ここから改めて、赤い旅人の物語を始めます。
第1話 腹が減った
世界が、割れた。
耳を裂くような音はなかった。
雷鳴も、爆発も、叫びも、遠ざかっていくように聞こえた。
ただ、空間そのものが歪み、ねじれ、噛み砕かれるような感覚だけがあった。
黒とも白ともつかない裂け目。
そこから吹き出す、混沌の気配。
まともな生き物なら、触れただけで心が潰れそうな異常な圧。
その中で、男は笑っていた。
「ったく、面倒くせぇな」
赤いロングコートが裂け目の風に大きく揺れる。
胸元が大きく開いた高襟の長衣。
スタッズ付きの赤いレザーパンツ。
太い茶革のベルト。
銀のバックル。
荒々しく、軽薄で、それでいてどこか余裕のある男。
バン。
かつて〈七つの大罪〉の一人として名を馳せ、強欲の罪を背負った男である。
だが今の彼は、かつてのような不死身ではない。
いくら肉体を裂かれても、首を落とされても、心臓を貫かれても、何度でも立ち上がるような存在ではなくなっている。
不死性は、もうない。
それでも、煉獄を越えた肉体はある。
積み重ねた戦闘経験はある。
奪うための魔力もある。
そして何より、まだ死んでいない。
だから立つ。
そんな男の前で、世界の裂け目はさらに大きく口を開いた。
キャスとの戦いの最中だった。
混沌の力が暴れ、空間の境目が砕け、踏み込んだはずの場所が一瞬で消えた。
仲間の声が聞こえた気がした。
だが、次の瞬間にはもう、すべてが遠かった。
「おいおい」
バンは裂け目の中で、片目を細める。
「また変なとこに飛ばされんのかよ」
身体が落ちる。
上も下もない場所を、重力だけが勝手に作ったように引きずり落としていく。
伸ばした手の先に、いつもの感覚を探す。
奪う。
引き寄せる。
掴む。
世界の裂け目に残る力の流れを、ほんの少しでも盗って、身体を外へ逃がす。
バンはそうしようとした。
だが、指先に触れた感覚は、ひどく遠かった。
「……あ?」
いつもなら、もっと深く届く。
相手の力も、武器も、肉体の流れも、目に見えない何かでさえ、指を伸ばすように盗れた。
だが今は違う。
薄い布越しに触れているような、妙な鈍さがあった。
掴んだと思った流れが、指の間をすり抜ける。
奪ったと思った力が、半分ほどこぼれる。
「盗りづれぇな……!」
――掴めない。
それでも、バンは笑った。
全部が盗れないなら、端だけ盗る。
大きすぎるなら、欠片だけでいい。
裂け目の流れの、ほんの一部。
自分を飲み込もうとする力の端を、バンは強引に引っかけた。
「強奪《スナッチ》」
声は、裂け目の中へ溶けた。
次の瞬間、バンの身体が弾かれるように外へ放り出された。
視界が白くなる。
風が顔を叩く。
潮ではない。
血でもない。
草と土の匂いだった。
バンは空中で身体をひねり、地面に落ちる直前に足を出した。
だが、完全には受けきれない。
転移の勢いが強すぎた。
足裏が草を削り、身体が前へ滑る。
肩から地面に転がり、赤いロングコートの裾が土を巻き上げた。
「ぐっ……!」
派手に転がって、ようやく止まる。
数秒、草むらの中で動かなかった。
そして、ゆっくりと仰向けになる。
空があった。
青い空。
雲が流れている。
さっきまで混沌の裂け目の中にいたとは思えないほど、馬鹿みたいに穏やかな空だった。
バンはしばらくそれを見上げていた。
それから、息を吐く。
「……生きてんな」
指を動かす。
腕を動かす。
肩、肋骨、脚。
痛みはある。
だが、折れてはいない。
不死身ではない身体で、まともに空間の裂け目へ飲み込まれたにしては、十分すぎる。
バンは上体を起こした。
草原だった。
遠くには低い森。
さらに向こうには、うっすらと山影。
見覚えはない。
リオネスでもない。
妖精王の森でもない。
ベンウィックでもない。
空気の匂いも違う。
魔力の流れが、ひどく薄い場所と濃い場所に分かれている。
地面の奥に、何か巨大なものが眠っているような気配もある。
「……どこだ、ここ」
バンは立ち上がり、肩についた草を払った。
聖棍クレシューズを探そうとして、そこで手が止まる。
ない。
いつもなら近くにあるはずの相棒の気配が、どこにもなかった。
「マジかよ」
バンは頭をかいた。
「武器まで迷子か」
ため息をつき、周囲を見る。
草。
土。
森。
小さな虫。
遠くの鳥。
そして、腹の音。
ぐう、と鳴った。
バンは自分の腹を見下ろす。
「……腹減ったな」
世界が変わろうが、武器がなくなろうが、混沌の裂け目に飲まれようが、腹は減る。
不思議なもので、それだけはどこへ行っても変わらない。
バンは鼻を鳴らした。
風に混じって、獣の匂いがする。
普通の獣ではない。
少しだけ、魔力のようなものを帯びている。
普通の獣ではない。
だが、バンの知る魔物ともどこか違っていた。
もっと土と草に馴染んだ、獣臭い気配だった。
バンは口元を上げた。
「飯が向こうから来たか」
草むらが揺れた。
低い唸り声。
現れたのは、狼に似た獣だった。
ただし、普通の狼より一回り大きい。
背には硬い毛が針のように逆立ち、口元からは鋭い牙が覗いている。
目は濁った黄色で、腹を空かせた獣特有の殺気をまとっていた。
一匹。
いや、三匹。
草むらの奥にも気配がある。
バンは軽く首を鳴らした。
「悪いな。俺も腹減ってんだ」
一匹目が跳んだ。
速い。
普通の人間なら、反応する前に喉笛を噛み裂かれるだろう。
だが、バンは動かなかった。
獣の牙が首へ届く直前、右手がすっと上がる。
バンの指先が、獣の前脚の動きに触れた。
正確には、肉体に触れたわけではない。
前へ跳ぶ勢い。
筋肉に乗った力。
踏み込みから牙へ続く流れ。
その端を、盗った。
「……お」
獣の身体が空中でわずかに沈む。
勢いが半分だけ抜けた。
噛みつきの軌道がずれる。
バンは体を横へ流し、獣の首筋へ肘を叩き込んだ。
鈍い音。
獣が地面に叩きつけられる。
だが、バンの顔は少しだけ険しかった。
「やっぱ変だな」
奪えた。
だが、浅い。
いつもなら、もっと自然に盗れた。
相手の力を根こそぎ引き抜くほどではないにせよ、こんな小型の獣なら、もっと雑に奪っても崩せたはずだ。
今は違う。
指先にかかったのは、力の表面だけ。
この世界の生き物の流れが、妙に掴みにくい。
「こっちの世界、盗りづれぇ」
二匹目が横から飛びかかる。
バンは軽くしゃがみ、その腹へ拳を入れた。
獣の身体がくの字に折れる。
そのまま首を掴み、地面へ叩きつける。
三匹目は背後から来た。
バンは振り向かず、足元の石を蹴り上げる。
石は獣の眉間へ直撃し、わずかに動きが止まった。
その隙に、バンは踏み込む。
拳ではなく、手刀。
喉元へ正確に入れる。
獣は声も出せずに倒れた。
草原が静かになる。
バンは三匹の獣を見下ろした。
血も、肉も、毛皮も残っている。
普通の獣とは違う力を感じるが、何が違うのかまでは分からない。
バンはしゃがみ込み、一匹の腹へ手を当てた。
「魔物……ってより、妙な力を持った獣ってところか?」
詳しいことは分からない。
ただ一つ分かるのは、食える部分がありそうだということだった。
「ま、飯になるなら何でもいいか」
バンは周囲を見回し、使えそうな石と枝を集める。
ナイフ代わりになる鋭い石を拾い、獣の皮を裂く。
血抜き。
内臓の確認。
臭みの強い部分を避ける。
手つきは慣れていた。
盗賊として生きた年月。
旅をした年月。
酒場をやっていた時間。
煉獄で何でも食わなければならなかった日々。
料理は、バンにとってただの趣味ではない。
生きるための技術であり、誰かと同じ卓につくための手段でもある。
近くに小さな沢があった。
バンは肉を洗い、枝に刺す。
火種は、手持ちの道具がないので少し面倒だった。
乾いた草。
枯れ枝。
石。
火花。
何度か試して、ようやく小さな火がつく。
「クレシューズがねぇと不便だな」
ぼやきながら、肉を火にかける。
脂が落ち、火が跳ねた。
じゅう、と音がする。
肉の匂いが草原に広がる。
バンは少しだけ目を細めた。
臭みはある。
野性味も強い。
だが、悪くない。
塩も香草もないのが痛いが、空腹には勝てない。
焼けた肉を一本取り、かじる。
硬い。
筋が強い。
噛み切るには少し力がいる。
だが、噛むほどに脂が出た。
「……まあ、食えるな」
バンは二口目を食べる。
「酒がありゃ、もうちょいマシなんだけどな」
空を見上げる。
見知らぬ世界。
見知らぬ草原。
武器はない。
仲間もいない。
酒もない。
魔力《強奪》の感覚も、妙に遠い。
だが、肉はある。
火もある。
腹は少しずつ満たされていく。
それなら、まだどうにでもなる。
バンは肉を食べながら、倒した獣の骨や皮を見た。
使えそうな部分はある。
牙も、皮も、売れる場所があれば何かと交換できるかもしれない。
この世界に町があるなら、酒もあるだろう。
酒があるなら、飯もある。
飯があるなら、人がいる。
人がいるなら、聞けばいい。
ここがどこなのか。
どういう世界なのか。
なぜ魔力の流れがこんなにも違うのか。
そして、迷子になったクレシューズがどこへ行ったのか。
バンは最後の肉をかじり、口元を拭った。
「まずは町だな」
立ち上がる。
その時、遠くで小さな音がした。
金属がぶつかるような音。
それから、人の声。
悲鳴に近い。
バンは耳を澄ませた。
風に乗って、声が届く。
「誰か……!」
助けを求める声だった。
バンは少しだけ面倒そうに頭をかいた。
「食ったばっかなんだけどな」
そう言いながら、足はもう動いていた。
声のする方へ向かう。
走りながら、右手を軽く握る。
まだ《強奪》の感覚は遠い。
この世界の理に、身体が馴染んでいない。
だが、全く使えないわけではない。
勢いの端なら盗れた。
獣の動きもずらせた。
なら、人を助けるくらいはできるだろう。
草を踏み、風を切る。
赤いロングコートが翻る。
「泣き声聞きながら飯食うのは、まずいからな」
見知らぬ世界で、赤い旅人は走り出した。
腹は満ちた。
酒はまだない。
だが、最初にやることは決まった。
腹を満たしたなら、次は気に入らないものをどかす。
それが、バンという男だった。
第1話でした。
修正版では、バンが不死身ではないこと、転移直後に《強奪(スナッチ)》の感覚へ違和感を覚えていること、そして地上の魔物は肉体が残るものとして扱うことを整理しました。
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