強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第19話です。


第19話 黒砂の奥へ

出発は、日の出と同時だった。

 

ハルファ南門の前には、先遣隊と、その帰還を支える第二線の部隊が並んでいる。

 

本体へ近づく第三線。

 

黒砂地帯の縁を維持する第二線。

 

そして、ハルファと補給路を守る第一線。

 

数百人規模の遠征軍から見れば、先へ進む者はほんの一握りだった。

 

マキシム。

 

女帝。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

バン。

 

それに、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアから選ばれた斥候、観測役、護衛が十数名。

 

エルンも観測役として加わっている。

 

セリアと治療班は、黒砂の濃度が上がる直前まで同行する。

 

サナはハルファに残る。

 

不満そうではあった。

 

けれど、今朝の彼女は泣かなかった。

 

バンの包帯を巻き直し、右腕の痺れを確認し、最後に薬草の小袋を押しつけただけだった。

 

「痛みが増えたら使ってください」

 

「苦ぇやつだろ」

 

「苦い方が効きます」

 

「甘いのはねぇのか」

 

「ありません」

 

「世知辛ぇな」

 

「あと」

 

サナはバンの暗い赤のコートの袖を掴んだ。

 

開いた襟。

 

銀の留め具が付いた太い革帯。

 

赤い革のズボン。

 

この砂漠では、遠くからでも目立つ格好だった。

 

「戻ってきてください」

 

「戻るって言ったろ」

 

「怪我を増やさずに」

 

「それは相手次第だな」

 

サナが睨む。

 

バンは少しだけ笑った。

 

「なるべくな」

 

「絶対です」

 

「はいはい」

 

「返事が軽いです」

 

「重く言えばいいのか?」

 

「……もういいです」

 

サナは手を離した。

 

けれど、その指は最後までコートの布を掴んでいた。

 

ナジュは黒砂酒の入った小さな革袋をバンへ渡す。

 

「気付け用だよ。飲み切るんじゃないよ」

 

「少なすぎねぇか」

 

「帰ったら樽がある」

 

「そうだったな」

 

「だから帰ってきな」

 

「あいよ」

 

ジャミルは砂漠船へ予備の帆を積み、第二線の船頭たちへ経路を説明している。

 

パァルとリシェルは、それぞれの部隊を最終確認していた。

 

ゼウスとヘラは、南門近くの見張り台から先遣隊を見ている。

 

最高神二柱は前線へ出ない。

 

神が直接戦えば、天界への送還だけでは済まない可能性がある。

 

何より、遠征全体を束ねる者が必要だった。

 

ゼウスが声を張る。

 

「無理をするなとは言わん!」

 

パァルがすぐに顔をしかめる。

 

「言ってください」

 

「では、ほどほどに無理をせよ!」

 

「もっと悪いです」

 

ヘラが冷たい目を向けた。

 

「ゼウス、黙りなさい」

 

「激励じゃぞ」

 

「士気を下げています」

 

バンは笑いながらクレシューズを肩へ担ぐ。

 

「面白ぇ神様だな」

 

マキシムが歩き出す。

 

「行くぞ」

 

その一言で、空気が変わった。

 

先遣隊が南門を離れる。

 

ハルファの住人たち。

 

遠征軍の団員たち。

 

治療師。

 

支援者。

 

大勢が見送っている。

 

けれど、声を上げる者はいない。

 

黒い砂漠の奥へ向かう者に、軽い言葉を投げられなかった。

 

最初の一刻ほどは、見慣れた景色だった。

 

黒砂の筋が混じる砂丘。

 

逃げていく小型魔物。

 

ひび割れた岩。

 

半分埋まった古い見張り石。

 

だが、進むにつれて、周囲から色が消えていった。

 

黄色い砂は灰色へ。

 

灰色は黒へ。

 

乾燥に強い低木は枯れ、枝だけを残している。

 

地上魔物の足跡も減った。

 

逃げたのではない。

 

ここまで来られないのだ。

 

あるいは、来たものはもう戻れない。

 

バンは地面を見る。

 

「静かすぎんな」

 

アルフィアが隣を歩きながら答える。

 

「お前が喋っている」

 

「そういう意味じゃねぇよ」

 

「分かっている」

 

彼女も警戒していた。

 

目は閉じたまま。

 

それでも、誰より広く周囲を捉えている。

 

音。

 

魔力。

 

風の変化。

 

砂の下の動き。

 

バンとは違う方法で、同じ異常を探っていた。

 

ザルドが前方の砂を見下ろす。

 

「死骸がある」

 

黒砂の中から、巨大な骨が突き出していた。

 

角。

 

背骨。

 

肋骨。

 

サンドホーンのものだろう。

 

だが、大きさがおかしい。

 

普通個体の倍近い。

 

黒砂に侵食され、膨れ上がった末に死んだのかもしれない。

 

骨の一部には、黒い結晶のようなものが食い込んでいる。

 

エルンが距離を取りながら記録する。

 

「死後も侵食が残っています。回収は?」

 

セリアが首を振る。

 

「触れない方がいいでしょう」

 

バンは《強奪》の感覚を伸ばしかける。

 

薄い糸。

 

遠くから骨の周囲を探る。

 

直後。

 

右腕の内側が痛んだ。

 

バンは糸を引く。

 

「まだ繋がってんな」

 

マキシムが問う。

 

「何に」

 

「奥のやつに」

 

骨そのものに生命はない。

 

だが、黒い結晶へ触れた瞬間、巨大な流れが返ってきた。

 

細い根。

 

黒砂全体へ広がる血管。

 

その一部。

 

女帝が骨を見た。

 

「死骸まで自分の一部に変えるのね」

 

「厄介だな」

 

ザルドは大剣の柄へ手を置いた。

 

「喰う価値はない」

 

「さすがに骨は食わねぇだろ」

 

「必要なら食う」

 

「内臓どうなってんだ、お前」

 

「強い」

 

「知ってる」

 

隊列は骨を避けて進む。

 

しばらくすると、風が止まった。

 

帆を使っていた第二線の砂漠船も、遠くで速度を落とす。

 

空気が重い。

 

暑さではない。

 

吸い込むたび、喉の奥へ細かな砂が貼りつくような感覚がある。

 

セリアが布を口元へ巻くよう指示した。

 

「ここから先、呼吸を浅くしてください。異常を感じたらすぐ申告を」

 

バンも布を受け取る。

 

「邪魔だな」

 

「毒を吸うよりましです」

 

「酒に浸した方がよくねぇか」

 

「駄目です」

 

「何で」

 

「酔うからです」

 

「少しなら――」

 

「駄目です」

 

バンは仕方なく普通の布を巻いた。

 

アルフィアは何も巻いていない。

 

バンが見る。

 

「お前は?」

 

「不要だ」

 

「強がんな」

 

「自分の周囲の空気は制御している」

 

アルフィアの周囲だけ、黒い粒子が近づかず横へ流れている。

 

魔法による静寂の領域。

 

音だけではない。

 

魔力を伴う微粒子まで遠ざけているらしい。

 

「便利だな」

 

「お前を入れるつもりはない」

 

「頼んでねぇよ」

 

少し先で、斥候の一人が手を上げる。

 

全員が止まった。

 

地面に、巨大な窪みがある。

 

足跡。

 

そう呼ぶには大きすぎた。

 

円形に沈んだ黒砂。

 

端から端まで、ハルファの酒場が収まりそうな広さがある。

 

深さも人の背丈を超えている。

 

女帝が足跡の縁へ立つ。

 

「これが脚一本分?」

 

エルンが地図と照らし合わせる。

 

「おそらく」

 

「でけぇな」

 

バンは窪みの底を見る。

 

黒砂が渦を巻いている。

 

風は止まっているのに、ゆっくりと回っていた。

 

地面へ残った力。

 

踏みつけた一歩の余韻が、まだ砂を動かしている。

 

「触るな」

 

ザルドが言う。

 

バンは伸ばしかけていた右手を止める。

 

「分かってるよ」

 

「顔が触る顔をしていた」

 

「どんな顔だ」

 

「お前の顔だ」

 

「説明になってねぇ」

 

バンはしゃがみ込まず、少し離れたまま《強奪》の糸を伸ばす。

 

今度は砂へ触れない。

 

窪みの周囲に残る、動きの端。

 

足が地面へ落ちた時の方向。

 

力がどちらへ逃げたか。

 

一瞬だけ探る。

 

見えた。

 

いや、感じた。

 

巨大な脚が落ちる。

 

大地が沈む。

 

力が円ではなく、前方へ多く流れる。

 

怪物は歩いた。

 

南から北西へ。

 

「動いてるな」

 

バンが立ち上がる。

 

「いつだ」

 

マキシムが問う。

 

「分からねぇ。けど、古くはない。流れがまだ残ってる」

 

エルンが記録する。

 

「進行方向は?」

 

バンは腕を伸ばす。

 

「向こう」

 

指の先。

 

黒砂の奥。

 

ハルファから少しずれた方向。

 

ジャミルがいない今、正確な方角は分からない。

 

だが、この足跡が示す先に本体がいる。

 

マキシムが隊列を組み直す。

 

「観測役を中央へ。前衛を外へ。ここから速度を落とす」

 

女帝が付け加える。

 

「声を抑えなさい。地面へ強い衝撃を与えるな」

 

ザルドが大剣から手を離す。

 

まだ抜かない。

 

アルフィアも魔力を抑えている。

 

最強と呼ばれる者たちが、戦う前から力を隠して進む。

 

それだけで、相手の格が分かる。

 

さらに一刻。

 

景色は、砂漠ではなくなっていた。

 

黒い平原。

 

砂丘すら潰され、地面が広く平らになっている。

 

巨大な何かが何度も通ったためだろう。

 

ところどころに、山のような岩がある。

 

だが、近づいてみれば岩ではない。

 

脱落した外殻。

 

あるいは、身体から剥がれた鱗。

 

一枚だけで家屋ほどある。

 

表面は黒く、石より硬そうだった。

 

エルンが息を呑む。

 

「これが……外殻」

 

ザルドが近づき、手袋越しに大剣の先で軽く叩く。

 

甲高い音。

 

刃は傷一つつけられない。

 

ザルドの目が鋭くなる。

 

「硬い」

 

「お前が言うと相当だな」

 

バンが言う。

 

「古い外殻でこれだ。本体はさらに硬い可能性がある」

 

女帝は外殻の断面を見る。

 

「自然に剥がれたものね。内側に肉がない」

 

「回収は後だ」

 

マキシムが言う。

 

「今は場所だけ記録する」

 

先遣隊は、さらに奥へ進む。

 

その頃には、誰も無駄口を叩かなくなっていた。

 

バンも黙っている。

 

喉の布は湿って重い。

 

右腕の痺れが少し増している。

 

まだ黒砂へ直接触れていない。

 

それでも、奥へ近づくほど身体が反応する。

 

《強奪》の感覚が、勝手に引かれている。

 

巨大な力へ。

 

盗りたいのではない。

 

向こうが広すぎて、感覚の端に入り込んでくる。

 

アルフィアが小声で言う。

 

「糸を伸ばすな」

 

「伸ばしてねぇよ」

 

「勝手に引かれているのか」

 

「ああ」

 

「切れ」

 

「簡単に言うな」

 

「呑まれたいのか」

 

「嫌だな」

 

バンは意識して《強奪》を閉じる。

 

糸を身体へ戻す。

 

周囲の流れが見えなくなる。

 

代わりに、自分の目と耳だけで進む。

 

不便だった。

 

だが、今はその方が安全だ。

 

やがて、先頭の斥候が地面へ伏せた。

 

拳を上げる。

 

停止。

 

全員が動きを止める。

 

前方には、黒い丘陵が連なっていた。

 

遠く。

 

いくつもの丘が重なって見える。

 

だが、その形は自然ではない。

 

均等すぎる。

 

規則的に並びすぎている。

 

風景そのものが、ゆっくりと上下している。

 

バンは目を細めた。

 

「……あれか」

 

誰も答えない。

 

答える必要がなかった。

 

黒い丘だと思ったものは、背中だった。

 

岩山に見えた突起は、外殻。

 

地平線の一部に見えた盛り上がりは、肩。

 

その向こうに、頭がある。

 

遠すぎて細部は見えない。

 

それでも、巨大さだけは分かった。

 

砦。

 

城壁。

 

山。

 

どれも足りない。

 

地形そのものが、伏せて眠っている。

 

巨獣が息を吐く。

 

黒い砂が、地面から浮き上がった。

 

風ではない。

 

呼吸によって、大地全体が動いている。

 

先遣隊の外套が後方へなびく。

 

重い空気が押し寄せる。

 

セリアが口元を押さえる。

 

「下がって……!」

 

アルフィアが即座に前へ出る。

 

片手を上げる。

 

静寂の領域が広がった。

 

押し寄せる黒い粒子が、先遣隊の前で左右へ分かれる。

 

完全には防げない。

 

だが、直撃は避けた。

 

バンは地面へクレシューズを突き立てる。

 

身体が後ろへ押される。

 

ただの寝息。

 

攻撃ですらない。

 

それだけで、第一級冒険者を含む隊列が揺れた。

 

ザルドが低く言う。

 

「これが、ベヒーモスだ」

 

その声に、軽さはなかった。

 

バンは巨獣を見る。

 

まだこちらを見ていない。

 

眠っている。

 

いや。

 

眠っているのかどうかすら分からない。

 

人間が近づいたことなど、気にも留めていないだけかもしれない。

 

マキシムが片手を上げる。

 

「観測を始める。近づきすぎるな」

 

エルンたちが震える手で記録を取る。

 

外殻の並び。

 

呼吸の間隔。

 

頭部の位置。

 

脚の数。

 

身体の向き。

 

黒砂が濃くなる場所。

 

女帝は微動だにせず巨獣を見ている。

 

アルフィアは静寂を維持しながら、呼吸を浅くしていた。

 

バンは彼女の横顔を見る。

 

苦しいはずだ。

 

それでも、魔法を解かない。

 

「代わるか」

 

バンが言う。

 

「何をする」

 

「砂の流れだけなら、少しずらせる」

 

「不要だ」

 

「無理すんな」

 

「お前の右腕で言うな」

 

「お互い様だな」

 

「黙って観測しろ」

 

バンは前へ視線を戻す。

 

ベヒーモスの首元。

 

黒い外殻の隙間に、わずかに赤黒い部分が見える。

 

肉。

 

あるいは、毒が集まる器官。

 

巨獣がもう一度息を吐く。

 

今度は少し長い。

 

黒砂が再び浮かび上がる。

 

その瞬間。

 

バンの《強奪》が勝手に反応した。

 

呼吸の流れ。

 

広すぎる。

 

大地を覆うほどの力。

 

だが、その中に一つだけ。

 

途切れ。

 

息を吐き切り、吸い始める直前。

 

ほんのわずか。

 

流れが薄くなる瞬間がある。

 

バンは目を細めた。

 

「見つけた」

 

ザルドが聞く。

 

「何を」

 

「息の切れ目」

 

マキシムと女帝が同時にバンを見る。

 

バンは巨獣から目を離さない。

 

「ずっと力出してるわけじゃねぇ。吐き切った後、一瞬だけ黒砂の流れが弱くなる」

 

エルンが急いで書き留める。

 

「間隔は」

 

「まだ分からねぇ。もう一回見ねぇとな」

 

アルフィアが言う。

 

「深く探るな」

 

「分かってる」

 

ベヒーモスの身体がわずかに動いた。

 

背中の外殻が擦れ合う。

 

山が崩れるような音。

 

地面が沈む。

 

巨獣の頭が、ほんの少し持ち上がった。

 

先遣隊全員の身体が強張る。

 

大きな角。

 

黒い顎。

 

閉じていた瞼。

 

その一つが、ゆっくりと開く。

 

目があった。

 

正確には、こちらを見たかどうかは分からない。

 

人間など、小さすぎる。

 

だが、巨獣の瞳が開いた瞬間。

 

世界がこちらへ向いた。

 

そんな錯覚がした。

 

恐怖ではない。

 

それよりもっと原始的な感覚。

 

ここにいてはいけない。

 

この存在の前へ立つように、人間の身体は作られていない。

 

観測役の一人が膝をつく。

 

別の者が呼吸を乱す。

 

セリアが即座に支える。

 

マキシムの声が飛ぶ。

 

「撤退する」

 

誰も反論しない。

 

情報は得た。

 

姿。

 

呼吸。

 

外殻。

 

毒。

 

そして、こちらを認識した可能性。

 

それ以上は欲張れない。

 

女帝が最後尾へ回る。

 

「隊列を崩すな」

 

ザルドも大剣へ手を置き、巨獣から目を離さない。

 

アルフィアが静寂の領域を保つ。

 

バンはクレシューズを握る。

 

ベヒーモスは追ってこない。

 

ただ、頭を少し持ち上げただけ。

 

それなのに。

 

黒い砂漠全体が、目を覚まし始めた。

 

遠くの黒砂が波打つ。

 

骨の下で何かが動く。

 

外殻の隙間から、黒い靄が溢れる。

 

エルンが青ざめる。

 

「周囲の魔物が動き始めています!」

 

マキシムが叫ぶ。

 

「急げ!走るな、隊列を保て!」

 

走れば地面を強く踏む。

 

黒砂を巻き上げる。

 

巨獣へ振動を伝える。

 

だから、速く歩く。

 

恐怖に背を押されても、走らない。

 

バンは振り返った。

 

遠く。

 

巨獣の瞳が、まだ開いている。

 

こちらを見ているように感じる。

 

バンは小さく笑った。

 

「でけぇな、お前」

 

誰にも聞こえないほどの声。

 

クレシューズを肩へ担ぐ。

 

「全部はいらねぇよ」

 

ベヒーモスの瞳が細くなる。

 

地面の奥で、重い音が鳴った。

 

それが咆哮の前触れだと気づいた時。

 

先遣隊はすでに、撤退を始めていた。




第19話でした。

今回は先遣隊が黒砂の奥へ入り、足跡や外殻、毒の濃度を確認したうえで、初めてベヒーモス本体を目にする回にしました。

本格戦闘には入らず、呼吸だけで周囲を揺らす規模と、息の切れ目というわずかな特徴を観測しています。
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