強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第27話です。


第27話 暴喰に残る毒

夜半を過ぎても、ザルドの熱は下がらなかった。

 

救護所の外では、冷たい風が灰を運んでいる。

 

天幕を打つ細かな音。

 

火へくべられた薪が爆ぜる音。

 

遠くから聞こえる、帰らなかった者を捜す団員たちの声。

 

そのすべてから切り離されたように、ザルドは浅い呼吸を繰り返していた。

 

大きな身体に浮かぶ黒い筋は、討伐直後よりも濃くなっている。

 

胸から首へ。

 

首から頬へ。

 

まるで、ベヒーモスの毒が身体の内側へ根を張っているようだった。

 

「脈が落ちています」

 

セリアがザルドの手首へ指を当てたまま言う。

 

周囲では、三人の治療師が器具を準備していた。

 

湯。

 

清潔な布。

 

薬草。

 

解毒薬。

 

魔法薬。

 

すでに試せるものは、ほとんど試している。

 

どれも毒の進行を僅かに遅らせるだけだった。

 

「血を抜くのは」

 

パァルが尋ねる。

 

「何度か行いました。ですが、新しい血にもすぐ毒が混ざります」

 

「原因は胃か」

 

「いいえ」

 

セリアは首を振る。

 

「もう一箇所に留まっていません。心臓、肺、肝臓……恐らく、全身です」

 

ザルドが喰らったのは、ただの毒肉ではない。

 

世界を脅かした巨獣の一部。

 

魔石と肉体を巡っていた、災害そのものだった。

 

神饌恩寵《デウス・アムブロシア》によって得た力も、毒も、すでにザルドの身体と混ざり合っている。

 

毒だけを切り離そうとすれば、力だけでなく、本人の生命まで削りかねない。

 

「治癒魔法は」

 

「傷には効きます。毒には届きません」

 

「何でも治すと言っていなかったか」

 

天幕の隅から声がした。

 

バンが椅子へ座っている。

 

右腕はまだ布で吊られていた。

 

左肩の包帯にも、薄く血が滲んでいる。

 

セリアは振り返らない。

 

「言っていません」

 

「治療師ってのは、もっと便利なもんだと思ってた」

 

「人の身体を何だと思っているのですか」

 

「壊れやすい入れ物」

 

「自分も含めてください」

 

「俺はちょっと頑丈だぞ」

 

「その頑丈な方が、昨日だけで何度倒れましたか」

 

「数えてねぇ」

 

「私は数えています」

 

バンは口を閉じた。

 

少し離れた寝台では、アルフィアが身体を横たえている。

 

眠っているように見えたが、二人の会話に眉を寄せていた。

 

「騒がしい」

 

「起きてたのか」

 

「眠れると思うのか」

 

アルフィアはゆっくり上体を起こす。

 

治療師が止めようとしたが、視線だけで黙らせた。

 

灰色の長髪が肩から落ちる。

 

顔色は昼よりさらに悪い。

 

唇にも血の色がない。

 

それでも、閉じた瞼はザルドの方を向いていた。

 

「あと、どれほど保つ」

 

セリアは答えなかった。

 

「聞こえなかったか」

 

「正確には分かりません」

 

「予測でいい」

 

「今夜を越えられるかどうかです」

 

天幕の空気が止まった。

 

パァルの手が強く握られる。

 

アルフィアは何も言わない。

 

バンだけが、椅子から立ち上がった。

 

「なら、やるぞ」

 

「まだです」

 

セリアが即座に答える。

 

「今夜越えられねぇんだろ」

 

「心臓はまだ動いています」

 

「止まってからじゃ遅い」

 

「あなたの生命力にも限りがあります」

 

「知ってる」

 

「分かっていません」

 

セリアは初めて振り返った。

 

疲れた顔。

 

赤く充血した目。

 

それでも、声は強い。

 

「《贈物》は治療ではありません。毒を消すことも、傷ついた内臓を元へ戻すこともできない。あなたの生命力で、無理やり身体を動かすだけです」

 

「だから何だ」

 

「今使えば、ザルドさんは一時的に持ち直すでしょう。ですが毒は残ります。そして、あなたの身体はさらに弱る」

 

「知ってるって言ったろ」

 

「では、次にまた悪化した時は?」

 

バンは答えない。

 

「その次は?さらに次は?」

 

「……」

 

「何度も命を渡せば、いずれあなたが死にます。それでも毒は消えません」

 

「なら、一回で戻ってこさせる」

 

「そんな都合のよい力ではありません!」

 

セリアの声が天幕を震わせた。

 

ザルドの呼吸が、一度大きく乱れる。

 

治療師たちが動いた。

 

胸へ手を当てる。

 

薬を用意する。

 

ザルドの身体が小さく痙攣した。

 

「脈が飛んだ!」

 

セリアが寝台へ戻る。

 

「呼吸を確保して!」

 

治療師がザルドの顎を上げる。

 

だが、胸が動かない。

 

一度。

 

二度。

 

長い空白。

 

ようやく、喉の奥から細い息が漏れる。

 

「遅れている……」

 

セリアの顔が強張る。

 

バンはすでにザルドの横へ立っていた。

 

「退け」

 

「まだ――」

 

「今だろ」

 

セリアは唇を噛む。

 

拒めば、ザルドが死ぬかもしれない。

 

許せば、バンまで危険に晒す。

 

治療師として、どちらも選びたくない。

 

「セリア」

 

パァルが静かに呼ぶ。

 

「判断しろ」

 

彼女は目を閉じた。

 

そして、一歩下がった。

 

「心臓を支えるだけです」

 

「ああ」

 

「毒を引き受けようとしないでください」

 

「できねぇよ、そんなの」

 

「生命力を渡しすぎない」

 

「努力する」

 

「バンさん」

 

「分かった」

 

バンは左手をザルドの胸へ置いた。

 

厚い筋肉。

 

その奥で、弱い鼓動が不規則に続いている。

 

目を閉じる。

 

自分の生命を感じる。

 

煉獄で鍛えられた身体。

 

今は不死ではない。

 

失った分は、すぐには戻らない。

 

それでも、人間一人のものとは思えないほどの生命力が残っている。

 

そこから、必要な分だけを渡す。

 

多すぎれば、ザルドの身体が耐えられない。

 

少なすぎれば、心臓へ届かない。

 

「《贈物》」

 

淡い光が、バンの左手から流れ込む。

 

傷が消えるわけではない。

 

黒い筋も消えない。

 

ただ、止まりかけた心臓へ、新しい力が注がれる。

 

どくん。

 

強い鼓動。

 

ザルドの胸が大きく持ち上がった。

 

次の瞬間。

 

「がっ……!」

 

ザルドが口から黒い血を吐いた。

 

アルフィアが立ち上がりかける。

 

だが、セリアは動じなかった。

 

「横を向かせて!」

 

治療師たちがザルドの身体を傾ける。

 

黒い血が器へ流れ込む。

 

血の中には、細かな灰のような粒が混じっていた。

 

「肺に溜まっていたものが出ています!」

 

呼吸が戻る。

 

一度。

 

二度。

 

まだ浅い。

 

それでも先ほどよりは、はっきりと胸が動いている。

 

バンは手を離さない。

 

「もう十分です」

 

セリアが言う。

 

「まだだ」

 

「十分です!」

 

「こいつ、起きてねぇぞ」

 

「目を覚まさせるための力ではありません!」

 

「飯食わせるまで起こす」

 

「やめてください!」

 

セリアがバンの左腕を掴む。

 

思っていたより簡単に、腕が離れた。

 

バンの身体がふらつく。

 

パァルが支えようと手を伸ばすが、間にアルフィアが入った。

 

細い腕で、倒れかけたバンの背を支える。

 

「馬鹿か、お前は」

 

「病人に言われたくねぇ」

 

「顔を見てから言え」

 

「見えてるよ」

 

「鏡を見ろという意味だ」

 

バンの顔から血の気が失われていた。

 

唇も白い。

 

額には冷たい汗が浮かんでいる。

 

アルフィア自身も立っているのが辛い。

 

それでも、バンを寝台まで押し戻した。

 

「横になれ」

 

「命令すんな」

 

「倒れるなら自分で倒れろ」

 

「同じだろ」

 

「黙れ」

 

バンが寝台へ腰を下ろした、その時。

 

「……騒がしいな」

 

低い声がした。

 

全員が振り返る。

 

ザルドの瞼が、僅かに開いていた。

 

視線はまだ定まっていない。

 

呼吸も苦しそうだ。

 

それでも、意識は戻っている。

 

「起きたか」

 

バンが笑う。

 

「お前が……起こしたのか」

 

「飯食うまで寝かせねぇ」

 

「横暴だな」

 

「お前に食わせたい奴がいるんだよ」

 

「誰だ」

 

「お前だ」

 

ザルドは少しだけ目を細める。

 

「料理を作るのは、俺ではなかったか」

 

「病人に厨房任せるほど困ってねぇよ」

 

「お前の料理だけでは、不安だ」

 

「喧嘩売ってんのか?」

 

「事実だ」

 

声は弱い。

 

だが、ザルドらしい返しだった。

 

パァルが顔を背ける。

 

笑ったのか、泣きそうになったのかは分からない。

 

セリアはザルドの胸へ耳を当て、鼓動を確認する。

 

「安定しています。今のところは」

 

「治ったか」

 

ザルドが尋ねる。

 

「いいえ」

 

セリアは正直に答えた。

 

「毒は残っています。内臓への損傷もあります。バンさんが生命力を分けたことで、心臓と呼吸を支えているだけです」

 

「そうか」

 

「もう一度同じ状態になれば、次も助けられるとは限りません」

 

「分かった」

 

ザルドは天幕の天井を見る。

 

「随分と高い代償になったな」

 

「後悔してんのか」

 

バンが尋ねる。

 

「していない」

 

即答だった。

 

「同じ場面へ戻っても喰う」

 

「次は止めるぞ」

 

「止められるのか」

 

「肉だけ先に盗む」

 

「結局渡すのではないか」

 

「半分だけな」

 

「足りん」

 

「欲張りだな」

 

「暴喰だからな」

 

ザルドは僅かに笑う。

 

その直後、激しく咳き込んだ。

 

セリアが身体を支える。

 

「話はそこまでです」

 

「まだ聞いてねぇ」

 

「何をですか」

 

バンはザルドを見る。

 

「酒だ」

 

「それが今必要ですか」

 

「必要だろ」

 

ザルドは目を閉じたまま答える。

 

「約束した」

 

「ああ」

 

「飲めんかもしれんぞ」

 

「薄めてやる」

 

「それは酒への侮辱だ」

 

「じゃあ、一口だけにしろ」

 

「お前が全部飲むつもりだな」

 

「ばれたか」

 

ザルドの呼吸が、少しだけ穏やかになる。

 

「その前に、料理だ」

 

「何作る」

 

「まだ決めていない」

 

「肉はやめとけ。しばらく見たくねぇだろ」

 

「食材に罪はない」

 

「その台詞、今言うか?」

 

「悪食を舐めるな」

 

バンは笑った。

 

アルフィアは二人を見下ろし、呆れたように息を吐く。

 

「どちらも救いようがないな」

 

「お前にも何か作ってやるぞ」

 

ザルドが言う。

 

「不要だ」

 

「甘いものにするか」

 

アルフィアの眉が僅かに動いた。

 

「……勝手にしろ」

 

「欲しいんじゃねぇか」

 

「黙れ、バン」

 

「俺だけ扱いひどくねぇ?」

 

ザルドが目を閉じたまま、もう一度笑った。

 

それはほんの僅かなものだった。

 

だが、天幕の中へ張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。

 

       ◇

 

夜が明ける頃。

 

ザルドの容態は、ひとまず安定していた。

 

毒は消えていない。

 

熱も下がっていない。

 

黒い筋も残ったままだ。

 

それでも、心臓は動いている。

 

自分の力で呼吸している。

 

セリアは寝台の横へ座り、経過を記録していた。

 

「一時的な延命です」

 

彼女が呟く。

 

パァルが隣に立つ。

 

「それでも、時間を得た」

 

「時間だけです」

 

「時間がなければ、何もできん」

 

セリアは返事をしなかった。

 

少し離れた寝台では、バンが眠っている。

 

右腕を吊ったまま。

 

左手だけをザルドの方へ向けて。

 

逃げる者を掴もうとするように、僅かに指が曲がっていた。

 

その横へ、アルフィアが座っている。

 

自分も休めと言われたが、戻らなかった。

 

「眠っているのか」

 

パァルが尋ねる。

 

「気を失っているだけだ」

 

「起こすか」

 

「必要ない」

 

アルフィアはバンの顔を見る。

 

戦場で巨獣へ向けていた時とは違う。

 

無防備な顔。

 

疲れ切った、一人の人間の顔だった。

 

「自分が死ねば、渡した命も無駄になる」

 

誰へ言うでもなく呟く。

 

「随分と愚かな男だ」

 

バンの唇が僅かに動いた。

 

「……聞こえてるぞ」

 

アルフィアの眉が跳ねる。

 

「起きているなら目を開けろ」

 

「うるせぇ……」

 

「なら眠れ」

 

「どっちだよ……」

 

再び寝息が聞こえる。

 

アルフィアはしばらく黙り、毛布をバンの肩まで引き上げた。

 

外では朝日が昇っている。

 

灰に覆われた砂漠が、淡い銀色に光っていた。

 

暴喰の男に残された毒は消えない。

 

灰の魔女を蝕む病も消えない。

 

強欲の旅人が分けた命も、永遠ではない。

 

それでも。

 

終わるはずだった夜を越え。

 

三人は、同じ朝を迎えていた。




第27話でした。

今回はベヒーモスの猛毒によって危篤状態となったザルドを、バンが《贈物》で一時的に支える場面を描きました。

毒は消えておらず完治もしていませんが、ザルドは料理と黒砂酒の約束を果たすための時間を得ています。
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