今回は、バンが初めてこの世界の人里に入り、飯と酒と狩りで村人たちと関わっていく話です。
ダンまち世界の住人から見た「魔石を拾わず、野兎を焼いていた男」の異様さも少し入れています。
煙を目印に歩き続けると、草原の向こうに小さな村が見えてきた。
木の柵に囲まれた、素朴な村だった。
石造りではない。ほとんどが木と土壁で作られた家だ。屋根には干し草が積まれ、家々の隙間には薪が重ねられている。村の中心には古びた井戸があり、そのそばで女たちが桶を運んでいた。
夕暮れの薄い光の中、かまどの煙が細く伸びている。
バンはその匂いを嗅いだ。
「……煮込みか」
肉の匂いは薄い。
野菜と豆、それから少し焦げた麦の匂い。腹を鳴らすほど強い匂いではないが、少なくとも人の飯の匂いだった。
村の入口に近づくと、見張りらしい若い男がこちらに気づいた。
槍を持っている。とはいえ、刃は古く、柄も少し歪んでいた。戦い慣れた兵士というより、村を守るために仕方なく立っている若者だ。
「止まれ! どこの者だ!」
声は大きいが、膝が少し震えている。
バンは足を止めた。
両手を軽く上げる。
「旅人だ。飯と酒がありゃ助かる」
「……旅人?」
若者はバンを上から下まで見た。
エンジ色のロングコート。胸元の開いた高襟。スタッズ付きの赤いレザーパンツ。太い茶革のベルトと銀のバックル。草原の辺境に現れるには、あまりにも目立つ格好だった。
「その格好でか?」
「悪いか?」
「いや……悪いっていうか……」
若者は言葉に詰まった。
怪しい。明らかに怪しい。だが、盗賊にしては一人だ。貴族にしては身なりが荒い。冒険者にしては武器がない。
判断に困っていると、井戸のそばにいた中年の男が近づいてきた。髭を生やし、肩幅が広い。村長か、それに近い立場の男らしい。
「何者だ?」
「だから旅人だって。昨日から歩きっぱなしでな。酒が飲めるなら、金は……」
バンはそこで少し考えた。
金。
ない。
この世界の金など持っているはずがない。
「……金はねぇな」
若者が槍を構え直した。
「おい!」
「でも腕はあるぜ。飯の代わりに何かやってやるよ」
村長らしき男は、さらに怪しむように目を細めた。
「冒険者か?」
「知らねぇな。その冒険者ってのは、飯が出るのか?」
「……違うのか」
男たちは顔を見合わせた。
この世界で、武器を持たずに草原を歩く者は少ない。
周囲には魔物が出る。低級とはいえ、普通の村人には十分すぎる脅威だ。旅人なら護衛を雇う。冒険者なら魔石を集める。商人なら荷がある。
だが目の前の男には、荷も、護衛も、武器も、魔石袋もない。
あるのは、妙に堂々とした態度と、腹を空かせた顔だけだった。
「道中で魔物に会わなかったのか?」
「会ったぜ。三匹くらい」
「……倒したのか?」
「ああ」
「魔石は?」
「石なら捨てた」
村人たちの空気が止まった。
若者が、ぽかんと口を開ける。
「捨てた?」
「食えねぇだろ、あれ」
「魔石を……食う?」
「倒したら灰になりやがってな。肉も骨も残らねぇ。だから野兎を焼いて食った」
今度こそ、村人たちは完全に固まった。
魔物を倒して魔石を拾わず、野兎を狩って焼いていた男。
彼らからすれば、それはあまりにも奇妙だった。
魔石は金になる。
村にとっても、冒険者にとっても、魔物討伐とは危険と引き換えの収入だ。魔石は貨幣と同じような価値を持つ。拾わないなど、まともな者のすることではない。
それを、目の前の男は「食えねぇから」と言った。
村長はしばらくバンを見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「……とりあえず、酒場へ来い」
「あるのか、酒」
バンの目が少し輝いた。
「薄い濁り酒くらいならな」
「十分だ」
こうして、バンは村の中へ通された。
村の酒場は、酒場というより集会所に近かった。
太い梁の下に、古い木の机が三つ。壁には農具や狩猟用の弓が掛けられている。奥には小さなかまどがあり、大鍋から湯気が上がっていた。
出されたのは、黒パン、野菜のスープ、薄く切った干し肉。そして木の杯に入った濁り酒だった。
バンは濁り酒を一口飲む。
「薄いな」
村長の眉が動く。
「文句か?」
「いや。水よりはいい」
そう言って、バンはもう一口飲んだ。
酸味が強い。舌に残る渋みもある。だが、酒は酒だ。
「悪くねぇ」
その一言で、酒場の空気がほんの少しだけ緩んだ。
バンは黒パンを裂き、スープに浸して食べた。
硬い。味は薄い。野菜は煮崩れ、豆は少し粉っぽい。干し肉は塩気が強すぎる。
だが、温かい。
旅の一日目としては、上等だった。
「で、何をすりゃ飯代になる?」
バンが聞くと、村長は腕を組んだ。
「薪割りでも、柵の修理でも、魔物退治でも、できることはある」
「魔物退治はやめとけ。どうせ石しか残らねぇ」
「普通はその石が大事なんだ」
「そうなのか?」
バンは心底どうでもよさそうに言った。
村人たちがまた微妙な顔をする。
その時だった。
外で、悲鳴が上がった。
続いて、柵の向こうから大きな音が響く。
木が折れる音。獣の唸り。地面を蹴る重い足音。
酒場の空気が一瞬で変わった。
「また来たか!」
村長が立ち上がる。
若者たちが槍や弓を取って外へ走った。
バンも杯を置き、ゆっくりと立ち上がる。
「何だ?」
「大イノシシだ。最近、山から下りてくる。柵を壊して畑を荒らすんだ」
「イノシシ?」
バンの目つきが変わった。
「食えんのか?」
村長は一瞬、何を聞かれたのか分からない顔をした。
「……食える。だが、でかいぞ。普通のイノシシじゃない。下手に近づけば腹を裂かれる」
「食えるなら十分だ」
バンは外へ出た。
村の外れでは、柵の一部が壊されていた。
その向こうに、巨大な影がいる。
大イノシシ。
確かにでかい。
普通の獣の二倍、いや三倍はある。黒褐色の剛毛。曲がった牙。太い首。地面を掘る蹄。鼻息だけで土埃が舞う。
畑には踏み荒らされた野菜が散らばり、村人たちが距離を取って弓を構えている。
矢は何本か刺さっているが、分厚い脂と筋肉に阻まれ、深くは届いていない。
「下がれ!」
村長が叫ぶ。
大イノシシが突進した。
若者の一人が逃げ遅れる。
バンは、地面を蹴った。
赤い影が、若者の前に入る。
「おい、ちょっと借りるぜ」
「え?」
バンは若者の襟首を掴み、横へ放り投げた。
次の瞬間、大イノシシの牙がバンに迫る。
バンは左手で牙を掴んだ。
衝撃が地面を揺らす。
土がめくれ、バンの足元に二本の溝が刻まれた。
村人たちが息を呑む。
大イノシシは唸り、さらに押し込もうとする。
普通なら人間の身体など弾き飛ばされる。腹を裂かれ、柵ごと潰される。
だが、バンは動かなかった。
「おお、力あるじゃねぇか」
楽しそうに言い、バンは牙を握る手に力を込めた。
軋む音がした。
大イノシシの身体が、ほんのわずかに浮く。
次の瞬間、バンはその巨体を横へ投げた。
轟音。
大イノシシが地面に叩きつけられ、土煙が上がる。
村人たちは声を失った。
バンは倒れた大イノシシへ近づく。
イノシシはまだ生きていた。暴れようと脚を動かす。
「悪いな。腹減ってんだ」
バンはその首筋へ手刀を落とした。
骨が折れる鈍い音。
大イノシシの身体から力が抜けた。
村の外が静まり返る。
誰も動けない。
誰も言葉を出せない。
バンだけが、倒れた獲物を見下ろして満足そうに頷いた。
「こいつは肉になるな」
その一言で、ようやく村長が我に返った。
「お、お前……何者だ?」
「だから旅人だって」
バンは大イノシシの脚を掴む。
「で、どこで捌く?」
そこからのバンの動きは、戦いよりも村人たちを驚かせた。
まず血を抜く。
太い首の血管を正確に切り、獣を傾ける。血が土へ流れ、鉄臭い匂いが広がる。
次に腹を開く。
内臓を傷つけないように手早く取り出し、食えるものと捨てるものを分ける。
皮を剥ぐ。
剛毛と分厚い皮を、慣れた手つきで剥がしていく。
肉を部位ごとに分ける。
肩、腿、腹、背、肋骨。骨付きのまま焼くところ、煮込みに向くところ、脂を取るところ。
村の女たちが思わず近づいて見ていた。
「……あんた、本当に旅人かい?」
「旅してりゃ、捌くくらい覚えるだろ」
「普通は覚えないよ」
「そうか?」
バンは本気で不思議そうに返した。
酒場の裏に大きな火が起こされた。
村人たちは鍋を運び、串を削り、香草や根菜を集めた。貯蔵庫から塩と少しの酒が出される。
バンはそれを見て、口元を上げた。
「あるじゃねぇか、塩」
「貴重なんだぞ」
「肉がある時に使わねぇで、いつ使うんだよ」
そう言って、バンは調理を始めた。
まずは脂身の香草焼き。
腹の脂が乗った部分に塩をすり込み、潰した香草をまぶす。
串に刺して火にかざすと、脂が透明な滴になって落ちた。火が跳ね、香草の匂いが広がる。
次に骨付き肉の豪快焼き。
肋骨についた肉を大きく切り出し、酒を少しかけて臭みを飛ばす。表面に塩を振り、強火で焼き目をつける。肉の表面が焦げ、脂が弾けるたび、村の子どもたちが目を輝かせた。
最後に、イノシシの具だくさん煮込み。
硬い部位を小さく切り、豆、根菜、野草と一緒に大鍋へ入れる。骨も叩き割って入れた。煮込むほど、白く濁った旨味が出る。
バンは鍋をかき混ぜ、味を見る。
「薄いな。塩もう少し」
「使いすぎだ」
「うまい飯にケチるな」
村長が渋い顔をしたが、結局塩を足した。
その後、鍋の匂いが変わった。
ぼやけていた味が、急に輪郭を持つ。
肉の脂、豆の甘み、根菜の土っぽい香り、香草の青さ。全部がまとまり、腹の奥を刺激する匂いになった。
村人たちの喉が鳴る。
バンは笑った。
「ほらな」
やがて、村の中心に人が集まった。
最初は警戒していた者たちも、焼けた肉の匂いには勝てなかった。
子どもたちは骨付き肉を見て跳ね、老人たちは煮込みの鍋を覗き込み、若者たちは濁り酒の樽を運び出した。
夜が来るころには、村は小さな宴になっていた。
バンは火のそばで肉を焼きながら、村人たちに次々と料理を渡す。
「熱いぞ。落とすなよ」
「うまい!」
子どもの一人が叫んだ。
その声を聞いて、村人たちが笑った。
硬かった空気が、少しずつほどけていく。
村長も煮込みを一口食べ、しばらく黙った。
「……うまいな」
「だろ?」
「腹立つくらいにな」
「褒め言葉だな」
バンは濁り酒を飲んだ。
やはり薄い。だが、脂の強い肉にはよく合った。口の中を軽く流し、また肉を食いたくなる。
「悪くねぇ」
バンがそう言うと、村長は少しだけ笑った。
「飯代にはなったか?」
「飯どころか、村中の礼になった」
「大げさだな。食える獣を狩っただけだろ」
「普通は、あんなものを素手で止めん」
村長は真顔で言った。
村人たちも頷いている。
バンは肩をすくめた。
「武器がねぇからな」
「武器なしでやる方がおかしいんだ」
「そうか?」
「そうだ」
そこへ、昼間の若者が近づいてきた。
バンに襟首を掴まれて投げられた若者だ。
「あ、あの……助かった。ありがとう」
「礼なら肉食っとけ。冷めるぞ」
「いや、でも」
「腹減ってんだろ?」
若者は少し迷い、骨付き肉を受け取った。
一口かじり、目を見開く。
「……うまい」
「だろ」
バンは満足そうに笑った。
宴が進むにつれ、村人たちは少しずつバンに話しかけるようになった。
「赤コートの兄ちゃん、どこから来たんだ?」
「遠くからだ」
「どれくらい遠く?」
「たぶん、かなり」
「なんだそれ」
笑い声が上がる。
別の老人が、バンの前に座った。
「オラリオへ行くのか?」
「オラリオ?」
「知らんのか。迷宮都市だ。世界中の冒険者が集まる。神々のファミリアも、あそこに多い」
「神様ってのは、本当に歩いてんのか?」
老人は不思議そうな顔をした。
「当たり前だろう。下界に降りた神々が、眷属に恩恵を与える。背中に神聖文字を刻まれた者が冒険者になる」
「へぇ」
バンは酒を飲む。
「背中に字を書かれりゃ強くなんのか」
「簡単に言えばな。レベル、アビリティ、スキル、魔法。そういうものが与えられる」
「面倒くせぇな」
バンは心底そう思って言った。
老人は苦笑した。
「面倒でも、それがこの世界で強くなる道だ。魔物を倒し、魔石やドロップアイテムを持ち帰る。冒険者はそれで稼ぐ」
「だから石を拾えって話か」
「そうだ。お前さんが捨てた魔石も、持ち帰れば金になった」
「金より肉の方が大事だろ」
「普通は金で肉を買うんだ」
「ああ、そういう考え方もあるか」
村人たちはまた妙な顔をした。
バンにとって、狩りは食うためのものだった。
だが、この世界の人間にとって魔物討伐は、魔石を得るための経済活動でもある。
倒して食えないなら価値がない、というバンの考えは、この世界ではかなりズレている。
それでもバンは気にしない。
「ま、次からは拾っとくか。酒代になるならな」
その言葉に、老人は頷いた。
「それがいい。石は食えんが、酒には変わる」
「それなら悪くねぇ」
バンはようやく魔石に興味を持った。
酒に変わるなら、話は別だ。
村長が言った。
「しばらくこの村にいるか? 寝床くらいなら用意できる」
「ありがてぇが、明日には出る」
「どこへ?」
「酒と情報が多い場所だな。あと、俺の武器を探さねぇと」
「武器?」
「ああ。四つに分かれる棒みてぇなやつだ。見かけたら教えてくれ」
村人たちは顔を見合わせたが、誰も心当たりはないようだった。
「オラリオへ行けば、情報はあるかもしれん」
老人が言った。
「人も物も集まる。変わった武器なら、どこかの市に流れていることもある」
「なら、そっちだな」
バンは濁り酒を飲み干した。
薄い。
だが、今日の肉と合わせるなら悪くない。
村の子どもたちは、腹いっぱいになって火のそばで眠り始めている。
若者たちはまだ肉を食い、女たちは鍋を分け、老人たちは酒を少しずつ飲んでいる。
大イノシシに怯えていた村に、笑い声が戻っていた。
バンはその様子を眺め、少しだけ目を細めた。
英雄になるつもりはない。
誰かに感謝されるために動いたわけでもない。
ただ、腹が減っていた。
食える獣がいた。
狩って、焼いて、煮込んだ。
それだけだ。
それだけで、人が笑うなら悪くない。
村長が、バンの杯に濁り酒を注いだ。
「改めて礼を言う。助かった」
「飯食わせてもらったしな」
「それだけで、あれを狩ったのか?」
バンは杯を持ち上げる。
「飯の礼だった」
そう言って、バンは薄い濁り酒を飲んだ。
火が弾ける。
肉の匂いが夜の村に残る。
この世界に来て、最初の夜。
バンは、少しだけこの世界のことを知った。
神が歩き、恩恵で人が強くなる世界。
魔物を倒せば肉ではなく石が残り、その石が酒代になる世界。
変な世界だ。
だが、飯は食える。
酒もある。
人は笑う。
なら、旅をするには十分だった。
第2話は、バンが初めて人里に入り、この世界の価値観とのズレを見せる回でした。
次回は、神・ファミリア・恩恵・オラリオについて、もう少し具体的に知っていく話になります。