今回は、アンタレスとの戦いの中で、エルソスの遺跡に残された古代の記憶へ踏み込みます。
神々が降りる前の時代、人と精霊が何を封じ、何を守ろうとしたのか。
そしてバンは、相変わらずバンらしく動きます。
地下神殿の床に、白い月光が戻りかけていた。
ほんの一部だけだ。
祭壇に絡みついていた赤黒い糸を切り、アンタレスが喰らおうとしていた月の力を少しだけ返した。
その場所だけ、濁った光が薄れ、白い石本来の色がかすかに見えている。
だが、それは傷口に布を当てた程度の変化でしかなかった。
神殿全体には、まだ赤黒い毒が広がっている。
柱には蠍の尾のような亀裂が走り、床からは小型サソリが這い出し、祭壇の奥では月の泣き声が途切れ途切れに響いていた。
バンは肩で息をしていた。
左腕には毒の筋が浮いている。
血管がどす黒く盛り上がり、皮膚の下を赤黒いものが這っているように見えた。クレシューズを握る指先には薄い霜が張りつき、動かすたびにぱり、と小さな音を立てる。
熱いのに、冷たい。
焼かれているのに、凍っている。
毒と月光を無理やり身体に通した反動だった。
「……味が混ざりすぎだろ」
バンは吐き捨てるように言った。
アンタレスは祭壇の前で尾を揺らしている。
小型サソリを吸収したことで、姿は変わっていた。
脚は太く、尾は長く、外殻には白い月光の筋が増えている。だが、その白は綺麗ではない。赤黒い毒に汚され、ひび割れた月の欠片のようだった。
バンは目を細める。
この世界の魔物は、魔石を残す。
魔石が壊れれば、身体は灰になる。
それがこの世界のルールのはずだった。
だが、こいつは違う。
小型サソリは魔石を残さない。
灰にもならない。
そして今、泥が混ざるように同族を吸収し、自分の身体を作り替えた。
「ほんと、ルールの外にいやがるな」
アンタレスの複眼が赤黒く光る。
答えの代わりに、床の月紋様が脈打った。
どくん。
祭壇の奥から声が漏れる。
バンは眉を寄せた。
さっきより、はっきり聞こえる。
声は言葉ではなかった。
だが、ただの音でもない。
泣いている。
苦しんでいる。
そして、誰かを呼んでいる。
その瞬間、バンの足元の月紋様が白く光った。
「ん?」
視界が揺れた。
古い土の匂いと、乾いた砂の匂いが鼻をつく。
地下神殿が遠ざかる代わりに、何千人もの祈るような歌声が耳の奥へ直接響いてきた。
赤黒い月光が薄れ、白い光が広がる。
石柱は壊れる前の姿へ戻り、床の亀裂は消え、祭壇にはまだ毒の染みがなかった。
人がいた。
大勢の人間が、神殿の中で膝をついている。
鎧を着た者。
杖を持った者。
子どもを抱く女。
血を流した戦士。
老いた祭司。
彼らは空を見上げていた。
地下なのに、空があった。
白い月が浮かんでいる。
その月の下に、一人の女が立っていた。
人ではない。
透き通るような白い髪。
月光を織ったような衣。
足元に影はなく、身体の輪郭は淡く揺れている。
精霊。
バンは直感でそう思った。
女の精霊は、両手を広げていた。
その背後には、巨大な赤い蠍がいる。
アンタレス。
だが、今目の前にいるアンタレスより少し違う。
外殻はまだ毒に汚れきっておらず、胸の赤黒い穴も小さい。だが、尾の先にはすでに神殿を腐らせる光が宿っている。
精霊が何かを言う。
言葉は分からない。
だが、意味は伝わった。
封じる。
私が、ここで。
戦士たちが泣いていた。
祭司が叫んでいた。
子どもを抱く女が首を振っていた。
精霊は笑っていた。
優しい笑みだった。
それが余計に腹立たしい、とバンは思った。
次の瞬間、白い月光が神殿を満たした。
精霊の身体から光が溢れ、アンタレスへ絡みつく。月の鎖。白い封印。古代の祈り。
アンタレスは暴れた。尾を振り、結晶槍を放ち、赤黒い毒を吐き散らす。
それでも、精霊は退かなかった。
白い光がアンタレスを包み、祭壇へ縫い止めていく。
その時、アンタレスの胸の穴が開いた。
赤黒い光が、白い月光へ噛みついた。
封印されながら、喰っている。
アンタレスは、封印の内側で精霊を喰い始めたのだ。
精霊の笑みが、少しだけ歪んだ。
だが、手は下ろさない。
人々が泣きながら祈る。
戦士たちが倒れる。
神殿の床に、血と月光が混じる。
やがて、白い封印が完成した。
アンタレスは祭壇の奥へ沈み、神殿は静かになった。
だが、精霊もまた消えなかった。
消えられなかった。
封印の核として、祭壇に縫い止められたまま、アンタレスに少しずつ喰われ続ける存在になった。
視界が戻る。
赤黒い月光。
壊れた柱。
毒の床。
砂蠍の海。
バンは、祭壇の前に立っていた。
「……ずいぶん長ぇ食事だな」
低く呟く。
アンタレスの胸の穴が脈打つ。
どくん。
祭壇の奥で、月の精霊の残響が震えた。
今見たものは、過去の記憶だ。
神殿に残った記録。
白い月の精霊が、アンタレスを封じた時の足跡。
神々が降りる前。
神の恩恵も、ファミリアもない時代。
人間は弱かった。
それでも、泣きながら、祈りながら、精霊と共に災厄を封じた。
バンはクレシューズを握り直した。
「神様が来る前から、どこもかしこも大変だったんだな」
軽い声だった。
だが、目は笑っていない。
アンタレスが動く。
尾が大きくしなり、毒針が月光を切り裂く。
同時に、床から結晶槍が生える。
バンの足元。
背後。
左右。
囲むように伸びる。
バンはクレシューズを振るった。
一本を砕く。
二本目を弾く。
三本目を避ける。
だが、四本目が脇腹を掠めた。
血が飛ぶ。
そこへ赤黒い毒が絡む。
「っ……」
毒の冷たさが広がる。
バンは舌打ちし、左手を伸ばした。
「ちょいと借りるぜ」
フィジカルハント。
アンタレスの脚力を奪う。
いや、奪おうとした。
瞬間、また異物が混じる。
アンタレス本体。
小型サソリの群れ。
祭壇。
月の封印。
精霊の残響。
全部が絡み合っている。
力の線が汚い。
肉の筋を切ろうとしたら、皿ごと、机ごと、厨房ごと繋がっていたような感覚。
「取りづれぇな、くそ」
バンは奪う量を絞る。
脚力ではなく、踏み込みの瞬間だけ。
アンタレスが前へ出る一歩、その勢いの端だけを盗る。
それでも反動は来る。
左腕の黒い血管がさらに浮き上がる。
指先の霜が広がり、爪の根元まで白くなる。
バンは歯を食いしばった。
アンタレスの踏み込みが鈍る。
ほんのわずか。
だが、その隙にバンは懐へ潜った。
狙うは胸の穴ではない。
祭壇へ伸びる糸でもない。
床へ伸びる太い糸。
神殿そのものとアンタレスを繋ぐ管。
「まず、足元からだ」
獲物狩り《フォックスハント》。
クレシューズが床すれすれを走る。
赤黒い糸に絡みつき、引く。
糸が暴れる。
床の月紋様が赤黒く光り、バンの足元から小型サソリが湧く。
「邪魔だ」
バンは足で一匹を潰し、肩に取りつこうとした二匹をクレシューズの節で弾く。
糸を離さない。
引く。
ただ引くだけではない。
糸の中を流れる力を盗り、絡まった部分を緩め、封印側へ流れ込んだ毒だけを横から抜き取る。
細かい作業だった。
魔法の知識なんてない。
精霊の術式なんてものも知らない。
封印の組み方も、解き方も、バンの専門外だ。
料理なら、骨の位置も筋の流れも読める。
だがこれは、皿の上の肉ではない。
バンにあるのは、力づくで盗るための強奪の手札だけ。
それでも、奪うことに関してだけは誰よりも器用だった。
「ほら、こっちはお前の分じゃねぇだろ」
赤黒い毒の流れを盗る。
白い月光の流れを残す。
糸が半分ほど白く戻る。
祭壇の奥の声が、ほんの少しだけ澄んだ。
アンタレスが悲鳴を上げる。
巨大な尾が横薙ぎに振るわれた。
バンは避けられない。
糸を離せば避けられる。
離さなければ食らう。
バンは離さなかった。
尾が横から叩きつけられる。
クレシューズを盾にするが、受けきれない。
身体が吹き飛び、白い床を転がり、石柱に背中から叩きつけられる。
肺から息が抜けた。
口から血が出る。
左腕の感覚がさらに遠のく。
それでも、クレシューズの先は糸を掴んだままだった。
バンは血を吐きながら笑った。
「盗んだもん、途中で落とすかよ」
力を込める。
ぷつん。
床へ伸びていた太い糸が切れた。
地下神殿が大きく揺れる。
アンタレスの脚の一本が、床を踏み抜いた。
神殿との繋がりを一本失い、巨体の動きがわずかに乱れたのだ。
バンは石柱にもたれながら立ち上がる。
「お。足、もつれたな」
アンタレスの複眼が激しく光った。
怒りだけではない。
恐れ。
ほんの少しだが、そこに恐れが混じっていた。
バンはそれを見逃さなかった。
「嫌なんだな」
クレシューズを肩に担ぐ。
「その糸、切られんの」
アンタレスが尾を振り上げる。
赤黒い月光が毒針へ集まる。
同時に、祭壇の奥の白い光が強くなる。
精霊の残響が、必死に何かを伝えようとしている。
バンには言葉としては分からない。
だが、方向は分かった。
祭壇の奥。
封印の中。
アンタレスの胸から伸びる、最も太い糸。
そこが、本命だ。
「次はそこか」
バンはふらつきながらも、一歩前へ出た。
毒が身体を冷やす。
月光が骨の奥に染みる。
左腕は黒く、指先は白い。
それでも、立つ。
アンタレスが結晶槍を放った。
今度は避けるためではなく、祭壇へ向かうバンを押し戻すための壁だった。
十本、二十本、三十本。
槍が白い床へ突き刺さり、赤黒い結晶の柵を作る。
バンは息を吐いた。
「通行止めか」
肩を鳴らす。
「悪いな。俺、そういうの守んねぇんだわ」
絶気配《ゼロサイン》。
気配を消す。
ただし、今度は隠れるためではない。
アンタレスの狙いを一瞬だけ鈍らせるため。
結晶槍が標的を見失う、そのわずかな揺らぎを作るため。
バンの姿が薄闇へ沈む。
槍の追撃が、一瞬遅れた。
その隙に、バンは前へ出た。
赤黒い結晶の柵へ向かって走る。
クレシューズを畳む。
そして、回転する。
バニシング・キル。
高速回転しながら、結晶の隙間へ滑り込む。
クレシューズの節と身体の回転が、槍の先端を弾き、裂き、砕く。
赤黒い破片が飛ぶ。
肩を掠める。
頬を切る。
左腕に刺さる。
それでも止まらない。
バンは結晶の柵を抜けた。
祭壇が近い。
アンタレスの胸から伸びる最も太い糸が、目の前にある。
太い。
赤黒い。
その中に、白い月光が無理やり吸い込まれている。
バンはクレシューズを伸ばした。
だが、その瞬間、祭壇の奥から声が響いた。
待って。
はっきり聞こえた。
初めて、言葉として。
バンの動きが止まる。
月の精霊の残響が、震えながら続けた。
それを切れば、封印も壊れる。
アンタレスも解き放たれる。
地下神殿の空気が凍った。
バンは太い糸を見た。
アンタレスが喰らうための糸。
同時に、アンタレスを縛るための鎖。
喰われ続ける苦痛と、封じ続ける役割が、同じ一本に絡まっている。
切れば救える。
だが、同時に解き放つ。
「……面倒な結び方してんな」
バンは低く言った。
アンタレスが尾を振り上げる。
この一瞬の迷いを突くように。
毒針が落ちる。
バンは横へ跳ぶ。
だが、避けきれない。
尾針が右肩を抉り、血が飛ぶ。
「っ……!」
バンは床を転がり、祭壇の前で止まった。
太い糸はまだ繋がっている。
アンタレスは動ける。
精霊はまだ喰われている。
封印はまだ保っている。
全部が最悪のまま、繋がっている。
バンはゆっくり立ち上がった。
口元の血を拭う。
「切りゃいいって話じゃねぇ、か」
クレシューズを握る。
なら、盗るものを間違えるな。
糸を切るのではない。
糸の中で、アンタレスが喰らっている分だけを盗る。
封印として縛っている部分は残す。
毒だけを抜く。
月の力は返す。
そんな馬鹿みたいに細かいことを、戦いながらやる必要がある。
バンは笑った。
「料理より面倒だな」
祭壇の奥の声が、かすかに震える。
やめて。
あなたが壊れる。
バンは鼻で笑った。
「知るかよ」
クレシューズを肩に担ぎ直す。
「泣き声聞きながら飯食う方が、よっぽど壊れるわ」
アンタレスが低く鳴いた。
地下神殿の赤黒い光が強くなる。
白い月光もまた、かすかに強くなった。
神々が降りる前の時代に残された足跡。
人と精霊が、命を削って刻んだ封印。
その上に巣食う古代の蠍。
バンは一歩、前へ出た。
切るのではない。
奪い返す。
盗られたものを、持ち主へ戻す。
「次で、下ごしらえは終わりにするぜ」
赤い旅人は、月の祭壇の前で笑った。
毒に染まった強欲が、神の足跡を踏み越えようとしていた。
第17話でした。
今回は、エルソスの遺跡に残された古代の記憶と、月の精霊がアンタレスを封じた経緯に踏み込みました。アンタレスを縛る糸は、同時に月の精霊を喰わせる管でもあり、単純に切ればいいものではありません。次回、第18話「果実酒の誘い」で、第三部アンタレス編を締めます。
【アンケートの御礼】
皆様、「1日の投稿数」アンケートへのたくさんのご投票、本当にありがとうございました!
7月1日15:30をもって、投票を締め切らせていただきました。
結果は、圧倒的多数の55票で「1日3〜4話(現状維持)」がトップでした!
今の更新ペースを丁度良く楽しんでいただけているようで、作者としても大変嬉しいです。
また、「ストックある限り全部!」に入れてくださった強欲な読者様たちもありがとうございます。
そのお気持ち、嫌いじゃないです笑
というわけで、今後も皆様の読みやすさを第一に、基本は「1日3〜4話」のペースで投稿を続けていきます。
これから物語もさらに熱い展開に入っていきますので、引き続き『赤い旅人・バン』をよろしくお願いいたします!