今回は、バンがこの世界の「神」「ファミリア」「恩恵」「魔石」「オラリオ」について知っていく回です。
説明回ですが、バンらしく、飯と酒と金になるかどうかを基準に受け止めます。
朝の村は、肉の匂いで目を覚ました。
昨日の大イノシシは、夜のうちに大半が腹へ収まった。
だが、あれだけの巨体だ。食い切れなかった肉は塩をすり込まれ、干し肉にするために細く切られ、軒先へ吊るされている。骨は大鍋に沈められ、朝から白く濁った出汁を吐き出していた。
バンは酒場兼集会所の壁にもたれ、浅く眠っていた。
床に敷かれた藁。薄い毛布。近くのかまどから届く熱。
寝床としては悪くない。煉獄に比べれば、王族の寝室みたいなものだ。
鍋の匂いで目を開ける。
「……いい匂いしてんな」
寝起きの第一声がそれだった。
集会所の奥では、村の女たちが鍋をかき混ぜている。昨日のイノシシの骨と、残った野菜と豆を煮込んだ汁物だ。表面には薄く脂が浮き、朝の光を受けてきらりと光っていた。
女の一人が振り向く。
「起きたかい、赤コートの兄ちゃん。朝飯、食べるだろ?」
「食う」
「返事が早いね」
「飯の誘いは断らねぇ」
バンは立ち上がり、肩を回した。
外へ出ると、村の空気は昨日より少し明るかった。
壊れた柵はまだ直っていない。踏み荒らされた畑も残っている。だが、村人たちの顔には、怯えよりも忙しさがあった。
吊るされた肉を見て、子どもたちがはしゃいでいる。
若者たちは柵の修理に取りかかり、老人たちは骨を割って鍋に足していた。
昨日まで脅威だった獣が、今日は村の食料になっている。
バンはその光景を見て、少しだけ口の端を上げた。
「悪くねぇ朝だ」
井戸で顔を洗い、集会所へ戻る。
出された朝飯は、黒パン、薄く切ったイノシシ肉、そして骨出汁のスープだった。
バンはスープを一口飲んだ。
「昨日よりいいな」
村長が隣に座る。
「お前が塩を使いすぎたせいでな」
「うまくなったろ」
「否定はせん」
村長は苦笑した。
スープは素朴だった。
だが、骨の旨味がしっかり出ている。豆のとろみもある。肉の脂が、硬い黒パンによく合った。
バンが黙々と食っていると、外から車輪の音が聞こえた。
木の車輪が土を噛む音。
馬の鼻息。
鈴の軽い音。
村の入口に、一台の荷馬車が止まった。
「行商人か」
村長が立ち上がる。
バンもパンを口にくわえたまま外を見た。
荷馬車から降りてきたのは、背の低い中年男だった。丸い帽子をかぶり、腹は少し出ている。腰には小さな帳簿と革袋。商人らしく、目だけはよく動いていた。
「おお、ずいぶん肉の匂いがするじゃないか。何か祭りでも?」
「昨日、大イノシシが出た」
「ほう。それで?」
行商人の視線が、干されている肉へ向かう。
村長が顎でバンを示した。
「あいつが狩った」
行商人の目がバンへ移る。
エンジ色のロングコート。赤いレザーパンツ。武器なし。
村の中で朝飯を食っている、どう見ても普通ではない男。
「……冒険者さんで?」
「旅人だ」
バンはパンを飲み込み、答えた。
「冒険者じゃない?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「その冒険者ってのが何か、まだよく分かってねぇ」
行商人は目を丸くした。
そして、すぐに商人らしい笑みを浮かべる。
「なるほど。遠方から来た方ですかな」
「かなり遠くだな」
「では、私でよければ説明しましょう。情報も商品ですから、代金はいただきたいところですが……」
行商人は鼻をひくつかせ、鍋の方を見た。
「そのスープ一杯で手を打ちましょう」
「安い情報だな」
「温かい飯は、旅商人にとって高級品です」
「分かってんじゃねぇか」
バンは笑い、集会所へ戻った。
行商人は名をラドといった。
ラドはスープを受け取り、一口飲んだ瞬間、頬を緩めた。
「これはいい。昨日の肉ですかな」
「ああ。赤コートの兄ちゃんが捌いてくれた」
「ほうほう。戦えて、捌けて、料理もできる。ますます冒険者では?」
「だから違うって言ってんだろ」
バンは濁り酒の残りを探したが、朝から出す気はないらしい。仕方なくスープを飲む。
ラドは帳簿を閉じ、話し始めた。
「まず、この世界では神々が下界を歩いています」
「昨日も聞いたな。本当に歩いてんのか」
「歩いています。飲みますし、食べますし、騒ぎますし、借金もします」
「神様ってのは暇なんだな」
「その通り。神々は天界で退屈し、娯楽を求めて下界へ降りました。そして、人に恩恵を与え、ファミリアを作った」
「恩恵ってのが、背中に字を書くやつか」
「ええ。神の血を垂らし、背中に神聖文字を刻む。すると、その者の力が数値として現れます。力、耐久、器用、敏捷、魔力。さらにスキルや魔法の才が開くこともある」
「面倒くせぇ」
バンは即答した。
ラドは苦笑する。
「便利でもありますよ。自分がどれだけ成長したか分かりますから」
「殴って効けば強くなってる。効かなきゃ足りねぇ。それでいいだろ」
「なんとも野蛮な測り方ですな」
「分かりやすいだろ」
ラドはスープをもう一口飲み、肩をすくめた。
「ファミリアに入れば、神の庇護を受けられます。仕事も得やすい。オラリオでは、ファミリア所属であることが身分証のようなものです」
「身分証ねぇ」
「冒険者になるには、基本的にファミリア所属が必要です。迷宮都市オラリオのダンジョンへ潜り、魔物を倒し、魔石を持ち帰る。それが冒険者の仕事」
「魔物を倒して、石を拾って、金にする」
「そうです」
「肉は?」
「普通は残りません」
「使えねぇな」
バンが顔をしかめると、ラドは笑った。
「まれに肉や内臓がドロップアイテムとして残るものもいます。ですが珍しい。基本は魔石です」
「昨日、三つくらい捨てた」
ラドの手が止まった。
「捨てた?」
「食えなかったからな」
「……どのくらいの大きさで?」
「これくらいだ」
バンが指で示す。
ラドは真顔になった。
「それ、三つでこの村の濁り酒なら樽で買えましたよ」
バンの表情が変わった。
「マジか」
「マジです」
「先に言えよ」
「知りませんよ、そんな人がいるなんて」
村長が横で笑いをこらえている。
若者たちも、昨日の話を思い出して肩を震わせた。
バンは少しだけ悔しそうに腕を組む。
「石が酒になるなら拾ったのによ」
「普通は酒どころか、パンにも塩にもなります」
「なら次から拾う」
バンはきっぱり言った。
この世界に来て初めて、魔石の価値がバンの中で上がった。
理由は金になるからではない。酒になるからである。
ラドは妙な納得をした顔で頷いた。
「あなたは本当に変わっていますな」
「よく言われる」
「神の恩恵を受ける気は?」
「ねぇな」
あまりにも早い返事だった。
ラドは目を瞬かせる。
「理由を聞いても?」
「背中に神様の字を書かれんのが面倒くせぇ。それに、誰かの下につくつもりもねぇ」
「ファミリアは下につくというより、家族のようなものですが」
「家族なら、もういる」
バンの声が、ほんの少しだけ低くなった。
ラドはそれ以上、軽く踏み込まなかった。
商人は、人の表情を見る。ここから先は商品にならない話だと分かった。
バンはスープを飲み干し、器を置く。
「強くなるのに神様が必要ってのも、よく分かんねぇしな」
「神の恩恵は、この世界では最も確かな成長の道です」
「そうか」
「興味がないと?」
「便利なんだろうが、俺にはいらねぇ」
バンは当たり前のように言った。
村長も、ラドも、周りにいた村人たちも少し黙った。
この世界で、神の恩恵をいらないと言い切る者は珍しい。
与えられない者はいる。望んでもファミリアに入れない者もいる。だが、力を得る機会を前にして、それを面倒だと言う者はあまりいない。
それは無知なのか。
傲慢なのか。
あるいは、そもそも必要としないほど別の場所を歩いてきたのか。
ラドはバンの腕を見た。
大イノシシを素手で止めたという話が、嘘ではないことを思い出す。
「あなたのような人は、オラリオでも目立つでしょうな」
「酒はうまいのか?」
「店によります」
「飯は?」
「店によります」
「なら行く価値はあるな」
判断基準があまりにも単純だった。
だが、バンにとっては十分だった。
ラドは荷馬車から地図を取り出した。
羊皮紙に描かれた簡素な地図だ。村の位置、街道、川、森、いくつかの町。そして遠くに大きく記された都市。
「ここがオラリオです。迷宮都市。世界の中心と言ってもいい」
「遠いな」
「歩きなら、それなりに。街道を通れば、途中にいくつか町があります。水辺の町リーヴァを経由するといいでしょう。魚がうまい」
バンの目が少し細くなる。
「魚」
「ええ。リーヴァ大鱒という名物があります。黒だれで焼くと絶品です」
「詳しく」
ラドは笑った。
「食いつくところが分かりやすすぎますな」
「うまい飯の話は大事だろ」
「もちろん。リーヴァは川沿いの町でしてね。濁り酒も悪くない。魚を蒸しても焼いてもいい。黒だれは少し癖がありますが、旅人には人気です」
「次はそこだな」
バンは即決した。
オラリオへ行く。
その前に、魚のうまい町へ寄る。
当然の流れだった。
ラドはさらに話を続ける。
「オラリオには強大なファミリアがいくつもあります。今の頂点はゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアでしょう」
「強いのか?」
「この時代で最強です。ゼウス側にはオラリオ最強の男マキシム、暴食のザルド。ヘラ側には女帝、アルフィアなど。雲の上の存在です」
「へぇ」
バンは少しだけ興味を示した。
強いやつ。
それは嫌いではない。
だが、今のところ優先順位は魚と酒の方が上だった。
「そいつらはうまい飯屋を知ってんのか?」
「知っているかもしれませんが、会えるかどうかは別問題です」
「なら会った時に聞きゃいい」
「会う前提なのが怖いですな」
ラドはため息まじりに笑った。
その時、村の入口で別の村人が声を上げた。
「ラドさん、あれも見せてくれよ。妙な棒の話!」
バンの耳が動いた。
「妙な棒?」
ラドは「ああ」と思い出したように手を打った。
「そうでした。少し変わった品の話がありまして」
「どんな」
「リーヴァからさらに南東、砂漠へ向かう交易路の途中にリオードというオアシス都市があります。そこで、古道具屋が妙な武器を仕入れたという噂を聞きました」
バンの目が少し鋭くなる。
「武器?」
「ええ。四つに折れた棒のようなものだとか。槍でも棍でもない。持ち主も分からない。古道具屋の主人は珍品として売りたがっているそうです」
空気が、わずかに変わった。
村長がバンを見る。
昨日、バンが言っていた武器。四つに分かれる棒のようなもの。
バンは黙っていた。
それから、口元を上げる。
「見つけた」
「心当たりが?」
「俺のだ」
即答だった。
ラドは目を丸くする。
「あなたの?」
「ああ。聖棍クレシューズ。俺の相棒だ」
「聖棍……」
「どこだ、そのリオードってのは」
「リーヴァを越え、砂漠へ向かう交易路です。少し遠いですが、街道を辿れば行けます。ただし砂漠へ近づくほど魔物も盗賊も増える」
「ならちょうどいい」
「何がです?」
「石を拾えば酒代になるんだろ」
ラドは一瞬黙り、それから笑った。
「あなたは本当に、判断基準が酒ですな」
「飯もだ」
「そこは譲らないのですね」
バンは立ち上がった。
村の朝は、すっかり明るくなっていた。
柵を直す音。干し肉を吊るす声。鍋を洗う水の音。子どもたちの笑い声。
昨日、大イノシシに怯えていた村は、今は生きるために動いている。
バンはその中を歩き、村長のところへ向かった。
「世話になったな」
「もう行くのか」
「ああ。魚のうまい町と、俺の武器を売ってる古道具屋に用ができた」
「忙しい旅人だ」
「腹は待ってくれねぇからな」
村長は小さな革袋を差し出した。
「これは?」
「昨日の礼だ。魔石ほどじゃないが、少しの硬貨と干し肉を入れてある」
「いいのか?」
「大イノシシを狩って、料理までしてくれた。村からすれば安すぎる礼だ」
バンは革袋を受け取り、中を覗いた。
硬貨が数枚。干し肉が包まれている。
「酒、買えるか?」
「少しならな」
「なら十分だ」
村長は笑った。
若者たちも集まってきた。
昨日助けられた若者が、少し照れたように言う。
「また来ることがあったら、寄ってくれ」
「酒がうまくなってたらな」
「……頑張るよ」
女たちが黒パンを包んで渡してくれた。
子どもたちは、赤い服の旅人を見上げて手を振っている。
バンは片手を上げた。
「じゃあな」
そして、街道へ向かって歩き出した。
荷馬車の準備をしていたラドが、横へ並ぶ。
「途中までなら乗せますよ。リーヴァ方面へ行きますので」
「飯は?」
「干し肉とパンなら」
「酒は?」
「少しなら」
「乗る」
「即決ですな」
バンは荷馬車の後ろへ乗り込んだ。
木箱の上に腰を下ろし、村からもらった干し肉をかじる。
荷馬車がゆっくり動き出した。
村が少しずつ遠ざかる。
煙が細く空へ昇っている。
この世界には神様が歩いている。
人は背中に恩恵を刻み、強くなる。
魔物を倒せば石が残り、その石は酒代になる。
魚のうまい町があり、どこかの古道具屋にはクレシューズがあるかもしれない。
変な世界だ。
だが、悪くはない。
バンは干し肉を飲み込み、空を見上げた。
「神様が歩く世界ねぇ」
風がロングコートを揺らす。
荷馬車の車輪が、乾いた街道を軋ませる。
ラドが前から声をかけた。
「バンさん。オラリオへ行けば、あなたもどこかのファミリアに誘われるかもしれませんよ」
「断る」
「まだ何も言ってませんが」
「面倒くせぇ」
「神々を前にしても、そう言えるといいですな」
バンは笑った。
「神様だろうが何だろうが、飯が冷めるなら邪魔だろ」
ラドはしばらく黙り、やがて肩を震わせた。
「あなた、長生きできるか、ものすごく早く死ぬかのどちらかですな」
「死ぬ気はねぇよ。まだ食ってねぇもんが多すぎる」
荷馬車は街道を進む。
目指すは、水辺の町リーヴァ。
黒だれの魚と、濁り酒の町。
そしてその先には、迷子の相棒へ続く道がある。
バンは口の端を上げ、荷台に寝転がった。
「悪くねぇな」
神の恩恵もなく。
ステイタスもなく。
ファミリアにも属さず。
赤い旅人は、ただ酒と飯と相棒を求めて、神様が歩く世界を進んでいく。
第3話は、この世界の基本情報をバンが知る回でした。
神、ファミリア、恩恵、魔石、オラリオ、そしてクレシューズの噂。
次回は、水辺の町リーヴァで川魚と濁り酒、そして新たな魔物との遭遇になります。