今回は、料理人ギルドで金髪料理人ルカ・ブロンディと出会い、バンの料理人としての異質さが見える回です。
後半では大鍋職人マーロウも登場し、月戻りの果実酒と、今後の海の冒険への準備に繋がっていきます。
ポルト・グランデの料理人ギルドは、港町の心臓みたいな場所だった。
白い壁に、銀の包丁と魚の紋章。
建物の前には食材商人の荷車が並び、巨大魚の尾がはみ出した木箱、香辛料の詰まった革袋、氷に包まれた深海魚、海獣肉の塊、酒樽、魚醤の壺が次々と運び込まれている。
中からは、絶えず音がした。
包丁がまな板を叩く音。
鍋が煮える音。
油が跳ねる音。
料理人たちの怒鳴り声。
商人の値切り声。
弟子らしき若者が叱られる声。
そして、匂い。
焼いた魚。
煮込んだ貝。
海獣肉の脂。
香草。
酒。
魚醤。
焦げたバターに似た甘い香り。
バンは入口の前で立ち止まり、鼻を鳴らした。
「……いい匂いしてんな」
左腕はまだ痛む。
服はミラに直してもらった。海獣肉と深海魚も食った。ポーションもまずいのを二本飲んだ。毒は抜け、顔色も戻り、左手も器を持てるくらいには動く。
だが、完全ではない。
左肩から肘にかけて、重い鈍痛が残っている。指を強く握ると、傷の奥が軋んだ。
それでも、料理人ギルドの匂いを前にして足を止める理由にはならない。
バンは中へ入った。
ギルドの中は、市場よりさらに騒がしかった。
広いホールの中央には調理台がいくつも並び、料理人たちが食材を見極めている。奥には試作用の厨房があり、さらにその奥には酒や調味料の保管庫が見えた。
壁には、料理大会の賞状や、歴代の料理長の肖像画が飾られている。
受付にいた女が、バンを見て眉をひそめた。
「ご用件は?」
「樽と酵母」
「……はい?」
「月戻りの果実に合う樽と酵母を探してる」
受付の女の表情が変わった。
「月戻りの果実?」
「ああ」
「本物ですか?」
「食った。うまかった」
「食べたんですか!?」
受付の声が少し裏返った。
周囲の料理人たちがこちらを見る。
バンは面倒くさそうに頭をかいた。
「酒にする分は残してる」
「そういう問題では……!」
その時、奥から静かな声がした。
「騒がしいな」
声の主は、前の日に市場で見かけた金髪の青年だった。
白い料理服。
首元には青い布。
腰には細い包丁が何本も差してある。
背は高く、動きに無駄がない。髪は明るい金色で、後ろで軽く束ねている。
青年はバンを見た。
それから、受付の女へ視線を向ける。
「何があった?」
「ルカさん。この方が、月戻りの果実を酒にしたいと」
ルカと呼ばれた青年の目が、わずかに細くなる。
「月戻りの果実を?」
「ああ」
バンは袋を軽く叩いた。
「普通の樽じゃ香りが逃げる。森の木じゃ青臭さが移る。石壺じゃ甘みが閉じる。海風を吸った古樽と、冷たい甘みを壊さねぇ酵母がいる」
ルカは黙った。
バンの言葉を聞いている。
その表情から、馬鹿にしている様子は消えていた。
「……分かって言っているのか」
「舌と鼻が言ってる」
「理屈ではなく?」
「理屈は後でついてくるだろ」
周囲の料理人たちがざわつく。
受付の女も、どうしたらいいのか分からない顔をしている。
ルカは一歩前に出た。
「ルカ・ブロンディ。料理人ギルド所属の料理人だ」
「バン。ただの旅人だ」
「旅人が、月戻りの果実を酒にする?」
「うまそうだからな」
「それだけか?」
「それ以上いるか?」
ルカは少しだけ眉を寄せた。
その顔には、怒りではなく困惑があった。
月戻りの果実。
料理人や酒職人にとっては、伝説に近い食材だ。扱いを間違えれば香りを殺し、温度を間違えれば甘みが壊れ、酵母を間違えればただの酸っぱい汁になる。
それを、この赤い旅人は「うまそうだから」と言った。
しかも、その目は嘘をついていない。
ルカは静かに言った。
「見せてもらえるか」
バンは袋から一つだけ果実を取り出した。
ギルド内の空気が変わる。
青白い皮。
淡い金色の光。
白い花と夜露の香り。
果実が調理台の上に置かれた瞬間、周囲の料理人たちが息を呑んだ。
「本物だ……」
「まだ実っていたのか」
「エルソスの森は死んだんじゃなかったのか」
「香りが細い。けど、強い」
ルカは果実へ手を伸ばしかけ、止めた。
「触れても?」
「傷つけんなよ」
「料理人に食材を雑に扱うなと言うのか」
「言う」
ルカは少しだけ目を見開き、それから口元を緩めた。
「なるほど。失礼した」
彼は指先で果実を持ち上げ、香りを確かめた。軽く回し、皮の張りを見る。果実の重さ、果汁の入り方、表面の温度。
その仕草は繊細だった。
まるで宝石を扱う職人のように、無駄なく、丁寧に、恐ろしく慎重だった。
バンはそれを見ていた。
「丁寧だな」
「食材に対して当然だ」
「当然ねぇ」
「君は違うのか」
「俺は、もう少し乱暴だ」
ルカは果実を調理台に戻した。
「乱暴に扱えば、素材は死ぬ」
その言葉に、バンが笑った。
「死んだ素材を起こすのが料理だろ」
周囲の空気が固まった。
料理人たちが、二人を見る。
ルカは静かにバンを見た。
「面白いことを言う」
「そうか?」
「なら、見せてもらおうか。君の料理を」
「樽を探しに来たんだが」
「樽なら紹介する。だが、その前に君が食材をどう見るのか知りたい」
バンは少し考えた。
腹は、まだ空いている。
先に食ったとはいえ、ポルト・グランデにはまだまだ食材がある。料理人ギルドの厨房なら、火も鍋も包丁もある。
左腕は痛いが、右手は動く。
「食材は?」
バンが聞く。
ルカは近くの箱を指した。
「今朝入った海角牛の余りと、深海銀鱈、香草、岩塩、魚醤。君が望むなら高級スパイスも出す」
「いらねぇ」
「見てもいないのに?」
「今の肉と魚なら、邪魔になる」
ルカの眉がわずかに動いた。
「高級スパイスが邪魔だと?」
「ああ。脂と塩気が立ってる。強い香りを乗せたら喧嘩する」
バンは調理台へ歩いた。
用意された肉を見る。
海角牛の肩肉。
脂が筋の間に入り、赤身が強い。港で食った串と同じ系統だが、これは端材だった。形は不揃いで、筋も多い。
次に深海銀鱈。
白身は柔らかい。脂は澄んでいる。だが、切り身の端が少し崩れている。丁寧な皿にするには難しい。
ルカが見ている。
周囲の料理人たちも見ている。
バンは包丁を手に取った。
左腕は使えない。
右手だけで押さえ、切る必要がある。
普通なら難しい。
だが、バンは肉の筋を見た。
筋がどこを走っているか。
どこを切れば固さがほどけるか。
どこを残せば噛んだ時にうまいか。
料理なら、骨の位置も筋の流れも読める。
アンタレスの封印よりはずっと簡単だった。
「片手でやるのか」
ルカが言った。
「左は治療中だ」
「なら、無理をするな」
「腹が減ってる」
「理由になっていない」
「なるだろ」
バンは包丁を落とした。
いや、振り落とした。
刃が肉へ入る。
細かく整える切り方ではない。筋を断ち、脂を逃がさず、火が通る道だけを開く。乱暴に見える。だが、余計な部分は潰していない。
周囲の料理人の一人が顔をしかめた。
「雑だな」
ルカはその男を手で制した。
「黙って見ろ」
次に魚。
バンは銀鱈を崩れた形のまま見る。
綺麗な切り身にはできない。なら、無理に整えない。
ほぐす。
脂の乗った白身を大きく崩し、骨だけを抜く。香草は刻まず、手で叩いて香りを出す。岩塩は粗く砕き、魚醤はほんの少し。
鍋を火にかける。
海角牛の脂を先に焼く。
脂が溶け、強い香りが立つ。そこへ肉を入れ、表面を焼きつける。焦げる直前で水を入れ、銀鱈を崩して加える。魚醤を一滴、二滴。香草を投げる。
見た目は上品ではない。
だが、匂いが変わった。
肉の血の香り。
魚の脂。
潮の塩気。
香草の青さ。
それらが鍋の中でぶつかり、少しずつ一つになっていく。
ルカの表情が変わる。
「……香りが、立った」
バンは火を強めた。
「弱火で綺麗にまとめる肉じゃねぇ。暴れさせた方がうまい」
「暴れさせる?」
「こいつらは元気がいい。なら、皿の上でも暴れさせりゃいい」
鍋が煮える。
バンは味を見る。
少し薄い。
岩塩を足す。
魚醤は足さない。
足せば魚の香りが勝ちすぎる。肉の血の味を残す。
最後に、海角牛の焼いた脂を少しだけ上からかける。
「できた」
器に盛る。
海角牛と深海銀鱈の荒煮。
見た目は豪快だ。大きな肉と崩れた白身が同じ器に入っている。香草も上品に飾られているわけではない。
だが、匂いは強烈だった。
食欲を殴りつけるような香り。
ルカは黙って器を受け取った。
一口食べる。
その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。
肉の強さ。
魚の脂。
潮の香り。
血を作るような濃さ。
だが、重すぎない。銀鱈の脂が肉の荒さを丸め、香草が後味を切る。
繊細ではない。
美しい皿でもない。
けれど、食えば身体が熱くなる。
「……素材が、暴れている」
ルカが呟いた。
バンは笑う。
「だろ」
「だが、暴れているのに、壊れていない」
「壊したら飯じゃねぇだろ」
周囲の料理人たちも試食した。
最初は半信半疑だった者たちが、次々に黙る。
「うまい……」
「なんだこれ。雑なのに、味が強い」
「いや、雑じゃない。切る場所が妙に正確だ」
「香草を刻まなかったのか。だから香りが残ってる」
ルカは器を置いた。
「君の料理は、野蛮だ」
「褒めてんのか?」
「半分は」
「残りは?」
「悔しい」
バンは楽しそうに笑った。
「いい顔してんな、金髪」
「ルカだ」
「覚えたらな」
「覚える気がない返事だ」
ルカは軽く息を吐き、調理台に置かれた月戻りの果実を見た。
「樽と酵母だったな」
「ああ」
「この果実なら、普通の果実酒蔵では駄目だ。強い酵母では香りが死ぬ。樽も若い木では青さが移る。君の見立ては正しい」
「じゃあ、あるのか」
「ある。ただし、普通の酒職人では扱えない」
「面倒だな」
「ポルト・グランデで一番面倒な職人を紹介しよう」
ルカはギルドの裏口へ向かった。
バンもついていく。
料理人ギルドの裏手には、鍛冶場と木工場が繋がったような区画があった。そこでは、巨大な鍋、包丁、鉄串、船上用の調理台、酒樽の金具が作られている。
火花が散る。
木槌の音が響く。
焦げた鉄と木の匂いが混じる。
その中央で、巨大な男が鍋を叩いていた。
身長は高く、肩幅は扉ほどある。太い腕には火傷の跡がいくつもあり、髭には木屑と鉄粉が混じっている。腰には金槌、鉋、短い斧、鉄の定規がぶら下がっていた。
男は振り返る。
「ルカ。鍋なら昨日渡しただろ」
「今日は樽の相談だ、マーロウ」
「樽?」
マーロウと呼ばれた男の目が、バンへ向いた。
「誰だ、その赤いのは」
「バン。旅人で料理人らしい」
「らしい?」
バンは肩をすくめる。
「飯は作る」
マーロウは鼻を鳴らした。
「料理人はだいたいそう言う」
「月戻りの果実を酒にしたいそうだ」
ルカが言った瞬間、マーロウの顔が変わった。
「……月戻りだと?」
バンは袋から果実を一つ出した。
マーロウは黙って手を拭き、慎重に受け取った。
大きな手なのに、果実の扱いは驚くほど丁寧だった。
「本物だな」
「樽がいる」
「普通の樽じゃ駄目だ」
「知ってる」
マーロウはバンを見た。
「どう駄目だ」
「若い木は青臭い。強い木は香りを潰す。石は冷たすぎる。金属は論外だ。海風を吸って、余計な青さが抜けた古い木がいい。中は軽く焼く。焼きすぎると甘みが死ぬ」
マーロウは数秒黙った。
それから、にやりと笑った。
「口だけの赤いのじゃなさそうだ」
「腹は減ってる」
「それは知らん」
マーロウは工房の奥へ歩いた。
そこには古い木材が積まれていた。黒ずんだ板、白く乾いた板、塩を吹いた板。どれも普通の家には使えそうにない。
「これは、廃船から取った古材だ。二十年、海風と潮を吸った。元は果実酒を運んでいた船の内張りだ。魚臭くはない。酒の香りが残っている」
バンは板に近づき、匂いを嗅いだ。
潮。
古い酒。
乾いた木。
わずかな甘み。
月戻りの果実を邪魔しない。
むしろ、香りの奥に静かな塩気を足す。
「これだな」
「即決か」
「鼻がそう言ってる」
マーロウは笑った。
「気に入った。小樽を作ってやる。だが時間がいる。酵母はルカが手配しろ」
「分かっている」
ルカは頷いた。
「月白酵母が合うはずだ。発酵は遅いが、香りを壊さない」
「月白?」
バンが聞く。
「この町の古い酒蔵で使われる酵母だ。強い酒には向かないが、繊細な果実には合う」
「いいな」
バンは満足そうに笑う。
「じゃあ、それで仕込む」
「簡単に言うね」
ルカが苦笑する。
「月戻りの果実酒なんて、町中の酒職人が見たら卒倒するぞ」
「起こして飲ませりゃいい」
「君は食材だけでなく人も雑に扱うのか」
「雑には扱ってねぇ。起こすだけだ」
マーロウが大声で笑った。
「面白い赤いのだな!」
バンは工房に置かれた巨大鍋を見た。
人が三人は入れそうな大きさだ。分厚い鉄でできており、底は丸く、船上でも揺れにくいように足が工夫されている。
「でけぇ鍋だな」
「海獣用だ」
「海獣を丸ごと煮るのか」
「切ればな。丸ごとは無理だ」
「もっとでけぇのは?」
マーロウはバンを見た。
「何を煮る気だ」
「まだ決めてねぇ」
「その顔は、ろくでもないものを煮る顔だ」
ルカが小さくため息をついた。
「バン。ポルト・グランデでは、巨大な食材を扱う料理人や職人も多い。だが、無茶な注文は嫌われる」
「無茶かどうかは、食材を見てからだろ」
「君は本当に危ない料理人だな」
その時、工房の外から怒鳴り声が聞こえた。
「おい!港の東桟橋にまた傷ついた船が入ったぞ!」
「漁船か?」
「メレンへ向かう外洋航路からだ!積み荷がほとんどない!」
「またかよ……」
工房の空気が少しだけ変わった。
ルカの表情が硬くなる。
マーロウも笑みを消した。
バンは二人を見る。
「何だ」
「最近、沖の海が荒れている」
ルカが静かに言った。
「港の近くではない。メレンへ向かう航路のさらに外だ。大物の海獣が漁場を荒らし、遠洋船が沈められている。メレンはその海へ出るための要衝だから、被害の知らせが集まりやすい」
「飯が減るのか」
「……そうだな。市場に入る魚も減っている」
バンの目が少し細くなった。
マーロウが腕を組む。
「海の連中は、海王の影だなんだと騒いでいる。まだ噂だがな」
「海王」
バンはその言葉を口の中で転がした。
まだ興味は薄い。
だが、少しだけ引っかかった。
海獣用の巨大鍋。
月戻りの果実酒。
美食都市の魚市場。
そして、沖で途絶え始めた食材の流れ。
バンは鼻を鳴らした。
「ま、今は樽が先だな」
「そうだ。君が余計な騒ぎを起こす前に、まず果実を仕込む」
ルカが言う。
「余計な騒ぎは起こしてねぇ」
マーロウが笑った。
「その服の傷で言われても説得力がないな」
バンは修復された赤いコートを見下ろす。
「服は負けたが、俺は勝った」
「名言みたいに言うな」
ルカが呆れた。
工房の奥で、マーロウが古材を運び出す。
ルカは月白酵母を手配するため、ギルドの倉庫へ向かう。
バンは月戻りの果実が入った袋を軽く叩いた。
酒の準備は進む。
飯もうまい。
服も直った。
腕も少しは動く。
ポルト・グランデは、なかなか悪くない町だった。
ただし。
港の方から、また鐘が鳴った。
今度は夕市の鐘ではない。
傷ついた船の入港を知らせる、低い警鐘だった。
バンはそちらを一度だけ見た。
「海王、ねぇ」
呟き、すぐに視線を戻す。
「まずは酒だ」
赤い旅人は、まだ見ぬ果実酒の味を思い浮かべて笑った。
第21話でした。
今回は金髪料理人ルカ・ブロンディと、大鍋職人マーロウ・アイアンキールの登場回です。
ルカの繊細な料理と、バンの野性味ある料理を対比しつつ、月戻りの果実酒に必要な樽と酵母の準備が始まりました。
そして少しずつ、海王の噂もポルト・グランデへ影を落とし始めています。