強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第24話です。
今回は、メレンの港食堂での回になります。
ポルト・グランデの美食とは違う、海の男たちが戦うための飯。
そこから、ポセイドン・ファミリアの矜持と、ゼウス・ヘラの到着前の緊張へ繋げていきます。


第24話 海の男の飯

メレンの港食堂は、うまそうな匂いより先に、塩の匂いがした。

 

港の司令所から坂を下り、海上要塞を横目に歩いた先。

波打ち際に建つその食堂は、見た目からして頑丈だった。

 

分厚い木の扉。

潮で黒ずんだ外壁。

軒先に吊られた干し魚。

壁に打ちつけられた古い銛と折れた櫂。

入口の横には、大鍋が二つ置かれていて、片方では魚の骨と海藻を煮込み、もう片方では肉と豆がぐつぐつと音を立てている。

 

ポルト・グランデの店とは違う。

 

あそこは香りで客を誘う町だった。

皿の上に色を乗せ、香辛料を散らし、酒との相性まで考える。食材を楽しませ、客を驚かせる美食の町。

 

だが、メレンの飯は違った。

 

匂いが荒い。

塩気が強い。

油も多い。

硬いパンの香りと、魚醤を煮詰めた濃い匂いが、店の外まで漏れている。

 

これは、飾るための飯ではない。

 

海へ出る男たちを、沈まないように腹から支える飯だ。

 

バンは入口で立ち止まり、鼻を鳴らした。

 

「……悪くねぇな」

 

カイムが横で少し意外そうに見る。

 

「美食都市の後だ。もっと文句を言うかと思った」

 

「あっちは酒のための飯だな」

 

「ここは?」

 

「戦うための飯だ」

 

カイムは一瞬だけ黙った。

 

それから、わずかに口元を緩める。

 

「分かるのか」

 

「匂いでな」

 

バンは扉を開けた。

 

中は、さらに騒がしかった。

 

長い木の卓がいくつも並び、船乗り、船大工、ポセイドン・ファミリアの冒険者、漁師、鍛冶師、補給係たちが肩をぶつけ合うように座っている。皿はどれも大きく、杯も厚い。料理は美しく盛られているわけではない。だが、どれも湯気を立て、量だけは遠慮がなかった。

 

大鍋からは、魚骨と海藻の濃いスープがよそわれている。

別の鍋には、海獣肉と豆と根菜の煮込み。

焼き魚は開いたまま炭火に乗せられ、表面には粗塩が白く浮いている。

パンは硬い。木槌で叩けば音がしそうなほどだ。

 

バンは席に座る前に、厨房の方を見た。

 

丸太みたいな腕の女将が、鍋をかき混ぜていた。短い髪に白い布を巻き、腰には大きな木杓子を差している。顔には深い皺があり、声は船の鐘より大きそうだった。

 

「カイム!連れてきたのが噂の赤コートかい!」

 

「はい、エッダさん。食わせろとの命令です」

 

「命令じゃなくても食わせるよ。腹減った顔してる奴を追い返したら、港の食堂の名折れだ」

 

女将、エッダはバンを見た。

 

「どれくらい食う」

 

「とりあえず、鍋一つ」

 

店内が静かになった。

 

カイムが目を閉じた。

 

「バン。ここはポルト・グランデではない」

 

「知ってる」

 

「鍋は一人前ではない」

 

「知ってる」

 

エッダは大声で笑った。

 

「いいねぇ!そういう馬鹿は嫌いじゃないよ!ただし残したら海に投げる!」

 

「残さねぇよ」

 

「なら座りな!」

 

バンは席についた。

 

隣にカイムが座る。

 

すぐに皿が来た。

 

まずは、魚骨と海藻の濃いスープ。

 

器は大きい。スープは白濁していて、表面に魚の脂が浮いている。中には砕いた骨、海藻、根菜、貝の身が入っていた。見た目は地味だが、湯気に混じる匂いは濃い。

 

バンは一口飲んだ。

 

塩辛い。

 

かなり塩辛い。

 

だが、ただ雑に塩を入れただけではない。魚骨から出た旨味、海藻のぬめり、貝の甘み、魚醤の発酵臭。それらが塩でまとめられている。汗をかき、波を浴び、冷えた身体に入れれば、血が戻る味だった。

 

「濃いな」

 

バンが言う。

 

エッダが厨房から叫ぶ。

 

「薄い飯で海に出られるか!」

 

「違ぇよ。褒めてんだ」

 

バンはもう一口飲んだ。

 

「血になる味だ」

 

周りの船乗りたちが少しだけ笑った。

 

次に、海獣肉と豆の煮込み。

 

肉は大きい。切り方も雑に見える。だが、長時間煮込まれていて、筋はほどけ、脂は豆に吸われている。根菜は崩れかけ、煮汁には黒胡椒に似た刺激と、魚醤の深い塩気があった。

 

バンは硬いパンを手に取った。

 

本当に硬い。

 

そのまま噛めば歯に響く。

 

だが、煮込みの汁に沈めると、少しずつ柔らかくなる。汁を吸ったパンは、肉の脂と塩を抱えて重くなった。

 

バンはそれをかじる。

 

「……なるほどな」

 

「何がだ」

 

カイムが聞く。

 

「このパン、単体じゃ飯じゃねぇ。汁を吸わせるための皿だ」

 

「そうだ。船の上では柔らかいパンはすぐ駄目になる。硬いパンを持ち、スープに沈めて食う」

 

「理にかなってる」

 

「味は?」

 

「悪くねぇ。というか、こういう飯は変に上品にしたら死ぬな」

 

カイムは少し驚いたようにバンを見る。

 

「君は、思ったより料理に真面目だな」

 

「思ったよりって何だ」

 

「海王を食材扱いする男だからな」

 

「食材にできるか見てねぇだけだ」

 

「まだ言うか」

 

バンは煮込みを食べ続けた。

 

腹の中から熱が広がる。

 

左腕の鈍痛が、少しだけ遠のく。

ポルト・グランデの飯は、香りと味で身体を目覚めさせた。だが、メレンの飯は違う。胃へ落ちた瞬間から、血と肉に変わることだけを考えているような飯だった。

 

荒い。

濃い。

塩辛い。

豪快。

 

だが、必要なものが入っている。

 

「いいな」

 

バンは呟いた。

 

「こういう飯は嫌いじゃねぇ」

 

カイムは少しだけ表情を緩めた。

 

「メレンの飯は、長く海に出る者のためにある。美しくはないが、腹に残る」

 

「皿で飾るより、腹で残る方が大事な時もあるわな」

 

そこへ、焼き魚が運ばれてきた。

 

名前は岩背鯛というらしい。

 

岩場に張り付くように棲む魚で、皮が硬く、身は締まっている。表面には粗塩が振られ、腹には香草と砕いた貝が詰められていた。

 

バンは身をほぐし、食べる。

 

皮はぱりっとしている。身は強い。淡白ではなく、噛むほどに海の味が出る。香草は控えめで、塩が主役だった。

 

「こいつは酒だな」

 

「昼だ」

 

「関係あるか?」

 

「ある」

 

カイムが言うより早く、エッダが杯を置いた。

 

「港の薄酒だ。強くない。食事用だよ」

 

「話が分かるな、女将」

 

「飯を分かる奴には酒を出すのが礼儀だ」

 

カイムがため息をつく。

 

「エッダさん」

 

「文句はオルドに言いな。あたしは腹を満たす係だ」

 

バンは杯を取った。

 

飲む。

 

薄い。

だが、悪くない。

 

潮気のある麦酒に近い。魚の脂を流し、塩辛さを丸める。強い酒ではない。だが、港の昼飯には合う。

 

「これはこれでいいな」

 

バンは満足そうに言った。

 

周囲の船乗りたちが、少しずつバンに興味を持ち始めていた。

 

「あんた、赤い旅人ってやつか」

 

一人が声をかける。

 

「ただの旅人だ」

 

「黒い砂漠の化け物をどかしたって聞いたぞ」

 

「でかい邪魔者だったな」

 

「エルソスの森も静かになったって話だ」

 

「虫がうるさかったからな」

 

「虫で済む話じゃないだろ、それ」

 

バンは酒を飲むだけだった。

 

カイムが横で言う。

 

「君は説明を省きすぎる」

 

「長い話は飯が冷める」

 

「今は食べながら話しているだろう」

 

「ならなおさらだ」

 

船乗りの一人が笑った。

 

「気に入ったぜ、赤コート。海王もその調子で頼むわ」

 

その瞬間、カイムの表情が険しくなった。

 

「軽く言うな」

 

声は大きくなかった。

 

だが、食堂の一角が静まる。

 

カイムは船乗りを見た。

 

「外洋で沈んだ船がある。戻らない者もいる。リヴァイアサンの名を、酒場の冗談にするな」

 

船乗りは気まずそうに頭を下げた。

 

「……悪い」

 

バンはそのやり取りを見ていた。

 

カイムは若い。

 

だが、海の話になると容赦がない。

 

ポセイドン・ファミリアは、海を守るための眷属だ。

海で飯を食う者たちの命を、笑い話にはしない。

 

バンは煮込みの肉を噛みながら言った。

 

「真面目だな」

 

「真面目でなければ、海では死ぬ」

 

「なるほどな」

 

「馬鹿にしているのか」

 

「してねぇよ」

 

バンは器の底に残った汁をパンで拭った。

 

「飯作ってる奴も、海に出る奴も、船直してる奴も、みんな真面目だ。この町は、そういう匂いがする」

 

カイムは少し黙った。

 

「君の言葉は、時々分かりにくいが」

 

「ん?」

 

「今のは、褒め言葉として受け取っておく」

 

「実際、褒めてる」

 

エッダが厨房から笑う。

 

「カイム!珍しく褒められてるじゃないか!」

 

「私ではなく町です」

 

「同じようなもんだ!」

 

食堂に笑いが戻る。

 

だが、完全には戻らなかった。

 

外洋の噂は、食堂の隅にまだ残っている。

空いた席。戻らない船の話。傷ついた船員。積み荷の減った市場。

 

飯は熱い。

酒もある。

笑い声もある。

 

それでも、海の向こうに何かがいる。

 

バンはそれを感じていた。

 

食堂の扉が開いたのは、ちょうどその時だった。

 

冷たい潮風が入ってくる。

 

続いて、濡れた外套を羽織った男が入ってきた。ポセイドン・ファミリアの伝令らしい。肩で息をし、額には汗が浮いている。

 

「カイムさん!」

 

カイムが立ち上がる。

 

「何だ」

 

「外洋観測班から追加報告です。第七浮標が流されました」

 

食堂が静かになる。

 

カイムの顔色が変わった。

 

「第七浮標は、メレン沖ではない。外洋航路の手前だろう」

 

「はい。固定鎖ごと引き千切られています」

 

「海獣か」

 

「分かりません。ただ、浮標の残骸に青白い鱗のようなものが付着していたと」

 

青白い鱗。

 

その言葉だけで、食堂の空気がさらに重くなる。

 

バンは杯を置いた。

 

「鱗か」

 

カイムは伝令へ言う。

 

「オルド副団長へ報告。水中班は出すな。潮が悪い時に追わせるな」

 

「了解しました」

 

伝令が出ていく。

 

カイムは席に戻らなかった。

 

「すまない。私は司令所へ戻る」

 

「飯は?」

 

「今は後だ」

 

「冷めるぞ」

 

「慣れている」

 

その答えに、バンは少しだけ眉をひそめた。

 

慣れている。

 

飯を途中で置いて、海へ向かうことに。

食いかけのスープを残し、冷めた魚を後で食うことに。

 

この町の連中にとって、それは珍しいことではないのだろう。

 

バンは自分の皿を見た。

 

まだ煮込みが残っている。

 

焼き魚も半分ある。

 

港の飯は、戦うための燃料だ。

 

なら、燃料を残すのはよくない。

 

「カイム」

 

バンが呼んだ。

 

「何だ」

 

「食え」

 

「今は」

 

「一口でいい」

 

カイムが止まる。

 

バンは煮込みの肉を木匙ですくい、カイムの皿へ放った。

 

「腹空かせたまま海の話すんな。判断がまずくなる」

 

カイムは言葉を失った。

 

エッダが厨房から大きく頷く。

 

「その通りだよ!食ってから走りな!」

 

カイムは少し迷い、それから皿を取った。

 

一口食べる。

 

熱い煮込みが喉を通る。

 

短い沈黙の後、彼は息を吐いた。

 

「……助かる」

 

「礼は魚でいい」

 

「君は本当にぶれないな」

 

「ぶれたら飯がまずくなる」

 

カイムは少しだけ笑った。

 

「司令所で待っている。食べ終えたら来てくれ。オルド副団長も、君に聞きたいことがあるはずだ」

 

「飯の後ならな」

 

「分かった」

 

カイムは食堂を出ていった。

 

食堂の空気は少し変わっていた。

 

さっきまでの重さが、完全に消えたわけではない。

だが、少なくとも皿の前にいる間だけは、誰もが食うことを思い出した。

 

エッダが新しい煮込みをバンの前に置く。

 

「いいこと言うじゃないか、赤コート」

 

「腹減ってる奴見ると、飯がまずくなるだけだ」

 

「それをいいことって言うんだよ」

 

「そうか?」

 

「そうさ」

 

バンは煮込みを食べた。

 

海獣肉。

豆。

塩。

魚醤。

硬いパン。

薄酒。

 

飾り気はない。

 

だが、身体に残る。

 

左腕の奥が熱を持つ。血が巡り、傷の周りがじんわりと温まる。完全に治るわけではない。だが、動くための燃料にはなる。

 

メレンの飯は、美食ではない。

 

戦場へ向かう者たちの飯だ。

 

バンはそれを気に入った。

 

食べ終える頃、店の奥から一人の老人が近づいてきた。

 

片目に眼帯をした老船乗りだった。さっきまで隅の席で黙って酒を飲んでいた男だ。顔は潮風で削られた岩のようで、手は太い縄のように節くれている。

 

「赤コート」

 

「あ?」

 

「海王の話を聞きたがってるんだろ」

 

「食えるかどうかは気になるな」

 

老人は笑わなかった。

 

ただ、静かに言った。

 

「俺は、若い頃に一度だけ見た」

 

食堂が静まった。

 

バンは杯を置く。

 

「リヴァイアサンをか」

 

「全体じゃない。見えたのは背と、鰭と、目だけだ」

 

「でかかったか」

 

「海が、目を開けたと思った」

 

老人の声は低かった。

 

「夜だった。海面の下に青い光が走った。最初は月が沈んだのかと思った。だが違った。光は動いていた。船の下を、山より大きなものが通った。次に、鰭が出た」

 

「鰭」

 

「ああ。帆柱より高い鰭だ。海を切るだけで、こっちの船が横倒しになった。俺たちは何もできなかった。ただ、祈った」

 

老人は空になった杯を見た。

 

「その時は、見逃された。たぶんな。海王にとっちゃ、俺たちの船なんざ木屑だったんだろう」

 

バンは黙って聞いていた。

 

老人は続ける。

 

「今の外洋の異変は、あの時より近い。海王が本気で動けば、メレンもポルト・グランデもただじゃ済まん。港が戦場になる前に、外洋で止めるしかない」

 

「だから海上要塞か」

 

「そうだ。海の上に、逃げない足場を作る。神の眷属どもが戦える皿をな」

 

皿。

 

老人は自然にそう言った。

 

バンは少し笑った。

 

「いい例えだな」

 

「笑い事じゃねぇぞ」

 

「分かってる」

 

「本当か?」

 

「たぶんな」

 

老人はじっとバンを見た。

 

「お前、海王を食う気なのか」

 

「食えるならな」

 

「……馬鹿だな」

 

「よく言われる」

 

「だが」

 

老人は杯に残った一滴を舐めるように飲んだ。

 

「海王が肉を残すなら、食ってやるのも悪くねぇかもしれん」

 

食堂の何人かが老人を見た。

 

老人は続ける。

 

「沈められた船も、食えなくなった魚も、泣いた女房も、戻らねぇ。だが、海王を倒して、そいつの肉で港の連中が腹を満たせるなら……まあ、少しは溜飲も下がる」

 

バンは老人を見た。

 

「分かってんじゃねぇか」

 

「調子に乗るな。まだ倒してもいない」

 

「食ってもいねぇしな」

 

老人は初めて少し笑った。

 

「生きて帰ってから言え、赤コート」

 

「生きて帰らねぇと食えねぇからな」

 

バンは立ち上がった。

 

腹は満ちた。

 

左腕も少し温まった。

 

服も汚れていない。

 

なら、司令所へ行く時間だった。

 

エッダが包みを投げてよこした。

 

硬いパンと、塩漬け魚と、乾燥海藻の包みだった。

 

「持っていきな」

 

「代金は」

 

「後で海王の話を肴に飲ませてくれりゃいい」

 

「高くつくぞ」

 

「望むところだ」

 

バンは包みを受け取り、肩にクレシューズを担いだ。

 

食堂を出る。

 

外は夕暮れだった。

 

海上要塞の上で、作業灯が灯り始めている。鎖が鳴り、木槌が響き、遠くの海では低い鐘のような音がまだかすかに聞こえた。

 

バンは海を見た。

 

見えない外洋の向こう。

 

そこに、海王がいる。

 

「飯はうまかった」

 

バンは呟く。

 

「次は、邪魔者の話だな」

 

赤い旅人は、港の司令所へ向かって歩き出した。




第24話でした。
今回はメレンの港食堂で、ポルト・グランデとは違う「戦うための飯」を描きました。
塩気の強い煮込み、硬いパン、魚骨のスープ、薄酒。
美食というより、海へ出る者たちを支える燃料としての飯です。
次回は、司令所で外洋の状況や海上要塞、ゼウス・ヘラ到着前の準備がさらに進んでいきます。
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