赤い旅人の続きになります。
ハルファの見張り台から、鐘が鳴った。
一回。
二回。
警戒の鐘ではない。
帰還を知らせる鐘だった。
砂漠船が黒砂の影をかすめながら集落へ滑り込むと、石壁の内側から人々が走ってきた。
水袋を抱える者。
板を運ぶ者。
怪我人を支える者。
子どもを家の中へ押し戻す母親。
門の前で槍を構える男たち。
誰もが疲れ切った顔をしている。
それでも、砂漠船に積まれた水袋と薬箱を見た瞬間、空気が少しだけ変わった。
生き延びるためのものが届いた。
それだけで、人の顔は変わる。
ナジュは酒場の前に立っていた。
腕を組み、いつもの鋭い目で船を見ている。
その横にはリクや薬師の老人、集落の男たちが並んでいた。
砂漠船が止まるより早く、ジャミルが声を張る。
「水を下ろせ!黒砂に触れた道具と分けろ!薬草は酒場へ!」
サイモンも続く。
「リオードへ伝令は届いた!ゼウス・ファミリアも来ている!物資はこの船の分だけじゃない、後続も出る!」
その言葉に、集落の者たちがどよめいた。
ゼウス・ファミリア。
その名は、砂漠の端にあるハルファでも十分すぎるほど重かった。
やがて、船から巨大な男が降りた。
ザルド。
臙脂色の短髪。
目元の深い傷。
重い鎧。
背の大剣。
彼が砂へ足を下ろした瞬間、周囲の視線が集まる。
神の恩恵を受けた強者。
しかも、ただの冒険者ではない。
ゼウス・ファミリアの幹部。
それは、ハルファにとって救援であると同時に、事態の深刻さを示す証でもあった。
ナジュはザルドを見上げた。
「よく来たね」
ザルドは短く頷く。
「状況は聞いた。水路と井戸を確認する」
「助かるよ。けど、その前に」
ナジュの視線が、ザルドの横へ向く。
船縁に座ったまま、バンがのんびりと手を振っていた。
右腕に包帯。
肩にも包帯。
脇腹にも包帯。
それなのに、口元には相変わらず軽い笑みがある。
「赤いの」
「あ?」
「また傷を増やしたね」
「ちょっとな」
「ちょっとで済む見た目じゃないよ」
「まだ死んでねぇだろ」
サナが船の上から叫ぶ。
「その言い方も駄目です!」
ナジュは眉を上げた。
「サナ、強くなったね」
「誰かさんのせいです!」
バンは面倒そうに頭をかいた。
ナジュはため息をつきつつ、バンの前に近づく。
「約束は覚えてるかい」
「黒砂酒一樽」
「覚えてるなら、ちゃんと働きな」
「もう働いたろ」
「まだ足りないよ。黒砂は待ってくれない」
「酒場の女将は人使いが荒いな」
「飲ませる酒は安くないんだ」
バンは笑った。
「いいぜ。飯は?」
「薄い汁なら出す」
「肉は?」
「普通のサンドホーンを持って帰ってきてないだろ」
バンは少しだけ遠い目をした。
「持って帰りたかったんだけどな」
ザルドも低く言う。
「普通個体の肉は惜しかった」
ナジュは二人を交互に見る。
「……あんたたち、今そこを悔やんでるのかい」
「食材は大事だろ」
「食えるものを捨てるのは愚かだ」
同時に返ってきた答えに、ナジュは額を押さえた。
「面倒なのが増えたね」
しかし、その口元にはわずかに笑みがあった。
救援物資の搬入が始まった。
水袋は貯水池のそばへ。
薬草と灰は酒場の裏へ。
布と板は水路と井戸の防護へ。
担架と包帯は薬師の家へ。
エルンはすぐに聞き取りを始めた。
見張り台の記録。
黒砂の広がり。
地鳴りの時間。
井戸の味の変化。
黒砂持ちの魔物が出た場所。
ロウムは集落の男たちと一緒に外壁の補強位置を確認し、セリアはサナと薬師の老人から黒砂傷の処置方法を聞き取る。
アルヴィンは荷を下ろし終えると、すぐに水袋の残量を記録していた。
逃げ足が速そうな支援者は、物資管理も細かいらしい。
バンはそれを見て、少しだけ感心した。
「白いの、意外と働くな」
「アルヴィンです!あと、意外とって何ですか!」
「褒めてるぞ」
「褒め方が毎回分かりづらいです!」
アルヴィンはそう言いながらも、水袋の数を書き込む手は止めない。
ザルドはナジュ、ジャミル、リクを伴って水路へ向かった。
バンもついていく。
サナがすぐに後を追った。
「バンさん、歩くなら右腕を使わないでください」
「歩くのに腕は使わねぇだろ」
「転んだ時に使います」
「転ばねぇよ」
「さっき船から降りる時、少しふらついてました」
「よく見てんな」
「見てます」
「怖ぇな」
「怖くしているのはバンさんです」
ナジュが横から言う。
「サナの言う通りだよ」
「味方がいねぇ」
バンがぼやくと、ザルドが低く言った。
「怪我人は怪我人として扱われるべきだ」
「お前までそっちかよ」
「死なれては困る」
「心配してんのか?」
「戦力計算だ」
「素直じゃねぇな」
「事実だ」
バンは笑った。
水路は、昨夜よりも黒くなっていた。
集落の外側に積まれた黒砂は、一部が板と布で止められている。
だが、完全に防げているわけではない。
溝の端に、黒い粒が沈んでいる。
触れないように布で覆い、灰を撒き、板で流れを変えているが、時間稼ぎにすぎなかった。
ザルドは膝をつき、手袋越しに砂をつまむ。
セリアがすぐに注意する。
「素手で触れないでください」
「分かっている」
ザルドは黒砂を見つめる。
「深いな」
バンも少し離れてしゃがみ込んだ。
指先が疼く。
盗ろうとしたわけではない。
ただ近づいただけで、《強奪》の感覚が黒砂の流れを拾ってしまう。
水路に入り込んだ黒砂は、昨日の砂波で流れてきたものだけではない。
地面の下から染み出している。
黒い砂漠そのものが、少しずつハルファの足元へ入り込んでいるようだった。
「水路塞いでも、下から来るんじゃ面倒だな」
ジャミルが頷く。
「だから時間がない。板と布で止められるのは、表面の流れだけだ」
リクが青い顔で言う。
「見張り台から見ると、黒砂の縁は昨日よりさらに近いです。夕方には外壁の南側へ届くかもしれません」
ナジュは低く舌打ちした。
「避難の準備も必要だね」
その言葉に、リクの顔がさらに暗くなる。
ハルファを捨てる。
誰もが考えていた。
だが、口にしたくなかったことだ。
ナジュは続ける。
「水と子ども、動けない者を先に逃がす。けど、全員を今すぐ出すには船が足りない」
ザルドが問う。
「リオードから後続の船は」
サイモンが答える。
「最短で夕方です。ただ、黒砂帯が太くなれば遅れます」
エルンが地図を広げる。
「つまり、今日の夕方から夜が山場です。黒砂の動きがこのままなら、ハルファは夜までに孤立する可能性があります」
場が静まり返った。
バンは黒砂を見た。
奥で眠る災害の寝息が、ここまで届いている。
ベヒーモス本体は、まだ姿を見せていない。
ただ動いているだけ。
ただ息をしているだけ。
それだけで、集落が一つ潰れかけている。
ザルドが立ち上がった。
「防衛線を外側に作る」
ナジュが目を細める。
「外側?」
「水路の内側で待てば、黒砂は井戸に近づく。外で流れを切る。板と布で止めるだけでは足りん。魔物が来れば同時に押し込まれる」
ロウムが頷く。
「外壁の南側、古い岩場を使えば足場にできます」
ジャミルが地形を思い浮かべるように言う。
「あそこなら船も一隻置ける。退路にもなる」
エルンがすぐ地図へ印をつける。
「防衛線、南外壁より二百歩外。黒砂流入地点の手前。目的は黒砂の完全停止ではなく、流れを横へ逸らすこと」
バンはその言葉に反応した。
「逸らす、ねぇ」
ザルドが見る。
「お前の出番だ」
「怪我人扱いじゃなかったのか」
「怪我人でもできることはある」
「ひどい言い方だな」
「事実だ」
バンは笑った。
「まあ、流れをずらすだけならできる。奥のやつには触らねぇけどな」
ナジュが睨む。
「触ったら酒はなしだよ」
「それは困る」
「なら守りな」
「はいはい」
サナも言う。
「右手は使わないでください」
「それは無理だろ」
「できるだけ!」
「善処する」
「一番信用できない返事です」
バンは苦笑した。
昼から夕方にかけて、ハルファは動いた。
外壁の南側に、簡易の防衛線が作られる。
板を立て、布を張り、砂袋を積む。
岩場の影に水と薬を置く。
負傷者を運ぶための担架を用意する。
子どもと老人は北側の家へ集められ、いつでも船へ乗せられるよう準備された。
バンは右腕を庇いながらも、左手で板を運んだ。
ザルドは一人で三人分の重さの砂袋を運んだ。
そのたびに、ハルファの男たちが何とも言えない顔をする。
「……あれ、人間か?」
「ゼウス・ファミリアの幹部だぞ」
「幹部って、砂袋をあんな持ち方するのか?」
「知らん」
バンはそれを聞いて笑う。
「おい暴喰、見世物になってるぞ」
「作業が進むなら問題ない」
「真面目だな」
「必要なことをしているだけだ」
「そういう奴、嫌いじゃねぇよ」
ザルドは少しだけ視線を向けたが、何も言わなかった。
防衛線の準備中、ナジュは大鍋で汁を作っていた。
水は節約。
豆と干し肉は少なめ。
リオードから運ばれた香辛料をほんの少しだけ加える。
バンが勝手に積ませた香辛料だった。
最初はナジュも呆れていたが、鍋に入れた瞬間、表情が少し変わった。
「……悪くないね」
バンは得意げに笑う。
「だろ」
「調子に乗るんじゃないよ」
「乗ってねぇよ」
「でも、これは助かる。薄い汁でも匂いが立つ」
ナジュは小さく言った。
「こういう時は、匂いだけでも人は少し落ち着く」
バンは鍋の中を覗いた。
確かに、薄い汁だ。
だが、香辛料の香りがあるだけで、ただの水っぽい豆汁ではなくなる。
疲れた顔の住人たちが、それを椀に受け取って飲んでいく。
子どもが少し笑う。
老人が息をつく。
男たちが無言で椀を空にする。
飯は救援だ。
バンはそう思った。
夕方。
黒砂が動いた。
最初に気づいたのは、見張り台のリクだった。
「南側、砂が流れています!」
鐘が鳴る。
一回。
二回。
三回。
警戒。
防衛線へ人が集まる。
ザルド、バン、ロウム、ミラ、ダリオ、ジャミル。
セリアとサナは後方で治療の準備。
ナジュは弓を持ち、酒場の前ではなく防衛線の内側に立った。
黒砂の流れは、ゆっくりと近づいていた。
砂波というほど激しくはない。
だが、重い。
低い場所へ這うように流れ、普通の砂を黒く染めながら進んでくる。
その前方を、小型の魔物が逃げていた。
砂蜥蜴。
小さなワーム。
砂鼠。
多くは人を避けて逃げる。
だが、黒砂に染まり始めた個体は違う。
逃げながらも、動くものへ噛みつこうとする。
ザルドが大剣を抜いた。
「黒砂を水路へ入れるな」
ロウムが盾を構える。
「了解」
ミラが槍を構えた。
ダリオも並ぶ。
バンはクレシューズを肩に担ぎ、黒砂の流れを見る。
奥の力には触れない。
水路に向かう表面の流れ。
岩場のくぼみに沿って流れる砂。
板の隙間へ入ろうとする細い流れ。
それだけを盗る。
「じゃ、ちょいとやるか」
サナが後ろから言う。
「右手!」
「分かってる!」
バンは左手を主に使い、クレシューズを砂へ打ち込む。
節を伸ばし、黒砂そのものではなく、その手前の普通の砂を叩く。
流れが変わる。
黒砂の先端が、水路ではなく岩場の外側へ少しずれた。
その瞬間、ザルドが動く。
大剣を振り下ろし、黒砂に押し出されて暴れたサンドホーンを正面から叩き潰す。
黒砂持ちではない普通個体だ。
肉体は残る。
バンの目が少し動く。
「それ食えるやつ!」
「後だ」
ザルドは短く答え、次の魔物へ向かう。
バンは笑った。
「覚えてろよ!」
「覚えている」
黒砂に染まったワームが防衛線へ跳ぶ。
ミラが槍で叩き落とす。
ロウムが盾で弾く。
ダリオが横から突く。
バンは深く盗らない。
黒砂持ちの魔物には、力の端だけ。
跳ぶ向き。
噛みつく瞬間。
足元の砂。
それをずらす。
ザルドは、ずれた魔物を叩き潰す。
初めて組んだとは思えないほど、役割ははっきりしていた。
バンが流れを変える。
ザルドが断つ。
強欲が盗り、暴喰が喰らう。
ただし、バンは少しずつ息が乱れていた。
右腕を使わないようにしていても、《強奪》の感覚そのものは身体へ負荷を返す。
黒砂の流れに触れないようにしている。
それでも、近くにあるだけで重い。
指先が痺れる。
肩の傷が熱を持つ。
脇腹が痛む。
サナが後方でこちらを見ているのが分かった。
怒られるな。
バンはそう思った。
だが、今は止まれない。
黒砂の流れが、水路へ近づく。
バンはクレシューズを地面に打ち込み、低く呟く。
「こっちじゃねぇよ」
強奪《スナッチ》。
盗るのは流れの端。
ほんの少し。
黒砂の先端がずれる。
だが、その奥から重い圧が返ってきた。
バンの右腕が勝手に震える。
「っ……!」
ザルドがすぐに気づいた。
「下がれ」
「まだいける」
「もう十分だ」
「足りねぇだろ」
「足りる」
ザルドは大剣を砂に突き立てた。
そして、黒砂の流れの前に立つ。
真正面から止めるつもりか。
バンは一瞬そう思った。
だが、違った。
ザルドは黒砂そのものを斬ろうとしたわけではない。
黒砂に押し出されてくる魔物の群れ。
その先頭だけを、圧倒的な力で断ち切った。
魔物の流れが割れる。
逃げる群れは、ザルドという圧を避けて左右へ散った。
黒砂に染まっていない個体は、そのまま逃げた。
黒砂持ちだけが、狂ったように向かってくる。
ザルドはそれらを片端から叩き伏せる。
バンはそこで気づいた。
ザルドは黒砂の流れを止めているのではない。
魔物の流れを割っている。
黒砂と一緒に押し込まれる魔物を散らすことで、防衛線へかかる圧を減らしている。
「やるじゃねぇか」
バンは笑った。
なら、自分は別のところを盗ればいい。
水路へ向かう細い流れ。
板の隙間。
防衛線の弱い場所。
そこだけを拾う。
バンは大きく盗らず、小さく何度も流れをずらした。
そのたびに、右腕の痺れが増す。
だが、奥にいるものへ触れなければ、まだ耐えられる。
夜が近づく。
黒砂の流れは続く。
魔物の数は減ったり増えたりを繰り返す。
ハルファの者たちは必死に板を押さえ、布を詰め、砂袋を積んだ。
ロウムが盾で防衛線を守り、ミラとダリオが小型を落とす。
ジャミルは砂の流れを読み、危険な場所を叫ぶ。
エルンは記録を取りながらも、必要な時には短剣で砂鼠を仕留める。
アルヴィンは水袋を後方へ運び続ける。
ナジュは弓を引き、黒砂持ちのワームを射落とした。
その姿を見て、バンは口笛を吹く。
「女将、弓もうまいのかよ」
「酒場の外でも生きてきたからね!」
「いい女将だな!」
「褒める暇があるなら手を動かしな!」
「あいよ!」
バンはクレシューズを振る。
クレシューズの節が砂を走り、黒砂持ちの砂蜥蜴を弾く。
そこへザルドの大剣が落ちる。
戦いは続いた。
完全な勝利ではない。
黒砂そのものを消せるわけではない。
ベヒーモスの気配を止められるわけでもない。
ただ、今この瞬間、水路へ流れ込む黒砂を逸らし、魔物を散らし、人が逃げる時間を作っている。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
少なくとも、夜を越えるには。
やがて、黒砂の流れが弱まった。
地鳴りが遠ざかる。
魔物の群れも少しずつ散っていく。
見張り台のリクが叫んだ。
「流れが止まりました!南側、止まっています!」
防衛線にいた者たちが、ゆっくりと息を吐く。
誰かがその場に座り込んだ。
別の者が水を飲む。
泣き出す子どもの声が、遠くから聞こえた。
ナジュは弓を下ろし、空を見上げる。
「……越えたか」
ジャミルが答える。
「今夜はな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
今夜は。
それが全てだった。
バンはクレシューズを杖代わりにして立っていた。
右腕が痺れる。
左手にも疲れが残る。
肩も脇腹も痛い。
不死身ではない身体が、いい加減に休めと訴えていた。
サナが駆け寄ってくる。
「バンさん!」
「分かってる。右手だろ」
「全部です!」
「全部?」
「右腕も肩も脇腹も顔色も全部です!」
「顔色までかよ」
サナは怒りながら、今にも泣きそうだった。
バンは少し困った顔をする。
「悪かったって」
「何割ですか」
「……八割」
「あと二割!」
「十割だ」
「よろしいです」
サナはそう言って、すぐに包帯を確認し始めた。
ザルドが近くへ来る。
彼の鎧にも黒砂が付着していたが、目立った傷は少ない。
それでも、呼吸はわずかに重くなっていた。
バンは見上げる。
「お前でも疲れるんだな」
「戦えば疲れる」
「暴喰でもか」
「腹も減る」
「いいこと言うな」
ザルドは倒した普通個体のサンドホーンの方を見る。
「肉は使えるか」
ナジュが近づいてきて、呆れた声で言う。
「今、それを言うのかい」
バンも同じ方向を見る。
「黒砂に触れてねぇやつならいけるだろ」
ジャミルが確認する。
「一体は防衛線の外側で倒れている。黒砂には触れていない。今なら処理できる」
ナジュは数秒、二人を睨んだ。
それから、大きくため息をつく。
「……分かった。食えるなら食う。今夜は全員、働いたからね」
ハルファの者たちの間に、わずかな歓声が上がった。
肉だ。
黒砂に怯え、薄い汁で耐えていた夜に、肉が出る。
それは小さなことではなかった。
ザルドは解体に加わった。
バンも手伝おうとしたが、サナとセリアに同時に止められた。
「座っていてください」
「座っていなさい」
「二人がかりかよ」
バンは仕方なく、酒場の前の椅子に座らされた。
解体された肉は、ナジュの指示で薄く切られた。
ザルドが焼き方に口を出す。
「火は強く。表面を焼いてから休ませる。黒砂の近くに置くな。脂を落としすぎるな」
バンも椅子から口を出す。
「香辛料は少しでいい。肉の味殺すなよ」
ナジュが怒鳴る。
「座ってな!」
「座ってるだろ」
「口まで動かすんじゃないよ」
「それは無理だな」
疲れ切った集落に、少しずつ匂いが広がっていく。
焼ける肉。
香辛料。
豆の汁。
焦げた脂。
黒砂の嫌な臭いを押し返すように、食べ物の匂いがハルファに満ちた。
人々が集まる。
子どもが椀を持つ。
老人が火のそばへ座る。
男たちが無言で肉を待つ。
冒険者たちが武器を置き、ようやく息を吐く。
ザルドが焼いた肉を一切れ取り、味を見る。
「悪くない」
バンも受け取り、口に入れる。
噛み応えがある。
脂は少ない。
だが、強い火で焼いた表面が香ばしく、香辛料の量もちょうどいい。
「うまい」
ナジュが少しだけ笑う。
「なら、よかったよ」
バンは肉を食べながら、黒砂の方を見る。
遠くの空が少しずつ白んでいた。
夜が明ける。
黒い砂漠は消えない。
ベヒーモスも眠ったままでは終わらない。
ハルファの危機も、本当に去ったわけではない。
それでも、夜は越えた。
人が飯を食っている。
酒場に火が灯っている。
笑い声が少し戻っている。
なら、今はそれでいい。
ナジュが木の杯を持ってきた。
中には、黒砂酒。
バンの前に置く。
「約束の分、まず一杯だ」
「一樽じゃなかったか」
「一気に飲ませたらサナが怒る」
「それは怖ぇな」
サナが横で真顔になる。
「怒ります」
「だろ」
バンは杯を持つ。
ザルドにも一杯が渡された。
暴喰の男は、杯を軽く掲げる。
「夜を越えた者たちへ」
ナジュが頷く。
「まだ生きてる馬鹿どもへ」
バンは笑う。
「飯と酒に」
誰かが吹き出した。
だが、皆が杯を掲げた。
黒砂酒を飲む。
喉が焼ける。
苦味が残る。
腹の中に火が落ちる。
バンは目を細めた。
「やっぱ、いい酒だな」
ナジュは静かに答える。
「生きて飲むからね」
「それだな」
朝日が昇る。
黒い砂漠の縁が、淡い光の中に浮かび上がった。
その奥で、巨大な何かがまだ眠っている。
けれど、ハルファには火が灯っていた。
人が飯を食っていた。
酒が注がれていた。
赤い旅人は、包帯だらけの身体で椅子に座り、強い酒を飲む。
隣には、暴喰の男が肉を食っている。
強欲と暴食が並んで朝を迎えるその光景を、ハルファの人々は妙な顔で見ていた。
神話の怪物の影が迫る夜を越えた後にしては、あまりにも呑気で。
けれど、不思議と悪くない光景だった。
バンは杯を空にし、息を吐く。
「で、次はどうすんだ」
ザルドは黒い砂漠を見た。
「本隊を呼ぶ。ゼウスとヘラにも知らせる。ベヒーモスを討つなら、ここから先は戦争だ」
「戦争ねぇ」
「世界を相手にする怪物だ。集落一つの防衛とは違う」
「面倒だな」
「そうだ」
「飯は出るか?」
ザルドは少しだけ考えた。
「出るようにする」
バンは笑った。
「なら、悪くねぇ」
ナジュが呆れたように言う。
「あんた、本当にそれでいいのかい」
「腹減ったまま戦争なんかできねぇだろ」
ザルドが頷く。
「正しい」
ナジュは二人を見て、深くため息をついた。
「この先が思いやられるね」
だが、その顔には少しだけ安堵があった。
黒い砂漠の夜は明けた。
それは勝利ではない。
ただの一晩の生存だ。
それでも、その一晩を越えたことで、ハルファはまだ地図の上から消えていない。
そして、バンは知った。
この世界の三大クエストというものが、ただの強い魔物退治ではないことを。
飯と酒と人の暮らしを、丸ごと呑み込む災害との戦いなのだと。
なら、盗るべきものは決まっている。
命ではない。
名誉でもない。
怪物の力そのものでもない。
まずは、黒砂に奪われるはずだった朝。
その一つを、盗み返した。
第15話でした。
修正版では、ハルファへ救援物資が届き、黒砂の流れと魔物の押し寄せる夜を集落全体で越える回にしました。
バンとザルドは本格的なベヒーモス討伐前の段階として、黒砂そのものを消すのではなく、水路と人々の生活を守るために戦っています。
ここで第2部前半の区切りとなり、次からはベヒーモス討伐へ向けてゼウス・ヘラ側の本隊や、より大きな戦いへ進める流れになります。