強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第14話です。
赤い旅人の続きになります。


第14話 強欲と暴食

砂漠船は、リオードの南門を離れた。

 

帆が膨らむ。

 

船底が砂を噛み、乾いた音を立てながら滑り出す。

 

積み荷は軽くはない。

 

水袋。

薬草。

灰。

黒砂対策の布と板。

釘。

簡易担架。

硬いパンと干し肉。

それから、ナジュへの土産としてバンが勝手に積ませた香辛料の袋が一つ。

 

サイモンはそれを見つけて、頭を抱えた。

 

「誰だ、これを積んだのは」

 

「俺」

 

バンは船縁に座ったまま答えた。

 

「ハルファの飯、少し味変えたらもっとうまくなる」

 

「救援物資に香辛料を混ぜるな」

 

「飯も救援だろ」

 

サイモンは言い返そうとして、少し考え、結局ため息をついた。

 

「……否定しきれないのが嫌だ」

 

ザルドは船の中央で積み荷を確認していた。

 

巨大な体で、無駄のない動き。

 

大剣は背にある。

 

鎧をまとっているのに、砂漠船の揺れにまるで乱されていない。

 

その隣では、ゼウス・ファミリアの面々が準備を進めている。

 

情報役のエルンは地図を広げ、黒砂の位置と交易路の変化を記録していた。

前衛のロウムは盾と槍の固定具合を確認している。

治療担当のセリアは、サナと並んで薬草や包帯を分けていた。

白髪の若い支援者は、水袋の数を何度も数え直している。

 

バンはその支援者を見る。

 

「なあ、白いの」

 

支援者はびくっと肩を揺らした。

 

「ぼ、僕ですか?」

 

「他に白いのいねぇだろ。名前は?」

 

「アルヴィンです。アルヴィン・グレイ。ゼウス・ファミリアの支援者です」

 

「逃げ足速そうだな」

 

「えっ」

 

「褒めてるぞ」

 

「それは……ありがとうございます?」

 

アルヴィンは戸惑いながらも頭を下げた。

 

ザルドが横から言う。

 

「こいつは荷を捨てる判断が早い。危険な時は役に立つ」

 

「荷を捨てるのが役に立つのか」

 

「生きて戻るためなら、金貨入りの袋でも捨てる」

 

アルヴィンは慌てて手を振る。

 

「で、でも、できれば捨てたくはないです!」

 

バンは笑った。

 

「いいじゃねぇか。逃げるのがうまい奴は、死ににくい」

 

アルヴィンはきょとんとした。

 

馬鹿にされたと思っていたのだろう。

 

だが、バンの声には嘲りがなかった。

 

ザルドも短く頷く。

 

「戦場では、死なずに運ぶ者も必要だ」

 

「は、はい!」

 

アルヴィンは少しだけ背筋を伸ばした。

 

砂漠船は風を受け、リオードから離れていく。

 

街の匂いが薄れていく。

 

焼いた肉。

砂葡萄酒。

香辛料。

人の声。

 

その代わりに、黒砂の匂いが近づいてくる。

 

まだ遠い。

 

だが、風に混じる重さが違う。

 

ジャミルは舵を握り、砂の流れと風を見ていた。

 

「黒砂帯は広がっている」

 

エルンが地図を押さえながら聞く。

 

「今朝、あなた方が越えた帯より太くなっていますか?」

 

「風向きにもよるが、たぶんな」

 

サイモンが顔をしかめる。

 

「たった半日でか」

 

「黒砂は普通の砂じゃない。地面の下から染みる。風だけで広がっているわけではない」

 

バンは右腕を軽く動かした。

 

まだ少し痺れている。

 

昨夜、黒砂の流れを逸らした時の反動。

そして、伝令の途中で黒砂持ちとやり合った時の負荷。

 

握れる。

クレシューズも扱える。

だが、深く盗るのは避けた方がいい。

 

サナがその動きを見逃さなかった。

 

「右腕、まだ変ですね」

 

「動く」

 

「動くから大丈夫、は禁止です」

 

「じゃあ、動くけど面倒」

 

「もっと駄目です」

 

セリアが横で微笑む。

 

「無理に使うと、黒砂の痺れが神経に残る可能性があります。今は左手主体で動いた方がいいでしょう」

 

「治療師二人に言われると逃げ場がねぇな」

 

サナがすぐ言う。

 

「逃げないでください」

 

「お前、だんだん強くなってんな」

 

「誰かさんが無茶するからです」

 

バンは軽く肩をすくめた。

 

ザルドはそのやり取りを聞きながら、低く言う。

 

「傷を隠して戦う奴は、先に死ぬ」

 

バンはザルドを見る。

 

「経験談か」

 

「何度も見た」

 

「お前は?」

 

「食って耐えた」

 

「参考にならねぇ」

 

「なら、死ぬな」

 

「それは参考になるな」

 

ザルドはそれ以上言わなかった。

 

砂漠船は進む。

 

リオードからハルファへ戻る道は、来た時よりも悪くなっていた。

 

黒砂の細い帯が、いくつも交易路を横切っている。

 

ジャミルはそのたびに進路を調整し、止まらず抜けられる場所を探した。

 

ザルドは船首近くに立ち、遠くを見ている。

 

まるで山のような背中だった。

 

バンはその横に立つ。

 

「お前、あいつを見たことあるのか」

 

ザルドは視線を動かさずに答える。

 

「あいつとは」

 

「ベヒーモス」

 

船の上の空気がわずかに変わった。

 

エルンの筆が止まる。

ロウムが槍の紐を締め直す。

セリアとサナも、薬草を分ける手を止めた。

 

ザルドはしばらく黙っていた。

 

やがて、低く言う。

 

「遠くからだけだ」

 

「どんなだった」

 

「山だ」

 

「山?」

 

「動く山。息をする大地。獣というより、地形そのものが敵になる」

 

バンは黒い砂漠の方角を見る。

 

まだ見えない。

 

だが、その表現は分かる気がした。

 

地鳴り。

黒砂の波。

井戸の変化。

魔物の逃走。

 

あれらは、獣が爪や牙で襲った結果ではない。

 

ただそこにいるだけで、周囲が壊れている。

 

まさに、動く山。

 

「食えるか?」

 

バンが聞いた。

 

ザルドは即答しなかった。

 

少しだけ口元を歪める。

 

「食う前に、食われる者が多い」

 

「答えになってねぇ」

 

「肉として見る相手ではない」

 

「暴喰が言うなら、相当だな」

 

「だが、必要なら喰う」

 

「やっぱ内臓強ぇな」

 

ザルドは短く笑った。

 

その時、ミラが船尾側から声を上げた。

 

「後方、砂が動いている」

 

全員が振り向く。

 

遠くの砂丘の上で、砂煙が上がっていた。

 

小型の群れではない。

 

もっと重い。

 

ジャミルが舌打ちする。

 

「黒砂持ちか」

 

エルンが遠眼鏡を覗く。

 

「複数です。サンドホーンが四、いや五。後方に大型が一体。甲殻が黒く変色しています」

 

ロウムが盾を構えた。

 

「追ってくるか」

 

「こちらへ向かっています」

 

サイモンが青ざめる。

 

「またか……!」

 

ジャミルが帆を調整する。

 

「風が弱い。このままじゃ追いつかれる」

 

ザルドは大剣の柄に手をかけた。

 

「迎え撃つ」

 

ジャミルが叫ぶ。

 

「船を止めれば黒砂に飲まれる!」

 

「止めん」

 

ザルドは船の縁へ足をかけた。

 

その巨体が、砂の上へ降りる。

 

重い音がした。

 

普通なら砂に足を取られる。

 

だが、ザルドは沈み込みながらも、その場で踏みとどまった。

 

砂が彼の足元で押し固められたように見える。

 

バンは口笛を吹く。

 

「でたらめな足腰してんな」

 

ザルドは背の大剣を抜く。

 

刃が陽光を受けて鈍く光った。

 

「船は進めろ」

 

ジャミルが怒鳴る。

 

「一人でやる気か!」

 

「時間を稼ぐ」

 

バンはクレシューズを肩に担いだ。

 

「じゃあ俺も降りるか」

 

サナが叫ぶ。

 

「バンさん!」

 

「深く盗らねぇよ」

 

「そういう問題でもありません!」

 

ザルドがバンを見る。

 

「腕は」

 

「動く」

 

「なら、前に出すぎるな。流れだけ変えろ」

 

「命令すんなよ」

 

「忠告だ」

 

「便利な言葉だな」

 

バンは笑って、船から砂へ降りた。

 

足が沈む。

 

黒砂混じりではないが、普通の地面より動きにくい。

 

遠くからサンドホーンの群れが迫る。

 

普通の個体が四体。

黒砂に染まった個体が二体。

 

そのうち一体は、かなり大きい。

 

甲殻が黒く濡れたように光り、角の先から黒い砂がぼろぼろと落ちている。

 

目は濁り、口から砂混じりの泡を吹いていた。

 

あれは、食えない。

 

バンは見ただけでそう思った。

 

「まずそうだな」

 

ザルドが低く答える。

 

「食うな」

 

「お前が言うと説得力あるな」

 

砂漠船は速度を落としながらも進んでいる。

 

サイモンとアルヴィンが水袋を押さえ、ロウムとミラが船上から支援の構えを取る。

 

セリアとサナは治療道具を固定し、負傷者が出た時に備えていた。

 

エルンは地図をしまい、短剣を抜く。

 

情報役とはいえ、ゼウス・ファミリアの眷族だ。

最低限どころではない動きはできるらしい。

 

先頭のサンドホーンが突進してきた。

 

黒砂に染まっていない普通の個体。

 

ザルドが一歩前へ出る。

 

大剣を構えるでもなく、ただ持つ。

 

次の瞬間、斬った。

 

予備動作がほとんどない。

 

重い剣が、あり得ないほど自然に動く。

 

サンドホーンの角が砕け、甲殻が割れ、巨体が横へ吹き飛んだ。

 

砂が爆ぜる。

 

バンは目を細めた。

 

「おいおい、普通にうまそうな方まで叩き潰すなよ」

 

「硬い肉だ。食うなら後で切ればいい」

 

「残す気はあるんだな」

 

「食材は無駄にせん」

 

「いいねぇ」

 

二体目が横から回り込む。

 

ザルドへではない。

 

砂漠船へ向かっている。

 

バンはクレシューズを伸ばした。

 

右手は添えるだけ。

 

左手で軌道を操る。

 

狙うのは魔物本体ではない。

 

足元の砂。

突進で巻き上がる砂の流れ。

その一部。

 

「強奪《スナッチ》」

 

砂の流れを少しだけ横へ盗る。

 

サンドホーンの足元が乱れた。

 

突進の軌道が船から外れる。

 

「暴食、そっち」

 

バンが言う。

 

ザルドが動く。

 

「暴食ではない。暴喰だ」

 

「細けぇな」

 

「大事だ」

 

言いながら、ザルドの大剣が二体目の首元へ入った。

 

甲殻の隙間を正確に断つ。

 

巨体が砂の上に沈む。

 

バンは笑った。

 

「いい腕してんな」

 

「お前のずらし方も悪くない」

 

「褒めてんのか?」

 

「事実だ」

 

「なら褒めてんな」

 

三体目と四体目が同時に来る。

 

片方は普通。

片方は黒砂持ち。

 

バンは黒砂持ちを見た。

 

深く盗るな。

 

黒い流れに触れるな。

 

盗るなら、その外側。

 

生き物としての足運び。

突進へ入る直前の迷い。

黒砂に侵されて、かえって乱れている力の継ぎ目。

 

バンはクレシューズを回した。

 

「そっちは俺が曲げる」

 

ザルドは普通個体へ向かった。

 

黒砂持ちがバンへ突進する。

 

ザルドの圧より、動きの軽いバンを獲物と見たのかもしれない。

 

バンは真正面に立たない。

 

横へ流れながら、クレシューズの節を伸ばす。

 

角には触れない。

 

黒く染まった甲殻にも触れない。

 

脚の付け根。

 

まだ黒砂が深く回っていない部分を叩く。

 

同時に、踏み込みの勢いをほんの少し盗る。

 

「そこだけ、もらうぞ」

 

黒砂持ちの巨体がわずかに傾く。

 

だが、普通の個体より戻りが早い。

 

黒砂が身体の動きを無理やり補っている。

 

倒れかけた身体が、不気味に持ち直した。

 

バンの右手に痺れが走る。

 

「っ、気色悪ぃ」

 

黒砂持ちが頭を振る。

 

角の先がバンの肩を狙う。

 

バンはクレシューズを畳み、後ろへ跳ぶ。

 

だが、砂が足を取った。

 

回避が少し遅れる。

 

角が赤いコートをかすめる。

 

布が裂けた。

 

傷は浅い。

 

だが、サナの声が船から飛ぶ。

 

「バンさん!」

 

「見てるだけで怒るなよ!」

 

「怒ります!」

 

ザルドが普通個体を斬り伏せ、すぐにこちらへ視線を向ける。

 

「下がれ」

 

「まだいける」

 

「黒砂が深い」

 

「だから曲げるだけだって」

 

バンは黒砂持ちを見た。

 

まともに倒すには、硬い。

ザルドの一撃なら砕けるだろう。

 

なら、ザルドが斬りやすい形にすればいい。

 

バンは息を吸う。

 

深く盗るな。

 

広げすぎるな。

 

黒砂を盗るな。

 

盗るのは、周囲の砂。

 

魔物の足場。

 

突進の進路。

 

黒砂持ちが再び動く。

 

バンはクレシューズを砂に打ち込んだ。

 

節が砂の中を走る。

 

魔物の足元。

 

そこにある砂の流れを、ほんの少しだけ盗る。

 

足場が崩れる。

 

黒砂持ちの前脚が沈む。

 

巨体が前のめりになった。

 

「今」

 

バンが短く言う。

 

ザルドはすでに動いていた。

 

大剣を振り上げる。

 

黒砂持ちが頭を上げようとする。

 

間に合わない。

 

ザルドの一撃が、首元の甲殻ごと叩き割った。

 

音が遅れて響く。

 

黒砂持ちの巨体が砂に沈む。

 

黒い砂が傷口からこぼれ、風に散った。

 

ザルドは剣を引き抜き、低く言う。

 

「硬い」

 

「食えるか?」

 

「食わん」

 

「残念」

 

「食ったらお前の治療師が倒れる」

 

船の上でサナが叫ぶ。

 

「倒れます!」

 

バンは笑った。

 

だが、笑っていられる時間は短かった。

 

最後の大型個体が動き出す。

 

それまで後方で砂を掻き、こちらを見ていた黒いサンドホーン。

 

他の個体よりも大きい。

 

黒砂の侵食も深い。

 

甲殻はほとんど黒。

角は途中で歪み、先端が二つに割れている。

その割れ目から、黒い砂が流れ続けていた。

 

ザルドの目が細くなる。

 

「下がれ、赤い旅人」

 

「強いか」

 

「面倒だ」

 

「食えるか」

 

「だから食うな」

 

「分かったよ」

 

黒い大型個体が突進する。

 

速い。

 

巨体に似合わない速度。

 

しかも、足場の悪さをまるで気にしていない。

 

黒砂が足元に広がり、砂を固めるように動いている。

 

バンはそれを見て、眉をひそめた。

 

「足場まで変えてんのかよ」

 

エルンが船上から叫ぶ。

 

「黒砂が魔物の動きに合わせています!侵食というより、補助に近い!」

 

ザルドは大剣を構える。

 

真正面から受ける気だ。

 

バンは舌打ちした。

 

「おい、暴喰」

 

「何だ」

 

「真正面からやると、船まで砂が飛ぶ」

 

「ならどうする」

 

「俺が足を盗る。お前が食え」

 

「喰らう、だ」

 

「どっちでもいいだろ」

 

「よくない」

 

そんな会話をしている間にも、黒い大型個体は迫る。

 

バンはクレシューズを低く構えた。

 

右腕の感覚が鈍い。

 

だが、必要なのは力ではない。

 

目だ。

 

流れを読む目。

 

黒砂は魔物の足元を補助している。

 

なら、その黒砂自体を盗るのは危険だ。

 

だが、魔物が黒砂に力を預ける瞬間。

 

そこには継ぎ目がある。

 

肉体の動きと、黒砂の補助が噛み合う一瞬。

 

その継ぎ目だけなら、盗れる。

 

バンは低く笑った。

 

「見えた」

 

黒い大型個体が踏み込む。

 

前脚が砂を掴む。

 

黒砂がその足を支える。

 

その瞬間。

 

バンはクレシューズを伸ばし、足元の砂ではなく、魔物の踏み込みの“間”に触れた。

 

「強奪《スナッチ》」

 

盗ったのは力ではない。

 

踏み込みと補助が噛み合う、その一瞬の間。

 

黒い大型個体の動きが、ほんのわずかにずれた。

 

それだけ。

 

だが、突進中の巨体にとっては致命的だった。

 

前脚が深く沈む。

 

角の向きが下がる。

 

ザルドの大剣が、そこへ入る。

 

真正面。

 

黒い角と大剣がぶつかった。

 

轟音。

 

砂が爆ぜた。

 

ザルドの足元が沈む。

 

だが、彼は下がらない。

 

巨体の突進を、正面から受け止めていた。

 

普通なら、そのまま轢き潰される。

 

だが、ザルドは違う。

 

大剣を通じて、突進の力を受け、足元の砂を踏み固め、上半身で押し返す。

 

バンは目を見開いた。

 

「おいおい、馬鹿力にも程があんだろ」

 

ザルドの腕が膨れ上がる。

 

鎧の下の筋肉が軋むように動く。

 

彼は低く言った。

 

「軽い」

 

次の瞬間、ザルドは大剣を押し込んだ。

 

黒い角が砕ける。

 

大型個体の頭が弾かれる。

 

だが、それだけでは倒れない。

 

黒砂が傷口から蠢き、砕けた角を支えるように集まる。

 

セリアが叫ぶ。

 

「再生ではありません!黒砂が欠損を埋めています!」

 

エルンも続ける。

 

「記録します!黒砂は魔物の肉体機能を代替する可能性あり!」

 

「記録してる場合か!」

 

ダリオが船上で叫ぶ。

 

ロウムが盾を構え、船の側面に立つ。

 

「来るなら受ける」

 

ミラも槍を構えていた。

 

大型個体は再び身体を起こす。

 

今度はザルドではなく、砂漠船を見た。

 

水袋。

人。

動くもの。

 

狙いが変わる。

 

バンは息を吐いた。

 

「船に行くなっての」

 

クレシューズを振る。

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

バンの気配が、ふっと薄れる。

 

大型個体の目が一瞬迷う。

 

ザルドという大きな圧。

船の気配。

そして、薄く消えたバン。

 

魔物の認識が乱れる。

 

バンはその隙に、クレシューズの節を伸ばして大型個体の割れた角へ絡めた。

 

黒砂に触れる。

 

指先に嫌な痺れが走る。

 

だが、深く掴まない。

 

絡めるだけ。

 

盗るのは、角ではない。

 

船へ向かう意識の流れ。

 

ほんの少し、ザルドの方へ戻す。

 

「こっちだ、まずそうな肉塊」

 

大型個体の頭が揺れる。

 

船からザルドへ、狙いが戻る。

 

ザルドが動いた。

 

大剣を横に構え、踏み込む。

 

ただし、今度は真正面ではない。

 

バンがずらした流れに合わせ、斜めから首元を狙う。

 

大剣が振り抜かれた。

 

黒い甲殻が割れる。

 

だが、黒砂がその傷を塞ごうとする。

 

バンはそこを見逃さない。

 

傷口に集まる黒砂。

 

それ自体を盗れば危険だ。

 

だが、集まる流れを止めるのではなく、遅らせるだけなら。

 

バンは右手を伸ばしそうになった。

 

サナの声が飛ぶ。

 

「右手!」

 

「分かってる!」

 

バンは右手を引っ込め、クレシューズの先で砂を叩いた。

 

直接盗らない。

 

黒砂が集まるための足元の砂を崩す。

 

流れがわずかに乱れる。

 

傷口を塞ぐ黒砂の動きが遅れた。

 

ザルドの二撃目が入る。

 

首の奥。

 

黒砂の補助が間に合う前に、大剣が深く沈んだ。

 

大型個体が大きく震える。

 

まだ動く。

 

ザルドは低く息を吐いた。

 

「しぶとい」

 

バンは笑う。

 

「食い応えありそうだな」

 

「食わん」

 

「分かってるって」

 

大型個体が最後の力で暴れた。

 

尾が砂を打つ。

 

黒砂が周囲へ飛び散る。

 

船上の全員が布で顔を守る。

 

バンはクレシューズを回し、飛んでくる黒砂を叩き落とした。

 

ロウムが盾で船を守る。

 

ミラが槍で砂を払う。

 

セリアとサナは水袋に布を被せる。

 

アルヴィンは半泣きで荷の上に覆いかぶさっていた。

 

「水袋だけは、絶対に守ります!」

 

バンはそれを見て笑った。

 

「いい根性してんじゃねぇか、白いの!」

 

「アルヴィンです!」

 

「覚えた!」

 

「今ですか!?」

 

大型個体が最後にザルドへ突っ込む。

 

ザルドは大剣を構え直した。

 

バンはその横に立つ。

 

「合わせるぞ、暴喰」

 

「遅れるな、強欲」

 

「誰が強欲だ」

 

「お前だ」

 

「まあ、否定はしねぇけどよ」

 

大型個体が迫る。

 

バンはクレシューズを低く振る。

 

盗るのは足並み。

 

黒砂ではない。

 

肉体の最後の踏み込みだけ。

 

「身体狩り《フィジカルハント》」

 

ほんの一瞬。

 

大型個体の前脚から力が抜けた。

 

全部ではない。

身体能力を丸ごと奪うには、黒砂が深すぎる。

 

だが、一歩だけなら十分だった。

 

巨体が沈む。

 

ザルドの大剣が、上から落ちた。

 

斬るというより、断つ。

 

首元を割り、黒砂ごと叩き潰す。

 

大型個体は砂の上に崩れ落ちた。

 

黒い砂が噴き出し、やがて風に散っていく。

 

肉体は残った。

 

だが、そこに食材としての匂いはない。

 

あるのは、焦げた泥と古い血のような臭いだけだった。

 

バンは鼻を鳴らす。

 

「やっぱ食えねぇな」

 

ザルドは大剣を肩に担ぐ。

 

「食う価値がない」

 

「暴喰に見捨てられるとはな」

 

「喰らうべき敵と、腹に入れるべきでないものは違う」

 

「勉強になるな」

 

船が近づいてきた。

 

ジャミルが叫ぶ。

 

「乗れ!長居するな!」

 

黒砂持ちの死骸から、まだ黒い粒がこぼれている。

 

その場に居続けるのは危険だ。

 

ザルドは大剣を振って砂を払い、船へ戻る。

 

バンも続こうとしたが、右足が少し沈んだ。

 

黒砂が混じり始めている。

 

「ちっ」

 

バンはクレシューズを伸ばし、船縁へ引っかけた。

 

自分の身体を引き寄せる。

 

だが、右腕に力が入りづらい。

 

少し遅れる。

 

その瞬間、ザルドの大きな手がバンの襟首を掴んだ。

 

そのまま、荷物のように船へ引き上げる。

 

「おい、雑だな!」

 

「沈むよりましだ」

 

「服が伸びるだろ」

 

「生きているなら問題ない」

 

サナがすぐに駆け寄る。

 

「怪我!」

 

「増えてねぇよ」

 

「確認します!」

 

「はいはい」

 

バンは抵抗を諦めた。

 

セリアもザルドの腕や鎧を確認する。

 

ザルドはほとんど無傷だった。

 

ただ、鎧の表面に黒砂が付着している。

 

セリアがすぐに布と灰で拭き取る。

 

「ザルドさんも、素手で触れないでください」

 

「分かっている」

 

「本当にですか」

 

「……分かっている」

 

バンが笑う。

 

「お前も治療師に怒られんだな」

 

「必要な確認だ」

 

「怒られてる顔してたぞ」

 

「していない」

 

「してた」

 

ザルドは無言でバンを見る。

 

バンはにやりと笑った。

 

砂漠船は再び進み始めた。

 

背後に、黒砂持ちの死骸が遠ざかっていく。

 

普通のサンドホーンの死骸もいくつか残っていた。

 

バンは少し名残惜しそうに見る。

 

「あれ、普通の方は持って帰れたよな」

 

ジャミルが即答する。

 

「無理だ。黒砂持ちのそばに長く置かれた肉は危ない」

 

「もったいねぇ」

 

ザルドも少しだけ残念そうに言った。

 

「火を通せば、普通個体の肉は食える」

 

「だよな」

 

サナが二人を交互に見る。

 

「今、二人とも本気で残念そうでしたよね」

 

バンとザルドは同時に答えた。

 

「食えるものは惜しいだろ」

 

「食材を捨てるのは愚かだ」

 

サナはもう何も言わず、額を押さえた。

 

エルンは帳面に書き込む。

 

「強欲と暴喰、食材に関する価値観は近似。黒砂汚染への警戒度は治療担当による監視必須、と」

 

「変なこと書くな」

 

バンが言うと、エルンはさらりと返した。

 

「後世のためです」

 

「後世に残すな」

 

「残すかどうかは上の判断です」

 

「上って誰だよ」

 

エルンはにこりと笑った。

 

「主神です」

 

バンは少し嫌そうな顔をした。

 

「神様ってのは面倒だな」

 

ザルドが低く笑った。

 

「うちの神は特にな」

 

船の上に、少しだけ笑いが戻った。

 

だが、その笑いはすぐに薄れる。

 

前方に、ハルファへ続く岩場が見えてきた。

 

その奥に、黒い砂漠の影がある。

 

昨日より近い。

 

いや、確実に近づいている。

 

黒砂の帯が、ハルファの外側へさらに伸びていた。

 

リオードから積んできた水と薬は間に合った。

 

だが、時間はあまりない。

 

ジャミルが低く言う。

 

「急ぐぞ」

 

砂漠船が風を拾う。

 

ハルファへ向かう。

 

バンは船首に立ち、黒砂の向こうを見た。

 

遠くで、地面が低く鳴っている。

 

まだ姿は見えない。

 

だが、眠る災害は確実に動いている。

 

ザルドが隣に立つ。

 

「赤い旅人」

 

「あ?」

 

「さっきの戦い、お前がいなければ船に当たっていた」

 

「お前がいなきゃ、俺が潰れてたな」

 

「なら、悪くない組み合わせだ」

 

「暴喰に褒められたか」

 

「事実だ」

 

「便利な言葉だな、それ」

 

バンは笑った。

 

ザルドは黒砂の奥を見据えたまま、言った。

 

「だが、あれはまだ前菜にもならん」

 

バンは目を細める。

 

「ベヒーモスはもっとでかいか」

 

「比べること自体が間違いだ」

 

「そりゃ面倒だ」

 

「恐れるか」

 

「怖くねぇ奴は長生きできねぇって、前にも言った気がするな」

 

「正しい」

 

「けどな」

 

バンはクレシューズを肩に担ぐ。

 

「怖いからって、飯と酒を黒砂に食わせる気はねぇよ」

 

ザルドの口元がわずかに上がる。

 

「なら、喰われる前に喰らうだけだ」

 

「盗れる端は盗ってやる」

 

二人の視線の先で、ハルファの見張り台が見え始めた。

 

集落の周囲には、昨夜よりも多くの黒砂が積もっている。

 

人々が水路を守り、外壁を補強し、こちらの船に気づいて手を振っている。

 

まだ間に合う。

 

少なくとも、今は。

 

砂漠船は黒砂の影をかすめながら、境界集落ハルファへ滑り込んだ。

 

強欲と暴喰の初めての共闘は、災害の前触れを退けただけに過ぎない。

 

それでも、救援の水は届いた。

 

薬も届いた。

 

人も戻った。

 

そして、ハルファの酒場には、まだ火が灯っていた。




第14話でした。
修正版では、バンとザルドの初共闘として、ハルファ救援へ向かう途中の黒砂持ちとの突破戦を描きました。

バンは黒砂そのものを深く《強奪(スナッチ)》せず、足場や流れ、踏み込みの一瞬だけを盗る形にし、ザルドはその隙を正面から叩き潰す役にしています。

強欲と暴喰、それぞれの戦い方の違いと相性が少し見える回になりました。
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