強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第30話です。


第30話 黒砂酒の約束

弔いの翌朝。

 

ハルファには、久しぶりに焼いた肉の匂いが漂っていた。

 

まだ宴ではない。

 

水路の修復も終わっていない。

 

黒い砂漠には灰が残り、赤い杭の向こうへ素手で入ることもできない。

 

重傷者の中には、今も目を覚ましていない者がいる。

 

それでも。

 

帰らなかった者の名を読み終え。

 

遺された武器を炎へ送り。

 

生き残った者たちが、再び明日へ向かって歩き始めるためには。

 

食べる必要があった。

 

「肉が少ない!」

 

広場の中央で、バンが言った。

 

「朝からうるさい」

 

椅子へ座ったアルフィアが、苛立たしげに返す。

 

彼女の前には、薄いパンと柔らかく煮た豆。

 

病人向けに香辛料を控えた鳥肉の煮込みが置かれている。

 

「昨日まで豆ばっかだったんだぞ。今日は肉の日だろ」

 

「誰が決めた」

 

「俺」

 

「無効だ」

 

「お前、肉いらねぇなら寄越せ」

 

「断る」

 

「いらねぇんじゃねぇかよ」

 

「お前に渡すくらいなら食べる」

 

「性格悪ぃな」

 

「知っている」

 

アルフィアは鳥肉を一口食べる。

 

顔には出さない。

 

だが、普段より僅かに食べる速度が早い。

 

バンはそれを見て笑った。

 

「うまいんだろ」

 

「普通だ」

 

「ザルドの料理じゃねぇからな」

 

「お前が作ったのか」

 

「半分くらい」

 

「では不味い」

 

「食ってから言うなよ」

 

「食べたから言っている」

 

バンが言い返そうとした時。

 

広場の反対側から、重い足音が近づいてきた。

 

会話が止まる。

 

担架ではない。

 

両脇をパァルとセリアに支えられながら、ザルドが自分の足で歩いている。

 

胸元には厚い包帯。

 

首から頬へ伸びる黒い筋は、まだ消えていない。

 

歩幅も小さい。

 

数歩進むたび、呼吸を整えている。

 

それでも。

 

暴喰の男は、立っていた。

 

「病人が歩いてんな」

 

バンが言う。

 

「お前に言われたくない」

 

ザルドは低い声で答えた。

 

「俺はもう元気だぞ」

 

「右腕は」

 

「飾りだ」

 

「なら元気ではない」

 

「細けぇな」

 

セリアがザルドを椅子へ座らせる。

 

「食事の後は、すぐ救護所へ戻ります」

 

「分かっている」

 

「酒は禁止です」

 

ザルドの眉が動く。

 

「聞いていない」

 

「今言いました」

 

「約束がある」

 

「命の方が大切です」

 

「酒の約束も大切だ」

 

「駄目です」

 

「一口だけだ」

 

「駄目です」

 

「舐めるだけなら」

 

「駄目です」

 

バンが横から口を挟む。

 

「厳しいな」

 

「あなたも禁止です」

 

「俺も?」

 

「昨日、生命力を使って倒れた人が何を言っているのですか」

 

「倒れたんじゃなくて寝た」

 

「床で?」

 

「床が近かった」

 

「禁止です」

 

バンは不満そうに椅子へ座った。

 

ザルドが僅かに笑う。

 

「諦めろ」

 

「お前のせいだぞ」

 

「命を助けておいて文句を言うな」

 

「酒一樽の約束だったろ」

 

「樽は逃げん」

 

「前にも聞いたな、それ」

 

ナジュが大鍋の蓋を開けながら笑う。

 

「今日は逃がさないよ」

 

広場の隅。

 

大きな布をかけられた樽が置かれている。

 

黒砂酒。

 

ベヒーモス討伐前。

 

生きて帰れば開けると約束した、一樽。

 

昨日までは封を切らなかった。

 

死者の名を数え終える前に。

 

弔いを済ませる前に。

 

誰かが戻るのを待っている間に。

 

笑って飲むことはできなかった。

 

けれど、今日は違う。

 

悲しみが消えたわけではない。

 

傷も。

 

毒も。

 

空いた席も残っている。

 

それでも、生き残った者が食べ、飲み、声を出さなければ。

 

ハルファは、いつまでもベヒーモスに食われたままだ。

 

       ◇

 

日が高くなる頃。

 

広場へ長い卓が並べられた。

 

ゼウス・ファミリア。

 

ヘラ・ファミリア。

 

ハルファの住民。

 

砂船の乗組員。

 

負傷者を運んだ者。

 

水を汲んだ者。

 

素材を掘り出した者。

 

所属に関係なく、空いている場所へ座る。

 

前日まで並べられていた武器と遺品の一部は、石壇の横へ移されている。

 

そこにも椀が置かれた。

 

誰かが座るわけではない。

 

帰らなかった者のための席だった。

 

バンはその前を通り過ぎる時、少しだけ足を止めた。

 

何も言わない。

 

ただ、椀が空でないことを確認する。

 

温かい汁。

 

パン。

 

焼いた肉。

 

少量の酒。

 

死者の分まで食べるとは言わない。

 

だが、同じ卓から外すつもりもなかった。

 

「赤い旅人!」

 

声をかけられる。

 

クレシューズに救われた、若い槍使いだった。

 

杖は外れている。

 

まだ脇腹に包帯を巻いているが、自分の足で歩いていた。

 

隣には、片腕を固定した盾使い。

 

そして、耳の布を片方だけ外した女性魔導士。

 

「少し聞こえるようになりました」

 

魔導士が言う。

 

「最初に聞こえたのが、鍋を叩く音でした」

 

「いい音だろ」

 

「人の話し声の方がよかったです」

 

「贅沢言うな」

 

盾使いが大皿を差し出す。

 

「約束の礼です」

 

皿には焼いた肉が山ほど乗っている。

 

バンの目が輝く。

 

「全部?」

 

「三人分です」

 

「少なくねぇ?」

 

「一人で食べる気ですか」

 

「違うのか?」

 

「違います」

 

三人が同時に答えた。

 

バンは肉を一枚取る。

 

「助ける相手、やっぱ間違えたかもな」

 

「遅いです」

 

魔導士が言う。

 

「もう一生、恩人ですから」

 

「重いな」

 

「諦めてください」

 

槍使いが笑う。

 

「今度は、俺たちが助けます」

 

「俺、助けられるほど弱くねぇぞ」

 

三人の視線が、吊られた右腕へ集まる。

 

「何だよ」

 

「いえ」

 

「言えよ」

 

「説得力がないなと」

 

「生意気になったな、お前ら」

 

それでもバンは笑っていた。

 

       ◇

 

最初の一杯を注ぐ前に。

 

ナジュは黒砂酒の樽から、小さな柄杓で酒を掬った。

 

広場が静かになる。

 

彼女は石壇の前へ歩く。

 

帰らなかった者たちの武器。

 

空いた席。

 

灰の向こうに突き立つ、ザルドの大剣。

 

その全てへ向けて。

 

酒を地面へ注いだ。

 

「先に飲みな」

 

誰に向けた言葉か。

 

答えはない。

 

それでも、黒砂酒の香りが風へ混ざる。

 

ゼウスが杯を持ち上げる。

 

「勝利に、とは言わん」

 

全員が静かに聞いている。

 

「帰らなかった者へ」

 

ヘラも杯を持つ。

 

「そして、帰ってきた者へ」

 

マキシムが続ける。

 

「生きている者が、明日も立てるように」

 

女帝が杯を上げる。

 

「飲みなさい」

 

ようやく。

 

広場のあちこちで、杯が持ち上がった。

 

バンも左手で杯を取る。

 

セリアが隣から睨んでいる。

 

「一杯だけです」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「二杯目から数えなきゃいいだろ」

 

「一杯目です」

 

「冗談だよ」

 

バンが杯へ口をつける。

 

黒砂酒。

 

舌に残る苦み。

 

喉を通る熱。

 

後から追いかけてくる、乾いた果実のような甘さ。

 

以前飲んだ時より。

 

少しだけ、うまかった。

 

「どうだい」

 

ナジュが尋ねる。

 

「待たせた分、濃くなったな」

 

「同じ樽だよ」

 

「じゃあ俺が変わったか」

 

「気持ち悪ぃこと言うな」

 

ザルドが横から言う。

 

彼の前には、酒ではなく水が置かれている。

 

「お前、飲んでねぇじゃん」

 

「香りで分かる」

 

「負け惜しみか?」

 

「舌へ一滴だけなら問題ない」

 

セリアが即座に杯を遠ざける。

 

「駄目です」

 

「本人が問題ないと言っている」

 

「患者の自己判断は信用しません」

 

「俺は料理人でもある」

 

「治療師ではありません」

 

「酒の状態を見るだけだ」

 

「駄目です」

 

バンは少し考え。

 

自分の指先へ酒を一滴つけた。

 

ザルドの口元へ近づける。

 

「舐めるだけな」

 

セリアが止める前に、ザルドは酒を舐めた。

 

目を閉じる。

 

少し間を置いて。

 

「悪くない」

 

「だろ」

 

「だが、少し若い」

 

「今それ言う?」

 

「寝かせれば、さらに良くなる」

 

「次飲む時まで取っとくか」

 

「樽ごとだ」

 

「お前が治るまで?」

 

「ああ」

 

バンは空になった杯を見る。

 

「じゃあ、残しとくか」

 

その言葉に。

 

セリアが僅かに目を見開いた。

 

黒砂酒を前にしたバンが、残すと言った。

 

ザルドも少し驚いたように見る。

 

「本気か」

 

「何だよ」

 

「全部飲むと思っていた」

 

「失礼だな」

 

バンは樽を見る。

 

「次は、料理もお前が作れ」

 

「当然だ」

 

「なら、早く治せ」

 

「命令するな」

 

「約束だろ」

 

ザルドは僅かに笑った。

 

「ああ」

 

       ◇

 

食事が進むにつれ。

 

広場には少しずつ笑い声が戻っていった。

 

ゼウスが砂船乗りへ飲み比べを挑み。

 

開始早々、ヘラに耳を引っ張られる。

 

「今、お前は酒を飲む立場かしら」

 

「今日は許される日ではないのかの?」

 

「誰が許したの」

 

「皆が」

 

「私が許していないわ」

 

「神に自由を!」

 

「天界へ送り返してあげましょうか」

 

「それは勘弁じゃ!」

 

周囲から笑いが起こる。

 

ヘラは本気で怒っているようにも見えたが、杯を取り上げるだけで済ませた。

 

マキシムは大勢の団員に囲まれていた。

 

戦闘中の判断。

 

失われた装備。

 

今後の帰路。

 

宴の最中でも、団長としての話が途切れない。

 

それでも、普段より表情は柔らかい。

 

片手で肉を食べながら、一人ずつ話を聞いている。

 

女帝は少し離れた場所で、杯を傾けていた。

 

その前へ座っているのはバン。

 

右腕を吊り。

 

左手で肉を食べ。

 

足元にはクレシューズ。

 

神の恩恵を持たず。

 

ベヒーモスの一歩を盗み。

 

数人の団員を救い。

 

倒れる巨体の向きまで変えた男。

 

女帝はしばらくバンを見ていた。

 

「何だよ」

 

バンが肉を噛みながら尋ねる。

 

「顔に何かついてるか?」

 

「肉汁がついているわ」

 

「取ってくれ」

 

「なぜ私が」

 

「見つけた奴の仕事だろ」

 

「随分と図々しいのね」

 

「今さらか」

 

女帝は鼻で笑う。

 

そして、杯を置いた。

 

「悪くないわ」

 

「酒が?」

 

「あなたが」

 

周囲の会話が、少しずつ止まる。

 

近くにいたゼウスが耳を傾ける。

 

ヘラも目を細める。

 

アルフィアは鳥肉を口へ運ぶ手を止めた。

 

女帝は当然のことを告げるように言った。

 

「あと数年したら、夫にしてあげる」

 

広場の一角が静まり返った。

 

盾使いが咳き込む。

 

若い槍使いが肉を落とす。

 

白髪の若い支援者は、持っていた杯を危うく倒しかけた。

 

ザルドだけは、水を飲みながら黙っている。

 

以前にも似たような発言を聞いたことがある顔だった。

 

バンは特に驚かなかった。

 

肉を飲み込み。

 

酒の杯を置く。

 

「悪ぃな」

 

「何が」

 

「俺、妻も子どももいるぞ」

 

今度こそ。

 

広場から音が消えた。

 

「……妻?」

 

女帝が聞き返す。

 

「ああ」

 

「子ども?」

 

「いる」

 

ゼウスが酒を噴き出した。

 

「なんじゃとぉ!?」

 

「汚ぇな、爺さん」

 

「待て待て待て!お主、妻帯者じゃったのか!?」

 

「今言っただろ」

 

「子までおるのか!」

 

「ああ」

 

「全く見えんぞ!」

 

「失礼だな」

 

ヘラが低い声を出す。

 

「初耳なのだけれど」

 

「聞かれてねぇからな」

 

「普通は先に言うでしょう」

 

「何で?」

 

「何でって……」

 

ヘラが言葉に詰まる。

 

女帝はバンを見たまま、僅かに首を傾ける。

 

「その妻は、どこにいるの」

 

「遠いとこ」

 

「どれほど遠いの」

 

「歩いて帰れねぇくらい」

 

「曖昧ね」

 

「俺も正確には分かんねぇんだよ」

 

アルフィアが静かに尋ねる。

 

「子は何人だ」

 

「一人」

 

「息子か、娘か」

 

「息子」

 

「強いのか」

 

「まあな」

 

「お前より?」

 

「どうだろうな」

 

バンは少しだけ笑う。

 

「今は、かなり強ぇんじゃねぇか」

 

「随分と他人事だな」

 

「しばらく会ってねぇからな」

 

その言葉に。

 

アルフィアの指が僅かに止まる。

 

だが、何も聞かない。

 

今は、まだ。

 

女帝は腕を組んだ。

 

「妻子持ちなら、最初から言いなさい」

 

「別に隠してねぇよ」

 

「求婚した私が馬鹿みたいではないの」

 

「いや、言う前に聞けよ」

 

「普通、夫候補に妻子がいるとは思わないでしょう」

 

「勝手に候補にすんな」

 

マキシムが低く笑う。

 

「お前でも断られることがあるんだな」

 

女帝の目が細くなる。

 

「死にたいの?」

 

「事実を言っただけだ」

 

「今から夫候補を変更してあげましょうか」

 

「断る」

 

「即答?」

 

「命が惜しい」

 

「よく分かっているわね」

 

再び笑いが起こる。

 

だが、質問は終わらなかった。

 

「待ってください」

 

白髪の若い支援者が恐る恐る手を上げる。

 

「バンさんは、以前何をしていた方なのですか」

 

「以前?」

 

「妻とお子さんがいて、あれほど強くて……旅人になる前です」

 

「色々だな」

 

「たとえば」

 

「盗賊」

 

何人かが納得したように頷く。

 

「料理人」

 

ザルドが僅かに頷く。

 

「王様」

 

全員が止まった。

 

「……何?」

 

ゼウスが聞き返す。

 

「王様」

 

「誰が」

 

「俺」

 

沈黙。

 

そして。

 

「嘘をつけ!」

 

今度は複数の声が重なった。

 

「失礼だな!」

 

バンが椅子から立とうとして、右腕の痛みに顔をしかめる。

 

セリアに肩を押され、座り直された。

 

「これでも一応、国を治めてんだぞ」

 

「お主が?」

 

ゼウスが信じられないものを見る目をする。

 

「何だよ、その顔」

 

「いや……国が心配になっての」

 

「帰ったら殴るぞ」

 

「王が他国の神を殴るでない!」

 

「こっちの世界なら関係ねぇだろ」

 

ヘラも疑わしげにバンを見る。

 

「あなたが王……」

 

「何だよ」

 

「朝から酒を欲しがり、治療師から逃げ、床で寝て、食事の肉を奪う王?」

 

「民と距離が近いんだよ」

 

「近すぎるでしょう」

 

女帝だけは、少し楽しそうだった。

 

「妻子持ちの王」

 

「何だ」

 

「条件としては、悪くないわね」

 

「まだ言ってんのかよ」

 

「王国ごと手に入るのでしょう?」

 

「手に入らねぇよ」

 

「では、征服すればいい」

 

「俺の妻に殺されんぞ」

 

女帝の目が輝く。

 

「強いの?」

 

バンは少し考える。

 

「怒らせると怖ぇな」

 

「面白い」

 

「会わせねぇぞ」

 

アルフィアが小さく息を吐く。

 

「お前の妻には同情する」

 

「何でだよ」

 

「お前を夫に持っている」

 

「いい男だろ、俺」

 

「どこが」

 

「料理できる」

 

「ザルドの方が上だ」

 

「強い」

 

「今は右腕も動かない」

 

「顔がいい」

 

「自分で言うな」

 

「じゃあ何なら認めんだよ」

 

「静かにできれば考える」

 

「無理だな」

 

「知っている」

 

アルフィアの口元へ、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。

 

       ◇

 

「ところで」

 

ヘラが杯を置いた。

 

「あなた、いくつなの」

 

宴の空気が少し変わる。

 

誰も考えたことがなかった。

 

バンは若く見える。

 

少なくとも、マキシムやザルドより年上には見えない。

 

だが、時折。

 

人を見る目や。

 

戦いの最中の判断や。

 

死者へ向ける言葉が。

 

外見とは合わないほど重い。

 

「年齢?」

 

「ああ」

 

バンは指を折ろうとして。

 

右腕が動かないことを思い出し。

 

左手だけで数える。

 

「暦の上なら、五十九か六十くらいか」

 

「は?」

 

若い槍使いが声を漏らす。

 

女性魔導士は聞こえた耳を疑うように触る。

 

「五十九?」

 

「六十?」

 

ゼウスがバンの顔を覗き込む。

 

「お主、わしより爺ではないか?」

 

「神と比べんな」

 

「どう見ても三十前後じゃぞ」

 

「外見は三十九くらいだな」

 

「増えたぞ」

 

「何が」

 

「年齢が二つある!」

 

「そりゃ、止まってた時期があるからな」

 

ヘラの目が細くなる。

 

「止まっていた?」

 

「ああ。二十代前半から、しばらく歳取らなかった」

 

「不老だったのか」

 

マキシムが尋ねる。

 

「まあな」

 

「今は?」

 

「もう違う」

 

「なぜ」

 

「それは長ぇ話になる」

 

バンは杯を回す。

 

「また今度だ」

 

アルフィアがバンを見る。

 

何かを隠している。

 

だが、嘘ではない。

 

ただ、今ここで話すつもりがないだけだ。

 

「なら、六十年近く生きているのか」

 

ザルドが言う。

 

「身体じゃそれくらい」

 

「身体では?」

 

バンは肉を一枚取り。

 

何でもないことのように答えた。

 

「中身は、煉獄で千年以上過ごしてっから、もう数えてねぇ」

 

今度の沈黙は。

 

これまでより長かった。

 

誰も笑わない。

 

冗談として受け取るには。

 

バンの声が軽すぎた。

 

本当に体験した者が、わざと軽く言うような。

 

そんな響きがあった。

 

「煉獄?」

 

ゼウスがゆっくり聞き返す。

 

「ああ」

 

「それは、どこの地名じゃ」

 

「地名じゃねぇな」

 

「死者の国か?」

 

「違う」

 

「神の領域?」

 

「知らねぇよ。少なくとも、神様はいなかったぞ」

 

ヘラが杯を置く。

 

先ほどまでの宴の顔ではない。

 

神として。

 

人の魂を見る者として。

 

バンを見つめる。

 

「どのような場所なの」

 

「最悪なとこ」

 

「具体的に」

 

バンは少し黙った。

 

言葉を選ぶように。

 

遠い記憶を。

 

何でもない話へ変えるように。

 

「空気吸ってるだけで肉が腐る」

 

広場の空気が冷える。

 

「熱で骨まで焼ける時もあれば、次の瞬間に全部凍る。嵐は身体を削るし、そこらにいる獣は人間なんか餌としか思ってねぇ」

 

「そこで千年?」

 

「もっといたかもな」

 

「一人で?」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「途中からは、連れがいた」

 

「その者も人間か」

 

「まあ……人間じゃねぇな」

 

「神か?」

 

「神様より性格悪かった」

 

「お主、神の前でよく言うの」

 

ゼウスが苦笑する。

 

だが、その目は笑っていない。

 

「普通の人間なら、どれほど保つ」

 

女帝が尋ねる。

 

「入った瞬間に死ぬんじゃねぇか」

 

「お前はなぜ死ななかった」

 

「当時は死ななかったから」

 

その言葉へ。

 

ヘラが反応する。

 

「不老ではなく、不死だったのね」

 

バンは答えない。

 

否定もしない。

 

代わりに酒の杯を置いた。

 

「ま、その話は別の機会だ」

 

「待て」

 

ゼウスの声が低くなる。

 

普段の好々爺ではない。

 

千年を下界で過ごし。

 

幾多の英雄を見てきた大神の声。

 

「お主が語る煉獄を、わしは知らん」

 

「そりゃ、行ったことねぇだろ」

 

「そういう意味ではない」

 

ゼウスはヘラを見る。

 

ヘラも僅かに頷いた。

 

「私も知らないわ」

 

周囲の団員たちが、二柱の神を見る。

 

「天界にも、下界にも、私たちが知る死後の領域にも、あなたが語る場所は存在しない」

 

「全部知ってんのか?」

 

「少なくとも、人間が千年以上生き、空気そのものが肉体を腐らせる領域が存在すれば、何らかの神話か記録に残る」

 

ヘラはバンから視線を外さない。

 

「それに」

 

「何だよ」

 

「あなたの力」

 

《強奪》。

 

神の恩恵を受けず。

 

魔法とも違い。

 

スキルとも違う。

 

この世界の人間が持つ力の形から、僅かに外れている。

 

「お前の魂もじゃ」

 

ゼウスが続ける。

 

「神の眷族とも、古代の英雄とも異なる。初めは、未知の遠方から来た者かと思うておった」

 

「遠方ではあるな」

 

「この世界の遠方ではない」

 

宴の広場が静まり返る。

 

風が吹き。

 

黒砂酒の香りを運ぶ。

 

灰の丘へ残された大剣が、夕日を受けて黒く光る。

 

ヘラが告げた。

 

「バン。あなた、この世界の人間ではないわね」

 

誰かが息を呑む。

 

若い槍使いがバンを見る。

 

盾使いも。

 

魔導士も。

 

パァルも。

 

リシェルも。

 

マキシムも女帝も。

 

アルフィアも。

 

バンはしばらく黙っていた。

 

隠す理由を考えているようにも。

 

どこまで話すか迷っているようにも見えた。

 

やがて。

 

左手で杯を持ち上げる。

 

「ああ」

 

あまりにも簡単に。

 

認めた。

 

「気づいたら、こっちにいた」

 

ざわめきが広がる。

 

「異世界……?」

 

「神の召喚か?」

 

「別の下界?」

 

「何で黙っていたんですか」

 

白髪の若い支援者が尋ねる。

 

「言っても信じねぇだろ」

 

「今も信じ難いです」

 

「だろ?」

 

「ですが、神々が認めています」

 

「じゃあ爺さんと怖ぇ女に感謝しろ」

 

「誰が怖い女ですって?」

 

ヘラの声が低くなる。

 

「お前以外にいるか?」

 

「異世界の人間でも、礼儀は覚えられるでしょう」

 

「神様相手に礼儀使ったことねぇな」

 

「元の世界にも神がいるの?」

 

「いたぞ」

 

「どのような神だ」

 

マキシムが尋ねる。

 

「ろくでもねぇ奴が多かった」

 

「お主、世界が変わっても神への扱いが同じじゃの……」

 

ゼウスが肩を落とす。

 

女帝は興味深そうにバンを見る。

 

「異世界の王」

 

「一応な」

 

「妻子持ち」

 

「ああ」

 

「不死だった六十歳」

 

「今は不死じゃねぇし、精神なら千年以上だ」

 

「ますます条件が悪くないわ」

 

「何でだよ!」

 

笑いが起こる。

 

先ほどまでの緊張が。

 

少しだけほどける。

 

だが、アルフィアだけは笑わなかった。

 

バンを見る。

 

この世界の者ではない。

 

妻と子がいる。

 

王国がある。

 

帰るべき場所が。

 

別の世界にある。

 

「お前は」

 

アルフィアが口を開く。

 

バンが振り返る。

 

「何だ」

 

「――いや」

 

言葉を止める。

 

帰りたいのか。

 

そう聞こうとした。

 

だが、今は聞くべきではないと思った。

 

答えを知れば。

 

何かが変わる気がした。

 

「煉獄の話は、嘘ではないのだな」

 

「ああ」

 

「なら、ベヒーモスの毒が効かなかった理由も、それか」

 

「たぶんな」

 

「千年以上、毒の空気に耐えた肉体」

 

ヘラが呟く。

 

「神の恩恵なしで、あれほどの強度を持つ理由も」

 

ゼウスも頷く。

 

「その《強奪》が、この世界の理へ馴染みにくかった理由も、説明がつく」

 

「よく分かってんな」

 

「神じゃからの」

 

「さっきまで俺が王ってのも信じなかったくせに」

 

「それとこれは別じゃ」

 

「都合いいな」

 

「神とはそういうものじゃ」

 

ヘラがゼウスの後頭部を叩いた。

 

「一緒にしないで」

 

「痛いぞ、ヘラ!」

 

「酒で鈍った頭を起こしただけよ」

 

再び広場へ笑い声が戻る。

 

       ◇

 

日が沈む。

 

松明が灯され。

 

料理の皿が空になり。

 

黒砂酒の樽も、半分ほどまで減っていた。

 

残りはザルドが飲める日まで取っておくことになった。

 

バンは珍しく異議を唱えなかった。

 

広場のあちこちで。

 

団員たちが歌い。

 

住民が手を叩き。

 

負傷者は椅子へ座ったまま笑っている。

 

派手な祝勝祭ではない。

 

空いた席は残っている。

 

石壇には帰らなかった者の椀がある。

 

時折、笑いながら泣く者もいる。

 

それでも。

 

生きている者の声が。

 

灰に覆われたハルファへ戻っていた。

 

バンは広場の端へ移動した。

 

人の輪から少し離れ。

 

灰の向こうを見る。

 

ザルドの大剣。

 

黒い砂漠。

 

その先にある、まだ知らない世界。

 

「逃げたのか」

 

アルフィアが隣へ来る。

 

椅子に座ったまま。

 

女帝に運ばせたらしい。

 

「何から」

 

「質問攻めだ」

 

「飯の好みから、国の大きさまで聞かれた」

 

「答えればいい」

 

「面倒くせぇ」

 

「王として失格だな」

 

「王様だって休みてぇんだよ」

 

アルフィアは黒い砂漠を見る。

 

「異なる世界から来た」

 

「ああ」

 

「妻と子がいる」

 

「ああ」

 

「国もある」

 

「一応な」

 

「それでも、よく他人のために命を使えるな」

 

バンは黙る。

 

右腕を吊った布が、風に揺れる。

 

「ザルドへ渡した生命力も」

 

「死にそうだったからな」

 

「名も知らぬ団員を助けたのも」

 

「近くにいた」

 

「ハルファを守ったのも」

 

「飯食ったから」

 

「理由になっていない」

 

「俺にはなる」

 

アルフィアは少し顔を伏せる。

 

「お前の妻は」

 

そこで止める。

 

バンが横目で見る。

 

「何だよ」

 

「随分と面倒な男を夫にしたものだ」

 

「嫉妬か?」

 

アルフィアの手が動く。

 

だが、体調が悪く。

 

殴る代わりにバンの脛を軽く蹴るだけだった。

 

「痛ぇな」

 

「次は魔法を使う」

 

「冗談だよ」

 

「お前の冗談は不快だ」

 

「知ってる」

 

少しの沈黙。

 

宴の歌声が遠くから聞こえる。

 

「詳しい話はしないのか」

 

アルフィアが尋ねた。

 

「妻のことも。子のことも。王になった理由も」

 

「今はしねぇ」

 

「なぜ」

 

「長ぇし」

 

「それだけか」

 

「酒がまずくなる話も混じってる」

 

バンは空の杯を見る。

 

「今日は、うまいまま終わらせてぇ」

 

「そうか」

 

アルフィアはそれ以上聞かなかった。

 

バンが話す気になるまで。

 

聞くべき場所へ辿り着くまで。

 

待てばいい。

 

「ただ」

 

バンが言う。

 

「息子はいい奴だぞ」

 

「親馬鹿か」

 

「親はみんなそうだろ」

 

「知らん」

 

「お前も子ども持てば分かる」

 

「殺すぞ」

 

「今の体調じゃ無理だな」

 

今度は脛ではなく、足の甲を踏まれた。

 

「地味に痛ぇ!」

 

「黙れ」

 

アルフィアの口元には。

 

僅かな笑みがあった。

 

       ◇

 

夜が深くなった頃。

 

ナジュが最後の料理を運んできた。

 

小さな甘い焼き菓子。

 

砂糖は貴重だ。

 

それでも、弔いを終えた夜のために残していた。

 

「アルフィアの分」

 

「私は頼んでいない」

 

「ザルドが甘いものを作るって言ってたから、代わりだよ」

 

アルフィアは断ろうとした。

 

だが、皿を受け取る。

 

「バンの分もあるよ」

 

「俺は肉がいい」

 

「甘いものも食べな」

 

「酒に合わねぇ」

 

「もう酒は終わり」

 

「横暴だな」

 

「セリアに言われた」

 

「治療師ってのは敵だな」

 

「聞こえています!」

 

救護所の方から、セリアの声が飛ぶ。

 

バンが肩をすくめる。

 

焼き菓子を一口食べる。

 

少し硬い。

 

甘さも控えめ。

 

だが。

 

「悪くねぇな」

 

「素直じゃないね」

 

「うまいって意味だよ」

 

ナジュは笑った。

 

広場の中心では。

 

ゼウスが再び酒を飲もうとして、ヘラに捕まっている。

 

マキシムと女帝は、団員たちの歌を聞いていた。

 

パァルとリシェルは、明日の作業について話しながら食事をしている。

 

救われた三人は。

 

バンの皿へ勝手に肉を追加し。

 

代わりに酒の杯を遠ざけた。

 

ザルドは救護所へ戻っている。

 

だが。

 

彼のための料理と。

 

半分残された黒砂酒の樽がある。

 

次の宴へ繋がる約束。

 

今夜で全てが終わるわけではない。

 

むしろ。

 

生き残った者たちにとっては。

 

ここからが始まりだった。

 

黒砂の減少を確かめ。

 

水路を直し。

 

家を建て。

 

毒を抜き。

 

歩けない者を支え。

 

再び砂船を走らせる。

 

灰へ埋もれた土地で。

 

もう一度、暮らしを作る。

 

バンは立ち上がる。

 

「どこへ行く」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「寝る」

 

「珍しいな」

 

「明日、腹減るからな」

 

「今も食べているだろう」

 

「これは夜食」

 

「宴の途中からずっと食べていたぞ」

 

「成長期なんだよ」

 

「六十歳が言うな」

 

「外見は三十九だぞ」

 

「十分に成長済みだ」

 

「中身は千年以上」

 

「なお悪い」

 

二人は言い合いながら、広場へ戻る。

 

女帝が遠くから声をかけた。

 

「考えが変わったら言いなさい、異世界の王」

 

「変わらねぇよ!」

 

「妻と相談してからでもいいわ」

 

「絶対会わせねぇ!」

 

「それほど強いなら、なおさら興味があるわね」

 

「喧嘩売りに行くな!」

 

笑い声が夜空へ響く。

 

黒い砂漠の上。

 

灰の丘へ突き刺さった一振りの大剣。

 

死者の名を刻んだ紙。

 

飲み干されなかった一樽の酒。

 

すべてが、戦いの終わりと。

 

次へ進むための始まりを示していた。

 

バンは杯を一度だけ掲げる。

 

帰らなかった者へ。

 

生き残った者へ。

 

毒と病を抱えながら、次の朝を待つ者へ。

 

そして。

 

別の世界にいる妻と息子へ。

 

「また飲もうぜ」

 

誰へ向けた言葉か。

 

周囲の者たちは、それぞれ好きな相手へ向けられたものだと思った。

 

それでよかった。

 

風が吹く。

 

灰を運び。

 

酒と肉の匂いを黒い砂漠へ広げる。

 

ベヒーモスの咆哮は、もう聞こえない。

 

代わりに。

 

人の笑い声が、夜のハルファへ長く残っていた。




第30話でした。

今回は弔いと復興を経たハルファで黒砂酒の樽を開き、生き残った者たちがようやく同じ卓を囲む場面を描きました。

また、女帝の求婚をきっかけに、バンが妻子持ちの王であり、複雑な年齢と千年以上の煉獄経験を持つこと、そして異なる世界から来た人間であることが明らかになりました。
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