強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第25話です。


第25話 巨獣の最期

ベヒーモスが、ハルファへ向かって前脚を上げた。

 

ただの一歩。

 

それだけで、黒い砂漠が大きく沈む。

 

巨獣の胸元には、ザルドの大剣が刻んだ深い裂け目が残っていた。

 

赤黒い器官が脈打つたび、傷口から大量の黒い血が溢れる。

 

だが、致命傷には届いていない。

 

周囲の黒砂が渦を巻き、再び傷を塞ごうとしていた。

 

バンが奪った「道」は、今もずらされたままだ。

 

傷口へ真っ直ぐ向かえなくなった黒砂が、巨獣の周囲で巨大な嵐となって荒れ狂っている。

 

長くは保たない。

 

《強奪》を通して、バンには分かった。

 

ベヒーモスが力任せに繋がりを結び直そうとしている。

 

細い糸を、人間の腕ほどの綱で無理やり引き戻すように。

 

右腕の骨が軋んだ。

 

「ちっ……」

 

バンはクレシューズの柄を握り直す。

 

右手の感覚は薄い。

 

鼻から流れた血が、顎を伝って砂へ落ちた。

 

「あと、どれほど保つ」

 

アルフィアが問う。

 

彼女も無傷ではない。

 

灰髪は黒砂と血で汚れ、白い顔はさらに血の気を失っている。

 

静寂を幾度も使った反動で、呼吸のたびに胸が小さく上下していた。

 

「知らねぇよ」

 

「役に立たない返事だ」

 

「聞き方が悪ぃ」

 

「では言い直す。次に傷が塞がるまで、何ができる」

 

バンはベヒーモスを見る。

 

巨獣の脚。

 

胸。

 

首。

 

黒砂の流れ。

 

「一回だな」

 

「何が」

 

「でけぇのを一回だけ、ずらせる」

 

「十分だ」

 

「勝手に決めんな」

 

「二回できるのか」

 

「無理だな」

 

「なら一回で十分だ」

 

バンは笑った。

 

「お前、性格悪ぃな」

 

「今更か」

 

ベヒーモスの脚が落ちた。

 

マキシムと女帝が、同時に前へ出る。

 

人間二人が、落下する山を迎え撃った。

 

マキシムの武器が外殻へ叩き込まれる。

 

女帝の拳が、その反対側へ突き刺さる。

 

大気が爆ぜた。

 

脚の落下点が僅かに逸れる。

 

それでも、地面へ届いた衝撃だけで大地が裂けた。

 

黒砂が噴き上がり、岩が宙を舞う。

 

第三線の精鋭たちが吹き飛ばされる。

 

後方では、パァルが盾列を組み直していた。

 

「頭を下げろ!飛来物を防げ!」

 

巨大な外殻の欠片が、第一線へ降り注ぐ。

 

盾が重なる。

 

一枚目が割れる。

 

二枚目が押し込まれる。

 

ロウムの代わりに先頭へ立った団員たちが、血を吐きながらも盾を離さない。

 

パァルが長槍で破片の軌道を変える。

 

「後ろを見ろ!前だけが戦場ではない!」

 

別の一団では、リシェルが大杖を掲げていた。

 

「第八基点を放棄!第九へ繋ぎなさい!」

 

「ですが、そこを切れば北側から黒砂が!」

 

「私が受けます!」

 

光の術式が一つ消える。

 

溢れた黒砂が、ハルファへ向かおうとする。

 

リシェルの足元から、巨大な結界が立ち上がった。

 

黒い流れを正面から止めず、弧を描いて砂漠の外へ逃がす。

 

術式を維持する魔導士たちの顔から、血の気が失われる。

 

「副団長、魔力が!」

 

「まだです」

 

「保ちません!」

 

「保たせなさい。前線の者が戻る道です!」

 

その後ろを、白髪の若い支援者が駆け抜ける。

 

伝令旗を抱え、崩れかけた各隊へ命令を運ぶ。

 

「第三線から伝令!決着まで退路を維持!負傷者は南の船団へ!」

 

声が震えている。

 

足も震えている。

 

それでも、誰より速く走っていた。

 

黒砂持ちの魔物が横から飛び出す。

 

若者は悲鳴を上げながら身を投げ出し、その爪を紙一重で避けた。

 

転がりながら立ち上がり、また走る。

 

戦えない者には、戦えない者の戦いがあった。

 

数百人が傷つきながら、一つの道を繋いでいる。

 

その先。

 

ザルドは大剣を支えに立っていた。

 

喰らったベヒーモスの毒は、すでに全身へ回っている。

 

首から頬へ広がった黒い筋。

 

鎧の隙間から溢れる血。

 

呼吸するたび、胸の奥で濡れた音が鳴る。

 

それでも、その目だけは死んでいない。

 

「ザルド」

 

マキシムが巨獣の脚を押し返しながら叫ぶ。

 

「次で決める!」

 

「ああ」

 

「立てるか」

 

「立っている」

 

バンが横から言う。

 

「それ禁止らしいぞ」

 

ザルドの口元が僅かに上がる。

 

「今だけは許せ」

 

「死ぬなよ」

 

「死なん」

 

「その身体でか?」

 

「勝つまではな」

 

「勝った後もだ」

 

ザルドは答えなかった。

 

ベヒーモスが頭を持ち上げる。

 

首元の巨大な角が、雲を裂くように空を向く。

 

口が開く。

 

奥に、黒い光が集まり始めた。

 

先ほどまでの咆哮とは違う。

 

毒。

 

熱。

 

黒砂。

 

巨獣の内側に蓄えられた全てが、喉へ集まっている。

 

エルンの叫びが、伝令を通して届く。

 

「高密度の魔力反応!ハルファ方向です!」

 

撃たせれば、集落は消える。

 

結界でも防げない。

 

マキシムが巨獣の顎へ向かう。

 

「頭を下げさせる!」

 

女帝も反対側から跳ぶ。

 

「口を閉じるわよ!」

 

二人の攻撃が、ベヒーモスの顎へ激突する。

 

だが、止まらない。

 

巨獣の首が僅かに揺れただけ。

 

口内の黒い光は、さらに強くなる。

 

ザルドが大剣を持ち上げようとする。

 

腕が震えた。

 

まだ届かない。

 

胸元の傷は開いている。

 

だが、頭部が高すぎる。

 

このままでは、魔法を放っても斬撃が傷へ入らない。

 

アルフィアが前へ出た。

 

「私が撃つ」

 

女帝が振り返る。

 

「その身体で?」

 

「頭を下げればいいのでしょう」

 

「次に魔法を使えば、お前も倒れる」

 

「後で倒れる」

 

「アルフィア」

 

「今、立っていれば十分です」

 

彼女の脳裏に、白い髪の妹が浮かんでいた。

 

一人では部屋から出られない。

 

魔法も使えない。

 

剣も握れない。

 

それでも、自分が食事を抜けば怒り、帰ってくると約束させた妹。

 

姉様。

 

必ず帰ってきてくださいね。

 

柔らかな声。

 

アルフィアは瞼を開いた。

 

灰と翠。

 

二つの瞳が巨獣を捉える。

 

「福音《ゴスペル》」

 

鐘が鳴った。

 

美しい音。

 

場違いなほど澄んだ鐘の音。

 

直後。

 

目に見えない衝撃が、ベヒーモスの顎を真上から撃ち抜いた。

 

巨獣の頭部が沈む。

 

口内へ集まっていた黒い光が揺らぐ。

 

それでも魔法は消えない。

 

「炸響《ルギオ》」

 

残された鐘の音が、もう一度爆ぜた。

 

二撃目。

 

ベヒーモスの顎が地面へ叩きつけられる。

 

黒い光が口の中で暴発した。

 

巨獣の頬が裂け、毒と炎が横方向へ噴き出す。

 

アルフィアの身体も限界を迎えた。

 

膝が折れる。

 

倒れる前に、女帝が抱き止めた。

 

「帰ると言ったのでしょう」

 

「……聞いていたのですか」

 

「誰に対しての約束だと思っているの」

 

「妹です」

 

「なら守りなさい」

 

ベヒーモスが苦しげに首を振る。

 

胸の裂け目が、再び正面へ向いた。

 

今しかない。

 

ザルドが大剣を構える。

 

だが、巨獣の前脚が彼の前へ落ちようとしていた。

 

傷を守るため。

 

最後の一撃を防ぐため。

 

山のような脚が、ザルドと傷口の間へ入る。

 

「バン!」

 

マキシムの声が飛ぶ。

 

バンにも分かっていた。

 

これが一回。

 

残っている全てを使う瞬間。

 

脚の力を奪えば、身体が壊れる。

 

ベヒーモスそのものを盗れば、意識ごと呑まれる。

 

黒砂を盗れば、巨獣との繋がりが再び腕へ流れ込む。

 

だから。

 

必要なものだけ。

 

巨獣が脚を傷口の前へ置くまでの、ほんの一瞬。

 

力が通る道。

 

動きが完成するための順序。

 

それだけを奪う。

 

バンはクレシューズを振るった。

 

四本の棍が伸び、巨獣の前脚を囲むように黒砂へ突き刺さる。

 

右手。

 

左手。

 

両方で柄を握る。

 

右腕の感覚が消えかける。

 

構わない。

 

「全部はいらねぇ」

 

《強奪》の糸が伸びる。

 

巨獣の脚。

 

胸。

 

地面。

 

その間を走る力の道へ触れる。

 

世界は遠くない。

 

壁があるわけでもない。

 

ただ、今までとは道が違った。

 

「そこ、通行止めだ」

 

バンは引いた。

 

ベヒーモスの脚が止まった。

 

完全には止まらない。

 

ほんの一瞬。

 

だが、山が空中で僅かに迷った。

 

どこへ力を流せばよいかを失い、脚が傷口の手前で沈む。

 

クレシューズの鎖が悲鳴を上げる。

 

バンの右肩から血が噴き出した。

 

膝が折れる。

 

それでも、手を離さない。

 

「今だ、暴喰!」

 

ザルドが走った。

 

一歩。

 

黒砂が砕ける。

 

二歩。

 

漆黒の鎧が軋む。

 

三歩。

 

身体の内側から毒が溢れ、口から黒い血を吐く。

 

それでも、大剣を下ろさない。

 

刀身へ、赤い光が灯った。

 

ザルドの低い声が、戦場へ響く。

 

「父神よ、許せ」

 

ゼウスが目を見開く。

 

遠く離れた陣の中。

 

力を封じた神は、ただ一人の眷族を見ていた。

 

命令することも。

 

力を与えることもできない。

 

それでも、彼の父神だった。

 

「神々の晩餐をも平らげることを」

 

大剣から炎が噴き上がる。

 

普通の炎ではない。

 

赤。

 

橙。

 

白。

 

幾重もの焔が重なり、漆黒の刀身を飲み込んでいく。

 

砂が触れる前に溶ける。

 

黒砂が焼かれ、繋がりを失って崩れ落ちる。

 

ベヒーモスの毒さえ、炎の中で悲鳴を上げていた。

 

ザルドが大剣を振りかぶる。

 

「貪れ、炎獄の舌」

 

ベヒーモスが最後の抵抗を見せる。

 

止められていた前脚が、再び動き始める。

 

バンの身体が前へ引かれた。

 

クレシューズの一本が折れそうなほど軋む。

 

「まだだ……!」

 

バンは歯を食いしばる。

 

アルフィアが女帝の腕の中から手を伸ばした。

 

静寂の領域が僅かに広がり、巨獣の動きを支える魔力の波を乱す。

 

マキシムがベヒーモスの肩へ全力の一撃を叩き込む。

 

女帝はアルフィアを支えたまま、片脚で巨獣の角を蹴り上げた。

 

パァルたちは押し寄せる魔物を止める。

 

リシェルたちは黒砂をハルファから逸らす。

 

名を持たない団員たちが、倒れた仲間を抱えて退路を繋ぐ。

 

数百人の力が、一瞬へ集まる。

 

ザルドの剣が最高点へ届いた。

 

「喰らえ、灼熱の牙」

 

魔法が完成する。

 

「レーア・アムブロシア!」

 

炎の大剣が振り下ろされた。

 

斬撃が、赤黒い器官へ飛ぶ。

 

炎は一筋ではない。

 

巨大な獣の顎。

 

灼熱の牙。

 

全てを食い尽くす炎獄の口。

 

ザルドが喰らったベヒーモスの力。

 

ゼウスから与えられた恩恵。

 

鍛え続けた剣技。

 

魔法。

 

命。

 

その全てが一撃へ重なる。

 

炎の牙が、巨獣の胸へ食らいついた。

 

外殻を焼く。

 

黒砂を呑む。

 

アルフィアが開いた傷を広げる。

 

マキシムと女帝が崩した姿勢を貫く。

 

バンが閉ざした力の道を通り抜ける。

 

赤黒い器官が両断された。

 

一瞬。

 

世界から音が消えた。

 

次の瞬間。

 

ベヒーモスの身体の内側から、炎が噴き出した。

 

胸。

 

首。

 

背中の外殻。

 

巨大な亀裂から赤い光が溢れる。

 

巨獣が天へ向かって咆哮した。

 

痛み。

 

怒り。

 

そして、死。

 

陸の王者の最後の声が、砂漠全体を震わせる。

 

前脚が崩れる。

 

巨体が傾く。

 

「退け!」

 

マキシムが叫んだ。

 

だが、倒れる方向はハルファだった。

 

山が集落へ向かって落ちる。

 

討伐に成功しても、このままでは全て押し潰される。

 

バンはクレシューズを引き戻そうとする。

 

右腕が動かない。

 

左腕だけでは、巨体へ届かない。

 

「おい、まだ終わってねぇぞ!」

 

ザルドが大剣を地面へ突き立てる。

 

身体は限界だった。

 

それでも倒れない。

 

「バン」

 

「何だ!」

 

「道を作れ」

 

「動かねぇんだよ!」

 

「なら、俺が押す」

 

ザルドは倒れてくるベヒーモスへ向き直る。

 

マキシムと女帝も並ぶ。

 

三人で山を止めるつもりだった。

 

「馬鹿か、お前ら」

 

バンは笑った。

 

「止められるわけねぇだろ」

 

「ならどうする」

 

「横へ倒す」

 

バンは左手でクレシューズを握る。

 

全身から力を集める。

 

巨獣を盗る必要はない。

 

倒れる力を奪う必要もない。

 

地面。

 

普通の砂。

 

ベヒーモスの左側に残った、僅かな傾斜。

 

そこへ落ちやすい道を作る。

 

「引っ張れ!」

 

マキシムが左の角を掴む。

 

女帝が外殻へ肩を入れる。

 

ザルドが大剣の腹を巨獣の胸へ当てる。

 

三人が同時に押す。

 

バンは足元の砂を《強奪》した。

 

巨獣の右側から砂を奪い、左側へ流す。

 

地面が片方だけ沈む。

 

ベヒーモスの巨体が、僅かに回った。

 

「もう少しだ!」

 

クレシューズの鎖が伸びる。

 

巨獣の角へ巻きつく。

 

バンは左腕だけで引いた。

 

肩が裂ける。

 

足が砂へ沈む。

 

それでも引く。

 

「そっちに寝ろ、でかぶつ!」

 

巨体が回った。

 

ハルファから外れる。

 

人のいない黒砂地帯へ向かって、ベヒーモスが倒れていく。

 

マキシムたちが離れる。

 

バンもクレシューズを解く。

 

次の瞬間。

 

陸の王者が大地へ沈んだ。

 

衝撃が砂漠を走る。

 

黒砂が空を覆い、数百人が地面へ伏せた。

 

ハルファの外壁が揺れ、酒場の瓶がいくつも割れる。

 

だが。

 

集落は残っていた。

 

砂煙がゆっくりと晴れていく。

 

横たわったベヒーモスは動かない。

 

胸元には、《レーア・アムブロシア》によって刻まれた巨大な傷。

 

裂けた外殻の奥では、赤黒い器官が炎に焼かれている。

 

大地を満たしていた呼吸も。

 

黒砂を従えていた鼓動も。

 

もう聞こえなかった。

 

ザルドの手から、大剣が落ちる。

 

その巨体も前へ傾いた。

 

バンが左腕を伸ばし、倒れる肩を支える。

 

「おい」

 

「斬ったぞ」

 

「ああ」

 

「喰い切った」

 

「ああ」

 

「酒は」

 

「帰ってからだ」

 

「そうか」

 

ザルドの瞼が落ちる。

 

身体に刻まれた黒い筋は消えていない。

 

むしろ、さらに深くなっている。

 

ベヒーモスは倒れた。

 

だが、陸の王者の毒は、暴喰の男の中でまだ生きていた。

 

バンはザルドを砂の上へ寝かせ、胸へ手を当てる。

 

鼓動はある。

 

弱い。

 

それでも、確かに続いている。

 

「治療班!」

 

バンの声に応じて、セリアたちが走り出す。

 

担架。

 

薬。

 

灰。

 

清潔な布。

 

ベヒーモスの毒を取り除く手段はない。

 

それでも、誰一人として手を止めなかった。

 

少し離れた場所では、女帝がアルフィアを抱えている。

 

「自分で歩ける」

 

「禁止よ」

 

「下ろしてください」

 

「妹のところへ帰るのでしょう」

 

「……はい」

 

「なら黙って運ばれなさい」

 

アルフィアは不満そうに顔を背けた。

 

だが、抵抗するだけの力は残されていなかった。

 

マキシムは倒れたベヒーモスの前へ立つ。

 

武器を握ったまま、動かなくなった巨獣を見据える。

 

「終わったか」

 

その問いへ、答える者はいなかった。

 

誰もが同じ疑問を抱いていた。

 

本当に死んだのか。

 

これほどの災害が、本当に止まったのか。

 

その時。

 

どくん、と。

 

地面の下から、最後の鼓動が響いた。

 

倒れたベヒーモスの胸が、僅かに持ち上がる。

 

「まだ生きているのか!」

 

団員たちが武器を構える。

 

セリアがザルドの担架を庇う。

 

女帝はアルフィアを後方へ預け、再び巨獣へ向き直った。

 

マキシムが片腕を上げる。

 

「近づくな!」

 

胸元の傷から、赤黒い光が漏れている。

 

炎に焼かれ、両断された器官。

 

そのさらに奥。

 

陸の王者の命を支えていた巨大な魔石が、無数の亀裂を走らせながら脈打っていた。

 

どくん。

 

もう一度。

 

魔石が光る。

 

すると、地面へ落ちていた黒砂が一斉に動き始めた。

 

傷口へ。

 

頭部へ。

 

折れた脚へ。

 

死んだはずの身体を再び形作ろうとするように、周囲の黒砂がベヒーモスへ吸い寄せられていく。

 

「最後の悪足掻きか」

 

バンが立ち上がろうとする。

 

右腕は動かない。

 

左腕にも、ほとんど力が残っていない。

 

それでも、クレシューズへ手を伸ばした。

 

「動くな」

 

マキシムが止める。

 

「けどよ」

 

「よく見ろ」

 

黒砂は傷を塞いでいない。

 

肉体へ触れたそばから、力を失って崩れていた。

 

魔石が黒砂を呼び戻している。

 

だが、もはやそれを支配するだけの命がない。

 

集まった砂は身体の形を作れず、外殻の隙間から零れ落ちる。

 

どくん。

 

三度目の鼓動。

 

魔石の亀裂がさらに広がった。

 

そこから、《レーア・アムブロシア》の炎が噴き出す。

 

ザルドの一撃は、まだ終わっていなかった。

 

巨獣の内部へ残された灼熱が、魔石の最後の力を内側から喰らっている。

 

赤黒い光と、炎獄の焔。

 

二つの力が魔石の中でぶつかり合う。

 

ベヒーモスの巨体が震えた。

 

誰も息をしない。

 

やがて。

 

甲高い音が、砂漠へ響いた。

 

魔石に走った無数の亀裂が、一つにつながる。

 

そして。

 

砕けた。

 

光が巨獣の胸から空へ噴き上がった。

 

直後。

 

ベヒーモスの身体が、崩れ始める。

 

胸元から。

 

首へ。

 

腹部へ。

 

脚へ。

 

黒い肉が灰となり、幾重にも重なっていた外殻が砂のように砕けていく。

 

「全員、下がれ!」

 

マキシムの号令が飛ぶ。

 

数百人の遠征軍が、負傷者を抱えて後退する。

 

巨獣の背中が崩れた。

 

山ほどもあった身体が、大量の灰と黒砂へ変わっていく。

 

外殻が砕ける重い音。

 

巨大な骨が地面へ落ちる音。

 

折れた角が砂漠へ突き刺さる音。

 

全てが灰色の濁流に呑み込まれた。

 

風が吹く。

 

灰が舞う。

 

朝の空が、再び暗くなる。

 

黒砂とは違う。

 

もう意志も。

 

毒を運ぶ流れも。

 

巨獣の呼吸もない。

 

ただ、一つの巨大な生命が燃え尽きた後に残された、膨大な灰だった。

 

それは砂漠の上へ降り積もる。

 

丘となり。

 

谷を埋め。

 

先ほどまでベヒーモスが横たわっていた一帯を、灰と砂の海へ変えていく。

 

長い時間が過ぎた。

 

灰の雨が止む。

 

風が視界を開く。

 

そこに、巨獣の死骸はなかった。

 

代わりに残ったのは、砂漠を埋め尽くす巨大な灰の山。

 

所々から、黒い角の先端や、砕けきらなかった外殻の一部が突き出している。

 

その多くも、深い灰の底へ埋もれていた。

 

マキシムはしばらく灰の山を見つめる。

 

地鳴りはない。

 

呼吸もない。

 

魔石の鼓動も、二度とは響かなかった。

 

彼は武器を掲げる。

 

「陸の王者ベヒーモスは――討たれた!」

 

一瞬。

 

誰も声を出せなかった。

 

やがて、一人が膝をついた。

 

一人が泣いた。

 

一人が折れた剣を掲げた。

 

そして、数百人の声が一つになる。

 

歓声。

 

泣き声。

 

帰らなかった者の名を呼ぶ声。

 

勝利を叫ぶ声。

 

全てが混ざり合い、灰に覆われた砂漠を震わせる。

 

バンは、その中心から少し離れた場所へ座り込んでいた。

 

右腕は動かない。

 

左肩も痛む。

 

身体中から力が抜けている。

 

それでも、生きていた。

 

隣ではザルドが担架に乗せられ、治療を受けている。

 

アルフィアも女帝に抱えられ、後方へ運ばれていく。

 

神々は遠くから眷族たちを見ていた。

 

ゼウスは笑っている。

 

涙を流しながら。

 

ヘラは何も言わず、僅かに顔を背けていた。

 

バンは目の前に広がる灰の山を見渡す。

 

「最後まで、でけぇ奴だったな」

 

ナジュが隣へ来た。

 

顔は涙で濡れている。

 

それでも、笑っていた。

 

「あれを、全部片づけるのかい」

 

「俺に聞くなよ」

 

「その下に、何が埋まってるんだろうね」

 

バンは灰の底へ目を向ける。

 

角。

 

骨。

 

外殻。

 

砕かれた魔石。

 

世界を脅かした巨獣が、その身体に何を残したのか。

 

今はまだ、誰にも分からない。

 

「腹減ったな」

 

バンが言った。

 

ナジュは泣きながら笑う。

 

「帰ったら、鍋いっぱい作ってやるよ」

 

「酒もな」

 

「樽ごと出してやる」

 

「約束したぞ」

 

「ああ」

 

東の空から、朝日が昇る。

 

光が灰の山を照らし、無数の粒を銀色に輝かせた。

 

黒い砂嵐は、もう起こらない。

 

大地を揺らす呼吸も、二度と聞こえない。

 

朝日の届かない灰の底。

 

角と骨と外殻が幾重にも埋もれた、そのさらに深い場所で。

 

砕けた魔石の欠片が一つだけ、鈍い赤黒い光を放った。

 

それもすぐに灰へ覆われ。

 

誰の目にも留まらないまま、砂漠の底へ沈んでいった。




第25話でした。

今回は、ザルドが《レーア・アムブロシア》を発動し、ベヒーモスを討ち取る決着を描きました。

バン、アルフィア、マキシム、女帝、数百人の遠征軍が最後の一撃へ道を繋ぎ、討伐そのものは原作通りザルドの功績となる形にしています。
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