弔いの翌朝。
ハルファには、久しぶりに焼いた肉の匂いが漂っていた。
まだ宴ではない。
水路の修復も終わっていない。
黒い砂漠には灰が残り、赤い杭の向こうへ素手で入ることもできない。
重傷者の中には、今も目を覚ましていない者がいる。
それでも。
帰らなかった者の名を読み終え。
遺された武器を炎へ送り。
生き残った者たちが、再び明日へ向かって歩き始めるためには。
食べる必要があった。
「肉が少ない!」
広場の中央で、バンが言った。
「朝からうるさい」
椅子へ座ったアルフィアが、苛立たしげに返す。
彼女の前には、薄いパンと柔らかく煮た豆。
病人向けに香辛料を控えた鳥肉の煮込みが置かれている。
「昨日まで豆ばっかだったんだぞ。今日は肉の日だろ」
「誰が決めた」
「俺」
「無効だ」
「お前、肉いらねぇなら寄越せ」
「断る」
「いらねぇんじゃねぇかよ」
「お前に渡すくらいなら食べる」
「性格悪ぃな」
「知っている」
アルフィアは鳥肉を一口食べる。
顔には出さない。
だが、普段より僅かに食べる速度が早い。
バンはそれを見て笑った。
「うまいんだろ」
「普通だ」
「ザルドの料理じゃねぇからな」
「お前が作ったのか」
「半分くらい」
「では不味い」
「食ってから言うなよ」
「食べたから言っている」
バンが言い返そうとした時。
広場の反対側から、重い足音が近づいてきた。
会話が止まる。
担架ではない。
両脇をパァルとセリアに支えられながら、ザルドが自分の足で歩いている。
胸元には厚い包帯。
首から頬へ伸びる黒い筋は、まだ消えていない。
歩幅も小さい。
数歩進むたび、呼吸を整えている。
それでも。
暴喰の男は、立っていた。
「病人が歩いてんな」
バンが言う。
「お前に言われたくない」
ザルドは低い声で答えた。
「俺はもう元気だぞ」
「右腕は」
「飾りだ」
「なら元気ではない」
「細けぇな」
セリアがザルドを椅子へ座らせる。
「食事の後は、すぐ救護所へ戻ります」
「分かっている」
「酒は禁止です」
ザルドの眉が動く。
「聞いていない」
「今言いました」
「約束がある」
「命の方が大切です」
「酒の約束も大切だ」
「駄目です」
「一口だけだ」
「駄目です」
「舐めるだけなら」
「駄目です」
バンが横から口を挟む。
「厳しいな」
「あなたも禁止です」
「俺も?」
「昨日、生命力を使って倒れた人が何を言っているのですか」
「倒れたんじゃなくて寝た」
「床で?」
「床が近かった」
「禁止です」
バンは不満そうに椅子へ座った。
ザルドが僅かに笑う。
「諦めろ」
「お前のせいだぞ」
「命を助けておいて文句を言うな」
「酒一樽の約束だったろ」
「樽は逃げん」
「前にも聞いたな、それ」
ナジュが大鍋の蓋を開けながら笑う。
「今日は逃がさないよ」
広場の隅。
大きな布をかけられた樽が置かれている。
黒砂酒。
ベヒーモス討伐前。
生きて帰れば開けると約束した、一樽。
昨日までは封を切らなかった。
死者の名を数え終える前に。
弔いを済ませる前に。
誰かが戻るのを待っている間に。
笑って飲むことはできなかった。
けれど、今日は違う。
悲しみが消えたわけではない。
傷も。
毒も。
空いた席も残っている。
それでも、生き残った者が食べ、飲み、声を出さなければ。
ハルファは、いつまでもベヒーモスに食われたままだ。
◇
日が高くなる頃。
広場へ長い卓が並べられた。
ゼウス・ファミリア。
ヘラ・ファミリア。
ハルファの住民。
砂船の乗組員。
負傷者を運んだ者。
水を汲んだ者。
素材を掘り出した者。
所属に関係なく、空いている場所へ座る。
前日まで並べられていた武器と遺品の一部は、石壇の横へ移されている。
そこにも椀が置かれた。
誰かが座るわけではない。
帰らなかった者のための席だった。
バンはその前を通り過ぎる時、少しだけ足を止めた。
何も言わない。
ただ、椀が空でないことを確認する。
温かい汁。
パン。
焼いた肉。
少量の酒。
死者の分まで食べるとは言わない。
だが、同じ卓から外すつもりもなかった。
「赤い旅人!」
声をかけられる。
クレシューズに救われた、若い槍使いだった。
杖は外れている。
まだ脇腹に包帯を巻いているが、自分の足で歩いていた。
隣には、片腕を固定した盾使い。
そして、耳の布を片方だけ外した女性魔導士。
「少し聞こえるようになりました」
魔導士が言う。
「最初に聞こえたのが、鍋を叩く音でした」
「いい音だろ」
「人の話し声の方がよかったです」
「贅沢言うな」
盾使いが大皿を差し出す。
「約束の礼です」
皿には焼いた肉が山ほど乗っている。
バンの目が輝く。
「全部?」
「三人分です」
「少なくねぇ?」
「一人で食べる気ですか」
「違うのか?」
「違います」
三人が同時に答えた。
バンは肉を一枚取る。
「助ける相手、やっぱ間違えたかもな」
「遅いです」
魔導士が言う。
「もう一生、恩人ですから」
「重いな」
「諦めてください」
槍使いが笑う。
「今度は、俺たちが助けます」
「俺、助けられるほど弱くねぇぞ」
三人の視線が、吊られた右腕へ集まる。
「何だよ」
「いえ」
「言えよ」
「説得力がないなと」
「生意気になったな、お前ら」
それでもバンは笑っていた。
◇
最初の一杯を注ぐ前に。
ナジュは黒砂酒の樽から、小さな柄杓で酒を掬った。
広場が静かになる。
彼女は石壇の前へ歩く。
帰らなかった者たちの武器。
空いた席。
灰の向こうに突き立つ、ザルドの大剣。
その全てへ向けて。
酒を地面へ注いだ。
「先に飲みな」
誰に向けた言葉か。
答えはない。
それでも、黒砂酒の香りが風へ混ざる。
ゼウスが杯を持ち上げる。
「勝利に、とは言わん」
全員が静かに聞いている。
「帰らなかった者へ」
ヘラも杯を持つ。
「そして、帰ってきた者へ」
マキシムが続ける。
「生きている者が、明日も立てるように」
女帝が杯を上げる。
「飲みなさい」
ようやく。
広場のあちこちで、杯が持ち上がった。
バンも左手で杯を取る。
セリアが隣から睨んでいる。
「一杯だけです」
「分かってる」
「本当に?」
「二杯目から数えなきゃいいだろ」
「一杯目です」
「冗談だよ」
バンが杯へ口をつける。
黒砂酒。
舌に残る苦み。
喉を通る熱。
後から追いかけてくる、乾いた果実のような甘さ。
以前飲んだ時より。
少しだけ、うまかった。
「どうだい」
ナジュが尋ねる。
「待たせた分、濃くなったな」
「同じ樽だよ」
「じゃあ俺が変わったか」
「気持ち悪ぃこと言うな」
ザルドが横から言う。
彼の前には、酒ではなく水が置かれている。
「お前、飲んでねぇじゃん」
「香りで分かる」
「負け惜しみか?」
「舌へ一滴だけなら問題ない」
セリアが即座に杯を遠ざける。
「駄目です」
「本人が問題ないと言っている」
「患者の自己判断は信用しません」
「俺は料理人でもある」
「治療師ではありません」
「酒の状態を見るだけだ」
「駄目です」
バンは少し考え。
自分の指先へ酒を一滴つけた。
ザルドの口元へ近づける。
「舐めるだけな」
セリアが止める前に、ザルドは酒を舐めた。
目を閉じる。
少し間を置いて。
「悪くない」
「だろ」
「だが、少し若い」
「今それ言う?」
「寝かせれば、さらに良くなる」
「次飲む時まで取っとくか」
「樽ごとだ」
「お前が治るまで?」
「ああ」
バンは空になった杯を見る。
「じゃあ、残しとくか」
その言葉に。
セリアが僅かに目を見開いた。
黒砂酒を前にしたバンが、残すと言った。
ザルドも少し驚いたように見る。
「本気か」
「何だよ」
「全部飲むと思っていた」
「失礼だな」
バンは樽を見る。
「次は、料理もお前が作れ」
「当然だ」
「なら、早く治せ」
「命令するな」
「約束だろ」
ザルドは僅かに笑った。
「ああ」
◇
食事が進むにつれ。
広場には少しずつ笑い声が戻っていった。
ゼウスが砂船乗りへ飲み比べを挑み。
開始早々、ヘラに耳を引っ張られる。
「今、お前は酒を飲む立場かしら」
「今日は許される日ではないのかの?」
「誰が許したの」
「皆が」
「私が許していないわ」
「神に自由を!」
「天界へ送り返してあげましょうか」
「それは勘弁じゃ!」
周囲から笑いが起こる。
ヘラは本気で怒っているようにも見えたが、杯を取り上げるだけで済ませた。
マキシムは大勢の団員に囲まれていた。
戦闘中の判断。
失われた装備。
今後の帰路。
宴の最中でも、団長としての話が途切れない。
それでも、普段より表情は柔らかい。
片手で肉を食べながら、一人ずつ話を聞いている。
女帝は少し離れた場所で、杯を傾けていた。
その前へ座っているのはバン。
右腕を吊り。
左手で肉を食べ。
足元にはクレシューズ。
神の恩恵を持たず。
ベヒーモスの一歩を盗み。
数人の団員を救い。
倒れる巨体の向きまで変えた男。
女帝はしばらくバンを見ていた。
「何だよ」
バンが肉を噛みながら尋ねる。
「顔に何かついてるか?」
「肉汁がついているわ」
「取ってくれ」
「なぜ私が」
「見つけた奴の仕事だろ」
「随分と図々しいのね」
「今さらか」
女帝は鼻で笑う。
そして、杯を置いた。
「悪くないわ」
「酒が?」
「あなたが」
周囲の会話が、少しずつ止まる。
近くにいたゼウスが耳を傾ける。
ヘラも目を細める。
アルフィアは鳥肉を口へ運ぶ手を止めた。
女帝は当然のことを告げるように言った。
「あと数年したら、夫にしてあげる」
広場の一角が静まり返った。
盾使いが咳き込む。
若い槍使いが肉を落とす。
白髪の若い支援者は、持っていた杯を危うく倒しかけた。
ザルドだけは、水を飲みながら黙っている。
以前にも似たような発言を聞いたことがある顔だった。
バンは特に驚かなかった。
肉を飲み込み。
酒の杯を置く。
「悪ぃな」
「何が」
「俺、妻も子どももいるぞ」
今度こそ。
広場から音が消えた。
「……妻?」
女帝が聞き返す。
「ああ」
「子ども?」
「いる」
ゼウスが酒を噴き出した。
「なんじゃとぉ!?」
「汚ぇな、爺さん」
「待て待て待て!お主、妻帯者じゃったのか!?」
「今言っただろ」
「子までおるのか!」
「ああ」
「全く見えんぞ!」
「失礼だな」
ヘラが低い声を出す。
「初耳なのだけれど」
「聞かれてねぇからな」
「普通は先に言うでしょう」
「何で?」
「何でって……」
ヘラが言葉に詰まる。
女帝はバンを見たまま、僅かに首を傾ける。
「その妻は、どこにいるの」
「遠いとこ」
「どれほど遠いの」
「歩いて帰れねぇくらい」
「曖昧ね」
「俺も正確には分かんねぇんだよ」
アルフィアが静かに尋ねる。
「子は何人だ」
「一人」
「息子か、娘か」
「息子」
「強いのか」
「まあな」
「お前より?」
「どうだろうな」
バンは少しだけ笑う。
「今は、かなり強ぇんじゃねぇか」
「随分と他人事だな」
「しばらく会ってねぇからな」
その言葉に。
アルフィアの指が僅かに止まる。
だが、何も聞かない。
今は、まだ。
女帝は腕を組んだ。
「妻子持ちなら、最初から言いなさい」
「別に隠してねぇよ」
「求婚した私が馬鹿みたいではないの」
「いや、言う前に聞けよ」
「普通、夫候補に妻子がいるとは思わないでしょう」
「勝手に候補にすんな」
マキシムが低く笑う。
「お前でも断られることがあるんだな」
女帝の目が細くなる。
「死にたいの?」
「事実を言っただけだ」
「今から夫候補を変更してあげましょうか」
「断る」
「即答?」
「命が惜しい」
「よく分かっているわね」
再び笑いが起こる。
だが、質問は終わらなかった。
「待ってください」
白髪の若い支援者が恐る恐る手を上げる。
「バンさんは、以前何をしていた方なのですか」
「以前?」
「妻とお子さんがいて、あれほど強くて……旅人になる前です」
「色々だな」
「たとえば」
「盗賊」
何人かが納得したように頷く。
「料理人」
ザルドが僅かに頷く。
「王様」
全員が止まった。
「……何?」
ゼウスが聞き返す。
「王様」
「誰が」
「俺」
沈黙。
そして。
「嘘をつけ!」
今度は複数の声が重なった。
「失礼だな!」
バンが椅子から立とうとして、右腕の痛みに顔をしかめる。
セリアに肩を押され、座り直された。
「これでも一応、国を治めてんだぞ」
「お主が?」
ゼウスが信じられないものを見る目をする。
「何だよ、その顔」
「いや……国が心配になっての」
「帰ったら殴るぞ」
「王が他国の神を殴るでない!」
「こっちの世界なら関係ねぇだろ」
ヘラも疑わしげにバンを見る。
「あなたが王……」
「何だよ」
「朝から酒を欲しがり、治療師から逃げ、床で寝て、食事の肉を奪う王?」
「民と距離が近いんだよ」
「近すぎるでしょう」
女帝だけは、少し楽しそうだった。
「妻子持ちの王」
「何だ」
「条件としては、悪くないわね」
「まだ言ってんのかよ」
「王国ごと手に入るのでしょう?」
「手に入らねぇよ」
「では、征服すればいい」
「俺の妻に殺されんぞ」
女帝の目が輝く。
「強いの?」
バンは少し考える。
「怒らせると怖ぇな」
「面白い」
「会わせねぇぞ」
アルフィアが小さく息を吐く。
「お前の妻には同情する」
「何でだよ」
「お前を夫に持っている」
「いい男だろ、俺」
「どこが」
「料理できる」
「ザルドの方が上だ」
「強い」
「今は右腕も動かない」
「顔がいい」
「自分で言うな」
「じゃあ何なら認めんだよ」
「静かにできれば考える」
「無理だな」
「知っている」
アルフィアの口元へ、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。
◇
「ところで」
ヘラが杯を置いた。
「あなた、いくつなの」
宴の空気が少し変わる。
誰も考えたことがなかった。
バンは若く見える。
少なくとも、マキシムやザルドより年上には見えない。
だが、時折。
人を見る目や。
戦いの最中の判断や。
死者へ向ける言葉が。
外見とは合わないほど重い。
「年齢?」
「ああ」
バンは指を折ろうとして。
右腕が動かないことを思い出し。
左手だけで数える。
「暦の上なら、五十九か六十くらいか」
「は?」
若い槍使いが声を漏らす。
女性魔導士は聞こえた耳を疑うように触る。
「五十九?」
「六十?」
ゼウスがバンの顔を覗き込む。
「お主、わしより爺ではないか?」
「神と比べんな」
「どう見ても三十前後じゃぞ」
「外見は三十九くらいだな」
「増えたぞ」
「何が」
「年齢が二つある!」
「そりゃ、止まってた時期があるからな」
ヘラの目が細くなる。
「止まっていた?」
「ああ。二十代前半から、しばらく歳取らなかった」
「不老だったのか」
マキシムが尋ねる。
「まあな」
「今は?」
「もう違う」
「なぜ」
「それは長ぇ話になる」
バンは杯を回す。
「また今度だ」
アルフィアがバンを見る。
何かを隠している。
だが、嘘ではない。
ただ、今ここで話すつもりがないだけだ。
「なら、六十年近く生きているのか」
ザルドが言う。
「身体じゃそれくらい」
「身体では?」
バンは肉を一枚取り。
何でもないことのように答えた。
「中身は、煉獄で千年以上過ごしてっから、もう数えてねぇ」
今度の沈黙は。
これまでより長かった。
誰も笑わない。
冗談として受け取るには。
バンの声が軽すぎた。
本当に体験した者が、わざと軽く言うような。
そんな響きがあった。
「煉獄?」
ゼウスがゆっくり聞き返す。
「ああ」
「それは、どこの地名じゃ」
「地名じゃねぇな」
「死者の国か?」
「違う」
「神の領域?」
「知らねぇよ。少なくとも、神様はいなかったぞ」
ヘラが杯を置く。
先ほどまでの宴の顔ではない。
神として。
人の魂を見る者として。
バンを見つめる。
「どのような場所なの」
「最悪なとこ」
「具体的に」
バンは少し黙った。
言葉を選ぶように。
遠い記憶を。
何でもない話へ変えるように。
「空気吸ってるだけで肉が腐る」
広場の空気が冷える。
「熱で骨まで焼ける時もあれば、次の瞬間に全部凍る。嵐は身体を削るし、そこらにいる獣は人間なんか餌としか思ってねぇ」
「そこで千年?」
「もっといたかもな」
「一人で?」
アルフィアが尋ねる。
「途中からは、連れがいた」
「その者も人間か」
「まあ……人間じゃねぇな」
「神か?」
「神様より性格悪かった」
「お主、神の前でよく言うの」
ゼウスが苦笑する。
だが、その目は笑っていない。
「普通の人間なら、どれほど保つ」
女帝が尋ねる。
「入った瞬間に死ぬんじゃねぇか」
「お前はなぜ死ななかった」
「当時は死ななかったから」
その言葉へ。
ヘラが反応する。
「不老ではなく、不死だったのね」
バンは答えない。
否定もしない。
代わりに酒の杯を置いた。
「ま、その話は別の機会だ」
「待て」
ゼウスの声が低くなる。
普段の好々爺ではない。
千年を下界で過ごし。
幾多の英雄を見てきた大神の声。
「お主が語る煉獄を、わしは知らん」
「そりゃ、行ったことねぇだろ」
「そういう意味ではない」
ゼウスはヘラを見る。
ヘラも僅かに頷いた。
「私も知らないわ」
周囲の団員たちが、二柱の神を見る。
「天界にも、下界にも、私たちが知る死後の領域にも、あなたが語る場所は存在しない」
「全部知ってんのか?」
「少なくとも、人間が千年以上生き、空気そのものが肉体を腐らせる領域が存在すれば、何らかの神話か記録に残る」
ヘラはバンから視線を外さない。
「それに」
「何だよ」
「あなたの力」
《強奪》。
神の恩恵を受けず。
魔法とも違い。
スキルとも違う。
この世界の人間が持つ力の形から、僅かに外れている。
「お前の魂もじゃ」
ゼウスが続ける。
「神の眷族とも、古代の英雄とも異なる。初めは、未知の遠方から来た者かと思うておった」
「遠方ではあるな」
「この世界の遠方ではない」
宴の広場が静まり返る。
風が吹き。
黒砂酒の香りを運ぶ。
灰の丘へ残された大剣が、夕日を受けて黒く光る。
ヘラが告げた。
「バン。あなた、この世界の人間ではないわね」
誰かが息を呑む。
若い槍使いがバンを見る。
盾使いも。
魔導士も。
パァルも。
リシェルも。
マキシムも女帝も。
アルフィアも。
バンはしばらく黙っていた。
隠す理由を考えているようにも。
どこまで話すか迷っているようにも見えた。
やがて。
左手で杯を持ち上げる。
「ああ」
あまりにも簡単に。
認めた。
「気づいたら、こっちにいた」
ざわめきが広がる。
「異世界……?」
「神の召喚か?」
「別の下界?」
「何で黙っていたんですか」
白髪の若い支援者が尋ねる。
「言っても信じねぇだろ」
「今も信じ難いです」
「だろ?」
「ですが、神々が認めています」
「じゃあ爺さんと怖ぇ女に感謝しろ」
「誰が怖い女ですって?」
ヘラの声が低くなる。
「お前以外にいるか?」
「異世界の人間でも、礼儀は覚えられるでしょう」
「神様相手に礼儀使ったことねぇな」
「元の世界にも神がいるの?」
「いたぞ」
「どのような神だ」
マキシムが尋ねる。
「ろくでもねぇ奴が多かった」
「お主、世界が変わっても神への扱いが同じじゃの……」
ゼウスが肩を落とす。
女帝は興味深そうにバンを見る。
「異世界の王」
「一応な」
「妻子持ち」
「ああ」
「不死だった六十歳」
「今は不死じゃねぇし、精神なら千年以上だ」
「ますます条件が悪くないわ」
「何でだよ!」
笑いが起こる。
先ほどまでの緊張が。
少しだけほどける。
だが、アルフィアだけは笑わなかった。
バンを見る。
この世界の者ではない。
妻と子がいる。
王国がある。
帰るべき場所が。
別の世界にある。
「お前は」
アルフィアが口を開く。
バンが振り返る。
「何だ」
「――いや」
言葉を止める。
帰りたいのか。
そう聞こうとした。
だが、今は聞くべきではないと思った。
答えを知れば。
何かが変わる気がした。
「煉獄の話は、嘘ではないのだな」
「ああ」
「なら、ベヒーモスの毒が効かなかった理由も、それか」
「たぶんな」
「千年以上、毒の空気に耐えた肉体」
ヘラが呟く。
「神の恩恵なしで、あれほどの強度を持つ理由も」
ゼウスも頷く。
「その《強奪》が、この世界の理へ馴染みにくかった理由も、説明がつく」
「よく分かってんな」
「神じゃからの」
「さっきまで俺が王ってのも信じなかったくせに」
「それとこれは別じゃ」
「都合いいな」
「神とはそういうものじゃ」
ヘラがゼウスの後頭部を叩いた。
「一緒にしないで」
「痛いぞ、ヘラ!」
「酒で鈍った頭を起こしただけよ」
再び広場へ笑い声が戻る。
◇
日が沈む。
松明が灯され。
料理の皿が空になり。
黒砂酒の樽も、半分ほどまで減っていた。
残りはザルドが飲める日まで取っておくことになった。
バンは珍しく異議を唱えなかった。
広場のあちこちで。
団員たちが歌い。
住民が手を叩き。
負傷者は椅子へ座ったまま笑っている。
派手な祝勝祭ではない。
空いた席は残っている。
石壇には帰らなかった者の椀がある。
時折、笑いながら泣く者もいる。
それでも。
生きている者の声が。
灰に覆われたハルファへ戻っていた。
バンは広場の端へ移動した。
人の輪から少し離れ。
灰の向こうを見る。
ザルドの大剣。
黒い砂漠。
その先にある、まだ知らない世界。
「逃げたのか」
アルフィアが隣へ来る。
椅子に座ったまま。
女帝に運ばせたらしい。
「何から」
「質問攻めだ」
「飯の好みから、国の大きさまで聞かれた」
「答えればいい」
「面倒くせぇ」
「王として失格だな」
「王様だって休みてぇんだよ」
アルフィアは黒い砂漠を見る。
「異なる世界から来た」
「ああ」
「妻と子がいる」
「ああ」
「国もある」
「一応な」
「それでも、よく他人のために命を使えるな」
バンは黙る。
右腕を吊った布が、風に揺れる。
「ザルドへ渡した生命力も」
「死にそうだったからな」
「名も知らぬ団員を助けたのも」
「近くにいた」
「ハルファを守ったのも」
「飯食ったから」
「理由になっていない」
「俺にはなる」
アルフィアは少し顔を伏せる。
「お前の妻は」
そこで止める。
バンが横目で見る。
「何だよ」
「随分と面倒な男を夫にしたものだ」
「嫉妬か?」
アルフィアの手が動く。
だが、体調が悪く。
殴る代わりにバンの脛を軽く蹴るだけだった。
「痛ぇな」
「次は魔法を使う」
「冗談だよ」
「お前の冗談は不快だ」
「知ってる」
少しの沈黙。
宴の歌声が遠くから聞こえる。
「詳しい話はしないのか」
アルフィアが尋ねた。
「妻のことも。子のことも。王になった理由も」
「今はしねぇ」
「なぜ」
「長ぇし」
「それだけか」
「酒がまずくなる話も混じってる」
バンは空の杯を見る。
「今日は、うまいまま終わらせてぇ」
「そうか」
アルフィアはそれ以上聞かなかった。
バンが話す気になるまで。
聞くべき場所へ辿り着くまで。
待てばいい。
「ただ」
バンが言う。
「息子はいい奴だぞ」
「親馬鹿か」
「親はみんなそうだろ」
「知らん」
「お前も子ども持てば分かる」
「殺すぞ」
「今の体調じゃ無理だな」
今度は脛ではなく、足の甲を踏まれた。
「地味に痛ぇ!」
「黙れ」
アルフィアの口元には。
僅かな笑みがあった。
◇
夜が深くなった頃。
ナジュが最後の料理を運んできた。
小さな甘い焼き菓子。
砂糖は貴重だ。
それでも、弔いを終えた夜のために残していた。
「アルフィアの分」
「私は頼んでいない」
「ザルドが甘いものを作るって言ってたから、代わりだよ」
アルフィアは断ろうとした。
だが、皿を受け取る。
「バンの分もあるよ」
「俺は肉がいい」
「甘いものも食べな」
「酒に合わねぇ」
「もう酒は終わり」
「横暴だな」
「セリアに言われた」
「治療師ってのは敵だな」
「聞こえています!」
救護所の方から、セリアの声が飛ぶ。
バンが肩をすくめる。
焼き菓子を一口食べる。
少し硬い。
甘さも控えめ。
だが。
「悪くねぇな」
「素直じゃないね」
「うまいって意味だよ」
ナジュは笑った。
広場の中心では。
ゼウスが再び酒を飲もうとして、ヘラに捕まっている。
マキシムと女帝は、団員たちの歌を聞いていた。
パァルとリシェルは、明日の作業について話しながら食事をしている。
救われた三人は。
バンの皿へ勝手に肉を追加し。
代わりに酒の杯を遠ざけた。
ザルドは救護所へ戻っている。
だが。
彼のための料理と。
半分残された黒砂酒の樽がある。
次の宴へ繋がる約束。
今夜で全てが終わるわけではない。
むしろ。
生き残った者たちにとっては。
ここからが始まりだった。
黒砂の減少を確かめ。
水路を直し。
家を建て。
毒を抜き。
歩けない者を支え。
再び砂船を走らせる。
灰へ埋もれた土地で。
もう一度、暮らしを作る。
バンは立ち上がる。
「どこへ行く」
アルフィアが尋ねる。
「寝る」
「珍しいな」
「明日、腹減るからな」
「今も食べているだろう」
「これは夜食」
「宴の途中からずっと食べていたぞ」
「成長期なんだよ」
「六十歳が言うな」
「外見は三十九だぞ」
「十分に成長済みだ」
「中身は千年以上」
「なお悪い」
二人は言い合いながら、広場へ戻る。
女帝が遠くから声をかけた。
「考えが変わったら言いなさい、異世界の王」
「変わらねぇよ!」
「妻と相談してからでもいいわ」
「絶対会わせねぇ!」
「それほど強いなら、なおさら興味があるわね」
「喧嘩売りに行くな!」
笑い声が夜空へ響く。
黒い砂漠の上。
灰の丘へ突き刺さった一振りの大剣。
死者の名を刻んだ紙。
飲み干されなかった一樽の酒。
すべてが、戦いの終わりと。
次へ進むための始まりを示していた。
バンは杯を一度だけ掲げる。
帰らなかった者へ。
生き残った者へ。
毒と病を抱えながら、次の朝を待つ者へ。
そして。
別の世界にいる妻と息子へ。
「また飲もうぜ」
誰へ向けた言葉か。
周囲の者たちは、それぞれ好きな相手へ向けられたものだと思った。
それでよかった。
風が吹く。
灰を運び。
酒と肉の匂いを黒い砂漠へ広げる。
ベヒーモスの咆哮は、もう聞こえない。
代わりに。
人の笑い声が、夜のハルファへ長く残っていた。
第30話でした。
今回は弔いと復興を経たハルファで黒砂酒の樽を開き、生き残った者たちがようやく同じ卓を囲む場面を描きました。
また、女帝の求婚をきっかけに、バンが妻子持ちの王であり、複雑な年齢と千年以上の煉獄経験を持つこと、そして異なる世界から来た人間であることが明らかになりました。