夜明け前のハルファには、数百人が集まっているとは思えない静けさがあった。
火は落とされていない。
見張りも途切れていない。
それでも、普段なら響いている鎧の擦れる音や、支援者たちの話し声がほとんど聞こえなかった。
静かにしろと命じられたからではない。
灰髪の魔女が、集落の南側にいたからだ。
バンは酒場の屋根に腰を下ろし、薄焼きパンをかじっていた。
暗い赤の長いコートは、肩の傷を避けるように少し緩く羽織っている。
高い襟元は開いたまま。
コートの上から締めた太い革帯には、銀色の留め具が朝の光を反していた。
右腕の痺れはまだ残っている。
握れないわけではない。
だが、指先へ細かな力を込めると、皮膚の奥を黒い砂が擦るような不快感が走る。
バンは右手を開閉しながら、集落外の岩場を見る。
そこにアルフィアが立っていた。
一人。
長い灰髪を朝の風に揺らし、瞼を閉じたまま黒い砂漠へ身体を向けている。
見張りではない。
祈っているようにも見えない。
ただ、聞いていた。
風の音。
砂の流れ。
魔物の足音。
黒い砂漠の奥から届く、巨大な呼吸。
彼女の周囲だけ、音が薄い。
虫の羽音も。
砂を踏む小さな音も。
遠くで鳴る武具の金属音さえ、途中で消えているようだった。
「朝から陰気だな」
バンが声をかける。
アルフィアは振り返らない。
「お前が来たせいで静かではなくなった」
「誰も近づかねぇから、暇だろ」
「望んで一人でいる」
「飯は?」
「要らん」
「それ昨日も聞いた」
「なら、もう聞くな」
バンは屋根から降りた。
地面へ着地した音すら、アルフィアの近くでは妙に小さい。
彼女が使っているのは、ただの威圧ではない。
音そのものを拒む力。
バンは少し離れたところで足を止めた。
「それ、魔法か」
「そうだ」
「便利だな」
「お前を黙らせられない時点で、不完全に思えてきた」
「俺は音じゃねぇからな」
「雑音だ」
「ひでぇな」
アルフィアは閉じた目のまま、片手を上げた。
直後。
バンの耳から世界が消えた。
風も。
遠くの人の声も。
自分の呼吸も。
心臓の音すら聞こえない。
完全な静寂。
バンは眉を上げた。
不快ではない。
ただ、身体の感覚が少し狂う。
人は思っている以上に、自分の音で距離や動きを測っている。
足音が消えれば、踏み込みの強さが分からない。
呼吸が消えれば、自分の疲労も測りづらい。
魔法使いが詠唱しようとしても、自分の声を失えば集中を乱される。
そして何より。
魔法の流れそのものへ、強く干渉している。
バンの《強奪》が、薄い膜へ押し返された。
この世界へ来てから感じ続けている壁とは違う。
目の前の女が、自分の領域から余計な力を排除している。
バンは笑った。
声は聞こえない。
それでも口を動かす。
「なるほどな」
アルフィアの指が下がる。
音が戻った。
「何が分かった」
「お前の近くじゃ、魔法使いはやりづれぇ」
「当然だ」
「俺のも弾くのか」
「完全には弾けていない」
アルフィアの眉がわずかに寄る。
「お前の力は魔法に似ているが、魔法ではない。精霊の加護とも違う。私の静寂の中でも、糸のようなものが残る」
「糸?」
「何かを探り、掴み、引くためのものだ」
「よく見えてんな」
「見てはいない。聞いている」
「目閉じてるもんな」
「開ける必要がない」
「疲れるからか」
空気が少し冷えた。
アルフィアの顔から、わずかに残っていた緩さが消える。
「余計なことを言うな」
「当たりか」
「殺すぞ」
「それも何回目だ」
「実行してほしいのか」
「遠慮しとく」
バンは持っていた布包みを投げた。
アルフィアは目を閉じたまま受け取る。
中身は、干し果実と薄く焼いた肉を挟んだパンだった。
「要らんと言った」
「先遣は朝早ぇぞ」
「必要な栄養は取っている」
「足りてねぇ」
「何を根拠に」
「立ち方」
アルフィアの指が止まる。
バンは彼女の足元を見る。
姿勢は崩れていない。
膝も震えていない。
呼吸もほとんど乱していない。
普通の者なら、何も気づかない。
だが、バンには分かる。
右足へ少しだけ重心を逃がしている。
胸の奥へ走る痛みを、呼吸の間で押さえている。
魔力は満ちている。
むしろ多すぎるほどだ。
だが、それを収める器が耐え切れていない。
「昨日より胸が重いだろ」
アルフィアは答えない。
「咳は?」
「出ていない」
「出そうではある」
「治療師でもない者が、勝手なことを言うな」
「身体壊したことなら、治療師より多いかもな」
「自慢にならない」
「知ってる」
バンは岩へ背を預けた。
「食え。食って治るとは言わねぇよ。けど、食わずに強くなることもねぇだろ」
アルフィアは布包みを見下ろした。
「お前は、誰にでもこうなのか」
「腹減ってそうな奴にはな」
「私は空腹ではない」
「じゃあ、食ったら捨てろ」
「意味が分からん」
「俺が見えねぇところで捨てりゃ、俺は食ったと思える」
「馬鹿なのか」
「食えば解決だろ」
アルフィアは大きく息を吐いた。
それだけで、少し呼吸が乱れる。
彼女はすぐに整えたが、バンは見逃さなかった。
「妹にも、同じことを言われた」
不意に、アルフィアが口にした。
バンは笑うのをやめた。
「妹いるのか」
「いる」
声の鋭さが、ほんの少しだけ弱くなる。
「私とは何もかも違う」
「似てねぇのか」
「顔は似ている」
「じゃあ何が違う」
「全てだ」
アルフィアは黒い砂漠を見たまま続ける。
「私は才能だけはあった。魔法も、戦闘も、一度見れば理解できた。神の恩恵を得てからは、誰よりも速く上へ行った」
自慢する口調ではなかった。
事実を並べているだけ。
「妹には何もなかった。戦う才能も、魔法の才能も、身体の強さもない」
「そうか」
「一人で部屋から出ることもできない。数歩歩けば倒れる。私よりも弱い」
アルフィアの手が、布包みを少し強く握る。
「それでも、誰からも愛される」
「いい奴なんだな」
「愚かなくらい優しい」
その言葉には、苛立ちではなく愛情があった。
「自分が苦しいくせに、私が食事を抜けば怒る。薬を嫌がれば泣く。私より弱いくせに、私を守ろうとする」
「妹っぽいじゃねぇか」
「意味が分からない」
「家族って、そういうもんだろ」
アルフィアの顔が、わずかに動く。
バンは遠くを見る。
エレイン。
ランスロット。
ベンウィックの民。
この世界へ落ちてから、一度も口にしていない名前。
考えれば、戻れないかもしれないという事実が重くなる。
だから、飯や酒へ気を向けていたわけではない。
それでも。
誰かを守ろうとする弱い者の話は、少し胸へ残った。
「お前が死んだら、その妹泣くぞ」
バンが言う。
アルフィアの魔力が揺れた。
小さな揺れ。
けれど、岩場の砂が円を描いて散った。
「知ったような口を利くな」
「知ってるから言ってんだよ」
「何を」
「残される方の顔だ」
アルフィアが、初めて目を開いた。
左は灰。
右は翠。
異なる色を宿した瞳が、真っ直ぐバンを見る。
美しい。
だが、その奥にあるのは怒りだけではない。
痛み。
恐れ。
そして、諦めに似たもの。
「私は、妹より長く生きられるとは限らない」
「だから何だ」
「私の命は、三大クエストのために使う。それが最も価値のある使い方だ」
「価値ねぇ」
アルフィアの目が細くなる。
「もう一度言ってみろ」
「死んだ後に価値つけても、本人は食えねぇし飲めねぇだろ」
「ふざけるな」
「ふざけてねぇよ」
バンは岩から背を離す。
「命削って怪物を倒す。立派じゃねぇか。周りは褒めるだろうな。英雄だったって」
一歩、アルフィアへ近づく。
「でも、妹は喜ぶのか?」
アルフィアは何も言わない。
「お前の妹が欲しいのは、ベヒーモスの死骸か?英雄の名前か?それとも、お前が部屋へ戻ってくることか?」
「黙れ」
「戻る気がねぇ奴が、守るなんて言うなよ」
魔力が膨れ上がった。
アルフィアの灰髪が持ち上がる。
空気が震える。
離れた場所にいた見張りたちが、驚いてこちらを見る。
バンは動かない。
神の恩恵を受けたLv.7。
才能の怪物。
まともに魔法を受ければ、煉獄を越えた身体でも無傷では済まない。
今のバンは不死身でもない。
それでも退かなかった。
アルフィアの口元が動く。
詠唱。
短い。
あまりにも短い。
その言葉が完成する前に、バンは《強奪》の糸を伸ばした。
魔法を盗るのではない。
魔力を奪うのでもない。
アルフィアの身体から、術式へ流れ込もうとする力。
その一番外側へ触れる。
「強奪《スナッチ》」
わずかに流れが乱れた。
たった一瞬。
アルフィアの詠唱が止まる。
魔法が壊れたわけではない。
奪い切れたわけでもない。
だが、彼女の瞳が驚きに揺れるには十分だった。
「……お前」
バンの右腕へ激痛が走る。
黒砂とは違う。
鋭く研ぎ澄まされた魔力が、《強奪》の糸を逆に焼いた。
指先から血が落ちる。
バンは手を振った。
「強ぇな」
「私の魔法に触れたのか」
「端だけな」
「恩恵もなしに」
「何回聞くんだよ、それ」
アルフィアは自分の手を見る。
魔法を奪われたわけではない。
それでも、発動寸前の流れをずらされた。
彼女にとっても初めての感覚だった。
「今のを本番で使うな」
アルフィアが言う。
「何でだ」
「お前の腕が先に壊れる」
「心配か?」
「戦力が減ると言っている」
「素直じゃねぇな」
「もう一度魔法を撃つぞ」
「それは困る」
バンは笑いながらも、右手を押さえた。
アルフィアはその傷を見て、ほんの少し眉を寄せる。
「治療を受けろ」
「飯食ったらな」
「先に受けろ」
「お前がそれ食ったら行く」
「取引のつもりか」
「そうだ」
「くだらない」
アルフィアは布包みを開く。
肉入りのパンを取り出す。
一口、かじる。
バンは満足そうに笑った。
「うまいか」
「普通だ」
「もう一口食ってから言え」
「黙れ」
それでも、アルフィアは捨てなかった。
ゆっくりと食べ続ける。
食べ終わるまで、二人の間にはしばらく言葉がなかった。
静寂。
けれど、先ほどまでとは少し違う。
拒絶のための静けさではない。
同じ方向を見ながら、互いに考えるための間だった。
やがて、アルフィアが口を開く。
「妹の名は、メーテリアという」
「いい名前だな」
「お前に評価されるものではない」
「そうかよ」
「……姉様は、必ず帰ってくると約束させられている」
「守れよ」
「簡単に言うな」
「破るより簡単だ」
アルフィアは小さく息を吐く。
怒っているようにも。
呆れているようにも。
けれど、先ほどより呼吸は落ち着いていた。
「お前は何者だ」
アルフィアが問う。
「バン」
「名前は聞いた」
「旅人」
「それも聞いた」
「料理がうまい」
「自分で言うな」
「盗むのも得意だ」
「何を盗む」
バンは黒い砂漠を見る。
「その時欲しいもん」
「今回欲しいものは」
少し考える。
「朝飯を食う時間」
「くだらない」
「黒砂に取られんのは気に入らねぇだろ」
アルフィアも黒い砂漠へ顔を向けた。
「お前は、怪物の力を盗めると思うか」
「全部は無理だな」
「試してもいないのに」
「触ったから分かる。あれは力がでかいんじゃねぇ。存在そのものが広すぎる」
黒砂。
魔物。
水脈。
地面。
風。
すべてにベヒーモスの影響が染みている。
一つの身体から力を奪うのとは違う。
「全部盗ろうとしたら、こっちが呑まれる」
「なら、お前は何のために先遣へ来る」
「全部いらねぇからだよ」
「何?」
「足一歩。息一回。攻撃の向き。黒砂が流れる一瞬」
バンは血のついた右手を開く。
「必要な分だけ盗る」
アルフィアは彼を見る。
「足りると思うか」
「俺だけなら足りねぇ」
マキシム。
女帝。
ザルド。
アルフィア。
数百人の団員たち。
水を運ぶ者。
傷を治す者。
道を守る者。
「けど、俺が一瞬盗れば、お前らが殴れるだろ」
アルフィアはしばらく黙った。
そして、わずかに口元を動かす。
笑ったのかどうか、バンには分からなかった。
「自分一人で勝つ気はないのか」
「面倒だろ」
「英雄らしくない」
「なる気ねぇって言ってんだろ」
「……そうか」
アルフィアは目を閉じ直した。
灰の魔女。
静寂の怪物。
才禍の権化。
人々は彼女を、数多くの異名で呼ぶ。
だが、今のバンには。
病弱な妹へ帰る約束をした、無茶をする姉にしか見えなかった。
集落の方からサナの声がする。
「バンさん!どこですか!」
「やべ」
「治療から逃げていたのか」
「朝飯作ってただけだ」
「手から血が出ているぞ」
「お前のせいだろ」
「触れたお前が悪い」
アルフィアは歩き出す。
「おい」
「何だ」
「治療所まで一緒に来い」
「なぜ私が」
「お前も診てもらえ」
「必要ない」
「胸痛ぇんだろ」
アルフィアの足が止まる。
「黙れ」
「サナ!」
バンが声を上げる。
アルフィアの手が、バンの首へ伸びた。
捕まる前に、バンは絶気配《ゼロサイン》で気配を薄くする。
アルフィアの指が空を掴む。
「小賢しい」
「盗賊だからな」
バンは笑いながら集落へ走った。
アルフィアも追う。
速い。
病弱とは思えない速度で距離を詰めてくる。
サナが二人を見つけた時、バンは灰髪の魔女に襟首を掴まれていた。
「何をしているんですか!」
「こいつが逃げた」
「アルフィアを治療所へ連れてこうとしただけだ」
「黙れ」
サナは二人を見る。
バンの右手の出血。
アルフィアの浅い呼吸。
すぐに表情を険しくした。
「二人とも、座ってください」
「俺は分かるけど、そっちは?」
「座ってください」
サナの声が強くなる。
アルフィアがわずかに眉を上げる。
「私に命令するのか」
「患者にはします」
「私は患者ではない」
「胸が痛むんですよね」
アルフィアがバンを見る。
バンは顔を逸らした。
「口が軽い男は嫌われますよ」
「もう嫌われてる」
「自覚があるなら黙ってください」
サナは椅子を二つ並べた。
バンは大人しく座る。
アルフィアは立ったままだった。
その時。
女帝が通りかかる。
「アルフィア」
「何ですか」
「座りなさい」
「必要ありません」
「座りなさい」
アルフィアは数秒沈黙した。
そして、バンの隣へ座る。
バンはにやりと笑う。
「怒られてんじゃねぇか」
「黙れ」
「二人とも静かにしてください!」
サナの声が響いた。
少し離れた場所で、ゼウスが笑い始める。
ヘラに睨まれ、すぐ黙った。
数百人が先遣の準備を進める朝。
黒い砂漠の前線で。
神時代最強と呼ばれる灰の魔女と、神の恩恵を持たない赤い旅人は、薬師見習いに並んで治療を受けていた。
アルフィアは終始不機嫌そうだった。
それでも。
朝食の包みは、空になっていた。
第18話でした。
今回はアルフィアとバンの会話を中心に、アルフィアの病弱さ、才能への考え方、妹メーテリアへの思いを描きました。
また、バンがアルフィアの魔法そのものを奪うのではなく、発動へ向かう流れの端へ一瞬だけ触れる形にしています。