強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第18話です。


第18話 灰の魔女

夜明け前のハルファには、数百人が集まっているとは思えない静けさがあった。

 

火は落とされていない。

 

見張りも途切れていない。

 

それでも、普段なら響いている鎧の擦れる音や、支援者たちの話し声がほとんど聞こえなかった。

 

静かにしろと命じられたからではない。

 

灰髪の魔女が、集落の南側にいたからだ。

 

バンは酒場の屋根に腰を下ろし、薄焼きパンをかじっていた。

 

暗い赤の長いコートは、肩の傷を避けるように少し緩く羽織っている。

高い襟元は開いたまま。

コートの上から締めた太い革帯には、銀色の留め具が朝の光を反していた。

 

右腕の痺れはまだ残っている。

 

握れないわけではない。

 

だが、指先へ細かな力を込めると、皮膚の奥を黒い砂が擦るような不快感が走る。

 

バンは右手を開閉しながら、集落外の岩場を見る。

 

そこにアルフィアが立っていた。

 

一人。

 

長い灰髪を朝の風に揺らし、瞼を閉じたまま黒い砂漠へ身体を向けている。

 

見張りではない。

 

祈っているようにも見えない。

 

ただ、聞いていた。

 

風の音。

 

砂の流れ。

 

魔物の足音。

 

黒い砂漠の奥から届く、巨大な呼吸。

 

彼女の周囲だけ、音が薄い。

 

虫の羽音も。

 

砂を踏む小さな音も。

 

遠くで鳴る武具の金属音さえ、途中で消えているようだった。

 

「朝から陰気だな」

 

バンが声をかける。

 

アルフィアは振り返らない。

 

「お前が来たせいで静かではなくなった」

 

「誰も近づかねぇから、暇だろ」

 

「望んで一人でいる」

 

「飯は?」

 

「要らん」

 

「それ昨日も聞いた」

 

「なら、もう聞くな」

 

バンは屋根から降りた。

 

地面へ着地した音すら、アルフィアの近くでは妙に小さい。

 

彼女が使っているのは、ただの威圧ではない。

 

音そのものを拒む力。

 

バンは少し離れたところで足を止めた。

 

「それ、魔法か」

 

「そうだ」

 

「便利だな」

 

「お前を黙らせられない時点で、不完全に思えてきた」

 

「俺は音じゃねぇからな」

 

「雑音だ」

 

「ひでぇな」

 

アルフィアは閉じた目のまま、片手を上げた。

 

直後。

 

バンの耳から世界が消えた。

 

風も。

 

遠くの人の声も。

 

自分の呼吸も。

 

心臓の音すら聞こえない。

 

完全な静寂。

 

バンは眉を上げた。

 

不快ではない。

 

ただ、身体の感覚が少し狂う。

 

人は思っている以上に、自分の音で距離や動きを測っている。

 

足音が消えれば、踏み込みの強さが分からない。

 

呼吸が消えれば、自分の疲労も測りづらい。

 

魔法使いが詠唱しようとしても、自分の声を失えば集中を乱される。

 

そして何より。

 

魔法の流れそのものへ、強く干渉している。

 

バンの《強奪》が、薄い膜へ押し返された。

 

この世界へ来てから感じ続けている壁とは違う。

 

目の前の女が、自分の領域から余計な力を排除している。

 

バンは笑った。

 

声は聞こえない。

 

それでも口を動かす。

 

「なるほどな」

 

アルフィアの指が下がる。

 

音が戻った。

 

「何が分かった」

 

「お前の近くじゃ、魔法使いはやりづれぇ」

 

「当然だ」

 

「俺のも弾くのか」

 

「完全には弾けていない」

 

アルフィアの眉がわずかに寄る。

 

「お前の力は魔法に似ているが、魔法ではない。精霊の加護とも違う。私の静寂の中でも、糸のようなものが残る」

 

「糸?」

 

「何かを探り、掴み、引くためのものだ」

 

「よく見えてんな」

 

「見てはいない。聞いている」

 

「目閉じてるもんな」

 

「開ける必要がない」

 

「疲れるからか」

 

空気が少し冷えた。

 

アルフィアの顔から、わずかに残っていた緩さが消える。

 

「余計なことを言うな」

 

「当たりか」

 

「殺すぞ」

 

「それも何回目だ」

 

「実行してほしいのか」

 

「遠慮しとく」

 

バンは持っていた布包みを投げた。

 

アルフィアは目を閉じたまま受け取る。

 

中身は、干し果実と薄く焼いた肉を挟んだパンだった。

 

「要らんと言った」

 

「先遣は朝早ぇぞ」

 

「必要な栄養は取っている」

 

「足りてねぇ」

 

「何を根拠に」

 

「立ち方」

 

アルフィアの指が止まる。

 

バンは彼女の足元を見る。

 

姿勢は崩れていない。

 

膝も震えていない。

 

呼吸もほとんど乱していない。

 

普通の者なら、何も気づかない。

 

だが、バンには分かる。

 

右足へ少しだけ重心を逃がしている。

 

胸の奥へ走る痛みを、呼吸の間で押さえている。

 

魔力は満ちている。

 

むしろ多すぎるほどだ。

 

だが、それを収める器が耐え切れていない。

 

「昨日より胸が重いだろ」

 

アルフィアは答えない。

 

「咳は?」

 

「出ていない」

 

「出そうではある」

 

「治療師でもない者が、勝手なことを言うな」

 

「身体壊したことなら、治療師より多いかもな」

 

「自慢にならない」

 

「知ってる」

 

バンは岩へ背を預けた。

 

「食え。食って治るとは言わねぇよ。けど、食わずに強くなることもねぇだろ」

 

アルフィアは布包みを見下ろした。

 

「お前は、誰にでもこうなのか」

 

「腹減ってそうな奴にはな」

 

「私は空腹ではない」

 

「じゃあ、食ったら捨てろ」

 

「意味が分からん」

 

「俺が見えねぇところで捨てりゃ、俺は食ったと思える」

 

「馬鹿なのか」

 

「食えば解決だろ」

 

アルフィアは大きく息を吐いた。

 

それだけで、少し呼吸が乱れる。

 

彼女はすぐに整えたが、バンは見逃さなかった。

 

「妹にも、同じことを言われた」

 

不意に、アルフィアが口にした。

 

バンは笑うのをやめた。

 

「妹いるのか」

 

「いる」

 

声の鋭さが、ほんの少しだけ弱くなる。

 

「私とは何もかも違う」

 

「似てねぇのか」

 

「顔は似ている」

 

「じゃあ何が違う」

 

「全てだ」

 

アルフィアは黒い砂漠を見たまま続ける。

 

「私は才能だけはあった。魔法も、戦闘も、一度見れば理解できた。神の恩恵を得てからは、誰よりも速く上へ行った」

 

自慢する口調ではなかった。

 

事実を並べているだけ。

 

「妹には何もなかった。戦う才能も、魔法の才能も、身体の強さもない」

 

「そうか」

 

「一人で部屋から出ることもできない。数歩歩けば倒れる。私よりも弱い」

 

アルフィアの手が、布包みを少し強く握る。

 

「それでも、誰からも愛される」

 

「いい奴なんだな」

 

「愚かなくらい優しい」

 

その言葉には、苛立ちではなく愛情があった。

 

「自分が苦しいくせに、私が食事を抜けば怒る。薬を嫌がれば泣く。私より弱いくせに、私を守ろうとする」

 

「妹っぽいじゃねぇか」

 

「意味が分からない」

 

「家族って、そういうもんだろ」

 

アルフィアの顔が、わずかに動く。

 

バンは遠くを見る。

 

エレイン。

 

ランスロット。

 

ベンウィックの民。

 

この世界へ落ちてから、一度も口にしていない名前。

 

考えれば、戻れないかもしれないという事実が重くなる。

 

だから、飯や酒へ気を向けていたわけではない。

 

それでも。

 

誰かを守ろうとする弱い者の話は、少し胸へ残った。

 

「お前が死んだら、その妹泣くぞ」

 

バンが言う。

 

アルフィアの魔力が揺れた。

 

小さな揺れ。

 

けれど、岩場の砂が円を描いて散った。

 

「知ったような口を利くな」

 

「知ってるから言ってんだよ」

 

「何を」

 

「残される方の顔だ」

 

アルフィアが、初めて目を開いた。

 

左は灰。

 

右は翠。

 

異なる色を宿した瞳が、真っ直ぐバンを見る。

 

美しい。

 

だが、その奥にあるのは怒りだけではない。

 

痛み。

 

恐れ。

 

そして、諦めに似たもの。

 

「私は、妹より長く生きられるとは限らない」

 

「だから何だ」

 

「私の命は、三大クエストのために使う。それが最も価値のある使い方だ」

 

「価値ねぇ」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「もう一度言ってみろ」

 

「死んだ後に価値つけても、本人は食えねぇし飲めねぇだろ」

 

「ふざけるな」

 

「ふざけてねぇよ」

 

バンは岩から背を離す。

 

「命削って怪物を倒す。立派じゃねぇか。周りは褒めるだろうな。英雄だったって」

 

一歩、アルフィアへ近づく。

 

「でも、妹は喜ぶのか?」

 

アルフィアは何も言わない。

 

「お前の妹が欲しいのは、ベヒーモスの死骸か?英雄の名前か?それとも、お前が部屋へ戻ってくることか?」

 

「黙れ」

 

「戻る気がねぇ奴が、守るなんて言うなよ」

 

魔力が膨れ上がった。

 

アルフィアの灰髪が持ち上がる。

 

空気が震える。

 

離れた場所にいた見張りたちが、驚いてこちらを見る。

 

バンは動かない。

 

神の恩恵を受けたLv.7。

 

才能の怪物。

 

まともに魔法を受ければ、煉獄を越えた身体でも無傷では済まない。

 

今のバンは不死身でもない。

 

それでも退かなかった。

 

アルフィアの口元が動く。

 

詠唱。

 

短い。

 

あまりにも短い。

 

その言葉が完成する前に、バンは《強奪》の糸を伸ばした。

 

魔法を盗るのではない。

 

魔力を奪うのでもない。

 

アルフィアの身体から、術式へ流れ込もうとする力。

 

その一番外側へ触れる。

 

「強奪《スナッチ》」

 

わずかに流れが乱れた。

 

たった一瞬。

 

アルフィアの詠唱が止まる。

 

魔法が壊れたわけではない。

 

奪い切れたわけでもない。

 

だが、彼女の瞳が驚きに揺れるには十分だった。

 

「……お前」

 

バンの右腕へ激痛が走る。

 

黒砂とは違う。

 

鋭く研ぎ澄まされた魔力が、《強奪》の糸を逆に焼いた。

 

指先から血が落ちる。

 

バンは手を振った。

 

「強ぇな」

 

「私の魔法に触れたのか」

 

「端だけな」

 

「恩恵もなしに」

 

「何回聞くんだよ、それ」

 

アルフィアは自分の手を見る。

 

魔法を奪われたわけではない。

 

それでも、発動寸前の流れをずらされた。

 

彼女にとっても初めての感覚だった。

 

「今のを本番で使うな」

 

アルフィアが言う。

 

「何でだ」

 

「お前の腕が先に壊れる」

 

「心配か?」

 

「戦力が減ると言っている」

 

「素直じゃねぇな」

 

「もう一度魔法を撃つぞ」

 

「それは困る」

 

バンは笑いながらも、右手を押さえた。

 

アルフィアはその傷を見て、ほんの少し眉を寄せる。

 

「治療を受けろ」

 

「飯食ったらな」

 

「先に受けろ」

 

「お前がそれ食ったら行く」

 

「取引のつもりか」

 

「そうだ」

 

「くだらない」

 

アルフィアは布包みを開く。

 

肉入りのパンを取り出す。

 

一口、かじる。

 

バンは満足そうに笑った。

 

「うまいか」

 

「普通だ」

 

「もう一口食ってから言え」

 

「黙れ」

 

それでも、アルフィアは捨てなかった。

 

ゆっくりと食べ続ける。

 

食べ終わるまで、二人の間にはしばらく言葉がなかった。

 

静寂。

 

けれど、先ほどまでとは少し違う。

 

拒絶のための静けさではない。

 

同じ方向を見ながら、互いに考えるための間だった。

 

やがて、アルフィアが口を開く。

 

「妹の名は、メーテリアという」

 

「いい名前だな」

 

「お前に評価されるものではない」

 

「そうかよ」

 

「……姉様は、必ず帰ってくると約束させられている」

 

「守れよ」

 

「簡単に言うな」

 

「破るより簡単だ」

 

アルフィアは小さく息を吐く。

 

怒っているようにも。

 

呆れているようにも。

 

けれど、先ほどより呼吸は落ち着いていた。

 

「お前は何者だ」

 

アルフィアが問う。

 

「バン」

 

「名前は聞いた」

 

「旅人」

 

「それも聞いた」

 

「料理がうまい」

 

「自分で言うな」

 

「盗むのも得意だ」

 

「何を盗む」

 

バンは黒い砂漠を見る。

 

「その時欲しいもん」

 

「今回欲しいものは」

 

少し考える。

 

「朝飯を食う時間」

 

「くだらない」

 

「黒砂に取られんのは気に入らねぇだろ」

 

アルフィアも黒い砂漠へ顔を向けた。

 

「お前は、怪物の力を盗めると思うか」

 

「全部は無理だな」

 

「試してもいないのに」

 

「触ったから分かる。あれは力がでかいんじゃねぇ。存在そのものが広すぎる」

 

黒砂。

 

魔物。

 

水脈。

 

地面。

 

風。

 

すべてにベヒーモスの影響が染みている。

 

一つの身体から力を奪うのとは違う。

 

「全部盗ろうとしたら、こっちが呑まれる」

 

「なら、お前は何のために先遣へ来る」

 

「全部いらねぇからだよ」

 

「何?」

 

「足一歩。息一回。攻撃の向き。黒砂が流れる一瞬」

 

バンは血のついた右手を開く。

 

「必要な分だけ盗る」

 

アルフィアは彼を見る。

 

「足りると思うか」

 

「俺だけなら足りねぇ」

 

マキシム。

 

女帝。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

数百人の団員たち。

 

水を運ぶ者。

 

傷を治す者。

 

道を守る者。

 

「けど、俺が一瞬盗れば、お前らが殴れるだろ」

 

アルフィアはしばらく黙った。

 

そして、わずかに口元を動かす。

 

笑ったのかどうか、バンには分からなかった。

 

「自分一人で勝つ気はないのか」

 

「面倒だろ」

 

「英雄らしくない」

 

「なる気ねぇって言ってんだろ」

 

「……そうか」

 

アルフィアは目を閉じ直した。

 

灰の魔女。

 

静寂の怪物。

 

才禍の権化。

 

人々は彼女を、数多くの異名で呼ぶ。

 

だが、今のバンには。

 

病弱な妹へ帰る約束をした、無茶をする姉にしか見えなかった。

 

集落の方からサナの声がする。

 

「バンさん!どこですか!」

 

「やべ」

 

「治療から逃げていたのか」

 

「朝飯作ってただけだ」

 

「手から血が出ているぞ」

 

「お前のせいだろ」

 

「触れたお前が悪い」

 

アルフィアは歩き出す。

 

「おい」

 

「何だ」

 

「治療所まで一緒に来い」

 

「なぜ私が」

 

「お前も診てもらえ」

 

「必要ない」

 

「胸痛ぇんだろ」

 

アルフィアの足が止まる。

 

「黙れ」

 

「サナ!」

 

バンが声を上げる。

 

アルフィアの手が、バンの首へ伸びた。

 

捕まる前に、バンは絶気配《ゼロサイン》で気配を薄くする。

 

アルフィアの指が空を掴む。

 

「小賢しい」

 

「盗賊だからな」

 

バンは笑いながら集落へ走った。

 

アルフィアも追う。

 

速い。

 

病弱とは思えない速度で距離を詰めてくる。

 

サナが二人を見つけた時、バンは灰髪の魔女に襟首を掴まれていた。

 

「何をしているんですか!」

 

「こいつが逃げた」

 

「アルフィアを治療所へ連れてこうとしただけだ」

 

「黙れ」

 

サナは二人を見る。

 

バンの右手の出血。

 

アルフィアの浅い呼吸。

 

すぐに表情を険しくした。

 

「二人とも、座ってください」

 

「俺は分かるけど、そっちは?」

 

「座ってください」

 

サナの声が強くなる。

 

アルフィアがわずかに眉を上げる。

 

「私に命令するのか」

 

「患者にはします」

 

「私は患者ではない」

 

「胸が痛むんですよね」

 

アルフィアがバンを見る。

 

バンは顔を逸らした。

 

「口が軽い男は嫌われますよ」

 

「もう嫌われてる」

 

「自覚があるなら黙ってください」

 

サナは椅子を二つ並べた。

 

バンは大人しく座る。

 

アルフィアは立ったままだった。

 

その時。

 

女帝が通りかかる。

 

「アルフィア」

 

「何ですか」

 

「座りなさい」

 

「必要ありません」

 

「座りなさい」

 

アルフィアは数秒沈黙した。

 

そして、バンの隣へ座る。

 

バンはにやりと笑う。

 

「怒られてんじゃねぇか」

 

「黙れ」

 

「二人とも静かにしてください!」

 

サナの声が響いた。

 

少し離れた場所で、ゼウスが笑い始める。

 

ヘラに睨まれ、すぐ黙った。

 

数百人が先遣の準備を進める朝。

 

黒い砂漠の前線で。

 

神時代最強と呼ばれる灰の魔女と、神の恩恵を持たない赤い旅人は、薬師見習いに並んで治療を受けていた。

 

アルフィアは終始不機嫌そうだった。

 

それでも。

 

朝食の包みは、空になっていた。




第18話でした。

今回はアルフィアとバンの会話を中心に、アルフィアの病弱さ、才能への考え方、妹メーテリアへの思いを描きました。

また、バンがアルフィアの魔法そのものを奪うのではなく、発動へ向かう流れの端へ一瞬だけ触れる形にしています。
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