強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第18話です。
第三部「エルソスの遺跡・アンタレス編」の締めになります。
アンタレスを倒し、月の精霊の残響を解放し、そしてバンらしく飯と酒の話で終わる回です。


第18話 果実酒の誘い

切れば終わる。

 

そういう単純な糸ではなかった。

 

アンタレスの胸から祭壇へ伸びる最も太い糸。

それは、月の精霊を喰らう管であり、同時にアンタレスを縛る鎖でもあった。

 

切れば、月の残響は喰われなくなる。

 

だが、封印も壊れる。

 

アンタレスは完全に自由になる。

 

だから、切れない。

 

ただし。

 

バンは口元の血を拭った。

 

「切れねぇなら、盗るもん選べばいいだけだろ」

 

地下神殿には、赤黒く濁った月光が満ちている。

 

白かったはずの石柱は砕け、床には無数の亀裂が走り、そこから小型サソリが這い出していた。祭壇の奥では、月の精霊の残響がかすかに震えている。

 

バンの左腕は、ひどい状態だった。

 

毒を吸い上げたように血管がどす黒く浮き出ている。

クレシューズを握る指先には、薄い霜が張りつき、動かすたびにぱりぱりと割れた。肩口の傷からは血が流れ、その血に赤黒い毒が混じっている。

 

熱い。

冷たい。

痛い。

痺れる。

 

身体中の感覚が、まともではなかった。

 

それでも、立っている。

 

アンタレスは祭壇の前で身を低くした。

 

外殻には月光の白い筋が浮かび、そこを赤黒い毒が侵している。小型サソリを吸収したことで膨れ上がった脚は、床を踏むたびに白い石を砕いた。長く伸びた尾の先には、毒針がある。

 

その針の奥で、赤黒い月が脈打っていた。

 

バンはクレシューズを肩に担いだ。

 

「さて」

 

軽く息を吐く。

 

「下ごしらえは済んだ。あとは焼くだけ、ってな」

 

もちろん、焼ける相手ではない。

 

肉は残らない。

魔石もない。

酒代にもならない。

 

倒してもうまいものは何一つ残らない。

 

だが、こいつが残っている限り、森の水も、果実も、酒も、全部まずくなる。

 

なら、どかす。

 

それだけだった。

 

アンタレスが動いた。

 

結晶槍が、床から生える。

 

一本、二本、十本。

 

赤黒く濁った月光をまとった槍が、バンの行く手を塞ぐ。さらに、天井から小型サソリが降り、床からも群れが押し寄せた。

 

バンは一歩下がらない。

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

気配を消す。

 

殺気を落とす。

呼吸を薄くする。

存在を神殿の影へ溶かす。

 

小型サソリたちの動きが一瞬鈍る。結晶槍の狙いもわずかに乱れた。

 

だが、完全には消えない。

 

アンタレスは神殿そのものと繋がっている。

床がバンの足音を伝える。柱が空気の揺れを拾う。月光が影の位置を暴く。

 

「分かってるよ」

 

バンは笑った。

 

「一瞬ありゃ十分だ」

 

踏み込む。

 

結晶槍の隙間へ滑り込む。

クレシューズを畳み、身体を回転させる。赤黒い槍が頬を裂き、肩を掠める。だが、止まらない。

 

バニシング・キル。

 

高速回転する身体が、槍の間を抜ける。

クレシューズの節が結晶を弾き、砕き、道を作る。

 

バンは祭壇へ向かった。

 

最も太い糸が見える。

 

赤黒い管。

白い月光を吸い上げる通路。

同時に、アンタレスを縛る鎖。

 

切るな、と月の精霊は言った。

 

なら、切らない。

 

バンは左手を伸ばした。

 

「ちょいと、もらうぜ」

 

スナッチ。

 

糸そのものではない。

 

糸の中を流れるものを選ぶ。

 

アンタレスが喰らおうとしている赤黒い流れ。

月の精霊から奪われ、濁り、毒に変わりかけている力。

それだけを、横から盗る。

 

瞬間、バンの左腕が悲鳴を上げた。

 

毒が血管へ噛みつく。

月光の冷たさが骨の奥へ入り込む。

強奪の魔力が、封印と捕食の間に無理やり手を突っ込む。

 

「ぐっ……!」

 

左腕の黒い血管がさらに浮き、指先の霜が手の甲まで広がった。

血が床へ落ちる。

落ちた血が赤黒く泡立ち、すぐに白い月光で冷やされて固まる。

 

普通なら、そこで手を離す。

 

だが、バンは離さない。

 

「料理なら、火加減間違えてるところだな」

 

歯を食いしばりながら、笑う。

 

「けど悪いな。こっちは料理じゃねぇ」

 

盗る。

 

ただし、自分のものにはしない。

 

アンタレスから奪い、祭壇へ流す。

 

濁った月光を、少しずつ白へ返していく。

 

祭壇の紋様が光った。

 

奥から、声が聞こえる。

 

やめて。

 

あなたが壊れる。

 

バンは鼻で笑った。

 

「壊れてねぇよ」

 

口元から血が垂れる。

 

「まだ立ってる」

 

アンタレスが絶叫した。

 

赤黒い光が神殿中に走る。小型サソリたちが一斉に暴れ、結晶槍が乱れ飛ぶ。尾が振り上げられ、毒針がバンへ向かって落ちる。

 

バンは動かない。

 

動けば、流れが切れる。

 

なら、動かない。

 

クレシューズだけを動かす。

 

右手でクレシューズを伸ばし、迫る毒針へ絡めた。

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

狙うのは針ではない。

 

針の奥に溜め込まれた毒の核。

 

前にも盗った。

なら、次も盗れる。

 

赤黒い核が、針の中で暴れる。

 

クレシューズの先端がそれを掴む。

引き抜く。

 

毒がクレシューズを伝い、右腕まで痺れさせた。

 

「っ……!」

 

左右どちらの腕も、まともではなくなる。

 

だが、毒針の光が鈍った。

 

アンタレスの尾がバンの肩を掠め、床へ突き刺さる。

 

完全に避ける余裕はなかった。

肩の肉が裂け、血が飛ぶ。

 

それでも、急所は外れた。

 

バンは盗った毒核を、床へ落とさない。

 

クレシューズの先で絡めたまま、アンタレス本体へ向ける。

 

「自分の味、試してみろよ」

 

毒核を叩き返した。

 

赤黒い核が、アンタレスの胸元へぶつかる。

 

外殻が焼ける。

いや、凍る。

毒と月光が混ざった核が、アンタレス自身の胸を内側から乱した。

 

アンタレスが身をよじる。

 

その一瞬、太い糸の中を流れる捕食の力が弱まった。

 

バンは左手に力を込める。

 

「そこだ」

 

スナッチを深く差し込む。

 

奪う。

 

赤黒い捕食だけを。

白い封印を残したまま。

月の力を、祭壇へ戻す。

 

神殿が白く光った。

 

それは眩しい光ではなかった。

静かで、冷たく、澄んだ光だった。

 

森の奥で一度も見えなかった月が、地下の底に降りてきたような光。

 

月の精霊の声が、はっきり聞こえた。

 

ありがとう。

 

今度は迷わなかった。

 

その声は、確かに礼だった。

 

バンは血を吐き捨てた。

 

「だから、酒でいいって」

 

太い糸が白く変わる。

 

赤黒い毒だけが剥がれ落ちる。

 

アンタレスを縛る鎖は残ったまま、喰らう管だけが千切れていく。

 

アンタレスが悲鳴を上げた。

 

神殿全体が揺れる。

 

祭壇から切り離されたアンタレスの胸の穴が、大きく開いた。

そこにあった赤黒い光が暴れ、行き場を失い、外へ溢れ出す。

 

バンは糸から手を離した。

 

左腕がだらりと下がる。

 

感覚がない。

 

だが、終わっていない。

 

アンタレスはまだ動く。

 

祭壇から捕食の管を剥がされても、身体は残っている。小型サソリの群れも、外殻も、毒針も、結晶槍もある。

 

ただ、もう月の精霊を喰うことはできない。

 

アンタレスの複眼が、バンを見た。

 

憎悪。

 

飢え。

 

怒り。

 

そして、恐怖。

 

バンは笑った。

 

「皿から引っぺがしたぜ」

 

アンタレスが突進した。

 

巨大な脚が床を砕き、尾が天井を裂き、結晶槍が背後から生える。

最後の暴走。

 

祭壇から切り離されたことで、動きは荒くなっていた。だが、威力は落ちていない。むしろ、後先を考えない分だけ危険だった。

 

バンはクレシューズを握り直した。

 

左腕は使い物にならない。

右腕も毒で痺れている。

足は重い。

肺は冷たい。

 

だが、目は見える。

 

アンタレスの胸の穴。

赤黒い捕食の核。

そこへ届けば、終わる。

 

バンは走った。

 

前へ。

 

サソリの群れが足元から跳ぶ。

踏む。砕く。避けない。

結晶槍が肩を掠める。

構わない。

尾が横から迫る。

クレシューズで受け流す。衝撃で身体が横へ流れる。

 

その勢いを利用し、バンはさらに前へ出た。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

フィジカルハント。

 

アンタレスの突進の力。

 

全部は奪えない。

奪えば、身体が壊れる。

だから、流れの端だけを盗る。

 

突進の向きを、ほんの少しずらす。

 

アンタレスの巨体が横へ傾いた。

 

バンの身体にも、反動が来る。

 

膝が砕けそうになる。

左腕の黒い血管が裂け、血が飛ぶ。

右手の指先の霜が砕け、皮膚が破れる。

 

「っ……重ぇな、虫のくせに……!」

 

それでも、道は開いた。

 

アンタレスの胸元。

 

赤黒い穴。

 

バンはクレシューズを伸ばした。

 

獲物狩り《フォックスハント》。

 

狙うのは、心臓ではない。

 

魔石もない。

普通の核もない。

 

なら、盗るのは捕食そのもの。

 

アンタレスが月の精霊を喰らい、封印を汚し、サソリを操り、自分を作り替えてきた赤黒い中心。

 

それを、引き抜く。

 

クレシューズの先端が、胸の穴へ届いた。

 

赤黒い光が噛みつく。

 

拒む。

絡む。

毒が逆流する。

 

バンは笑った。

 

「悪いな」

 

血まみれの口元が歪む。

 

「盗むのは、得意なんだわ」

 

引く。

 

赤黒い核が、胸の穴から引きずり出される。

 

アンタレスが絶叫した。

 

その声は、もはや蠍の鳴き声ではなかった。

古代の遺跡が軋み、封印が震え、千年単位の飢えが裂ける音だった。

 

バンはさらに引く。

 

身体が限界を訴える。

左腕はもう動かない。

右手も血に濡れて滑る。

膝は震え、視界は赤黒く滲む。

 

それでも、離さない。

 

「こっちに来い」

 

赤黒い核が、外へ出た。

 

瞬間。

 

白い月光が祭壇から伸びた。

 

それは鎖ではなかった。

 

刃でもなかった。

 

静かな光だった。

 

月の精霊の残響が、最後の力で赤黒い核を包み込む。

 

アンタレスの核が、白く燃えた。

 

音はなかった。

 

赤黒い光が、静かにほどけていく。

毒が消え、サソリの群れが粒子になり、結晶槍が砂のように崩れる。

 

アンタレスの巨体が、動きを止めた。

 

外殻に亀裂が走る。

 

一つ。

二つ。

無数。

 

バンはクレシューズを引き戻し、後ろへ下がった。

 

アンタレスの身体が崩れる。

 

魔石は残らなかった。

肉も残らなかった。

殻も、毒針も、尾も、すべてが赤黒い魔力と月光の粒子になってほどけていく。

 

残るものは、何もない。

 

ただ、月の光だけがあった。

 

バンはそれを見て、心底不満そうに言った。

 

「……ほんとに何も残さねぇのかよ」

 

地下神殿に、静かな笑い声が響いた。

 

女の声だった。

 

祭壇の上に、淡い人影が浮かんでいた。

 

白い髪。

月光の衣。

輪郭の薄い身体。

 

過去の記憶で見た、月の精霊。

 

もう、苦しそうではなかった。

 

彼女はバンを見て、微笑んだ。

 

ありがとう。

 

今度は、はっきり聞こえた。

 

バンは肩をすくめる。

 

「礼は聞いた」

 

精霊は少し笑ったように見えた。

 

あなたは、不思議な人。

 

「よく言われる」

 

いいえ。

 

精霊は首を横に振る。

 

神の加護もなく、精霊の契約もなく、ただ自分の欲だけでここまで来た。

 

「飯と酒だ」

 

それが、あなたの欲?

 

「あと、泣いてる奴の横で飯食うのは不味い」

 

精霊は、少しだけ目を伏せた。

 

長かった。

 

その声には、千年の疲れがあった。

 

とても、長かった。

 

バンは何も言わなかった。

 

軽口を叩くには、その声は静かすぎた。

 

精霊の身体が、少しずつ光へ変わっていく。

 

祭壇の白い月紋様が、最後に大きく輝いた。

地下神殿の赤黒い染みが薄れ、柱に刻まれた古い文字が白く浮かび上がる。

 

精霊は消える直前、バンへ何かを差し出した。

 

光の欠片。

 

いや、香りだった。

 

甘い果実の香り。

森の奥に実る、月を浴びた果実の香り。

 

北の泉へ。

 

精霊の声が囁く。

 

月戻りの果実が実っています。

 

果実酒にすると、とても美味しい。

 

バンの目が細くなった。

 

「……それを早く言えよ」

 

精霊は笑った。

 

初めて、はっきりと笑った。

 

そして、月光となって消えた。

 

地下神殿に静けさが戻る。

 

赤黒い光は消え、白い月光だけが床を照らしていた。

 

バンはしばらく立っていた。

 

それから、ふらりと膝をついた。

 

「っ……」

 

限界だった。

 

毒。

月光。

強奪の反動。

フィジカルハントの負荷。

フォックスハントで核を引き抜いた無茶。

 

全部が身体に返ってきた。

 

バンは床に座り込み、クレシューズを横に置いた。

 

「果実酒、ねぇ」

 

口元に笑みが浮かぶ。

 

「悪くねぇな」

 

どれほど時間が経ったのかは分からない。

 

バンが地下神殿から出た頃には、森の空気が変わっていた。

 

鳥の声がした。

 

最初は一羽。

次に、遠くでもう一羽。

 

虫の羽音もある。

水の流れる音が、前より澄んで聞こえた。

 

大樹海は、まだ静かだった。

だが、死んだような静けさではない。

 

眠りから覚める前の静けさだった。

 

地上の墓標の前で、バンは足を止めた。

 

苔に覆われた石。

読めない名前。

古い死者たち。

 

バンは腰の袋を探った。

 

干し肉はもうない。

酒もない。

 

代わりに、地下神殿の入口近くで拾った白い小さな花を、墓標の前に置いた。

 

「肉はなしだ。悪いな」

 

少しだけ間を置いて、バンは墓標を見下ろした。

 

「……ったく。手間かけさせやがって」

 

風が吹いた。

 

木々の隙間から、月光が落ちる。

 

夜ではないはずだった。

だが、森の奥だけ、白い光が差したように見えた。

 

数千年ぶりに、森が月の光を思い出した。

 

バンはその光を見上げる。

 

「さて」

 

北の泉。

月戻りの果実。

果実酒。

 

行く理由は十分だった。

 

バンはクレシューズを肩に担ぎ、森の奥へ歩き出した。

 

「飯にはならなかったけどよ」

 

口元を上げる。

 

「酒の情報は残したな。そこは褒めてやるよ、蠍野郎」

 

大樹海に、鳥の声が戻っていく。

 

赤い服の旅人は、次の酒を求めて歩き出した。




第18話でした。
これで第三部「エルソスの遺跡・アンタレス編」は一区切りです。
アンタレスは魔石も肉も素材も残さず、赤黒い魔力と月光の粒子になって消滅しました。
解放された月の精霊は、バンへ感謝を告げ、北の泉に実る月戻りの果実と果実酒の話を残して消えていきます。
次回からは、第3.5部「美食都市ポルト・グランデでの準備編」に入ります。
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