強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

21 / 27
第20話です。
バンがついに美食都市ポルト・グランデへ到着します。
今回は、港町の熱気、服の修復、ポーション、そして海獣肉による回復の回です。


第20話 美食都市ポルト・グランデ

潮の匂いがした。

 

森を抜け、川沿いの道を南西へ進み、荷馬車に少しだけ乗せてもらい、また歩いた先。

 

丘を越えた瞬間、視界の向こうに海が広がった。

 

青い。

 

ただし、静かな青ではない。

 

陽光を弾く波。港へ入る帆船。沖で跳ねる巨大魚。空を旋回する海鳥。岸壁に並ぶ倉庫。煙を上げる屋台。船乗りたちの怒鳴り声。香辛料を積んだ荷車。巨大な魚の尾を担ぐ男たち。

 

その全部が、潮風と一緒にバンの鼻へ飛び込んできた。

 

魚の匂い。

肉を焼く脂の匂い。

貝を蒸す湯気。

発酵した魚醤。

南方の香辛料。

酒樽から漏れる甘い香り。

 

腹が鳴った。

 

「……いい町じゃねぇか」

 

バンは口元を上げた。

 

美食都市ポルト・グランデ。

 

海と食材と酒の集まる港町。料理人、酒職人、食材商人、船乗り、食材ハンター、旅人、冒険者が入り混じる、うまいものに取り憑かれたような都市。

 

門の上には、大きな魚の骨を象った飾りが掲げられている。

その下で、門番が通行人の荷を確認していた。

 

バンはそのまま歩いていく。

 

エンジ色のロングコートは裂け、胸元には地下神殿の石粉が残り、左肩から袖にかけて血と毒の染みがある。赤いレザーパンツも擦り切れ、太い茶革のベルトには傷が入り、銀のバックルも曇っていた。

 

当然、門番に止められた。

 

「待て」

 

「あ?」

 

「その格好で入る気か?」

 

門番はバンを上から下まで見た。

 

そして、眉をひそめる。

 

「血、毒、石粉、森の泥。あと何だ、その焦げたような冷たい匂いは」

 

「でけぇ獣と虫に絡まれた」

 

「獣と虫でそうなるか」

 

「どっちもでかかったんだよ」

 

門番は深くため息をついた。

 

「美食市場へ行くつもりなら、そのままは駄目だ。食材に匂いが移る。毒が残っているならなおさらだ」

 

「先に飯食いてぇんだけどな」

 

「先に洗え。服も直せ。市場で倒れられても困る」

 

バンは面倒くさそうに頭をかいた。

 

左腕はまだ重い。

毒は月戻りの果実と泉で抜けたが、傷は残っている。服も、たしかにこのままでは食材に失礼だった。

 

バンは鼻で息を吐く。

 

「飯の前に服かよ」

 

門番は港の奥を指した。

 

「洗い屋なら、二番通りのミラの店へ行け。血と油と毒汚れなら、あの人が一番だ」

 

「酒は?」

 

「店を出てからにしろ」

 

「つまんねぇ町だな」

 

「食い物のためなら厳しい町だ」

 

その言葉に、バンは少しだけ笑った。

 

「なら、悪くねぇ」

 

門を抜けた先は、音で溢れていた。

 

石畳の道の両側に屋台が並び、焼き貝の匂いが湯気と一緒に流れてくる。巨大魚の頭を丸ごと煮込む鍋。海獣肉を串に刺して炭火で焼く屋台。薄い生地に魚醤と香草を塗って焼く店。酒樽を積んだ馬車。

 

バンは何度か足を止めかけた。

 

だが、そのたびに門番の言葉を思い出す。

 

この格好では食材に匂いが移る。

 

「……面倒くせぇ」

 

そう言いながらも、ちゃんと屋台には近づかない。

 

食材を雑に扱う気はない。

 

二番通りにある洗い屋は、港らしい店だった。

 

入口には濡れた革靴が吊られ、外壁には海獣革の補修布や防水油の瓶が並んでいる。奥からは石鹸と潮と薬草の匂いがした。

 

店の中にいたのは、灰色の髪を後ろで束ねた女だった。年は四十前後。腕まくりをした前腕は太く、針と糸よりも錨の鎖を扱っていそうな雰囲気がある。

 

女はバンを見るなり、目を細めた。

 

「何したら服がこんな死に方するんだい」

 

「でけぇ獣と虫に絡まれた」

 

「獣と虫で済む裂け方じゃないね」

 

「でかかったんだよ」

 

「さっき門番にも似たようなこと言ってただろ」

 

女は鼻を鳴らし、バンのコートの裾をつまんだ。

 

「血。毒。石粉。変な冷気。海の汚れじゃないね。森か遺跡か」

 

「大体そんなとこだ」

 

「獣、虫、森、遺跡。服が勝てる相手じゃないね」

 

「俺は勝った」

 

「服は負けてるよ」

 

バンは自分のコートを見下ろした。

 

裂けた裾。焦げたような染み。冷たい毒の匂い。石粉を噛んだ縫い目。

 

「……まあな」

 

「よく生きてたね」

 

「まだ死んでねぇだけだ」

 

女は一瞬だけバンを見た。

 

それから、小さく笑った。

 

「気に入った。脱ぎな。できるだけ元の形で直してやる」

 

「できるだけ?」

 

「新品にはならないよ。けど、赤コートとして歩けるくらいには戻す」

 

「それでいい」

 

女の名はミラ・ソルトステッチと言った。

 

港の洗い屋兼仕立て職人。船乗りの防水外套、食材ハンターの革鎧、料理人の油まみれの前掛け、冒険者の血塗れの服まで扱う、汚れと裂け目の専門家らしい。

 

バンはロングコートを脱ぎ、裂けた箇所を見せた。

 

ミラは何も言わずに状態を確認する。

 

胸元の高襟。

エンジ色の布。

袖口の擦れ。

背中の裂け目。

赤いレザーパンツのスタッズ。

太い茶革のベルト。

曇った銀のバックル。

 

「妙な服だね。見たことのない縫い方だ」

 

「古い馴染みみたいなもんだ」

 

「捨てる気は?」

 

「ねぇな」

 

「だろうね」

 

ミラは作業台へ服を広げた。

 

まず、潮落としの洗浄液ではなく、毒抜き用の薬草石鹸を使った。黒い染みが布から浮き上がり、水桶の中で赤黒く広がる。それを見て、ミラが眉を寄せる。

 

「本当に何と喧嘩したんだい」

 

「獣と虫だって」

 

「その獣と虫、どっちも町一つ食うだろ」

 

「食わせねぇよ。飯がまずくなる」

 

ミラは少し笑い、針を取った。

 

裂けた部分には海獣革を薄く削いだ補強布を当てる。表から見えすぎないよう、内側から縫い込む。糸には銀を少し混ぜた丈夫なものを使い、布の色に合わせて赤黒く染める。

 

革パンツには防水油と柔軟油を入れ直し、ベルトは傷んだ部分だけを補強する。銀のバックルは磨かれ、曇りが取れて鈍い光を取り戻した。

 

作業の間、バンは店の隅でポーションを飲まされていた。

 

ミラが近所の薬屋から取り寄せた高級品だという。

 

「飲みな。毒が抜けてても、血は足りてないだろ」

 

バンは小瓶を受け取り、匂いを嗅いだ。

 

顔をしかめる。

 

「……まずそうだな」

 

「薬に味を求めるんじゃないよ」

 

バンは瓶を傾け、一気に飲んだ。

 

次の瞬間、眉間にしわが寄った。

 

「っず……」

 

「効くだろ」

 

「泥水の方がマシだ」

 

「泥水で傷は塞がらないよ」

 

「肉の方が効く」

 

「普通は薬の方が効くんだよ」

 

ミラは呆れながらも、もう一本ポーションを渡した。

 

バンは嫌そうに飲む。

 

確かに効いた。

 

肩の痛みが少し引き、左腕の痺れもわずかに薄れる。裂けた肉がゆっくり寄っていくような感覚がある。

 

だが、うまくない。

 

致命的にうまくない。

 

「これ作った奴、味見してねぇだろ」

 

「薬師に言っておくよ。赤コートの変な客が文句を言ってたってね」

 

「味は大事だろ」

 

「治ればいいんだよ」

 

「治す飯なら、うまい方がいい」

 

ミラは針を止め、バンを見た。

 

「あんた、料理人かい?」

 

「たまにな」

 

「たまにでその言い方なら、相当だね」

 

バンは答えず、店の外から漂ってくる焼き肉の匂いに顔を向けた。

 

腹が鳴る。

 

ミラは笑った。

 

「服はもう少しで終わる。終わったら市場へ行きな。今日なら、海角牛の肩肉と、深海銀鱈が入ってる」

 

「うまいのか?」

 

「食べれば分かる」

 

「いい答えだ」

 

しばらくして、服は戻ってきた。

 

完全に新品ではない。

だが、ボロ布ではなくなっていた。

 

裂けていたエンジ色のロングコートは縫い直され、補強された箇所も色を合わせて目立たない。胸元の高襟は形を取り戻し、袖の毒染みはほとんど落ちている。赤いレザーパンツには油が入り、スタッズが鈍く光った。太い茶革のベルトは締め直され、銀のバックルも磨かれている。

 

バンは服を着直した。

 

肩の傷が動くたびに少し痛む。

 

だが、悪くない。

 

赤い旅人が、港町を歩ける格好に戻った。

 

「腕は?」

 

ミラが聞く。

 

「まだ重いな」

 

「なら、酒は控えな」

 

「無理だな」

 

「だと思ったよ」

 

バンは代金を払い、店を出た。

 

その足で向かったのは、美食市場だった。

 

そこは、狂っていた。

 

もちろん、いい意味で。

 

巨大な屋根の下に、海の食材が山のように並んでいる。人の背丈ほどある魚。甲羅が鍋ほど大きい蟹。青く光る貝。牙のある海獣の肉塊。氷の上に並べられた深海魚。吊るされた干物。桶いっぱいの小エビ。香草。塩。魚醤。酒。

 

声が飛ぶ。

 

「銀鱈、今朝の深場ものだ!」

 

「海角牛の肩、脂乗ってるよ!」

 

「香辛料は南方船から入ったばかり!」

 

「料理人ギルド認定の魚醤だ、安くはないが味は保証する!」

 

バンはゆっくり歩いた。

 

鼻で選ぶ。

目で選ぶ。

肉の繊維を見る。

魚の目を見る。

脂の匂いを嗅ぐ。

 

腹が鳴る。

 

「おい、そこの赤コート!」

 

屋台の親父が声をかけた。

 

「海角牛の串、食ってくか?左腕、怪我してんだろ。こいつは血になるぞ」

 

「二十本」

 

「は?」

 

「二十本焼け」

 

親父は一瞬固まり、それから笑った。

 

「いい客じゃねぇか!」

 

炭火の上で、海角牛の肉が焼ける。

 

海角牛は、海辺の岩場に棲む牛のような海獣らしい。肉は赤く、脂は真珠色で、焼くと潮の香りが立つ。塩と魚醤を軽く塗り、強い火で表面を焼く。

 

一口目。

 

バンは目を細めた。

 

「……いいな」

 

肉は力強い。

牛に似ているが、後味に海の塩気がある。脂は重すぎず、噛むほどに甘みが出る。血の味が濃く、傷んだ身体に染みるようだった。

 

一本。

二本。

三本。

 

バンは串を次々に平らげた。

 

屋台の親父が笑う。

 

「いい食いっぷりだな、赤コート!」

 

「足りねぇ」

 

「まだ食うのかよ!」

 

「治療中だ」

 

「それは治療って言うのか?」

 

「言う」

 

次は深海銀鱈の鍋。

 

白い身は箸を入れるとほろりと崩れ、脂が澄んだ汁に溶けている。生姜に似た香草と、港町特有の魚醤。湯気を吸うだけで身体が温まる。

 

バンは鍋を一つ空けた。

 

さらに貝の蒸し焼き。

海老の香草炒め。

海獣肉の煮込み。

焼き魚。

塩漬け肉。

魚醤を塗った薄焼きパン。

 

食う。

 

食う。

 

食う。

 

周りの客が見始める。

 

「おい、あいつ何皿目だ?」

 

「怪我人じゃなかったのか?」

 

「顔色、戻ってきてねぇか?」

 

「左腕、さっきより動いてるぞ」

 

実際、バンの身体は変わっていた。

 

毒はすでに抜けている。

そこへ、血になる肉、脂、塩、温かい汁、香草、魚、海獣の濃い栄養が入っていく。

 

煉獄を生き抜いた肉体が、それを無駄にしない。

 

裂けた肉が完全に塞がるわけではない。

骨が一瞬で治るわけでもない。

だが、冷えていた身体に熱が戻り、青ざめていた顔色が戻る。左腕の震えが少しずつ減り、指が握れるようになっていく。

 

バンは左手を軽く開閉した。

 

まだ痛い。

 

だが、落とさずに器を持てる程度には戻っている。

 

「こっちの方が薬より効くな」

 

屋台の親父が呆れた顔をした。

 

「あんたの身体、どうなってんだ」

 

「腹が減るようにできてる」

 

「答えになってねぇよ」

 

バンは酒を頼んだ。

 

港の濁り酒。

潮気のある麦酒。

果実を混ぜた軽い酒。

 

月戻りの果実を酒にする参考に、いくつか味を見る。

 

悪くない。

 

だが、月戻りの果実にはまだ足りない。

この町にはもっと合う樽と酵母があるはずだ。

 

バンは市場の奥に目を向けた。

 

そこには料理人ギルドの建物があった。

 

白い壁に、銀の包丁と魚の紋章。入口には料理人らしき者たちが出入りし、食材商人と値段を交渉している。香辛料の箱を抱えた若者、巨大鍋を運ぶ職人、酒樽を転がす男たち。

 

その前で、一人の金髪の青年が魚を見ていた。

 

白い料理服。

首元に青い布。

腰には細い包丁が何本も差してある。

 

青年は深海銀鱈の切り身を指で押し、香りを確かめ、店主に短く何かを告げた。仕草は繊細で、無駄がない。

 

バンは少しだけ見た。

 

「料理人か」

 

金髪の青年が、こちらに気づいた。

 

視線が合う。

 

青年の目が、バンの前に積まれた皿の山を見た。

次に、修復されたばかりの赤いコートを見る。

最後に、バンの左腕に残る傷を見る。

 

眉がわずかに動いた。

 

だが、声はかけてこない。

 

バンも声をかけない。

 

ただ、酒を飲む。

 

潮風が市場を抜ける。

 

どこかの屋台で魚が焼ける。

鍋が煮える。

香辛料が弾ける。

酒樽が開く。

 

美食都市ポルト・グランデ。

 

この町には、まだ食っていないものが山ほどある。

 

バンは口元を上げた。

 

「治療にちょうどいい町だな」

 

屋台の親父が笑った。

 

「治療で市場を食い尽くされちゃ困るぜ、赤コート」

 

「安心しろ」

 

バンは空になった皿を横へ置く。

 

「まだ腹八分目だ」

 

周囲が静まり返った。

 

親父がぽつりと言う。

 

「……本当に人間か?」

 

バンは酒を飲み干し、笑った。

 

「ただの旅人だ」

 

港の鐘が鳴る。

 

夕方の市が始まる合図だった。

 

さらに多くの食材が運び込まれ、料理人たちが動き出す。

ポルト・グランデの夜は、まだ始まってもいない。

 

赤い旅人は、空の皿の山の前で立ち上がった。

 

左腕はまだ痛む。

だが、朝よりはずっと動く。

 

服は直った。

毒も抜けた。

腹も少しは満ちた。

 

次は、月戻りの果実に合う樽と酵母を探す番だ。

 

バンは料理人ギルドの方へ歩き出した。

 

その背を、金髪の料理人が静かに見ていた。




第20話でした。
ポルト・グランデ到着回です。
バンは港町の洗い屋兼仕立て職人ミラに服を修復してもらい、ポーションに文句を言いつつ、海獣肉や深海魚を食べて身体を回復させました。
次回は、料理人ギルドと金髪料理人ルカ、そして大鍋職人との出会いに入ります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。