強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第28話です。


第28話 巨獣の遺産

ベヒーモスが崩れ落ちてから三日。

 

黒い砂漠は、まだ灰を吐いていた。

 

空から降る量こそ減ったが、風が吹くたび、地面へ積もった灰が舞い上がる。

 

討伐前には見えていた砂丘も、岩場も、戦場へ打ち込まれた結界杭も、その多くが灰の下へ消えていた。

 

広がっているのは、黒と灰色だけの大地。

 

もともと黒い砂漠と呼ばれていた土地は、この日を境に、文字どおり見渡す限り黒く染まった。

 

「赤杭より先へ入る者は、必ず二人以上で行動しろ!」

 

灰の丘の手前で、パァルが声を上げる。

 

「縄を身体へ結べ!異常を感じたら、素材を捨ててでも戻れ!」

 

その隣では、リシェルが魔導士たちへ指示を出していた。

 

「灰を掘り返す前に、毒性を測定してください。黒く変色した箇所には触れないように。魔力反応が強い場合は、標識だけ立てて撤退を」

 

討伐隊は、戦う軍勢から採掘隊へ姿を変えていた。

 

大盾の代わりに、鍬や大型のシャベル。

 

槍の代わりに、測量棒。

 

鎧の上から厚い外套を重ね、口元には布を巻いている。

 

灰の中へ埋もれているのは、ただの死骸ではない。

 

陸の王者ベヒーモスが残した、膨大な遺産だった。

 

角。

 

骨。

 

牙。

 

外殻。

 

血と魔力を吸った砂。

 

どれも一つ間違えば猛毒であり、同時に、世界でも二度と手に入らない素材となる。

 

「こっちだ!」

 

灰の丘から声が上がる。

 

数人の団員が、太い縄を引いていた。

 

灰の下から、黒い曲線が姿を現す。

 

最初は岩かと思われた。

 

だが、掘り進めるほど形がはっきりしていく。

 

ベヒーモスの角だった。

 

先端だけでも、大人二人の背丈を越えている。

 

「まだ根元が見えないぞ!」

 

「縄を増やせ!」

 

「無理に引くな!割れたら価値が落ちる!」

 

「価値より先に、引いてる奴の腰が終わる!」

 

灰まみれの団員たちが怒鳴り合う。

 

それでも、手は止めない。

 

一人では動かせない。

 

十人でも足りない。

 

最終的には滑車を組み、砂船の曳航具まで使って引き上げることになった。

 

少し離れた場所では、巨大な外殻の欠片が掘り出されている。

 

家屋の壁ほどもある。

 

表面は黒く焼け焦げ、《レーア・アムブロシア》の炎が走った跡が赤い筋となって残っていた。

 

「これ一枚で、どれだけの盾が作れる」

 

団員の一人が呟く。

 

「加工できればな」

 

別の者が答える。

 

「まず切れる工具を作るところからだろ」

 

周囲で苦い笑いが起こる。

 

戦いの最中には、砕くことしか考えていなかった外殻。

 

今は、それをどう運び、どう保存し、どう加工するかで頭を悩ませている。

 

災害は、倒されれば資源へ変わる。

 

だが、その資源を扱うのもまた、人の仕事だった。

 

       ◇

 

バンは灰の丘の中腹へ座っていた。

 

右腕はまだ布で吊られている。

 

左肩も完全には戻っていない。

 

本来なら救護所で寝ているべきだった。

 

だが、寝台へ縛られる前に抜け出した。

 

「見つけました」

 

背後から、聞き慣れた声がする。

 

振り返ると、セリアが立っていた。

 

手には治療道具。

 

顔には笑みがない。

 

「何をだ」

 

「逃亡中の負傷者をです」

 

「散歩だぞ」

 

「赤杭の内側まで来る散歩がどこにありますか」

 

「景色がいい」

 

バンは灰の海を見渡す。

 

空も地面も灰色。

 

ところどころから、巨獣の骨や外殻が突き出している。

 

「最悪の景色ですね」

 

「趣があるだろ」

 

「ありません」

 

セリアはバンの右手を取る。

 

指先を押す。

 

「痛むか」

 

「少し」

 

「感覚は」

 

「戻ってきてる」

 

「嘘ですね」

 

「なんで分かる」

 

「薬指を押しても反応しませんでした」

 

「油断した」

 

「治療で駆け引きをしないでください」

 

バンは手を引っ込める。

 

「俺より、あっち見ろ」

 

灰の下を、三人の団員が掘っていた。

 

第24話で、クレシューズによって救われた三人。

 

左腕を固定した盾使い。

 

両耳へ布を巻いた女性魔導士。

 

脇腹に包帯を巻いた若い槍使い。

 

三人とも、まだ万全ではない。

 

それでも作業へ加わっていた。

 

「働きすぎんなって言ったんだけどな」

 

「あなたの言葉では説得力がありません」

 

「失礼だな」

 

「事実です」

 

盾使いは片腕しか使えないため、縄の結び目を作っている。

 

魔導士は聴力が戻っていないまま、魔力測定用の板へ結果を書き込んでいた。

 

若い槍使いは灰の中から小さな骨片を拾い、分類箱へ運んでいる。

 

戦闘では、潰される寸前だった三人。

 

今は、生き残った手で戦後の仕事を続けていた。

 

若い槍使いがバンに気づく。

 

「また救護所から抜けたんですか」

 

「散歩だ」

 

「セリアさんがいる時点で説得力がありません」

 

「最近、俺への当たり強くねぇか」

 

盾使いも振り返る。

 

「恩人だからこそです」

 

「意味分かんねぇ」

 

魔導士が板へ書く。

 

『動けない人ほど動こうとするからです』

 

「お前、本当に聞こえてないのか?」

 

彼女は笑って頷いた。

 

セリアが腕を組む。

 

「皆さんの方が、よく分かっていますね」

 

「助ける相手、間違えたかもな」

 

「今さらです」

 

三人の声が重なる。

 

バンは小さく舌打ちした。

 

       ◇

 

灰の丘の中央。

 

ザルドの大剣は、三日前と同じ場所へ突き刺さっていた。

 

刀身の大半は灰の下。

 

見えている部分は焼け焦げ、細かな亀裂が走っている。

 

周囲だけは、誰も掘っていない。

 

マキシムの命令で、立入禁止になっていた。

 

その日。

 

ザルド本人が、担架に乗せられてそこへ来た。

 

「本当に連れてくるとは思いませんでした」

 

セリアが呟く。

 

担架を運ぶ団員たちの顔も、納得していない。

 

だが、ザルドが自分の目で確認すると譲らなかった。

 

胸元には厚い包帯。

 

顔には黒い筋が残っている。

 

呼吸もまだ苦しそうだった。

 

それでも、意識ははっきりしている。

 

「下ろせ」

 

「駄目です」

 

セリアが即答する。

 

「立てる」

 

「昨日も同じことを言って倒れました」

 

「今日は倒れん」

 

「根拠は」

 

「昨日より寝た」

 

「却下です」

 

ザルドは諦めたように息を吐く。

 

担架の上から、自分の大剣を見た。

 

長く使ってきた剣。

 

数え切れない怪物を斬り。

 

戦場を越え。

 

最後には、陸の王者へ届いた一振り。

 

マキシムが隣へ立つ。

 

「回収するか」

 

ザルドはしばらく答えなかった。

 

「刀身は損傷している」

 

マキシムが続ける。

 

「直せる鍛冶師がいるかは分からん。だが、お前が望むなら掘り出す」

 

「必要ない」

 

短い返事だった。

 

周囲の団員たちがザルドを見る。

 

バンも少し離れた場所から聞いていた。

 

「置いておけ」

 

ザルドは大剣を見つめる。

 

「あの剣は、あそこで喰い終えた」

 

マキシムの目が僅かに細くなる。

 

「二度と使わんのか」

 

「使えん」

 

「剣はまだ折れていない」

 

「俺が終わらせた」

 

ザルドは自分の胸へ手を置く。

 

毒の残る身体。

 

以前と同じように剣を振るえる保証はない。

 

だが、それだけが理由ではなかった。

 

「あれは、ベヒーモスを斬るための剣だった」

 

「今決めたのか?」

 

バンが横から尋ねる。

 

ザルドは見る。

 

「以前から決めていた」

 

「嘘くせぇ」

 

「今、決めた」

 

「正直でよろしい」

 

ザルドの口元が僅かに上がる。

 

「剣を残すのは、墓標代わりか?」

 

「違う」

 

「じゃあ何だ」

 

「あれを見た者が、思い出せばいい」

 

「何を」

 

「人が、災害を喰ったことを」

 

誰か一人が、ではない。

 

ザルドだけでもない。

 

剣を振るう道を作った者。

 

結界を維持した者。

 

盾列を守った者。

 

負傷者を運んだ者。

 

すべてを含めて。

 

大剣は、その場所へ残されることになった。

 

灰の丘へ突き刺さったまま。

 

後に黒い砂漠を訪れる者が、遠くからでも見つけられるように。

 

       ◇

 

午後。

 

素材回収班は、魔石の捜索へ移った。

 

ベヒーモスの魔石は、死の直前に砕けている。

 

その爆発とともに、巨体の大部分が灰へ変わった。

 

問題は、魔石がどれほど砕けたのかだった。

 

完全に消滅したのか。

 

細かな欠片となって、灰の底へ残っているのか。

 

「反応あり!」

 

魔導士の一人が声を上げる。

 

灰を慎重に掘り進める。

 

中から現れたのは、赤黒い石の欠片だった。

 

拳ほどの大きさ。

 

表面には無数の亀裂があり、弱い魔力を放っている。

 

「素手で触るな!」

 

すぐに隔離箱へ入れられる。

 

箱の内側には、灰と魔力を遮断する術式が刻まれていた。

 

さらに一つ。

 

また一つ。

 

欠片が見つかるたび、位置と大きさが記録される。

 

白髪の若い支援者が帳簿へ数字を書き込む。

 

「現在、回収済み十七個。大二、中五、小十」

 

「推定量は」

 

パァルが尋ねる。

 

「分かりません。元の魔石の大きさ自体、正確には測れていません」

 

「反応域は」

 

「まだ丘の下全体に残っています」

 

リシェルが測定具を見る。

 

「魔石の欠片だけではありません。灰そのものが魔力を保持しています」

 

「すべて掘り返すのは不可能か」

 

「何年かかるか分かりません」

 

灰の丘は広大だった。

 

ベヒーモスの巨体が崩れた範囲だけではない。

 

爆発によって飛散した灰は、砂漠全域へ降り積もっている。

 

小さな魔石片が遠くまで飛んだ可能性もある。

 

すべてを回収することはできない。

 

パァルは帳簿を閉じる。

 

「回収できるものを優先する。危険区域へ無理に入るな」

 

「しかし、残せば誰かが拾う可能性があります」

 

白髪の若い支援者が言う。

 

「だから記録する。封鎖範囲を決め、ギルドへ引き継ぐ」

 

「完全には防げません」

 

「分かっている」

 

パァルは灰の丘を見る。

 

「それでも、今ここで人を失う方が間違いだ」

 

戦いに勝ったからといって、すべてを支配できるわけではない。

 

灰の底に何が残っているのか。

 

どれほどの毒があるのか。

 

何年で薄まるのか。

 

誰にも分からなかった。

 

       ◇

 

夕暮れ。

 

回収された素材が、ハルファの外へ並べられていた。

 

巨大な角。

 

外殻。

 

牙。

 

骨片。

 

魔石の欠片。

 

どれも、一つずつ記録され、危険度に応じて分けられている。

 

住民たちは遠くからそれを見ていた。

 

恐ろしい巨獣の一部。

 

同時に、失われた土地を立て直すための財産でもある。

 

「売れば、村を丸ごと作り直せるんじゃないか」

 

誰かが言う。

 

「売れればな」

 

「誰が買うんだ」

 

「オラリオだろ」

 

「運べるのか?」

 

現実的な問題ばかりだった。

 

だが、それでよかった。

 

災害の後に必要なのは、英雄譚よりも、明日の屋根と食料だった。

 

バンは、並べられた素材の間を歩く。

 

セリアに見張られながら。

 

「これ、食えるか?」

 

巨大な骨を見て尋ねる。

 

「食べ物ではありません」

 

「出汁出そうだけどな」

 

「毒があります」

 

「俺なら平気だぞ」

 

「一人で食べるつもりですか」

 

「ザルドにも」

 

「駄目です」

 

少し離れた担架から、ザルドが声を出す。

 

「一度煮込んでみる価値はある」

 

「患者が増えるのでやめてください!」

 

セリアの怒鳴り声が響く。

 

バンとザルドは顔を見合わせる。

 

「怒られたな」

 

「ああ」

 

「後で試すか」

 

「聞こえています!」

 

アルフィアが椅子へ座り、そのやり取りを聞いている。

 

「二人とも毒に頭を侵されているのではないか」

 

「お前も甘いもんばっか食ってると頭甘くなるぞ」

 

「殺す」

 

「病人は寝てろよ」

 

「お前もだ」

 

以前と変わらない口喧嘩。

 

だが、以前とは少しだけ違った。

 

ザルドは担架の上。

 

バンの右腕は動かず。

 

アルフィアの呼吸にも、時折小さな乱れがある。

 

戦いの傷は、笑ったからといって消えない。

 

それでも、声を交わせる。

 

同じ夕日を見られる。

 

それだけで十分な日もあった。

 

       ◇

 

夜。

 

回収班が引き上げた後。

 

灰の丘には、風だけが残っていた。

 

ザルドの大剣が月明かりを受けている。

 

その周囲には、今日掘られた無数の穴。

 

魔石の欠片が見つかった場所には、標識が立てられていた。

 

だが。

 

誰も入らなかった丘の奥。

 

砕けた外殻の下。

 

さらに深い灰の底で。

 

赤黒い光が、一度だけ瞬いた。

 

拳よりも小さな魔石片。

 

回収された欠片よりも、さらに濃い魔力を残したもの。

 

その周囲の灰が、僅かに動く。

 

生きているわけではない。

 

ベヒーモスが戻ることもない。

 

ただ、巨獣が最後に残した力が、完全には消えていないだけだった。

 

風が灰を運ぶ。

 

穴の入口が崩れる。

 

魔石片は、さらに深く埋まっていく。

 

誰にも見つからず。

 

帳簿にも記されず。

 

黒い砂漠の底へ。

 

陸の王者の遺産は、すべて人の手へ渡ったわけではなかった。




第28話でした。

今回は、ベヒーモスの角・骨・外殻・魔石片の回収と、戦後の素材管理を描きました。

また、ザルドの大剣は本人の意思によって黒い砂漠へ残され、討伐の証となっています。
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