赤い旅人の続きになります。
ザルドが一歩を踏み出した。
それだけで、足元の黒砂が円を描いて弾けた。
漆黒の鎧の隙間には、毒のような黒い筋が浮かんでいる。先ほど喰らったベヒーモスの肉が、身体の内側から彼を食い破ろうとしていた。
だが、それ以上の力が全身を満たしている。
筋肉が膨れたわけではない。
姿が怪物へ変わったわけでもない。
ただ、ザルドという男の一歩が、先ほどまでよりも遥かに重くなっていた。
「ザルド」
マキシムの声が飛ぶ。
「何呼吸もつ」
「分からん」
「使い切るな」
「善処する」
「その返事をする奴は、だいたい守らん」
バンが口を挟む。
「お前に言われたくない」
ザルドは大剣を構えた。
黒い刃の向こうに、立ち上がったベヒーモスがいる。
山のような脚。
砦を重ねたような外殻。
呼吸するたび、黒砂が地面から舞い上がる。
巨獣は首元から流れる自らの血を感じていた。
初めて与えられた、はっきりとした痛み。
赤黒い瞳が細くなり、先ほど肉を奪った小さな人間たちへ向けられる。
大気が震えた。
咆哮の前触れ。
マキシムが片腕を上げた。
「全隊、作戦開始!」
角笛が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
数百人の遠征軍が、一斉に動き出した。
第一線では、パァルが重装前衛隊を率いている。
「盾列を崩すな!魔物だけを止めろ!黒砂そのものとは争うな!」
ベヒーモスの周囲から、黒く染まった地上魔物が次々と溢れ出す。
ワーム。
サンドホーン。
砂蜥蜴。
種類の違う魔物たちが、一つの波となって人間の陣へ押し寄せた。
盾が並ぶ。
槍がその隙間から伸びる。
倒した一体へ執着せず、次の一体を横へ流す。
仕留めるのは後方の剣士と弓兵。
前衛の仕事は倒すことではなく、道を守ることだった。
第二線では、リシェルが大杖を掲げる。
「第一から第十二基点、接続!黒砂を左右へ分けます!」
ヘラ・ファミリアの魔導士たちが、地面へ刻んだ術式へ魔力を注ぐ。
光の線が砂漠を走った。
ゼウス・ファミリアの魔法使いたちは術式へ直接混ざらず、基点を守り、魔力の供給を支える。
黒砂の流れが中央から裂けた。
完全には止まらない。
だが、最前線へ続く一本の細い道が生まれる。
「行け!」
女帝の声。
第三線が走った。
マキシム。
女帝。
ザルド。
アルフィア。
そしてバン。
その後方に、選ばれた精鋭と観測役が続く。
エルンは遠く離れた岩場から、巨獣の動きと呼吸を記録していた。
白髪の若い支援者が伝令旗を抱え、第一線と第二線の間を走る。
名を呼ばれない団員たちが、水を運び、負傷者を引き、切れた縄を結び直している。
一人でも欠ければ、前線へ向かう道は止まる。
数百人全員が、五人の英傑をベヒーモスへ届けるために戦っていた。
巨獣が息を吸う。
大気がその口へ引き寄せられる。
黒砂が渦となり、空へ昇る。
「来るぞ!」
バンが叫んだ。
アルフィアが前へ出る。
灰髪が風に広がった。
「静寂の園《シレンティウム・エデン》」
音が消えた。
巨獣の口から放たれた咆哮が、無音の壁へぶつかる。
耳を潰す声は消えた。
だが、衝撃までは消えない。
大地が抉れ、岩が砕け、第三線の者たちが後方へ押される。
アルフィアの細い身体も、砂の上を滑った。
女帝が片手で背を支える。
アルフィアの口元から血が流れる。
「まだ保つか」
「誰に聞いている」
「なら保ちなさい」
「命令するな」
女帝はアルフィアから手を離し、咆哮の余波へ正面から踏み込んだ。
マキシムも同時に走る。
左右から、二人の団長がベヒーモスの前脚へ迫った。
女帝の拳が、外殻の継ぎ目へ叩き込まれる。
マキシムの一撃が、その反対側から重なる。
空気が破裂した。
山のような脚が、ほんの僅かに浮く。
「ザルド!」
マキシムが叫ぶ。
ザルドはすでに跳んでいた。
大剣を両手で握る。
喰らったベヒーモスの力が、その身体の内側で荒れ狂う。
黒い筋が首から頬へ上がる。
血管が焼ける。
内臓を災害が食い破ろうとする。
それでも、ザルドの腕は止まらない。
「喰らえ」
大剣が振り下ろされた。
先ほどまで傷一つつけられなかった外殻へ、刃が食い込む。
硬い。
岩でも。
鉄でもない。
数百年、数千年を生きた災害の殻。
大剣の刃が軋む。
ザルドの腕から血が噴き出す。
「まだだ」
男はさらに力を込める。
「俺は、お前を喰ったぞ」
外殻に亀裂が走った。
一本。
二本。
蜘蛛の巣のように広がる。
次の瞬間、家屋ほどの外殻が砕け散った。
赤黒い肉が露出する。
ベヒーモスの巨体が大きく揺れた。
静寂の中でも分かる。
巨獣が叫んでいる。
ザルドの大剣が肉へ沈む。
黒い血が噴き上がった。
周囲の砂が泡立つ。
近くにいた団員の鎧へ血が触れた瞬間、金属が音もなく腐食した。
「下がれ!」
アルフィアが静寂を解く。
直後、魔法の障壁が展開される。
黒い血が光壁へ降り注ぎ、表面を焦がした。
ザルドだけは退かない。
全身へ血を浴びながら、さらに剣を押し込む。
「毒が効いていないのか」
女帝が言う。
「効いている」
バンはザルドを見る。
「効いたまま、動いてんだ」
ザルドの呼吸は荒い。
喰らった毒。
浴びた毒。
身体の内と外から、二つの災害が彼を蝕んでいる。
長くはもたない。
ベヒーモスの前脚が暴れた。
マキシムと女帝を振り払うように、巨大な脚が横へ薙がれる。
「伏せろ!」
マキシムの声。
塔ほどの脚が、地表を削りながら迫る。
バンはクレシューズを伸ばした。
四本の棍が鎖に従い、精鋭たちの腰や腕へ絡みつく。
一人。
二人。
三人。
味方だけを正確に捉え、一気に後方へ引く。
飛び越えられない者を、脚の軌道から奪い取る。
「《獲物狩り》!」
団員たちが宙を飛び、薙ぎ払いを避ける。
最後に残ったバン自身へ、脚の影が落ちた。
逃げる時間はない。
クレシューズを地面へ突き立てる。
バンは《強奪》を伸ばした。
狙うのは脚の力ではない。
砂の上を滑り、こちらへ向かう軌道。
その端だけ。
「真っ直ぐ来んな」
地面の砂が一方向へ流れる。
ベヒーモスの脚が僅かに沈み、軌道が下へずれた。
外殻の先端がバンの頭上を掠める。
衝撃だけで身体が吹き飛んだ。
暗赤色のコートが砂の上を転がる。
「バン!」
アルフィアの声が響いた。
バンはクレシューズを地面へ刺し、回転を止める。
「生きてる」
「聞いていない!」
「じゃあ呼ぶなよ」
立ち上がろうとして、右肩へ痛みが走った。
外れたわけではない。
骨も折れていない。
だが、先ほど盗った軌道の反動が、腕の内側に残っている。
右手の指が僅かに痺れる。
深く盗りすぎた。
アルフィアが駆け寄ろうとする。
「来んな!」
バンは黒砂の向こうを見た。
「そっちだ!」
ベヒーモスの傷口へ、周囲の黒砂が集まっている。
砕かれた外殻。
斬り裂かれた肉。
そこへ砂が入り込み、血と混ざり合いながら形を作っていく。
傷が塞がる。
ただ肉が再生しているのではない。
黒砂が新しい肉と殻の代わりになっていた。
「ザルド、離れろ!」
黒砂が傷口から伸び、ザルドの鎧へ絡みつく。
彼は大剣を抜こうとするが、刃が肉へ捕らえられている。
マキシムが傷口へ拳を叩き込み、黒砂を吹き飛ばす。
女帝がザルドの背を掴み、無理やり引き抜いた。
大剣と共に、ザルドの身体が後方へ飛ぶ。
直後。
傷口が黒砂に覆われた。
先ほどの裂け目が、目に見えて小さくなっていく。
「斬っても塞がる」
女帝が吐き捨てる。
「なら、塞がる前に仕留める」
マキシムは答えた。
「今の一撃でも浅い」
「さらに深く入れる」
「ザルドが保たん」
ザルドは立ち上がろうとする。
膝が落ちた。
口から黒い血を吐く。
自分の血なのか、ベヒーモスのものなのか分からない。
セリアたちのいる治療線までは遠い。
「まだ斬れる」
ザルドが大剣を杖代わりに立つ。
「立ててねぇぞ」
バンが言う。
「一撃なら出せる」
「その後は」
「知らん」
「雑だな」
「お前に言われたくない」
黒砂が傷を埋め続ける。
あと僅かで、外殻まで再び形を取り戻す。
バンはその流れへ意識を向けた。
黒砂。
傷口。
ベヒーモス。
すべてが繋がっている。
先遣の時と同じだ。
砂へ触れれば、その奥にいる巨大な存在まで引っかかる。
黒砂を奪おうとすれば、自分が呑まれる。
ならば、砂を盗るのではない。
力を奪うのでもない。
黒砂が傷へ向かうために通っているもの。
流れ。
道。
「……そうか」
バンが呟く。
この世界へ来てから、《強奪》は遠かった。
以前と同じように手を伸ばしても、薄い壁に阻まれる。
力を直接掴もうとするたび、世界の法則に押し返された。
だが。
アルフィアの魔法が術式へ流れ込む瞬間。
ベヒーモスが脚へ力を集める瞬間。
黒砂が傷へ集まる瞬間。
そこには必ず道がある。
「遠いんじゃねぇ」
バンは立ち上がった。
「道が違っただけか」
クレシューズの鎖が伸びる。
四つの棍が黒砂の周囲へ打ち込まれた。
傷へ直接触れない。
ベヒーモスの身体にも触れない。
黒砂が傷口へ流れ込む、その途中。
力の通り道だけを囲う。
「何をする」
アルフィアが問う。
「砂は盗らねぇ」
バンは左手で鎖を掴む。
右手を柄へ添える。
「こいつが通る道を盗る」
《強奪》が伸びた。
黒砂の流れそのものではない。
どこへ向かうべきかという繋がり。
傷と砂の間にある、目に見えない一本の道。
「寄り道してろ」
引く。
世界が軋んだ。
バンの視界が赤く染まる。
鼻から血が流れる。
右肩の骨が悲鳴を上げる。
だが、以前のような巨大な反発ではない。
ベヒーモスそのものを引いてはいない。
道だけ。
その一筋だけを横へずらす。
傷口へ向かっていた黒砂が、突然方向を失った。
直前まで一直線に流れていた粒子が、傷の周囲で渦を巻く。
塞がりかけていた肉が止まった。
「今だ!」
バンが叫ぶ。
アルフィアの魔力が膨れ上がる。
短い詠唱。
白灰色の閃光が、黒砂に覆われかけた傷口へ突き刺さる。
外殻の破片が吹き飛ぶ。
肉が焼け、さらに深い裂け目が生まれた。
その奥。
赤黒く脈打つ巨大な器官が見える。
心臓ではない。
だが、全身へ黒砂と毒を巡らせる中枢の一つ。
「ザルド!」
女帝が叫ぶ。
ザルドが走る。
先ほどまで膝をついていた男の速度ではない。
残っている力を、すべて一歩へ込めている。
大剣を引きずりながら、裂け目へ迫る。
ベヒーモスが頭を振った。
巨大な角が横へ薙がれる。
ザルドだけを狙っている。
マキシムが角の正面へ立つ。
両腕を交差させる。
激突。
大地が割れた。
マキシムの足が砂へ沈み、腕の鎧が砕ける。
それでも角を止めた。
「行け、ザルド!」
女帝が反対側から角を蹴り上げる。
僅かに生まれた隙間。
ザルドがその下を抜ける。
裂け目へ跳ぶ。
「喰らった分は――」
大剣を両手で握る。
筋肉が軋む。
黒い筋が身体中へ広がる。
「返してやる」
一閃。
刃が赤黒い器官へ食い込んだ。
巨獣の身体が、大きく仰け反る。
黒い血が空へ噴き上がった。
ベヒーモスの咆哮が響く。
今度はアルフィアの静寂でも消し切れない。
怒り。
痛み。
初めて、人間を明確な敵として認めた叫び。
大地が波打つ。
遠征軍の結界杭が次々と折れる。
空へ舞っていた黒砂が、巨獣の周囲へ集まり始める。
傷を塞ぐためではない。
全身を覆う巨大な嵐へ変わっていく。
「全隊後退!」
パァルの声が遠くで響く。
「負傷者を優先しろ!」
リシェルも結界班へ命じる。
「最終防衛線へ接続!ハルファへ流れを向けさせないでください!」
ザルドが大剣を引き抜く。
赤黒い器官には、深い傷が刻まれている。
だが、断ち切れてはいない。
巨獣はまだ立っている。
むしろ痛みによって、完全に目を覚ました。
前脚が一歩、ハルファの方角へ向く。
山が動き出す。
バンはクレシューズを引き戻した。
右腕の痺れ。
吐血。
生命力も、完全には戻っていない。
それでも、先ほどまでとは違った。
何を盗ればいいかが分かる。
力ではない。
巨獣そのものでもない。
その力が、どこを通るのか。
どこへ向かうのか。
そこだけを奪えばいい。
ザルドがバンの隣へ戻る。
顔色は悪い。
身体の黒い筋は、もう隠しようがない。
「まだ食い足りねぇか、暴喰」
バンが尋ねる。
ザルドは血のついた大剣を構え直す。
「ああ」
黒砂の嵐の中心で、ベヒーモスが再び咆哮する。
人類最強の軍勢を前に。
初めて血を流した陸の王者が、怒りと共に立ち上がる。
その胸元には、ザルドの斬撃によって開かれた深い傷。
そして。
巨獣の命へ続く、僅かな道が残されていた。
第24話でした。
今回は、数百人規模の本隊がそれぞれの役割を果たす中で、ザルドがベヒーモスへ深い傷を与える総力戦を描きました。
また、バンは力そのものではなく、黒砂が傷へ向かう「道」を盗ることで、《強奪》をこの世界に合わせて一段階進めています。