強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第17話です。
今回は、アンタレスとの戦いの中で、エルソスの遺跡に残された古代の記憶へ踏み込みます。
神々が降りる前の時代、人と精霊が何を封じ、何を守ろうとしたのか。
そしてバンは、相変わらずバンらしく動きます。


第17話 神の足跡

地下神殿の床に、白い月光が戻りかけていた。

 

ほんの一部だけだ。

 

祭壇に絡みついていた赤黒い糸を切り、アンタレスが喰らおうとしていた月の力を少しだけ返した。

その場所だけ、濁った光が薄れ、白い石本来の色がかすかに見えている。

 

だが、それは傷口に布を当てた程度の変化でしかなかった。

 

神殿全体には、まだ赤黒い毒が広がっている。

柱には蠍の尾のような亀裂が走り、床からは小型サソリが這い出し、祭壇の奥では月の泣き声が途切れ途切れに響いていた。

 

バンは肩で息をしていた。

 

左腕には毒の筋が浮いている。

血管がどす黒く盛り上がり、皮膚の下を赤黒いものが這っているように見えた。クレシューズを握る指先には薄い霜が張りつき、動かすたびにぱり、と小さな音を立てる。

 

熱いのに、冷たい。

 

焼かれているのに、凍っている。

 

毒と月光を無理やり身体に通した反動だった。

 

「……味が混ざりすぎだろ」

 

バンは吐き捨てるように言った。

 

アンタレスは祭壇の前で尾を揺らしている。

 

小型サソリを吸収したことで、姿は変わっていた。

脚は太く、尾は長く、外殻には白い月光の筋が増えている。だが、その白は綺麗ではない。赤黒い毒に汚され、ひび割れた月の欠片のようだった。

 

バンは目を細める。

 

この世界の魔物は、魔石を残す。

魔石が壊れれば、身体は灰になる。

それがこの世界のルールのはずだった。

 

だが、こいつは違う。

 

小型サソリは魔石を残さない。

灰にもならない。

そして今、泥が混ざるように同族を吸収し、自分の身体を作り替えた。

 

「ほんと、ルールの外にいやがるな」

 

アンタレスの複眼が赤黒く光る。

 

答えの代わりに、床の月紋様が脈打った。

 

どくん。

 

祭壇の奥から声が漏れる。

 

バンは眉を寄せた。

 

さっきより、はっきり聞こえる。

 

声は言葉ではなかった。

だが、ただの音でもない。

泣いている。

苦しんでいる。

そして、誰かを呼んでいる。

 

その瞬間、バンの足元の月紋様が白く光った。

 

「ん?」

 

視界が揺れた。

 

古い土の匂いと、乾いた砂の匂いが鼻をつく。

地下神殿が遠ざかる代わりに、何千人もの祈るような歌声が耳の奥へ直接響いてきた。

 

赤黒い月光が薄れ、白い光が広がる。

石柱は壊れる前の姿へ戻り、床の亀裂は消え、祭壇にはまだ毒の染みがなかった。

 

人がいた。

 

大勢の人間が、神殿の中で膝をついている。

 

鎧を着た者。

杖を持った者。

子どもを抱く女。

血を流した戦士。

老いた祭司。

 

彼らは空を見上げていた。

 

地下なのに、空があった。

 

白い月が浮かんでいる。

 

その月の下に、一人の女が立っていた。

 

人ではない。

 

透き通るような白い髪。

月光を織ったような衣。

足元に影はなく、身体の輪郭は淡く揺れている。

 

精霊。

 

バンは直感でそう思った。

 

女の精霊は、両手を広げていた。

その背後には、巨大な赤い蠍がいる。

 

アンタレス。

 

だが、今目の前にいるアンタレスより少し違う。

外殻はまだ毒に汚れきっておらず、胸の赤黒い穴も小さい。だが、尾の先にはすでに神殿を腐らせる光が宿っている。

 

精霊が何かを言う。

 

言葉は分からない。

 

だが、意味は伝わった。

 

封じる。

 

私が、ここで。

 

戦士たちが泣いていた。

祭司が叫んでいた。

子どもを抱く女が首を振っていた。

 

精霊は笑っていた。

 

優しい笑みだった。

 

それが余計に腹立たしい、とバンは思った。

 

次の瞬間、白い月光が神殿を満たした。

 

精霊の身体から光が溢れ、アンタレスへ絡みつく。月の鎖。白い封印。古代の祈り。

アンタレスは暴れた。尾を振り、結晶槍を放ち、赤黒い毒を吐き散らす。

 

それでも、精霊は退かなかった。

 

白い光がアンタレスを包み、祭壇へ縫い止めていく。

 

その時、アンタレスの胸の穴が開いた。

 

赤黒い光が、白い月光へ噛みついた。

 

封印されながら、喰っている。

 

アンタレスは、封印の内側で精霊を喰い始めたのだ。

 

精霊の笑みが、少しだけ歪んだ。

 

だが、手は下ろさない。

 

人々が泣きながら祈る。

戦士たちが倒れる。

神殿の床に、血と月光が混じる。

 

やがて、白い封印が完成した。

 

アンタレスは祭壇の奥へ沈み、神殿は静かになった。

 

だが、精霊もまた消えなかった。

 

消えられなかった。

 

封印の核として、祭壇に縫い止められたまま、アンタレスに少しずつ喰われ続ける存在になった。

 

視界が戻る。

 

赤黒い月光。

壊れた柱。

毒の床。

砂蠍の海。

 

バンは、祭壇の前に立っていた。

 

「……ずいぶん長ぇ食事だな」

 

低く呟く。

 

アンタレスの胸の穴が脈打つ。

 

どくん。

 

祭壇の奥で、月の精霊の残響が震えた。

 

今見たものは、過去の記憶だ。

神殿に残った記録。

白い月の精霊が、アンタレスを封じた時の足跡。

 

神々が降りる前。

神の恩恵も、ファミリアもない時代。

 

人間は弱かった。

それでも、泣きながら、祈りながら、精霊と共に災厄を封じた。

 

バンはクレシューズを握り直した。

 

「神様が来る前から、どこもかしこも大変だったんだな」

 

軽い声だった。

 

だが、目は笑っていない。

 

アンタレスが動く。

 

尾が大きくしなり、毒針が月光を切り裂く。

同時に、床から結晶槍が生える。

 

バンの足元。

背後。

左右。

 

囲むように伸びる。

 

バンはクレシューズを振るった。

 

一本を砕く。

二本目を弾く。

三本目を避ける。

 

だが、四本目が脇腹を掠めた。

 

血が飛ぶ。

そこへ赤黒い毒が絡む。

 

「っ……」

 

毒の冷たさが広がる。

 

バンは舌打ちし、左手を伸ばした。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

フィジカルハント。

 

アンタレスの脚力を奪う。

 

いや、奪おうとした。

 

瞬間、また異物が混じる。

 

アンタレス本体。

小型サソリの群れ。

祭壇。

月の封印。

精霊の残響。

 

全部が絡み合っている。

 

力の線が汚い。

肉の筋を切ろうとしたら、皿ごと、机ごと、厨房ごと繋がっていたような感覚。

 

「取りづれぇな、くそ」

 

バンは奪う量を絞る。

 

脚力ではなく、踏み込みの瞬間だけ。

アンタレスが前へ出る一歩、その勢いの端だけを盗る。

 

それでも反動は来る。

 

左腕の黒い血管がさらに浮き上がる。

指先の霜が広がり、爪の根元まで白くなる。

 

バンは歯を食いしばった。

 

アンタレスの踏み込みが鈍る。

 

ほんのわずか。

 

だが、その隙にバンは懐へ潜った。

 

狙うは胸の穴ではない。

祭壇へ伸びる糸でもない。

 

床へ伸びる太い糸。

 

神殿そのものとアンタレスを繋ぐ管。

 

「まず、足元からだ」

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

クレシューズが床すれすれを走る。

 

赤黒い糸に絡みつき、引く。

 

糸が暴れる。

 

床の月紋様が赤黒く光り、バンの足元から小型サソリが湧く。

 

「邪魔だ」

 

バンは足で一匹を潰し、肩に取りつこうとした二匹をクレシューズの節で弾く。

 

糸を離さない。

 

引く。

 

ただ引くだけではない。

 

糸の中を流れる力を盗り、絡まった部分を緩め、封印側へ流れ込んだ毒だけを横から抜き取る。

 

細かい作業だった。

 

魔法の知識なんてない。

精霊の術式なんてものも知らない。

封印の組み方も、解き方も、バンの専門外だ。

 

料理なら、骨の位置も筋の流れも読める。

だがこれは、皿の上の肉ではない。

 

バンにあるのは、力づくで盗るための強奪の手札だけ。

 

それでも、奪うことに関してだけは誰よりも器用だった。

 

「ほら、こっちはお前の分じゃねぇだろ」

 

赤黒い毒の流れを盗る。

 

白い月光の流れを残す。

 

糸が半分ほど白く戻る。

 

祭壇の奥の声が、ほんの少しだけ澄んだ。

 

アンタレスが悲鳴を上げる。

 

巨大な尾が横薙ぎに振るわれた。

 

バンは避けられない。

 

糸を離せば避けられる。

離さなければ食らう。

 

バンは離さなかった。

 

尾が横から叩きつけられる。

 

クレシューズを盾にするが、受けきれない。

身体が吹き飛び、白い床を転がり、石柱に背中から叩きつけられる。

 

肺から息が抜けた。

 

口から血が出る。

 

左腕の感覚がさらに遠のく。

 

それでも、クレシューズの先は糸を掴んだままだった。

 

バンは血を吐きながら笑った。

 

「盗んだもん、途中で落とすかよ」

 

力を込める。

 

ぷつん。

 

床へ伸びていた太い糸が切れた。

 

地下神殿が大きく揺れる。

 

アンタレスの脚の一本が、床を踏み抜いた。

神殿との繋がりを一本失い、巨体の動きがわずかに乱れたのだ。

 

バンは石柱にもたれながら立ち上がる。

 

「お。足、もつれたな」

 

アンタレスの複眼が激しく光った。

 

怒りだけではない。

 

恐れ。

 

ほんの少しだが、そこに恐れが混じっていた。

 

バンはそれを見逃さなかった。

 

「嫌なんだな」

 

クレシューズを肩に担ぐ。

 

「その糸、切られんの」

 

アンタレスが尾を振り上げる。

 

赤黒い月光が毒針へ集まる。

同時に、祭壇の奥の白い光が強くなる。

 

精霊の残響が、必死に何かを伝えようとしている。

 

バンには言葉としては分からない。

 

だが、方向は分かった。

 

祭壇の奥。

封印の中。

アンタレスの胸から伸びる、最も太い糸。

 

そこが、本命だ。

 

「次はそこか」

 

バンはふらつきながらも、一歩前へ出た。

 

毒が身体を冷やす。

月光が骨の奥に染みる。

左腕は黒く、指先は白い。

 

それでも、立つ。

 

アンタレスが結晶槍を放った。

 

今度は避けるためではなく、祭壇へ向かうバンを押し戻すための壁だった。

十本、二十本、三十本。

槍が白い床へ突き刺さり、赤黒い結晶の柵を作る。

 

バンは息を吐いた。

 

「通行止めか」

 

肩を鳴らす。

 

「悪いな。俺、そういうの守んねぇんだわ」

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

気配を消す。

 

ただし、今度は隠れるためではない。

 

アンタレスの狙いを一瞬だけ鈍らせるため。

結晶槍が標的を見失う、そのわずかな揺らぎを作るため。

 

バンの姿が薄闇へ沈む。

 

槍の追撃が、一瞬遅れた。

 

その隙に、バンは前へ出た。

 

赤黒い結晶の柵へ向かって走る。

 

クレシューズを畳む。

 

そして、回転する。

 

バニシング・キル。

 

高速回転しながら、結晶の隙間へ滑り込む。

クレシューズの節と身体の回転が、槍の先端を弾き、裂き、砕く。

 

赤黒い破片が飛ぶ。

 

肩を掠める。

頬を切る。

左腕に刺さる。

 

それでも止まらない。

 

バンは結晶の柵を抜けた。

 

祭壇が近い。

 

アンタレスの胸から伸びる最も太い糸が、目の前にある。

 

太い。

赤黒い。

その中に、白い月光が無理やり吸い込まれている。

 

バンはクレシューズを伸ばした。

 

だが、その瞬間、祭壇の奥から声が響いた。

 

待って。

 

はっきり聞こえた。

 

初めて、言葉として。

 

バンの動きが止まる。

 

月の精霊の残響が、震えながら続けた。

 

それを切れば、封印も壊れる。

 

アンタレスも解き放たれる。

 

地下神殿の空気が凍った。

 

バンは太い糸を見た。

 

アンタレスが喰らうための糸。

同時に、アンタレスを縛るための鎖。

 

喰われ続ける苦痛と、封じ続ける役割が、同じ一本に絡まっている。

 

切れば救える。

 

だが、同時に解き放つ。

 

「……面倒な結び方してんな」

 

バンは低く言った。

 

アンタレスが尾を振り上げる。

 

この一瞬の迷いを突くように。

 

毒針が落ちる。

 

バンは横へ跳ぶ。

 

だが、避けきれない。

尾針が右肩を抉り、血が飛ぶ。

 

「っ……!」

 

バンは床を転がり、祭壇の前で止まった。

 

太い糸はまだ繋がっている。

 

アンタレスは動ける。

精霊はまだ喰われている。

封印はまだ保っている。

 

全部が最悪のまま、繋がっている。

 

バンはゆっくり立ち上がった。

 

口元の血を拭う。

 

「切りゃいいって話じゃねぇ、か」

 

クレシューズを握る。

 

なら、盗るものを間違えるな。

 

糸を切るのではない。

 

糸の中で、アンタレスが喰らっている分だけを盗る。

封印として縛っている部分は残す。

毒だけを抜く。

月の力は返す。

 

そんな馬鹿みたいに細かいことを、戦いながらやる必要がある。

 

バンは笑った。

 

「料理より面倒だな」

 

祭壇の奥の声が、かすかに震える。

 

やめて。

 

あなたが壊れる。

 

バンは鼻で笑った。

 

「知るかよ」

 

クレシューズを肩に担ぎ直す。

 

「泣き声聞きながら飯食う方が、よっぽど壊れるわ」

 

アンタレスが低く鳴いた。

 

地下神殿の赤黒い光が強くなる。

 

白い月光もまた、かすかに強くなった。

 

神々が降りる前の時代に残された足跡。

人と精霊が、命を削って刻んだ封印。

その上に巣食う古代の蠍。

 

バンは一歩、前へ出た。

 

切るのではない。

 

奪い返す。

 

盗られたものを、持ち主へ戻す。

 

「次で、下ごしらえは終わりにするぜ」

 

赤い旅人は、月の祭壇の前で笑った。

 

毒に染まった強欲が、神の足跡を踏み越えようとしていた。




第17話でした。
今回は、エルソスの遺跡に残された古代の記憶と、月の精霊がアンタレスを封じた経緯に踏み込みました。アンタレスを縛る糸は、同時に月の精霊を喰わせる管でもあり、単純に切ればいいものではありません。次回、第18話「果実酒の誘い」で、第三部アンタレス編を締めます。
【アンケートの御礼】
皆様、「1日の投稿数」アンケートへのたくさんのご投票、本当にありがとうございました!
7月1日15:30をもって、投票を締め切らせていただきました。
結果は、圧倒的多数の55票で「1日3〜4話(現状維持)」がトップでした!
今の更新ペースを丁度良く楽しんでいただけているようで、作者としても大変嬉しいです。
また、「ストックある限り全部!」に入れてくださった強欲な読者様たちもありがとうございます。
そのお気持ち、嫌いじゃないです笑
というわけで、今後も皆様の読みやすさを第一に、基本は「1日3〜4話」のペースで投稿を続けていきます。
これから物語もさらに熱い展開に入っていきますので、引き続き『赤い旅人・バン』をよろしくお願いいたします!
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