音が来るより先に、地面が沈んだ。
先遣隊の足元を走った震動は、揺れというより圧だった。
黒砂の下から巨大な掌で押し上げられたように、大地が一度膨らみ、次の瞬間には深く落ち込む。
「伏せろ!」
マキシムの声が飛ぶ。
全員が身を低くした直後。
世界が吠えた。
咆哮。
そう呼ぶには大きすぎる。
音ではない。
空気の壁だった。
ベヒーモスの口から放たれた衝撃が黒砂を巻き上げ、地面を削り、先遣隊へ押し寄せる。
アルフィアが前へ出た。
「静寂の園《シレンティウム・エデン》」
灰髪が大きく広がる。
彼女を中心に、音の消える領域が展開された。
迫る咆哮と静寂がぶつかる。
耳を潰す音は消えた。
だが、圧そのものまでは消えない。
黒砂の壁が静寂の外側を擦り、左右へ割れていく。
アルフィアの細い身体が後方へ滑った。
女帝が片手でその肩を支える。
「保ちなさい」
「言われなくとも」
アルフィアの声は平静だった。
けれど、唇の端から細い血が流れている。
バンはそれを見る。
「無茶すんな」
「今それを言うな」
「言うぞ」
「黙れ」
会話を続ける余裕はなかった。
咆哮に押し出された黒砂が、隊列の左右から回り込んでくる。
地面を這う黒い波。
中央には観測役と治療班。
このままでは挟まれる。
バンはクレシューズを伸ばした。
右手ではなく左手。
節を地面へ打ち込み、黒砂の手前にある普通の砂を掴む。
「強奪《スナッチ》」
狙うのは黒砂ではない。
流れの下へ潜り込んだ、黄色い砂。
左右から迫る波の足場を盗り、外へ逃がす。
黒砂の先端がわずかに崩れた。
「道、開けたぞ!」
マキシムが即座に手を振る。
「観測班を中央へ!後退!」
斥候たちが動く。
エルンは帳面を懐へ押し込み、膝をついた観測役の腕を取った。
セリアも反対側を支える。
その前へ女帝が立つ。
黒砂の中から、最初の魔物が飛び出した。
黒く染まったワーム。
口を開き、観測役へ食らいつこうとする。
女帝は片腕を振った。
武器すら抜いていない。
拳でもない。
手の甲で払っただけ。
ワームの巨体が横へ弾かれ、黒砂の上を何度も跳ねた。
地面が裂ける。
女帝は倒れた魔物を見もしない。
「遅い」
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
黒砂を蹴り、隊列の後方へ回り込んだ別の魔物を踏み潰す。
黒い甲殻が砕けた。
あまりにも単純な力。
それだけで、周囲の魔物が一瞬たじろいだ。
ザルドが大剣を抜く。
「右を喰う」
「なら左は俺だ」
マキシムが前へ出た。
武器は持たない。
それでも、一歩踏み込むだけで空気が変わる。
黒砂から現れたサンドホーンの大型個体が、角を下げて突進した。
マキシムは避けない。
角を掴んだ。
両手ではない。
片手。
巨体の突進が、そこで止まる。
砂が男の踵から扇状に吹き飛んだ。
「軽い」
マキシムは腕を振る。
サンドホーンが宙へ浮いた。
家屋ほどある身体が、黒砂の向こうへ投げ捨てられる。
バンは目を細めた。
「お前ら、揃いも揃って馬鹿力だな」
「感想は帰ってからにしろ」
ザルドの大剣が、右から迫る黒砂持ちを両断する。
切断面から黒い粒が溢れる。
肉体を失っても、黒砂は形を作ろうと蠢いた。
「まだ動くぞ」
バンが言う。
「分かっている」
ザルドは刃を返し、黒砂の核になっている胸部を叩き潰した。
蠢きが止まる。
その間にも、地鳴りは大きくなっていた。
ベヒーモスが動いている。
背中の丘陵が持ち上がる。
外殻同士が擦れ合う音は、山崩れに似ていた。
巨獣が前脚を立てる。
それだけで、地平線が変わる。
伏せていた山が、起き上がる。
黒砂が滝のように外殻から流れ落ちた。
巨体の下から、古い骨や岩が押し出される。
先遣隊の誰も、すぐには声を出せなかった。
観測した姿。
地図に記した外殻。
足跡。
呼吸。
それらを頭で理解したつもりだった。
だが、実際に立ち上がる姿は、その理解を簡単に踏み潰した。
ベヒーモスの肩が上がる。
首が伸びる。
巨大な角が空を裂く。
その頭が、ゆっくりと先遣隊の方角へ向いた。
瞳が細くなる。
ようやく認識された。
敵としてではない。
地面に群がる小さな異物として。
「見過ぎたな」
女帝が言う。
マキシムも頷く。
「撤退速度を上げる」
アルフィアの静寂が揺らぐ。
彼女が咳をした。
短い。
けれど、その手には血が付いた。
バンが腕を掴む。
「下がれ」
「離せ」
「魔法解け」
「解けば咆哮が来る」
「次は俺が曲げる」
アルフィアが鋭く睨む。
「黒砂に触れるなと言ったはずだ」
「触らねぇ。向きだけ盗る」
「今のお前には広すぎる」
「全部は盗らねぇよ」
ベヒーモスが息を吸った。
大気が引かれる。
黒砂が巨獣の口元へ向かって流れ始める。
咆哮の前。
呼吸の切れ目。
バンが先ほど見つけた一瞬。
「来るぞ!」
エルンが叫ぶ。
アルフィアは再び魔法を広げようとする。
だが、身体が一瞬沈んだ。
女帝が支える。
「アルフィア」
「問題ありません」
「嘘ね」
「撃てます」
「今は撃つ場面ではない」
その会話の間に、バンは前へ出ていた。
暗い赤のコートが黒砂の風に翻る。
クレシューズを地面へ突き立てる。
《強奪》の糸を伸ばす。
狙うのは咆哮ではない。
巨獣の力でもない。
口から放たれる空気が、こちらへ向く直前。
その方向。
「全部はいらねぇ」
右腕が痺れる。
肩の傷が熱を持つ。
それでも糸を伸ばす。
巨大すぎる流れの端へ触れた瞬間。
身体の内側を、山に踏まれたような圧が走った。
血が喉へ上がる。
「っ……!」
深く掴むな。
引くな。
少しだけ。
ほんのわずか。
「こっち向くなよ」
強奪《スナッチ》。
ベヒーモスが吠えた。
黒い衝撃が放たれる。
正面からではない。
先遣隊のわずか右。
咆哮の壁が大地を削り、黒砂を天高く巻き上げる。
直撃は外れた。
だが、余波だけで全員の身体が浮いた。
バンも後方へ吹き飛ぶ。
地面へ叩きつけられる直前、ザルドの腕がコートを掴んだ。
そのまま無理やり引き戻される。
「今のは盗りすぎだ」
「方向だけだぞ」
「相手の大きさを考えろ」
「考えた結果だ」
バンは立とうとした。
右膝が崩れる。
ザルドが支える。
「立てるか」
「立ってる」
「支えている」
「細けぇな」
口元から血が落ちる。
アルフィアが静寂を解いた。
すぐにバンの前へ来る。
「馬鹿か、お前は」
「助かっただろ」
「腕を見ろ」
右腕が震えている。
指が開かない。
皮膚の下で、黒い筋のようなものが一瞬浮かび、消えた。
黒砂に直接触れてはいない。
それでも、咆哮の向きを盗ったことで、ベヒーモスの力の端が身体へ入り込んだ。
「まだ動く」
「その台詞を禁止したのは、あの薬師ではなかったか」
「聞いてたのか」
「何度も言われていただろう」
「記憶いいな」
「お前が学習しないだけだ」
アルフィアはバンの腕へ手を伸ばす。
治療ではない。
魔力の流れを調べる。
彼女の指が触れた瞬間、バンの身体に残った異質な力が反応した。
アルフィアが眉を寄せる。
「黒砂ではない」
「じゃあ何だ」
「ベヒーモスそのものの力に近い。咆哮を盗った時、縁を掴まれた」
「掴んだのは俺だぞ」
「向こうからも掴まれたと言っている」
バンは巨獣を見る。
ベヒーモスの瞳が、先ほどより明確にこちらを向いていた。
偶然ではない。
咆哮を曲げた存在を、認識した。
「好かれたかもな」
「最悪の相手に好かれたな」
ザルドが大剣を構える。
ベヒーモスが前脚を上げた。
空が暗くなる。
脚だけで、塔のような影。
あれが落ちれば、直接踏まれなくても周囲一帯が崩れる。
マキシムが叫ぶ。
「散開!足元を見るな、落下点の外へ走れ!」
今度は走る。
地面へ振動を伝える危険より、踏み潰される方が早い。
観測役たちが左右へ散る。
女帝が倒れた者を片腕で二人まとめて担ぎ上げる。
ザルドはバンを引きずるように走る。
「自分で走れる!」
「なら走れ」
「手ぇ離せ!」
「遅い」
アルフィアは彼らの後方で足を止めた。
閉じた目を開く。
灰と翠の瞳が、落ちてくる巨大な脚を捉える。
魔力が膨れ上がる。
「アルフィア!」
女帝の声が飛ぶ。
「分かっています」
短い詠唱。
灰髪が舞う。
彼女の正面へ、巨大な魔法の奔流が生まれかける。
バンは振り返る。
「馬鹿、撃つな!」
「足をずらすだけだ」
「お前まで同じこと言ってんじゃねぇか!」
アルフィアの魔法が放たれた。
白灰の衝撃。
ベヒーモスの脚へ正面から当てるのではない。
外側。
落下軌道の端へ。
山ほどの脚が、ほんのわずかに横へずれた。
直後。
大地が砕けた。
轟音。
黒砂が空へ噴き上がる。
衝撃波が先遣隊を背中から襲う。
全員が地面へ転がった。
岩が飛ぶ。
外殻の欠片が降る。
女帝が身体を起こし、両腕で飛来物を弾く。
ザルドも大剣を盾にして観測役を守る。
マキシムは落ちてきた巨岩を拳で砕いた。
バンはクレシューズを伸ばし、吹き飛ばされたエルンの腰へ絡める。
「捕まれ!」
エルンが節を掴む。
バンは左腕だけで引き寄せた。
右腕はまだ動かない。
砂煙が晴れる。
先遣隊がいた場所から少し外れたところに、巨大な脚が沈んでいる。
もしアルフィアの一撃がなければ。
もしバンが咆哮を曲げていなければ。
何人残っていたか分からない。
アルフィアが膝をつく。
女帝がすぐに駆け寄る。
「撃つなと言ったでしょう」
「軌道をずらしただけです」
「言い訳まで同じね」
アルフィアがバンを見る。
バンは血を吐きながら笑う。
「真似すんなよ」
「お前と一緒にするな」
「やってること同じだろ」
「精度が違う」
「負けず嫌いだな」
女帝が二人を睨む。
「黙りなさい。撤退するわよ」
マキシムが人数を確認する。
「欠員!」
エルンが周囲を見る。
「全員います!負傷者三!歩行困難が二!」
「担げ!」
ザルドが一人を肩へ乗せる。
女帝がもう一人を引き受ける。
アルフィアが立とうとする。
足元が揺れる。
バンが左手で腕を掴んだ。
「お前も担がれろ」
「断る」
「歩けてねぇぞ」
「歩ける」
「それ禁止だろ」
「お前が言うな」
アルフィアは腕を振り払おうとした。
だが、力が弱い。
バンはため息をつき、その肩へ腕を回す。
「離せ」
「うるせぇ」
「殺すぞ」
「帰ってからにしろ」
「触るな」
「今更だろ」
アルフィアは不機嫌そうにしながらも、完全には拒まなかった。
互いに傷を庇いながら歩く。
どちらが支えているのか分からない。
背後で、ベヒーモスが再び動く。
追うつもりなのか。
ただ足を置き直しているだけなのか。
人間には判別できない。
それでも一歩ごとに、黒い砂漠が波打つ。
「第二線まで急げ!」
マキシムの号令。
先遣隊が撤退を続ける。
来た時に記録した外殻。
巨大な足跡。
黒い骨。
それらを目印に、最短の経路を戻る。
だが、黒砂の地形は変わっていた。
ベヒーモスが立ち上がったせいで、流れが全て変わっている。
帰路にあった窪みが埋まり、平地が谷になっている。
黒砂の濃い帯が、隊列の前を横切っていた。
マキシムが止まる。
「迂回すれば時間がかかる」
女帝が背後を見る。
「追いつかれるわ」
ザルドが大剣を構える。
「俺が渡る」
「黒砂へ入る気か」
バンが言う。
「短距離なら耐える」
「毒が回るぞ」
「他に道はない」
バンは前方の黒砂帯を見る。
幅は広い。
深さも読めない。
だが、両側には普通の砂が残っている。
「道なら作れる」
アルフィアが即座に言う。
「今のお前には無理だ」
「黒砂は盗らねぇ」
「右腕も動かない」
「左で足りる」
クレシューズを地面へ伸ばす。
黒砂帯の両端。
普通の砂を引き寄せ、上へ重ねる。
橋ではない。
黒砂の表面を覆う、一時的な細道。
「強奪《スナッチ》」
左右の砂が動く。
黒い帯の上へ薄く積もる。
道ができた。
長くは保たない。
下から黒砂が染み上がってくる。
「走れ!」
隊列が渡る。
観測役。
負傷者。
マキシム。
女帝。
ザルド。
アルフィア。
最後にバン。
細道が崩れ始める。
バンの足首へ黒砂が絡んだ。
「ちっ」
引き抜こうとする。
右脚が動かない。
黒砂の下から、何かが掴んでいるような抵抗。
ザルドが手を伸ばす。
その前に、アルフィアが振り返った。
片手を上げる。
音のない衝撃が、バンの足元の黒砂を弾き飛ばす。
バンはその勢いで前へ跳ぶ。
ザルドが襟を掴み、引き上げた。
「またこれかよ!」
「便利だ」
「服伸びるだろ」
「生きているなら問題ない」
以前と同じ言葉。
バンは笑った。
アルフィアが冷たく言う。
「笑っている場合か」
「助かったぞ」
「貸しにしておく」
「飯で返す」
「要らん」
「肉多めな」
「話を聞け」
第二線の結界杭が見えた。
ヘラ・ファミリアの魔導士隊。
ゼウス・ファミリアの重装前衛。
治療班。
砂漠船。
先遣隊を待っていた者たちが、一斉に動き出す。
セリアが走ってくる。
「負傷者をこちらへ!」
パァルとリシェルも前へ出る。
「何があった!」
パァルの問いへ、マキシムが短く答える。
「目を覚ました」
その一言で十分だった。
背後。
黒い砂漠の奥で、巨大な影が立っている。
遠くからでも分かる。
山ではない。
動いている。
こちらへ来ているかどうかは、まだ分からない。
だが、一歩だけで地形を変えた。
咆哮だけで先遣隊を吹き飛ばした。
脚を下ろしただけで、最強の眷族たちに死を意識させた。
リシェルの顔が強張る。
「撤退準備を前倒しします。第二線は段階的に後退」
パァルも叫ぶ。
「第一線へ連絡!負傷者を受け入れろ!全隊、戦闘準備!」
エルンは治療師に肩を借りながら、帳面を取り出す。
「記録を……渡します」
「先に治療を受けろ」
セリアが叱る。
「ですが」
「記録は逃げません。あなたの命は逃げます」
エルンは言い返せず、担架へ乗せられた。
アルフィアも治療班へ連れていかれそうになる。
「私は歩けます」
セリアが見る。
「その言葉は禁止です」
バンが横で笑う。
「お前も言われてんじゃねぇか」
「黙れ」
「二人とも担架です」
セリアが言い切る。
「俺も?」
「右腕、右脚、吐血。歩かせません」
「大げさだな」
「担架です」
バンはザルドを見る。
「助けろ」
「治療師の指示に従え」
「裏切り者」
「生き残るためだ」
バンとアルフィアは、並んだ担架へ乗せられた。
アルフィアは露骨に不機嫌そうだった。
バンは仰向けになり、黒い空を見る。
「先遣って、見るだけじゃなかったか」
「怪物がこちらを見るとは限らない」
アルフィアが答える。
「見られたな」
「お前が咆哮を曲げたからだ」
「お前も足ずらしただろ」
「必要だった」
「俺も必要だった」
「お前の方が粗い」
「まだ言うか」
二人の担架が第二線の内側へ運ばれていく。
背後では、マキシムと女帝が黒い砂漠を見ていた。
ザルドは大剣の刃についた黒砂を拭う。
パァルとリシェルは、数百人を退かせるための命令を飛ばしている。
観測は成功した。
ベヒーモスの姿。
咆哮。
外殻。
呼吸の切れ目。
そして、人間を認識した時の反応。
必要な情報は持ち帰った。
だが、代わりに一つの事実を突きつけられた。
これは獣との戦いではない。
山を倒す戦いでもない。
歩くだけで世界の形を変えるものを、止める戦いだ。
遠くで、ベヒーモスがもう一度吠えた。
今度の咆哮は、先ほどよりも低い。
怒っているのか。
興味を持ったのか。
ただ呼吸しただけなのか。
誰にも分からない。
ただ一つ。
眠る災害は、もう眠っていなかった。
第20話でした。
今回はベヒーモスが立ち上がり、咆哮と一歩だけで先遣隊を追い詰める第一次接触を描きました。
バンは咆哮の威力そのものではなく方向だけを盗り、アルフィアは落下する脚の軌道を魔法でわずかにずらしています。どちらも無理をしたため、負傷した状態で第二線まで撤退する結果となりました。