ここから第4部「港町メレンと海神の眷属」に入ります。
リヴァイアサンとの戦場はメレンではなく、さらに沖の外洋です。
今回は、海上要塞建造の拠点である港町メレンと、ポセイドン・ファミリアとの初接触回になります。
ポルト・グランデを出てから、海沿いの道を歩き続けた。
潮風はずっと横から吹いていた。
右手には海。
左手には低い丘と岩場。
街道には魚を積んだ荷車、塩樽を運ぶ商人、港へ向かう船大工、槍を持った傭兵、祈るように海を見つめる漁師たちが行き交っている。
空は晴れていた。
だが、海はどこか落ち着かない。
波の形が妙だった。風の向きに対して、うねりが少しずれている。沖の方で、海面が盛り上がっては沈む。そのたびに、遠くの海鳥が一斉に飛び立った。
バンは歩きながら、干し肉をかじった。
「……海の匂いが濃くなってきたな」
ポルト・グランデの海は、食材と酒と市場の匂いが混じっていた。
だが、メレンへ近づくにつれて、匂いが変わっていく。
塩。
油。
濡れた木材。
縄。
鉄。
船底に塗る防水剤。
それから、どこか張り詰めた人間の汗の匂い。
うまいものの町から、海と戦う町へ。
そんな変化だった。
左腕はまだ少し重い。
ミラに巻かれた包帯は新しく替えてある。ポルト・グランデで食い込んだ海獣肉と深海魚のおかげで、傷そのものはかなり塞がってきた。だが、アンタレスの毒と月光を通した反動は完全には消えていない。
強く握れば痛む。
長く力を入れれば痺れる。
クレシューズを振るうには問題ないが、無理をすれば傷は開く。
「飯が足りねぇな」
バンは左手を握り、開いた。
「メレンにうまいもんがあるといいんだけどよ」
昼を少し過ぎた頃、丘の向こうに港町が見えた。
港町メレン。
ポルト・グランデほど派手ではない。
だが、規模は大きい。
海へ突き出した長い桟橋。船を引き上げる巨大な滑り台。いくつもの造船所。倉庫。見張り塔。灯台。岸壁に並ぶ漁船と軍船。海上には、普通の船とは比べものにならない巨大な構造物が浮かんでいた。
いや、浮かんでいるというより、海の上に町の一部がせり出しているようだった。
分厚い木材と鉄骨で組まれた足場。
塔のような櫓。
鎖で繋がれた巨大な浮き台。
何本もの帆柱。
上には鍛冶場、倉庫、見張り台、投射器らしきものまである。
海上要塞。
マーロウが言っていた言葉を、バンは思い出した。
「でけぇ足場だな」
港へ近づくにつれ、怒鳴り声が増えた。
「三番鎖、もっと締めろ!」
「北側の浮力板が沈んでるぞ!」
「樽をそこに置くな!そこは矢弾の通路だ!」
「ポセイドンの連中を呼べ!潮が変わった!」
「水中班、戻りました!」
人が走っている。
船大工、鍛冶師、荷運び、冒険者、海の魔物を解体する漁師、ギルド職員。誰もが忙しそうで、食堂の匂いよりも油と鉄の匂いが強い。
港の門で、バンはまた止められた。
今度の門番は、ポルト・グランデの門番よりさらに厳つい。日焼けした肌、短く刈った髪、腰には曲刀。鎧には波の紋章が入っている。
「名と目的を言え」
「バン。飯を食いに来た」
「帰れ」
即答だった。
バンは眉を上げる。
「早ぇな」
「今のメレンは観光客を入れている余裕はない。食い歩きならポルト・グランデへ行け」
「そこから来た」
「なら戻れ」
「俺の魚が外洋の化け物に止められてんだよ」
門番の目が細くなる。
「……外洋の話をどこで聞いた」
「ポルト・グランデ。蒼潮マグロが入らねぇって魚屋が怒ってた」
「蒼潮マグロ目当てでここまで来たのか」
「あと海王の肉」
門番の顔が険しくなった。
「海王を食材扱いするな」
「食えるかどうかは見てからだろ」
「そういう問題ではない」
その時、門の奥から若い男の声がした。
「何の騒ぎだ」
現れたのは、青い外套を羽織った青年だった。
年は二十代半ばほど。短い黒髪に、海のような青い目。鎧は軽装だが、手には三叉槍に似た槍を持っている。腰には短剣と、貝殻の形をした笛。
胸元には、波と三叉槍の紋章。
ポセイドン・ファミリア。
見ただけで、港の空気が少し変わった。
門番が姿勢を正す。
「カイムさん。旅人です。海王を食材扱いして、メレンへ入りたいと」
「説明が悪意あるな」
バンが言う。
「だいたい合っている」
青年、カイムはバンを見た。
頭から足元まで。
修復されたエンジ色のロングコート。スタッズ付きの赤いレザーパンツ。太い茶革のベルト。磨かれた銀のバックル。肩に担がれた聖棍クレシューズ。左腕の包帯。
「君が赤い旅人か」
「あ?」
「ポルト・グランデから早馬が来ていた。月戻りの果実を持ち込み、料理人ギルドで騒ぎを起こし、海獣肉を店ごと食い尽くしかけた赤い旅人がメレンへ向かう、と」
「店ごとは食ってねぇ」
「そこではない」
カイムは小さく息を吐いた。
「それに、黒い砂漠の話も聞いている。エルソスの森の異変が収まったこともな」
バンの目がわずかに細くなった。
「耳が早ぇな」
「海は情報を運ぶ。港は噂を集める。今のメレンならなおさらだ」
カイムは門番へ頷いた。
「通していい。ただし、彼には私がつく」
「いいんですか?」
「放っておく方が危険だ」
「おい」
バンが不満そうに言う。
カイムは真顔で答えた。
「海王を食材扱いする旅人を、港町メレンで放し飼いにするわけにはいかない」
「犬かよ」
「野良犬よりたちが悪そうだ」
門番が笑いを堪えた。
バンは肩をすくめ、門をくぐった。
港町メレンの中は、ポルト・グランデとはまったく違っていた。
食材の匂いはある。
焼き魚の屋台も、酒場も、魚市場もある。
だが、中心にあるのは食ではなかった。
船。
どこを見ても船だった。
造船所では巨大な木材が削られ、海上要塞へ運び込まれている。鍛冶場では鎖や鉄杭が打たれ、倉庫には矢弾、油壺、補修用の板、太い縄が積まれていた。
海沿いには、濡れた鎧の冒険者たちが集まっている。中には水中で活動するための装備を身につけた者もいた。鰭のような足具、空気袋、銛、網、短い槍。
バンはそれを眺めた。
「海で戦う気満々だな」
「戦わなければ、遠洋航路が死ぬ」
カイムが答える。
「外洋の異変は、もう噂の段階ではない。漁場が潰れ、船が沈み、海獣が逃げてきている。メレンそのものが襲われているわけではないが、このままでは外へ出られなくなる」
「出なきゃいいだろ」
「そうすれば、沿岸の町は飢える。食材も、塩も、交易品も、薬の材料も止まる」
「飯が減るわけだ」
「君の理解はいつもそこへ戻るのか」
「大事だろ」
「大事だが、順番が違う」
カイムは港の奥を指した。
海上要塞が近づく。
見上げるほど大きい。
複数の巨大な浮き台を鉄鎖で繋ぎ、上に木造の足場と塔を組んでいる。底には浮力を調整するための巨大な樽と、魔道具らしき金属板。側面には船を接続するための桟橋があり、上には投射器、補給倉庫、治療所まで作られている。
「これが外洋へ出る足場か」
「まだ未完成だ」
「これで未完成かよ」
「リヴァイアサン級の相手に、普通の船は紙だ。海の上に動かせる城を造る必要がある」
「で、これで海王を殴るのか」
「殴るというより、生き残るための足場だ」
カイムは厳しい顔で言った。
「海では、陸の強者がそのまま強者とは限らない。足場が揺れる。波が視界を奪う。水中から来る敵には剣が届かない。魔法も湿気と潮で狂うことがある。何より、落ちれば終わりだ」
「泳げばいいだろ」
「リヴァイアサンの周囲でか?」
「無理か」
「無理だ」
即答だった。
バンは笑った。
「海の連中は厳しいな」
「海が甘くないからだ」
その言葉に、バンは少しだけカイムを見る。
真面目だ。
海のことになると、冗談を入れる隙がない。
ポセイドン・ファミリア。
海神の眷属。
たしかに、外洋で何かをするなら、この連中が必要になるのだろう。
海上要塞の脇では、数人の冒険者が水から上がってきた。濡れた髪。青い外套。銛。腕には擦り傷があり、一人は肩を押さえている。
「水中班、戻りました!」
カイムが振り返る。
「潮は?」
「昨日より悪いです。東からの流れが急に反転しました。海底の砂が巻き上がって、視界がほとんどありません」
「海獣は」
「小型が群れで逃げています。追われているようでした」
「追っているものは見たか」
水中班の男は首を横に振った。
「見えません。ただ、音がしました」
「音?」
「海の底から、鐘みたいな音が」
周囲が静まった。
カイムの表情が硬くなる。
「分かった。休め。傷の手当てを受けろ」
「はい」
水中班が去る。
バンは海を見た。
「鐘ねぇ」
「リヴァイアサンが動く前触れだと言う者もいる」
「見た奴は?」
「近づいて戻った者は少ない。見た者も、全体は見ていない。海面の下で青い光が走り、船ほどの鰭が見えた。山のような背が浮いた。尾で海が割れた。証言はばらばらだ」
「でかいんだな」
「それだけで済むならよかった」
カイムは海上要塞を見上げた。
「ポセイドン・ファミリアだけでは足りない。ゼウス・ファミリア、ヘラ・ファミリアにも討伐要請が飛んでいる。主力が集まらなければ、外洋へ出ることすらできない」
「強い奴らが来るのか」
「この時代で最強の者たちだ」
「へぇ」
バンは少しだけ興味を示した。
だが、すぐに港の屋台へ視線がそれる。
焼き魚の匂いがした。
カイムはその視線に気づき、額を押さえた。
「話を聞いていたか」
「聞いてた。海は危ねぇ。足場がいる。強い奴らが来る。海王はでかい。飯は減ってる」
「最後だけ力が入っていたな」
「一番大事だからな」
バンは屋台へ向かおうとした。
カイムが肩を掴む。
「待て。まずは司令所へ来てもらう」
「飯は?」
「後だ」
「ポルト・グランデでも言われたぞ、それ」
「どこの町でも、君はまず止められるのだろうな」
バンは不満そうにしながらも、カイムについていった。
司令所は、海上要塞を見下ろせる高台にあった。
中には地図が広げられている。メレンの港、沿岸、外洋航路、遠洋漁場。そして、その先に大きく赤い円が描かれた海域。
そこには文字が書かれていた。
海王推定出没海域。
バンは地図を覗き込む。
「遠いな」
「メレンからさらに沖だ。普通の船なら、天候次第で数日かかる」
「歩けねぇのか」
「海だ」
「知ってる」
司令所にいた年配の男が、バンを見る。
灰色の髪。片目に古い傷。ポセイドン・ファミリアの紋章をつけた外套。カイムよりもずっと重い空気をまとっている。
「そいつが赤い旅人か」
「はい、オルド副団長」
カイムが答える。
副団長と呼ばれた男、オルドはバンをじろりと見た。
「海王を食うと言ったそうだな」
「食えるならな」
司令所の空気が凍る。
カイムが目を閉じた。
オルドは怒鳴らなかった。
ただ、低い声で言う。
「海を舐めるな、小僧」
バンの目が細くなった。
空気が少し変わる。
だが、オルドは引かない。
「あれは食材ではない。海の災厄だ。船を沈め、漁場を潰し、人を呑む。海の上で生きる者にとって、リヴァイアサンは冗談にしていい名ではない」
バンはオルドを見ていた。
しばらくして、肩をすくめる。
「俺にとっちゃ、飯の邪魔してる奴だ」
「同じことだと思っているのか」
「飯の邪魔ってのは、人が生きる邪魔ってことだろ」
オルドの目がわずかに変わった。
バンは続ける。
「船が沈む。魚が来ねぇ。酒場で笑えねぇ。泣く奴が増える。だったら邪魔だ。名前が海王だろうが何だろうが、どかす理由にはなる」
司令所に沈黙が落ちた。
カイムが少しだけバンを見る。
オルドは腕を組んだ。
「……口は悪いが、言っていることは分からんでもない」
「だろ」
「だが、食うと言うな」
「そこは譲れねぇな」
「なぜだ」
「倒した後に食えるかもしれねぇだろ」
カイムが小さく呻いた。
オルドは額に手を当てた。
「カイム」
「はい」
「こいつから目を離すな」
「承知しています」
「それと、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの到着まで、勝手に外洋へ出すな」
「はい」
バンが顔をしかめる。
「勝手に出ねぇよ。船の場所知らねぇし」
「知っていたら出る気だったのか」
「腹が減ってたらな」
「だから目を離すなと言っている」
オルドは地図の赤い円を指した。
「赤い旅人。お前の噂は聞いている。黒い砂漠で何をしたのか、エルソスで何が起きたのか、詳しくは知らん。だが、普通の旅人でないことは分かる」
「ただの旅人だ」
「ただの旅人は三大クエストの名を聞いて、肉の心配をしない」
「うまいかどうかは大事だろ」
「黙って聞け」
オルドの声が少しだけ強くなる。
「外洋では、個人の強さだけでは足りん。足場、潮、風、補給、水中の守り、撤退路。すべてが必要だ。ゼウスもヘラも、ポセイドンの海を借りなければ戦えない」
その言葉には、誇りがあった。
自分たちだけで倒せるとは言わない。
だが、自分たちがいなければ誰も戦えない。
海の専門家としての矜持。
バンはそれを嗅ぎ取った。
「なるほどな」
「分かったか」
「ああ。海で飯食うにも、皿がいるってことだろ」
オルドは数秒固まった。
カイムが横を向いて咳払いをした。
「……まあ、間違ってはいない」
「だろ」
バンは地図を見る。
メレン。
海上要塞。
外洋航路。
赤い円。
そこに、海王がいる。
「で、俺は何すりゃいい」
オルドは目を細めた。
「今は何もするな。待て。食え。休め。腕を治せ」
「食え?」
「腹が減っている顔をしている」
「分かるのか」
「海の男は、空腹と嵐の匂いには敏い」
バンは少し笑った。
オルドはカイムへ言った。
「連れて行け。港の食堂で食わせろ。暴れたら海に投げ込め」
「承知しました」
「投げ込めるならな」
バンが笑う。
カイムは真面目な顔で返した。
「海では、陸より少し自信がある」
「へぇ」
二人の視線がぶつかる。
軽い挑発。
だが、殺気はない。
オルドが咳払いをした。
「喧嘩は食堂の外でやれ」
「食堂ではやらねぇよ。飯がまずくなる」
「そこだけは信用できそうだ」
司令所を出ると、夕方の光が港を赤く染めていた。
海上要塞では、まだ作業が続いている。鎖が鳴り、木槌が響き、海鳥が鳴く。
カイムはバンを港の食堂へ案内した。
途中、バンは海上要塞をもう一度見上げる。
巨大な足場。
外洋へ出るための城。
海王と戦うための皿。
バンは口元を上げた。
「面白くなってきたな」
「危険になってきた、の間違いだ」
「似たようなもんだろ」
「全然違う」
食堂からは、焼いた魚と濃いスープの匂いがした。
バンの腹が鳴る。
カイムはため息をついた。
「まずは食え。話はそれからだ」
「いい町だな、メレン」
「食事を出すだけで評価が上がるのか」
「飯は大事だろ」
「もう分かった」
バンは食堂へ入る。
その背後で、港の鐘が鳴った。
低く、重い音。
外洋の方角で、潮が変わったことを告げる鐘だった。
メレンの港が、わずかにざわめく。
海の向こうで、何かが動いている。
まだ見ぬ海王の影が、少しずつ近づいていた。
第23話でした。
第4部「港町メレンと海神の眷属」の導入回です。
メレンはリヴァイアサンとの直接の戦場ではなく、外洋へ出るための港町・海上要塞建造の拠点として描いています。
次回は、ポセイドン・ファミリアとの関わりを深めつつ、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアの影も近づいてきます。