強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第17話です。


第17話 最強の作戦会議

ハルファの朝は、いつもより早く始まった。

 

まだ空が青みを帯びる前から、集落のあちこちで火が焚かれている。

 

ゼウス・ファミリアの鍛冶班が、昨夜のうちに運び込まれた武器を確認していた。

ヘラ・ファミリアの魔導士たちは、集落南側の地面へ杖を立て、結界の基点となる印を刻んでいる。

支援者たちは水袋と食料を班ごとに分け、治療班は酒場裏の空き地を臨時の救護所へ作り変えていた。

 

百人を超える人間が二つの派閥から集まり、さらに現地の砂漠民や商人、護衛たちまで加わっている。

 

それだけの人数が動いているのに、混乱はなかった。

 

命令がある。

 

役割がある。

 

誰がどこへ行き、何を運び、何を守るのか。

 

大まかな形は、すでに昨夜のうちに決められていた。

 

だが、本当に重要な話はこれからだった。

 

ベヒーモスをどう討つのか。

 

そのための作戦会議が、朝食の後に開かれる。

 

バンは酒場裏に置かれた大鍋の前で、豆と羊肉の煮込みをかき混ぜていた。

 

右腕の痺れは、昨日より少しだけ軽い。

 

まだ細かな感覚は鈍いが、木べらを握るくらいなら問題はない。

 

サナはそれを見つけるなり、眉を寄せた。

 

「右手を使っていますね」

 

「木べらだぞ」

 

「昨日、できるだけ使わないでくださいと言いました」

 

「混ぜねぇと焦げるだろ」

 

「左手で混ぜてください」

 

「面倒だな」

 

「怪我を長引かせる方が面倒です」

 

バンは軽く息を吐き、木べらを左手へ持ち替えた。

 

「これでいいか」

 

「最初からそうしてください」

 

サナは満足そうに頷き、隣の鍋へ向かう。

 

その鍋では、セリアが負傷者用の薄い汁を作っていた。

 

塩分は控えめ。

 

香辛料も少ない。

 

噛まずに飲めるよう、豆と根菜は柔らかく煮崩してある。

 

バンは横目で見た。

 

「そっち、味薄すぎねぇか」

 

セリアは穏やかに答える。

 

「怪我人と体調不良者向けです」

 

「少しくらい肉入れた方が力出るだろ」

 

「消化できない者もいます」

 

「じゃあ、肉の汁だけ入れろ」

 

セリアは少し考えた。

 

「それは良いかもしれません」

 

サナが驚いたようにバンを見る。

 

「今日は素直に聞いてもらえましたね」

 

「飯の話なら聞くぞ」

 

「治療の話も聞いてください」

 

「善処する」

 

「それは禁止です」

 

サナの返事は速かった。

 

バンは笑った。

 

少し離れた場所では、ザルドが干し肉を薄く切っていた。

 

大きな手に似合わず、刃の動きは細かい。

 

厚さはほとんど揃っている。

 

横で見ていたナジュが、わずかに目を見開いた。

 

「本当に料理できるんだね」

 

「悪食を極めるなら、美食も知る必要がある」

 

「昨日も聞いたよ」

 

「大事なことだ」

 

ザルドは切った肉を鉄板へ並べる。

 

強い火で表面を焼き、香りが立ったところで一度外す。

 

すぐには鍋へ入れない。

 

余熱を通し、肉汁を落ち着かせてから加える。

 

バンはそれを見て頷く。

 

「手慣れてんな」

 

「食うだけではないと言った」

 

「じゃあ、酒場で働けるな」

 

「断る」

 

「何でだよ」

 

「客より俺が食う」

 

「店が潰れるな」

 

ナジュが真顔で言った。

 

「絶対に雇わないよ」

 

ザルドは少しだけ笑った。

 

朝食の時間になると、班ごとに人が並び始めた。

 

数百人分の飯だ。

 

昨日と同じ鍋だけでは足りない。

 

ゼウス・ファミリアの炊事班が用意した煮込み。

 

ヘラ・ファミリアの支援班が焼いた薄焼きパン。

 

ハルファの住人が作った豆汁。

 

リオードから運ばれた羊肉と干し果実。

 

上等な食事ではない。

 

だが、量があり、温かく、腹へ入る。

 

戦う前の飯としては十分だった。

 

バンの鍋の前へ、灰髪の女性が来る。

 

アルフィア。

 

昨日と同じく目は閉じられている。

 

周囲の団員たちは、彼女が並ぶと自然と少しだけ距離を空けた。

 

バンは椀を受け取る。

 

「肉多めでいいか」

 

「余計なことをするな」

 

「じゃあ普通」

 

「そうしろ」

 

バンは普通より少しだけ肉を多く入れた。

 

アルフィアは椀の中を見る。

 

「多い」

 

「鍋の底に残ってた」

 

「昨日と同じ嘘を使うな」

 

「食わねぇなら返せ」

 

アルフィアは数秒黙り、そのまま椀を持っていった。

 

バンは背中へ声を投げる。

 

「全部食えよ」

 

「黙れ」

 

返事は鋭かった。

 

だが、椀は返ってこなかった。

 

ザルドが横から言う。

 

「お前は命知らずだな」

 

「食わせてるだけだろ」

 

「アルフィアに世話を焼く者は長生きしない」

 

「まだ死んでねぇ」

 

「それを繰り返すつもりか」

 

「便利だからな」

 

ザルドは小さく首を振った。

 

食事が終わると、集落中央の広場に大きな天幕が張られた。

 

作戦会議に使うためだ。

 

全員が入れる大きさではない。

 

参加するのは主神、団長、副団長、幹部、情報役、治療責任者、現地代表。

 

それ以外の団員たちは、各班の隊長を通じて後から命令を受ける。

 

天幕の中央には、砂漠一帯を描いた大きな地図が敷かれていた。

 

ハルファ。

 

リオード。

 

交易路。

 

古い見張り石。

 

崩れた祠。

 

黒砂が確認された範囲。

 

魔物の移動経路。

 

井戸。

 

岩場。

 

砂丘。

 

そして、その先。

 

黒い砂漠の奥は、ほとんど空白だった。

 

地図がないのではない。

 

調べて戻った者が少ない。

 

だから描けない。

 

会議に参加する者が次々と天幕へ入る。

 

ゼウス。

 

ヘラ。

 

マキシム。

 

女帝。

 

パァル。

 

リシェル。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

エルン。

 

ロウム。

 

セリア。

 

ナジュ。

 

ジャミル。

 

サナ。

 

それからバン。

 

バンは天幕へ入るなり、端に置かれた水差しを見た。

 

「酒じゃねぇのか」

 

パァルが即答する。

 

「会議中は水だ」

 

「堅いな」

 

「酔って作戦を決めるよりはいい」

 

ゼウスが小さく手を上げる。

 

「わしは少しくらい――」

 

「駄目です」

 

パァルとリシェルが同時に言った。

 

ゼウスは大人しく手を下ろした。

 

ヘラが冷たい目を向ける。

 

「あなた、出発前にも飲もうとしていたわね」

 

「喉が渇いておっただけじゃ」

 

「水を飲みなさい」

 

「はい」

 

バンは少し笑った。

 

「最高神も大変だな」

 

「お主は他人事のように言うのう」

 

「俺、神様じゃねぇし」

 

「うらやましいわい」

 

「ゼウス」

 

ヘラが名を呼ぶ。

 

ゼウスは口を閉じた。

 

マキシムが地図の前へ立つ。

 

「始める」

 

天幕の空気が変わる。

 

大きな声ではない。

 

それでも全員の意識が、地図へ集中する。

 

マキシムはエルンへ目を向けた。

 

「現状を」

 

「はい」

 

エルンは帳面を開き、地図の脇へ立つ。

 

「黒砂は四日前から拡大速度を増しています。ハルファ南東部では、最初の記録地点から約三日分の徒歩距離に相当する範囲が侵食されました」

 

地図の上へ黒い石を置く。

 

黒砂の縁。

 

以前よりも、ハルファへ近い。

 

「黒砂の進行は一定ではありません。風向き、地形、地下水脈の影響を受けます。ただし、最も大きい要因は地鳴りです」

 

「奥の怪物が動くたび、広がるということか」

 

女帝が問う。

 

「現時点では、その可能性が最も高いと判断します」

 

エルンは別の位置へ石を置く。

 

「黒砂に染まった地上魔物は、少なくとも八種確認されています。砂鼠、砂蜥蜴、黒砂蟲、サンドスキッパー、サンドホーン、ワーム類など。侵食の浅い個体は、黒砂から逃げようとします。深い個体は判断力を失い、動くものへ攻撃を仕掛けます」

 

「群れとして統率されている可能性は」

 

リシェルが聞く。

 

エルンは少し考えて答える。

 

「意図的な命令を受けている証拠はありません。ただし、複数種が同じ方向へ動く例があります。ベヒーモスの呼吸や魔力の波に、無意識に同調している可能性があります」

 

バンが腕を組む。

 

「命令ってより、押されて流されてんだろ」

 

「私もその見方が近いと思います」

 

エルンが頷く。

 

「ただし、黒砂の侵食が深い大型個体には、黒砂が動きを補助する現象が確認されています。欠損を埋め、足場を固め、肉体機能を代替する」

 

アルフィアが静かに言う。

 

「獣そのものではなく、黒砂が肉体を使っているようなものか」

 

「完全にそうとは断定できませんが、近い可能性はあります」

 

ザルドが低く問う。

 

「毒は」

 

セリアが前へ出た。

 

「黒砂に触れた傷は、通常の毒とは異なります。血液へ混ざるというより、身体の魔力と生命力の流れへ食い込みます」

 

サナが持ってきた布袋を開く。

 

中には、少量の黒い砂が入った密封瓶。

 

さらに、以前捕らえた黒砂蜥蜴の観察記録。

 

「侵食が浅い場合、灰と薬草による洗浄で進行を遅らせられます。ですが、完全に取り除けるわけではありません」

 

セリアはバンを見る。

 

「バンさんの《強奪》によって、表層の黒砂を一部抜くことには成功しています」

 

ヘラが指先で地図を軽く叩く。

 

「一部、ね」

 

「ああ」

 

バンは短く答える。

 

「全部やろうとすると、奥のやつまで引っかかる」

 

「奥のものと黒砂が繋がっている?」

 

リシェルが聞く。

 

「たぶんな。黒砂だけ盗ってるつもりでも、でけぇ流れが奥から返ってくる」

 

「その流れを、どこまで感じられる」

 

マキシムが問う。

 

バンは黒い砂漠の空白を見た。

 

「距離は分からねぇ。けど、あいつが動けば分かる。地面の下を力が走る。川みてぇに真っ直ぐじゃねぇ。砂と魔物と水に分かれて、あちこちへ染みる」

 

ジャミルが頷く。

 

「砂漠の地下には、古い水脈がある。黒砂がそこへ入れば、表面に出る場所が読めなくなる」

 

リシェルは地図の井戸へ視線を落とす。

 

「つまり、表面だけを結界で塞ぐのは危険ですね。地下へ逃がせば、水場を失う」

 

「その通りだ」

 

ジャミルが答える。

 

「止めるより、流す場所を決めた方がいい」

 

バンが口元を上げる。

 

「やっぱ、ずらすのが正解だな」

 

リシェルは少しだけ眉を寄せた。

 

「簡単に言わないでください。数百人を守る規模の流れです」

 

「簡単とは言ってねぇよ」

 

「顔が簡単そうです」

 

「顔で決めんな」

 

パァルが間へ入る。

 

「流れの誘導は必要だ。だが、それだけではベヒーモスへ近づけない」

 

マキシムが頷く。

 

「本体の情報が足りん」

 

その一言で、天幕の空気が重くなる。

 

ベヒーモス。

 

誰もが名を知っている。

 

だが、直接見た者は少ない。

 

正確な大きさ。

 

外殻の厚さ。

 

毒の範囲。

 

呼吸の間隔。

 

視覚。

 

聴覚。

 

攻撃方法。

 

魔石の位置。

 

弱点。

 

何一つ、十分には分かっていない。

 

ザルドが言う。

 

「遠方から見た時、山と区別がつかなかった。頭部と思われる箇所だけでも、砦ほどある」

 

ナジュが乾いた声を出す。

 

「砦」

 

「ああ」

 

「そんなものを、本当に倒せるのかい」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

ゼウスが、いつもの軽さを消した声で言う。

 

「倒さねばならん」

 

ナジュはゼウスを見る。

 

「それは、答えになってないね」

 

「ならば、正直に言おう」

 

ゼウスは地図へ目を落とす。

 

「今の段階では、勝てるとは断言できん」

 

天幕の中が静まり返る。

 

最高神が率いる、世界最強の派閥。

 

その主神が、勝利を約束しない。

 

それだけで、相手の重さが分かる。

 

ゼウスは続けた。

 

「じゃが、勝てる形を作るために、ここへ来た」

 

ヘラも静かに口を開く。

 

「数で囲めば勝てる相手ではないわ。むしろ、人が増えるほど毒と黒砂の犠牲が増える。だから、前線に出す人数は絞るべきね」

 

女帝が頷く。

 

「本体へ近づく者は、最高位の冒険者を中心にする。それ以外は外周の魔物、黒砂、補給路を担当させる」

 

「前線を何段階に分ける」

 

パァルが尋ねる。

 

女帝は地図上へ指を置く。

 

「三つ」

 

黒砂の外側。

 

その内側。

 

さらに奥。

 

「第一線はハルファと補給路の防衛。第二線は黒砂地帯での魔物迎撃と退路維持。第三線が本体接触」

 

リシェルが補足する。

 

「第一線には治療と輸送を厚く置きます。第二線には結界班、遠距離攻撃隊、黒砂処理班。第三線は精鋭のみ」

 

ロウムが問う。

 

「第三線の人数は」

 

「多くて三十」

 

女帝が答えた。

 

数百人の軍勢。

 

その中から、本体へ近づくのは三十人ほど。

 

残りは、その三十人を帰すために戦う。

 

マキシムは地図を見たまま言う。

 

「第三線へ入る者は、俺、女帝、ザルド、アルフィア」

 

アルフィアは当然という顔をしている。

 

ザルドも何も言わない。

 

マキシムの視線がバンへ移る。

 

「それから、お前だ」

 

「俺?」

 

「黒砂の流れを変えられる者が必要だ」

 

バンは少し考える。

 

「怪物そのものは盗らねぇぞ」

 

「盗れとは言わん」

 

「じゃあ何盗る」

 

「それを確かめるために、まず見る」

 

バンは黒い空白を見た。

 

先遣。

 

観測。

 

第一次接触。

 

相手を倒すためではない。

 

倒せる場所を探すために、近づく。

 

「飯は持ってくか」

 

女帝が冷たい目を向ける。

 

「命を賭ける話をしているのよ」

 

「腹減ったら判断鈍るだろ」

 

ザルドが頷く。

 

「正しい」

 

女帝がザルドを見る。

 

「あなたまで同調しないで」

 

「補給は必要だ」

 

「言い方の問題よ」

 

バンは笑った。

 

アルフィアが静かに言う。

 

「先遣に余計な荷は不要だ」

 

「お前は食え」

 

「話を戻せ」

 

「食ってからな」

 

「殺すぞ」

 

ヘラが面白そうに二人を見る。

 

「アルフィア。随分と気に入られているのね」

 

「どこを見ればそうなるのですか」

 

「初対面の男と、これほど長く会話するのは珍しいでしょう」

 

「雑音を排除しようとしているだけです」

 

「排除できてないぞ」

 

バンが言う。

 

アルフィアの周囲の空気が鋭くなる。

 

マキシムが低く笑った。

 

「続けるぞ」

 

会議は本題へ戻った。

 

エルンが新しい紙を広げる。

 

「先遣隊の目的を五つに絞ります」

 

一つ。

 

ベヒーモスの位置と姿勢の確認。

 

二つ。

 

毒と黒砂の濃度測定。

 

三つ。

 

安全に退ける経路の確保。

 

四つ。

 

外殻の性質、呼吸、感覚器官の確認。

 

五つ。

 

接触時の反応を観測し、無理をせず撤退する。

 

ナジュが眉を寄せる。

 

「接触するのかい」

 

「遠くから見て帰るだけでは、何も分かりません」

 

エルンが答える。

 

「ただし、討伐はしません」

 

「怪物の方から来たら?」

 

バンが聞く。

 

「逃げます」

 

「簡単に言うな」

 

エルンは小さく笑った。

 

「情報役ですから。逃げて持ち帰るまでが任務です」

 

「いい仕事だな」

 

「ありがとうございます」

 

パァルが参加者を整理する。

 

「先遣の中核は、マキシム、女帝、ザルド、アルフィア、バン。護衛と観測に数名。治療担当は第三線の手前まで」

 

セリアが手を上げる。

 

「私が同行します」

 

「本体接触地点までは出さない」

 

パァルが即答する。

 

「ですが、黒砂の傷は現場で処置しなければ――」

 

「第二線で待機しろ。第三線へ入った治療師が倒れれば、帰還者を救えない」

 

セリアは悔しそうに口を閉じる。

 

サナも何か言おうとした。

 

ナジュが先に肩へ手を置く。

 

「お前も駄目だよ」

 

「でも」

 

「薬師が死んだら、残った怪我人を誰が見る」

 

「……はい」

 

サナは俯く。

 

バンはその様子を見ていた。

 

行きたい。

 

役に立ちたい。

 

置いていかれるのが怖い。

 

けれど、後ろに残ることも戦いだ。

 

マキシムが昨日言ったことと同じだった。

 

前へ出る者だけが戦うわけではない。

 

「戻ったら手当て頼むぞ」

 

バンが言う。

 

サナは顔を上げる。

 

「怪我をしないで戻ってきてください」

 

「それは相手次第だな」

 

「約束してください」

 

「無茶言うな」

 

「約束してください」

 

サナは譲らない。

 

バンは少し困った顔をした。

 

「死なずに戻る」

 

「怪我をしないで、です」

 

「それは無理かもしれねぇ」

 

「……なら、できるだけ少なく」

 

「善処する」

 

「その返事は禁止です」

 

「面倒だな」

 

「誰のせいですか」

 

天幕の何人かが小さく笑った。

 

サナは真剣だった。

 

バンも、今度は少しだけ真面目に答える。

 

「分かった。なるべく傷増やさず戻る」

 

「絶対です」

 

「絶対は無理だ」

 

「そこは言ってください」

 

「じゃあ、絶対」

 

「今の軽いです」

 

「細けぇな」

 

サナは不満そうだったが、少しだけ表情を緩めた。

 

次に、リシェルが結界案を説明する。

 

黒砂を完全に防ぐ壁は作らない。

 

その代わり、地面へ複数の結界路を刻み、黒砂が流れやすい方向を人工的に作る。

 

水脈から遠ざける。

 

退路から遠ざける。

 

負傷者の搬送路へ入れない。

 

「結界の維持には、魔導士班を三交代で配置します」

 

「何人必要だ」

 

女帝が問う。

 

「最低六十。理想は八十」

 

ヘラ・ファミリアの魔導士だけではない。

 

ゼウス側の魔法使いも加える。

 

「両派閥の術式は違う」

 

アルフィアが言う。

 

「統合すれば詠唱と魔力の流れが乱れる」

 

リシェルは頷く。

 

「ですので、結界の核はヘラ側。ゼウス側には基点防衛と魔力供給を任せます」

 

パァルが地図へ印をつける。

 

「それなら混成でも動かせる」

 

リシェルはさらに続ける。

 

「ただし、黒砂の流れが急変した場合、結界だけでは間に合いません」

 

視線がバンへ集まる。

 

バンは嫌そうな顔をした。

 

「俺かよ」

 

「あなたの《強奪》で一時的に流れをずらせるなら、その間に結界を組み替えます」

 

「俺、便利な道具扱いされてねぇか」

 

「現時点では貴重な特殊戦力です」

 

「言い方変えただけだろ」

 

「役割が明確なのは良いことです」

 

「真面目だな」

 

「副団長ですので」

 

また同じ返事だった。

 

バンは少し笑う。

 

「覚えたぞ、それ」

 

「光栄です」

 

次に話題は避難へ移った。

 

ハルファの住人全員をすぐに避難させるべきか。

 

ナジュは地図を見たまま言う。

 

「子ども、老人、病人は先にリオードへ送る。動ける者は残る」

 

パァルが眉をひそめる。

 

「住民を戦場へ残すのは危険だ」

 

「残りたいと言ってるんじゃない。残らないと、あんたたちも困ると言ってるんだよ」

 

ナジュは指で集落周辺を示す。

 

「井戸の場所。水路。風の抜け方。砂が崩れる場所。黒砂が流れ込みやすい溝。全部知ってるのは、ここで暮らしてきた連中だ」

 

ジャミルも加わる。

 

「砂漠船を動かせる者も必要だ。オラリオの冒険者だけでは、黒砂の縁で船を回せん」

 

マキシムは二人を見る。

 

「戦える者だけ残す」

 

「それでいい」

 

ナジュが頷く。

 

「ただし、私も残るよ」

 

サナが驚く。

 

「ナジュさん」

 

「酒場を空にして、誰が飯を出すんだい」

 

パァルが言う。

 

「炊事班はいる」

 

「この砂漠で、あんたたちの炊事班が全員の腹に合う飯を作れるのかい」

 

パァルは少し黙った。

 

ナジュは続ける。

 

「それに、酒場は救護所になる。井戸も近い。怪我人の顔を見て、食えるものを変える奴が必要だ」

 

セリアが静かに頷く。

 

「ナジュさんには残っていただいた方が助かります」

 

サナも、心配そうではあるが反対しなかった。

 

バンはナジュを見る。

 

「やっぱ飯も戦いだな」

 

「昨日から言ってるだろ」

 

「俺が言ったんだよ」

 

「細かいね」

 

バンは笑った。

 

会議は長く続いた。

 

補給量。

 

一日に必要な水。

 

負傷者一人あたりの搬送人数。

 

砂漠船の配置。

 

予備の帆。

 

黒砂に触れた装備の処理。

 

死者が出た場合の回収。

 

魔石を持つダンジョン産モンスターとは違い、地上魔物の死骸が戦場に残ること。

 

死骸が黒砂に染まる前に、どこまで処理できるか。

 

食用にできるものと、できないもの。

 

バンとザルドは、その話になると少しだけ身を乗り出した。

 

エルンが地図とは別に、食材管理表を広げる。

 

「普通の地上魔物を討伐した場合でも、黒砂地帯に長時間置かれた肉は食用禁止とします」

 

バンが不満そうに言う。

 

「時間はどれくらいだ」

 

「現時点では断定できません。安全を取って、一刻以内」

 

「短ぇな」

 

ザルドも眉を寄せる。

 

「皮と甲殻は」

 

「灰と薬草で洗浄した後、隔離。使用判断は後日です」

 

「肉は」

 

「食用禁止です」

 

「まだ黒砂が回っていなくてもか」

 

「検査できない場所では、禁止です」

 

ザルドは少し残念そうだった。

 

女帝が冷たい声で言う。

 

「食事会議ではないのよ」

 

「兵站会議だ」

 

ザルドは真顔で返す。

 

「食料は兵站の中心だ」

 

バンが頷く。

 

「暴喰、いいこと言うな」

 

「お前たちを隣に座らせたのは間違いだったわね」

 

女帝は深く息を吐いた。

 

会議の終盤。

 

マキシムが全員を見渡す。

 

「決める」

 

話し声が止まる。

 

「本日はハルファの陣地化と避難。結界路の構築。補給路の確認」

 

地図上に指を置く。

 

「明朝、先遣隊を出す」

 

空白の黒い砂漠へ向かって。

 

「目的は観測。討伐ではない。ベヒーモスの姿、毒、外殻、動き、距離を測る」

 

マキシムの声は重い。

 

「本体を刺激しすぎた場合、即時撤退。追撃された場合は、第三線が時間を稼ぎ、第二線へ引き込む。第二線が魔物と黒砂を分断。第一線は負傷者を収容し、ハルファを守る」

 

女帝が続ける。

 

「自分の役割を勘違いしないこと。先遣は英雄になる場ではない。情報を持ち帰ることが勝利よ」

 

アルフィアが静かに言う。

 

「怪物の前で足が止まる者は来るな。恐怖で動けなくなる者は、後方で働け」

 

厳しい言葉だった。

 

だが、侮蔑ではない。

 

生き残るための線引き。

 

ザルドも低く言う。

 

「喰らい合いはまだ先だ。明日は獲物の大きさを見るだけだ」

 

「お前が言うと、本当に食う話に聞こえるな」

 

バンが言う。

 

「食う話だ」

 

「否定しねぇのか」

 

「ベヒーモスを討つなら、いずれ喰らう」

 

ザルドの声に冗談はなかった。

 

バンは一瞬だけザルドを見る。

 

ただの言い回しではない。

 

この男は、本当に必要なら怪物を喰うつもりだ。

 

力を得るため。

 

勝つため。

 

毒ごと。

 

代償ごと。

 

バンは何も言わなかった。

 

今はまだ、その時ではない。

 

会議が終わる。

 

全員が立ち上がる。

 

各班へ命令を伝えるため、隊長たちが天幕を出ていく。

 

外ではすでに、結界班が地面へ線を刻み始めていた。

 

重装前衛隊が岩場へ向かう。

 

治療班が担架を並べる。

 

支援者たちは避難用の水と食料を分ける。

 

数百人が、作戦という一つの形に沿って動き始める。

 

バンは天幕を出る前に、水差しを取って飲んだ。

 

「酒じゃねぇのが残念だな」

 

パァルが答える。

 

「作戦が終わったら飲め」

 

「明日?」

 

「無事に戻ればな」

 

「じゃあ戻るか」

 

パァルは少しだけ笑った。

 

「それくらい単純な方が助かる」

 

外へ出ると、強い日差しが目へ入る。

 

黒い砂漠は、昨日と変わらずそこにある。

 

だが、ハルファ側は大きく変わっていた。

 

旗。

 

天幕。

 

武器。

 

水。

 

薬。

 

結界。

 

砂漠船。

 

数百人の人間。

 

眠る災害を討つための戦場が、形を持ち始めている。

 

バンはその光景を眺めた。

 

「随分でけぇ話になったな」

 

隣にアルフィアが立っていた。

 

いつ来たのか分からなかった。

 

目を閉じたまま、黒い砂漠を見ている。

 

「今更気づいたのか」

 

「旅して飯食ってただけなんだけどな」

 

「それで三大クエストへ首を突っ込む者を、愚か者と言う」

 

「お前も行くんだろ」

 

「私はこのために力を得た」

 

「怪物倒すためか」

 

「そうだ」

 

即答だった。

 

アルフィアの顔に迷いはない。

 

けれど、バンはその横顔を見る。

 

白い肌。

 

浅い呼吸。

 

巨大な魔力。

 

脆い身体。

 

「死ぬためじゃねぇよな」

 

バンが言う。

 

アルフィアの眉がわずかに動く。

 

「何が言いたい」

 

「お前、命削るのを勘定に入れてんだろ」

 

「必要なら削る」

 

「気に入らねぇな」

 

「お前に気に入られる必要はない」

 

「それもそうだ」

 

バンは肩をすくめた。

 

アルフィアは歩き出そうとする。

 

バンが背中へ声をかける。

 

「昼飯は食えよ」

 

「黙れ」

 

「肉あるぞ」

 

「要らん」

 

「じゃあ豆」

 

「お前を埋めるぞ」

 

「先に怪物見てからにしろよ」

 

アルフィアは振り返らずに離れていった。

 

その足取りは軽い。

 

だが、ほんの少しだけ呼吸が乱れていた。

 

バンはそれを見送り、頭をかく。

 

「面倒な女だな」

 

ザルドが後ろから言う。

 

「お前が言うな」

 

「聞いてたのか」

 

「聞こえた」

 

「耳いいな」

 

「お前たちが騒がしい」

 

「アルフィアに言うなよ。殺されるぞ」

 

「俺は何度も言っている」

 

「生きてるじゃねぇか」

 

「俺だからだ」

 

「なるほどな」

 

ザルドは黒い砂漠を見る。

 

「明日、姿を見る」

 

「ああ」

 

「見て、どう思うか」

 

「何が」

 

「逃げるか、残るか」

 

バンは少しだけ笑った。

 

「逃げた方がいいなら逃げるぞ」

 

「そうか」

 

「でもな」

 

黒砂の向こうから、低い地鳴りが届く。

 

まだ遠い。

 

それでも大地が震える。

 

結界用の杭がわずかに鳴る。

 

作業中の団員たちが、一瞬だけ手を止める。

 

バンはその音を聞きながら言った。

 

「逃げた後の飯がまずそうなら、たぶん戻ってくる」

 

ザルドの口元がわずかに上がった。

 

「分かりやすい」

 

「だろ」

 

黒い砂漠の奥で、眠る巨獣が息をする。

 

ハルファでは、数百人がその呼吸に負けないよう、杭を打ち、武器を研ぎ、水を運び、飯を作っている。

 

明日。

 

神時代最強の英傑たちは、初めて災害の全貌を見る。

 

だが、今はまだ。

 

黒砂の縁に立つ軍勢は、戦うための一日を積み上げていた。




第17話でした。

今回は、ベヒーモス討伐へ向けた作戦会議を中心に、数百人規模の本隊を三つの戦線へ分け、それぞれが補給・防衛・観測・治療などを担う形に整理しました。

また、先遣隊の目的は討伐ではなく、ベヒーモスの情報を持ち帰ることとしています。
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