バンがついに美食都市ポルト・グランデへ到着します。
今回は、港町の熱気、服の修復、ポーション、そして海獣肉による回復の回です。
潮の匂いがした。
森を抜け、川沿いの道を南西へ進み、荷馬車に少しだけ乗せてもらい、また歩いた先。
丘を越えた瞬間、視界の向こうに海が広がった。
青い。
ただし、静かな青ではない。
陽光を弾く波。港へ入る帆船。沖で跳ねる巨大魚。空を旋回する海鳥。岸壁に並ぶ倉庫。煙を上げる屋台。船乗りたちの怒鳴り声。香辛料を積んだ荷車。巨大な魚の尾を担ぐ男たち。
その全部が、潮風と一緒にバンの鼻へ飛び込んできた。
魚の匂い。
肉を焼く脂の匂い。
貝を蒸す湯気。
発酵した魚醤。
南方の香辛料。
酒樽から漏れる甘い香り。
腹が鳴った。
「……いい町じゃねぇか」
バンは口元を上げた。
美食都市ポルト・グランデ。
海と食材と酒の集まる港町。料理人、酒職人、食材商人、船乗り、食材ハンター、旅人、冒険者が入り混じる、うまいものに取り憑かれたような都市。
門の上には、大きな魚の骨を象った飾りが掲げられている。
その下で、門番が通行人の荷を確認していた。
バンはそのまま歩いていく。
エンジ色のロングコートは裂け、胸元には地下神殿の石粉が残り、左肩から袖にかけて血と毒の染みがある。赤いレザーパンツも擦り切れ、太い茶革のベルトには傷が入り、銀のバックルも曇っていた。
当然、門番に止められた。
「待て」
「あ?」
「その格好で入る気か?」
門番はバンを上から下まで見た。
そして、眉をひそめる。
「血、毒、石粉、森の泥。あと何だ、その焦げたような冷たい匂いは」
「でけぇ獣と虫に絡まれた」
「獣と虫でそうなるか」
「どっちもでかかったんだよ」
門番は深くため息をついた。
「美食市場へ行くつもりなら、そのままは駄目だ。食材に匂いが移る。毒が残っているならなおさらだ」
「先に飯食いてぇんだけどな」
「先に洗え。服も直せ。市場で倒れられても困る」
バンは面倒くさそうに頭をかいた。
左腕はまだ重い。
毒は月戻りの果実と泉で抜けたが、傷は残っている。服も、たしかにこのままでは食材に失礼だった。
バンは鼻で息を吐く。
「飯の前に服かよ」
門番は港の奥を指した。
「洗い屋なら、二番通りのミラの店へ行け。血と油と毒汚れなら、あの人が一番だ」
「酒は?」
「店を出てからにしろ」
「つまんねぇ町だな」
「食い物のためなら厳しい町だ」
その言葉に、バンは少しだけ笑った。
「なら、悪くねぇ」
門を抜けた先は、音で溢れていた。
石畳の道の両側に屋台が並び、焼き貝の匂いが湯気と一緒に流れてくる。巨大魚の頭を丸ごと煮込む鍋。海獣肉を串に刺して炭火で焼く屋台。薄い生地に魚醤と香草を塗って焼く店。酒樽を積んだ馬車。
バンは何度か足を止めかけた。
だが、そのたびに門番の言葉を思い出す。
この格好では食材に匂いが移る。
「……面倒くせぇ」
そう言いながらも、ちゃんと屋台には近づかない。
食材を雑に扱う気はない。
二番通りにある洗い屋は、港らしい店だった。
入口には濡れた革靴が吊られ、外壁には海獣革の補修布や防水油の瓶が並んでいる。奥からは石鹸と潮と薬草の匂いがした。
店の中にいたのは、灰色の髪を後ろで束ねた女だった。年は四十前後。腕まくりをした前腕は太く、針と糸よりも錨の鎖を扱っていそうな雰囲気がある。
女はバンを見るなり、目を細めた。
「何したら服がこんな死に方するんだい」
「でけぇ獣と虫に絡まれた」
「獣と虫で済む裂け方じゃないね」
「でかかったんだよ」
「さっき門番にも似たようなこと言ってただろ」
女は鼻を鳴らし、バンのコートの裾をつまんだ。
「血。毒。石粉。変な冷気。海の汚れじゃないね。森か遺跡か」
「大体そんなとこだ」
「獣、虫、森、遺跡。服が勝てる相手じゃないね」
「俺は勝った」
「服は負けてるよ」
バンは自分のコートを見下ろした。
裂けた裾。焦げたような染み。冷たい毒の匂い。石粉を噛んだ縫い目。
「……まあな」
「よく生きてたね」
「まだ死んでねぇだけだ」
女は一瞬だけバンを見た。
それから、小さく笑った。
「気に入った。脱ぎな。できるだけ元の形で直してやる」
「できるだけ?」
「新品にはならないよ。けど、赤コートとして歩けるくらいには戻す」
「それでいい」
女の名はミラ・ソルトステッチと言った。
港の洗い屋兼仕立て職人。船乗りの防水外套、食材ハンターの革鎧、料理人の油まみれの前掛け、冒険者の血塗れの服まで扱う、汚れと裂け目の専門家らしい。
バンはロングコートを脱ぎ、裂けた箇所を見せた。
ミラは何も言わずに状態を確認する。
胸元の高襟。
エンジ色の布。
袖口の擦れ。
背中の裂け目。
赤いレザーパンツのスタッズ。
太い茶革のベルト。
曇った銀のバックル。
「妙な服だね。見たことのない縫い方だ」
「古い馴染みみたいなもんだ」
「捨てる気は?」
「ねぇな」
「だろうね」
ミラは作業台へ服を広げた。
まず、潮落としの洗浄液ではなく、毒抜き用の薬草石鹸を使った。黒い染みが布から浮き上がり、水桶の中で赤黒く広がる。それを見て、ミラが眉を寄せる。
「本当に何と喧嘩したんだい」
「獣と虫だって」
「その獣と虫、どっちも町一つ食うだろ」
「食わせねぇよ。飯がまずくなる」
ミラは少し笑い、針を取った。
裂けた部分には海獣革を薄く削いだ補強布を当てる。表から見えすぎないよう、内側から縫い込む。糸には銀を少し混ぜた丈夫なものを使い、布の色に合わせて赤黒く染める。
革パンツには防水油と柔軟油を入れ直し、ベルトは傷んだ部分だけを補強する。銀のバックルは磨かれ、曇りが取れて鈍い光を取り戻した。
作業の間、バンは店の隅でポーションを飲まされていた。
ミラが近所の薬屋から取り寄せた高級品だという。
「飲みな。毒が抜けてても、血は足りてないだろ」
バンは小瓶を受け取り、匂いを嗅いだ。
顔をしかめる。
「……まずそうだな」
「薬に味を求めるんじゃないよ」
バンは瓶を傾け、一気に飲んだ。
次の瞬間、眉間にしわが寄った。
「っず……」
「効くだろ」
「泥水の方がマシだ」
「泥水で傷は塞がらないよ」
「肉の方が効く」
「普通は薬の方が効くんだよ」
ミラは呆れながらも、もう一本ポーションを渡した。
バンは嫌そうに飲む。
確かに効いた。
肩の痛みが少し引き、左腕の痺れもわずかに薄れる。裂けた肉がゆっくり寄っていくような感覚がある。
だが、うまくない。
致命的にうまくない。
「これ作った奴、味見してねぇだろ」
「薬師に言っておくよ。赤コートの変な客が文句を言ってたってね」
「味は大事だろ」
「治ればいいんだよ」
「治す飯なら、うまい方がいい」
ミラは針を止め、バンを見た。
「あんた、料理人かい?」
「たまにな」
「たまにでその言い方なら、相当だね」
バンは答えず、店の外から漂ってくる焼き肉の匂いに顔を向けた。
腹が鳴る。
ミラは笑った。
「服はもう少しで終わる。終わったら市場へ行きな。今日なら、海角牛の肩肉と、深海銀鱈が入ってる」
「うまいのか?」
「食べれば分かる」
「いい答えだ」
しばらくして、服は戻ってきた。
完全に新品ではない。
だが、ボロ布ではなくなっていた。
裂けていたエンジ色のロングコートは縫い直され、補強された箇所も色を合わせて目立たない。胸元の高襟は形を取り戻し、袖の毒染みはほとんど落ちている。赤いレザーパンツには油が入り、スタッズが鈍く光った。太い茶革のベルトは締め直され、銀のバックルも磨かれている。
バンは服を着直した。
肩の傷が動くたびに少し痛む。
だが、悪くない。
赤い旅人が、港町を歩ける格好に戻った。
「腕は?」
ミラが聞く。
「まだ重いな」
「なら、酒は控えな」
「無理だな」
「だと思ったよ」
バンは代金を払い、店を出た。
その足で向かったのは、美食市場だった。
そこは、狂っていた。
もちろん、いい意味で。
巨大な屋根の下に、海の食材が山のように並んでいる。人の背丈ほどある魚。甲羅が鍋ほど大きい蟹。青く光る貝。牙のある海獣の肉塊。氷の上に並べられた深海魚。吊るされた干物。桶いっぱいの小エビ。香草。塩。魚醤。酒。
声が飛ぶ。
「銀鱈、今朝の深場ものだ!」
「海角牛の肩、脂乗ってるよ!」
「香辛料は南方船から入ったばかり!」
「料理人ギルド認定の魚醤だ、安くはないが味は保証する!」
バンはゆっくり歩いた。
鼻で選ぶ。
目で選ぶ。
肉の繊維を見る。
魚の目を見る。
脂の匂いを嗅ぐ。
腹が鳴る。
「おい、そこの赤コート!」
屋台の親父が声をかけた。
「海角牛の串、食ってくか?左腕、怪我してんだろ。こいつは血になるぞ」
「二十本」
「は?」
「二十本焼け」
親父は一瞬固まり、それから笑った。
「いい客じゃねぇか!」
炭火の上で、海角牛の肉が焼ける。
海角牛は、海辺の岩場に棲む牛のような海獣らしい。肉は赤く、脂は真珠色で、焼くと潮の香りが立つ。塩と魚醤を軽く塗り、強い火で表面を焼く。
一口目。
バンは目を細めた。
「……いいな」
肉は力強い。
牛に似ているが、後味に海の塩気がある。脂は重すぎず、噛むほどに甘みが出る。血の味が濃く、傷んだ身体に染みるようだった。
一本。
二本。
三本。
バンは串を次々に平らげた。
屋台の親父が笑う。
「いい食いっぷりだな、赤コート!」
「足りねぇ」
「まだ食うのかよ!」
「治療中だ」
「それは治療って言うのか?」
「言う」
次は深海銀鱈の鍋。
白い身は箸を入れるとほろりと崩れ、脂が澄んだ汁に溶けている。生姜に似た香草と、港町特有の魚醤。湯気を吸うだけで身体が温まる。
バンは鍋を一つ空けた。
さらに貝の蒸し焼き。
海老の香草炒め。
海獣肉の煮込み。
焼き魚。
塩漬け肉。
魚醤を塗った薄焼きパン。
食う。
食う。
食う。
周りの客が見始める。
「おい、あいつ何皿目だ?」
「怪我人じゃなかったのか?」
「顔色、戻ってきてねぇか?」
「左腕、さっきより動いてるぞ」
実際、バンの身体は変わっていた。
毒はすでに抜けている。
そこへ、血になる肉、脂、塩、温かい汁、香草、魚、海獣の濃い栄養が入っていく。
煉獄を生き抜いた肉体が、それを無駄にしない。
裂けた肉が完全に塞がるわけではない。
骨が一瞬で治るわけでもない。
だが、冷えていた身体に熱が戻り、青ざめていた顔色が戻る。左腕の震えが少しずつ減り、指が握れるようになっていく。
バンは左手を軽く開閉した。
まだ痛い。
だが、落とさずに器を持てる程度には戻っている。
「こっちの方が薬より効くな」
屋台の親父が呆れた顔をした。
「あんたの身体、どうなってんだ」
「腹が減るようにできてる」
「答えになってねぇよ」
バンは酒を頼んだ。
港の濁り酒。
潮気のある麦酒。
果実を混ぜた軽い酒。
月戻りの果実を酒にする参考に、いくつか味を見る。
悪くない。
だが、月戻りの果実にはまだ足りない。
この町にはもっと合う樽と酵母があるはずだ。
バンは市場の奥に目を向けた。
そこには料理人ギルドの建物があった。
白い壁に、銀の包丁と魚の紋章。入口には料理人らしき者たちが出入りし、食材商人と値段を交渉している。香辛料の箱を抱えた若者、巨大鍋を運ぶ職人、酒樽を転がす男たち。
その前で、一人の金髪の青年が魚を見ていた。
白い料理服。
首元に青い布。
腰には細い包丁が何本も差してある。
青年は深海銀鱈の切り身を指で押し、香りを確かめ、店主に短く何かを告げた。仕草は繊細で、無駄がない。
バンは少しだけ見た。
「料理人か」
金髪の青年が、こちらに気づいた。
視線が合う。
青年の目が、バンの前に積まれた皿の山を見た。
次に、修復されたばかりの赤いコートを見る。
最後に、バンの左腕に残る傷を見る。
眉がわずかに動いた。
だが、声はかけてこない。
バンも声をかけない。
ただ、酒を飲む。
潮風が市場を抜ける。
どこかの屋台で魚が焼ける。
鍋が煮える。
香辛料が弾ける。
酒樽が開く。
美食都市ポルト・グランデ。
この町には、まだ食っていないものが山ほどある。
バンは口元を上げた。
「治療にちょうどいい町だな」
屋台の親父が笑った。
「治療で市場を食い尽くされちゃ困るぜ、赤コート」
「安心しろ」
バンは空になった皿を横へ置く。
「まだ腹八分目だ」
周囲が静まり返った。
親父がぽつりと言う。
「……本当に人間か?」
バンは酒を飲み干し、笑った。
「ただの旅人だ」
港の鐘が鳴る。
夕方の市が始まる合図だった。
さらに多くの食材が運び込まれ、料理人たちが動き出す。
ポルト・グランデの夜は、まだ始まってもいない。
赤い旅人は、空の皿の山の前で立ち上がった。
左腕はまだ痛む。
だが、朝よりはずっと動く。
服は直った。
毒も抜けた。
腹も少しは満ちた。
次は、月戻りの果実に合う樽と酵母を探す番だ。
バンは料理人ギルドの方へ歩き出した。
その背を、金髪の料理人が静かに見ていた。
第20話でした。
ポルト・グランデ到着回です。
バンは港町の洗い屋兼仕立て職人ミラに服を修復してもらい、ポーションに文句を言いつつ、海獣肉や深海魚を食べて身体を回復させました。
次回は、料理人ギルドと金髪料理人ルカ、そして大鍋職人との出会いに入ります。