第三部「エルソスの遺跡・アンタレス編」の締めになります。
アンタレスを倒し、月の精霊の残響を解放し、そしてバンらしく飯と酒の話で終わる回です。
切れば終わる。
そういう単純な糸ではなかった。
アンタレスの胸から祭壇へ伸びる最も太い糸。
それは、月の精霊を喰らう管であり、同時にアンタレスを縛る鎖でもあった。
切れば、月の残響は喰われなくなる。
だが、封印も壊れる。
アンタレスは完全に自由になる。
だから、切れない。
ただし。
バンは口元の血を拭った。
「切れねぇなら、盗るもん選べばいいだけだろ」
地下神殿には、赤黒く濁った月光が満ちている。
白かったはずの石柱は砕け、床には無数の亀裂が走り、そこから小型サソリが這い出していた。祭壇の奥では、月の精霊の残響がかすかに震えている。
バンの左腕は、ひどい状態だった。
毒を吸い上げたように血管がどす黒く浮き出ている。
クレシューズを握る指先には、薄い霜が張りつき、動かすたびにぱりぱりと割れた。肩口の傷からは血が流れ、その血に赤黒い毒が混じっている。
熱い。
冷たい。
痛い。
痺れる。
身体中の感覚が、まともではなかった。
それでも、立っている。
アンタレスは祭壇の前で身を低くした。
外殻には月光の白い筋が浮かび、そこを赤黒い毒が侵している。小型サソリを吸収したことで膨れ上がった脚は、床を踏むたびに白い石を砕いた。長く伸びた尾の先には、毒針がある。
その針の奥で、赤黒い月が脈打っていた。
バンはクレシューズを肩に担いだ。
「さて」
軽く息を吐く。
「下ごしらえは済んだ。あとは焼くだけ、ってな」
もちろん、焼ける相手ではない。
肉は残らない。
魔石もない。
酒代にもならない。
倒してもうまいものは何一つ残らない。
だが、こいつが残っている限り、森の水も、果実も、酒も、全部まずくなる。
なら、どかす。
それだけだった。
アンタレスが動いた。
結晶槍が、床から生える。
一本、二本、十本。
赤黒く濁った月光をまとった槍が、バンの行く手を塞ぐ。さらに、天井から小型サソリが降り、床からも群れが押し寄せた。
バンは一歩下がらない。
絶気配《ゼロサイン》。
気配を消す。
殺気を落とす。
呼吸を薄くする。
存在を神殿の影へ溶かす。
小型サソリたちの動きが一瞬鈍る。結晶槍の狙いもわずかに乱れた。
だが、完全には消えない。
アンタレスは神殿そのものと繋がっている。
床がバンの足音を伝える。柱が空気の揺れを拾う。月光が影の位置を暴く。
「分かってるよ」
バンは笑った。
「一瞬ありゃ十分だ」
踏み込む。
結晶槍の隙間へ滑り込む。
クレシューズを畳み、身体を回転させる。赤黒い槍が頬を裂き、肩を掠める。だが、止まらない。
バニシング・キル。
高速回転する身体が、槍の間を抜ける。
クレシューズの節が結晶を弾き、砕き、道を作る。
バンは祭壇へ向かった。
最も太い糸が見える。
赤黒い管。
白い月光を吸い上げる通路。
同時に、アンタレスを縛る鎖。
切るな、と月の精霊は言った。
なら、切らない。
バンは左手を伸ばした。
「ちょいと、もらうぜ」
スナッチ。
糸そのものではない。
糸の中を流れるものを選ぶ。
アンタレスが喰らおうとしている赤黒い流れ。
月の精霊から奪われ、濁り、毒に変わりかけている力。
それだけを、横から盗る。
瞬間、バンの左腕が悲鳴を上げた。
毒が血管へ噛みつく。
月光の冷たさが骨の奥へ入り込む。
強奪の魔力が、封印と捕食の間に無理やり手を突っ込む。
「ぐっ……!」
左腕の黒い血管がさらに浮き、指先の霜が手の甲まで広がった。
血が床へ落ちる。
落ちた血が赤黒く泡立ち、すぐに白い月光で冷やされて固まる。
普通なら、そこで手を離す。
だが、バンは離さない。
「料理なら、火加減間違えてるところだな」
歯を食いしばりながら、笑う。
「けど悪いな。こっちは料理じゃねぇ」
盗る。
ただし、自分のものにはしない。
アンタレスから奪い、祭壇へ流す。
濁った月光を、少しずつ白へ返していく。
祭壇の紋様が光った。
奥から、声が聞こえる。
やめて。
あなたが壊れる。
バンは鼻で笑った。
「壊れてねぇよ」
口元から血が垂れる。
「まだ立ってる」
アンタレスが絶叫した。
赤黒い光が神殿中に走る。小型サソリたちが一斉に暴れ、結晶槍が乱れ飛ぶ。尾が振り上げられ、毒針がバンへ向かって落ちる。
バンは動かない。
動けば、流れが切れる。
なら、動かない。
クレシューズだけを動かす。
右手でクレシューズを伸ばし、迫る毒針へ絡めた。
獲物狩り《フォックスハント》。
狙うのは針ではない。
針の奥に溜め込まれた毒の核。
前にも盗った。
なら、次も盗れる。
赤黒い核が、針の中で暴れる。
クレシューズの先端がそれを掴む。
引き抜く。
毒がクレシューズを伝い、右腕まで痺れさせた。
「っ……!」
左右どちらの腕も、まともではなくなる。
だが、毒針の光が鈍った。
アンタレスの尾がバンの肩を掠め、床へ突き刺さる。
完全に避ける余裕はなかった。
肩の肉が裂け、血が飛ぶ。
それでも、急所は外れた。
バンは盗った毒核を、床へ落とさない。
クレシューズの先で絡めたまま、アンタレス本体へ向ける。
「自分の味、試してみろよ」
毒核を叩き返した。
赤黒い核が、アンタレスの胸元へぶつかる。
外殻が焼ける。
いや、凍る。
毒と月光が混ざった核が、アンタレス自身の胸を内側から乱した。
アンタレスが身をよじる。
その一瞬、太い糸の中を流れる捕食の力が弱まった。
バンは左手に力を込める。
「そこだ」
スナッチを深く差し込む。
奪う。
赤黒い捕食だけを。
白い封印を残したまま。
月の力を、祭壇へ戻す。
神殿が白く光った。
それは眩しい光ではなかった。
静かで、冷たく、澄んだ光だった。
森の奥で一度も見えなかった月が、地下の底に降りてきたような光。
月の精霊の声が、はっきり聞こえた。
ありがとう。
今度は迷わなかった。
その声は、確かに礼だった。
バンは血を吐き捨てた。
「だから、酒でいいって」
太い糸が白く変わる。
赤黒い毒だけが剥がれ落ちる。
アンタレスを縛る鎖は残ったまま、喰らう管だけが千切れていく。
アンタレスが悲鳴を上げた。
神殿全体が揺れる。
祭壇から切り離されたアンタレスの胸の穴が、大きく開いた。
そこにあった赤黒い光が暴れ、行き場を失い、外へ溢れ出す。
バンは糸から手を離した。
左腕がだらりと下がる。
感覚がない。
だが、終わっていない。
アンタレスはまだ動く。
祭壇から捕食の管を剥がされても、身体は残っている。小型サソリの群れも、外殻も、毒針も、結晶槍もある。
ただ、もう月の精霊を喰うことはできない。
アンタレスの複眼が、バンを見た。
憎悪。
飢え。
怒り。
そして、恐怖。
バンは笑った。
「皿から引っぺがしたぜ」
アンタレスが突進した。
巨大な脚が床を砕き、尾が天井を裂き、結晶槍が背後から生える。
最後の暴走。
祭壇から切り離されたことで、動きは荒くなっていた。だが、威力は落ちていない。むしろ、後先を考えない分だけ危険だった。
バンはクレシューズを握り直した。
左腕は使い物にならない。
右腕も毒で痺れている。
足は重い。
肺は冷たい。
だが、目は見える。
アンタレスの胸の穴。
赤黒い捕食の核。
そこへ届けば、終わる。
バンは走った。
前へ。
サソリの群れが足元から跳ぶ。
踏む。砕く。避けない。
結晶槍が肩を掠める。
構わない。
尾が横から迫る。
クレシューズで受け流す。衝撃で身体が横へ流れる。
その勢いを利用し、バンはさらに前へ出た。
「ちょいと借りるぜ」
フィジカルハント。
アンタレスの突進の力。
全部は奪えない。
奪えば、身体が壊れる。
だから、流れの端だけを盗る。
突進の向きを、ほんの少しずらす。
アンタレスの巨体が横へ傾いた。
バンの身体にも、反動が来る。
膝が砕けそうになる。
左腕の黒い血管が裂け、血が飛ぶ。
右手の指先の霜が砕け、皮膚が破れる。
「っ……重ぇな、虫のくせに……!」
それでも、道は開いた。
アンタレスの胸元。
赤黒い穴。
バンはクレシューズを伸ばした。
獲物狩り《フォックスハント》。
狙うのは、心臓ではない。
魔石もない。
普通の核もない。
なら、盗るのは捕食そのもの。
アンタレスが月の精霊を喰らい、封印を汚し、サソリを操り、自分を作り替えてきた赤黒い中心。
それを、引き抜く。
クレシューズの先端が、胸の穴へ届いた。
赤黒い光が噛みつく。
拒む。
絡む。
毒が逆流する。
バンは笑った。
「悪いな」
血まみれの口元が歪む。
「盗むのは、得意なんだわ」
引く。
赤黒い核が、胸の穴から引きずり出される。
アンタレスが絶叫した。
その声は、もはや蠍の鳴き声ではなかった。
古代の遺跡が軋み、封印が震え、千年単位の飢えが裂ける音だった。
バンはさらに引く。
身体が限界を訴える。
左腕はもう動かない。
右手も血に濡れて滑る。
膝は震え、視界は赤黒く滲む。
それでも、離さない。
「こっちに来い」
赤黒い核が、外へ出た。
瞬間。
白い月光が祭壇から伸びた。
それは鎖ではなかった。
刃でもなかった。
静かな光だった。
月の精霊の残響が、最後の力で赤黒い核を包み込む。
アンタレスの核が、白く燃えた。
音はなかった。
赤黒い光が、静かにほどけていく。
毒が消え、サソリの群れが粒子になり、結晶槍が砂のように崩れる。
アンタレスの巨体が、動きを止めた。
外殻に亀裂が走る。
一つ。
二つ。
無数。
バンはクレシューズを引き戻し、後ろへ下がった。
アンタレスの身体が崩れる。
魔石は残らなかった。
肉も残らなかった。
殻も、毒針も、尾も、すべてが赤黒い魔力と月光の粒子になってほどけていく。
残るものは、何もない。
ただ、月の光だけがあった。
バンはそれを見て、心底不満そうに言った。
「……ほんとに何も残さねぇのかよ」
地下神殿に、静かな笑い声が響いた。
女の声だった。
祭壇の上に、淡い人影が浮かんでいた。
白い髪。
月光の衣。
輪郭の薄い身体。
過去の記憶で見た、月の精霊。
もう、苦しそうではなかった。
彼女はバンを見て、微笑んだ。
ありがとう。
今度は、はっきり聞こえた。
バンは肩をすくめる。
「礼は聞いた」
精霊は少し笑ったように見えた。
あなたは、不思議な人。
「よく言われる」
いいえ。
精霊は首を横に振る。
神の加護もなく、精霊の契約もなく、ただ自分の欲だけでここまで来た。
「飯と酒だ」
それが、あなたの欲?
「あと、泣いてる奴の横で飯食うのは不味い」
精霊は、少しだけ目を伏せた。
長かった。
その声には、千年の疲れがあった。
とても、長かった。
バンは何も言わなかった。
軽口を叩くには、その声は静かすぎた。
精霊の身体が、少しずつ光へ変わっていく。
祭壇の白い月紋様が、最後に大きく輝いた。
地下神殿の赤黒い染みが薄れ、柱に刻まれた古い文字が白く浮かび上がる。
精霊は消える直前、バンへ何かを差し出した。
光の欠片。
いや、香りだった。
甘い果実の香り。
森の奥に実る、月を浴びた果実の香り。
北の泉へ。
精霊の声が囁く。
月戻りの果実が実っています。
果実酒にすると、とても美味しい。
バンの目が細くなった。
「……それを早く言えよ」
精霊は笑った。
初めて、はっきりと笑った。
そして、月光となって消えた。
地下神殿に静けさが戻る。
赤黒い光は消え、白い月光だけが床を照らしていた。
バンはしばらく立っていた。
それから、ふらりと膝をついた。
「っ……」
限界だった。
毒。
月光。
強奪の反動。
フィジカルハントの負荷。
フォックスハントで核を引き抜いた無茶。
全部が身体に返ってきた。
バンは床に座り込み、クレシューズを横に置いた。
「果実酒、ねぇ」
口元に笑みが浮かぶ。
「悪くねぇな」
どれほど時間が経ったのかは分からない。
バンが地下神殿から出た頃には、森の空気が変わっていた。
鳥の声がした。
最初は一羽。
次に、遠くでもう一羽。
虫の羽音もある。
水の流れる音が、前より澄んで聞こえた。
大樹海は、まだ静かだった。
だが、死んだような静けさではない。
眠りから覚める前の静けさだった。
地上の墓標の前で、バンは足を止めた。
苔に覆われた石。
読めない名前。
古い死者たち。
バンは腰の袋を探った。
干し肉はもうない。
酒もない。
代わりに、地下神殿の入口近くで拾った白い小さな花を、墓標の前に置いた。
「肉はなしだ。悪いな」
少しだけ間を置いて、バンは墓標を見下ろした。
「……ったく。手間かけさせやがって」
風が吹いた。
木々の隙間から、月光が落ちる。
夜ではないはずだった。
だが、森の奥だけ、白い光が差したように見えた。
数千年ぶりに、森が月の光を思い出した。
バンはその光を見上げる。
「さて」
北の泉。
月戻りの果実。
果実酒。
行く理由は十分だった。
バンはクレシューズを肩に担ぎ、森の奥へ歩き出した。
「飯にはならなかったけどよ」
口元を上げる。
「酒の情報は残したな。そこは褒めてやるよ、蠍野郎」
大樹海に、鳥の声が戻っていく。
赤い服の旅人は、次の酒を求めて歩き出した。
第18話でした。
これで第三部「エルソスの遺跡・アンタレス編」は一区切りです。
アンタレスは魔石も肉も素材も残さず、赤黒い魔力と月光の粒子になって消滅しました。
解放された月の精霊は、バンへ感謝を告げ、北の泉に実る月戻りの果実と果実酒の話を残して消えていきます。
次回からは、第3.5部「美食都市ポルト・グランデでの準備編」に入ります。