強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第24話です。
赤い旅人の続きになります。


第24話 巨獣討伐戦

ザルドが一歩を踏み出した。

 

それだけで、足元の黒砂が円を描いて弾けた。

 

漆黒の鎧の隙間には、毒のような黒い筋が浮かんでいる。先ほど喰らったベヒーモスの肉が、身体の内側から彼を食い破ろうとしていた。

 

だが、それ以上の力が全身を満たしている。

 

筋肉が膨れたわけではない。

 

姿が怪物へ変わったわけでもない。

 

ただ、ザルドという男の一歩が、先ほどまでよりも遥かに重くなっていた。

 

「ザルド」

 

マキシムの声が飛ぶ。

 

「何呼吸もつ」

 

「分からん」

 

「使い切るな」

 

「善処する」

 

「その返事をする奴は、だいたい守らん」

 

バンが口を挟む。

 

「お前に言われたくない」

 

ザルドは大剣を構えた。

 

黒い刃の向こうに、立ち上がったベヒーモスがいる。

 

山のような脚。

 

砦を重ねたような外殻。

 

呼吸するたび、黒砂が地面から舞い上がる。

 

巨獣は首元から流れる自らの血を感じていた。

 

初めて与えられた、はっきりとした痛み。

 

赤黒い瞳が細くなり、先ほど肉を奪った小さな人間たちへ向けられる。

 

大気が震えた。

 

咆哮の前触れ。

 

マキシムが片腕を上げた。

 

「全隊、作戦開始!」

 

角笛が鳴る。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

数百人の遠征軍が、一斉に動き出した。

 

第一線では、パァルが重装前衛隊を率いている。

 

「盾列を崩すな!魔物だけを止めろ!黒砂そのものとは争うな!」

 

ベヒーモスの周囲から、黒く染まった地上魔物が次々と溢れ出す。

 

ワーム。

 

サンドホーン。

 

砂蜥蜴。

 

種類の違う魔物たちが、一つの波となって人間の陣へ押し寄せた。

 

盾が並ぶ。

 

槍がその隙間から伸びる。

 

倒した一体へ執着せず、次の一体を横へ流す。

 

仕留めるのは後方の剣士と弓兵。

 

前衛の仕事は倒すことではなく、道を守ることだった。

 

第二線では、リシェルが大杖を掲げる。

 

「第一から第十二基点、接続!黒砂を左右へ分けます!」

 

ヘラ・ファミリアの魔導士たちが、地面へ刻んだ術式へ魔力を注ぐ。

 

光の線が砂漠を走った。

 

ゼウス・ファミリアの魔法使いたちは術式へ直接混ざらず、基点を守り、魔力の供給を支える。

 

黒砂の流れが中央から裂けた。

 

完全には止まらない。

 

だが、最前線へ続く一本の細い道が生まれる。

 

「行け!」

 

女帝の声。

 

第三線が走った。

 

マキシム。

 

女帝。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

そしてバン。

 

その後方に、選ばれた精鋭と観測役が続く。

 

エルンは遠く離れた岩場から、巨獣の動きと呼吸を記録していた。

 

白髪の若い支援者が伝令旗を抱え、第一線と第二線の間を走る。

 

名を呼ばれない団員たちが、水を運び、負傷者を引き、切れた縄を結び直している。

 

一人でも欠ければ、前線へ向かう道は止まる。

 

数百人全員が、五人の英傑をベヒーモスへ届けるために戦っていた。

 

巨獣が息を吸う。

 

大気がその口へ引き寄せられる。

 

黒砂が渦となり、空へ昇る。

 

「来るぞ!」

 

バンが叫んだ。

 

アルフィアが前へ出る。

 

灰髪が風に広がった。

 

「静寂の園《シレンティウム・エデン》」

 

音が消えた。

 

巨獣の口から放たれた咆哮が、無音の壁へぶつかる。

 

耳を潰す声は消えた。

 

だが、衝撃までは消えない。

 

大地が抉れ、岩が砕け、第三線の者たちが後方へ押される。

 

アルフィアの細い身体も、砂の上を滑った。

 

女帝が片手で背を支える。

 

アルフィアの口元から血が流れる。

 

「まだ保つか」

 

「誰に聞いている」

 

「なら保ちなさい」

 

「命令するな」

 

女帝はアルフィアから手を離し、咆哮の余波へ正面から踏み込んだ。

 

マキシムも同時に走る。

 

左右から、二人の団長がベヒーモスの前脚へ迫った。

 

女帝の拳が、外殻の継ぎ目へ叩き込まれる。

 

マキシムの一撃が、その反対側から重なる。

 

空気が破裂した。

 

山のような脚が、ほんの僅かに浮く。

 

「ザルド!」

 

マキシムが叫ぶ。

 

ザルドはすでに跳んでいた。

 

大剣を両手で握る。

 

喰らったベヒーモスの力が、その身体の内側で荒れ狂う。

 

黒い筋が首から頬へ上がる。

 

血管が焼ける。

 

内臓を災害が食い破ろうとする。

 

それでも、ザルドの腕は止まらない。

 

「喰らえ」

 

大剣が振り下ろされた。

 

先ほどまで傷一つつけられなかった外殻へ、刃が食い込む。

 

硬い。

 

岩でも。

 

鉄でもない。

 

数百年、数千年を生きた災害の殻。

 

大剣の刃が軋む。

 

ザルドの腕から血が噴き出す。

 

「まだだ」

 

男はさらに力を込める。

 

「俺は、お前を喰ったぞ」

 

外殻に亀裂が走った。

 

一本。

 

二本。

 

蜘蛛の巣のように広がる。

 

次の瞬間、家屋ほどの外殻が砕け散った。

 

赤黒い肉が露出する。

 

ベヒーモスの巨体が大きく揺れた。

 

静寂の中でも分かる。

 

巨獣が叫んでいる。

 

ザルドの大剣が肉へ沈む。

 

黒い血が噴き上がった。

 

周囲の砂が泡立つ。

 

近くにいた団員の鎧へ血が触れた瞬間、金属が音もなく腐食した。

 

「下がれ!」

 

アルフィアが静寂を解く。

 

直後、魔法の障壁が展開される。

 

黒い血が光壁へ降り注ぎ、表面を焦がした。

 

ザルドだけは退かない。

 

全身へ血を浴びながら、さらに剣を押し込む。

 

「毒が効いていないのか」

 

女帝が言う。

 

「効いている」

 

バンはザルドを見る。

 

「効いたまま、動いてんだ」

 

ザルドの呼吸は荒い。

 

喰らった毒。

 

浴びた毒。

 

身体の内と外から、二つの災害が彼を蝕んでいる。

 

長くはもたない。

 

ベヒーモスの前脚が暴れた。

 

マキシムと女帝を振り払うように、巨大な脚が横へ薙がれる。

 

「伏せろ!」

 

マキシムの声。

 

塔ほどの脚が、地表を削りながら迫る。

 

バンはクレシューズを伸ばした。

 

四本の棍が鎖に従い、精鋭たちの腰や腕へ絡みつく。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

味方だけを正確に捉え、一気に後方へ引く。

 

飛び越えられない者を、脚の軌道から奪い取る。

 

「《獲物狩り》!」

 

団員たちが宙を飛び、薙ぎ払いを避ける。

 

最後に残ったバン自身へ、脚の影が落ちた。

 

逃げる時間はない。

 

クレシューズを地面へ突き立てる。

 

バンは《強奪》を伸ばした。

 

狙うのは脚の力ではない。

 

砂の上を滑り、こちらへ向かう軌道。

 

その端だけ。

 

「真っ直ぐ来んな」

 

地面の砂が一方向へ流れる。

 

ベヒーモスの脚が僅かに沈み、軌道が下へずれた。

 

外殻の先端がバンの頭上を掠める。

 

衝撃だけで身体が吹き飛んだ。

 

暗赤色のコートが砂の上を転がる。

 

「バン!」

 

アルフィアの声が響いた。

 

バンはクレシューズを地面へ刺し、回転を止める。

 

「生きてる」

 

「聞いていない!」

 

「じゃあ呼ぶなよ」

 

立ち上がろうとして、右肩へ痛みが走った。

 

外れたわけではない。

 

骨も折れていない。

 

だが、先ほど盗った軌道の反動が、腕の内側に残っている。

 

右手の指が僅かに痺れる。

 

深く盗りすぎた。

 

アルフィアが駆け寄ろうとする。

 

「来んな!」

 

バンは黒砂の向こうを見た。

 

「そっちだ!」

 

ベヒーモスの傷口へ、周囲の黒砂が集まっている。

 

砕かれた外殻。

 

斬り裂かれた肉。

 

そこへ砂が入り込み、血と混ざり合いながら形を作っていく。

 

傷が塞がる。

 

ただ肉が再生しているのではない。

 

黒砂が新しい肉と殻の代わりになっていた。

 

「ザルド、離れろ!」

 

黒砂が傷口から伸び、ザルドの鎧へ絡みつく。

 

彼は大剣を抜こうとするが、刃が肉へ捕らえられている。

 

マキシムが傷口へ拳を叩き込み、黒砂を吹き飛ばす。

 

女帝がザルドの背を掴み、無理やり引き抜いた。

 

大剣と共に、ザルドの身体が後方へ飛ぶ。

 

直後。

 

傷口が黒砂に覆われた。

 

先ほどの裂け目が、目に見えて小さくなっていく。

 

「斬っても塞がる」

 

女帝が吐き捨てる。

 

「なら、塞がる前に仕留める」

 

マキシムは答えた。

 

「今の一撃でも浅い」

 

「さらに深く入れる」

 

「ザルドが保たん」

 

ザルドは立ち上がろうとする。

 

膝が落ちた。

 

口から黒い血を吐く。

 

自分の血なのか、ベヒーモスのものなのか分からない。

 

セリアたちのいる治療線までは遠い。

 

「まだ斬れる」

 

ザルドが大剣を杖代わりに立つ。

 

「立ててねぇぞ」

 

バンが言う。

 

「一撃なら出せる」

 

「その後は」

 

「知らん」

 

「雑だな」

 

「お前に言われたくない」

 

黒砂が傷を埋め続ける。

 

あと僅かで、外殻まで再び形を取り戻す。

 

バンはその流れへ意識を向けた。

 

黒砂。

 

傷口。

 

ベヒーモス。

 

すべてが繋がっている。

 

先遣の時と同じだ。

 

砂へ触れれば、その奥にいる巨大な存在まで引っかかる。

 

黒砂を奪おうとすれば、自分が呑まれる。

 

ならば、砂を盗るのではない。

 

力を奪うのでもない。

 

黒砂が傷へ向かうために通っているもの。

 

流れ。

 

道。

 

「……そうか」

 

バンが呟く。

 

この世界へ来てから、《強奪》は遠かった。

 

以前と同じように手を伸ばしても、薄い壁に阻まれる。

 

力を直接掴もうとするたび、世界の法則に押し返された。

 

だが。

 

アルフィアの魔法が術式へ流れ込む瞬間。

 

ベヒーモスが脚へ力を集める瞬間。

 

黒砂が傷へ集まる瞬間。

 

そこには必ず道がある。

 

「遠いんじゃねぇ」

 

バンは立ち上がった。

 

「道が違っただけか」

 

クレシューズの鎖が伸びる。

 

四つの棍が黒砂の周囲へ打ち込まれた。

 

傷へ直接触れない。

 

ベヒーモスの身体にも触れない。

 

黒砂が傷口へ流れ込む、その途中。

 

力の通り道だけを囲う。

 

「何をする」

 

アルフィアが問う。

 

「砂は盗らねぇ」

 

バンは左手で鎖を掴む。

 

右手を柄へ添える。

 

「こいつが通る道を盗る」

 

《強奪》が伸びた。

 

黒砂の流れそのものではない。

 

どこへ向かうべきかという繋がり。

 

傷と砂の間にある、目に見えない一本の道。

 

「寄り道してろ」

 

引く。

 

世界が軋んだ。

 

バンの視界が赤く染まる。

 

鼻から血が流れる。

 

右肩の骨が悲鳴を上げる。

 

だが、以前のような巨大な反発ではない。

 

ベヒーモスそのものを引いてはいない。

 

道だけ。

 

その一筋だけを横へずらす。

 

傷口へ向かっていた黒砂が、突然方向を失った。

 

直前まで一直線に流れていた粒子が、傷の周囲で渦を巻く。

 

塞がりかけていた肉が止まった。

 

「今だ!」

 

バンが叫ぶ。

 

アルフィアの魔力が膨れ上がる。

 

短い詠唱。

 

白灰色の閃光が、黒砂に覆われかけた傷口へ突き刺さる。

 

外殻の破片が吹き飛ぶ。

 

肉が焼け、さらに深い裂け目が生まれた。

 

その奥。

 

赤黒く脈打つ巨大な器官が見える。

 

心臓ではない。

 

だが、全身へ黒砂と毒を巡らせる中枢の一つ。

 

「ザルド!」

 

女帝が叫ぶ。

 

ザルドが走る。

 

先ほどまで膝をついていた男の速度ではない。

 

残っている力を、すべて一歩へ込めている。

 

大剣を引きずりながら、裂け目へ迫る。

 

ベヒーモスが頭を振った。

 

巨大な角が横へ薙がれる。

 

ザルドだけを狙っている。

 

マキシムが角の正面へ立つ。

 

両腕を交差させる。

 

激突。

 

大地が割れた。

 

マキシムの足が砂へ沈み、腕の鎧が砕ける。

 

それでも角を止めた。

 

「行け、ザルド!」

 

女帝が反対側から角を蹴り上げる。

 

僅かに生まれた隙間。

 

ザルドがその下を抜ける。

 

裂け目へ跳ぶ。

 

「喰らった分は――」

 

大剣を両手で握る。

 

筋肉が軋む。

 

黒い筋が身体中へ広がる。

 

「返してやる」

 

一閃。

 

刃が赤黒い器官へ食い込んだ。

 

巨獣の身体が、大きく仰け反る。

 

黒い血が空へ噴き上がった。

 

ベヒーモスの咆哮が響く。

 

今度はアルフィアの静寂でも消し切れない。

 

怒り。

 

痛み。

 

初めて、人間を明確な敵として認めた叫び。

 

大地が波打つ。

 

遠征軍の結界杭が次々と折れる。

 

空へ舞っていた黒砂が、巨獣の周囲へ集まり始める。

 

傷を塞ぐためではない。

 

全身を覆う巨大な嵐へ変わっていく。

 

「全隊後退!」

 

パァルの声が遠くで響く。

 

「負傷者を優先しろ!」

 

リシェルも結界班へ命じる。

 

「最終防衛線へ接続!ハルファへ流れを向けさせないでください!」

 

ザルドが大剣を引き抜く。

 

赤黒い器官には、深い傷が刻まれている。

 

だが、断ち切れてはいない。

 

巨獣はまだ立っている。

 

むしろ痛みによって、完全に目を覚ました。

 

前脚が一歩、ハルファの方角へ向く。

 

山が動き出す。

 

バンはクレシューズを引き戻した。

 

右腕の痺れ。

 

吐血。

 

生命力も、完全には戻っていない。

 

それでも、先ほどまでとは違った。

 

何を盗ればいいかが分かる。

 

力ではない。

 

巨獣そのものでもない。

 

その力が、どこを通るのか。

 

どこへ向かうのか。

 

そこだけを奪えばいい。

 

ザルドがバンの隣へ戻る。

 

顔色は悪い。

 

身体の黒い筋は、もう隠しようがない。

 

「まだ食い足りねぇか、暴喰」

 

バンが尋ねる。

 

ザルドは血のついた大剣を構え直す。

 

「ああ」

 

黒砂の嵐の中心で、ベヒーモスが再び咆哮する。

 

人類最強の軍勢を前に。

 

初めて血を流した陸の王者が、怒りと共に立ち上がる。

 

その胸元には、ザルドの斬撃によって開かれた深い傷。

 

そして。

 

巨獣の命へ続く、僅かな道が残されていた。




第24話でした。

今回は、数百人規模の本隊がそれぞれの役割を果たす中で、ザルドがベヒーモスへ深い傷を与える総力戦を描きました。

また、バンは力そのものではなく、黒砂が傷へ向かう「道」を盗ることで、《強奪》をこの世界に合わせて一段階進めています。
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