夜明け前。
ハルファの救護所で、セリアは三度目のため息を吐いた。
「おかしいです」
「朝っぱらから失礼だな」
寝台の上に座るバンが欠伸をする。
暗い赤の長いコートは隣の椅子に掛けられ、上半身には包帯が巻かれていた。右腕にもまだ固定具が残っている。
だが、昨夜まで血の気を失っていた顔には、すでに薄い赤みが戻っていた。
セリアは小さな針でバンの指先を刺す。
「痛ぇ」
「痛覚は正常ですね」
「先に言えよ」
「言えば逃げるでしょう」
「当たり前だろ」
右手の人差し指から、小さな血の玉が浮かぶ。
セリアはそれを布で拭き、今度は腕の内側へ指を当てた。
脈は強い。
昨夜、《贈物》によって生命力を大きく失った人間のものとは思えないほど安定している。
「黒砂による毒性反応がありません」
「そりゃ、毒じゃ死なねぇからな」
「普通の毒ではありません」
「俺がいた場所の空気よりゃ、まだましだ」
バンは軽く言った。
けれどセリアは笑わなかった。
先遣隊から戻ってきた時、バンの身体には黒砂が付着していた。
黒砂に触れた他の者は、皮膚が腫れ、呼吸が乱れ、軽い者でも数日間は熱に苦しんでいる。
ロウムに至っては、傷から入り込んだ黒砂に脇腹を侵され、生死の境を彷徨った。
ところがバンの身体には、その反応が一切なかった。
黒砂が皮膚へ入り込もうとしても、まるで異物そのものを拒むように排出されていた。
血にも毒の痕跡が残っていない。
「では、右腕の痺れは何だったのですか」
「取りすぎた」
「毒ではなく?」
「ああ」
バンは右手を握る。
親指。
人差し指。
中指。
ゆっくりと動く。
薬指と小指だけは、まだ僅かに遅れていた。
「あの砂の奥に、でけぇ何かが繋がってた。砂だけ盗むつもりが、向こうまで引っかけちまった」
「ベヒーモスの力を?」
「全部じゃねぇよ。んなもん取ったら、腕どころじゃ済まねぇ」
「……それを軽く言わないでください」
「済んだ話だろ」
「今日、また同じことをするつもりでしょう」
バンは答えなかった。
代わりに寝台から降りる。
足は僅かにふらついたが、倒れるほどではない。
セリアがすぐに前へ立ち塞がる。
「まだ許可していません」
「指が動きゃ十分だ」
「右手は完全には戻っていません」
「左がある」
「生命力も回復途中です」
「飯食えば戻る」
「あなたは何でも食事で解決するつもりですか」
「うまい飯で解決しねぇことの方が少ねぇぞ」
「あります」
「たとえば?」
「今のあなたです」
バンは少し考えた。
「じゃあ、酒もつけるか」
「そういう意味ではありません!」
救護所の奥で眠っていた負傷者が身じろぎする。
セリアは慌てて声を落とした。
「とにかく、戦場へ出るなら条件があります」
「聞くだけ聞く」
「勝手に《贈物》を使わない。右腕へ異常が出たら退く。黒砂の奥にある力を直接奪わない」
「最後のは努力する」
「約束してください」
「無理だな」
「バンさん」
「その時にならなきゃ、何を盗むか分からねぇだろ」
セリアは厳しい目を向ける。
バンも笑みを消した。
「死ぬ気はねぇよ」
「皆、そう言います」
「俺は一度、本当に死ななくなったことがある」
「……はい?」
「で、今は死ぬ。だから前より気ぃつけてる」
冗談めいた口調だった。
それでも、その言葉だけは軽くなかった。
セリアはしばらくバンを見つめた後、固定具を外した。
「薬は持っていってください」
「まずい奴か?」
「一番苦いものを選びます」
「恨みかよ」
「治療です」
◇
集落の広場では、大鍋から白い湯気が上がっていた。
ザルドが用意した朝食は、昨日の汁物よりも濃い。
羊肉。
豆。
根菜。
乾燥させた香草。
少量の黒砂酒で臭みを飛ばし、塩を強めに効かせている。
これから戦う者の腹を満たすための料理だった。
「三杯目だぞ」
鍋をかき混ぜながら、ザルドが言う。
「数えてんのか」
「食料には限りがある」
「俺の分は働く」
「皆、同じことを言う」
バンは空になった椀を差し出す。
「じゃあ四杯目」
「半分だ」
「ケチ」
ザルドは本当に半分だけ注いだ。
バンは不満そうに椀を受け取る。
その隣では、アルフィアが薄いパンを小さく千切っていた。
「食が細ぇな」
「お前たちがおかしい」
「戦う前は食っといた方がいいぞ」
「吐くほど食べる必要はない」
「吐いたら、ザルドがまた食うだろ」
「食わん」
ザルドが即座に否定した。
「お前、何でも食うんじゃなかったか?」
「限度はある」
「今日、災害の肉食う奴が言うかねぇ」
ザルドの手が止まる。
周囲の団員たちも、一瞬だけ沈黙した。
昨夜の作戦会議に参加していなかった者にも、話は伝わっている。
ベヒーモスの肉を奪う。
ザルドが喰らう。
その力で、陸の王者の外殻を断つ。
成功する保証はない。
肉を得られる保証も。
ザルドが毒に耐えられる保証も。
それでも、それ以外に決定打は見つからなかった。
バンは自分の椀へ残っていた肉を一つ摘み、ザルドの椀へ落とした。
「何の真似だ」
「これから不味いもん食うんだろ。今のうちにうまいもん入れとけ」
「自分の分を食え」
「もう四杯食った」
「三杯半だ」
「細けぇな」
ザルドは肉を見下ろす。
やがて、それを口へ運んだ。
「火が少し強い」
「文句言うなら返せ」
「もう食った」
「盗人かよ」
「お前にだけは言われたくない」
アルフィアが無言で二人を見る。
「戦う前だというのに、緊張感がないな」
「腹空かせて怖ぇ顔してても、強くはならねぇぞ」
バンが答える。
「お前は少しくらい緊張しろ」
「してる」
「どこがだ」
「酒が飲めねぇ」
「それは不満だ」
「同じようなもんだろ」
「違う」
広場の向こうで、角笛が鳴った。
一度。
二度。
三度。
食事をしていた者たちが一斉に立ち上がる。
椀が置かれ、武器が取られる。
笑い声は消えた。
黒い全身鎧を身に纏ったザルドが、大剣を背負う。
アルフィアは灰色の長髪を払い、ゆっくり瞼を閉じた。
バンも椅子に掛けてあった暗赤色の長いコートを羽織る。
高い襟を開いたまま、上から厚い茶色のベルトを締める。
銀色の留め具が、朝日を反射した。
赤い革のズボンには鋲が打たれている。
腰には神器クレシューズ。
四本の棍を繋ぐ鎖が、歩くたび小さく鳴った。
ザルドが横目で見る。
「右手は」
「動く」
「無理をするな」
「お前が言うな」
「俺は無理をする」
「正直だな」
「だから、お前はしろ」
「断る」
二人は並んで歩き出した。
◇
ハルファの外。
黒い砂漠との境界には、二つの巨大派閥が陣を敷いていた。
前列。
重装備の戦士たち。
大盾を持つ者。
大槍を構える者。
その背後には弓兵と魔導士。
さらに後方へ治療師、補給隊、予備兵。
砂地には杭が打ち込まれ、退路を示す太い縄が張られている。
黒砂で視界を奪われても、縄を辿れば帰還できるようにするためだ。
荷車には水。
解毒薬。
包帯。
灰。
予備の武器。
そして、大量の担架。
勝つための準備であると同時に、負傷者を連れ帰るための準備だった。
陣の中央に、マキシムが立っている。
武器を持っているだけで、周囲の空気が変わっていた。
隣には女帝。
その姿を前に、ヘラ・ファミリアの団員たちが微動だにせず命令を待っている。
少し離れた場所では、ゼウスとヘラが並んでいた。
ゼウスは普段の軽薄さを消し、黒い砂漠を見つめている。
「バン」
呼ばれて、バンが振り返る。
「何だ、爺さん」
「最後に確認しておく。お前は我々の眷族ではない」
「今さらかよ」
「命令する権利も、戦わせる理由もない」
「なら、帰れって?」
「帰るなら止めん」
バンは黒い砂漠を見る。
風がないのに、遠くの砂がうねっていた。
その先に、山のような影が横たわっている。
「終わったら酒出るんだろ」
「最上のものを用意しよう」
「なら行く」
「本当に、それだけかの」
バンは少しだけ目を細める。
砂漠の端。
避難の準備をするハルファの住民たち。
寝台から運び出される負傷者。
戻ってこない者の武器を抱える家族。
「飯の時に泣かれると、まずくなる」
「そうか」
「それだけだ」
ゼウスは小さく笑った。
「十分じゃ」
ヘラが冷たい目を向ける。
「死んだら、酒は飲めないわよ」
「知ってる」
「なら生きて戻りなさい。私の眷族まで巻き込んでおいて、勝手に死ぬことは許さない」
「俺、お前んとこの眷族じゃねぇぞ」
「だから何?」
「怖ぇ女だな」
「今さら?」
バンは肩をすくめた。
その時。
大地が揺れた。
最初は小さく。
次に、足元の石が跳ねた。
砂の表面へ無数の亀裂が走る。
遠くに横たわっていた黒い山が、ゆっくりと持ち上がった。
誰かが息を呑む。
山ではない。
背中だった。
幾重にも重なった黒い外殻。
砂に半ば埋もれた巨大な脚。
丘のような肩。
頭部が上がるだけで、周囲の砂が滝のように流れ落ちる。
ベヒーモスが目を覚ました。
口が開く。
その奥から漏れた息だけで、黒砂が空へ舞い上がった。
空が暗くなる。
太陽が消える。
黒い砂嵐が、壁のように遠征軍へ迫った。
「全隊、防御!」
マキシムの声が響く。
重装兵が盾を地面へ突き刺す。
魔導士たちが一斉に詠唱を始める。
幾重もの光壁が展開され、黒い砂嵐と激突した。
衝撃。
大盾が軋む。
何人もの足が砂へ沈む。
光壁の表面が黒く染まり、内側まで侵食されていく。
「長くは保ちません!」
「前衛、押し返せ!」
「押し返せる量ではない!」
魔導士の一人が叫ぶ。
黒砂は波ではなかった。
空そのものが落ちてくるような質量だった。
その時、バンが前へ出る。
「何をする!」
セリアの声が後方から飛ぶ。
「道作る」
バンは左手を伸ばした。
黒砂そのものには触れない。
その下。
まだ汚染されていない普通の砂。
地面を流れる細い筋。
砂嵐に引かれ、同じ方向へ動こうとしている流れ。
そこだけを掴む。
「《強奪》」
砂の流れが変わった。
遠征軍の正面へ集まろうとしていた砂が、左右へ引き裂かれる。
光壁へ加わっていた圧力が僅かに減る。
「右へ三歩!」
バンが叫ぶ。
マキシムは迷わなかった。
「全隊、右へ三歩!」
軍が動く。
直後、先ほどまで立っていた場所を黒砂の柱が貫いた。
砂地が抉れ、深い穴が開く。
もし動いていなければ、前列の半数が呑まれていた。
エルンが目を見開く。
「見えていたのか」
「砂が逃げてた」
「砂が?」
「でけぇもんが来る前は、下が先に動く」
バンは右腕を振る。
まだ少し重い。
だが、痺れは増えていない。
黒砂がコートへ降りかかる。
頬にも付着した。
周囲の兵が息を止める。
「バンさん、戻ってください!」
セリアが再び叫ぶ。
「毒が!」
「効かねぇよ」
バンは頬についた砂を舐めるように指で拭った。
「苦ぇだけだ」
皮膚は腫れない。
呼吸も乱れない。
黒砂に含まれる毒気が身体へ入り込もうとしても、煉獄を生き延びた肉体はそれを受けつけない。
腐食する空気。
骨まで焼く熱。
魂ごと凍らせる寒気。
それらに比べれば、この毒はまだ生ぬるい。
だが、問題は毒ではなかった。
黒砂の一粒一粒に絡みつく、巨大な生命の圧。
そこへ手を伸ばせば、ベヒーモスそのものに触れることになる。
「毒は平気でも、取りすぎりゃ同じか」
バンが呟く。
右手の指先が僅かに震える。
だから、全部は盗まない。
必要な分だけ。
必要な瞬間だけ。
「前進!」
マキシムが命じた。
遠征軍が動き出す。
盾兵が道を開き、両派閥の最高戦力が黒い砂漠へ踏み込んだ。
◇
近づくほど、ベヒーモスの大きさが分からなくなった。
脚一本が塔より太い。
外殻の一枚一枚が、家屋の屋根ほどもある。
歩いているのではない。
身体を僅かに動かしているだけで、大地の形そのものが変わっていく。
前脚が持ち上がる。
影が遠征軍を覆った。
「散開!」
女帝が地面を蹴る。
次の瞬間、その姿はベヒーモスの脚元へ移っていた。
振り下ろされた巨大な足へ、真正面から一撃を叩き込む。
空気が破裂した。
ベヒーモスの脚が横へ逸れる。
踏み潰されるはずだった部隊の脇へ落ち、大量の砂を吹き上げた。
反対側からマキシムが迫る。
武器を振るう。
ただそれだけで、脚を覆う黒砂が円形に吹き飛び、外殻へ亀裂が走った。
ベヒーモスが口を開く。
先遣隊を壊滅させかけた咆哮。
音だけで内臓を潰し、魔法を崩し、戦意を奪う災害の声。
アルフィアが前へ出た。
「雑音だ」
短い詠唱。
静寂が広がる。
ベヒーモスの喉から放たれたはずの音が消えた。
完全な無音。
砂が爆ぜる音も。
武器が外殻へ当たる音も。
兵たちの叫びも。
すべてが失われる。
それでも衝撃そのものは残っていた。
目に見えない圧力がアルフィアを襲う。
灰色の髪が激しく舞い、足元の砂が後方へ吹き飛ぶ。
アルフィアの口元から血が流れた。
それでも静寂は解かれない。
彼女は一歩も退かなかった。
その隙に、両派閥の精鋭たちが脚へ集中攻撃を加える。
剣。
槍。
斧。
魔法。
外殻を破壊するのではない。
同じ箇所へ衝撃を重ね、姿勢を崩す。
ベヒーモスの身体が僅かに傾いた。
頭部が上がる。
首元の外殻が開く。
「今だ!」
エルンの合図。
バンは走っていた。
右手でクレシューズの柄を握る。
まだ完全ではない。
だから左手を添える。
神器が応える。
四つの棍を繋ぐ鎖が伸びた。
一直線ではない。
前方の外殻を避け、持ち上がった肩の下へ入り、首の側面を這う。
一つ目の節が曲がる。
二つ目が逆方向へ折れる。
三つ目が外殻の隙間を探り、最後の鋭い先端が首の内側へ迫った。
ベヒーモスが動く。
開いていた外殻が閉じ始める。
「遅い!」
後方から声が飛ぶ。
確かに、このままでは間に合わない。
クレシューズの先端が挟まれれば、肉を切り取るどころか神器ごと持っていかれる。
バンはベヒーモスの脚を見る。
大地を支える前脚。
そこに集められた、途方もない力。
身体狩りで奪える量ではない。
その力のすべてを求めれば、バンの身体が先に砕ける。
「全部はいらねぇ」
バンは右手を握った。
狙うのは力ではない。
踏ん張るために、脚が砂を押す方向。
身体を戻すための一瞬。
ただ一歩分の均衡。
「お前が転ぶ一歩だけ、寄越せ」
魔力が伸びる。
ベヒーモスの巨大な脚から、ごく僅かな力が失われた。
本当に僅かだった。
人間一人なら、歩き出した瞬間に靴底が滑る程度。
だが、その身体は山より重い。
僅かな均衡の崩れが、巨体全体へ伝わる。
ベヒーモスの前脚が沈んだ。
首が傾く。
閉じかけていた外殻が、再び開く。
反動がバンへ返ってきた。
「ぐっ……!」
右肩から骨が軋む。
膝が砂へ沈む。
喉の奥から血が上がる。
それでも手は離さなかった。
意識を一点へ絞る。
呼吸。
腕。
指。
鎖。
曲がり続ける四つの棍。
クレシューズの特性が、バンの集中に応える。
距離が消える。
揺れる外殻の隙間が、目の前にあるかのように鮮明に見えた。
「そこだ」
最後の棍が差し込まれる。
鋭い先端が、外殻の裏にある肉へ突き刺さった。
バンが腕を引く。
だが、肉は硬い。
普通の獣の肉ではない。
筋の一本すら、鋼の綱に近い。
「なら――」
クレシューズの軌道が変わる。
刺した先端を支点に、一つ前の棍が回転した。
斬る。
抉る。
引き裂く。
外からでは見えない肉の内側で、四節棍が複雑に動く。
ベヒーモスの身体が大きく震えた。
静寂の中でも分かる。
怒っている。
痛みを感じたのだ。
「《獲物狩り》」
バンが引き抜く。
鎖が一気に縮む。
黒い血を撒き散らしながら、巨大な肉片が外殻の隙間から引きずり出された。
人間の胴ほどもある。
肉でありながら、黒い煙を放っている。
地面へ落ちた血だけで、砂が泡立った。
バンはクレシューズを振る。
「ザルド!」
肉片が宙を飛ぶ。
黒い砂嵐の中。
漆黒の鎧を纏った大男が前へ出た。
ザルドは片手で肉を受け止める。
鎧の籠手から煙が上がった。
肉に含まれる毒が、金属すら蝕んでいる。
「食えるか?」
バンが叫ぶ。
ザルドは肉を見下ろした。
臭いだけで、周囲の兵が吐き気を催す。
黒い血。
焼けた土。
腐った鉄。
そして、生きたままの何かを煮詰めたような臭気。
食べ物ではない。
世界が人へ食べさせることを拒んでいる。
ザルドは兜を脱いだ。
目元の深い傷跡。
臙脂色の短髪。
その顔に迷いはない。
「いただこう」
肉へ歯を立てた。
噛み切る。
黒い血が口元から流れる。
周囲の空気が震えた。
ザルドの身体へ、ベヒーモスの毒が流れ込む。
喉。
胃。
血管。
内臓。
身体の内側から、災害が食い破ろうとする。
ザルドの皮膚に黒い筋が浮かんだ。
膝が僅かに沈む。
「ザルド!」
セリアが後方から走ろうとする。
「来るな!」
ザルドの声が止めた。
彼は再び肉へ噛みつく。
一口。
二口。
三口。
肉片が減っていく。
喰らうたび、黒い筋が首から顔へ広がる。
呼吸が荒くなる。
それでも止めない。
神饌恩寵《デウス・アムブロシア》。
喰らったものの力を、己の糧へ変える恩恵。
毒も。
生命力も。
怪物としての強さも。
身体を壊す前に、力へ変える。
暴喰の名を持つ男は、陸の王者を己の内側へ取り込んでいく。
最後の一口を飲み込んだ。
ザルドは動かなかった。
黒い血が顎から落ちる。
バンが息を整えながら問う。
「どうだ」
ザルドはゆっくり顔を上げた。
「まずい」
「味の話か?」
「両方だ」
「吐くなよ」
「吐けば無駄になる」
「そこかよ」
ザルドの手が、大剣の柄を握る。
その瞬間。
地面が沈んだ。
ベヒーモスではない。
ザルドの足元が、握った力に耐えきれず砕けた。
全身の筋肉が膨れ上がるわけではない。
姿が怪物へ変わるわけでもない。
ただ、そこに立つ男の重さが変わった。
黒い筋が浮かぶ身体の奥で、奪った力と毒が食らい合っている。
いつ壊れてもおかしくない。
それでも。
今だけは。
ザルドの刃が、陸の王者へ届く。
大剣が鞘から抜かれた。
「喰ったぞ」
ザルドはベヒーモスを見上げる。
「次は、斬る」
彼が一歩踏み出す。
黒い砂漠が、足元から割れた。
第23話でした。
今回は、バンの毒への強い耐性と、右腕の痺れが毒ではなく《強奪》の反動だったことを描きました。
また、クレシューズの変則的な軌道と精密さを利用してベヒーモスの肉を奪い、ザルドがそれを喰らうところまで進みました。