ハルファを出発して半日。
砂船は、黒と灰色に染まった大地を進んでいた。
帆は大きく張られている。
だが、以前のように砂の上を軽やかに滑ることはできない。
ベヒーモスの死によって積もった灰が、砂船の底へまとわりつく。
乾いた場所では粉雪のように舞い上がり。
湿気を含んだ窪地では、泥に似た重い塊となって進路を塞ぐ。
「右へ三度!」
先頭の砂船から声が飛ぶ。
操舵手が舵を切る。
船体が軋み、荷台が大きく傾いた。
「揺らすな」
アルフィアが不機嫌そうに言う。
「船頭に言えよ」
バンは荷台の縁へ腰を掛けていた。
暗赤色のコートの裾が風に揺れる。
右腕はまだ胸元へ吊られたまま。
左手には、ナジュから渡された干し肉がある。
一口噛んだまま、長い時間動かない。
「硬いのか」
ザルドが寝台から尋ねた。
「硬ぇ」
「保存食だ」
「保存しすぎじゃねぇ?」
「歯が弱いだけではないか」
アルフィアが言う。
「俺の歯で噛み切れねぇ肉が普通なわけねぇだろ」
「貸せ」
ザルドが左手を伸ばす。
「病人に硬ぇもん食わせんなって言われてんだろ」
「味を見るだけだ」
「それ、酒の時も言ってたぞ」
「料理人には必要な行為だ」
「便利だな、料理人」
バンは干し肉を小さく千切り、ザルドへ渡した。
セリアは別の負傷者を診ている。
見つかる前に口へ入れる。
ザルドはゆっくり噛んだ。
眉が僅かに寄る。
「どうだ」
「硬い」
「だろ?」
「塩が多い」
「水が欲しくなるな」
「保存食としては正しい」
「味は?」
ザルドはもう一度噛む。
「食べられる」
「一番駄目な評価だな」
アルフィアが手を差し出す。
「私にも寄越せ」
「さっき歯が弱いとか言ってなかった?」
「確認するだけだ」
「お前も料理人になったのかよ」
「うるさい」
バンは薄い欠片を渡す。
アルフィアは慎重に噛み。
すぐに水筒へ手を伸ばした。
「硬いな」
「素直じゃん」
「だが、お前の料理よりはましだ」
「何と比べてんだよ」
三人の会話を聞いていた近くの団員が笑う。
船旅の空気は、出発した時より少しだけ軽くなっていた。
ハルファの姿は、もう見えない。
それでも、旅立ちの寂しさばかりを抱えて進む者はいなかった。
船には負傷者がいる。
毒を抱えたザルド。
病を悪化させたアルフィア。
右腕の戻りきらないバン。
さらに、ベヒーモス戦で傷ついた団員たち。
目的地へ着くまで、倒れるわけにはいかない。
◇
午後。
灰の量が、急に深くなった。
先頭の砂船が停止する。
後続も順番に速度を落とした。
「何だ?」
バンが荷台から立ち上がる。
船の前方。
地面に長い亀裂が走っている。
ベヒーモスが倒れた衝撃によって生まれた地割れだった。
幅は狭い場所でも数メートル。
底は灰で埋まり、深さが分からない。
「迂回します」
操舵手が地図を広げる。
「東側は灰の濃度が高い。西側へ大きく回る必要があります」
「どれくらいだ」
パァルが尋ねる。
「順調でも半日。灰溜まりに捕まれば、さらにかかります」
「橋は作れないか」
「荷車ならともかく、砂船を渡すには幅が足りません」
バンは地割れの縁へ近づく。
セリアがすぐ後ろから声を上げた。
「赤杭の外へ出ないでください!」
「杭ねぇだろ」
「だから危険なのです!」
バンは左足で地面を蹴る。
灰の表面は硬い。
だが、その下は柔らかい。
強く踏み込めば、足首まで沈む。
「下、砂じゃねぇな」
パァルも地割れを覗き込む。
「灰が積もっている」
「どこまで?」
「分からん」
「沈むぞ、これ」
荷車一台なら、軽くして渡せるかもしれない。
だが、素材を積んだ砂船は重い。
無理に進めば、灰の底へ飲み込まれる。
バンは左手を伸ばす。
「《強奪》は使うな」
アルフィアの声が飛んだ。
「まだ何もしてねぇよ」
「しようとした」
「何で分かる」
「お前は考える前に手が動く」
「失礼だな」
「事実だ」
バンは手を下ろす。
右肩へ、まだ痛みが残っている。
この規模の灰を動かせば、再び腕へ負担がかかる。
「迂回するしかないか」
マキシムが周囲を見渡す。
だが、その時。
エルンが灰の上へしゃがみ込んだ。
「待ってください」
地面へ指を近づける。
触れずに、表面の小さな痕跡を見る。
「何か通っています」
「人か」
「違います」
灰の中に、細い線が何本も残っている。
這った跡。
だが、一つではない。
数十。
いや、さらに多い。
「魔物か」
パァルが槍へ手を掛ける。
「恐らく」
灰の地面が動いた。
最初は風かと思われた。
小さな盛り上がりが、一つ。
二つ。
船団の左右へ広がっていく。
「全員、武器を取れ!」
号令が飛ぶ。
負傷者を乗せた船を囲うように、団員たちが展開する。
灰が弾けた。
中から現れたのは、小型の砂蜥蜴だった。
通常なら、人の膝ほどの大きさ。
だが、灰の中から出てきた個体は、身体のところどころが黒く変色している。
鱗の隙間へ灰が入り込み。
眼は赤く濁っていた。
「黒砂の影響が残っている!」
「頭を狙え!」
砂蜥蜴が一斉に走り出す。
数は多い。
だが、ベヒーモスの生前に現れた魔物ほど強くはない。
動きにもばらつきがある。
黒砂が身体を支えていた時とは違い、傷を負えば倒れる。
前衛が槍を突き出す。
数体が灰の上へ転がった。
弓が飛ぶ。
魔法が走る。
それでも、すべてを止めるには数が多かった。
一体が盾列の下をすり抜ける。
負傷者の荷台へ向かう。
バンが左手を振った。
「《獲物狩り》」
砂蜥蜴の身体が横へ飛ぶ。
空中で軌道を変え、船体へぶつかる前に灰へ叩きつけられた。
右肩に痛みはない。
狙ったのは、軽い身体だけ。
ベヒーモスの力へ触れた時とは違う。
「動くじゃねぇか」
「一体だけだ」
アルフィアが言う。
「十分だろ」
「調子に乗るな」
二体目が迫る。
今度はザルドが手を伸ばした。
寝台の脇に置かれていた短い予備剣を投げる。
刃は砂蜥蜴の頭部へ突き刺さった。
「病人が武器投げんなよ」
「お前に言われたくない」
「腕、痛んだろ」
「少しな」
「無理すんな」
「お前が言うな」
アルフィアが指を上げる。
短い魔力の衝撃。
三体の砂蜥蜴が同時に吹き飛び、灰へ沈んだ。
直後。
彼女は小さく咳き込む。
バンが横目で見る。
「無理すんな」
「お前に言われたくない」
「流行ってんのか、それ」
砂蜥蜴の群れは、長くは保たなかった。
黒砂による異常な生命力を失い。
灰の中で衰弱していたのだろう。
十数分後。
動く個体はいなくなった。
「追うな!」
パァルが命じる。
「巣穴へ近づく必要はない!負傷者を確認しろ!」
幸い、重傷者はいなかった。
腕を噛まれた団員が一人。
灰を吸い込み、咳き込んだ者が二人。
セリアたちがすぐに処置を始める。
バンは倒れた砂蜥蜴を一体、尾を掴んで持ち上げた。
「食えるかな」
「やめてください」
セリアの声が即座に飛んでくる。
「まだ何も言ってねぇぞ」
「顔に書いてあります」
「黒くなってない部分なら」
「駄目です」
「毒は俺に効かねぇ」
「他の人が食べられません」
「俺が食う」
「駄目です」
「厳しいな」
ザルドが砂蜥蜴を見る。
「灰の臭いが染みている」
「焼けば飛ぶ?」
「肉まで侵されている可能性が高い」
「じゃあ駄目か」
「今回はな」
アルフィアが呆れたように言う。
「戦った直後に食べる話をするな」
「敵が食材なら自然だろ」
「自然ではない」
「ザルドは分かってくれるぞ」
「今回は捨てろ」
ザルドが即答する。
「裏切られた」
「食えないものを見分けるのも料理だ」
「深ぇな」
「当たり前の話だ」
倒した砂蜥蜴は、灰ごと穴へ埋められた。
肉も。
鱗も。
素材として使える可能性はある。
だが、今は安全が優先だった。
ベヒーモスの死によって。
黒砂に狂わされていた魔物が、すべて元へ戻ったわけではない。
力を失い。
飢え。
住処を追われ。
別の場所へ流れている。
災害の死は、周囲の生き物にも新たな苦しみを残していた。
◇
船団は地割れを避け、西へ進路を変えた。
夕方。
灰の量が少しずつ減り始める。
黒一色だった地面に。
元の黄色い砂が混じるようになった。
「あそこ」
白髪の若い支援者が前方を指す。
小さな緑。
灰色の景色の中へ、一本の低木が立っている。
葉の半分は枯れていた。
枝にも灰が積もっている。
それでも。
根元から、新しい芽が伸びていた。
船団の速度が僅かに落ちる。
誰かが見つけた。
声を上げるほどのものではない。
ただの植物。
砂漠に生える、小さな木。
だが。
ベヒーモスの死後。
初めて見た、はっきりとした緑だった。
バンは荷台の縁から、それを見る。
「しぶてぇな」
「植物に負けているぞ」
アルフィアが言う。
「何が」
「お前は少し痛むだけで騒ぐ」
「俺、騒いでた?」
「肉が少ない、酒がない、腕が痛い」
「最後は言ってねぇだろ」
「顔に出ている」
「セリアみてぇなこと言うなよ」
アルフィアは小さな芽を見る。
「土地は戻るのか」
「さあな」
「分からないのか」
「俺に聞くなよ」
「王なのだろう」
「異世界のな」
「土地を治した経験は」
「ねぇよ。俺は料理と喧嘩担当」
「よく王を名乗れるな」
「優秀な奴が周りにいんだよ」
アルフィアは、その言葉に少しだけ反応する。
「信頼しているのか」
「ああ」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
バンの元の世界。
妻。
息子。
国。
仲間。
詳しい話は、まだ誰も知らない。
彼が話すまで、アルフィアも無理に聞くつもりはなかった。
だが。
知らないものが多いほど。
その男が、遠く感じられる時がある。
「何だよ」
バンが横を見る。
「何も」
「見てただろ」
「目は閉じている」
「便利だな、それ」
「事実だ」
◇
夜。
船団は、灰の薄い岩場で野営することになった。
砂船を円形に並べ。
中央へ負傷者。
外側へ見張り。
火は小さく。
灰を舞い上げないよう、風下へ炉を作る。
夕食は保存食だった。
硬いパン。
干し肉。
薄い豆のスープ。
バンは鍋の前へ座り。
干し肉を水へ浸していた。
「何をしている」
ザルドが寝台から尋ねる。
「柔らかくしてんの」
「水に浸すだけか」
「スープに入れる」
「塩が出すぎる」
「豆入れればちょうどいいだろ」
「香草は」
「これ」
バンが袋を見せる。
ハルファで分けてもらった乾燥香草。
「入れすぎるな」
「分かってる」
「切り方が大きい」
「右手使えねぇんだよ」
「左だけでも、もう少し揃えられる」
「うるせぇな。病人は待ってろ」
「料理を任せるのが不安だ」
「なら自分で作れ」
ザルドが起き上がろうとする。
セリアが肩を押し戻す。
「寝ていてください」
「ほら、俺に任せろって」
「一番不安な結果になったな」
「飯抜きにすんぞ」
アルフィアは鍋から離れた場所へ座っていた。
「私の分だけ別にしろ」
「何で」
「香辛料が多い」
「まだ入れてねぇよ」
「お前は後で増やす」
「信用ねぇな」
「当然だ」
結局。
アルフィアの分だけ、香辛料を減らした小鍋を用意することになった。
豆と柔らかくなった干し肉。
薄い野菜。
味は簡素。
それでも、温かい。
長い船旅で冷えた身体には十分だった。
「どうだ」
バンがアルフィアへ尋ねる。
「普通だ」
「全部食ってから言えよ」
「空腹だっただけだ」
「おかわりは?」
「少し」
「気に入ってんじゃん」
「黙れ」
ザルドもスープを一口飲む。
「塩が強い」
「干し肉のせい」
「香草が弱い」
「さっき入れすぎんなって言ったろ」
「入れすぎるなとは言った。減らせとは言っていない」
「面倒くせぇ料理人だな」
「お前も料理人なら分かれ」
「俺は食う方が得意」
「知っている」
食事を終える頃。
夜空へ星が広がっていた。
黒い砂漠の灰は。
もう空を完全には覆っていない。
久しぶりに見える星だった。
バンは岩へ背を預ける。
コートの内側から、黒砂酒の瓶を出す。
封は開けない。
ただ、月明かりへ透かして見る。
「飲むのか」
ザルドが尋ねる。
「見てるだけ」
「珍しいな」
「お前が飲めるまで残すんだろ」
「ああ」
「忘れてねぇよ」
ザルドは目を閉じる。
「リオードには、別の酒がある」
「知ってんの?」
「以前、商人から聞いた」
「どんなの」
「水を入れると、白く濁るらしい」
バンの目が僅かに輝く。
「酒が?」
「ああ」
「腐ってんじゃねぇ?」
「違う」
「うまいの?」
「知らん」
「飲んだことねぇのかよ」
「聞いただけだ」
「役に立たねぇな」
アルフィアが横から言う。
「酒の話で目を輝かせるな」
「白くなるんだぞ」
「だから何だ」
「面白ぇだろ」
「理解できない」
「お前も飲めば分かる」
「薬との相性が悪ければ飲まない」
「真面目か」
「病人は節度を守るべきだ」
「お前が言うな」
「お前よりは守っている」
バンは笑い。
瓶をしまう。
黒砂酒は、まだ開けない。
次の町で。
別の酒を試す。
別の料理を食べる。
それは。
ベヒーモスを忘れるためではない。
死者を置いていくためでもない。
生きている者が。
新しい味を知るためだ。
夜の見張りが交代する。
火が小さくなる。
遠くで、砂が風に流れる。
灰の地帯を越え。
黄色い砂が増えた大地の先。
まだ見えないリオードの方向から。
乾いた風と共に。
かすかな香草の匂いが届いたような気がした。
「近いな」
バンが呟く。
「何が」
アルフィアが尋ねる。
「うまいもん」
「気のせいだ」
「つまんねぇ奴」
「寝ろ」
バンは星空を見上げる。
右肩は、まだ痛む。
ザルドの毒も。
アルフィアの病も。
何一つ治っていない。
それでも。
船団は前へ進んでいる。
灰色の大地を越え。
明日。
その先へ。
第32話でした。
今回は、ベヒーモス討伐後に変化した黒い砂漠を砂船で進み、灰の中に残る魔物や環境への影響を描きました。
また、一行は灰の薄い地域へ到達し、水を加えると白く濁るリオードの名物酒の話を耳にしています。