強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第19話です。
ここから第3.5部「美食都市ポルト・グランデ」に入ります。
アンタレス編の余韻を残しつつ、バンらしく次の酒と飯へ向かう回です。


第3.5部 美食都市ポルト・グランデ
第19話 月戻りの果実


大樹海は、目を覚まし始めていた。

 

鳥の声がする。

 

まだ多くはない。枝の上で一羽が鳴き、それに答えるように遠くの木立からもう一羽が鳴く。虫の羽音が葉の裏で震え、湿った土の匂いが風に混じった。

 

少し前まで、この森は息を潜めていた。

 

生き物がいないわけではない。木も、苔も、根も、そこにあった。だが、どこかで大きな手に喉を押さえられているように、森全体が静まり返っていた。

 

今は違う。

 

まだ弱い。

まだ傷だらけだ。

だが、森は確かに息をしている。

 

バンは木々の間を歩いていた。

 

エンジ色のロングコートはところどころ裂け、赤いレザーパンツには白い石粉と黒い毒の染みが残っている。太い茶革のベルトも、銀のバックルも、地下神殿の埃をかぶっていた。

 

左腕は、ほとんど使い物にならない。

 

肩から指先にかけて、鈍い痛みと冷たい痺れが絡みついている。血管はまだ黒ずんで浮き、指を動かすたびに皮膚の下を細い針が這うような感覚があった。

 

クレシューズは右肩に担いでいる。

 

左で持てば、たぶん落とす。

 

「……ったく。酒の情報ひとつ聞くのに、どんだけ払わせんだよ」

 

バンはぼやいた。

 

もちろん、本気で怒っているわけではない。

 

月の精霊が最後に残した言葉。

 

北の泉。

月戻りの果実。

果実酒にすると美味しい。

 

それだけを頼りに、バンは森の北へ向かっていた。

 

地図はない。

 

道もない。

 

ただ、森の空気が変わる方へ歩く。

 

妙なことに、迷う気はしなかった。木々の隙間から差し込む白い光が、細い糸のように先へ続いている。昼のはずなのに、その光だけは夜の月光のように冷たく澄んでいた。

 

「案内までつけてくれるとは、気が利くじゃねぇか」

 

バンは笑う。

 

その直後、左腕に痛みが走った。

 

「っ……」

 

足が止まる。

 

黒ずんだ血管が脈打ち、指先の霜のような白さが少しだけ濃くなった。アンタレスの毒は、まだ完全に抜けていない。月の力を無理やり身体に通したせいで、毒と冷たさが混ざって残っている。

 

不死身ではない。

 

傷は残る。

毒は回る。

血を流せば、身体は重くなる。

 

それでも、バンは左腕を軽く振った。

 

「まだ付いてんのか。しつこい味だな」

 

文句を言いながら歩き出す。

 

しばらくして、森が開けた。

 

そこに泉があった。

 

大きくはない。木々に囲まれた、静かな泉だ。水面は鏡のように澄み、底の白い石まで見える。泉の周囲には淡い光を帯びた草が生え、風が吹くたびに銀色の粒が舞った。

 

泉の奥に、一本の木が立っている。

 

他の木より低い。幹は白く、枝は細く、葉は深い緑の中に銀の縁を持っていた。

 

その枝に、果実が実っていた。

 

丸い果実。

 

大きさは林檎ほど。皮は薄い青白さを帯び、光の角度によって淡い金色に見える。昼間なのに、果実の表面には月明かりを閉じ込めたような輝きがあった。

 

バンは近づき、鼻を鳴らす。

 

甘い香り。

 

ただ甘いだけではない。森の水気、夜露、少しの酸味、白い花の香り。それから、奥にほのかな酒の気配がある。まだ発酵していないのに、出来上がった果実酒の姿が見えるような香りだった。

 

「へぇ」

 

バンの口元が上がる。

 

「これは当たりだな」

 

右手を伸ばす。

 

だが、左腕が使えないため、枝を押さえられない。右手だけで果実を取ろうとすると、枝がしなって逃げる。

 

バンは少し無言になった。

 

もう一度、右手を伸ばす。

 

枝が逃げる。

 

さらにもう一度。

 

枝が逃げる。

 

「……」

 

バンはクレシューズを使おうとして、やめた。

 

下手に叩けば果実が傷む。

この手の果実は、皮を傷つけると香りが逃げる。まして、酒にするつもりならなおさらだ。

 

「あー、くそ」

 

バンは舌打ちした。

 

「左手が使えねぇと、飯の前から面倒だな」

 

仕方なく、右手だけで枝の揺れを読み、果実が戻る瞬間に指をかける。力を入れすぎない。皮を押し潰さず、枝との付け根だけを軽くひねる。

 

ぷつり。

 

果実が取れた。

 

バンはそれを掌に乗せ、じっと見る。

 

表面は少し冷たい。だが、ただ冷たいのではなく、泉の水を吸ったような柔らかな冷たさだ。指先に残る香りが、少しずつ変わる。甘み、酸味、白い花、夜露、そして最後に淡い酒気。

 

「月戻りの果実、ねぇ」

 

バンは果実を軽くかじった。

 

皮が薄く破れる。

 

果汁が口の中に広がった。

 

甘い。

けれど、重くない。

舌の上でほどけ、喉へ落ちると、冷たい月光を飲み込んだような感覚が残る。

 

次の瞬間、左腕が熱を持った。

 

「っ……?」

 

バンは眉を寄せる。

 

黒ずんだ血管の中を、白い光が細く流れた。皮膚の下で蠢いていた赤黒い毒が、その光に押されるように薄くなっていく。指先に張りついていた霜が、ぱり、と割れて落ちた。

 

完全に治ったわけではない。

 

肉は裂けている。

筋は痛む。

肩から手首まで、まともに力は入らない。

 

だが、毒の嫌な冷たさが引いた。

 

赤黒い異物感が、ただの傷の痛みに変わっていく。

 

バンは口の中の果汁を飲み込み、泉を見た。

 

「なるほどな」

 

口元に笑みが浮かぶ。

 

「あの精霊、ただの酒の情報を寄越したわけじゃねぇのか」

 

バンは泉の水をすくった。

 

右手だけで水を扱うのは面倒だったが、どうにか左腕へかける。冷たい水が傷に触れた瞬間、毒の残りがじわりと滲み出した。

 

水面に赤黒い筋が落ちる。

 

すぐに、泉の中で白く薄まり、消えた。

 

「いい水だ」

 

バンは腕を見下ろす。

 

黒ずんでいた血管は、まだうっすら残っている。

だが、さっきよりはずっとましだ。

 

毒が抜けた。

月光の異物感も薄れた。

 

つまり、残ったのはただの重傷だ。

 

「ただの重傷なら、飯食って寝りゃ治るな」

 

自分で言って、少し笑った。

 

普通の人間が聞けば怒る言葉だが、バンにとってはそういうものだった。

 

ただし、不死身ではない。

 

治るには肉がいる。

血を作る飯がいる。

身体を温める酒がいる。

 

そして、今ここにあるのは果実だけだった。

 

バンは月戻りの果実をさらにいくつか取った。

 

右手だけでの収穫は面倒だった。片手で枝を押さえ、指先だけで付け根をひねる。何度か失敗しそうになるたび、バンは顔をしかめた。

 

「手間かけさせやがって」

 

だが、果実には傷をつけない。

 

一つ一つ、丁寧に袋へ入れる。

 

戦い方は荒い。

言葉も荒い。

だが、食材の扱いだけは雑にしない。

 

バンは最後の一つを取ると、泉のそばに腰を下ろした。

 

果実を一つ割る。

 

中の果肉は白く、中心に淡い金色の筋が入っていた。種は小さく、透明に近い。

 

バンは少しだけ果肉を舌に乗せる。

 

「……普通の樽じゃ駄目だな」

 

呟く。

 

この果実は香りが細い。

だが、弱いわけではない。繊細で、逃げやすい。雑な木樽に入れれば、木の匂いに負ける。石の壺では冷たすぎて、甘みが閉じる。森の木を使った樽では、青臭さが移る。

 

必要なのは、潮を少し吸った木。

 

海風で余計な青さが抜け、樽の中に柔らかい塩気が残っている古い木だ。

それから、この果実の冷たい甘みを壊さない酵母。

 

強い酒にするのではない。

香りを残したまま、静かに発酵させる。

 

「あー、くそ」

 

バンは頭をかいた。

 

「いい果実ほど、面倒な仕込みがいるんだよな」

 

泉の水も使える。

 

だが、この森だけで完璧には仕込めない。

樽が足りない。

酵母が足りない。

果実の香りを逃がさず寝かせる場所が足りない。

 

バンは果実を袋にしまい、立ち上がった。

 

「海風を吸った樽……港町だな」

 

そう考えたところで、森の外から声がした。

 

「おーい!兄ちゃん、生きてるかー!」

 

軽い男の声だった。

 

バンが振り返ると、木々の間から一人の旅人が顔を出した。背中に荷物を背負い、腰に短剣を下げた中年の男だ。商人とも猟師ともつかない格好をしている。

 

男はバンの姿を見るなり、目を丸くした。

 

「うわっ、ひでぇ格好だな。魔物にでも襲われたのか?」

 

「ちょっと虫と遊んだだけだ」

 

「その怪我で遊び扱いかよ……」

 

男は呆れたように言いながら、泉へ近づいた。

 

そして、バンの袋から覗く月戻りの果実を見て、息を呑む。

 

「おい、それ……月戻りの果実じゃねぇか」

 

「知ってんのか?」

 

「知ってるも何も、幻の果実だぞ。エルソスの森が死にかけてから、ほとんど見つからなくなったやつだ。昔はそれで造った果実酒が王侯貴族にまで流れてたって話だが……」

 

男は果実をまじまじと見る。

 

「まさか、まだ実ってたとはな」

 

「酒にする」

 

バンは即答した。

 

男は数秒黙った。

 

「……まあ、そうなるか」

 

「海風を吸った樽と、合う酵母がいる。どっかにあるか?」

 

男は少し考え、それから南西の方角を指した。

 

「それならポルト・グランデだな」

 

「ポルト・グランデ?」

 

「美食都市だよ。港町で、料理人と酒造り職人と食材商人が山ほどいる。海風を吸った古樽ならあそこが一番だ。魚醤の蔵、果実酒の蔵、香辛料倉庫、何でもある」

 

バンの目が少し細くなった。

 

「飯は?」

 

「山ほどある」

 

「酒は?」

 

「もっとある」

 

「肉は?」

 

「海獣肉も深海魚も、串焼きも鍋もある」

 

バンは即座に歩き出した。

 

男が慌てて声を上げる。

 

「待て待て待て!方向が違う!そっちは崖だ!」

 

バンは止まった。

 

「先に言え」

 

「いや、今言っただろ!」

 

男はため息をつき、地図を取り出した。

 

「森を抜けて南西へ二日。川沿いに出たら、そこから荷馬車が通ってる。運が良ければ乗せてもらえる。まあ、その格好だと怪しまれるだろうがな」

 

「怪しまれんのは慣れてる」

 

「慣れるなよ」

 

男はバンの左腕を見た。

 

「その腕、街まで持つのか?」

 

「毒は抜けた。あとは飯だな」

 

「飯?」

 

「飯食えば治る」

 

男は何か言おうとして、やめた。

 

たぶん、関わってはいけない種類の人間だと判断したのだろう。

 

バンは袋の中の果実を確認した。

 

数は多くない。

 

だが、最初の仕込みには十分だ。

 

あとは樽。

酵母。

水。

寝かせる場所。

 

そして、治すための飯。

 

「美食都市ねぇ」

 

バンは口元を上げる。

 

「いい響きじゃねぇか」

 

男が肩をすくめた。

 

「行くなら気をつけろよ。あそこはうまいものだらけだが、金も飛ぶ。腕のいい料理人ほど気が荒いし、食材ハンターも変人ばかりだ」

 

「面白そうだな」

 

「今ので行く気が増すのかよ」

 

バンは歩き出す。

 

森の空気は、もう重くなかった。

 

木々の間から差し込む光が、足元を照らす。泉の水音が背中で小さく響き、月戻りの果実の甘い香りが袋から漏れていた。

 

左腕はまだ痛む。

 

完全には動かない。

重い。

だが、毒の冷たさはもう薄い。

 

ただの重傷。

 

なら、食えばいい。

 

血になるものを食い、肉になるものを食い、骨まで温まる酒を飲む。

 

「港町で治療か」

 

バンは笑った。

 

「悪くねぇな」

 

旅人の男が後ろから叫ぶ。

 

「本当に怪我人か、あんた!」

 

バンは振り返らず、右手を軽く上げた。

 

「ただの腹減った旅人だ」

 

そのまま森を抜ける。

 

大樹海の奥で、鳥が鳴いた。

 

白い小さな花が風に揺れ、墓標のある方角へ月のような光が一筋落ちる。

 

数千年ぶりに月を思い出した森は、赤い旅人の背を静かに見送っていた。

 

バンは南西へ向かう。

 

月戻りの果実を酒にするため。

左腕を治す飯を食うため。

そして、まだ見ぬ美食都市の匂いを確かめるため。

 

「ポルト・グランデ、ねぇ」

 

口元に笑みを浮かべる。

 

「うまい酒、置いてんだろうな」




第19話でした。
第三部の余韻を残しつつ、第3.5部「美食都市ポルト・グランデ」への導入回です。
月戻りの果実と北の泉によって、バンの左腕からアンタレスの毒は抜けました。
ただし傷そのものは残っているため、次回は美食都市で飯と酒、そして回復のための食事へ向かいます。
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