ベヒーモスが崩れ落ちてから三日。
黒い砂漠は、まだ灰を吐いていた。
空から降る量こそ減ったが、風が吹くたび、地面へ積もった灰が舞い上がる。
討伐前には見えていた砂丘も、岩場も、戦場へ打ち込まれた結界杭も、その多くが灰の下へ消えていた。
広がっているのは、黒と灰色だけの大地。
もともと黒い砂漠と呼ばれていた土地は、この日を境に、文字どおり見渡す限り黒く染まった。
「赤杭より先へ入る者は、必ず二人以上で行動しろ!」
灰の丘の手前で、パァルが声を上げる。
「縄を身体へ結べ!異常を感じたら、素材を捨ててでも戻れ!」
その隣では、リシェルが魔導士たちへ指示を出していた。
「灰を掘り返す前に、毒性を測定してください。黒く変色した箇所には触れないように。魔力反応が強い場合は、標識だけ立てて撤退を」
討伐隊は、戦う軍勢から採掘隊へ姿を変えていた。
大盾の代わりに、鍬や大型のシャベル。
槍の代わりに、測量棒。
鎧の上から厚い外套を重ね、口元には布を巻いている。
灰の中へ埋もれているのは、ただの死骸ではない。
陸の王者ベヒーモスが残した、膨大な遺産だった。
角。
骨。
牙。
外殻。
血と魔力を吸った砂。
どれも一つ間違えば猛毒であり、同時に、世界でも二度と手に入らない素材となる。
「こっちだ!」
灰の丘から声が上がる。
数人の団員が、太い縄を引いていた。
灰の下から、黒い曲線が姿を現す。
最初は岩かと思われた。
だが、掘り進めるほど形がはっきりしていく。
ベヒーモスの角だった。
先端だけでも、大人二人の背丈を越えている。
「まだ根元が見えないぞ!」
「縄を増やせ!」
「無理に引くな!割れたら価値が落ちる!」
「価値より先に、引いてる奴の腰が終わる!」
灰まみれの団員たちが怒鳴り合う。
それでも、手は止めない。
一人では動かせない。
十人でも足りない。
最終的には滑車を組み、砂船の曳航具まで使って引き上げることになった。
少し離れた場所では、巨大な外殻の欠片が掘り出されている。
家屋の壁ほどもある。
表面は黒く焼け焦げ、《レーア・アムブロシア》の炎が走った跡が赤い筋となって残っていた。
「これ一枚で、どれだけの盾が作れる」
団員の一人が呟く。
「加工できればな」
別の者が答える。
「まず切れる工具を作るところからだろ」
周囲で苦い笑いが起こる。
戦いの最中には、砕くことしか考えていなかった外殻。
今は、それをどう運び、どう保存し、どう加工するかで頭を悩ませている。
災害は、倒されれば資源へ変わる。
だが、その資源を扱うのもまた、人の仕事だった。
◇
バンは灰の丘の中腹へ座っていた。
右腕はまだ布で吊られている。
左肩も完全には戻っていない。
本来なら救護所で寝ているべきだった。
だが、寝台へ縛られる前に抜け出した。
「見つけました」
背後から、聞き慣れた声がする。
振り返ると、セリアが立っていた。
手には治療道具。
顔には笑みがない。
「何をだ」
「逃亡中の負傷者をです」
「散歩だぞ」
「赤杭の内側まで来る散歩がどこにありますか」
「景色がいい」
バンは灰の海を見渡す。
空も地面も灰色。
ところどころから、巨獣の骨や外殻が突き出している。
「最悪の景色ですね」
「趣があるだろ」
「ありません」
セリアはバンの右手を取る。
指先を押す。
「痛むか」
「少し」
「感覚は」
「戻ってきてる」
「嘘ですね」
「なんで分かる」
「薬指を押しても反応しませんでした」
「油断した」
「治療で駆け引きをしないでください」
バンは手を引っ込める。
「俺より、あっち見ろ」
灰の下を、三人の団員が掘っていた。
第24話で、クレシューズによって救われた三人。
左腕を固定した盾使い。
両耳へ布を巻いた女性魔導士。
脇腹に包帯を巻いた若い槍使い。
三人とも、まだ万全ではない。
それでも作業へ加わっていた。
「働きすぎんなって言ったんだけどな」
「あなたの言葉では説得力がありません」
「失礼だな」
「事実です」
盾使いは片腕しか使えないため、縄の結び目を作っている。
魔導士は聴力が戻っていないまま、魔力測定用の板へ結果を書き込んでいた。
若い槍使いは灰の中から小さな骨片を拾い、分類箱へ運んでいる。
戦闘では、潰される寸前だった三人。
今は、生き残った手で戦後の仕事を続けていた。
若い槍使いがバンに気づく。
「また救護所から抜けたんですか」
「散歩だ」
「セリアさんがいる時点で説得力がありません」
「最近、俺への当たり強くねぇか」
盾使いも振り返る。
「恩人だからこそです」
「意味分かんねぇ」
魔導士が板へ書く。
『動けない人ほど動こうとするからです』
「お前、本当に聞こえてないのか?」
彼女は笑って頷いた。
セリアが腕を組む。
「皆さんの方が、よく分かっていますね」
「助ける相手、間違えたかもな」
「今さらです」
三人の声が重なる。
バンは小さく舌打ちした。
◇
灰の丘の中央。
ザルドの大剣は、三日前と同じ場所へ突き刺さっていた。
刀身の大半は灰の下。
見えている部分は焼け焦げ、細かな亀裂が走っている。
周囲だけは、誰も掘っていない。
マキシムの命令で、立入禁止になっていた。
その日。
ザルド本人が、担架に乗せられてそこへ来た。
「本当に連れてくるとは思いませんでした」
セリアが呟く。
担架を運ぶ団員たちの顔も、納得していない。
だが、ザルドが自分の目で確認すると譲らなかった。
胸元には厚い包帯。
顔には黒い筋が残っている。
呼吸もまだ苦しそうだった。
それでも、意識ははっきりしている。
「下ろせ」
「駄目です」
セリアが即答する。
「立てる」
「昨日も同じことを言って倒れました」
「今日は倒れん」
「根拠は」
「昨日より寝た」
「却下です」
ザルドは諦めたように息を吐く。
担架の上から、自分の大剣を見た。
長く使ってきた剣。
数え切れない怪物を斬り。
戦場を越え。
最後には、陸の王者へ届いた一振り。
マキシムが隣へ立つ。
「回収するか」
ザルドはしばらく答えなかった。
「刀身は損傷している」
マキシムが続ける。
「直せる鍛冶師がいるかは分からん。だが、お前が望むなら掘り出す」
「必要ない」
短い返事だった。
周囲の団員たちがザルドを見る。
バンも少し離れた場所から聞いていた。
「置いておけ」
ザルドは大剣を見つめる。
「あの剣は、あそこで喰い終えた」
マキシムの目が僅かに細くなる。
「二度と使わんのか」
「使えん」
「剣はまだ折れていない」
「俺が終わらせた」
ザルドは自分の胸へ手を置く。
毒の残る身体。
以前と同じように剣を振るえる保証はない。
だが、それだけが理由ではなかった。
「あれは、ベヒーモスを斬るための剣だった」
「今決めたのか?」
バンが横から尋ねる。
ザルドは見る。
「以前から決めていた」
「嘘くせぇ」
「今、決めた」
「正直でよろしい」
ザルドの口元が僅かに上がる。
「剣を残すのは、墓標代わりか?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「あれを見た者が、思い出せばいい」
「何を」
「人が、災害を喰ったことを」
誰か一人が、ではない。
ザルドだけでもない。
剣を振るう道を作った者。
結界を維持した者。
盾列を守った者。
負傷者を運んだ者。
すべてを含めて。
大剣は、その場所へ残されることになった。
灰の丘へ突き刺さったまま。
後に黒い砂漠を訪れる者が、遠くからでも見つけられるように。
◇
午後。
素材回収班は、魔石の捜索へ移った。
ベヒーモスの魔石は、死の直前に砕けている。
その爆発とともに、巨体の大部分が灰へ変わった。
問題は、魔石がどれほど砕けたのかだった。
完全に消滅したのか。
細かな欠片となって、灰の底へ残っているのか。
「反応あり!」
魔導士の一人が声を上げる。
灰を慎重に掘り進める。
中から現れたのは、赤黒い石の欠片だった。
拳ほどの大きさ。
表面には無数の亀裂があり、弱い魔力を放っている。
「素手で触るな!」
すぐに隔離箱へ入れられる。
箱の内側には、灰と魔力を遮断する術式が刻まれていた。
さらに一つ。
また一つ。
欠片が見つかるたび、位置と大きさが記録される。
白髪の若い支援者が帳簿へ数字を書き込む。
「現在、回収済み十七個。大二、中五、小十」
「推定量は」
パァルが尋ねる。
「分かりません。元の魔石の大きさ自体、正確には測れていません」
「反応域は」
「まだ丘の下全体に残っています」
リシェルが測定具を見る。
「魔石の欠片だけではありません。灰そのものが魔力を保持しています」
「すべて掘り返すのは不可能か」
「何年かかるか分かりません」
灰の丘は広大だった。
ベヒーモスの巨体が崩れた範囲だけではない。
爆発によって飛散した灰は、砂漠全域へ降り積もっている。
小さな魔石片が遠くまで飛んだ可能性もある。
すべてを回収することはできない。
パァルは帳簿を閉じる。
「回収できるものを優先する。危険区域へ無理に入るな」
「しかし、残せば誰かが拾う可能性があります」
白髪の若い支援者が言う。
「だから記録する。封鎖範囲を決め、ギルドへ引き継ぐ」
「完全には防げません」
「分かっている」
パァルは灰の丘を見る。
「それでも、今ここで人を失う方が間違いだ」
戦いに勝ったからといって、すべてを支配できるわけではない。
灰の底に何が残っているのか。
どれほどの毒があるのか。
何年で薄まるのか。
誰にも分からなかった。
◇
夕暮れ。
回収された素材が、ハルファの外へ並べられていた。
巨大な角。
外殻。
牙。
骨片。
魔石の欠片。
どれも、一つずつ記録され、危険度に応じて分けられている。
住民たちは遠くからそれを見ていた。
恐ろしい巨獣の一部。
同時に、失われた土地を立て直すための財産でもある。
「売れば、村を丸ごと作り直せるんじゃないか」
誰かが言う。
「売れればな」
「誰が買うんだ」
「オラリオだろ」
「運べるのか?」
現実的な問題ばかりだった。
だが、それでよかった。
災害の後に必要なのは、英雄譚よりも、明日の屋根と食料だった。
バンは、並べられた素材の間を歩く。
セリアに見張られながら。
「これ、食えるか?」
巨大な骨を見て尋ねる。
「食べ物ではありません」
「出汁出そうだけどな」
「毒があります」
「俺なら平気だぞ」
「一人で食べるつもりですか」
「ザルドにも」
「駄目です」
少し離れた担架から、ザルドが声を出す。
「一度煮込んでみる価値はある」
「患者が増えるのでやめてください!」
セリアの怒鳴り声が響く。
バンとザルドは顔を見合わせる。
「怒られたな」
「ああ」
「後で試すか」
「聞こえています!」
アルフィアが椅子へ座り、そのやり取りを聞いている。
「二人とも毒に頭を侵されているのではないか」
「お前も甘いもんばっか食ってると頭甘くなるぞ」
「殺す」
「病人は寝てろよ」
「お前もだ」
以前と変わらない口喧嘩。
だが、以前とは少しだけ違った。
ザルドは担架の上。
バンの右腕は動かず。
アルフィアの呼吸にも、時折小さな乱れがある。
戦いの傷は、笑ったからといって消えない。
それでも、声を交わせる。
同じ夕日を見られる。
それだけで十分な日もあった。
◇
夜。
回収班が引き上げた後。
灰の丘には、風だけが残っていた。
ザルドの大剣が月明かりを受けている。
その周囲には、今日掘られた無数の穴。
魔石の欠片が見つかった場所には、標識が立てられていた。
だが。
誰も入らなかった丘の奥。
砕けた外殻の下。
さらに深い灰の底で。
赤黒い光が、一度だけ瞬いた。
拳よりも小さな魔石片。
回収された欠片よりも、さらに濃い魔力を残したもの。
その周囲の灰が、僅かに動く。
生きているわけではない。
ベヒーモスが戻ることもない。
ただ、巨獣が最後に残した力が、完全には消えていないだけだった。
風が灰を運ぶ。
穴の入口が崩れる。
魔石片は、さらに深く埋まっていく。
誰にも見つからず。
帳簿にも記されず。
黒い砂漠の底へ。
陸の王者の遺産は、すべて人の手へ渡ったわけではなかった。
第28話でした。
今回は、ベヒーモスの角・骨・外殻・魔石片の回収と、戦後の素材管理を描きました。
また、ザルドの大剣は本人の意思によって黒い砂漠へ残され、討伐の証となっています。