夜半を過ぎても、ザルドの熱は下がらなかった。
救護所の外では、冷たい風が灰を運んでいる。
天幕を打つ細かな音。
火へくべられた薪が爆ぜる音。
遠くから聞こえる、帰らなかった者を捜す団員たちの声。
そのすべてから切り離されたように、ザルドは浅い呼吸を繰り返していた。
大きな身体に浮かぶ黒い筋は、討伐直後よりも濃くなっている。
胸から首へ。
首から頬へ。
まるで、ベヒーモスの毒が身体の内側へ根を張っているようだった。
「脈が落ちています」
セリアがザルドの手首へ指を当てたまま言う。
周囲では、三人の治療師が器具を準備していた。
湯。
清潔な布。
薬草。
解毒薬。
魔法薬。
すでに試せるものは、ほとんど試している。
どれも毒の進行を僅かに遅らせるだけだった。
「血を抜くのは」
パァルが尋ねる。
「何度か行いました。ですが、新しい血にもすぐ毒が混ざります」
「原因は胃か」
「いいえ」
セリアは首を振る。
「もう一箇所に留まっていません。心臓、肺、肝臓……恐らく、全身です」
ザルドが喰らったのは、ただの毒肉ではない。
世界を脅かした巨獣の一部。
魔石と肉体を巡っていた、災害そのものだった。
神饌恩寵《デウス・アムブロシア》によって得た力も、毒も、すでにザルドの身体と混ざり合っている。
毒だけを切り離そうとすれば、力だけでなく、本人の生命まで削りかねない。
「治癒魔法は」
「傷には効きます。毒には届きません」
「何でも治すと言っていなかったか」
天幕の隅から声がした。
バンが椅子へ座っている。
右腕はまだ布で吊られていた。
左肩の包帯にも、薄く血が滲んでいる。
セリアは振り返らない。
「言っていません」
「治療師ってのは、もっと便利なもんだと思ってた」
「人の身体を何だと思っているのですか」
「壊れやすい入れ物」
「自分も含めてください」
「俺はちょっと頑丈だぞ」
「その頑丈な方が、昨日だけで何度倒れましたか」
「数えてねぇ」
「私は数えています」
バンは口を閉じた。
少し離れた寝台では、アルフィアが身体を横たえている。
眠っているように見えたが、二人の会話に眉を寄せていた。
「騒がしい」
「起きてたのか」
「眠れると思うのか」
アルフィアはゆっくり上体を起こす。
治療師が止めようとしたが、視線だけで黙らせた。
灰色の長髪が肩から落ちる。
顔色は昼よりさらに悪い。
唇にも血の色がない。
それでも、閉じた瞼はザルドの方を向いていた。
「あと、どれほど保つ」
セリアは答えなかった。
「聞こえなかったか」
「正確には分かりません」
「予測でいい」
「今夜を越えられるかどうかです」
天幕の空気が止まった。
パァルの手が強く握られる。
アルフィアは何も言わない。
バンだけが、椅子から立ち上がった。
「なら、やるぞ」
「まだです」
セリアが即座に答える。
「今夜越えられねぇんだろ」
「心臓はまだ動いています」
「止まってからじゃ遅い」
「あなたの生命力にも限りがあります」
「知ってる」
「分かっていません」
セリアは初めて振り返った。
疲れた顔。
赤く充血した目。
それでも、声は強い。
「《贈物》は治療ではありません。毒を消すことも、傷ついた内臓を元へ戻すこともできない。あなたの生命力で、無理やり身体を動かすだけです」
「だから何だ」
「今使えば、ザルドさんは一時的に持ち直すでしょう。ですが毒は残ります。そして、あなたの身体はさらに弱る」
「知ってるって言ったろ」
「では、次にまた悪化した時は?」
バンは答えない。
「その次は?さらに次は?」
「……」
「何度も命を渡せば、いずれあなたが死にます。それでも毒は消えません」
「なら、一回で戻ってこさせる」
「そんな都合のよい力ではありません!」
セリアの声が天幕を震わせた。
ザルドの呼吸が、一度大きく乱れる。
治療師たちが動いた。
胸へ手を当てる。
薬を用意する。
ザルドの身体が小さく痙攣した。
「脈が飛んだ!」
セリアが寝台へ戻る。
「呼吸を確保して!」
治療師がザルドの顎を上げる。
だが、胸が動かない。
一度。
二度。
長い空白。
ようやく、喉の奥から細い息が漏れる。
「遅れている……」
セリアの顔が強張る。
バンはすでにザルドの横へ立っていた。
「退け」
「まだ――」
「今だろ」
セリアは唇を噛む。
拒めば、ザルドが死ぬかもしれない。
許せば、バンまで危険に晒す。
治療師として、どちらも選びたくない。
「セリア」
パァルが静かに呼ぶ。
「判断しろ」
彼女は目を閉じた。
そして、一歩下がった。
「心臓を支えるだけです」
「ああ」
「毒を引き受けようとしないでください」
「できねぇよ、そんなの」
「生命力を渡しすぎない」
「努力する」
「バンさん」
「分かった」
バンは左手をザルドの胸へ置いた。
厚い筋肉。
その奥で、弱い鼓動が不規則に続いている。
目を閉じる。
自分の生命を感じる。
煉獄で鍛えられた身体。
今は不死ではない。
失った分は、すぐには戻らない。
それでも、人間一人のものとは思えないほどの生命力が残っている。
そこから、必要な分だけを渡す。
多すぎれば、ザルドの身体が耐えられない。
少なすぎれば、心臓へ届かない。
「《贈物》」
淡い光が、バンの左手から流れ込む。
傷が消えるわけではない。
黒い筋も消えない。
ただ、止まりかけた心臓へ、新しい力が注がれる。
どくん。
強い鼓動。
ザルドの胸が大きく持ち上がった。
次の瞬間。
「がっ……!」
ザルドが口から黒い血を吐いた。
アルフィアが立ち上がりかける。
だが、セリアは動じなかった。
「横を向かせて!」
治療師たちがザルドの身体を傾ける。
黒い血が器へ流れ込む。
血の中には、細かな灰のような粒が混じっていた。
「肺に溜まっていたものが出ています!」
呼吸が戻る。
一度。
二度。
まだ浅い。
それでも先ほどよりは、はっきりと胸が動いている。
バンは手を離さない。
「もう十分です」
セリアが言う。
「まだだ」
「十分です!」
「こいつ、起きてねぇぞ」
「目を覚まさせるための力ではありません!」
「飯食わせるまで起こす」
「やめてください!」
セリアがバンの左腕を掴む。
思っていたより簡単に、腕が離れた。
バンの身体がふらつく。
パァルが支えようと手を伸ばすが、間にアルフィアが入った。
細い腕で、倒れかけたバンの背を支える。
「馬鹿か、お前は」
「病人に言われたくねぇ」
「顔を見てから言え」
「見えてるよ」
「鏡を見ろという意味だ」
バンの顔から血の気が失われていた。
唇も白い。
額には冷たい汗が浮かんでいる。
アルフィア自身も立っているのが辛い。
それでも、バンを寝台まで押し戻した。
「横になれ」
「命令すんな」
「倒れるなら自分で倒れろ」
「同じだろ」
「黙れ」
バンが寝台へ腰を下ろした、その時。
「……騒がしいな」
低い声がした。
全員が振り返る。
ザルドの瞼が、僅かに開いていた。
視線はまだ定まっていない。
呼吸も苦しそうだ。
それでも、意識は戻っている。
「起きたか」
バンが笑う。
「お前が……起こしたのか」
「飯食うまで寝かせねぇ」
「横暴だな」
「お前に食わせたい奴がいるんだよ」
「誰だ」
「お前だ」
ザルドは少しだけ目を細める。
「料理を作るのは、俺ではなかったか」
「病人に厨房任せるほど困ってねぇよ」
「お前の料理だけでは、不安だ」
「喧嘩売ってんのか?」
「事実だ」
声は弱い。
だが、ザルドらしい返しだった。
パァルが顔を背ける。
笑ったのか、泣きそうになったのかは分からない。
セリアはザルドの胸へ耳を当て、鼓動を確認する。
「安定しています。今のところは」
「治ったか」
ザルドが尋ねる。
「いいえ」
セリアは正直に答えた。
「毒は残っています。内臓への損傷もあります。バンさんが生命力を分けたことで、心臓と呼吸を支えているだけです」
「そうか」
「もう一度同じ状態になれば、次も助けられるとは限りません」
「分かった」
ザルドは天幕の天井を見る。
「随分と高い代償になったな」
「後悔してんのか」
バンが尋ねる。
「していない」
即答だった。
「同じ場面へ戻っても喰う」
「次は止めるぞ」
「止められるのか」
「肉だけ先に盗む」
「結局渡すのではないか」
「半分だけな」
「足りん」
「欲張りだな」
「暴喰だからな」
ザルドは僅かに笑う。
その直後、激しく咳き込んだ。
セリアが身体を支える。
「話はそこまでです」
「まだ聞いてねぇ」
「何をですか」
バンはザルドを見る。
「酒だ」
「それが今必要ですか」
「必要だろ」
ザルドは目を閉じたまま答える。
「約束した」
「ああ」
「飲めんかもしれんぞ」
「薄めてやる」
「それは酒への侮辱だ」
「じゃあ、一口だけにしろ」
「お前が全部飲むつもりだな」
「ばれたか」
ザルドの呼吸が、少しだけ穏やかになる。
「その前に、料理だ」
「何作る」
「まだ決めていない」
「肉はやめとけ。しばらく見たくねぇだろ」
「食材に罪はない」
「その台詞、今言うか?」
「悪食を舐めるな」
バンは笑った。
アルフィアは二人を見下ろし、呆れたように息を吐く。
「どちらも救いようがないな」
「お前にも何か作ってやるぞ」
ザルドが言う。
「不要だ」
「甘いものにするか」
アルフィアの眉が僅かに動いた。
「……勝手にしろ」
「欲しいんじゃねぇか」
「黙れ、バン」
「俺だけ扱いひどくねぇ?」
ザルドが目を閉じたまま、もう一度笑った。
それはほんの僅かなものだった。
だが、天幕の中へ張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
◇
夜が明ける頃。
ザルドの容態は、ひとまず安定していた。
毒は消えていない。
熱も下がっていない。
黒い筋も残ったままだ。
それでも、心臓は動いている。
自分の力で呼吸している。
セリアは寝台の横へ座り、経過を記録していた。
「一時的な延命です」
彼女が呟く。
パァルが隣に立つ。
「それでも、時間を得た」
「時間だけです」
「時間がなければ、何もできん」
セリアは返事をしなかった。
少し離れた寝台では、バンが眠っている。
右腕を吊ったまま。
左手だけをザルドの方へ向けて。
逃げる者を掴もうとするように、僅かに指が曲がっていた。
その横へ、アルフィアが座っている。
自分も休めと言われたが、戻らなかった。
「眠っているのか」
パァルが尋ねる。
「気を失っているだけだ」
「起こすか」
「必要ない」
アルフィアはバンの顔を見る。
戦場で巨獣へ向けていた時とは違う。
無防備な顔。
疲れ切った、一人の人間の顔だった。
「自分が死ねば、渡した命も無駄になる」
誰へ言うでもなく呟く。
「随分と愚かな男だ」
バンの唇が僅かに動いた。
「……聞こえてるぞ」
アルフィアの眉が跳ねる。
「起きているなら目を開けろ」
「うるせぇ……」
「なら眠れ」
「どっちだよ……」
再び寝息が聞こえる。
アルフィアはしばらく黙り、毛布をバンの肩まで引き上げた。
外では朝日が昇っている。
灰に覆われた砂漠が、淡い銀色に光っていた。
暴喰の男に残された毒は消えない。
灰の魔女を蝕む病も消えない。
強欲の旅人が分けた命も、永遠ではない。
それでも。
終わるはずだった夜を越え。
三人は、同じ朝を迎えていた。
第27話でした。
今回はベヒーモスの猛毒によって危篤状態となったザルドを、バンが《贈物》で一時的に支える場面を描きました。
毒は消えておらず完治もしていませんが、ザルドは料理と黒砂酒の約束を果たすための時間を得ています。