第26話 灰の海
勝利の歓声が消えた後も、灰は降り続けていた。
ベヒーモスの魔石が砕け、その巨体が崩壊してから、すでに数時間が過ぎている。
それでも空は暗い。
陸の王者を形作っていた肉も、血も、外殻も、その大部分が莫大な灰へ変わり、黒い砂漠へ降り注いでいた。
砂丘が一つ消えた。
代わりに、新しい灰の丘ができる。
谷間は埋まり、岩場は半ばまで沈み、戦場に残されていた結界杭や荷車も次々と灰の下へ姿を消していく。
討伐前まで、黒砂に染まっていたのはベヒーモスの周辺が中心だった。
だが今は違う。
見渡す限り、地面が黒と灰色に塗り潰されている。
以前から黒い砂漠と呼ばれていた土地が、この日を境に初めて、その名の通りの姿へ変わった。
「素手で触れるな!」
灰の中を、パァルの声が飛ぶ。
「動きを失っていても毒が消えたとは限らん!回収班は手袋と覆面を着けろ!具合が悪くなった者は隠さず治療班へ行け!」
ベヒーモスが生きていた時の黒砂は、意志を持つように動いた。
傷口へ集まり、肉体を支え、時には人間の足へ絡みついた。
今、足元に積もっている灰は動かない。
風が吹けば舞い上がり、斜面に沿って流れ落ちるだけだ。
だが、ベヒーモスの毒と魔力が完全に消えたわけではなかった。
灰を吸い込んだ団員が咳き込み、膝をつく。
黒砂に深く触れた革靴は、底からゆっくりと腐り始める。
死んだ巨獣は、なおも大地に爪痕を残していた。
「北側の灰は濃度が高い!赤い杭より先へ入るな!」
リシェルが大杖で地面を示す。
ヘラ・ファミリアの魔導士たちが、灰の流れを調べながら危険区域を区切っていた。
ゼウス・ファミリアの団員たちは縄を張り、灰へ埋もれた装備や負傷者を捜している。
戦いが終わっても、誰も武器を完全には置いていなかった。
今度の敵は、巨獣ではない。
灰。
毒。
負傷。
そして、失われた仲間を見つけられないまま時間だけが過ぎていくことだった。
◇
戦場の外れには、臨時の救護所が作られていた。
布を張っただけの天幕。
並べられた担架。
湯を沸かす大鍋。
赤く染まった布を焼くための火。
その間を、治療師と支援者が休むことなく行き交っている。
「重傷者を西側へ!」
「こちらは意識がありません!」
「水を!灰を洗い流してから中へ運んで!」
セリアが負傷者の間を歩く。
服も顔も血と灰で汚れていた。
それでも手は震えていない。
一人の傷を縫い終えれば、すぐ次へ向かう。
治療できる者から治療する。
助からない可能性が高い者にも、決して背を向けない。
救護所の一番奥。
ザルドは厚い布の上へ寝かされていた。
漆黒の鎧は脱がされている。
鍛え上げられた身体の至るところに、黒い筋が浮かんでいた。
首。
胸。
腕。
腹部。
ベヒーモスの肉を喰らったことで入り込んだ猛毒は、戦いが終わっても消えていない。
呼吸は浅く、額には汗が滲んでいる。
時折、身体の奥から何かを吐き出そうとするように、大きな胸が痙攣した。
その隣には、アルフィアが横になっていた。
「私は負傷者ではない」
「血を吐いて倒れた人は負傷者です」
治療師の返答は容赦がなかった。
「静寂と魔法を使いすぎただけだ」
「それを負傷と呼ぶのです」
「寝ている必要はない」
「起き上がれば女帝様を呼びます」
アルフィアの眉が動いた。
彼女は少し考えた後、毛布へ背を預け直した。
「卑怯者め」
「治療師への褒め言葉として受け取ります」
アルフィアの顔色も悪い。
魔法の反動だけではなかった。
もともと身体の内側にある病が、長時間の戦闘と消耗によって悪化している。
呼吸するたび、胸の奥から小さな雑音が混じる。
彼女自身も、それに気づいていた。
だが、隣で眠るザルドに比べれば、自分はまだ動けると思っている。
少なくとも本人は、そう考えていた。
「お前ら、仲良く寝てんな」
救護所の入口から声がした。
バンが天幕の支柱へ寄りかかっている。
右腕は布で吊られ、左肩には新しい包帯が巻かれていた。
暗赤色のコートも脱がされている。
赤い革のズボンには、灰と血がこびりついたままだ。
左手にはクレシューズ。
四本の棍をまとめ、杖代わりに地面へ突いていた。
セリアが振り返る。
「なぜ歩いているのですか」
「歩けるから」
「先ほど転びました」
「砂が滑った」
「平地でした」
「灰だろ」
「言い訳を増やさないでください」
バンは聞かなかったことにして、ザルドの横へしゃがむ。
胸へ左手を当てる。
鼓動はある。
弱い。
時々、間隔が不自然に伸びる。
「まだ生きてるな」
「当たり前だ」
アルフィアが答えた。
「お前に聞いてねぇよ」
「聞く必要もない」
「病人は黙って寝てろ」
「お前が言うな」
セリアが二人を睨む。
「二人とも静かにしてください」
「こいつに言え」
二人の声が重なった。
セリアは頭を押さえた。
ザルドの瞼は開かない。
いつもなら、二人の言い争いへ低い声を挟むはずだった。
それがないだけで、救護所の空気が重く感じられる。
バンはザルドの胸から手を離す。
「毒、抜けねぇのか」
「少なくとも、私たちの知る解毒薬では効果がありません」
セリアが答える。
「血を入れ替えることも考えましたが、毒は血だけでなく、内臓や生命力そのものへ食い込んでいます」
「喰った力と混ざってんのか」
「おそらくは」
ザルドは神饌恩寵によって、ベヒーモスの力を己のものにした。
毒だけを拒み、力だけを得たわけではない。
災害を丸ごと喰らい、その中で自分の身体を保っていた。
戦いが終わり、強化された力が薄れ始めた今、押さえ込まれていた毒が全身を蝕んでいる。
「心臓が止まりかけたら呼べ」
バンが言う。
セリアの表情が変わる。
「何をするつもりですか」
「止まらねぇようにする」
「《贈与》ですか」
「それ以外に何があんだよ」
「あなたも回復していません」
「こいつよりゃましだ」
「駄目です」
「死なせろって?」
「そうは言っていません!」
セリアの声が救護所へ響く。
周囲の治療師たちが一瞬だけ振り返った。
彼女は声を落とす。
「今のあなたが生命力を渡せば、二人とも危険になります」
「なら、ぎりぎりまで待つ」
「その判断は私がします」
「分かんのか」
「分かるように診続けます」
バンはセリアを見る。
逃げる様子はない。
不可能だとも言わない。
自分にできることを最後までやり、そのうえでバンの力が必要になれば呼ぶつもりなのだ。
「分かった」
意外なほど素直に、バンは引いた。
「今はやらねぇ」
「今は、ですね」
「ああ」
「勝手に使わないでください」
「努力する」
「約束してください」
「それは無理」
「バンさん」
バンはクレシューズを杖に立ち上がった。
「腹減った。飯探してくる」
「逃げましたね」
「腹減ってんのは本当だぞ」
「戻ってきたら寝台へ縛ります」
「それは趣味悪ぃな」
「治療です!」
アルフィアが毛布の中から呟く。
「実際に縛っておけ。こいつは目を離すと死にかける」
「お前もだろ」
「私は死なない」
「根拠ねぇな」
「お前よりはある」
バンは鼻で笑い、救護所を出た。
アルフィアは閉じた瞼を、僅かに動かした。
「……右腕が動いていないな」
独り言のような声だった。
セリアが答える。
「ええ。それでも自分より他人を先に見ています」
「愚かだ」
「心配ですか」
「耳障りなだけだ」
「そういうことにしておきます」
「黙れ」
◇
救護所の外では、死傷者の確認が進められていた。
パァルとリシェルが、灰に汚れた名簿を挟んで向かい合っている。
白髪の若い支援者が、各隊から集めた報告を読み上げる。
「ゼウス・ファミリア第三前衛隊、帰還十三。重傷四。二名未帰還」
パァルが名簿へ印をつける。
「最後に確認された場所は」
「北側の盾列です。灰に埋もれた可能性があります」
「捜索班へ位置を伝えろ。ただし赤杭の内側には入れるな」
「はい」
次の報告。
「ヘラ・ファミリア第六魔導隊、帰還十一。重傷三。死者一」
リシェルの筆が一瞬だけ止まる。
だが、すぐに動き出した。
「名前は」
名前が告げられる。
紙へ記される。
線を引かれ、数へ変えられるのではない。
一人ずつ。
確かにそこにいた者として残されていく。
最初の集計だけで、死者は二十名を越えていた。
行方不明者は、まだ確定していない。
重傷者は六十名以上。
軽傷まで含めれば、無傷の者を数える方が早かった。
それでも、数百人規模の遠征軍は壊滅しなかった。
ベヒーモスを討ち。
ハルファを守り。
多くの者が帰ってきた。
勝利だった。
だが、その言葉だけでは足りなかった。
バンは少し離れた場所で、名簿を見ていた。
声をかけず。
軽口も叩かず。
名前が読み上げられるたび、静かに耳を傾ける。
「バンさん」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、三人の団員が立っていた。
一人目は、ゼウス・ファミリアの盾使い。
左腕を木の板で固定し、首から吊っている。
二人目は、ヘラ・ファミリアの女性魔導士。
両耳へ厚い布が巻かれていた。
ベヒーモスの咆哮を受け、一時的に聴力を失っている。
三人目は、まだ若い槍使い。
脇腹をきつく縛り、杖をついていた。
全員、見覚えがある。
ベヒーモスの前脚が横薙ぎに迫った時。
クレシューズを伸ばし、軌道の外へ引き抜いた三人だった。
「何だ。揃って散歩か?」
盾使いが頭を下げる。
「あの時は、助けていただきました」
「どの時だ」
「ベヒーモスの脚が来た時です」
「覚えてねぇな」
嘘だった。
バンは三人を見れば、クレシューズをどの角度から伸ばし、どこへ絡めたかまで思い出せる。
魔導士が小さな板を取り出した。
文字が書かれている。
『気づいた時には、空を飛んでいました』
バンは読み、少し笑った。
「飛ぶの、初めてだったか?」
魔導士には聞こえていない。
代わりに盾使いが伝える。
彼女は頷いた後、板へ新しい文字を書いた。
『着地は最悪でした』
「生きてんだから、文句言うな」
若い槍使いが言う。
「俺は、あのままだったら間違いなく潰されていました」
「俺の近くで潰れられると、後味悪ぃからな」
「それでもです」
三人は、もう一度頭を下げた。
バンは困ったように頬を掻こうとして、右腕が動かないことに気づく。
代わりに左手で首筋を掻いた。
「礼なら、飯か酒にしろ」
「用意します」
盾使いが即答した。
「冗談だぞ」
「では、両方用意します」
「話聞けよ」
魔導士が板へ書く。
『酒は治療師に止められると思います』
「余計なことは聞こえてなくても分かんのか」
彼女は少し得意そうに頷いた。
三人が去ろうとする。
「おい」
バンが呼び止めた。
三人が振り返る。
「怪我してんだから、働きすぎんなよ」
盾使いは固定された腕を見る。
「あなたにだけは言われたくありません」
「そうか?」
三人の返事が重なった。
「はい」
魔導士だけは聞こえなかったが、口の形を読んで同時に頷いていた。
◇
灰の雨が弱くなった頃。
数人の団員が、巨大な灰の丘の前で足を止めていた。
丘の中心から、一振りの大剣が突き出している。
ザルドの剣だった。
刀身の大半は灰へ埋もれている。
見えている部分も黒く焼け、無数の亀裂が走っていた。
《レーア・アムブロシア》を放ち、ベヒーモスを両断した大剣。
陸の王者が崩壊した際も、その場所から動かなかった。
「回収しますか」
団員の一人がマキシムへ尋ねる。
マキシムは大剣を見る。
「今は触るな。周辺の灰は濃い」
「しかし、ザルドの剣です」
「だからこそ、本人へ聞く」
剣の周囲には、折れた角の先端や、灰になり切らなかった外殻が僅かに覗いている。
その下には、さらに多くの骨や素材が埋もれているはずだった。
だが、今は掘り返す時ではない。
人命が先だ。
遺された物を数えるより、帰ってきた者と、帰らなかった者を確かめる方が先だった。
◇
夕方。
ハルファの広場へ、大鍋が運び込まれた。
中身は薄い豆の汁だった。
肉はほとんど入っていない。
香草も少ない。
塩も節約されている。
豪華とは程遠い。
それでも、冷え切った身体へ入れるには十分だった。
「勝ったんだろ」
広場の隅で、一人の団員が呟く。
頭には包帯。
声にも力がない。
「酒は出ないのか」
ナジュが鍋をかき混ぜながら答える。
「まだ名前を数えている途中だよ」
団員は黙った。
責めたわけではない。
ナジュの声も厳しくはなかった。
ただ、今はその時ではない。
酒樽を開け。
歌い。
勝利を叫ぶのは。
帰らなかった者たちを確かめてからだ。
「樽は逃げねぇよ」
バンが近くの椅子へ座っていた。
セリアに見つかり、救護所へ戻される直前である。
「まず腹に入れろ。空っぽで酒飲むと、後でひでぇぞ」
「経験者ですか」
ナジュが尋ねる。
「何度もな」
「説得力があるのかないのか分からないね」
団員たちへ、木の椀が配られていく。
先ほどの三人も手伝っていた。
盾使いは片手で椀を持ち。
魔導士は聞こえないまま、周囲の動きを見て汁を注ぐ。
若い槍使いは杖を壁へ立てかけ、ゆっくりと鍋を運んでいた。
「働きすぎんなって言っただろ」
バンが言う。
「聞こえません」
魔導士が板へ書く。
「絶対聞こえてるだろ、お前」
盾使いが、バンへ椀を差し出した。
「お礼です」
「薄そうだな」
「贅沢を言わないでください」
「肉は?」
「ありません」
「酒は?」
「治療師に没収されました」
「役に立たねぇな」
三人が笑う。
広場のあちこちでも、少しずつ会話が戻り始めていた。
大声で笑う者はいない。
乾杯もない。
ただ、隣に座った者と同じ汁を飲む。
生きて戻ったことを、言葉にせず確かめている。
アルフィアも、女帝に抱えられるようにして広場へ連れてこられた。
「歩けると言ったはずです」
「転んだでしょう」
「地面が悪い」
「平らだったわ」
「灰で滑った」
少し前に聞いたような言い訳だった。
バンが椀を持ったまま笑う。
「気が合うな、俺たち」
「不愉快だ」
女帝はアルフィアを椅子へ座らせる。
その前にも温かい汁が置かれた。
「ザルドの分は?」
バンが尋ねる。
ナジュは一つの椀へ蓋をする。
「取ってあるよ」
「冷めるぞ」
「目を覚ましたら、温め直す」
「そうか」
バンは自分の椀を見る。
豆。
薄い塩味。
肉はない。
酒もない。
普段なら文句を言う味だった。
それでも、一口飲む。
「うまいな」
ナジュが目を丸くする。
「本当に?」
「ああ」
広場の端には、帰らなかった者たちの武器と装備が並べられていた。
まだ全員分ではない。
灰の中から戻っていない者もいる。
椀が一つずつ置かれる。
湯気だけが、静かに夜空へ昇っていく。
宴ではない。
弔いにも、まだ早い。
これは、生き残った者が倒れないための食事だった。
バンは薄い汁を飲みながら、灰に覆われた砂漠を見る。
夕日の中。
巨大な灰の丘から、ザルドの大剣の柄だけが突き出している。
まるで、陸の王者を倒した場所を示す墓標のようだった。
巨獣は死んだ。
だが、戦いが奪ったものは残っている。
黒い砂漠を覆う灰も。
地面へ染み込んだ毒も。
眠ったままのザルドも。
病を悪化させたアルフィアも。
並べられた空の椀も。
すべてを置き去りにして、すぐ笑うことなどできなかった。
「酒は、まだ先だな」
バンが呟く。
アルフィアが隣から答える。
「珍しく正しい判断だ」
「お前に褒められると気持ち悪ぃな」
「褒めていない」
二人は同時に椀へ口をつける。
灰の海の向こうへ、日が沈んだ。
黒い砂漠に訪れた最初の夜は、歓声ではなく。
帰らなかった者の名を呼ぶ、静かな声と共に始まった。
第26話でした。
今回はベヒーモス討伐後、灰に覆われた黒い砂漠と、治療・死傷者確認を優先する遠征軍を描きました。
また、第24話でバンがクレシューズによって助けた三人も、生き残った者として救護や食事の配布へ加わっています。