強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

33 / 45
第32話です。


第32話 灰を越えて

ハルファを出発して半日。

 

砂船は、黒と灰色に染まった大地を進んでいた。

 

帆は大きく張られている。

 

だが、以前のように砂の上を軽やかに滑ることはできない。

 

ベヒーモスの死によって積もった灰が、砂船の底へまとわりつく。

 

乾いた場所では粉雪のように舞い上がり。

 

湿気を含んだ窪地では、泥に似た重い塊となって進路を塞ぐ。

 

「右へ三度!」

 

先頭の砂船から声が飛ぶ。

 

操舵手が舵を切る。

 

船体が軋み、荷台が大きく傾いた。

 

「揺らすな」

 

アルフィアが不機嫌そうに言う。

 

「船頭に言えよ」

 

バンは荷台の縁へ腰を掛けていた。

 

暗赤色のコートの裾が風に揺れる。

 

右腕はまだ胸元へ吊られたまま。

 

左手には、ナジュから渡された干し肉がある。

 

一口噛んだまま、長い時間動かない。

 

「硬いのか」

 

ザルドが寝台から尋ねた。

 

「硬ぇ」

 

「保存食だ」

 

「保存しすぎじゃねぇ?」

 

「歯が弱いだけではないか」

 

アルフィアが言う。

 

「俺の歯で噛み切れねぇ肉が普通なわけねぇだろ」

 

「貸せ」

 

ザルドが左手を伸ばす。

 

「病人に硬ぇもん食わせんなって言われてんだろ」

 

「味を見るだけだ」

 

「それ、酒の時も言ってたぞ」

 

「料理人には必要な行為だ」

 

「便利だな、料理人」

 

バンは干し肉を小さく千切り、ザルドへ渡した。

 

セリアは別の負傷者を診ている。

 

見つかる前に口へ入れる。

 

ザルドはゆっくり噛んだ。

 

眉が僅かに寄る。

 

「どうだ」

 

「硬い」

 

「だろ?」

 

「塩が多い」

 

「水が欲しくなるな」

 

「保存食としては正しい」

 

「味は?」

 

ザルドはもう一度噛む。

 

「食べられる」

 

「一番駄目な評価だな」

 

アルフィアが手を差し出す。

 

「私にも寄越せ」

 

「さっき歯が弱いとか言ってなかった?」

 

「確認するだけだ」

 

「お前も料理人になったのかよ」

 

「うるさい」

 

バンは薄い欠片を渡す。

 

アルフィアは慎重に噛み。

 

すぐに水筒へ手を伸ばした。

 

「硬いな」

 

「素直じゃん」

 

「だが、お前の料理よりはましだ」

 

「何と比べてんだよ」

 

三人の会話を聞いていた近くの団員が笑う。

 

船旅の空気は、出発した時より少しだけ軽くなっていた。

 

ハルファの姿は、もう見えない。

 

それでも、旅立ちの寂しさばかりを抱えて進む者はいなかった。

 

船には負傷者がいる。

 

毒を抱えたザルド。

 

病を悪化させたアルフィア。

 

右腕の戻りきらないバン。

 

さらに、ベヒーモス戦で傷ついた団員たち。

 

目的地へ着くまで、倒れるわけにはいかない。

 

       ◇

 

午後。

 

灰の量が、急に深くなった。

 

先頭の砂船が停止する。

 

後続も順番に速度を落とした。

 

「何だ?」

 

バンが荷台から立ち上がる。

 

船の前方。

 

地面に長い亀裂が走っている。

 

ベヒーモスが倒れた衝撃によって生まれた地割れだった。

 

幅は狭い場所でも数メートル。

 

底は灰で埋まり、深さが分からない。

 

「迂回します」

 

操舵手が地図を広げる。

 

「東側は灰の濃度が高い。西側へ大きく回る必要があります」

 

「どれくらいだ」

 

パァルが尋ねる。

 

「順調でも半日。灰溜まりに捕まれば、さらにかかります」

 

「橋は作れないか」

 

「荷車ならともかく、砂船を渡すには幅が足りません」

 

バンは地割れの縁へ近づく。

 

セリアがすぐ後ろから声を上げた。

 

「赤杭の外へ出ないでください!」

 

「杭ねぇだろ」

 

「だから危険なのです!」

 

バンは左足で地面を蹴る。

 

灰の表面は硬い。

 

だが、その下は柔らかい。

 

強く踏み込めば、足首まで沈む。

 

「下、砂じゃねぇな」

 

パァルも地割れを覗き込む。

 

「灰が積もっている」

 

「どこまで?」

 

「分からん」

 

「沈むぞ、これ」

 

荷車一台なら、軽くして渡せるかもしれない。

 

だが、素材を積んだ砂船は重い。

 

無理に進めば、灰の底へ飲み込まれる。

 

バンは左手を伸ばす。

 

「《強奪》は使うな」

 

アルフィアの声が飛んだ。

 

「まだ何もしてねぇよ」

 

「しようとした」

 

「何で分かる」

 

「お前は考える前に手が動く」

 

「失礼だな」

 

「事実だ」

 

バンは手を下ろす。

 

右肩へ、まだ痛みが残っている。

 

この規模の灰を動かせば、再び腕へ負担がかかる。

 

「迂回するしかないか」

 

マキシムが周囲を見渡す。

 

だが、その時。

 

エルンが灰の上へしゃがみ込んだ。

 

「待ってください」

 

地面へ指を近づける。

 

触れずに、表面の小さな痕跡を見る。

 

「何か通っています」

 

「人か」

 

「違います」

 

灰の中に、細い線が何本も残っている。

 

這った跡。

 

だが、一つではない。

 

数十。

 

いや、さらに多い。

 

「魔物か」

 

パァルが槍へ手を掛ける。

 

「恐らく」

 

灰の地面が動いた。

 

最初は風かと思われた。

 

小さな盛り上がりが、一つ。

 

二つ。

 

船団の左右へ広がっていく。

 

「全員、武器を取れ!」

 

号令が飛ぶ。

 

負傷者を乗せた船を囲うように、団員たちが展開する。

 

灰が弾けた。

 

中から現れたのは、小型の砂蜥蜴だった。

 

通常なら、人の膝ほどの大きさ。

 

だが、灰の中から出てきた個体は、身体のところどころが黒く変色している。

 

鱗の隙間へ灰が入り込み。

 

眼は赤く濁っていた。

 

「黒砂の影響が残っている!」

 

「頭を狙え!」

 

砂蜥蜴が一斉に走り出す。

 

数は多い。

 

だが、ベヒーモスの生前に現れた魔物ほど強くはない。

 

動きにもばらつきがある。

 

黒砂が身体を支えていた時とは違い、傷を負えば倒れる。

 

前衛が槍を突き出す。

 

数体が灰の上へ転がった。

 

弓が飛ぶ。

 

魔法が走る。

 

それでも、すべてを止めるには数が多かった。

 

一体が盾列の下をすり抜ける。

 

負傷者の荷台へ向かう。

 

バンが左手を振った。

 

「《獲物狩り》」

 

砂蜥蜴の身体が横へ飛ぶ。

 

空中で軌道を変え、船体へぶつかる前に灰へ叩きつけられた。

 

右肩に痛みはない。

 

狙ったのは、軽い身体だけ。

 

ベヒーモスの力へ触れた時とは違う。

 

「動くじゃねぇか」

 

「一体だけだ」

 

アルフィアが言う。

 

「十分だろ」

 

「調子に乗るな」

 

二体目が迫る。

 

今度はザルドが手を伸ばした。

 

寝台の脇に置かれていた短い予備剣を投げる。

 

刃は砂蜥蜴の頭部へ突き刺さった。

 

「病人が武器投げんなよ」

 

「お前に言われたくない」

 

「腕、痛んだろ」

 

「少しな」

 

「無理すんな」

 

「お前が言うな」

 

アルフィアが指を上げる。

 

短い魔力の衝撃。

 

三体の砂蜥蜴が同時に吹き飛び、灰へ沈んだ。

 

直後。

 

彼女は小さく咳き込む。

 

バンが横目で見る。

 

「無理すんな」

 

「お前に言われたくない」

 

「流行ってんのか、それ」

 

砂蜥蜴の群れは、長くは保たなかった。

 

黒砂による異常な生命力を失い。

 

灰の中で衰弱していたのだろう。

 

十数分後。

 

動く個体はいなくなった。

 

「追うな!」

 

パァルが命じる。

 

「巣穴へ近づく必要はない!負傷者を確認しろ!」

 

幸い、重傷者はいなかった。

 

腕を噛まれた団員が一人。

 

灰を吸い込み、咳き込んだ者が二人。

 

セリアたちがすぐに処置を始める。

 

バンは倒れた砂蜥蜴を一体、尾を掴んで持ち上げた。

 

「食えるかな」

 

「やめてください」

 

セリアの声が即座に飛んでくる。

 

「まだ何も言ってねぇぞ」

 

「顔に書いてあります」

 

「黒くなってない部分なら」

 

「駄目です」

 

「毒は俺に効かねぇ」

 

「他の人が食べられません」

 

「俺が食う」

 

「駄目です」

 

「厳しいな」

 

ザルドが砂蜥蜴を見る。

 

「灰の臭いが染みている」

 

「焼けば飛ぶ?」

 

「肉まで侵されている可能性が高い」

 

「じゃあ駄目か」

 

「今回はな」

 

アルフィアが呆れたように言う。

 

「戦った直後に食べる話をするな」

 

「敵が食材なら自然だろ」

 

「自然ではない」

 

「ザルドは分かってくれるぞ」

 

「今回は捨てろ」

 

ザルドが即答する。

 

「裏切られた」

 

「食えないものを見分けるのも料理だ」

 

「深ぇな」

 

「当たり前の話だ」

 

倒した砂蜥蜴は、灰ごと穴へ埋められた。

 

肉も。

 

鱗も。

 

素材として使える可能性はある。

 

だが、今は安全が優先だった。

 

ベヒーモスの死によって。

 

黒砂に狂わされていた魔物が、すべて元へ戻ったわけではない。

 

力を失い。

 

飢え。

 

住処を追われ。

 

別の場所へ流れている。

 

災害の死は、周囲の生き物にも新たな苦しみを残していた。

 

       ◇

 

船団は地割れを避け、西へ進路を変えた。

 

夕方。

 

灰の量が少しずつ減り始める。

 

黒一色だった地面に。

 

元の黄色い砂が混じるようになった。

 

「あそこ」

 

白髪の若い支援者が前方を指す。

 

小さな緑。

 

灰色の景色の中へ、一本の低木が立っている。

 

葉の半分は枯れていた。

 

枝にも灰が積もっている。

 

それでも。

 

根元から、新しい芽が伸びていた。

 

船団の速度が僅かに落ちる。

 

誰かが見つけた。

 

声を上げるほどのものではない。

 

ただの植物。

 

砂漠に生える、小さな木。

 

だが。

 

ベヒーモスの死後。

 

初めて見た、はっきりとした緑だった。

 

バンは荷台の縁から、それを見る。

 

「しぶてぇな」

 

「植物に負けているぞ」

 

アルフィアが言う。

 

「何が」

 

「お前は少し痛むだけで騒ぐ」

 

「俺、騒いでた?」

 

「肉が少ない、酒がない、腕が痛い」

 

「最後は言ってねぇだろ」

 

「顔に出ている」

 

「セリアみてぇなこと言うなよ」

 

アルフィアは小さな芽を見る。

 

「土地は戻るのか」

 

「さあな」

 

「分からないのか」

 

「俺に聞くなよ」

 

「王なのだろう」

 

「異世界のな」

 

「土地を治した経験は」

 

「ねぇよ。俺は料理と喧嘩担当」

 

「よく王を名乗れるな」

 

「優秀な奴が周りにいんだよ」

 

アルフィアは、その言葉に少しだけ反応する。

 

「信頼しているのか」

 

「ああ」

 

「そうか」

 

それ以上は聞かなかった。

 

バンの元の世界。

 

妻。

 

息子。

 

国。

 

仲間。

 

詳しい話は、まだ誰も知らない。

 

彼が話すまで、アルフィアも無理に聞くつもりはなかった。

 

だが。

 

知らないものが多いほど。

 

その男が、遠く感じられる時がある。

 

「何だよ」

 

バンが横を見る。

 

「何も」

 

「見てただろ」

 

「目は閉じている」

 

「便利だな、それ」

 

「事実だ」

 

       ◇

 

夜。

 

船団は、灰の薄い岩場で野営することになった。

 

砂船を円形に並べ。

 

中央へ負傷者。

 

外側へ見張り。

 

火は小さく。

 

灰を舞い上げないよう、風下へ炉を作る。

 

夕食は保存食だった。

 

硬いパン。

 

干し肉。

 

薄い豆のスープ。

 

バンは鍋の前へ座り。

 

干し肉を水へ浸していた。

 

「何をしている」

 

ザルドが寝台から尋ねる。

 

「柔らかくしてんの」

 

「水に浸すだけか」

 

「スープに入れる」

 

「塩が出すぎる」

 

「豆入れればちょうどいいだろ」

 

「香草は」

 

「これ」

 

バンが袋を見せる。

 

ハルファで分けてもらった乾燥香草。

 

「入れすぎるな」

 

「分かってる」

 

「切り方が大きい」

 

「右手使えねぇんだよ」

 

「左だけでも、もう少し揃えられる」

 

「うるせぇな。病人は待ってろ」

 

「料理を任せるのが不安だ」

 

「なら自分で作れ」

 

ザルドが起き上がろうとする。

 

セリアが肩を押し戻す。

 

「寝ていてください」

 

「ほら、俺に任せろって」

 

「一番不安な結果になったな」

 

「飯抜きにすんぞ」

 

アルフィアは鍋から離れた場所へ座っていた。

 

「私の分だけ別にしろ」

 

「何で」

 

「香辛料が多い」

 

「まだ入れてねぇよ」

 

「お前は後で増やす」

 

「信用ねぇな」

 

「当然だ」

 

結局。

 

アルフィアの分だけ、香辛料を減らした小鍋を用意することになった。

 

豆と柔らかくなった干し肉。

 

薄い野菜。

 

味は簡素。

 

それでも、温かい。

 

長い船旅で冷えた身体には十分だった。

 

「どうだ」

 

バンがアルフィアへ尋ねる。

 

「普通だ」

 

「全部食ってから言えよ」

 

「空腹だっただけだ」

 

「おかわりは?」

 

「少し」

 

「気に入ってんじゃん」

 

「黙れ」

 

ザルドもスープを一口飲む。

 

「塩が強い」

 

「干し肉のせい」

 

「香草が弱い」

 

「さっき入れすぎんなって言ったろ」

 

「入れすぎるなとは言った。減らせとは言っていない」

 

「面倒くせぇ料理人だな」

 

「お前も料理人なら分かれ」

 

「俺は食う方が得意」

 

「知っている」

 

食事を終える頃。

 

夜空へ星が広がっていた。

 

黒い砂漠の灰は。

 

もう空を完全には覆っていない。

 

久しぶりに見える星だった。

 

バンは岩へ背を預ける。

 

コートの内側から、黒砂酒の瓶を出す。

 

封は開けない。

 

ただ、月明かりへ透かして見る。

 

「飲むのか」

 

ザルドが尋ねる。

 

「見てるだけ」

 

「珍しいな」

 

「お前が飲めるまで残すんだろ」

 

「ああ」

 

「忘れてねぇよ」

 

ザルドは目を閉じる。

 

「リオードには、別の酒がある」

 

「知ってんの?」

 

「以前、商人から聞いた」

 

「どんなの」

 

「水を入れると、白く濁るらしい」

 

バンの目が僅かに輝く。

 

「酒が?」

 

「ああ」

 

「腐ってんじゃねぇ?」

 

「違う」

 

「うまいの?」

 

「知らん」

 

「飲んだことねぇのかよ」

 

「聞いただけだ」

 

「役に立たねぇな」

 

アルフィアが横から言う。

 

「酒の話で目を輝かせるな」

 

「白くなるんだぞ」

 

「だから何だ」

 

「面白ぇだろ」

 

「理解できない」

 

「お前も飲めば分かる」

 

「薬との相性が悪ければ飲まない」

 

「真面目か」

 

「病人は節度を守るべきだ」

 

「お前が言うな」

 

「お前よりは守っている」

 

バンは笑い。

 

瓶をしまう。

 

黒砂酒は、まだ開けない。

 

次の町で。

 

別の酒を試す。

 

別の料理を食べる。

 

それは。

 

ベヒーモスを忘れるためではない。

 

死者を置いていくためでもない。

 

生きている者が。

 

新しい味を知るためだ。

 

夜の見張りが交代する。

 

火が小さくなる。

 

遠くで、砂が風に流れる。

 

灰の地帯を越え。

 

黄色い砂が増えた大地の先。

 

まだ見えないリオードの方向から。

 

乾いた風と共に。

 

かすかな香草の匂いが届いたような気がした。

 

「近いな」

 

バンが呟く。

 

「何が」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「うまいもん」

 

「気のせいだ」

 

「つまんねぇ奴」

 

「寝ろ」

 

バンは星空を見上げる。

 

右肩は、まだ痛む。

 

ザルドの毒も。

 

アルフィアの病も。

 

何一つ治っていない。

 

それでも。

 

船団は前へ進んでいる。

 

灰色の大地を越え。

 

明日。

 

その先へ。




第32話でした。

今回は、ベヒーモス討伐後に変化した黒い砂漠を砂船で進み、灰の中に残る魔物や環境への影響を描きました。

また、一行は灰の薄い地域へ到達し、水を加えると白く濁るリオードの名物酒の話を耳にしています。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。