今回はゼウス・ファミリア先遣隊との接触回です。
外洋決戦へ向けて、メレンに新たな戦力が到着します。
港の鐘が鳴り終わっても、メレンのざわめきは収まらなかった。
海上要塞の上にいた者たちは、作業の手を止めて港の門の方を見ていた。船大工も、ポセイドン・ファミリアの冒険者も、補給係も、ギルド職員も、同じ方向へ視線を向けている。
ゼウス・ファミリアの先遣隊。
その名だけで、港の空気が変わる。
最強の一角が来た。
それは、希望であり、緊張でもあった。
バンは海上要塞の縁に立ち、包帯を巻き直されながら港を見下ろしていた。
左腕の傷は、さっきの訓練で少し開いた。カイムに一本取られた時、踏み込みの癖を直そうとして妙な力が入ったせいだ。痛みはある。だが、動かないほどではない。
カイムは包帯をきつく結びながら言った。
「だから、今日はここまでだと言った」
「ちょっと開いただけだろ」
「ちょっとで済ませるな。海の上では小さな傷が命取りになる」
「陸でもそうだろ」
「君は陸だと聞かないだろう」
「よく分かってんな」
「分かりたくなかった」
カイムはため息をつき、包帯の端を結んだ。
その時、港の門から大きな笑い声が響いた。
低く、太く、腹の底に響くような声だった。
続いて、馬車と数人の冒険者が港へ入ってくる。
先頭にいたのは、巨漢だった。
二メートルを超える体躯。
漆黒のフルプレートアーマー。
肩から背へ流れる真紅のマント。
背中には、自身の身長と変わらないほど巨大な大剣。
歩くだけで、周囲の空気が重くなる。
威圧しているわけではない。
ただ、そこにいるだけで強い。
港の男たちが自然と道を開けた。
バンは目を細める。
「でけぇな」
カイムが静かに告げた。
「ザルド。ゼウス・ファミリア幹部。二つ名は暴喰《ディグニタス》。レベル七だ」
「暴喰」
バンはその言葉を口の中で転がした。
「ずいぶん腹減ってそうな二つ名だな」
「本人の前で言うな」
「言うだろ」
「言うと思った」
カイムは諦めたように額を押さえた。
ザルドの後ろには、二人の男が続いていた。
一人は細身の青年。
短い金髪に、鋭く知的な目。軽量な鎧を身につけ、腰には双剣。歩き方が軽い。人混みの中でも足音が薄く、視線だけで港の配置、警備、物資の動きを拾っている。
もう一人は、三十代後半ほどの髭を蓄えた男だった。
背中には巨大な背嚢。腰には大工道具、測量器具、縄、短い杭。冒険者というより、戦場に家を建てに来た職人のような姿をしている。だが、体の運びには隙がない。
カイムが続ける。
「金髪の男がカストル。斥候と作戦調整役。レベル五。もう一人がアルガス。補給と拠点設営の担当。レベル四だ」
「ちゃんとしてそうだな」
「ゼウス・ファミリアだぞ」
「もっと騒がしいのかと思ってた」
「先遣隊だからな。今回来たのは実務寄りの三名だ」
「実務ねぇ」
バンはザルドを見る。
実務という言葉から一番遠そうな巨体だった。
だが、港に入ったザルドは、真っ先に海を見た。次に海上要塞。次に船の配置。最後に、負傷した船員たち。
笑みはない。
豪快そうな外見とは違い、その目は冷静だった。
ザルドは司令所から降りてきたオルドへ向かった。
オルドが手を差し出す。
「よく来た、ザルド」
「外洋が騒がしいと聞いた。あの神に、先に状況を見てこいと言われた」
ザルドの声は低い。
よく通るが、無駄に大きくはない。
オルドは頷いた。
「助かる。まだ本隊を出す段階ではないが、海は待ってくれん」
「海は飯時も待たんからな」
ザルドがそう言うと、周囲の緊張が少し緩んだ。
バンは眉を上げる。
「分かってるじゃねぇか」
カイムが横目で見る。
「反応するところはそこか」
その間にも、カストルはすぐに動き出していた。
港の配置を確認し、海図を持ったギルド職員と話し、水中班の報告書を受け取る。カイムの姿を見つけると、迷いなく近づいてきた。
「ポセイドン・ファミリアのカイム殿ですね」
「ああ。あなたがカストルか」
「ゼウス・ファミリア先遣隊、斥候兼調整担当のカストルです。外洋航路、潮流、浮標の損失状況、水中班の最新報告を確認したい」
「こちらへ。司令所に資料をまとめています」
「助かります。ザルドは要塞と海王の位置関係を、アルガスは補給導線を確認します」
会話に無駄がない。
バンとザルドが港で互いに様子を見ている間に、カイムとカストルはすでに作戦の話へ入っていた。
アルガスはさらに無言だった。
彼は海上要塞へ向かい、足場の板を叩き、鎖の張りを見て、倉庫の位置を確認し、補給船の接続部を測り始めている。メレンの船大工が怪訝な顔をすると、アルガスは一言だけ言った。
「ここ、荷重が偏る」
船大工の顔が変わる。
「分かるのか」
「板の鳴りが違う」
それだけ言って、アルガスは測量器具を広げた。
メレンの職人たちが、すぐに彼の周りへ集まっていく。
バンはそれを見ていた。
「本当にちゃんとしてんな」
カイムが言った。
「先遣隊だからな」
「ゼウスってのは、こういう真面目な連中の神なのか?」
カイムは一瞬黙った。
「……それは、私からは何とも言えない」
「なんだ、その間」
「今は気にしなくていい」
バンは少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
その時、ザルドがこちらへ歩いてきた。
近づくほどに、圧が増す。
巨体。
黒い鎧。
赤いマント。
背中の大剣。
だが、目は静かだった。
ザルドはバンの前で足を止める。
「お前が赤い旅人か」
バンはザルドを見上げた。
「そう呼ばれてんなら、たぶん俺だ」
「黒い砂漠とエルソスの件は聞いている」
「耳が早ぇ奴ばっかだな、この辺は」
「海と港は噂が速い。ゼウスも喜んでいた」
「ゼウスってのは知らねぇが、喜ばれるようなことした覚えはねぇな」
「あの神は英雄譚が好きだからな。本人がそう思っていなくとも、結果がそうなら噂になる」
ザルドはバンの左腕を見た。
包帯の下に残る傷。
まだ消えきっていない毒の気配。
それでも立っている姿。
「傷は深いな」
「飯食ったらだいぶ治った」
「そうか」
ザルドは少しだけ口元を動かした。
「飯は大事だ」
バンの目が少しだけ変わる。
「分かってんじゃねぇか」
「戦うにも、食うにも、まず腹がいる」
「いいこと言うな、黒鎧」
「ザルドだ」
「バンだ」
「知っている」
「俺は今知った」
近くにいたカイムが小さく咳き込んだ。
ザルドは気にしない。
「海王を食う気だと聞いた」
周囲の空気が少しだけ固まった。
ポセイドン・ファミリアの者たちが、思わずこちらを見る。
バンは肩をすくめた。
「食えるならな」
ザルドは怒らなかった。
むしろ、静かに頷いた。
「そうか」
「止めねぇのか」
「止める理由がない。俺も、喰えるものなら喰う」
沈黙。
カイムが目を閉じた。
近くのポセイドンの隊員が信じられない顔をする。
バンはザルドを見た。
「へぇ。あんたも食う側か」
「俺にとって、喰うことは力にすることだ」
「俺にとっては、うまいかどうかだな」
「なら、違うな」
「でも食うんだろ」
「ああ」
「気が合いそうだな」
「部分的にはな」
ザルドは低く笑った。
その笑いに、周囲の緊張がさらに妙な形で緩む。
海王リヴァイアサン。
普通なら、その名を前にして食うなどと言えば怒号が飛ぶ。
だが、この二人だけは違った。
片方は、食材として見ている。
もう片方は、力として見ている。
目的は違う。
だが、三大クエストの怪物を前にして、喰うという発想へ辿り着く異常さだけは重なっていた。
カストルが戻ってきて、その会話を聞き、わずかに眉をひそめた。
「ザルド。海王を食べるかどうかは、現時点の主題ではありません」
「そうだな」
ザルドはあっさり頷く。
バンがカストルを見る。
「真面目だな、金髪二号」
「カストルです。二号ではありません」
「一号はルカだな」
「知りません」
カイムが疲れたように言う。
「カストル、こちらへ。海図の確認を」
「はい」
カストルはバンを一瞥した。
「あなたが赤い旅人ですね。噂よりも自由そうだ」
「噂より?」
「噂では、もう少し人の話を聞かないと」
「失礼だな」
カイムが横で小さく言った。
「事実だ」
「おい」
カストルは表情を変えずに続けた。
「ですが、海上要塞の上ではポセイドン側の指示に従うと聞いています。それなら問題ありません」
「海の上では、海の連中の言うこと聞けって言われたからな」
「賢明です」
「なんか腹立つな」
カストルは淡々と頭を下げ、カイムと司令所へ向かった。
その背を見ながら、バンは言う。
「ゼウスの連中、もっと騒がしいのかと思ってた」
ザルドは肩を鳴らした。
「騒がしい奴らもいる」
「いるのか」
「いる。だが、今は外洋討伐だ。馬鹿騒ぎをしに来たわけではない」
「ちゃんとしてんな」
「しなければ死ぬ。三大クエストは、酒場の喧嘩ではない」
バンはザルドを見る。
その言葉は重かった。
ふざけていない。
恐れてもいない。
ただ、理解している。
リヴァイアサンは強い。
だから、全力で準備する。
それだけだ。
「いいな」
バンが呟く。
「何がだ」
「飯も喧嘩も、本気の方がうまい」
ザルドはしばらくバンを見ていた。
「お前は、本当に旅人なのか」
「何度も言ってるだろ。ただの旅人だ」
「ただの旅人は、三大クエストの怪物を前にして腹を鳴らさん」
「腹は勝手に鳴るだろ」
その瞬間、本当にバンの腹が鳴った。
海上要塞の上に、妙に間の抜けた音が響く。
ザルドは一瞬だけ黙った。
それから、低く笑った。
「なるほど。腹は正直だ」
「だろ」
「飯にするか」
「お、分かってるな」
カイムが遠くから戻ってきて、二人を見た。
「なぜ到着早々、食事の話になっているんですか」
ザルドが答える。
「戦う前に食うのは当然だ」
バンも頷く。
「飯食わねぇと話にならねぇ」
カイムは数秒だけ空を見上げた。
「この二人を同じ卓につけてよいのだろうか」
ザルドは真面目な顔で言った。
「問題ない。食う量は多いが、食い方は汚くない」
「そこではありません」
その時、アルガスが海上要塞から戻ってきた。
手には板の欠片と、簡単な図面がある。
「オルド副団長はどこだ」
「司令所です」
カイムが答える。
「中央甲板の西側、補給箱を積みすぎると傾く。治療区画の横は水樽を置くべきじゃない。揺れた時に転がって通路を塞ぐ。あと、前方左の鎖は交換した方がいい。音が悪い」
カイムの表情が引き締まる。
「確認します」
「今すぐだ。外洋に出てからでは遅い」
アルガスはそれだけ言い、また要塞の方へ戻ろうとした。
バンが声をかける。
「飯は?」
アルガスは振り返らない。
「仕事の後だ」
「真面目だな」
「飯は仕事が終わってからの方がうまい」
その答えに、バンは少しだけ笑った。
「分かってんな」
ザルドも頷いた。
「アルガスの飯は遅いが、よく食う」
「いいことだ」
カイムは静かに呟いた。
「なぜ食事評価で人を測るんだ、この人たちは」
港の食堂へ向かう途中、メレンの者たちは何度もザルドを見た。
恐れ。
期待。
憧れ。
緊張。
レベル七。
ゼウス・ファミリア幹部。
暴喰。
その肩書きは重い。
だが、ザルドは周囲を見下さない。港の船大工に道を譲り、負傷した船員の担架が通れば立ち止まる。食堂の前で待っていた子どもが彼の大剣を見上げると、少しだけ膝を曲げて見せた。
バンはそれを見ていた。
「見た目より細かいな」
「ザルドは、そういう人です」
カイムが言う。
「ゼウス・ファミリアは豪快な者が多いと聞くが、三大クエストへ向かう者たちは皆、戦場を知っている」
「へぇ」
「軽い者だけでは、最強とは呼ばれない」
「そりゃそうだ」
食堂へ入ると、エッダがザルドを見て目を輝かせた。
「おや、今日は腹の減った大物が二人も来たのかい!」
ザルドが軽く頭を下げる。
「世話になる」
「どれくらい食う?」
「鍋二つ」
店内が静かになった。
バンがにやりと笑う。
「負けたな」
「張り合うな」
カイムが即座に言った。
「怪我人だろう」
「治療中だから食うんだよ」
「その理屈は昨日聞いた」
エッダは大笑いし、鍋の準備を始めた。
ザルドは席につき、バンは向かいに座る。カイムは頭を抱えながら横に座った。少し遅れて、カストルとアルガスも食堂へ入ってくる。
カストルは海図の写しを持ったまま席につき、アルガスは黙って水を飲んだ。
料理が運ばれてくる。
魚骨のスープ。
海獣肉と豆の煮込み。
硬いパン。
塩焼き魚。
港の薄酒。
ザルドは黙って食べ始めた。
食べ方は豪快だが、雑ではない。
肉を一口で大きく食う。
だが、皿を汚さない。
骨を無駄にしない。
スープを最後まで飲む。
バンはそれを見て、満足そうに言った。
「いい食い方するな」
「食材に失礼な食い方は好かん」
「気が合うな」
「そうかもしれん」
カイムは小さく言った。
「この二人、本当に会わせてよかったのでしょうか」
カストルが海図から目を離さずに答える。
「少なくとも、食事中は静かです」
「会話の内容は物騒ですが」
「ゼウス・ファミリアでは、これくらいは平常です」
「そうなのか……」
アルガスがぼそりと言った。
「飯時に机を壊さないなら平和だ」
カイムは無言になった。
食事の途中、ザルドがバンへ言った。
「海王をうまく料理できると思うか」
バンは煮込みを飲み込み、考える。
「見てねぇから分からねぇ」
「匂いも肉質も知らんからか」
「ああ。魚なのか、獣なのか、竜なのか。それで変わる。脂が強けりゃ炙り。身が締まってりゃ鍋。臭みがあるなら香草と酒。毒があれば抜く。硬けりゃ煮る」
「骨は」
「出汁だな。でかすぎたら鍋に入らねぇけど」
ザルドは低く笑った。
「面白い」
「何がだ」
「お前は、本気で食うつもりで考えている」
「冗談で飯の話はしねぇよ」
「そこは信用できる」
ザルドは杯を置いた。
「俺は、喰らうことで力を得る。強いものほど、喰らえば力になる。だが、器を超える力を喰えば、俺の身体が壊れる」
カイムとカストルの表情がわずかに変わる。
ザルドは隠す気がなかった。
「リヴァイアサンを喰えば、俺は強くなるかもしれん。あるいは、壊れるかもしれん」
「それでも食うのか」
バンが聞く。
「必要ならな」
ザルドの声は静かだった。
「力が必要なら喰う。仲間を生かすためなら喰う。だが、ただの欲で喰うわけではない」
「俺は欲だな」
「だろうな」
「飯と酒の欲だ」
「悪くない欲だ」
バンは少しだけ笑った。
「分かってんじゃねぇか」
「欲は人を動かす。問題は、何を欲し、何のために使うかだ」
ザルドは皿の肉を一つ口に運んだ。
「お前の欲は、妙だな。自分の腹から始まって、いつの間にか他人の皿まで守っている」
「さあな。泣いてる奴の横で食う飯はまずいだけだ」
「なら、それがお前の欲だ」
バンは黙った。
少しだけ。
それから、酒を飲む。
「説教くせぇな、黒鎧」
「ザルドだ」
「覚えたらな」
「さっき名乗った」
「じゃあ、たぶん覚えた」
ザルドはまた低く笑った。
その時、食堂の扉が開いた。
ギルド職員が息を切らして入ってくる。
「オルド副団長から伝令です!ヘラ・ファミリアの先遣隊も、明日にはメレンへ到着予定とのこと!」
食堂の空気が変わった。
カイムが立ち上がる。
カストルは海図を畳む。
アルガスは黙って背嚢の中の道具を確認した。
ザルドは杯を置く。
「ヘラも来るか」
バンは魚の骨を皿に置きながら聞いた。
「ヘラってのは、強いのか」
食堂にいた何人かが、同時にバンを見た。
カイムが慎重に答える。
「強い。恐ろしく」
ザルドが付け加える。
「そして、気位が高い」
カストルが淡々と言う。
「不用意な発言は避けるべきです」
バンは首を傾げた。
「たとえば?」
カイムは一瞬考え、言った。
「海王を食う、とか」
「それは言うだろ」
「言わないでくれ」
ザルドは珍しく少しだけ楽しそうに笑った。
「言うだろうな」
「止めろよ」
カイムが言う。
ザルドは首を横に振る。
「無理だ。こいつは言う」
バンは不満そうに言った。
「勝手に決めんな」
「違うのか」
「……まあ、言うな」
カイムは両手で顔を覆った。
外では、港の鐘が鳴っていた。
ゼウス・ファミリア先遣隊が到着し、メレンの準備は一段階進んだ。
そして明日、ヘラ・ファミリアが来る。
海上要塞。
ポセイドンの海。
ゼウスの暴喰。
ヘラの怪物たち。
外洋の海王。
役者が、少しずつ揃っていく。
バンは皿に残った最後の肉を口へ放り込み、笑った。
「面倒な飯になりそうだな」
ザルドは静かに頷く。
「ああ。だが、食い甲斐はある」
カイムは二人を見て、深くため息をついた。
「どうか、海を食卓にしないでください」
バンとザルドは、ほとんど同時に答えた。
「もうなってるだろ」
「もうなっている」
カイムはその日一番深いため息をついた。
第26話でした。
今回はゼウス・ファミリア先遣隊との接触回です。
外洋決戦へ向けた準備がさらに進み、メレンにも新たな緊張感が生まれ始めました。
バンとザルドは目的こそ違いますが、「海王を喰う」という発想だけは噛み合ってしまう異常な組み合わせです。
次回は、ヘラ・ファミリア先遣隊の到着に入ります。