼウス・ファミリアの支援者です」
「逃げ足速そうだな」
「えっ」
「褒めてるぞ」
「それは……ありがとうございます?」
アルヴィンは戸惑いながらも頭を下げた。
ザルドが横から言う。
「こいつは荷を捨てる判断が早い。危険な時は役に立つ」
「荷を捨てるのが役に立つのか」
「生きて戻るためなら、金貨入りの袋でも捨てる」
アルヴィンは慌てて手を振る。
「で、でも、できれば捨てたくはないです!」
バンは笑った。
「いいじゃねぇか。逃げるのがうまい奴は、死ににくい」
アルヴィンはきょとんとした。
馬鹿にされたと思っていたのだろう。
だが、バンの声には嘲りがなかった。
ザルドも短く頷く。
「戦場では、死なずに運ぶ者も必要だ」
「は、はい!」
アルヴィンは少しだけ背筋を伸ばした。
砂漠船は風を受け、リオードから離れていく。
街の匂いが薄れていく。
焼いた肉。
砂葡萄酒。
香辛料。
人の声。
その代わりに、黒砂の匂いが近づいてくる。
まだ遠い。
だが、風に混じる重さが違う。
ジャミルは舵を握り、砂の流れと風を見ていた。
「黒砂帯は広がっている」
エルンが地図を押さえながら聞く。
「今朝、あなた方が越えた帯より太くなっていますか?」
「風向きにもよるが、たぶんな」
サイモンが顔をしかめる。
「たった半日でか」
「黒砂は普通の砂じゃない。地面の下から染みる。風だけで広がっているわけではない」
バンは右腕を軽く動かした。
まだ少し痺れている。
昨夜、黒砂の流れを逸らした時の反動。
そして、伝令の途中で黒砂持ちとやり合った時の負荷。
握れる。
クレシューズも扱える。
だが、深く盗るのは避けた方がいい。
サナがその動きを見逃さなかった。
「右腕、まだ変ですね」
「動く」
「動くから大丈夫、は禁止です」
「じゃあ、動くけど面倒」
「もっと駄目です」
セリアが横で微笑む。
「無理に使うと、黒砂の痺れが神経に残る可能性があります。今は左手主体で動いた方がいいでしょう」
「治療師二人に言われると逃げ場がねぇな」
サナがすぐ言う。
「逃げないでください」
「お前、だんだん強くなってんな」
「誰かさんが無茶するからです」
バンは軽く肩をすくめた。
ザルドはそのやり取りを聞きながら、低く言う。
「傷を隠して戦う奴は、先に死ぬ」
バンはザルドを見る。
「経験談か」
「何度も見た」
「お前は?」
「食って耐えた」
「参考にならねぇ」
「なら、死ぬな」
「それは参考になるな」
ザルドはそれ以上言わなかった。
砂漠船は進む。
リオードからハルファへ戻る道は、来た時よりも悪くなっていた。
黒砂の細い帯が、いくつも交易路を横切っている。
ジャミルはそのたびに進路を調整し、止まらず抜けられる場所を探した。
ザルドは船首近くに立ち、遠くを見ている。
まるで山のような背中だった。
バンはその横に立つ。
「お前、あいつを見たことあるのか」
ザルドは視線を動かさずに答える。
「あいつとは」
「ベヒーモス」
船の上の空気がわずかに変わった。
エルンの筆が止まる。
ロウムが槍の紐を締め直す。
セリアとサナも、薬草を分ける手を止めた。
ザルドはしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「遠くからだけだ」
「どんなだった」
「山だ」
「山?」
「動く山。息をする大地。獣というより、地形そのものが敵になる」
バンは黒い砂漠の方角を見る。
まだ見えない。
だが、その表現は分かる気がした。
地鳴り。
黒砂の波。
井戸の変化。
魔物の逃走。
あれらは、獣が爪や牙で襲った結果ではない。
ただそこにいるだけで、周囲が壊れている。
まさに、動く山。
「食えるか?」
バンが聞いた。
ザルドは即答しなかった。
少しだけ口元を歪める。
「食う前に、食われる者が多い」
「答えになってねぇ」
「肉として見る相手ではない」
「暴喰が言うなら、相当だな」
「だが、必要なら喰う」
「やっぱ内臓強ぇな」
ザルドは短く笑った。
その時、ミラが船尾側から声を上げた。
「後方、砂が動いている」
全員が振り向く。
遠くの砂丘の上で、砂煙が上がっていた。
小型の群れではない。
もっと重い。
ジャミルが舌打ちする。
「黒砂持ちか」
エルンが遠眼鏡を覗く。
「複数です。サンドホーンが四、いや五。後方に大型が一体。甲殻が黒く変色しています」
ロウムが盾を構えた。
「追ってくるか」
「こちらへ向かっています」
サイモンが青ざめる。
「またか……!」
ジャミルが帆を調整する。
「風が弱い。このままじゃ追いつかれる」
ザルドは大剣の柄に手をかけた。
「迎え撃つ」
ジャミルが叫ぶ。
「船を止めれば黒砂に飲まれる!」
「止めん」
ザルドは船の縁へ足をかけた。
その巨体が、砂の上へ降りる。
重い音がした。
普通なら砂に足を取られる。
だが、ザルドは沈み込みながらも、その場で踏みとどまった。
砂が彼の足元で押し固められたように見える。
バンは口笛を吹く。
「でたらめな足腰してんな」
ザルドは背の大剣を抜く。
刃が陽光を受けて鈍く光った。
「船は進めろ」
ジャミルが怒鳴る。
「一人でやる気か!」
「時間を稼ぐ」
バンはクレシューズを肩に担いだ。
「じゃあ俺も降りるか」
サナが叫ぶ。
「バンさん!」
「深く盗らねぇよ」
「そういう問題でもありません!」
ザルドがバンを見る。
「腕は」
「動く」
「なら、前に出すぎるな。流れだけ変えろ」
「命令すんなよ」
「忠告だ」
「便利な言葉だな」
バンは笑って、船から砂へ降りた。
足が沈む。
黒砂混じりではないが、普通の地面より動きにくい。
遠くからサンドホーンの群れが迫る。
普通の個体が四体。
黒砂に染まった個体が二体。
そのうち一体は、かなり大きい。
甲殻が黒く濡れたように光り、角の先から黒い砂がぼろぼろと落ちている。
目は濁り、口から砂混じりの泡を吹いていた。
あれは、食えない。
バンは見ただけでそう思った。
「まずそうだな」
ザルドが低く答える。
「食うな」
「お前が言うと説得力あるな」
砂漠船は速度を落としながらも進んでいる。
サイモンとアルヴィンが水袋を押さえ、ロウムとミラが船上から支援の構えを取る。
セリアとサナは治療道具を固定し、負傷者が出た時に備えていた。
エルンは地図をしまい、短剣を抜く。
情報役とはいえ、ゼウス・ファミリアの眷族だ。
最低限どころではない動きはできるらしい。
先頭のサンドホーンが突進してきた。
黒砂に染まっていない普通の個体。
ザルドが一歩前へ出る。
大剣を構えるでもなく、ただ持つ。
次の瞬間、斬った。
予備動作がほとんどない。
重い剣が、あり得ないほど自然に動く。
サンドホーンの角が砕け、甲殻が割れ、巨体が横へ吹き飛んだ。
砂が爆ぜる。
バンは目を細めた。
「おいおい、普通にうまそうな方まで叩き潰すなよ」
「硬い肉だ。食うなら後で切ればいい」
「残す気はあるんだな」
「食材は無駄にせん」
「いいねぇ」
二体目が横から回り込む。
ザルドへではない。
砂漠船へ向かっている。
バンはクレシューズを伸ばした。
右手は添えるだけ。
左手で軌道を操る。
狙うのは魔物本体ではない。
足元の砂。
突進で巻き上がる砂の流れ。
その一部。
「強奪《スナッチ》」
砂の流れを少しだけ横へ盗る。
サンドホーンの足元が乱れた。
突進の軌道が船から外れる。
「暴食、そっち」
バンが言う。
ザルドが動く。
「暴食ではない。暴喰だ」
「細けぇな」
「大事だ」
言いながら、ザルドの大剣が二体目の首元へ入った。
甲殻の隙間を正確に断つ。
巨体が砂の上に沈む。
バンは笑った。
「いい腕してんな」
「お前のずらし方も悪くない」
「褒めてんのか?」
「事実だ」
「なら褒めてんな」
三体目と四体目が同時に来る。
片方は普通。
片方は黒砂持ち。
バンは黒砂持ちを見た。
深く盗るな。
黒い流れに触れるな。
盗るなら、その外側。
生き物としての足運び。
突進へ入る直前の迷い。
黒砂に侵されて、かえって乱れている力の継ぎ目。
バンはクレシューズを回した。
「そっちは俺が曲げる」
ザルドは普通個体へ向かった。
黒砂持ちがバンへ突進する。
ザルドの圧より、動きの軽いバンを獲物と見たのかもしれない。
バンは真正面に立たない。
横へ流れながら、クレシューズの節を伸ばす。
角には触れない。
黒く染まった甲殻にも触れない。
脚の付け根。
まだ黒砂が深く回っていない部分を叩く。
同時に、踏み込みの勢いをほんの少し盗る。
「そこだけ、もらうぞ」
黒砂持ちの巨体がわずかに傾く。
だが、普通の個体より戻りが早い。
黒砂が身体の動きを無理やり補っている。
倒れかけた身体が、不気味に持ち直した。
バンの右手に痺れが走る。
「っ、気色悪ぃ」
黒砂持ちが頭を振る。
角の先がバンの肩を狙う。
バンはクレシューズを畳み、後ろへ跳ぶ。
だが、砂が足を取った。
回避が少し遅れる。
角が赤いコートをかすめる。
布が裂けた。
傷は浅い。
だが、サナの声が船から飛ぶ。
「バンさん!」
「見てるだけで怒るなよ!」
「怒ります!」
ザルドが普通個体を斬り伏せ、すぐにこちらへ視線を向ける。
「下がれ」
「まだいける」
「黒砂が深い」
「だから曲げるだけだって」
バンは黒砂持ちを見た。
まともに倒すには、硬い。
ザルドの一撃なら砕けるだろう。
なら、ザルドが斬りやすい形にすればいい。
バンは息を吸う。
深く盗るな。
広げすぎるな。
黒砂を盗るな。
盗るのは、周囲の砂。
魔物の足場。
突進の進路。
黒砂持ちが再び動く。
バンはクレシューズを砂に打ち込んだ。
節が砂の中を走る。
魔物の足元。
そこにある砂の流れを、ほんの少しだけ盗る。
足場が崩れる。
黒砂持ちの前脚が沈む。
巨体が前のめりになった。
「今」
バンが短く言う。
ザルドはすでに動いていた。
大剣を振り上げる。
黒砂持ちが頭を上げようとする。
間に合わない。
ザルドの一撃が、首元の甲殻ごと叩き割った。
音が遅れて響く。
黒砂持ちの巨体が砂に沈む。
黒い砂が傷口からこぼれ、風に散った。
ザルドは剣を引き抜き、低く言う。
「硬い」
「食えるか?」
「食わん」
「残念」
「食ったらお前の治療師が倒れる」
船の上でサナが叫ぶ。
「倒れます!」
バンは笑った。
だが、笑っていられる時間は短かった。
最後の大型個体が動き出す。
それまで後方で砂を掻き、こちらを見ていた黒いサンドホーン。
他の個体よりも大きい。
黒砂の侵食も深い。
甲殻はほとんど黒。
角は途中で歪み、先端が二つに割れている。
その割れ目から、黒い砂が流れ続けていた。
ザルドの目が細くなる。
「下がれ、赤い旅人」
「強いか」
「面倒だ」
「食えるか」
「だから食うな」
「分かったよ」
黒い大型個体が突進する。
速い。
巨体に似合わない速度。
しかも、足場の悪さをまるで気にしていない。
黒砂が足元に広がり、砂を固めるように動いている。
バンはそれを見て、眉をひそめた。
「足場まで変えてんのかよ」
エルンが船上から叫ぶ。
「黒砂が魔物の動きに合わせています!侵食というより、補助に近い!」
ザルドは大剣を構える。
真正面から受ける気だ。
バンは舌打ちした。
「おい、暴喰」
「何だ」
「真正面からやると、船まで砂が飛ぶ」
「ならどうする」
「俺が足を盗る。お前が食え」
「喰らう、だ」
「どっちでもいいだろ」
「よくない」
そんな会話をしている間にも、黒い大型個体は迫る。
バンはクレシューズを低く構えた。
右腕の感覚が鈍い。
だが、必要なのは力ではない。
目だ。
流れを読む目。
黒砂は魔物の足元を補助している。
なら、その黒砂自体を盗るのは危険だ。
だが、魔物が黒砂に力を預ける瞬間。
そこには継ぎ目がある。
肉体の動きと、黒砂の補助が噛み合う一瞬。
その継ぎ目だけなら、盗れる。
バンは低く笑った。
「見えた」
黒い大型個体が踏み込む。
前脚が砂を掴む。
黒砂がその足を支える。
その瞬間。
バンはクレシューズを伸ばし、足元の砂ではなく、魔物の踏み込みの“間”に触れた。
「強奪《スナッチ》」
盗ったのは力ではない。
踏み込みと補助が噛み合う、その一瞬の間。
黒い大型個体の動きが、ほんのわずかにずれた。
それだけ。
だが、突進中の巨体にとっては致命的だった。
前脚が深く沈む。
角の向きが下がる。
ザルドの大剣が、そこへ入る。
真正面。
黒い角と大剣がぶつかった。
轟音。
砂が爆ぜた。
ザルドの足元が沈む。
だが、彼は下がらない。
巨体の突進を、正面から受け止めていた。
普通なら、そのまま轢き潰される。
だが、ザルドは違う。
大剣を通じて、突進の力を受け、足元の砂を踏み固め、上半身で押し返す。
バンは目を見開いた。
「おいおい、馬鹿力にも程があんだろ」
ザルドの腕が膨れ上がる。
鎧の下の筋肉が軋むように動く。
彼は低く言った。
「軽い」
次の瞬間、ザルドは大剣を押し込んだ。
黒い角が砕ける。
大型個体の頭が弾かれる。
だが、それだけでは倒れない。
黒砂が傷口から蠢き、砕けた角を支えるように集まる。
セリアが叫ぶ。
「再生ではありません!黒砂が欠損を埋めています!」
エルンも続ける。
「記録します!黒砂は魔物の肉体機能を代替する可能性あり!」
「記録してる場合か!」
ダリオが船上で叫ぶ。
ロウムが盾を構え、船の側面に立つ。
「来るなら受ける」
ミラも槍を構えていた。
大型個体は再び身体を起こす。
今度はザルドではなく、砂漠船を見た。
水袋。
人。
動くもの。
狙いが変わる。
バンは息を吐いた。
「船に行くなっての」
クレシューズを振る。
絶気配《ゼロサイン》。
バンの気配が、ふっと薄れる。
大型個体の目が一瞬迷う。
ザルドという大きな圧。
船の気配。
そして、薄く消えたバン。
魔物の認識が乱れる。
バンはその隙に、クレシューズの節を伸ばして大型個体の割れた角へ絡めた。
黒砂に触れる。
指先に嫌な痺れが走る。
だが、深く掴まない。
絡めるだけ。
盗るのは、角ではない。
船へ向かう意識の流れ。
ほんの少し、ザルドの方へ戻す。
「こっちだ、まずそうな肉塊」
大型個体の頭が揺れる。
船からザルドへ、狙いが戻る。
ザルドが動いた。
大剣を横に構え、踏み込む。
ただし、今度は真正面ではない。
バンがずらした流れに合わせ、斜めから首元を狙う。
大剣が振り抜かれた。
黒い甲殻が割れる。
だが、黒砂がその傷を塞ごうとする。
バンはそこを見逃さない。
傷口に集まる黒砂。
それ自体を盗れば危険だ。
だが、集まる流れを止めるのではなく、遅らせるだけなら。
バンは右手を伸ばしそうになった。
サナの声が飛ぶ。
「右手!」
「分かってる!」
バンは右手を引っ込め、クレシューズの先で砂を叩いた。
直接盗らない。
黒砂が集まるための足元の砂を崩す。
流れがわずかに乱れる。
傷口を塞ぐ黒砂の動きが遅れた。
ザルドの二撃目が入る。
首の奥。
黒砂の補助が間に合う前に、大剣が深く沈んだ。
大型個体が大きく震える。
まだ動く。
ザルドは低く息を吐いた。
「しぶとい」
バンは笑う。
「食い応えありそうだな」
「食わん」
「分かってるって」
大型個体が最後の力で暴れた。
尾が砂を打つ。
黒砂が周囲へ飛び散る。
船上の全員が布で顔を守る。
バンはクレシューズを回し、飛んでくる黒砂を叩き落とした。
ロウムが盾で船を守る。
ミラが槍で砂を払う。
セリアとサナは水袋に布を被せる。
アルヴィンは半泣きで荷の上に覆いかぶさっていた。
「水袋だけは、絶対に守ります!」
バンはそれを見て笑った。
「いい根性してんじゃねぇか、白いの!」
「アルヴィンです!」
「覚えた!」
「今ですか!?」
大型個体が最後にザルドへ突っ込む。
ザルドは大剣を構え直した。
バンはその横に立つ。
「合わせるぞ、暴喰」
「遅れるな、強欲」
「誰が強欲だ」
「お前だ」
「まあ、否定はしねぇけどよ」
大型個体が迫る。
バンはクレシューズを低く振る。
盗るのは足並み。
黒砂ではない。
肉体の最後の踏み込みだけ。
「身体狩り《フィジカルハント》」
ほんの一瞬。
大型個体の前脚から力が抜けた。
全部ではない。
身体能力を丸ごと奪うには、黒砂が深すぎる。
だが、一歩だけなら十分だった。
巨体が沈む。
ザルドの大剣が、上から落ちた。
斬るというより、断つ。
首元を割り、黒砂ごと叩き潰す。
大型個体は砂の上に崩れ落ちた。
黒い砂が噴き出し、やがて風に散っていく。
肉体は残った。
だが、そこに食材としての匂いはない。
あるのは、焦げた泥と古い血のような臭いだけだった。
バンは鼻を鳴らす。
「やっぱ食えねぇな」
ザルドは大剣を肩に担ぐ。
「食う価値がない」
「暴喰に見捨てられるとはな」
「喰らうべき敵と、腹に入れるべきでないものは違う」
「勉強になるな」
船が近づいてきた。
ジャミルが叫ぶ。
「乗れ!長居するな!」
黒砂持ちの死骸から、まだ黒い粒がこぼれている。
その場に居続けるのは危険だ。
ザルドは大剣を振って砂を払い、船へ戻る。
バンも続こうとしたが、右足が少し沈んだ。
黒砂が混じり始めている。
「ちっ」
バンはクレシューズを伸ばし、船縁へ引っかけた。
自分の身体を引き寄せる。
だが、右腕に力が入りづらい。
少し遅れる。
その瞬間、ザルドの大きな手がバンの襟首を掴んだ。
そのまま、荷物のように船へ引き上げる。
「おい、雑だな!」
「沈むよりましだ」
「服が伸びるだろ」
「生きているなら問題ない」
サナがすぐに駆け寄る。
「怪我!」
「増えてねぇよ」
「確認します!」
「はいはい」
バンは抵抗を諦めた。
セリアもザルドの腕や鎧を確認する。
ザルドはほとんど無傷だった。
ただ、鎧の表面に黒砂が付着している。
セリアがすぐに布と灰で拭き取る。
「ザルドさんも、素手で触れないでください」
「分かっている」
「本当にですか」
「……分かっている」
バンが笑う。
「お前も治療師に怒られんだな」
「必要な確認だ」
「怒られてる顔してたぞ」
「していない」
「してた」
ザルドは無言でバンを見る。
バンはにやりと笑った。
砂漠船は再び進み始めた。
背後に、黒砂持ちの死骸が遠ざかっていく。
普通のサンドホーンの死骸もいくつか残っていた。
バンは少し名残惜しそうに見る。
「あれ、普通の方は持って帰れたよな」
ジャミルが即答する。
「無理だ。黒砂持ちのそばに長く置かれた肉は危ない」
「もったいねぇ」
ザルドも少しだけ残念そうに言った。
「火を通せば、普通個体の肉は食える」
「だよな」
サナが二人を交互に見る。
「今、二人とも本気で残念そうでしたよね」
バンとザルドは同時に答えた。
「食えるものは惜しいだろ」
「食材を捨てるのは愚かだ」
サナはもう何も言わず、額を押さえた。
エルンは帳面に書き込む。
「強欲と暴喰、食材に関する価値観は近似。黒砂汚染への警戒度は治療担当による監視必須、と」
「変なこと書くな」
バンが言うと、エルンはさらりと返した。
「後世のためです」
「後世に残すな」
「残すかどうかは上の判断です」
「上って誰だよ」
エルンはにこりと笑った。
「主神です」
バンは少し嫌そうな顔をした。
「神様ってのは面倒だな」
ザルドが低く笑った。
「うちの神は特にな」
船の上に、少しだけ笑いが戻った。
だが、その笑いはすぐに薄れる。
前方に、ハルファへ続く岩場が見えてきた。
その奥に、黒い砂漠の影がある。
昨日より近い。
いや、確実に近づいている。
黒砂の帯が、ハルファの外側へさらに伸びていた。
リオードから積んできた水と薬は間に合った。
だが、時間はあまりない。
ジャミルが低く言う。
「急ぐぞ」
砂漠船が風を拾う。
ハルファへ向かう。
バンは船首に立ち、黒砂の向こうを見た。
遠くで、地面が低く鳴っている。
まだ姿は見えない。
だが、眠る災害は確実に動いている。
ザルドが隣に立つ。
「赤い旅人」
「あ?」
「さっきの戦い、お前がいなければ船に当たっていた」
「お前がいなきゃ、俺が潰れてたな」
「なら、悪くない組み合わせだ」
「暴喰に褒められたか」
「事実だ」
「便利な言葉だな、それ」
バンは笑った。
ザルドは黒砂の奥を見据えたまま、言った。
「だが、あれはまだ前菜にもならん」
バンは目を細める。
「ベヒーモスはもっとでかいか」
「比べること自体が間違いだ」
「そりゃ面倒だ」
「恐れるか」
「怖くねぇ奴は長生きできねぇって、前にも言った気がするな」
「正しい」
「けどな」
バンはクレシューズを肩に担ぐ。
「怖いからって、飯と酒を黒砂に食わせる気はねぇよ」
ザルドの口元がわずかに上がる。
「なら、喰われる前に喰らうだけだ」
「盗れる端は盗ってやる」
二人の視線の先で、ハルファの見張り台が見え始めた。
集落の周囲には、昨夜よりも多くの黒砂が積もっている。
人々が水路を守り、外壁を補強し、こちらの船に気づいて手を振っている。
まだ間に合う。
少なくとも、今は。
砂漠船は黒砂の影をかすめながら、境界集落ハルファへ滑り込んだ。
強欲と暴喰の初めての共闘は、災害の前触れを退けただけに過ぎない。
それでも、救援の水は届いた。
薬も届いた。
人も戻った。
そして、ハルファの酒場には、まだ火が灯っていた。
第14話でした。
修正版では、バンとザルドの初共闘として、ハルファ救援へ向かう途中の黒砂持ちとの突破戦を描きました。
バンは黒砂そのものを深く《強奪(スナッチ)》せず、足場や流れ、踏み込みの一瞬だけを盗る形にし、ザルドはその隙を正面から叩き潰す役にしています。
強欲と暴喰、それぞれの戦い方の違いと相性が少し見える回になりました。