第31話 旅立ちの朝
ベヒーモス討伐から十日。
ハルファの朝には、槌の音が戻っていた。
崩れた外壁へ新しい石を積み。
灰に埋もれた水路を掘り。
使えなくなった家屋から、まだ使える木材を運び出す。
広場では大鍋が火にかけられ、働く者たちへ配る朝食が作られていた。
以前の暮らしに戻ったわけではない。
北側の井戸は、今も飲用禁止。
黒い砂漠へ向かう道には赤い杭が並び、灰の濃い区域には誰も入れない。
風が吹けば、家々の隙間へ灰が入り込む。
洗ったばかりの布も、半日経てば薄く黒ずんだ。
それでも。
誰も、もう空だけを見てはいなかった。
手を動かし。
明日の水を確保し。
壊れた場所を一つずつ直している。
バンは宿の屋根に座り、その様子を見下ろしていた。
「何をしているんですか」
下からセリアの声が飛んでくる。
「日向ぼっこ」
「屋根の上でする必要がありますか」
「景色がいい」
「右腕が治っていない人が登る場所ではありません」
「もう動くぞ」
バンは右手を上げる。
以前のような痺れはほとんど消えている。
指も動く。
だが、肩の奥にはまだ鈍い痛みが残っていた。
《強奪》を使えば、そこから骨を掴まれるような感覚が走る。
完全に戻ったわけではない。
「下りてきてください」
「朝飯できた?」
「話を逸らさないでください」
「できたんだな」
バンは屋根から飛び降りた。
「階段を使ってください!」
着地と同時に、右肩へ痛みが走る。
顔には出さない。
だが、セリアには見抜かれた。
「痛みましたね」
「気のせい」
「どちらの肩ですか」
「腹」
「嘘をつかないでください」
セリアはバンの右腕を取り、肩をゆっくり動かす。
「まだ無理をしないでください」
「旅くらいなら平気だ」
「それを決めるのは私です」
「お前も来るのか?」
「来ません」
「じゃあ俺が決める」
「そういう問題ではありません」
バンは腕を引き抜く。
「いつまでもここにいるわけにもいかねぇだろ」
セリアは返事をしなかった。
広場の向こう。
砂船へ荷物が積み込まれている。
水樽。
保存食。
薬。
ベヒーモス素材を封じた箱。
そして、寝台ごと運べるよう改造された大型の荷車。
ハルファでは治療しきれない重傷者を、交易都市リオードへ移す準備だった。
ザルドも、その一人に数えられている。
アルフィアも同じだ。
「本当に、行くんですね」
「ああ」
「リオードまでは数日かかります」
「砂船あるんだろ」
「揺れます」
「寝てりゃ着く」
「あなたは寝ないでしょう」
「よく分かってんな」
「分かりたくありませんでした」
セリアは小さく息を吐く。
「ザルドさんの毒は、まだ消えていません」
「知ってる」
「アルフィアさんも、回復したわけではありません」
「知ってる」
「あなたもです」
「俺は元気」
「一番信用できない言葉です」
「ひでぇな」
「事実です」
バンは広場へ向かって歩き出す。
セリアも後ろをついてくる。
「リオードには治療設備があります。薬師も、魔法医も、ここより多い」
「ああ」
「ですが、治る保証はありません」
「それも知ってる」
「……それでも行くんですね」
バンは足を止めなかった。
「止まってても治らねぇなら、動いた方がましだろ」
その言葉が。
ザルドのことだけを指しているのか。
アルフィアのことも。
自分自身のことも含めているのか。
セリアには分からなかった。
◇
広場では、出発する者と残る者が入り混じっていた。
パァルは物資の最終確認をしている。
「水樽は十二」
「十二です」
「予備は」
「四」
「足りん。灰が舞えば消費が増える。二つ追加しろ」
白髪の若い支援者が帳簿へ書き込む。
「素材箱は大が三、中が八、小が二十一です」
「毒性の高いものは後方へ回せ」
「魔石片は?」
「別便だ。人と同じ船へ載せるな」
リシェルは砂船の周囲へ術式を刻んでいた。
風除け。
灰除け。
簡易結界。
通常の交易路を通るだけなら必要のない備え。
黒い砂漠を越える今は、どれも欠かせない。
少し離れた場所には、ハルファへ残る者たちが集まっていた。
家を直す者。
水路を掘る者。
負傷者の家族。
旅立つ者へ、保存食や布を渡す住民たち。
ナジュも、その中にいる。
「ほら」
彼女はバンへ、細長い瓶を押しつけた。
「何だこれ」
「黒砂酒」
「一樽じゃねぇのか」
「持っていけるわけないだろ」
「砂船あるぞ」
「病人と水の方が先だよ」
「酒も命の水だろ」
「お前の中ではね」
瓶の中で、濃い琥珀色の酒が揺れる。
宴で半分残した樽から、旅立つ者の分だけ小分けにしたものだった。
「ザルドには見せるだけだよ」
「一口くらい」
「駄目」
「舐めるだけ」
「駄目」
「厳しいな」
「生きて戻ってきた時に、樽ごと飲ませてやる」
ナジュはバンを見る。
「だから、連れて帰ってきな」
バンは瓶を見下ろす。
「ああ」
軽い返事だった。
だが、ナジュはそれ以上言わなかった。
「お前も戻ってくるんだよ」
「俺?」
「当たり前だろ」
「旅人だぞ」
「だから何だい」
「帰る場所に決められんの、苦手なんだよな」
「もう決めたよ」
「勝手だな」
「嫌なら、酒は返しな」
バンは瓶をコートの内側へしまう。
「これはもらう」
「なら戻ってきな」
「覚えてたらな」
「忘れたら、取り立てに行くよ」
「怖ぇ女だな」
「ヘラ様よりはましさ」
少し離れた場所にいたヘラが振り返る。
「聞こえているわよ」
「耳いい神様ばっかだな、この世界」
ゼウスが笑う。
「神じゃからの」
「そこ、威張るとこか?」
◇
出発の列の中に、三人の団員がいた。
バンがクレシューズで救った盾使い。
女性魔導士。
若い槍使い。
彼らはリオードへは行かない。
ハルファへ残る。
盾使いは北側の水路修復を手伝う。
魔導士は灰の毒性を調べる術式班へ入る。
槍使いは、集落と仮設井戸の間で水を運ぶ。
「見送りか」
バンが尋ねる。
「監視です」
盾使いが答える。
「何の」
「あなたが勝手に歩き出さないか」
「もう歩いてるぞ」
「砂船へ乗るまでです」
魔導士は、もう両耳の布を外していた。
「聞こえるようになったか」
「半分くらいです」
「俺の声は?」
「うるさいです」
「治ってんな」
「治る前から分かりました」
若い槍使いが、小さな包みを差し出す。
「道中で食べてください」
「何だ」
「干し肉です」
バンは包みを開ける。
見たことのある香辛料の匂い。
「お前らが作ったのか」
「ナジュさんに教わりました」
「硬そうだな」
「保存食ですから」
「味見した?」
「しました」
「うまい?」
三人が一瞬だけ目を逸らす。
バンは包みを閉じた。
「不安になったぞ」
「食べられます」
「その言い方、一番駄目な奴だろ」
盾使いが笑う。
「次に戻ってきた時は、もう少しましなものを出します」
「次?」
「黒砂酒を飲みに戻るんでしょう」
魔導士が言う。
「ナジュさんから聞きました」
「口軽いな、あいつ」
「全員知っています」
槍使いが続ける。
「樽を空ける約束も」
「ザルドさんが料理を作る約束も」
「バンさんが戻る約束も」
「最後のはしてねぇぞ」
三人は同時に言う。
「今しました」
「してねぇよ」
「酒を受け取りました」
「うまく嵌められたな」
バンは少し笑う。
「まあ、酒が残ってんなら来るかもな」
「それで十分です」
盾使いが右手を差し出す。
バンは左手で握った。
力を込めすぎない。
腕の怪我へ響かない程度に。
「死ぬなよ」
バンが言う。
三人が顔を見合わせる。
「それは、こちらの台詞です」
「俺は死なねぇよ」
「以前も聞きました」
「今度は本当」
「信用しません」
「ひでぇな」
それでも。
三人の顔には笑みがあった。
◇
砂船の一番大きな荷台。
ザルドは寝台へ横になっていた。
上半身を少し起こし、荷物の固定を眺めている。
顔に残る黒い筋は、薄くなっていない。
熱も。
呼吸の乱れも。
日によって強くなる。
それでも、意識ははっきりしていた。
「酒持ったぞ」
バンが瓶を見せる。
「一樽か」
「瓶だ」
「話が違う」
「生きて戻ったら樽だとよ」
「今、生きている」
「完全に戻ったらだろ」
「誰が決めた」
「ナジュ」
「なら仕方ない」
「諦め早ぇな」
「料理人へ逆らうな」
「お前も料理人だろ」
「だから分かる」
ザルドは瓶へ視線を向ける。
「一口」
「セリアに殺される」
「死にかけた俺が、治療師を恐れると思うか」
「俺は怖い」
「意外だな」
「縛られるぞ」
「それは困る」
「だろ」
バンは瓶をしまう。
「リオードで、別の酒探してやるよ」
「砂漠の町なら、何かあるだろう」
「飲めねぇけどな」
「香りは嗅げる」
「酒飲みの末期だな」
「お前に言われたくない」
反対側の寝台には、アルフィアが座っていた。
寝るよう言われたが、出発前から横になる気はないらしい。
「病人二人がうるさい」
「お前もだろ」
バンが言う。
「私は病人ではない」
「三日前に血吐いたぞ」
「今は吐いていない」
「昨日は?」
「少しだけだ」
「病人じゃねぇか」
アルフィアは無視して、遠くの灰の丘を見る。
ザルドの大剣。
黒い砂漠へ突き刺さったまま。
朝日に照らされ、一本の黒い線となっている。
「置いていくのか」
アルフィアが尋ねる。
「置いていく」
ザルドが答える。
「後悔しないのか」
「しない」
「次の剣はどうする」
「考えていない」
バンが口を挟む。
「木の棒でいいんじゃねぇ?」
「お前と同じにするな」
「俺の神器だぞ」
「今持っているのは、ただの棒だ」
クレシューズは、別の荷箱へ入れられている。
右腕が戻るまで勝手に振るわないよう、セリアが没収したのだ。
「返してくれねぇんだよ」
「当然だ」
アルフィアが言う。
「お前は持たせると使う」
「武器ってのは使うもんだろ」
「治ってからだ」
「心配してんの?」
「耳障りなだけだ」
「便利な言葉だな、それ」
アルフィアは顔を背ける。
それ以上、何も言わなかった。
◇
出発の角笛が鳴る。
砂船の帆が開く。
魔石で動く推進具が低い音を立て、灰の上をゆっくりと滑り始める。
ハルファの住民たちが手を振る。
団員たちも。
治療師も。
残る者も。
旅立つ者も。
声を上げる。
「戻ってこいよ!」
「酒を忘れるな!」
「病人を働かせるな!」
「バンさんを見張ってください!」
「最後、誰に言ってんだ!」
バンが振り返る。
助けた三人が、揃ってこちらを指している。
「余計なこと教えんなよ!」
セリアが、すぐ後ろから答える。
「もう全員知っています」
「お前も乗るのかよ」
「リオードまでです」
「聞いてねぇぞ」
「言っていませんでしたから」
「性格悪ぃな」
「患者を見張るためです」
「患者二人いるぞ」
「三人です」
「俺入ってんの?」
「当然です」
バンは深く息を吐く。
砂船は、ハルファから離れていく。
家々が小さくなる。
広場。
水路。
弔いの石壇。
黒砂酒の樽が残る倉庫。
そして。
灰の丘へ突き刺さったザルドの大剣。
すべてが、ゆっくり遠ざかる。
アルフィアは、最後まで大剣を見ていた。
ザルドは目を閉じている。
眠っているのか。
見送らないと決めたのか。
分からない。
バンだけが、船尾へ立ち。
風を受けていた。
暗赤色のコートが灰色の風にはためく。
右腕はまだ自由に動かない。
身体も。
力も。
完全ではない。
それでも。
また、旅が始まる。
黒い砂漠の向こう。
カイオス砂漠西部。
オアシスと交易路が交わる町、リオード。
そこには。
ハルファとは違う酒。
違う料理。
違う人間がいる。
「うまいもん、あるといいな」
バンが呟く。
アルフィアが聞きつける。
「病人の療養が目的だ」
「飯も治療だろ」
「お前の場合は欲望だ」
「強欲だからな」
アルフィアは小さく息を吐く。
「本当に、変わらない男だ」
「変わったぞ」
「どこが」
バンは遠ざかるハルファを見る。
灰の中で。
人々が働いている。
水路を掘り。
屋根を直し。
生きている。
「前より、帰る場所が増えた」
アルフィアは何も言わなかった。
ただ。
閉じた瞼を、僅かにバンの方へ向けた。
砂船は、灰の海を越えていく。
黒く染まった大地の向こう。
陽炎の中に。
まだ見えないオアシスの町が待っていた。
第31話でした。
今回は、復興が始まったハルファを離れ、重傷者の療養と素材の運搬のため、バンたちがリオードへ向けて出発する様子を描きました。