強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第29話です。


第29話 灰に刻む名

ベヒーモス討伐から五日。

 

黒い砂漠に降り積もった灰は、まだ完全には落ち着いていなかった。

 

風が吹けば、地表から薄い灰色の幕が立ち上がる。

 

以前の黒砂のように人の足へ絡みつくことはない。

 

傷口へ集まり、死者の身体を起こそうとすることもない。

 

それでも、吸い込めば喉を焼き、素手で触れ続ければ皮膚を腫らす。

 

死んだ巨獣は動かなくなっても、その毒まで消えたわけではなかった。

 

ハルファの北側。

 

かつて黒砂の流れに呑まれていた水路では、住民と両ファミリアの団員たちが泥を掻き出している。

 

「次の桶!」

 

「こっちはまだ黒いぞ!」

 

「井戸へ流すな!外の穴へ捨てろ!」

 

灰と砂が混じった水は、濁った鉄のような色をしていた。

 

魔導士が小瓶へ汲み、薬草を垂らす。

 

透明な液体が、一瞬で黒く変わった。

 

「飲用不可です」

 

リシェルが結果を記録する。

 

「南の井戸は」

 

「薄い反応があります。煮沸だけでは不十分です」

 

「では、飲み水は砂船で運び続けます」

 

周囲から小さな呻きが漏れた。

 

ベヒーモスは倒れた。

 

だが、明日から元の暮らしへ戻れるわけではない。

 

水。

 

畑。

 

家畜。

 

砂漠を通る道。

 

どれも毒と灰の影響を確かめなければならなかった。

 

黒砂の量は急速に減っている。

 

以前のように、夜のうちに集落の近くまで押し寄せることもなくなった。

 

だが、その代わりに、巨獣の死によって生まれた莫大な灰が土地そのものへ染み込んでいる。

 

黒い砂漠は、災害の巣ではなくなった。

 

けれど、傷ついた土地になった。

 

「十年で戻ると思うか」

 

水路の脇で、バンが尋ねた。

 

右腕はまだ胸元へ吊られている。

 

左手には木の棒。

 

クレシューズを杖代わりに使おうとしてセリアに取り上げられたため、代用品を渡されていた。

 

リシェルは黒い水面を見る。

 

「場所によります」

 

「曖昧だな」

 

「確実なことだけを言っています」

 

「百年かかる場所もあるか?」

 

「あるかもしれません」

 

「一生戻らねぇ場所も?」

 

リシェルは少し黙った。

 

「否定できません」

 

バンは灰に覆われた砂漠を見る。

 

以前とは違う。

 

黒い砂漠という名は同じでも、その中身は変わってしまった。

 

「倒して終わりじゃねぇんだな」

 

「災害とは、そういうものです」

 

リシェルは大杖を地面へ立てる。

 

「ですが、生きている限りは戻せます」

 

「戻せねぇ場所もあるんだろ」

 

「それでも、人は別の場所へ水路を掘ります」

 

その言葉に、バンは僅かに笑った。

 

「強ぇな」

 

「誰がですか」

 

「ここに住んでる奴らが」

 

       ◇

 

昼前。

 

パァルとリシェルは、ハルファの集会所へ入った。

 

長机の上には、何枚もの名簿が並べられている。

 

汚れた紙。

 

灰で文字の滲んだ紙。

 

血の跡が残った紙。

 

各隊の帰還記録。

 

治療所の患者名。

 

回収された遺品。

 

行方不明者が最後に目撃された場所。

 

白髪の若い支援者が、その一枚一枚を照合していた。

 

「第三前衛隊の二名、確認できました」

 

彼は静かに言う。

 

「北側の灰の下です」

 

パァルの筆が止まる。

 

「遺体は」

 

「一名は回収。もう一名は……盾と腕輪だけです」

 

「そうか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

聞く必要もなかった。

 

ベヒーモスが倒れた時。

 

巨体と魔石の崩壊が生んだ灰の奔流は、人も武器も地形も飲み込んだ。

 

見つかった者。

 

見つからない者。

 

名前だけが戻ってきた者。

 

その違いを、名簿は残酷なほど正確に記していく。

 

「最終確認です」

 

リシェルが紙を揃える。

 

「ゼウス・ファミリア、死者十四。行方不明三」

 

「ヘラ・ファミリア、死者十二。行方不明二」

 

「ハルファ住民と現地協力者、死者四。行方不明なし」

 

白髪の若い支援者が続ける。

 

「重傷者七十三。うち、現在も意識不明が六名。軽傷者は……」

 

「もういい」

 

パァルが止めた。

 

数を知ることは必要だ。

 

だが、全員を傷の軽重だけで並べたくはなかった。

 

「名を読む」

 

「はい」

 

「一人ずつだ」

 

リシェルが頷く。

 

「そのための確認です」

 

机の端には、名前の書かれていない布袋が五つ置かれていた。

 

行方不明者の装備が入っている。

 

剣の柄。

 

折れた槍。

 

焼けた髪飾り。

 

刻印の入った腕輪。

 

持ち主が戻らなくても、それを知る者がいる。

 

だから、名前は消えない。

 

       ◇

 

夕刻。

 

ハルファの外へ、長い列が作られた。

 

砂漠へ向けて半円状に並べられた松明。

 

中央には、低い石壇。

 

その前へ、帰らなかった者たちの武器と装備が置かれている。

 

遺体を回収できた者は、白い布に包まれていた。

 

見つからなかった者には、代わりに愛用の品が置かれている。

 

折れた剣。

 

盾。

 

杖。

 

弓。

 

鍋。

 

水筒。

 

戦いだけが、その者の全てではなかった。

 

団員たちはファミリアごとに分かれず、同じ列へ立っている。

 

ハルファの住民も。

 

砂船の乗組員も。

 

水を運んだ者も。

 

負傷者を担いだ者も。

 

皆が同じ灰の上へ足を置いていた。

 

バンは列の後ろにいた。

 

前へ出るよう言われたが断った。

 

「何で俺が前なんだよ」

 

「討伐の立役者だからです」

 

盾使いが答えた。

 

助けた三人も、近くにいる。

 

盾使いの左腕はまだ固定されたまま。

 

女性魔導士の耳にも布が巻かれているが、片耳だけは僅かに音が戻り始めていた。

 

若い槍使いは杖をつきながら、姿勢を正している。

 

「俺だけじゃねぇだろ」

 

バンが言う。

 

「はい」

 

盾使いは頷いた。

 

「だから、皆で前へ出るべきだと思いました」

 

「それだと全員前じゃねぇか」

 

「そうなります」

 

「馬鹿だな」

 

「あなたに言われたくありません」

 

三人が揃って返す。

 

バンは鼻で笑った。

 

「生意気になったな」

 

やがて、ざわめきが消える。

 

ゼウスが石壇の前へ立った。

 

普段の軽い笑みはない。

 

両手を背中へ回し、並べられた武器を一つずつ見ている。

 

「わしは神じゃ」

 

静かな声だった。

 

「お主らより長く生き、幾度も人の死を見てきた」

 

誰も動かない。

 

「じゃが、慣れることはない」

 

ゼウスは目を伏せる。

 

「慣れてよいものでもない」

 

風が灰を運ぶ。

 

松明の火が小さく揺れる。

 

「神の恩恵を受けたからといって、人は死なぬわけではない。神に愛されたからといって、苦しみが消えるわけでもない」

 

後ろに立つ団員たちの中から、すすり泣きが聞こえた。

 

「それでも、お主らは立った。盾を構え、傷ついた者を運び、水を渡し、最後まで隣の者を見捨てなかった」

 

ゼウスは並べられた遺品へ頭を下げる。

 

「誇りに思う」

 

神が、人へ頭を下げた。

 

誰も声を上げない。

 

続いて、ヘラが前へ出る。

 

いつものような鋭い視線。

 

だが、その声には怒りも嘲りもなかった。

 

「あなたたちは、私たちの所有物ではありません」

 

ヘラ・ファミリアの団員たちが僅かに顔を上げる。

 

「神の眷族であっても、一人一人の命は、その者だけのものです」

 

ヘラは女帝を見る。

 

そして、アルフィアを見る。

 

最後に、武器だけが残った者たちを見る。

 

「それを預かった私たちは、帰す責任があった」

 

言葉が止まる。

 

「全員を帰せなかった」

 

女帝の表情が僅かに動いた。

 

「その責任を、勝利の言葉で隠すつもりはありません」

 

ヘラは前を向く。

 

「あなたたちの死を、美しい犠牲などとは呼ばない。失われる必要のない命だった」

 

灰の上へ、涙が落ちる。

 

「だからこそ、残った者は覚えていなさい。誰かが死んだから勝てたのではない。誰かが最後まで生きようとしたから、私たちはここにいるのです」

 

強い言葉だった。

 

死を飾らない。

 

だが、無駄にもさせない。

 

次に、マキシムと女帝が石壇へ並んだ。

 

団長として。

 

最前線にいた者として。

 

帰らなかった者を率いた者として。

 

マキシムは武器を地面へ置いた。

 

「命令を下したのは俺だ」

 

低い声が広場へ響く。

 

「進めと命じ、退けと命じた。届かなかった命令もあった」

 

拳が握られる。

 

「俺の判断が違えば、生きていた者もいる」

 

パァルが顔を上げる。

 

否定したい。

 

それでも、マキシムは続ける。

 

「その責任から逃げるつもりはない」

 

女帝も言う。

 

「私も同じよ」

 

彼女は腕を組まず、まっすぐ立っていた。

 

「強さがあれば全員を守れると思うほど、愚かではないつもりだった」

 

自嘲するような笑み。

 

「けれど、守れなかった時の重さを知っていても、軽くなるわけではないわね」

 

アルフィアは少し離れた椅子へ座っている。

 

立つと言い張ったが、治療師と女帝に止められた。

 

顔色は悪い。

 

それでも、名前を聞き逃すまいと前を向いている。

 

ザルドは救護所を出られなかった。

 

代わりに、彼の大剣が遠くの灰の丘へ突き刺さっている。

 

戦場からも見える、一筋の黒い影。

 

マキシムが名簿を受け取る。

 

「名を読む」

 

一人目。

 

名前。

 

所属。

 

役割。

 

二人目。

 

三人目。

 

盾兵。

 

魔導士。

 

治療師。

 

支援者。

 

砂船乗り。

 

住民。

 

一人ずつ。

 

数字ではなく。

 

その者がどこに立ち、何をしたのかを添えて読み上げる。

 

「最後まで北側の盾列を支えた」

 

「倒れた魔導士を背負い、退路へ運んだ」

 

「水袋を手放さず、負傷者へ配った」

 

「結界杭が折れる直前まで術式を保った」

 

「戦えなくても、伝令旗を届けた」

 

白髪の若い支援者が、僅かに肩を震わせる。

 

自分と同じ仕事をしていた者の名が呼ばれた。

 

最後の一人まで読み終わると、灰の上へ長い沈黙が落ちた。

 

       ◇

 

沈黙を破ったのは、若い槍使いだった。

 

「話してもいいでしょうか」

 

マキシムが彼を見る。

 

「前へ」

 

槍使いは杖をつきながら石壇の前へ出る。

 

脇腹が痛むのか、歩くたび顔が強張る。

 

それでも、自分の足で立った。

 

「俺は、ベヒーモスの脚に潰されるところでした」

 

皆が聞いている。

 

「逃げられませんでした。足も動かなくて、もう駄目だと思いました」

 

バンが少し顔をしかめる。

 

槍使いは彼を見る。

 

「でも、気づいたら空を飛んでいました」

 

小さな笑いが起こる。

 

女性魔導士が板へ書き、隣の盾使いへ見せる。

 

盾使いが代わりに読む。

 

「彼女も、着地は最悪だったと言っています」

 

今度は、もう少し大きな笑い。

 

弔いの場で笑うことへ戸惑う者もいた。

 

だが、誰も止めなかった。

 

「俺たち三人は、あの赤い旅人に助けられました」

 

槍使いは続ける。

 

「でも、バンさんだけに助けられたわけではありません」

 

パァルを見る。

 

「盾列が残っていたから、退いた先で踏み潰されなかった」

 

リシェルを見る。

 

「結界が残っていたから、黒砂に呑まれなかった」

 

治療師たちを見る。

 

「戻った時に、傷を塞いでくれる人がいた」

 

白髪の若い支援者を見る。

 

「道を教えてくれる伝令がいた」

 

最後に、並べられた武器を見る。

 

「俺たちは、ここにいる全員に助けられました」

 

声が僅かに震える。

 

「帰らなかった人たちにもです」

 

バンは何も言わなかった。

 

感謝を向けられるのは苦手だ。

 

英雄と呼ばれるのは、もっと嫌いだ。

 

だが、若者の言葉を否定することはしなかった。

 

自分一人で助けたわけではない。

 

それを一番よく知っているからだ。

 

盾使いが片腕で胸を叩く。

 

「この腕が治ったら、北の水路を直します」

 

女性魔導士は板へ書く。

 

『耳が戻らなくても、術式は書けます』

 

若い槍使いも言う。

 

「俺は、負傷者へ水を運びます」

 

三人とも、もう戦場へ戻るとは言わなかった。

 

今、必要な場所へ戻る。

 

それもまた、戦うことだった。

 

       ◇

 

松明の火が、次々と遺品へ移された。

 

遺体を包んだ布。

 

折れた武器。

 

持ち主の戻らなかった衣服。

 

炎が静かに広がる。

 

黒い煙が、灰色の空へ昇っていく。

 

バンは最後まで列の後ろにいた。

 

誰かの名が呼ばれるたび、覚えようとしていた。

 

全員を知っているわけではない。

 

話したことのない者もいる。

 

顔すら思い出せない者もいる。

 

それでも、確かに同じ戦場にいた。

 

「お前は祈らないのか」

 

隣からアルフィアが尋ねた。

 

いつの間にか、椅子ごと近くへ運ばれていた。

 

「誰にだよ」

 

「神にでも」

 

「そこにいるだろ」

 

バンはゼウスとヘラを見る。

 

「役に立たねぇぞ」

 

アルフィアの口元が僅かに動く。

 

「本人たちの前で言うか」

 

「聞こえてねぇよ」

 

「聞こえているぞ、バン!」

 

遠くからゼウスの声が飛んだ。

 

「耳いいな、爺さん」

 

何人かが小さく笑う。

 

アルフィアは炎を見る。

 

「では、何をしている」

 

「覚えてる」

 

「全員をか」

 

「無理だな」

 

「なら意味がない」

 

「全部覚えられねぇから、やらねぇってのも違うだろ」

 

アルフィアは黙った。

 

炎の向こう。

 

灰の丘へ残されたザルドの大剣が見える。

 

「死んだ奴の分まで生きる、なんて言う気はねぇ」

 

バンが続ける。

 

「そいつの命は、そいつのもんだ」

 

「ああ」

 

「俺は俺の腹を満たして、俺の酒を飲む」

 

「いつも通りだな」

 

「でも、そいつがいたことくらいは覚えとく」

 

アルフィアは閉じた瞼のまま、僅かに顔を上げる。

 

「それで十分なのか」

 

「十分かどうか決めるのは、死んだ奴だろ」

 

「聞けない」

 

「だから、勝手にやる」

 

風が吹く。

 

炎が揺れ、灰が舞う。

 

アルフィアが小さく咳き込んだ。

 

布で口元を覆う。

 

そこへ、赤い染みが広がった。

 

バンの視線が動く。

 

「見たか」

 

「見えてねぇ」

 

「嘘をつけ」

 

「病人の意地を潰すほど野暮じゃねぇよ」

 

「余計に腹立たしい」

 

「怒る元気はあんだな」

 

アルフィアは布を握りしめる。

 

病は確実に悪化している。

 

ベヒーモスとの戦いで削ったものは、戻り切っていない。

 

それでも今夜は、倒れずに最後までここにいたかった。

 

「戻るか」

 

バンが尋ねる。

 

「まだだ」

 

「そうか」

 

無理に立たせない。

 

寝ろとも言わない。

 

ただ、隣に残る。

 

アルフィアはそれを拒まなかった。

 

       ◇

 

夜が深くなる。

 

最後の炎が小さくなった頃。

 

ゼウスとヘラは、灰の上へ酒を一滴ずつ注いだ。

 

宴ではない。

 

乾杯でもない。

 

帰らなかった者へ捧げる、最初の一杯だった。

 

ナジュが、まだ封を切っていない黒砂酒の樽を見る。

 

「これは、もう少し後だね」

 

バンが答える。

 

「ああ」

 

「待てるのかい」

 

「俺を何だと思ってんだ」

 

「酒を待てない人」

 

「失礼だな」

 

「違うのかい」

 

バンは少し考える。

 

「今日は待つ」

 

ナジュは頷いた。

 

弔いは終わった。

 

だが、悲しみが終わったわけではない。

 

明日になれば、また灰を掘る。

 

水路を直す。

 

治療を続ける。

 

家を建て直す。

 

ザルドの毒も。

 

アルフィアの病も。

 

黒い砂漠の汚染も。

 

何一つ解決していない。

 

それでも。

 

帰らなかった者の名は、灰の中へ埋もれなかった。

 

紙に記され。

 

声に出され。

 

生き残った者の記憶へ残った。

 

夜空へ昇った煙が、風にほどけていく。

 

バンはその行方を見上げる。

 

遠く。

 

灰の丘へ残された大剣が、月明かりの中で黒く立っていた。

 

墓標ではない。

 

勝利の飾りでもない。

 

人が災害へ立ち向かい。

 

生きようとし。

 

帰らなかった者まで含めて、一つの道を繋いだ証だった。

 

バンは静かに呟く。

 

「忘れねぇよ」

 

誰へ向けた言葉なのか。

 

答える者はいなかった。

 

ただ、黒い砂漠を渡る風だけが。

 

灰に刻まれた名の上を、ゆっくりと通り過ぎていった。




第29話でした。

今回は、ベヒーモス討伐に参加した死者と行方不明者の名を読み上げる弔いと、黒い砂漠に残る汚染や復興の始まりを描きました。

また、クレシューズで救われた三人が、自分たちはバン一人ではなく、盾兵、魔導士、治療師、支援者を含む多くの人々に助けられたと語っています。
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