第二線に戻れば安全。
そんな考えが、甘かったのだと気づくまでに時間はかからなかった。
黒い砂漠の奥で、ベヒーモスが脚を動かす。
それだけで地面の下を巨大な震動が走り、結界杭が一斉に鳴った。
ヘラ・ファミリアの魔導士たちが刻んだ光の線に亀裂が走る。
「第三基点、出力低下!」
「魔力を回せ!流れを正面から受けるな!」
リシェルの声が響く。
長い淡金色の髪を風に流しながら、大杖を地面へ突き立てる。
結界は壁ではない。
押し寄せる黒砂を左右へ分け、退路から遠ざけるための道だ。
だが、ベヒーモスが起き上がったことで、黒砂の流れそのものが変わっていた。
昨日まで南へ流れていた砂が、今は生き物のようにうねり、結界の弱い場所を探している。
「右側の基点を捨てます!」
魔導士の一人が叫んだ。
「捨てなさい。維持しようとすれば全体が崩れます」
リシェルは迷わない。
「第四、第五基点へ後退。後ろの術式へ接続してください!」
光の一本が消える。
行き場を失った黒砂が、防衛線の右側へ押し寄せた。
そこへ、ゼウス・ファミリアの重装前衛隊が並ぶ。
先頭にはパァル。
大盾を地面へ突き立て、長槍を構える。
「砂そのものと争うな!出てくる魔物だけ止めろ!」
黒砂が膨らむ。
中から黒く染まったワームが飛び出した。
パァルの槍が、開いた口の奥へ突き込まれる。
首を貫くのではない。
突進の向きを逸らし、盾列の外へ流す。
続く前衛たちが武器を振るい、横へ転がったワームを仕留めた。
別の場所では、黒砂持ちのサンドホーンが盾列へ突っ込む。
ロウムが大盾で受け止めた。
「押さえる!」
両足が砂へ沈む。
背後の団員二人が盾を支える。
角と盾が軋み、黒い粒子が弾けた。
ロウムは一歩も退かない。
「今だ!」
左右から槍が伸びる。
サンドホーンの脚を貫き、体勢を崩す。
最後にパァルの長槍が甲殻の隙間へ入った。
黒い巨体が倒れる。
だが、喜ぶ暇はない。
黒砂の奥には、さらにいくつもの影が蠢いていた。
「こりゃ、第二線も長くはもたねぇな」
バンは担架の上から呟いた。
右腕はまだ動かない。
右脚にも黒砂へ掴まれたような痺れが残っている。
暗い赤のコートは砂と血で汚れ、肩口の布が裂けていた。
それでも起き上がろうとすると、セリアが肩を押さえる。
「寝ていてください」
「この揺れで寝られるかよ」
「立つよりはましです」
「手伝えることくらいあるだろ」
「今のあなたが前へ出れば、手伝う人間が一人増えます」
「言うようになったな」
「サナさんから頼まれていますので」
「何を」
「無茶をした場合、遠慮なく拘束してくださいと」
「怖ぇな、あいつ」
隣の担架にはアルフィアがいる。
彼女も上半身を起こしていた。
唇には血の跡。
呼吸は浅い。
それでも、周囲の魔力の流れを目で追っている。
「右側の結界が三十呼吸もたない」
アルフィアが言った。
セリアが険しい顔をする。
「魔力を使わないでください」
「見ているだけだ」
「先ほど魔法を使ったばかりです」
「撃ってはいない」
「静寂の園も魔法です」
アルフィアは答えなかった。
バンが笑う。
「お前も怒られてんじゃねぇか」
「黙れ。お前よりはましだ」
「担架に乗ってる時点で同じだろ」
「私は自力で歩ける」
「それ禁止らしいぞ」
「お前が作った規則ではない」
再び地面が揺れた。
今度は先ほどより大きい。
第二線の後方に停められていた砂漠船が、横へ大きく滑る。
支援者たちが帆柱と荷を押さえた。
「ベヒーモスがもう一歩動いた!」
見張り役の声。
黒い砂漠の遠方に、巨大な影が見える。
近づいているのか。
身体の向きを変えただけなのか。
距離がありすぎて、正確には判断できない。
ただ、その一歩によって押し出された黒砂の波が、第二線へ向かっていた。
リシェルが大杖を上げる。
「全結界班、退避準備!この波は受けません!」
パァルも即座に号令する。
「段階撤退!負傷者と観測記録を先に送れ!前衛は二班ずつ交代して下がる!」
命令が広がる。
支援者が担架を持ち上げた。
バンは前方を見る。
「マキシムたちは?」
砂煙の中から、先遣隊の最後尾が戻ってくる。
マキシム。
女帝。
ザルド。
彼らは負傷者と観測役を第二線へ先に入れ、自分たちは黒砂の縁に残っていた。
追ってくる魔物を叩き落とし、撤退路を塞がせないために。
マキシムの拳が、黒砂持ちの大型魔物を正面から砕く。
女帝は片腕で岩を投げ、別の群れを押し潰す。
ザルドの大剣が、彼らの横を抜けようとした魔物を断ち切る。
人類の頂点。
そう呼ばれる者たち。
その三人ですら、前へは進んでいない。
ただ退いている。
「負けたな」
バンが言った。
アルフィアが隣から答える。
「まだ討伐を始めてもいない」
「でも負けただろ」
「情報は持ち帰った」
「それでもだ」
怪物へ傷をつけられなかった。
攻撃ですらない咆哮と足踏みで、隊列を崩された。
こちらが生きて戻れたのは、勝ったからではない。
相手が追ってこなかったからだ。
アルフィアは何も言わなかった。
否定できなかったのだろう。
「前方、黒砂波!」
叫び声が上がる。
黒い壁が来る。
高さは人の背を超え、横幅は第二線を丸ごと呑み込めるほど。
結界を組み替える時間はない。
マキシムが振り返る。
「全員下がれ!」
「団長たちは!」
パァルが叫ぶ。
「最後に行く!」
パァルの表情が歪む。
だが、命令へ逆らわない。
「前衛第一班、後退!第二班、十呼吸だけ残れ!」
ロウムたちが盾を構える。
黒砂の波そのものは止められない。
それでも、波から飛び出す魔物を、退く仲間へ近づけないために立つ。
バンは担架から足を下ろした。
セリアが止める。
「何をしているんですか!」
「十呼吸もたせりゃいいんだろ」
「あなたは後退してください!」
「黒砂は盗らねぇよ」
「何をするつもりですか」
「道を軽くする」
右腕は使えない。
左手でクレシューズを持つ。
地面へ節を伸ばす。
盗るのは黒砂ではない。
退路に積もった普通の砂。
砂漠船の車輪を沈ませる柔らかい層。
そこから砂を薄く奪い、固い地面を露出させる。
「強奪《スナッチ》」
退路の砂が左右へ流れる。
担架を運ぶ者たちの足が沈みにくくなる。
砂漠船が速度を上げる。
力を深く奪う必要はない。
黒砂へ触れる必要もない。
道一本分。
それだけなら、左腕だけでもできた。
アルフィアがバンを見る。
「無茶をしないのか」
「してるだろ。担架降りてんぞ」
「お前にしては、という意味だ」
「褒めてんのか?」
「違う」
「素直じゃねぇな」
バンの額へ汗が浮かぶ。
右腕を使わなくても、《強奪》そのものが身体へ負荷を返す。
咆哮へ触れた時の異質な力が、まだ内側に残っていた。
糸を伸ばすたびに、遠くのベヒーモスへ引かれる。
それでも。
今は怪物を盗もうとしていない。
目の前の砂だけ。
それなら耐えられる。
「道が開いた!負傷者を送れ!」
支援者たちが走る。
アルヴィンが荷車の横で声を張っていた。
「記録箱は二台目へ!水袋を捨てるな!壊れた装備は置いていけ!」
一人の冒険者が折れた槍を抱えたまま迷っている。
「捨ててください!」
「だが、これは――」
「命より高い槍ですか!」
冒険者は歯を食いしばり、折れた槍を放した。
アルヴィンが背を押す。
「走って!」
逃げる判断。
捨てる判断。
戦場では、それも技だった。
黒砂の波が迫る。
「残り五呼吸!」
ロウムが叫ぶ。
盾列の正面へ、複数の魔物が飛び込む。
一体を受ける。
二体目を弾く。
三体目。
黒砂に染まったサンドホーンが、倒れた仲間の陰から飛び出した。
ロウムの視界から外れている。
「左だ!」
バンが叫ぶ。
ロウムが振り向く。
遅い。
黒い角が盾の脇を抜け、脇腹を貫いた。
「がっ……!」
ロウムの身体が浮く。
サンドホーンが頭を振り、巨体を投げ飛ばす。
血が砂へ散った。
「ロウム!」
パァルが槍を投げる。
長槍がサンドホーンの首へ突き刺さる。
ザルドが駆け込み、大剣で頭部を叩き潰した。
セリアがロウムへ走る。
脇腹が大きく抉れている。
傷口には黒い粒が付着し、血の流れに逆らうように身体の内側へ入り込んでいた。
「灰!洗浄布!」
治療師たちが集まる。
セリアが傷口を押さえる。
だが、血が止まらない。
黒砂が肉を腐らせ、治療魔法の流れを乱している。
「呼吸が弱い!」
「運べ!」
「このまま動かせません!」
黒砂の波まで、もうほとんど距離がない。
パァルが盾を構え、治療班の前へ立つ。
「先に運べ!ここは俺が――」
「間に合わねぇ」
バンがロウムの横へ膝をつく。
セリアが顔を上げる。
「バンさん?」
「黒砂は抜けねぇ。けど、死ぬまでの時間は延ばせる」
「何をする気ですか」
「贈物《ギフト》」
バンの左手が、ロウムの胸へ触れる。
不死の泉はもうない。
失った不死性を、そのまま他人へ渡すこともできない。
今のバンが渡せるのは、自分の生命力。
煉獄を生き抜いた身体に蓄えられた、生きようとする力。
傷を塞ぐ力ではない。
毒を消す力でもない。
止まりかけた心臓を、もう一度動かすための火。
「持ってけ」
温かいものが、バンの身体から抜ける。
左腕を通り、ロウムへ流れ込む。
冷える。
指先。
腹。
胸。
内側から熱を奪われる。
ロウムの途切れかけていた呼吸が、わずかに戻った。
心臓が一度。
そして、もう一度動く。
「今だ」
バンが言う。
「治したわけじゃねぇ。火を足しただけだ」
セリアがすぐに指示を出す。
「傷口を焼きます!侵食した部分を切除!担架を!」
治療師が動く。
ロウムの身体が持ち上げられる。
バンも立とうとした。
視界が暗くなる。
膝が落ちた。
アルフィアが肩を掴む。
「何をした」
「見てただろ」
「生命力を渡したのか」
「ちょっとな」
「今のお前が?」
「今じゃなきゃ、あいつ死んでただろ」
アルフィアの手へ、バンの身体の冷たさが伝わる。
彼女の表情が険しくなった。
「自分の残量も分からないのか」
「まだ生きてる」
「その言葉を――」
「禁止すんだろ。知ってる」
黒砂の波が、すぐそこまで迫る。
女帝が戻ってくる。
片腕でバンを持ち上げた。
「おい」
「黙って運ばれなさい」
「俺は荷物じゃねぇぞ」
「今は荷物以下よ。自分で歩けないでしょう」
「歩ける」
「禁止です」
アルフィアが冷たく言った。
バンは顔をしかめる。
「お前まで言うようになったな」
女帝はバンを肩へ担ぐ。
アルフィアは自分で走り出す。
治療師と負傷者が退路へ入ったのを確認し、パァルが号令する。
「全班撤退!」
盾列が一斉に下がる。
マキシム、ザルド、女帝が最後尾へ並ぶ。
押し寄せる黒砂。
その正面へ、三人の英傑が立つ。
「止める気か」
女帝の肩から、バンが言った。
「止めん」
マキシムが答える。
「割る」
三人が同時に動いた。
マキシムの拳が大地を打つ。
普通の砂が前方へ盛り上がり、黒砂の先端を跳ね上げる。
女帝の蹴りが、舞い上がった黒砂を横へ散らす。
ザルドの大剣が、その中から現れた大型魔物をまとめて薙ぎ払う。
波は消えない。
だが、先端が三つに分かれた。
その中央。
ほんの短い道ができる。
「行け!」
全員が走る。
砂漠船が帆を張る。
担架が運ばれる。
結界杭は抜く余裕がない。
荷車も数台が捨てられた。
武器。
水袋。
食料。
陣地。
昨日まで積み上げたものを、いくつも置いていく。
持ち帰るのは、命と記録。
それ以外は捨てる。
敗走だった。
誰も振り返らない。
黒砂の波が第二線を呑み込む。
天幕が黒く染まり、結界杭が折れ、置き去りにした荷車が砂の下へ消えていく。
その光景を背に、遠征軍はハルファへ退いた。
南門へ着いた頃には、日が高く昇っていた。
警戒の鐘が鳴り続けている。
第一線の者たちが負傷者を受け入れる。
サナが担架の間を走る。
「重傷者はこちら!黒砂傷は酒場裏へ!」
ロウムの担架が運ばれてきた。
サナは血の量を見て青ざめる。
だが、足を止めない。
セリアと共に処置室へ入っていく。
その次に、女帝がバンを下ろした。
サナが振り返る。
「バンさん?」
「ただいま」
軽く手を上げようとする。
左腕にも力が入らない。
サナはバンの冷えた肌と血の気を失った顔を見た。
「何をしたんですか」
「ちょっと分けた」
「何を」
「命」
サナの顔が歪む。
「馬鹿なんですか」
「それ、よく言われるな」
「笑わないでください!」
強い声。
怒っている。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
バンは少しだけ表情を緩める。
「ロウムは」
「まだ分かりません」
「死んでねぇなら、間に合ったな」
「バンさんも横になってください」
「飯は?」
「後です」
「腹減った」
「後です!」
バンは大人しく担架へ戻された。
隣にはアルフィアも座らされている。
彼女は治療師に口元の血を拭かれながら、バンを見ていた。
「お前の《贈物》は、何人に使える」
「知らねぇ」
「知らない?」
「数えて使ったことねぇからな」
「今回と同じ傷なら」
「一人でも重い。二人やりゃ、たぶん俺が動けなくなる」
「三人なら」
「死ぬかもな」
サナが振り返る。
「使わせません」
「聞いてただけだろ」
「使わせません!」
アルフィアはサナを見る。
それからバンへ視線を戻す。
「万能ではないのだな」
「ああ。治す技でもねぇ」
「ただ、命を繋ぐ」
「そういうことだ」
「なら、使う相手を選べ」
バンは目を細める。
「お前に言われたくねぇな」
「何がだ」
「命削るのを勘定に入れてる奴が、偉そうに言うなよ」
アルフィアは黙った。
言い返さなかった。
ハルファでは、負傷者の確認が続いている。
戻った者。
担架で運ばれた者。
自力では歩けない者。
そして、戻らなかった者。
夕方。
広場に主な者たちが集められた。
マキシムは腕を組み、報告を聞いている。
死者二名。
重傷者十数名。
黒砂による侵食を受けた者は、それ以上。
第二線の物資は半数近くを失った。
結界杭も多くが回収できていない。
それでも、観測記録は全て持ち帰った。
ベヒーモスの位置。
外殻。
呼吸。
咆哮。
脚の落下範囲。
黒砂の変化。
人間を認識した後の反応。
情報だけを見れば、先遣の目的は達成している。
だが、誰も成功とは呼ばなかった。
ナジュが二つの布を、広場の端へ並べる。
戻らなかった二人のためのものだ。
遺体すら回収できなかった。
ゼウスは布の前で黙っている。
ヘラも何も言わない。
神々の軽口はなかった。
黒い砂漠の奥から、低い地鳴りが届く。
集まった者たちが顔を上げる。
怪物は生きている。
傷一つ負っていない。
こちらだけが、血を流した。
マキシムが全員を見る。
「本日の接触で、現在の作戦では勝てないことが分かった」
誰も目を逸らさない。
「外殻を破る手段が足りん。黒砂と毒を越える時間も足りん。咆哮を防ぎ、脚を止め、攻撃を通す。その全てを同時に行う必要がある」
女帝が続ける。
「数を増やしても死者が増えるだけ。次は前線をさらに絞るわ」
リシェルは失った結界杭の数を見ている。
パァルは死傷者名簿を握っていた。
アルフィアは椅子へ座りながら、黒い砂漠を見ている。
ザルドは立ったまま、目を閉じていた。
バンは酒場の壁へ背を預けている。
身体は重い。
熱が足りない。
それでも、意識ははっきりしていた。
「なあ、暴喰」
ザルドが目を開ける。
「何だ」
「見てどうだった」
ザルドは少し考える。
「今のままでは、刃が届かん」
「逃げるか?」
「逃げれば、次に喰われるのはハルファだ」
ザルドは黒い砂漠へ視線を向ける。
「なら、こちらが変わるしかない」
「どうやって」
ザルドの大きな手が、大剣の柄を握る。
「足りないものを、喰って補う」
その声には、決意があった。
冗談でも、比喩でもない。
敗走した者だけが持つ、冷えた覚悟。
黒い砂漠の奥で、動く山が再び息を吐く。
その寝息に追われ、英傑たちは退いた。
仲間を失い。
傷を負い。
戦場を捨てて。
それでも、誰一人として終わったとは言わなかった。
敗走は、敗北ではある。
だが。
まだ、終わりではなかった。
第21話でした。
今回は第二線まで押し寄せた黒砂によって遠征軍が陣地を放棄し、ハルファへ敗走する様子を描きました。
また、《贈物》は傷や黒砂の侵食を治す力ではなく、バン自身の生命力を渡して死までの時間を延ばすものとしています。