今回は、メレンの港食堂での回になります。
ポルト・グランデの美食とは違う、海の男たちが戦うための飯。
そこから、ポセイドン・ファミリアの矜持と、ゼウス・ヘラの到着前の緊張へ繋げていきます。
メレンの港食堂は、うまそうな匂いより先に、塩の匂いがした。
港の司令所から坂を下り、海上要塞を横目に歩いた先。
波打ち際に建つその食堂は、見た目からして頑丈だった。
分厚い木の扉。
潮で黒ずんだ外壁。
軒先に吊られた干し魚。
壁に打ちつけられた古い銛と折れた櫂。
入口の横には、大鍋が二つ置かれていて、片方では魚の骨と海藻を煮込み、もう片方では肉と豆がぐつぐつと音を立てている。
ポルト・グランデの店とは違う。
あそこは香りで客を誘う町だった。
皿の上に色を乗せ、香辛料を散らし、酒との相性まで考える。食材を楽しませ、客を驚かせる美食の町。
だが、メレンの飯は違った。
匂いが荒い。
塩気が強い。
油も多い。
硬いパンの香りと、魚醤を煮詰めた濃い匂いが、店の外まで漏れている。
これは、飾るための飯ではない。
海へ出る男たちを、沈まないように腹から支える飯だ。
バンは入口で立ち止まり、鼻を鳴らした。
「……悪くねぇな」
カイムが横で少し意外そうに見る。
「美食都市の後だ。もっと文句を言うかと思った」
「あっちは酒のための飯だな」
「ここは?」
「戦うための飯だ」
カイムは一瞬だけ黙った。
それから、わずかに口元を緩める。
「分かるのか」
「匂いでな」
バンは扉を開けた。
中は、さらに騒がしかった。
長い木の卓がいくつも並び、船乗り、船大工、ポセイドン・ファミリアの冒険者、漁師、鍛冶師、補給係たちが肩をぶつけ合うように座っている。皿はどれも大きく、杯も厚い。料理は美しく盛られているわけではない。だが、どれも湯気を立て、量だけは遠慮がなかった。
大鍋からは、魚骨と海藻の濃いスープがよそわれている。
別の鍋には、海獣肉と豆と根菜の煮込み。
焼き魚は開いたまま炭火に乗せられ、表面には粗塩が白く浮いている。
パンは硬い。木槌で叩けば音がしそうなほどだ。
バンは席に座る前に、厨房の方を見た。
丸太みたいな腕の女将が、鍋をかき混ぜていた。短い髪に白い布を巻き、腰には大きな木杓子を差している。顔には深い皺があり、声は船の鐘より大きそうだった。
「カイム!連れてきたのが噂の赤コートかい!」
「はい、エッダさん。食わせろとの命令です」
「命令じゃなくても食わせるよ。腹減った顔してる奴を追い返したら、港の食堂の名折れだ」
女将、エッダはバンを見た。
「どれくらい食う」
「とりあえず、鍋一つ」
店内が静かになった。
カイムが目を閉じた。
「バン。ここはポルト・グランデではない」
「知ってる」
「鍋は一人前ではない」
「知ってる」
エッダは大声で笑った。
「いいねぇ!そういう馬鹿は嫌いじゃないよ!ただし残したら海に投げる!」
「残さねぇよ」
「なら座りな!」
バンは席についた。
隣にカイムが座る。
すぐに皿が来た。
まずは、魚骨と海藻の濃いスープ。
器は大きい。スープは白濁していて、表面に魚の脂が浮いている。中には砕いた骨、海藻、根菜、貝の身が入っていた。見た目は地味だが、湯気に混じる匂いは濃い。
バンは一口飲んだ。
塩辛い。
かなり塩辛い。
だが、ただ雑に塩を入れただけではない。魚骨から出た旨味、海藻のぬめり、貝の甘み、魚醤の発酵臭。それらが塩でまとめられている。汗をかき、波を浴び、冷えた身体に入れれば、血が戻る味だった。
「濃いな」
バンが言う。
エッダが厨房から叫ぶ。
「薄い飯で海に出られるか!」
「違ぇよ。褒めてんだ」
バンはもう一口飲んだ。
「血になる味だ」
周りの船乗りたちが少しだけ笑った。
次に、海獣肉と豆の煮込み。
肉は大きい。切り方も雑に見える。だが、長時間煮込まれていて、筋はほどけ、脂は豆に吸われている。根菜は崩れかけ、煮汁には黒胡椒に似た刺激と、魚醤の深い塩気があった。
バンは硬いパンを手に取った。
本当に硬い。
そのまま噛めば歯に響く。
だが、煮込みの汁に沈めると、少しずつ柔らかくなる。汁を吸ったパンは、肉の脂と塩を抱えて重くなった。
バンはそれをかじる。
「……なるほどな」
「何がだ」
カイムが聞く。
「このパン、単体じゃ飯じゃねぇ。汁を吸わせるための皿だ」
「そうだ。船の上では柔らかいパンはすぐ駄目になる。硬いパンを持ち、スープに沈めて食う」
「理にかなってる」
「味は?」
「悪くねぇ。というか、こういう飯は変に上品にしたら死ぬな」
カイムは少し驚いたようにバンを見る。
「君は、思ったより料理に真面目だな」
「思ったよりって何だ」
「海王を食材扱いする男だからな」
「食材にできるか見てねぇだけだ」
「まだ言うか」
バンは煮込みを食べ続けた。
腹の中から熱が広がる。
左腕の鈍痛が、少しだけ遠のく。
ポルト・グランデの飯は、香りと味で身体を目覚めさせた。だが、メレンの飯は違う。胃へ落ちた瞬間から、血と肉に変わることだけを考えているような飯だった。
荒い。
濃い。
塩辛い。
豪快。
だが、必要なものが入っている。
「いいな」
バンは呟いた。
「こういう飯は嫌いじゃねぇ」
カイムは少しだけ表情を緩めた。
「メレンの飯は、長く海に出る者のためにある。美しくはないが、腹に残る」
「皿で飾るより、腹で残る方が大事な時もあるわな」
そこへ、焼き魚が運ばれてきた。
名前は岩背鯛というらしい。
岩場に張り付くように棲む魚で、皮が硬く、身は締まっている。表面には粗塩が振られ、腹には香草と砕いた貝が詰められていた。
バンは身をほぐし、食べる。
皮はぱりっとしている。身は強い。淡白ではなく、噛むほどに海の味が出る。香草は控えめで、塩が主役だった。
「こいつは酒だな」
「昼だ」
「関係あるか?」
「ある」
カイムが言うより早く、エッダが杯を置いた。
「港の薄酒だ。強くない。食事用だよ」
「話が分かるな、女将」
「飯を分かる奴には酒を出すのが礼儀だ」
カイムがため息をつく。
「エッダさん」
「文句はオルドに言いな。あたしは腹を満たす係だ」
バンは杯を取った。
飲む。
薄い。
だが、悪くない。
潮気のある麦酒に近い。魚の脂を流し、塩辛さを丸める。強い酒ではない。だが、港の昼飯には合う。
「これはこれでいいな」
バンは満足そうに言った。
周囲の船乗りたちが、少しずつバンに興味を持ち始めていた。
「あんた、赤い旅人ってやつか」
一人が声をかける。
「ただの旅人だ」
「黒い砂漠の化け物をどかしたって聞いたぞ」
「でかい邪魔者だったな」
「エルソスの森も静かになったって話だ」
「虫がうるさかったからな」
「虫で済む話じゃないだろ、それ」
バンは酒を飲むだけだった。
カイムが横で言う。
「君は説明を省きすぎる」
「長い話は飯が冷める」
「今は食べながら話しているだろう」
「ならなおさらだ」
船乗りの一人が笑った。
「気に入ったぜ、赤コート。海王もその調子で頼むわ」
その瞬間、カイムの表情が険しくなった。
「軽く言うな」
声は大きくなかった。
だが、食堂の一角が静まる。
カイムは船乗りを見た。
「外洋で沈んだ船がある。戻らない者もいる。リヴァイアサンの名を、酒場の冗談にするな」
船乗りは気まずそうに頭を下げた。
「……悪い」
バンはそのやり取りを見ていた。
カイムは若い。
だが、海の話になると容赦がない。
ポセイドン・ファミリアは、海を守るための眷属だ。
海で飯を食う者たちの命を、笑い話にはしない。
バンは煮込みの肉を噛みながら言った。
「真面目だな」
「真面目でなければ、海では死ぬ」
「なるほどな」
「馬鹿にしているのか」
「してねぇよ」
バンは器の底に残った汁をパンで拭った。
「飯作ってる奴も、海に出る奴も、船直してる奴も、みんな真面目だ。この町は、そういう匂いがする」
カイムは少し黙った。
「君の言葉は、時々分かりにくいが」
「ん?」
「今のは、褒め言葉として受け取っておく」
「実際、褒めてる」
エッダが厨房から笑う。
「カイム!珍しく褒められてるじゃないか!」
「私ではなく町です」
「同じようなもんだ!」
食堂に笑いが戻る。
だが、完全には戻らなかった。
外洋の噂は、食堂の隅にまだ残っている。
空いた席。戻らない船の話。傷ついた船員。積み荷の減った市場。
飯は熱い。
酒もある。
笑い声もある。
それでも、海の向こうに何かがいる。
バンはそれを感じていた。
食堂の扉が開いたのは、ちょうどその時だった。
冷たい潮風が入ってくる。
続いて、濡れた外套を羽織った男が入ってきた。ポセイドン・ファミリアの伝令らしい。肩で息をし、額には汗が浮いている。
「カイムさん!」
カイムが立ち上がる。
「何だ」
「外洋観測班から追加報告です。第七浮標が流されました」
食堂が静かになる。
カイムの顔色が変わった。
「第七浮標は、メレン沖ではない。外洋航路の手前だろう」
「はい。固定鎖ごと引き千切られています」
「海獣か」
「分かりません。ただ、浮標の残骸に青白い鱗のようなものが付着していたと」
青白い鱗。
その言葉だけで、食堂の空気がさらに重くなる。
バンは杯を置いた。
「鱗か」
カイムは伝令へ言う。
「オルド副団長へ報告。水中班は出すな。潮が悪い時に追わせるな」
「了解しました」
伝令が出ていく。
カイムは席に戻らなかった。
「すまない。私は司令所へ戻る」
「飯は?」
「今は後だ」
「冷めるぞ」
「慣れている」
その答えに、バンは少しだけ眉をひそめた。
慣れている。
飯を途中で置いて、海へ向かうことに。
食いかけのスープを残し、冷めた魚を後で食うことに。
この町の連中にとって、それは珍しいことではないのだろう。
バンは自分の皿を見た。
まだ煮込みが残っている。
焼き魚も半分ある。
港の飯は、戦うための燃料だ。
なら、燃料を残すのはよくない。
「カイム」
バンが呼んだ。
「何だ」
「食え」
「今は」
「一口でいい」
カイムが止まる。
バンは煮込みの肉を木匙ですくい、カイムの皿へ放った。
「腹空かせたまま海の話すんな。判断がまずくなる」
カイムは言葉を失った。
エッダが厨房から大きく頷く。
「その通りだよ!食ってから走りな!」
カイムは少し迷い、それから皿を取った。
一口食べる。
熱い煮込みが喉を通る。
短い沈黙の後、彼は息を吐いた。
「……助かる」
「礼は魚でいい」
「君は本当にぶれないな」
「ぶれたら飯がまずくなる」
カイムは少しだけ笑った。
「司令所で待っている。食べ終えたら来てくれ。オルド副団長も、君に聞きたいことがあるはずだ」
「飯の後ならな」
「分かった」
カイムは食堂を出ていった。
食堂の空気は少し変わっていた。
さっきまでの重さが、完全に消えたわけではない。
だが、少なくとも皿の前にいる間だけは、誰もが食うことを思い出した。
エッダが新しい煮込みをバンの前に置く。
「いいこと言うじゃないか、赤コート」
「腹減ってる奴見ると、飯がまずくなるだけだ」
「それをいいことって言うんだよ」
「そうか?」
「そうさ」
バンは煮込みを食べた。
海獣肉。
豆。
塩。
魚醤。
硬いパン。
薄酒。
飾り気はない。
だが、身体に残る。
左腕の奥が熱を持つ。血が巡り、傷の周りがじんわりと温まる。完全に治るわけではない。だが、動くための燃料にはなる。
メレンの飯は、美食ではない。
戦場へ向かう者たちの飯だ。
バンはそれを気に入った。
食べ終える頃、店の奥から一人の老人が近づいてきた。
片目に眼帯をした老船乗りだった。さっきまで隅の席で黙って酒を飲んでいた男だ。顔は潮風で削られた岩のようで、手は太い縄のように節くれている。
「赤コート」
「あ?」
「海王の話を聞きたがってるんだろ」
「食えるかどうかは気になるな」
老人は笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「俺は、若い頃に一度だけ見た」
食堂が静まった。
バンは杯を置く。
「リヴァイアサンをか」
「全体じゃない。見えたのは背と、鰭と、目だけだ」
「でかかったか」
「海が、目を開けたと思った」
老人の声は低かった。
「夜だった。海面の下に青い光が走った。最初は月が沈んだのかと思った。だが違った。光は動いていた。船の下を、山より大きなものが通った。次に、鰭が出た」
「鰭」
「ああ。帆柱より高い鰭だ。海を切るだけで、こっちの船が横倒しになった。俺たちは何もできなかった。ただ、祈った」
老人は空になった杯を見た。
「その時は、見逃された。たぶんな。海王にとっちゃ、俺たちの船なんざ木屑だったんだろう」
バンは黙って聞いていた。
老人は続ける。
「今の外洋の異変は、あの時より近い。海王が本気で動けば、メレンもポルト・グランデもただじゃ済まん。港が戦場になる前に、外洋で止めるしかない」
「だから海上要塞か」
「そうだ。海の上に、逃げない足場を作る。神の眷属どもが戦える皿をな」
皿。
老人は自然にそう言った。
バンは少し笑った。
「いい例えだな」
「笑い事じゃねぇぞ」
「分かってる」
「本当か?」
「たぶんな」
老人はじっとバンを見た。
「お前、海王を食う気なのか」
「食えるならな」
「……馬鹿だな」
「よく言われる」
「だが」
老人は杯に残った一滴を舐めるように飲んだ。
「海王が肉を残すなら、食ってやるのも悪くねぇかもしれん」
食堂の何人かが老人を見た。
老人は続ける。
「沈められた船も、食えなくなった魚も、泣いた女房も、戻らねぇ。だが、海王を倒して、そいつの肉で港の連中が腹を満たせるなら……まあ、少しは溜飲も下がる」
バンは老人を見た。
「分かってんじゃねぇか」
「調子に乗るな。まだ倒してもいない」
「食ってもいねぇしな」
老人は初めて少し笑った。
「生きて帰ってから言え、赤コート」
「生きて帰らねぇと食えねぇからな」
バンは立ち上がった。
腹は満ちた。
左腕も少し温まった。
服も汚れていない。
なら、司令所へ行く時間だった。
エッダが包みを投げてよこした。
硬いパンと、塩漬け魚と、乾燥海藻の包みだった。
「持っていきな」
「代金は」
「後で海王の話を肴に飲ませてくれりゃいい」
「高くつくぞ」
「望むところだ」
バンは包みを受け取り、肩にクレシューズを担いだ。
食堂を出る。
外は夕暮れだった。
海上要塞の上で、作業灯が灯り始めている。鎖が鳴り、木槌が響き、遠くの海では低い鐘のような音がまだかすかに聞こえた。
バンは海を見た。
見えない外洋の向こう。
そこに、海王がいる。
「飯はうまかった」
バンは呟く。
「次は、邪魔者の話だな」
赤い旅人は、港の司令所へ向かって歩き出した。
第24話でした。
今回はメレンの港食堂で、ポルト・グランデとは違う「戦うための飯」を描きました。
塩気の強い煮込み、硬いパン、魚骨のスープ、薄酒。
美食というより、海へ出る者たちを支える燃料としての飯です。
次回は、司令所で外洋の状況や海上要塞、ゼウス・ヘラ到着前の準備がさらに進んでいきます。