ベヒーモスが、ハルファへ向かって前脚を上げた。
ただの一歩。
それだけで、黒い砂漠が大きく沈む。
巨獣の胸元には、ザルドの大剣が刻んだ深い裂け目が残っていた。
赤黒い器官が脈打つたび、傷口から大量の黒い血が溢れる。
だが、致命傷には届いていない。
周囲の黒砂が渦を巻き、再び傷を塞ごうとしていた。
バンが奪った「道」は、今もずらされたままだ。
傷口へ真っ直ぐ向かえなくなった黒砂が、巨獣の周囲で巨大な嵐となって荒れ狂っている。
長くは保たない。
《強奪》を通して、バンには分かった。
ベヒーモスが力任せに繋がりを結び直そうとしている。
細い糸を、人間の腕ほどの綱で無理やり引き戻すように。
右腕の骨が軋んだ。
「ちっ……」
バンはクレシューズの柄を握り直す。
右手の感覚は薄い。
鼻から流れた血が、顎を伝って砂へ落ちた。
「あと、どれほど保つ」
アルフィアが問う。
彼女も無傷ではない。
灰髪は黒砂と血で汚れ、白い顔はさらに血の気を失っている。
静寂を幾度も使った反動で、呼吸のたびに胸が小さく上下していた。
「知らねぇよ」
「役に立たない返事だ」
「聞き方が悪ぃ」
「では言い直す。次に傷が塞がるまで、何ができる」
バンはベヒーモスを見る。
巨獣の脚。
胸。
首。
黒砂の流れ。
「一回だな」
「何が」
「でけぇのを一回だけ、ずらせる」
「十分だ」
「勝手に決めんな」
「二回できるのか」
「無理だな」
「なら一回で十分だ」
バンは笑った。
「お前、性格悪ぃな」
「今更か」
ベヒーモスの脚が落ちた。
マキシムと女帝が、同時に前へ出る。
人間二人が、落下する山を迎え撃った。
マキシムの武器が外殻へ叩き込まれる。
女帝の拳が、その反対側へ突き刺さる。
大気が爆ぜた。
脚の落下点が僅かに逸れる。
それでも、地面へ届いた衝撃だけで大地が裂けた。
黒砂が噴き上がり、岩が宙を舞う。
第三線の精鋭たちが吹き飛ばされる。
後方では、パァルが盾列を組み直していた。
「頭を下げろ!飛来物を防げ!」
巨大な外殻の欠片が、第一線へ降り注ぐ。
盾が重なる。
一枚目が割れる。
二枚目が押し込まれる。
ロウムの代わりに先頭へ立った団員たちが、血を吐きながらも盾を離さない。
パァルが長槍で破片の軌道を変える。
「後ろを見ろ!前だけが戦場ではない!」
別の一団では、リシェルが大杖を掲げていた。
「第八基点を放棄!第九へ繋ぎなさい!」
「ですが、そこを切れば北側から黒砂が!」
「私が受けます!」
光の術式が一つ消える。
溢れた黒砂が、ハルファへ向かおうとする。
リシェルの足元から、巨大な結界が立ち上がった。
黒い流れを正面から止めず、弧を描いて砂漠の外へ逃がす。
術式を維持する魔導士たちの顔から、血の気が失われる。
「副団長、魔力が!」
「まだです」
「保ちません!」
「保たせなさい。前線の者が戻る道です!」
その後ろを、白髪の若い支援者が駆け抜ける。
伝令旗を抱え、崩れかけた各隊へ命令を運ぶ。
「第三線から伝令!決着まで退路を維持!負傷者は南の船団へ!」
声が震えている。
足も震えている。
それでも、誰より速く走っていた。
黒砂持ちの魔物が横から飛び出す。
若者は悲鳴を上げながら身を投げ出し、その爪を紙一重で避けた。
転がりながら立ち上がり、また走る。
戦えない者には、戦えない者の戦いがあった。
数百人が傷つきながら、一つの道を繋いでいる。
その先。
ザルドは大剣を支えに立っていた。
喰らったベヒーモスの毒は、すでに全身へ回っている。
首から頬へ広がった黒い筋。
鎧の隙間から溢れる血。
呼吸するたび、胸の奥で濡れた音が鳴る。
それでも、その目だけは死んでいない。
「ザルド」
マキシムが巨獣の脚を押し返しながら叫ぶ。
「次で決める!」
「ああ」
「立てるか」
「立っている」
バンが横から言う。
「それ禁止らしいぞ」
ザルドの口元が僅かに上がる。
「今だけは許せ」
「死ぬなよ」
「死なん」
「その身体でか?」
「勝つまではな」
「勝った後もだ」
ザルドは答えなかった。
ベヒーモスが頭を持ち上げる。
首元の巨大な角が、雲を裂くように空を向く。
口が開く。
奥に、黒い光が集まり始めた。
先ほどまでの咆哮とは違う。
毒。
熱。
黒砂。
巨獣の内側に蓄えられた全てが、喉へ集まっている。
エルンの叫びが、伝令を通して届く。
「高密度の魔力反応!ハルファ方向です!」
撃たせれば、集落は消える。
結界でも防げない。
マキシムが巨獣の顎へ向かう。
「頭を下げさせる!」
女帝も反対側から跳ぶ。
「口を閉じるわよ!」
二人の攻撃が、ベヒーモスの顎へ激突する。
だが、止まらない。
巨獣の首が僅かに揺れただけ。
口内の黒い光は、さらに強くなる。
ザルドが大剣を持ち上げようとする。
腕が震えた。
まだ届かない。
胸元の傷は開いている。
だが、頭部が高すぎる。
このままでは、魔法を放っても斬撃が傷へ入らない。
アルフィアが前へ出た。
「私が撃つ」
女帝が振り返る。
「その身体で?」
「頭を下げればいいのでしょう」
「次に魔法を使えば、お前も倒れる」
「後で倒れる」
「アルフィア」
「今、立っていれば十分です」
彼女の脳裏に、白い髪の妹が浮かんでいた。
一人では部屋から出られない。
魔法も使えない。
剣も握れない。
それでも、自分が食事を抜けば怒り、帰ってくると約束させた妹。
姉様。
必ず帰ってきてくださいね。
柔らかな声。
アルフィアは瞼を開いた。
灰と翠。
二つの瞳が巨獣を捉える。
「福音《ゴスペル》」
鐘が鳴った。
美しい音。
場違いなほど澄んだ鐘の音。
直後。
目に見えない衝撃が、ベヒーモスの顎を真上から撃ち抜いた。
巨獣の頭部が沈む。
口内へ集まっていた黒い光が揺らぐ。
それでも魔法は消えない。
「炸響《ルギオ》」
残された鐘の音が、もう一度爆ぜた。
二撃目。
ベヒーモスの顎が地面へ叩きつけられる。
黒い光が口の中で暴発した。
巨獣の頬が裂け、毒と炎が横方向へ噴き出す。
アルフィアの身体も限界を迎えた。
膝が折れる。
倒れる前に、女帝が抱き止めた。
「帰ると言ったのでしょう」
「……聞いていたのですか」
「誰に対しての約束だと思っているの」
「妹です」
「なら守りなさい」
ベヒーモスが苦しげに首を振る。
胸の裂け目が、再び正面へ向いた。
今しかない。
ザルドが大剣を構える。
だが、巨獣の前脚が彼の前へ落ちようとしていた。
傷を守るため。
最後の一撃を防ぐため。
山のような脚が、ザルドと傷口の間へ入る。
「バン!」
マキシムの声が飛ぶ。
バンにも分かっていた。
これが一回。
残っている全てを使う瞬間。
脚の力を奪えば、身体が壊れる。
ベヒーモスそのものを盗れば、意識ごと呑まれる。
黒砂を盗れば、巨獣との繋がりが再び腕へ流れ込む。
だから。
必要なものだけ。
巨獣が脚を傷口の前へ置くまでの、ほんの一瞬。
力が通る道。
動きが完成するための順序。
それだけを奪う。
バンはクレシューズを振るった。
四本の棍が伸び、巨獣の前脚を囲むように黒砂へ突き刺さる。
右手。
左手。
両方で柄を握る。
右腕の感覚が消えかける。
構わない。
「全部はいらねぇ」
《強奪》の糸が伸びる。
巨獣の脚。
胸。
地面。
その間を走る力の道へ触れる。
世界は遠くない。
壁があるわけでもない。
ただ、今までとは道が違った。
「そこ、通行止めだ」
バンは引いた。
ベヒーモスの脚が止まった。
完全には止まらない。
ほんの一瞬。
だが、山が空中で僅かに迷った。
どこへ力を流せばよいかを失い、脚が傷口の手前で沈む。
クレシューズの鎖が悲鳴を上げる。
バンの右肩から血が噴き出した。
膝が折れる。
それでも、手を離さない。
「今だ、暴喰!」
ザルドが走った。
一歩。
黒砂が砕ける。
二歩。
漆黒の鎧が軋む。
三歩。
身体の内側から毒が溢れ、口から黒い血を吐く。
それでも、大剣を下ろさない。
刀身へ、赤い光が灯った。
ザルドの低い声が、戦場へ響く。
「父神よ、許せ」
ゼウスが目を見開く。
遠く離れた陣の中。
力を封じた神は、ただ一人の眷族を見ていた。
命令することも。
力を与えることもできない。
それでも、彼の父神だった。
「神々の晩餐をも平らげることを」
大剣から炎が噴き上がる。
普通の炎ではない。
赤。
橙。
白。
幾重もの焔が重なり、漆黒の刀身を飲み込んでいく。
砂が触れる前に溶ける。
黒砂が焼かれ、繋がりを失って崩れ落ちる。
ベヒーモスの毒さえ、炎の中で悲鳴を上げていた。
ザルドが大剣を振りかぶる。
「貪れ、炎獄の舌」
ベヒーモスが最後の抵抗を見せる。
止められていた前脚が、再び動き始める。
バンの身体が前へ引かれた。
クレシューズの一本が折れそうなほど軋む。
「まだだ……!」
バンは歯を食いしばる。
アルフィアが女帝の腕の中から手を伸ばした。
静寂の領域が僅かに広がり、巨獣の動きを支える魔力の波を乱す。
マキシムがベヒーモスの肩へ全力の一撃を叩き込む。
女帝はアルフィアを支えたまま、片脚で巨獣の角を蹴り上げた。
パァルたちは押し寄せる魔物を止める。
リシェルたちは黒砂をハルファから逸らす。
名を持たない団員たちが、倒れた仲間を抱えて退路を繋ぐ。
数百人の力が、一瞬へ集まる。
ザルドの剣が最高点へ届いた。
「喰らえ、灼熱の牙」
魔法が完成する。
「レーア・アムブロシア!」
炎の大剣が振り下ろされた。
斬撃が、赤黒い器官へ飛ぶ。
炎は一筋ではない。
巨大な獣の顎。
灼熱の牙。
全てを食い尽くす炎獄の口。
ザルドが喰らったベヒーモスの力。
ゼウスから与えられた恩恵。
鍛え続けた剣技。
魔法。
命。
その全てが一撃へ重なる。
炎の牙が、巨獣の胸へ食らいついた。
外殻を焼く。
黒砂を呑む。
アルフィアが開いた傷を広げる。
マキシムと女帝が崩した姿勢を貫く。
バンが閉ざした力の道を通り抜ける。
赤黒い器官が両断された。
一瞬。
世界から音が消えた。
次の瞬間。
ベヒーモスの身体の内側から、炎が噴き出した。
胸。
首。
背中の外殻。
巨大な亀裂から赤い光が溢れる。
巨獣が天へ向かって咆哮した。
痛み。
怒り。
そして、死。
陸の王者の最後の声が、砂漠全体を震わせる。
前脚が崩れる。
巨体が傾く。
「退け!」
マキシムが叫んだ。
だが、倒れる方向はハルファだった。
山が集落へ向かって落ちる。
討伐に成功しても、このままでは全て押し潰される。
バンはクレシューズを引き戻そうとする。
右腕が動かない。
左腕だけでは、巨体へ届かない。
「おい、まだ終わってねぇぞ!」
ザルドが大剣を地面へ突き立てる。
身体は限界だった。
それでも倒れない。
「バン」
「何だ!」
「道を作れ」
「動かねぇんだよ!」
「なら、俺が押す」
ザルドは倒れてくるベヒーモスへ向き直る。
マキシムと女帝も並ぶ。
三人で山を止めるつもりだった。
「馬鹿か、お前ら」
バンは笑った。
「止められるわけねぇだろ」
「ならどうする」
「横へ倒す」
バンは左手でクレシューズを握る。
全身から力を集める。
巨獣を盗る必要はない。
倒れる力を奪う必要もない。
地面。
普通の砂。
ベヒーモスの左側に残った、僅かな傾斜。
そこへ落ちやすい道を作る。
「引っ張れ!」
マキシムが左の角を掴む。
女帝が外殻へ肩を入れる。
ザルドが大剣の腹を巨獣の胸へ当てる。
三人が同時に押す。
バンは足元の砂を《強奪》した。
巨獣の右側から砂を奪い、左側へ流す。
地面が片方だけ沈む。
ベヒーモスの巨体が、僅かに回った。
「もう少しだ!」
クレシューズの鎖が伸びる。
巨獣の角へ巻きつく。
バンは左腕だけで引いた。
肩が裂ける。
足が砂へ沈む。
それでも引く。
「そっちに寝ろ、でかぶつ!」
巨体が回った。
ハルファから外れる。
人のいない黒砂地帯へ向かって、ベヒーモスが倒れていく。
マキシムたちが離れる。
バンもクレシューズを解く。
次の瞬間。
陸の王者が大地へ沈んだ。
衝撃が砂漠を走る。
黒砂が空を覆い、数百人が地面へ伏せた。
ハルファの外壁が揺れ、酒場の瓶がいくつも割れる。
だが。
集落は残っていた。
砂煙がゆっくりと晴れていく。
横たわったベヒーモスは動かない。
胸元には、《レーア・アムブロシア》によって刻まれた巨大な傷。
裂けた外殻の奥では、赤黒い器官が炎に焼かれている。
大地を満たしていた呼吸も。
黒砂を従えていた鼓動も。
もう聞こえなかった。
ザルドの手から、大剣が落ちる。
その巨体も前へ傾いた。
バンが左腕を伸ばし、倒れる肩を支える。
「おい」
「斬ったぞ」
「ああ」
「喰い切った」
「ああ」
「酒は」
「帰ってからだ」
「そうか」
ザルドの瞼が落ちる。
身体に刻まれた黒い筋は消えていない。
むしろ、さらに深くなっている。
ベヒーモスは倒れた。
だが、陸の王者の毒は、暴喰の男の中でまだ生きていた。
バンはザルドを砂の上へ寝かせ、胸へ手を当てる。
鼓動はある。
弱い。
それでも、確かに続いている。
「治療班!」
バンの声に応じて、セリアたちが走り出す。
担架。
薬。
灰。
清潔な布。
ベヒーモスの毒を取り除く手段はない。
それでも、誰一人として手を止めなかった。
少し離れた場所では、女帝がアルフィアを抱えている。
「自分で歩ける」
「禁止よ」
「下ろしてください」
「妹のところへ帰るのでしょう」
「……はい」
「なら黙って運ばれなさい」
アルフィアは不満そうに顔を背けた。
だが、抵抗するだけの力は残されていなかった。
マキシムは倒れたベヒーモスの前へ立つ。
武器を握ったまま、動かなくなった巨獣を見据える。
「終わったか」
その問いへ、答える者はいなかった。
誰もが同じ疑問を抱いていた。
本当に死んだのか。
これほどの災害が、本当に止まったのか。
その時。
どくん、と。
地面の下から、最後の鼓動が響いた。
倒れたベヒーモスの胸が、僅かに持ち上がる。
「まだ生きているのか!」
団員たちが武器を構える。
セリアがザルドの担架を庇う。
女帝はアルフィアを後方へ預け、再び巨獣へ向き直った。
マキシムが片腕を上げる。
「近づくな!」
胸元の傷から、赤黒い光が漏れている。
炎に焼かれ、両断された器官。
そのさらに奥。
陸の王者の命を支えていた巨大な魔石が、無数の亀裂を走らせながら脈打っていた。
どくん。
もう一度。
魔石が光る。
すると、地面へ落ちていた黒砂が一斉に動き始めた。
傷口へ。
頭部へ。
折れた脚へ。
死んだはずの身体を再び形作ろうとするように、周囲の黒砂がベヒーモスへ吸い寄せられていく。
「最後の悪足掻きか」
バンが立ち上がろうとする。
右腕は動かない。
左腕にも、ほとんど力が残っていない。
それでも、クレシューズへ手を伸ばした。
「動くな」
マキシムが止める。
「けどよ」
「よく見ろ」
黒砂は傷を塞いでいない。
肉体へ触れたそばから、力を失って崩れていた。
魔石が黒砂を呼び戻している。
だが、もはやそれを支配するだけの命がない。
集まった砂は身体の形を作れず、外殻の隙間から零れ落ちる。
どくん。
三度目の鼓動。
魔石の亀裂がさらに広がった。
そこから、《レーア・アムブロシア》の炎が噴き出す。
ザルドの一撃は、まだ終わっていなかった。
巨獣の内部へ残された灼熱が、魔石の最後の力を内側から喰らっている。
赤黒い光と、炎獄の焔。
二つの力が魔石の中でぶつかり合う。
ベヒーモスの巨体が震えた。
誰も息をしない。
やがて。
甲高い音が、砂漠へ響いた。
魔石に走った無数の亀裂が、一つにつながる。
そして。
砕けた。
光が巨獣の胸から空へ噴き上がった。
直後。
ベヒーモスの身体が、崩れ始める。
胸元から。
首へ。
腹部へ。
脚へ。
黒い肉が灰となり、幾重にも重なっていた外殻が砂のように砕けていく。
「全員、下がれ!」
マキシムの号令が飛ぶ。
数百人の遠征軍が、負傷者を抱えて後退する。
巨獣の背中が崩れた。
山ほどもあった身体が、大量の灰と黒砂へ変わっていく。
外殻が砕ける重い音。
巨大な骨が地面へ落ちる音。
折れた角が砂漠へ突き刺さる音。
全てが灰色の濁流に呑み込まれた。
風が吹く。
灰が舞う。
朝の空が、再び暗くなる。
黒砂とは違う。
もう意志も。
毒を運ぶ流れも。
巨獣の呼吸もない。
ただ、一つの巨大な生命が燃え尽きた後に残された、膨大な灰だった。
それは砂漠の上へ降り積もる。
丘となり。
谷を埋め。
先ほどまでベヒーモスが横たわっていた一帯を、灰と砂の海へ変えていく。
長い時間が過ぎた。
灰の雨が止む。
風が視界を開く。
そこに、巨獣の死骸はなかった。
代わりに残ったのは、砂漠を埋め尽くす巨大な灰の山。
所々から、黒い角の先端や、砕けきらなかった外殻の一部が突き出している。
その多くも、深い灰の底へ埋もれていた。
マキシムはしばらく灰の山を見つめる。
地鳴りはない。
呼吸もない。
魔石の鼓動も、二度とは響かなかった。
彼は武器を掲げる。
「陸の王者ベヒーモスは――討たれた!」
一瞬。
誰も声を出せなかった。
やがて、一人が膝をついた。
一人が泣いた。
一人が折れた剣を掲げた。
そして、数百人の声が一つになる。
歓声。
泣き声。
帰らなかった者の名を呼ぶ声。
勝利を叫ぶ声。
全てが混ざり合い、灰に覆われた砂漠を震わせる。
バンは、その中心から少し離れた場所へ座り込んでいた。
右腕は動かない。
左肩も痛む。
身体中から力が抜けている。
それでも、生きていた。
隣ではザルドが担架に乗せられ、治療を受けている。
アルフィアも女帝に抱えられ、後方へ運ばれていく。
神々は遠くから眷族たちを見ていた。
ゼウスは笑っている。
涙を流しながら。
ヘラは何も言わず、僅かに顔を背けていた。
バンは目の前に広がる灰の山を見渡す。
「最後まで、でけぇ奴だったな」
ナジュが隣へ来た。
顔は涙で濡れている。
それでも、笑っていた。
「あれを、全部片づけるのかい」
「俺に聞くなよ」
「その下に、何が埋まってるんだろうね」
バンは灰の底へ目を向ける。
角。
骨。
外殻。
砕かれた魔石。
世界を脅かした巨獣が、その身体に何を残したのか。
今はまだ、誰にも分からない。
「腹減ったな」
バンが言った。
ナジュは泣きながら笑う。
「帰ったら、鍋いっぱい作ってやるよ」
「酒もな」
「樽ごと出してやる」
「約束したぞ」
「ああ」
東の空から、朝日が昇る。
光が灰の山を照らし、無数の粒を銀色に輝かせた。
黒い砂嵐は、もう起こらない。
大地を揺らす呼吸も、二度と聞こえない。
朝日の届かない灰の底。
角と骨と外殻が幾重にも埋もれた、そのさらに深い場所で。
砕けた魔石の欠片が一つだけ、鈍い赤黒い光を放った。
それもすぐに灰へ覆われ。
誰の目にも留まらないまま、砂漠の底へ沈んでいった。
第25話でした。
今回は、ザルドが《レーア・アムブロシア》を発動し、ベヒーモスを討ち取る決着を描きました。
バン、アルフィア、マキシム、女帝、数百人の遠征軍が最後の一撃へ道を繋ぎ、討伐そのものは原作通りザルドの功績となる形にしています。