出発は、日の出と同時だった。
ハルファ南門の前には、先遣隊と、その帰還を支える第二線の部隊が並んでいる。
本体へ近づく第三線。
黒砂地帯の縁を維持する第二線。
そして、ハルファと補給路を守る第一線。
数百人規模の遠征軍から見れば、先へ進む者はほんの一握りだった。
マキシム。
女帝。
ザルド。
アルフィア。
バン。
それに、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアから選ばれた斥候、観測役、護衛が十数名。
エルンも観測役として加わっている。
セリアと治療班は、黒砂の濃度が上がる直前まで同行する。
サナはハルファに残る。
不満そうではあった。
けれど、今朝の彼女は泣かなかった。
バンの包帯を巻き直し、右腕の痺れを確認し、最後に薬草の小袋を押しつけただけだった。
「痛みが増えたら使ってください」
「苦ぇやつだろ」
「苦い方が効きます」
「甘いのはねぇのか」
「ありません」
「世知辛ぇな」
「あと」
サナはバンの暗い赤のコートの袖を掴んだ。
開いた襟。
銀の留め具が付いた太い革帯。
赤い革のズボン。
この砂漠では、遠くからでも目立つ格好だった。
「戻ってきてください」
「戻るって言ったろ」
「怪我を増やさずに」
「それは相手次第だな」
サナが睨む。
バンは少しだけ笑った。
「なるべくな」
「絶対です」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「重く言えばいいのか?」
「……もういいです」
サナは手を離した。
けれど、その指は最後までコートの布を掴んでいた。
ナジュは黒砂酒の入った小さな革袋をバンへ渡す。
「気付け用だよ。飲み切るんじゃないよ」
「少なすぎねぇか」
「帰ったら樽がある」
「そうだったな」
「だから帰ってきな」
「あいよ」
ジャミルは砂漠船へ予備の帆を積み、第二線の船頭たちへ経路を説明している。
パァルとリシェルは、それぞれの部隊を最終確認していた。
ゼウスとヘラは、南門近くの見張り台から先遣隊を見ている。
最高神二柱は前線へ出ない。
神が直接戦えば、天界への送還だけでは済まない可能性がある。
何より、遠征全体を束ねる者が必要だった。
ゼウスが声を張る。
「無理をするなとは言わん!」
パァルがすぐに顔をしかめる。
「言ってください」
「では、ほどほどに無理をせよ!」
「もっと悪いです」
ヘラが冷たい目を向けた。
「ゼウス、黙りなさい」
「激励じゃぞ」
「士気を下げています」
バンは笑いながらクレシューズを肩へ担ぐ。
「面白ぇ神様だな」
マキシムが歩き出す。
「行くぞ」
その一言で、空気が変わった。
先遣隊が南門を離れる。
ハルファの住人たち。
遠征軍の団員たち。
治療師。
支援者。
大勢が見送っている。
けれど、声を上げる者はいない。
黒い砂漠の奥へ向かう者に、軽い言葉を投げられなかった。
最初の一刻ほどは、見慣れた景色だった。
黒砂の筋が混じる砂丘。
逃げていく小型魔物。
ひび割れた岩。
半分埋まった古い見張り石。
だが、進むにつれて、周囲から色が消えていった。
黄色い砂は灰色へ。
灰色は黒へ。
乾燥に強い低木は枯れ、枝だけを残している。
地上魔物の足跡も減った。
逃げたのではない。
ここまで来られないのだ。
あるいは、来たものはもう戻れない。
バンは地面を見る。
「静かすぎんな」
アルフィアが隣を歩きながら答える。
「お前が喋っている」
「そういう意味じゃねぇよ」
「分かっている」
彼女も警戒していた。
目は閉じたまま。
それでも、誰より広く周囲を捉えている。
音。
魔力。
風の変化。
砂の下の動き。
バンとは違う方法で、同じ異常を探っていた。
ザルドが前方の砂を見下ろす。
「死骸がある」
黒砂の中から、巨大な骨が突き出していた。
角。
背骨。
肋骨。
サンドホーンのものだろう。
だが、大きさがおかしい。
普通個体の倍近い。
黒砂に侵食され、膨れ上がった末に死んだのかもしれない。
骨の一部には、黒い結晶のようなものが食い込んでいる。
エルンが距離を取りながら記録する。
「死後も侵食が残っています。回収は?」
セリアが首を振る。
「触れない方がいいでしょう」
バンは《強奪》の感覚を伸ばしかける。
薄い糸。
遠くから骨の周囲を探る。
直後。
右腕の内側が痛んだ。
バンは糸を引く。
「まだ繋がってんな」
マキシムが問う。
「何に」
「奥のやつに」
骨そのものに生命はない。
だが、黒い結晶へ触れた瞬間、巨大な流れが返ってきた。
細い根。
黒砂全体へ広がる血管。
その一部。
女帝が骨を見た。
「死骸まで自分の一部に変えるのね」
「厄介だな」
ザルドは大剣の柄へ手を置いた。
「喰う価値はない」
「さすがに骨は食わねぇだろ」
「必要なら食う」
「内臓どうなってんだ、お前」
「強い」
「知ってる」
隊列は骨を避けて進む。
しばらくすると、風が止まった。
帆を使っていた第二線の砂漠船も、遠くで速度を落とす。
空気が重い。
暑さではない。
吸い込むたび、喉の奥へ細かな砂が貼りつくような感覚がある。
セリアが布を口元へ巻くよう指示した。
「ここから先、呼吸を浅くしてください。異常を感じたらすぐ申告を」
バンも布を受け取る。
「邪魔だな」
「毒を吸うよりましです」
「酒に浸した方がよくねぇか」
「駄目です」
「何で」
「酔うからです」
「少しなら――」
「駄目です」
バンは仕方なく普通の布を巻いた。
アルフィアは何も巻いていない。
バンが見る。
「お前は?」
「不要だ」
「強がんな」
「自分の周囲の空気は制御している」
アルフィアの周囲だけ、黒い粒子が近づかず横へ流れている。
魔法による静寂の領域。
音だけではない。
魔力を伴う微粒子まで遠ざけているらしい。
「便利だな」
「お前を入れるつもりはない」
「頼んでねぇよ」
少し先で、斥候の一人が手を上げる。
全員が止まった。
地面に、巨大な窪みがある。
足跡。
そう呼ぶには大きすぎた。
円形に沈んだ黒砂。
端から端まで、ハルファの酒場が収まりそうな広さがある。
深さも人の背丈を超えている。
女帝が足跡の縁へ立つ。
「これが脚一本分?」
エルンが地図と照らし合わせる。
「おそらく」
「でけぇな」
バンは窪みの底を見る。
黒砂が渦を巻いている。
風は止まっているのに、ゆっくりと回っていた。
地面へ残った力。
踏みつけた一歩の余韻が、まだ砂を動かしている。
「触るな」
ザルドが言う。
バンは伸ばしかけていた右手を止める。
「分かってるよ」
「顔が触る顔をしていた」
「どんな顔だ」
「お前の顔だ」
「説明になってねぇ」
バンはしゃがみ込まず、少し離れたまま《強奪》の糸を伸ばす。
今度は砂へ触れない。
窪みの周囲に残る、動きの端。
足が地面へ落ちた時の方向。
力がどちらへ逃げたか。
一瞬だけ探る。
見えた。
いや、感じた。
巨大な脚が落ちる。
大地が沈む。
力が円ではなく、前方へ多く流れる。
怪物は歩いた。
南から北西へ。
「動いてるな」
バンが立ち上がる。
「いつだ」
マキシムが問う。
「分からねぇ。けど、古くはない。流れがまだ残ってる」
エルンが記録する。
「進行方向は?」
バンは腕を伸ばす。
「向こう」
指の先。
黒砂の奥。
ハルファから少しずれた方向。
ジャミルがいない今、正確な方角は分からない。
だが、この足跡が示す先に本体がいる。
マキシムが隊列を組み直す。
「観測役を中央へ。前衛を外へ。ここから速度を落とす」
女帝が付け加える。
「声を抑えなさい。地面へ強い衝撃を与えるな」
ザルドが大剣から手を離す。
まだ抜かない。
アルフィアも魔力を抑えている。
最強と呼ばれる者たちが、戦う前から力を隠して進む。
それだけで、相手の格が分かる。
さらに一刻。
景色は、砂漠ではなくなっていた。
黒い平原。
砂丘すら潰され、地面が広く平らになっている。
巨大な何かが何度も通ったためだろう。
ところどころに、山のような岩がある。
だが、近づいてみれば岩ではない。
脱落した外殻。
あるいは、身体から剥がれた鱗。
一枚だけで家屋ほどある。
表面は黒く、石より硬そうだった。
エルンが息を呑む。
「これが……外殻」
ザルドが近づき、手袋越しに大剣の先で軽く叩く。
甲高い音。
刃は傷一つつけられない。
ザルドの目が鋭くなる。
「硬い」
「お前が言うと相当だな」
バンが言う。
「古い外殻でこれだ。本体はさらに硬い可能性がある」
女帝は外殻の断面を見る。
「自然に剥がれたものね。内側に肉がない」
「回収は後だ」
マキシムが言う。
「今は場所だけ記録する」
先遣隊は、さらに奥へ進む。
その頃には、誰も無駄口を叩かなくなっていた。
バンも黙っている。
喉の布は湿って重い。
右腕の痺れが少し増している。
まだ黒砂へ直接触れていない。
それでも、奥へ近づくほど身体が反応する。
《強奪》の感覚が、勝手に引かれている。
巨大な力へ。
盗りたいのではない。
向こうが広すぎて、感覚の端に入り込んでくる。
アルフィアが小声で言う。
「糸を伸ばすな」
「伸ばしてねぇよ」
「勝手に引かれているのか」
「ああ」
「切れ」
「簡単に言うな」
「呑まれたいのか」
「嫌だな」
バンは意識して《強奪》を閉じる。
糸を身体へ戻す。
周囲の流れが見えなくなる。
代わりに、自分の目と耳だけで進む。
不便だった。
だが、今はその方が安全だ。
やがて、先頭の斥候が地面へ伏せた。
拳を上げる。
停止。
全員が動きを止める。
前方には、黒い丘陵が連なっていた。
遠く。
いくつもの丘が重なって見える。
だが、その形は自然ではない。
均等すぎる。
規則的に並びすぎている。
風景そのものが、ゆっくりと上下している。
バンは目を細めた。
「……あれか」
誰も答えない。
答える必要がなかった。
黒い丘だと思ったものは、背中だった。
岩山に見えた突起は、外殻。
地平線の一部に見えた盛り上がりは、肩。
その向こうに、頭がある。
遠すぎて細部は見えない。
それでも、巨大さだけは分かった。
砦。
城壁。
山。
どれも足りない。
地形そのものが、伏せて眠っている。
巨獣が息を吐く。
黒い砂が、地面から浮き上がった。
風ではない。
呼吸によって、大地全体が動いている。
先遣隊の外套が後方へなびく。
重い空気が押し寄せる。
セリアが口元を押さえる。
「下がって……!」
アルフィアが即座に前へ出る。
片手を上げる。
静寂の領域が広がった。
押し寄せる黒い粒子が、先遣隊の前で左右へ分かれる。
完全には防げない。
だが、直撃は避けた。
バンは地面へクレシューズを突き立てる。
身体が後ろへ押される。
ただの寝息。
攻撃ですらない。
それだけで、第一級冒険者を含む隊列が揺れた。
ザルドが低く言う。
「これが、ベヒーモスだ」
その声に、軽さはなかった。
バンは巨獣を見る。
まだこちらを見ていない。
眠っている。
いや。
眠っているのかどうかすら分からない。
人間が近づいたことなど、気にも留めていないだけかもしれない。
マキシムが片手を上げる。
「観測を始める。近づきすぎるな」
エルンたちが震える手で記録を取る。
外殻の並び。
呼吸の間隔。
頭部の位置。
脚の数。
身体の向き。
黒砂が濃くなる場所。
女帝は微動だにせず巨獣を見ている。
アルフィアは静寂を維持しながら、呼吸を浅くしていた。
バンは彼女の横顔を見る。
苦しいはずだ。
それでも、魔法を解かない。
「代わるか」
バンが言う。
「何をする」
「砂の流れだけなら、少しずらせる」
「不要だ」
「無理すんな」
「お前の右腕で言うな」
「お互い様だな」
「黙って観測しろ」
バンは前へ視線を戻す。
ベヒーモスの首元。
黒い外殻の隙間に、わずかに赤黒い部分が見える。
肉。
あるいは、毒が集まる器官。
巨獣がもう一度息を吐く。
今度は少し長い。
黒砂が再び浮かび上がる。
その瞬間。
バンの《強奪》が勝手に反応した。
呼吸の流れ。
広すぎる。
大地を覆うほどの力。
だが、その中に一つだけ。
途切れ。
息を吐き切り、吸い始める直前。
ほんのわずか。
流れが薄くなる瞬間がある。
バンは目を細めた。
「見つけた」
ザルドが聞く。
「何を」
「息の切れ目」
マキシムと女帝が同時にバンを見る。
バンは巨獣から目を離さない。
「ずっと力出してるわけじゃねぇ。吐き切った後、一瞬だけ黒砂の流れが弱くなる」
エルンが急いで書き留める。
「間隔は」
「まだ分からねぇ。もう一回見ねぇとな」
アルフィアが言う。
「深く探るな」
「分かってる」
ベヒーモスの身体がわずかに動いた。
背中の外殻が擦れ合う。
山が崩れるような音。
地面が沈む。
巨獣の頭が、ほんの少し持ち上がった。
先遣隊全員の身体が強張る。
大きな角。
黒い顎。
閉じていた瞼。
その一つが、ゆっくりと開く。
目があった。
正確には、こちらを見たかどうかは分からない。
人間など、小さすぎる。
だが、巨獣の瞳が開いた瞬間。
世界がこちらへ向いた。
そんな錯覚がした。
恐怖ではない。
それよりもっと原始的な感覚。
ここにいてはいけない。
この存在の前へ立つように、人間の身体は作られていない。
観測役の一人が膝をつく。
別の者が呼吸を乱す。
セリアが即座に支える。
マキシムの声が飛ぶ。
「撤退する」
誰も反論しない。
情報は得た。
姿。
呼吸。
外殻。
毒。
そして、こちらを認識した可能性。
それ以上は欲張れない。
女帝が最後尾へ回る。
「隊列を崩すな」
ザルドも大剣へ手を置き、巨獣から目を離さない。
アルフィアが静寂の領域を保つ。
バンはクレシューズを握る。
ベヒーモスは追ってこない。
ただ、頭を少し持ち上げただけ。
それなのに。
黒い砂漠全体が、目を覚まし始めた。
遠くの黒砂が波打つ。
骨の下で何かが動く。
外殻の隙間から、黒い靄が溢れる。
エルンが青ざめる。
「周囲の魔物が動き始めています!」
マキシムが叫ぶ。
「急げ!走るな、隊列を保て!」
走れば地面を強く踏む。
黒砂を巻き上げる。
巨獣へ振動を伝える。
だから、速く歩く。
恐怖に背を押されても、走らない。
バンは振り返った。
遠く。
巨獣の瞳が、まだ開いている。
こちらを見ているように感じる。
バンは小さく笑った。
「でけぇな、お前」
誰にも聞こえないほどの声。
クレシューズを肩へ担ぐ。
「全部はいらねぇよ」
ベヒーモスの瞳が細くなる。
地面の奥で、重い音が鳴った。
それが咆哮の前触れだと気づいた時。
先遣隊はすでに、撤退を始めていた。
第19話でした。
今回は先遣隊が黒砂の奥へ入り、足跡や外殻、毒の濃度を確認したうえで、初めてベヒーモス本体を目にする回にしました。
本格戦闘には入らず、呼吸だけで周囲を揺らす規模と、息の切れ目というわずかな特徴を観測しています。