強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第22話です。
第3.5部「美食都市ポルト・グランデ」の締めになります。
月戻りの果実酒の仕込み、遠洋食材の異変、そして港町メレンと海王リヴァイアサンの噂へ繋がる回です。


第22話 海王の噂

月戻りの果実は、小さな木樽の中で静かに眠ることになった。

 

マーロウ・アイアンキールが用意した樽は、片腕で抱えられるほどの大きさだった。だが、ただの小樽ではない。

 

二十年、海風と潮を吸った古い船材。

元は果実酒を運んでいた船の内張り。

魚臭さはなく、乾いた木の奥に、古い酒とわずかな塩気が残っている。

 

内側は軽く炙られていた。

 

焦がしすぎてはいない。

木の青さだけを抜き、香りの角を丸める程度の火入れだ。

 

バンは樽の中を覗き込み、鼻を鳴らした。

 

「……悪くねぇな」

 

マーロウは太い腕を組み、鼻を鳴らす。

 

「悪くねぇ、じゃねぇ。俺の小樽だぞ。最高だと言え」

 

「最高かどうかは、酒になってからだろ」

 

「口の減らない赤いのだな」

 

隣で、ルカ・ブロンディが月白酵母の入った小瓶を慎重に取り出した。

 

白く濁った液体の中に、淡い光の粒が浮かんでいる。強い香りはない。むしろ、存在を主張しない静かな酵母だった。

 

「月白酵母だ。発酵は遅いが、果実の香りを壊さない。月戻りの果実には、おそらくこれが一番合う」

 

「おそらく?」

 

「誰も仕込んだことがないからな。少なくとも、今のポルト・グランデでは」

 

「じゃあ、最初の一樽か」

 

バンは楽しそうに笑った。

 

月戻りの果実を割る。

 

青白い皮が薄く裂け、白い果肉が現れる。中心には淡い金色の筋。切った瞬間、白い花と夜露の香りがふわりと広がった。

 

周囲にいた酒職人や料理人たちが、思わず息を止める。

 

バンは片手で果実を扱っていた。

 

左腕はずいぶん動くようになったが、まだ完全ではない。強く握れば傷が軋む。だから、果実を支えるのは左手の指先だけ。主に右手で切り、潰し、皮を分ける。

 

雑に見えて、果実の皮には余計な傷をつけない。

 

ルカはその手つきを見ていた。

 

「片手でよくそこまで扱えるな」

 

「食材は逃げねぇからな。虫より楽だ」

 

「比べる相手がおかしい」

 

バンは果肉を潰しすぎないようにほぐし、泉の水を少しだけ加えた。北の泉から汲んできた水だ。透明で、ほんのわずかに月光の冷たさを持っている。

 

そこへ月白酵母を落とす。

 

酵母は果汁に触れた瞬間、静かに沈んだ。強く泡立つことはない。だが、果実の白い香りの奥で、何かがゆっくり目を覚ましたような気配があった。

 

バンは樽の口を閉じる。

 

「どれくらいだ」

 

ルカが答える。

 

「最低でも一月。香りを丸くしたいなら三月。最高を狙うなら半年は欲しい」

 

「長ぇな」

 

「酒とはそういうものだ」

 

「待つのは得意じゃねぇ」

 

「だろうな」

 

ルカは淡々と言った。

 

「だが、待てないなら飲む資格はない」

 

バンはルカを見た。

 

ルカも、まっすぐ見返す。

 

少しの沈黙。

 

先に笑ったのはバンだった。

 

「いいこと言うじゃねぇか、金髪」

 

「ルカだ」

 

「覚えたらな」

 

「もう三度目だ」

 

マーロウが大声で笑った。

 

「この小樽は俺の工房で預かる。温度と湿気は見てやる。ただし、勝手に飲みに来るなよ」

 

「味見は必要だろ」

 

「一月後だ」

 

「明日じゃ駄目か」

 

「ただの甘い汁だ」

 

「それはそれで」

 

「駄目だ」

 

バンは不満そうに鼻を鳴らした。

 

だが、樽を乱暴に扱うことはなかった。

 

むしろ、最後に樽の側面を軽く叩き、音を確かめた。

 

「ちゃんと寝てろよ」

 

誰に言ったのか分からない言葉だった。

 

果実にか。

酒にか。

それとも、月の精霊にか。

 

ルカは何も言わなかった。

 

その日の昼、バンは市場へ向かった。

 

目的は決まっていた。

 

前に食った海角牛と深海銀鱈も悪くなかった。だが、ポルト・グランデの市場には、まだ食っていないものが山ほどある。

 

その中でも、バンが目をつけていたものがあった。

 

蒼潮マグロ。

 

遠洋の冷たい海流に乗ってくる巨大魚で、身は赤く、脂は青白く光るらしい。生でも焼いても煮ても美味い。特に腹身を炙って塩だけで食うと、港の料理人たちが言葉を失うと言われている。

 

バンはそれを食う気でいた。

 

朝から腹は空けてある。

酒も控えめにした。

左腕の調子も悪くない。

 

準備は完璧だった。

 

だが、市場の蒼潮マグロの台は空だった。

 

「……おい」

 

バンは魚屋の親父を見た。

 

「魚は?」

 

親父は気まずそうに頭をかいた。

 

「今日は入らねぇ」

 

「昨日は入るって言ってただろ」

 

「そのはずだったんだがな。遠洋船が戻ってこねぇ。戻ってきた船も、網が裂けてるか、積み荷を捨てて逃げてきてる」

 

「逃げてきた?」

 

「外洋だ。メレンへ向かう航路のさらに沖。蒼潮マグロの漁場がある海域が荒れてる」

 

バンの目が少し細くなった。

 

「嵐か」

 

「嵐ならまだいい。海流が急に変わる。海獣が逃げてくる。夜でもねぇのに海が真っ暗になる。船底を何かが擦る。漁師どもは、海王の影を見たって騒いでる」

 

「海王」

 

聞いた名だった。

 

工房でも出た言葉。

 

バンは空の台を見下ろした。

 

蒼潮マグロはいない。

 

そこにあるのは、溶けかけた氷と、魚の匂いだけだった。

 

「俺の飯がない理由は、そいつか」

 

親父は苦笑した。

 

「そう言うと軽く聞こえるがな。こっちは笑い事じゃねぇ。蒼潮マグロだけじゃない。深海銀鱈も減ってる。海角牛の群れも沖へ出なくなった。遠洋の食材がまとめて細ってきてる」

 

「美食都市なのにか」

 

「だから大騒ぎなんだよ」

 

市場の奥から、鐘が鳴った。

 

低い警鐘。

 

夕市の鐘ではない。

 

東桟橋に、また傷ついた船が入った合図だった。

 

魚屋の親父が舌打ちする。

 

「またか」

 

人の流れが港の方へ動く。料理人、商人、船乗り、食材ハンター。みんな顔をしかめながら、同じ方向へ向かっていた。

 

バンも歩き出した。

 

港には、傷ついた船が入っていた。

 

船体の横腹に、巨大な爪で引っ掻かれたような傷がある。帆は破れ、甲板には海水が溜まり、船員たちは疲れ切った顔で荷を下ろしていた。

 

だが、荷は少ない。

 

ほとんど空だった。

 

「メレンから来たのか?」

 

誰かが聞いた。

 

船長らしき男が首を横に振る。

 

「違う。メレンへ向かう外洋航路の手前だ。そこからさらに沖へ出た遠洋漁場でやられた」

 

ざわめきが広がる。

 

メレンが襲われたわけではない。

 

だが、メレンへ向かう航路のさらに外。

遠洋漁場と外洋航路が、何かに食い荒らされている。

 

そこはポルト・グランデにとっても無関係ではなかった。美食都市に並ぶ高級魚や海獣肉の多くは、その遠洋の海から来る。

 

船長は濡れた帽子を握りしめ、声を絞り出した。

 

「海が、盛り上がったんだ」

 

「波か?」

 

「違う。海そのものが、山みてぇに持ち上がった。月明かりもねぇのに、海の下で青い光が動いた。次の瞬間、横にいた船が消えた」

 

誰も笑わなかった。

 

船長の声は震えていたが、嘘をついている声ではなかった。

 

「俺たちは荷を捨てて逃げた。網も魚も、全部だ。そうしなきゃ沈んでた」

 

ルカがいつの間にか隣に来ていた。

 

表情は硬い。

 

「海王の噂が、また近づいたな」

 

バンは聞く。

 

「メレンはどういう場所だ」

 

「港町メレン。海の要衝だ。ポセイドン・ファミリアや海のファミリア、漁師、船大工、ギルド関係者が集まる。外洋へ出るための拠点でもある」

 

「戦場か」

 

「違う」

 

ルカは首を横に振った。

 

「少なくとも、今はまだ違う。メレンは外洋へ出るための港だ。船を集め、海流を読み、海上要塞を動かすなら、あそこが拠点になる」

 

「海上要塞?」

 

バンの目が少し動いた。

 

マーロウも港へ来ていた。太い腕を組み、船の傷を見ている。

 

「巨大な足場だ。外洋で大物と戦うには、普通の船じゃ足りん。海の上に浮かぶ城みたいなもんがいる」

 

「そんなもん作ってんのか」

 

「メレンには、その技術と船大工がいる。ポセイドンの連中もな」

 

ポセイドン。

 

海神の名を冠するファミリア。

 

バンはまだ会ったことがない。

 

だが、港の者たちの反応で分かる。海で何かをするなら、避けて通れない連中なのだろう。

 

船長が続ける。

 

「メレンでは、もう出撃準備が始まってるって聞いた。ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアにも話が飛んでるらしい」

 

その名前に、周囲がさらにざわめいた。

 

ゼウス。

ヘラ。

 

この時代の最強。

 

バンは目を細める。

 

黒い砂漠の後、遠くからこちらを見ていた二人組を思い出す。酒場に届いた噂。赤い旅人の話が、どこかへ流れていった気配。

 

そして、アルフィア。

 

まだ直接会っていないが、名だけは何度か聞いた。

ヘラ・ファミリアの怪物。病弱な天才。音の魔法を操る、神の眷属の中でも異常な存在。

 

「で、その海王ってのは何なんだ」

 

バンが聞く。

 

答えたのは、年老いた船乗りだった。

 

「リヴァイアサン」

 

港の空気が、少しだけ冷えた。

 

「海王リヴァイアサン。三大クエストの一つ。海そのものが牙を持ったような怪物だ。メレンの近くにいるわけじゃねぇ。もっと沖だ。人の船が、本来なら近づいちゃいけねぇ外洋にいる」

 

「食えるのか」

 

全員がバンを見た。

 

ルカが額を押さえる。

 

「君は、今の話を聞いて最初にそれか」

 

「大事だろ」

 

老船乗りは呆れたように口を開け、それから笑った。

 

「さあな。誰も食ったことがねぇ。近づいた奴は沈む」

 

「じゃあ、まだ分からねぇな」

 

「普通は食う前提で考えねぇよ」

 

バンは港の向こうを見た。

 

海は青い。

 

だが、その先にある外洋は違うのだろう。

船を消し、魚を逃がし、航路を潰し、市場から食材を奪う何か。

 

海王リヴァイアサン。

 

バンは空になった蒼潮マグロの台を思い出した。

 

食うつもりだった魚がない。

仕込んだ果実酒に合わせる肴も探している。

左腕を完全に戻すには、まだ栄養のある飯がいる。

 

なのに、外洋の化け物が食材の流れを止めている。

 

「俺の飯の邪魔してんのは、そいつか」

 

ルカが小さく息を吐いた。

 

「そういう言い方をすると、急に君らしくなるな」

 

「俺らしい?」

 

「少なくとも、英雄の動機ではない」

 

「英雄じゃねぇしな」

 

バンは港の石畳に腰を下ろしていた船員たちを見た。

 

震えている者。

怪我をしている者。

空になった荷箱を見て歯を食いしばっている者。

戻らなかった船の名前を呟く者。

 

飯が減る。

 

酒が減る。

 

そして、泣く奴が増える。

 

それは、気に入らない。

 

バンは鼻で息を吐いた。

 

「メレンに行けば、そいつの話が聞けるんだな」

 

マーロウが答える。

 

「ああ。外洋へ出るなら、メレンを通ることになる。船も、海流の情報も、海の連中も、あそこに集まる」

 

「小樽は?」

 

「預かる。戻ってくるまで飲むなと言っただろ」

 

「戻ってきたら飲めるか」

 

「一月は待て」

 

「長ぇな」

 

ルカが言う。

 

「その前に沈まないことだ」

 

「沈むのは船だろ」

 

「君も船に乗るんだ」

 

「なら、沈まねぇ船に乗る」

 

マーロウが笑う。

 

「それを作るために、メレンの船大工どもが死に物狂いなんだよ」

 

バンは港の海を見た。

 

遠くに船影がある。

さらにその向こうは、陽光に霞んで見えない。

 

外洋。

 

海王。

 

リヴァイアサン。

 

それから、海王の肉。

 

バンの口元が少しだけ上がった。

 

「海王の肉、ねぇ」

 

ルカが嫌な予感を覚えたように眉をひそめる。

 

「本気で言っているのか」

 

「まだ食えるか分からねぇだろ」

 

「普通はそこではなく、生きて帰れるかを考える」

 

「生きて帰らねぇと食えねぇだろ」

 

「……順番は合っているのに、何かがおかしい」

 

バンは立ち上がった。

 

左腕を軽く回す。痛みはある。だが、動く。

 

服は直った。

果実酒は仕込んだ。

飯は食った。

だが、目当ての魚はまだ食えていない。

 

そして、それを邪魔している奴がいる。

 

なら、行く理由は十分だった。

 

「メレンまでの道は?」

 

ルカはしばらくバンを見ていた。

 

それから、諦めたように息を吐く。

 

「陸路と海路がある。今は海路が不安定だ。陸路で港町メレンへ向かうのが無難だろう」

 

「無難ねぇ」

 

「君に似合わない言葉なのは分かっている」

 

マーロウが工房の方へ顎をしゃくった。

 

「出るなら、明日の朝にしろ。古い海図の写しをくれてやる。外洋のものじゃないが、メレンまでなら使える」

 

「いいのか」

 

「俺の小樽を預けた客が、道に迷って戻ってこないのは困る」

 

「道には迷わねぇ」

 

ルカとマーロウが同時に黙った。

 

バンは少し不機嫌そうに眉を寄せる。

 

「何だよ」

 

「いや」

 

「何でもない」

 

二人は同時に目を逸らした。

 

港では、傷ついた船の修理が始まっている。

料理人たちは空の荷箱を見て顔をしかめ、商人たちは次の入荷を計算し、船乗りたちは外洋の暗い噂を酒場へ運んでいく。

 

ポルト・グランデの夜は、いつもより少しだけ重かった。

 

それでも、屋台の火は消えない。

 

焼き貝の匂いが流れ、酒樽が開き、誰かが鍋をかき混ぜる。食の町は、不安の中でも飯を作る。

 

バンはその匂いを吸い込んだ。

 

「悪くねぇ町だな」

 

ルカが静かに言う。

 

「だから守りたい者も多い」

 

「俺は守りに行くわけじゃねぇよ」

 

「分かっている」

 

「飯の邪魔をしてる奴を見に行くだけだ」

 

ルカは少し笑った。

 

「それでいい。君には、その方が似合う」

 

翌朝。

 

ポルト・グランデの門の前に、バンは立っていた。

 

修復されたエンジ色のロングコート。

スタッズ付きの赤いレザーパンツ。

太い茶革のベルト。

磨かれた銀のバックル。

肩には聖棍クレシューズ。

 

左腕にはまだ包帯が巻かれている。だが、昨日よりはずっと動く。

 

腰の袋には干し肉と塩漬け魚。マーロウから受け取った海図の写し。ルカが持たせた香草と小瓶の魚醤。ミラが無理やり押し込んだ予備の包帯。

 

そして、月戻りの果実酒の小樽は、マーロウの工房に預けてある。

 

「一月後だぞ!」

 

遠くからマーロウが叫ぶ。

 

「勝手に開けたら樽ごと殴る!」

 

「俺の酒だろ!」

 

「俺の樽だ!」

 

バンは笑った。

 

ルカは門のそばに立っていた。

 

「メレンに着いたら、ポセイドン・ファミリアを探せ。外洋の話は、彼らが一番詳しい」

 

「ポセイドンねぇ」

 

「海でふざけたことを言うと、本気で海へ沈められるぞ」

 

「海王を食いたいって言ったら?」

 

「たぶん、半分は怒る。半分は呆れる」

 

「半分で済むならいいな」

 

「済まないと思う」

 

バンは肩をすくめた。

 

そして、南西ではなく、今度は海沿いの街道を北西へ向かって歩き出す。

 

港町メレン。

 

海神の眷属。

海上要塞。

外洋の海王。

 

そして、まだ食ったことのない海の肉。

 

赤い旅人は、潮風を背に受けて笑った。

 

「待ってろよ、海王サマ」

 

腹の虫が鳴る。

 

「まずは、俺の魚を返してもらうぜ」




第22話でした。
これで第3.5部「美食都市ポルト・グランデ」は一区切りです。
月戻りの果実酒の仕込みを終えたバンですが、楽しみにしていた遠洋食材が外洋の異変によって入らなくなります。
リヴァイアサンは港町メレンそのものにいるわけではなく、メレンへ向かう航路のさらに沖、外洋の海域にいる存在として扱います。
次回からは、第4部「港町メレンと海神の眷属」に入ります。
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