敗走した夜、ハルファから笑い声は消えていた。
集落の中央では、いくつもの火が燃えている。
けれど、それは宴のための火ではない。
湯を沸かす火。
傷口を焼くための鉄を熱する火。
黒砂に触れた装備を処分する火。
そして、帰らなかった二人へ捧げる火だった。
酒場は救護所となり、机の代わりに担架が並べられている。
薬草と血、灰、焼けた布の臭い。
時折聞こえる呻き声。
その奥で、ロウムはまだ眠っていた。
黒砂に侵された脇腹は切除され、傷口は焼かれている。バンが《贈物》で渡した生命力によって心臓は動いているものの、助かったと断言できる状態ではない。
バンも酒場の壁際へ寝かされていた。
右腕には厚い包帯。
指先はまだ動かない。
《贈物》を使った反動で身体の熱が落ち、何枚も毛布を掛けられている。
本人は、その扱いが不満だった。
「暑ぃ」
「身体は冷えています」
サナが即座に答える。
「汗出てんぞ」
「熱があるからです」
「じゃあ暑いんじゃねぇか」
「毛布を取ると悪化します」
「どっちだよ」
「黙って寝てください」
サナは薬を入れた椀を差し出した。
色は濃い緑。
臭いだけで苦いと分かる。
バンは顔をしかめる。
「酒で割れ」
「駄目です」
「蜂蜜」
「ありません」
「肉汁」
「薬の効果が分かりません」
「飲みづれぇな」
「子どもですか」
「酒なら一息なんだけどな」
「薬です」
バンは諦めて椀を受け取り、一気に飲んだ。
直後、さらに顔をしかめる。
「まずい」
「効いています」
「味と効き目は別だろ」
「文句を言えるなら大丈夫ですね」
「お前、強くなったな」
「誰かさんのおかげです」
サナは空になった椀を奪い取り、別の負傷者へ向かった。
その背中を見送ってから、バンは身体を起こす。
すぐ横の壁には、暗い赤の長いコートが掛けられていた。肩口は裂け、黒砂と血で汚れている。
床には、神器クレシューズが置かれていた。
見た目は、バンが以前使っていた三節棍とは違う。
鎖で繋がれた四本の棍。
それぞれの両端には、打撃だけでなく斬撃や刺突にも使える鋭い先端がある。
ただ振るだけの武器ではない。
鎖を伸ばし、節を折り曲げ、相手の死角へ回り込み、予測できない方向から急所を穿つ。
扱う者の集中力が足りなければ、自分の身体を斬りかねない変則的な神器。
バンは左手で柄を握った。
軽く手首を返す。
四本の棍が床へ触れる直前で方向を変え、椅子の脚を避け、壁際に置かれた空の椀だけを引っかけた。
椀が宙へ浮く。
バンの左手へ戻った。
「左でも動くな」
「だからといって、遊ぶな」
声がした。
入口にはアルフィアが立っている。
彼女も治療を受けたらしく、口元の血は拭われていた。灰色の長髪は下ろしたまま。顔色は白いが、自分の足で立っている。
「遊んでねぇよ。手の具合見てんだ」
「寝たまま確認しろ」
「無茶言うな」
「お前が言うな」
アルフィアは酒場の中へ入り、向かいの椅子へ座った。
バンは少し意外そうに見る。
「何だ。見舞いか?」
「違う」
「じゃあ飯か」
「それも違う」
「暇なのか」
「殺すぞ」
「元気そうだな」
アルフィアは反論せず、クレシューズへ顔を向けた。
「先遣で使っていた武器か」
「ああ」
「四節棍か。随分と扱いにくそうだ」
「俺にはちょうどいい」
「伸縮するだけではないな」
「軌道も変わる。相手が前を守ってんなら、横から行く。横も守ってんなら、後ろから行く」
「防御の意味がない」
「だから神器なんだろ」
バンは左手を軽く振る。
クレシューズの鎖が伸びる。
四つの棍が梁の間を蛇のように抜け、天井近くに吊るされていた小さな薬草袋へ巻きついた。
他の袋には一つも触れていない。
引き戻された薬草袋を、バンは鼻先で嗅いだ。
「これ、酒に入れたらうまいか?」
「毒草だ」
「先に言えよ」
「見れば分かる」
「初めて見たぞ」
バンは袋を元の場所へ戻した。
先ほどと逆の軌道を通り、周囲の物へ一切触れずに紐へ引っかける。
アルフィアの閉じた瞼が、わずかに動く。
「精度だけなら、今でも落ちていないのか」
「左手だけなら少し鈍い」
「今のどこが鈍い」
「本調子なら袋じゃなく、中の葉っぱ一枚だけ取れる」
「……気味の悪い武器だ」
「褒め言葉として受け取っとく」
外から、鍋の蓋が開く音がした。
濃い肉の香り。
バンの腹が鳴る。
「飯か」
「病人は寝ていろ」
「腹減って死ぬ」
「先ほど薬を飲んだだろう」
「薬は飯じゃねぇ」
バンが立ち上がろうとすると、足元が揺れた。
アルフィアが腕を伸ばす。
倒れる前に肩を支えた。
「弱っているな」
「生命力やったからな」
「分かっていたことだ」
「言われなくても分かってる」
「なら立つな」
「飯が来ねぇんだよ」
アルフィアは呆れたように息を吐く。
それでも手は離さなかった。
酒場の外では、ザルドが大鍋をかき混ぜていた。
漆黒の鎧は脱ぎ、臙脂色の短髪を火に照らされている。
鍋の中には、羊の骨、根菜、豆、干し肉。
強火で煮込むのではなく、弱い火で長く温めている。負傷者でも飲めるよう、脂は丁寧に取り除かれていた。
ナジュが味を確かめる。
「悔しいけど、うちのよりうまいね」
「塩を減らした。血を失った者には、後から少しずつ足せ」
「料理まで指図するのかい」
「死なせたくないなら従え」
「そういう言い方なら、従うよ」
ザルドは黙って椀へ汁を注いだ。
その顔に、普段の穏やかな笑みはない。
バンはアルフィアの肩を借りながら外へ出る。
「うまそうだな」
ザルドが振り返る。
「寝ていろ」
「お前までそれか」
「立っているのがやっとだろう」
「腹は元気だぞ」
「身体が先だ」
「飯食わなきゃ身体も戻らねぇだろ」
ザルドは反論しなかった。
鍋から一杯すくい、バンへ渡す。
バンは左手で受け取った。
一口飲む。
骨の旨味。
干し肉の香り。
根菜の甘さ。
傷ついた身体へ、熱がゆっくり広がっていく。
「うめぇな」
「当然だ」
「酒入れたらもっとよさそうだ」
「今のお前には出さん」
「ケチ」
アルフィアにも椀が渡される。
「私は要らない」
ザルドは無言で差し出したまま動かない。
「要らないと言っている」
「食え」
「命令するな」
「食え」
アルフィアとザルドの視線がぶつかる。
数秒後。
アルフィアが椀を受け取った。
バンが笑う。
「負けてんじゃねぇか」
「黙れ」
「暴喰には逆らえねぇか」
「お前も食ってから喋れ」
三人は火を囲んだ。
広場の端には、帰らなかった二人のための布が置かれている。
その周りには、武器や水袋、黒砂に汚れた装備。
持ち主だけがいない。
ザルドは椀へ口をつけず、炎を見ていた。
「ロウムは」
バンが尋ねる。
「まだ予断を許さん」
「死んじゃいねぇな」
「ああ」
「なら食って待つか」
ザルドはゆっくり頷いた。
しばらくして、マキシムの使いが来た。
「団長が招集をかけています。動ける幹部は作戦天幕へ」
「また会議か」
バンが言う。
「お前は寝ていろ」
アルフィアが立ち上がる。
「俺も行く」
「今のお前は幹部ではない」
「最初から違ぇよ」
「なら来るな」
「怪物の流れ分かんの、俺だけだぞ」
アルフィアは否定できず、顔を背けた。
ザルドがバンの前へ立つ。
「運ぶぞ」
「自分で歩く」
「遅い」
「襟掴むなよ」
ザルドはバンの身体を片腕で持ち上げた。
荷物のように肩へ担ぐ。
「おい!」
「襟は掴んでいない」
「そういう問題じゃねぇ!」
バンの抗議を無視し、ザルドは作戦天幕へ向かった。
天幕の中には、すでに主要な者が集まっていた。
ゼウス。
ヘラ。
マキシム。
女帝。
パァル。
リシェル。
エルン。
治療師のセリア。
そして、両ファミリアの部隊長たち。
ザルドがバンを椅子へ下ろす。
パァルが眉を寄せた。
「患者を連れてきたのか」
「本人が聞かん」
「役に立つぞ」
バンが答える。
「倒れたら外へ出す」
「横暴だな」
「副団長なのでな」
地図の上には、先遣で得た情報が書き込まれている。
ベヒーモスの頭部。
肩。
前脚。
外殻。
呼吸によって黒砂が薄くなる瞬間。
咆哮の範囲。
そして首元に確認された、外殻の隙間。
エルンが細い棒でそこを指した。
「外殻の構造上、首を持ち上げた時だけ、この部分が露出します」
「時間は」
女帝が問う。
「一呼吸より短いかと」
「攻撃を当てるには短いわね」
リシェルが地図を見る。
「しかも咆哮の直前です。近づくだけで黒砂と毒を受ける」
アルフィアが言う。
「咆哮は私が消す」
セリアがすぐに反対した。
「先ほどの負担を忘れたのですか」
「忘れていない」
「次は保たない可能性があります」
「保たせる」
「身体は意思だけでは動きません」
「動かす」
セリアが言い返そうとする。
女帝が先に口を開いた。
「アルフィアの静寂だけには任せない。前回と同じ失敗になるわ」
アルフィアは不満そうだったが、反論しなかった。
マキシムが地図へ拳を置く。
「問題は外殻だけではない。仮に隙間へ刃を入れても、浅い傷では黒砂に塞がれる」
ザルドが低く言う。
「なら、塞がる前に斬る」
「お前の剣でも一撃では届かん」
「分かっている」
「ではどうする」
ザルドは答えなかった。
代わりに、腰の袋から小さな肉片を取り出した。
黒い布で何重にも包まれている。
セリアの顔が変わる。
「それは」
「黒砂に深く侵されたサンドホーンの肉だ」
「処分したはずです」
「一つ残した」
「なぜ」
ザルドは肉片を地図の上へ置いた。
黒い筋が肉の内側まで走っている。
腐ってはいない。
それでも食べ物には見えなかった。
「俺には、食ったものの力を己へ変えるスキルがある」
天幕の空気が静まる。
神饌恩寵《デウス・アムブロシア》。
ザルドが口へしたもの。
その性質。
その強さ。
その生命。
食した存在が優れているほど、彼の身体へ与えられる恩恵も大きくなる。
暴喰という二つ名の根源。
昆虫。
毒草。
モンスター。
通常なら口へ入れられないものまで喰らい、己の力へ変えてきた。
「ベヒーモスの肉を喰う」
ザルドは言った。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
バンが先に口を開く。
「お前、前に言ってたよな」
「何を」
「喰うべき敵と、腹に入れちゃいけねぇもんは違うって」
「ああ」
「矛盾してんぞ」
「だからこそ、今決める」
ザルドの声は静かだった。
「奴の外殻を破るには、今の俺では足りん。なら、奴の力を喰らい、足りない分を補う」
セリアが首を振る。
「不可能です。黒砂へ触れただけでも生命力が侵されます。ベヒーモス本体の肉なら、含まれる毒は比較になりません」
「分かっている」
「分かっていません。内側から侵食されれば、切除も洗浄もできないのですよ」
「それも分かっている」
「死にます」
「それでも、奴は斬れる」
ヘラがザルドを見つめる。
普段の苛烈さではない。
神として、自分の眷族ではない一人の人間を量る目。
「毒を喰らい、戦いの間だけ力を得る。その後に何が残るかは分からないわよ」
「承知しています」
「二度と剣を振れなくなるかもしれない」
「それでも振ります」
「死ぬつもり?」
ヘラの問いへ、ザルドは即答した。
「生きて勝つつもりです」
バンが目を細める。
死を覚悟している者の言葉ではない。
死を受け入れてもいる。
それでも、最初から死ぬつもりはない。
勝つために喰う。
生き残るために喰う。
その結果として毒が残ったなら、後で自分が背負う。
ザルドはそう決めている。
マキシムが問う。
「肉を得るまで、誰が傷を作る」
「俺たちだ」
女帝が答えた。
「私とマキシムで脚を止める。アルフィアが咆哮と外殻を崩す」
マキシムの視線がバンへ移る。
「首の隙間へ、攻撃を通せるか」
バンは地図を見る。
外殻は幾重にも重なっている。
正面からでは、攻撃が内側へ届く前に閉じる。
「武器だけなら届く」
バンはクレシューズを持ち上げた。
四つの棍が鎖に従って垂れる。
「こいつは真っ直ぐ飛ばす武器じゃねぇ。外殻の横を抜いて、裏へ回せる」
「肉を抉れるか」
ザルドが問う。
「隙間が開けばな」
「その肉を俺へ渡せ」
「自分で取りに来いよ」
「俺は剣を振る」
「忙しい奴だな」
バンは軽く笑った。
けれど、その目は真剣だった。
「取るだけならやれる。ただ、今の右腕じゃ一度だ」
「一度で十分だ」
「外したら?」
「外すのか」
「俺を誰だと思ってんだ」
バンはクレシューズの鎖を左手へ巻く。
「取ってやるよ。お前が腹壊す分くらいはな」
セリアが強い声を上げた。
「認められません!」
天幕の全員が治療師を見る。
「ザルドさんが肉を食べた後、毒を抜く方法がありません。バンさんの《贈物》でも、生命力を一時的に補うだけです」
「ああ」
バンが答える。
「俺にも治せねぇ」
「では」
「でも、やらなきゃ他の奴が死ぬ」
ハルファ。
リオード。
砂漠の交易路。
井戸。
集落。
遠征軍。
ベヒーモスが動き続ければ、ここだけでは終わらない。
セリアも分かっていた。
分かっているからこそ、顔を歪めた。
「治療師の前で、治せない傷を負う相談をしないでください」
ザルドがセリアを見る。
「すまん」
「謝らないでください」
「だが、頼む」
「何を」
「俺が戻った時、死なせるな」
セリアは唇を噛む。
やがて、ゆっくり頷いた。
「できる限りのことはします」
「それでいい」
会議の後。
ザルドは一人で集落の外壁へ向かった。
黒い砂漠の奥には、まだ巨大な影が見える。
動く山。
遠く離れていても、その呼吸に合わせて地面が微かに震えている。
バンも少し遅れて外壁へ出た。
歩けるようにはなったが、右腕は布で吊られている。
「酒でも飲んでんのかと思った」
「今は要らん」
「重症だな」
ザルドは答えず、黒い砂漠を見ている。
バンは隣へ立つ。
「怖ぇか」
「ああ」
意外なほど、素直な答えだった。
「毒が?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「届かないことがだ」
ザルドの手が、空の鞘を握るように閉じる。
「剣を振り続けた。三大クエストを終わらせるために食い、鍛え、殺してきた。それでも、今日の俺の刃は奴へ届かなかった」
「だから喰うのか」
「ああ」
「死ぬかもしれねぇぞ」
「生き物は、何を食っても最後には死ぬ」
「極端だな」
「なら、勝つための一口を選ぶ」
バンは少し黙る。
それから、左手でクレシューズを持ち上げた。
四節棍の鋭い先端が、月明かりを反射する。
「肉は俺が取る」
「任せる」
「でもな」
バンはザルドを見る。
「死ぬために食うなら渡さねぇ」
ザルドもバンを見る。
「言ったはずだ。生きて勝つ」
「なら、食った後も飯作れよ」
「当然だ」
「酒も飲め」
「お前より飲む」
「言ったな」
「ああ」
黒い砂漠の奥で、ベヒーモスが低く息を吐いた。
大地が震える。
ザルドはその音へ背を向けなかった。
「次は、俺が奴を喰う」
暴喰の男は静かに言った。
そこにあったのは、死を受け入れる諦めではない。
災害すら己の糧に変え、必ず刃を届かせるという決意だった。
第22話でした。
今回はザルドのスキルと、ベヒーモスの肉を喰らって不足する力を補う作戦を描きました。
また、クレシューズを四節棍として描写し、軌道を変えて外殻の裏側へ攻撃を通せる特徴を、ベヒーモス戦の役割へ組み込んでいます。