強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第35話 オアシスの夜市

夕暮れがリオードの街を染め始めた頃、宿の一階には香ばしい匂いが満ちていた。

 

厨房の前に立つザルドは、巨大な手で土壺の蓋を持ち上げる。

 

中から立ち昇った湯気とともに、煮込まれた肉と香辛料の匂いが広がった。

 

「おっ、いい匂いじゃねぇか」

 

食堂の椅子へ深く腰掛けたバンが、鼻を動かす。

 

右腕は相変わらず布で吊られている。

 

市場から戻って以降、しばらく寝台で休んでいたものの、夕食の匂いを嗅ぎつけると真っ先に一階へ降りてきた。

 

「昼寝するんじゃなかったのか?」

 

「飯の時間に寝てられるかよ」

 

「一刻前まで鼾をかいていたぞ」

 

「オレは鼾なんてかかねぇ」

 

「壁が震えていた」

 

「それ、宿の外を通った荷車じゃねぇか?」

 

「随分と規則正しく通る荷車だな」

 

ザルドは大きな匙で壺の中身をかき混ぜた。

 

昨日食べた岩塩ツボ煮込みを、彼なりに再現したものらしい。

 

だが、宿の主人から借りた香辛料だけでなく、昼間に市場で購入した香草や乾燥果実まで加えられている。

 

厨房の隅では、興味を惹かれた宿の料理人がザルドの手元をじっと見つめていた。

 

「兄さん、本当に冒険者なのかい?」

 

料理人が尋ねる。

 

「そうだ」

 

「どこかの料理人じゃなくて?」

 

「違う」

 

「その手つき、旅人のものじゃないよ。肉を焼く火加減も、香草を入れる順番も分かってる」

 

「食えるものをより旨く食うために覚えた」

 

「それで覚えられるなら、世の料理人は苦労しないよ」

 

ザルドは答えず、壺の中から肉を一片取り出した。

 

味を確認するように噛み、わずかに眉を寄せる。

 

「塩が足りん」

 

「昨日のは相当濃かっただろ」

 

バンが口を挟む。

 

「怪我人に塩分は必要だ」

 

「都合よく怪我人を使うな」

 

「お前が食う量を考えれば、多少濃くても問題ない」

 

「オレを何だと思ってやがる」

 

「食欲だけは健康な怪我人だ」

 

「そりゃ否定できねぇな」

 

バンが笑った時、階段の方から足音が聞こえた。

 

アルフィアがゆっくりと降りてくる。

 

昨日より顔色は良くなっているものの、まだ手すりへ手を添えていた。

 

それを見たザルドが厨房から出ようとする。

 

「来るな」

 

アルフィアが先に言った。

 

「まだ何もしていない」

 

「お前は今、私を抱えて降ろそうとしただろう」

 

「転げ落ちるよりはましだ」

 

「私が階段から落ちると思っているのか」

 

「足元を見ろ」

 

アルフィアは一段降りたところで動きを止めた。

 

確かに足がわずかに震えている。

 

彼女は冷ややかにザルドを見下ろした。

 

「見なかったことにしろ」

 

「無理だ」

 

「ならば目を閉じろ」

 

「閉じたら余計に危ないだろう」

 

「お前の心配は鬱陶しい。耳にまとわりつく雑音より不快だ」

 

「文句は降りてから聞く」

 

ザルドが階段へ向かおうとすると、アルフィアの目が鋭くなる。

 

「一歩でも近づけば、厨房ごと消す」

 

「宿まで巻き込むなよ」

 

バンが笑いながら声をかけた。

 

「手すり使えば降りられるだろ。ゆっくり来いよ」

 

「お前まで私へ指図するな」

 

「じゃあ転ぶなよ」

 

「誰にものを言っている」

 

アルフィアは時間をかけ、一段ずつ階段を降りた。

 

最後の段へ足を置いた瞬間、身体がわずかに前へ傾く。

 

ザルドが無言で腕を差し出す。

 

アルフィアはその腕を掴んで姿勢を立て直した。

 

数秒後、自分が何をしたのか気づいたように、掴んでいた手を離す。

 

「今のことは忘れろ」

 

「何のことだ?」

 

「……分かっているなら構わん」

 

アルフィアは何事もなかったように食卓へ歩いていく。

 

バンは笑いを堪えるように口元を押さえた。

 

「何がおかしい」

 

「いや、何でもねぇ」

 

「なら、その顔をやめろ」

 

「生まれつきだよ」

 

「哀れだな」

 

「辛辣だねぇ」

 

アルフィアが椅子へ座ると、目の前に小さな包みが置かれていることに気づいた。

 

昼間、市場で買ったナツメヤシの菓子だった。

 

手をつけずに残していたものを、バンが置いておいたらしい。

 

「まだ置いていたのか」

 

「お前の分だって言っただろ」

 

「いらんとも言った」

 

「じゃあオレが食うか」

 

バンが左手を伸ばす。

 

アルフィアはその手より先に包みを取った。

 

「何してんだ?」

 

「食事を無駄にするなと言ったはずだ」

 

「食うなら食うって言えよ」

 

「お前に宣言する必要はない」

 

包みを自分の側へ引き寄せたアルフィアを見て、バンがにやりと笑う。

 

「随分と気に入ったみてぇだな」

 

「違う」

 

「昨日も今日も同じこと言ってんな」

 

「黙れ。舌を失いたくなければな」

 

厨房から宿の主人と料理人が大皿を運んできた。

 

中央には、ザルドが作った肉の煮込み。

 

隣には、焼いた平たいパンと、豆や刻んだ野菜を混ぜた料理が並ぶ。

 

壺の中で柔らかく煮込まれた肉には、干し果実の甘みと香草の爽やかさが染み込んでいた。

 

「さあ、食べてみてくれ」

 

料理人が期待に満ちた表情で言う。

 

「作ったのは俺だ」

 

「分かってるよ。こっちまで楽しみになったんだ」

 

バンは左手だけでパンをちぎり、肉と煮汁を乗せて口へ運んだ。

 

「うまっ」

 

昨日の料理よりも塩気は抑えられている。

 

その代わり、肉そのものの旨味が濃く、後から香草の香りが抜けていった。

 

干し果実の甘みも強すぎず、脂の重さを和らげている。

 

「昨日のよりうめぇんじゃねぇか?」

 

「当然だ」

 

「自分で言うか?」

 

「俺が作った方が旨い」

 

「料理人の前で言い切るなよ」

 

「いや、悔しいが本当にうまいよ」

 

料理人が笑う。

 

「明日、作り方を教えてくれないか?」

 

「構わん」

 

「助かる!」

 

ザルドも席へ着き、自分の器へ煮込みを盛った。

 

アルフィアは匙で煮汁をすくい、少量だけ口へ運ぶ。

 

ゆっくり味わった後、ザルドを見る。

 

「香草が多い」

 

「気に入らなかったか?」

 

「そうは言っていない。昨日の粗雑な煮込みよりはましだ」

 

「随分と遠回しに褒めるな」

 

バンが笑う。

 

「褒めていない」

 

「じゃあ食うのやめるか?」

 

バンがアルフィアの器へ手を伸ばす。

 

匙の柄で手の甲を叩かれた。

 

「触るな」

 

「いてぇな」

 

「当然だ。それは私の皿だ」

 

「気に入ってんじゃねぇか」

 

「舌を失いたいらしいな」

 

食事が進むにつれて、食堂には他の客たちも集まり始めた。

 

旅人や商人たちの会話が重なり、笑い声が広がっていく。

 

食堂の扉が開くたびに、外から楽器の音が流れ込んできた。

 

弦を弾く音。

 

小さな太鼓。

 

高く澄んだ笛の音。

 

「何かやってるみてぇだな」

 

バンが扉の外を見る。

 

通りには昼間よりも多くの灯りがともっていた。

 

色とりどりの硝子灯が軒先に吊るされ、石畳へ赤や青の光を落としている。

 

昼間は閉じていた店も天幕を広げ、夜の市場が始まっていた。

 

「リオードの夜市ですよ」

 

宿の主人が答えた。

 

「昼の市場は旅に必要な物を売りますが、夜は酒や食事、音楽、見世物が中心です。暑さも和らぎますからね」

 

「へぇ」

 

「今夜は泉の広場で、旅芸人の演奏もあるそうです」

 

「そいつは見に行かねぇとな」

 

「寝ていろ」

 

ザルドが即座に言う。

 

「昼間も歩いたんだから平気だろ」

 

「だから夜は休め」

 

「街に来て宿と市場を往復するだけじゃ勿体ねぇじゃねぇか」

 

「お前は療養中だ」

 

「歩くだけだぜ?」

 

「昼も同じことを言っていた」

 

「結果、何ともなかっただろ」

 

「帰ってすぐ寝ただろうが」

 

「あれは昼飯を食って眠くなっただけだ」

 

「怪我人の言い訳は聞き飽きた」

 

バンはアルフィアを見る。

 

「お前はどうする?」

 

「行かん」

 

「音楽があるらしいぞ」

 

「だから行かんと言っている。素人が奏でる不完全な音など、聞くだけ時間の無駄だ」

 

「聞く前から決めつけんなよ」

 

「音を聞かずとも、街の喧騒を聞けば程度は知れる」

 

「甘い菓子の店もあるかもしれねぇぞ」

 

アルフィアが黙る。

 

バンはその反応を見逃さない。

 

「昼間とは違う菓子もあるかもしれねぇな」

 

「だからどうした」

 

「蜜をかけた焼き菓子とか、冷たい果物とか」

 

「興味はない」

 

「じゃあオレが買ってくる」

 

「好きにしろ」

 

「お前の分は?」

 

「いらん」

 

「本当に?」

 

「くどいぞ」

 

「帰ってきてから欲しいって言われてもやらねぇぜ」

 

「誰がお前に物を乞うか」

 

「じゃ、決まりだな」

 

バンが立ち上がる。

 

ザルドは眉を寄せた。

 

「一人で行くつもりか」

 

「お前らが来ねぇならな」

 

「お前を一人で行かせる方が面倒だ」

 

ザルドも立ち上がる。

 

「何か買っても荷物を持てんだろう」

 

「片手で十分だ」

 

「その片手を酒に使うつもりだろ」

 

「鋭いねぇ」

 

「否定しろ」

 

「分かったよ。飲まねぇって」

 

ザルドがアルフィアを見る。

 

「お前は部屋で休んでいろ」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「今の言葉は何だ?」

 

「休めと言った」

 

「私を置いていくつもりか」

 

「来ないと言っただろう」

 

「私が行かないことと、お前たちが勝手に出歩くことは別だ」

 

「何が違うんだよ」

 

バンが尋ねる。

 

「お前たちだけで夜市へ行けば、ろくなことにならん。酒を飲み、怪しい食べ物を買い、宿へ余計な荷物を持ち帰る」

 

「信頼ねぇなぁ」

 

「昼間の行動を忘れたか?」

 

「干物は買ってねぇだろ」

 

「買おうとしていた」

 

「でも買ってない」

 

「私が止めたからだ」

 

アルフィアは席を立つ。

 

その動きにザルドが眉をひそめた。

 

「体調は大丈夫なのか」

 

「自分の身体は自分で分かる」

 

「昼間より顔色が悪い」

 

「照明のせいだ」

 

「ここは昼間と同じ灯りだぞ」

 

「黙れ、ザルド」

 

「無理をするな」

 

「貴様らを監視するだけだ」

 

「結局来るんじゃねぇか」

 

バンが笑う。

 

「監視だ。勘違いするな」

 

「はいはい」

 

「その返事をやめろ」

 

三人は再び宿を出た。

 

夜のリオードは、昼間とはまるで別の街だった。

 

建物の間に張られた布には小さな灯りが吊るされ、通り全体が淡い色彩に包まれている。

 

露店から漂う焼いた肉や甘い蜜の匂い。

 

小さな卓を囲み、乳白色の酒を飲む旅人たち。

 

火のついた棒を回す旅芸人。

 

曲芸を披露する獣人の子供たち。

 

昼の市場が交易のための場所なら、夜市は長い旅の疲れを忘れるための場所だった。

 

「こいつは昼より面白ぇな」

 

バンは人混みを見渡す。

 

「お前がそう感じるなら、低俗なのだろうな」

 

アルフィアは不快そうに周囲を見る。

 

だが、本当に嫌なら宿へ戻るはずだった。

 

少なくとも、足を止める気配はない。

 

通りの先から歓声が聞こえる。

 

大勢の人間が円を作り、その中央で二人の男が木製の棒を打ち合わせていた。

 

「何だ、あれ?」

 

「砂漠の棒術試合ですよ」

 

近くにいた老人が答えた。

 

「刃物を使わず、相手の棒を落とすか、円の外へ押し出せば勝ちです」

 

「面白そうじゃねぇか」

 

バンが足を止める。

 

一人は大柄な獣人。

 

もう一人は細身の青年だった。

 

獣人が力任せに棒を振るう。

 

青年は軽く身をかわし、棒の端で相手の手首を打つ。

 

獣人の棒がわずかに下がった。

 

続けて青年が足を払う。

 

獣人は大きく体勢を崩し、そのまま円の外へ転がった。

 

歓声が上がる。

 

「悪くねぇな」

 

バンが感心したように言う。

 

「相手の力を流して、隙を作ってやがる」

 

「初歩的な技だ」

 

アルフィアが言う。

 

「お前、棒術も分かるのか?」

 

「武器の理など、見れば分かる。あの男は足運びが甘い。次に同じ方向へ踏み込めば倒される」

 

次の挑戦者が円へ入る。

 

今度は背の低い小人族の男だった。

 

試合が始まると、小人族は青年の右側へ回り込む。

 

青年も追うように同じ方向へ踏み込んだ。

 

その瞬間、小人族の棒が足元へ滑り込む。

 

青年は予想通り体勢を崩し、肩を押されて円の外へ出た。

 

「本当に倒されたな」

 

「当然だ」

 

アルフィアは淡々と答える。

 

「一度見れば癖など知れる。二度も同じ旋律を奏でる愚か者は、敗北して当然だ」

 

「お前が出たら優勝できそうだな」

 

「この程度の遊戯に参加するほど暇ではない」

 

「病人だから止めとけ」

 

「バン」

 

「なんだ?」

 

「今の言葉を取り消せ」

 

「病人じゃねぇのか?」

 

「取り消せ」

 

「怖ぇ顔すんなって」

 

棒術試合から離れ、三人は泉の広場へ向かった。

 

広場の中央には巨大なオアシスが広がり、周囲の灯りが水面に映っている。

 

昼間は青かった水が、今は赤や金色の光を揺らしていた。

 

泉の縁には人々が腰を下ろし、旅芸人の演奏を待っている。

 

やがて太鼓が一度、大きく鳴った。

 

ざわめきが静まる。

 

舞台の中央に、濃紺の衣装をまとった女が立った。

 

手にしているのは、細い弦を何本も張った弓のような楽器だった。

 

女が弦を弾く。

 

高く澄んだ音が、泉の上へ流れていった。

 

続いて笛。

 

低い太鼓。

 

異なる音が一つずつ重なり、やがてゆるやかな旋律を作り始める。

 

アルフィアがわずかに目を開く。

 

「どうだ?」

 

バンが小声で尋ねる。

 

「黙れ」

 

「気に入ったか?」

 

「演奏中に話しかけるな。雑音になる」

 

「へいへい」

 

今度はアルフィアも返事の軽さを咎めなかった。

 

楽曲は、砂漠を渡る隊商を思わせるゆったりとしたものだった。

 

太鼓は砂船の歩み。

 

笛は乾いた風。

 

弦の高い音は、夜空に輝く星のように響く。

 

周囲の客たちも酒を飲む手を止め、静かに聞き入っている。

 

曲が終わる。

 

大きな拍手が広場へ響いた。

 

「思ったよりよかったな」

 

バンが言う。

 

アルフィアはすぐには答えなかった。

 

しばらく舞台を見つめた後、静かに口を開く。

 

「笛は悪くない」

 

「それだけか?」

 

「弦も及第点だ。太鼓は二度、拍を急いだ」

 

「細けぇな」

 

「音を奏でるなら、完璧であれ。不完全な演奏は旋律ではなく雑音だ」

 

「でも最後まで聞いてたじゃねぇか」

 

「批評するには最後まで聞く必要がある」

 

「気に入ったんだろ?」

 

「違う」

 

「昼からそればっかだな」

 

アルフィアの目が冷たくなる。

 

「お前の頭には、それ以外の解釈が存在しないのか?」

 

「分かりやすくていいだろ」

 

「単純なだけだ」

 

次の演奏が始まる前に、広場の横から甘い匂いが漂ってきた。

 

細い棒へ巻き付けた生地を炭火で焼き、その上から蜜と砕いた木の実をかけている。

 

「ほら、甘い菓子があったぜ」

 

バンが露店を指す。

 

「興味はない」

 

「顔は向いてるけどな」

 

「店の位置を確認しただけだ」

 

「買ってくる」

 

「いらん」

 

バンは聞かずに露店へ向かった。

 

左手だけで硬貨を取り出し、三本購入する。

 

戻ってくると、一本をザルドへ渡した。

 

「俺にもあるのか」

 

「食うだろ?」

 

「出されればな」

 

もう一本をアルフィアへ差し出す。

 

「いらん」

 

「じゃあオレが二本食うか」

 

バンが二本を重ねて持とうとする。

 

アルフィアは素早く一本を奪った。

 

「片手で二本持てば落とす」

 

「心配してくれたのか?」

 

「食べ物を地面へ落とすなと言っている」

 

「はいはい」

 

「その返事を――」

 

アルフィアは言いかけ、手に持った菓子を見る。

 

焼きたての生地からは湯気が立ち、蜜が表面を伝っている。

 

小さく口をつける。

 

外側は香ばしく、中は柔らかい。

 

蜜の強い甘さの中に、木の実の香りが混じっていた。

 

「どうだ?」

 

「甘い」

 

「それ、菓子だからな」

 

「知っている」

 

「気に入ったか?」

 

「黙って食べろ」

 

「答えになってねぇ」

 

「答える価値がない」

 

そう言いながら、アルフィアは二口目を食べた。

 

三人は泉の縁に並んで座った。

 

正確には、バンとザルドが腰掛け、アルフィアは少し離れた場所に立っている。

 

人混みを避けたいのかと思われたが、しばらくすると彼女も二人の隣へ腰を下ろした。

 

しばらく誰も話さなかった。

 

泉の水が揺れる音。

 

遠くの演奏。

 

夜市を歩く人々の声。

 

アルフィアが嫌うはずの音で満ちている。

 

だが、不思議と騒がしいとは感じなかった。

 

個々の音は雑多でも、この街で生きる者たちの息遣いが一つの旋律のように重なっている。

 

「悪くねぇ街だな」

 

バンがつぶやく。

 

「飯もうまいし、酒もある」

 

「飲んでいないだろう」

 

ザルドが言う。

 

「だから飲みてぇんだよ」

 

「諦めろ」

 

「一口だけなら――」

 

「駄目だ」

 

アルフィアが即座に切り捨てる。

 

「まだ言い切ってねぇぞ」

 

「言い切る必要はない。お前の思考は単純だ」

 

「二人して同じことばっか言いやがって」

 

「同じ愚行を繰り返そうとするからだ」

 

バンは近くの卓を見る。

 

透明な酒へ冷たい水が注がれ、乳白色へ変わっていく。

 

アニスと香草の匂いが夜風に乗って届いた。

 

バンは未練がましく見つめる。

 

「見るだけにしろ」

 

ザルドが言う。

 

「分かってるよ」

 

「その顔は分かっていない」

 

「匂いだけならいいだろ」

 

「匂いで酔うつもりか?」

 

「そんな器用な真似できたら苦労しねぇよ」

 

その時、酒を売っていた店主が三人に気づいた。

 

「旅人さん、飲んでいかないか?」

 

「こいつは飲めん」

 

ザルドが答える。

 

「怪我人か。それなら酒はやめた方がいいな」

 

「そう言わずに一口ぐらい――」

 

「駄目だ」

 

「駄目だ」

 

ザルドとアルフィアの声が重なる。

 

店主が笑った。

 

「随分と厳しい仲間を持ったな」

 

「そうなんだよ。ちょっとぐらい見逃してくれてもいいだろ?」

 

「お前に酒を飲ませない程度で厳しいと言われる筋合いはない」

 

アルフィアが冷たく言う。

 

「傷を悪化させ、治療を長引かせ、周囲へ余計な手間をかける。そこまで理解してなお飲むなら、愚か者ではなく害獣だ」

 

「害獣は言い過ぎじゃねぇか?」

 

「ならば証明しろ。酒を飲まずに宿へ戻れ」

 

「妙な勝負にすんなよ」

 

「逃げるのか?」

 

「その手には乗らねぇ」

 

「なら飲むな」

 

「結局そこに戻んのかよ」

 

店主は笑いながら、別の器へ冷たい水を注いだ。

 

その中に数枚の香草と、潰した果実を入れる。

 

「酒は飲めなくても、こいつならどうだ?」

 

バンが器を受け取る。

 

一口飲む。

 

冷たい水に果実の酸味と香草の爽やかさが混ざり、喉を通り抜けていった。

 

「悪くねぇな」

 

「酒には負けるが、砂漠を歩いた後にはうまいだろ?」

 

「確かにな」

 

ザルドとアルフィアの分も渡される。

 

ザルドは一息に飲み干した。

 

アルフィアは香りを確かめてから口をつける。

 

「薬草の配合は悪くない」

 

「褒めてるのか?」

 

店主が笑う。

 

「事実を述べただけだ」

 

「そいつはありがたい」

 

広場では二曲目が終わり、新しい曲が始まっていた。

 

今度は先ほどよりも静かな旋律だった。

 

弦の音が、水面を滑るように響く。

 

アルフィアは器を手にしたまま、目を閉じる。

 

誰も話しかけなかった。

 

バンは隣で静かに水を飲み、ザルドは夜空を見上げている。

 

雲一つない空には、無数の星が輝いていた。

 

大きな戦いの後に訪れた、何でもない夜。

 

剣戟も咆哮もない。

 

血の匂いも、死の気配もない。

 

聞こえるのは、音楽と人々の笑い声だけだった。

 

アルフィアが目を開く。

 

「……今の曲は悪くない」

 

小さな声だった。

 

バンが笑う。

 

「やっぱ気に入ってんじゃねぇか」

 

「黙れ」

 

「素直じゃねぇなぁ」

 

「次に余計な音を出せば、泉へ沈める」

 

「怪我人に冷てぇな」

 

「右腕を使わずとも沈める方法はある」

 

「アルフィア、お前も病人だろ」

 

「黙れ、ザルド」

 

ザルドは小さく息を吐いた。

 

「帰るぞ。これ以上は身体に障る」

 

「もう少しいいだろ」

 

バンが言う。

 

「お前もだ」

 

「オレは平気だって」

 

「今日は随分歩いた。休め」

 

「子供扱いすんなよ」

 

「子供の方が言うことを聞く」

 

「違いねぇ」

 

店主が笑った。

 

バンは渋々立ち上がる。

 

アルフィアも立とうとしたが、長く座っていたせいか足元が揺れた。

 

ザルドがすぐに身体を支える。

 

「触るな」

 

「倒れるぞ」

 

「倒れん」

 

「もう倒れかけている」

 

「見間違いだ」

 

「俺の目は正常だ」

 

「ならば今すぐ潰してやる」

 

「元気になってからにしろ」

 

いつものやり取りを聞き、バンが笑う。

 

「今度は抱えて帰るか?」

 

「黙れ、バン」

 

「やめとけ。街中で吹き飛ばされるぜ」

 

「お前も余計なことを言うな」

 

結局、ザルドはアルフィアの腕を自分の肩へ回し、歩くのを支えた。

 

アルフィアは不満そうだったが、今度は振りほどかなかった。

 

三人は夜市の灯りの中を宿へ戻っていく。

 

途中、バンは何度も酒場へ視線を向けたが、一度も足を止めなかった。

 

アルフィアがそれを横目で確認する。

 

「珍しく聞き分けがいいな」

 

「約束したからな」

 

「誰とだ?」

 

「お前らとだよ」

 

アルフィアは一瞬だけ黙る。

 

「そうか」

 

それだけ言って前を向いた。

 

宿へ戻る頃には、夜も深くなっていた。

 

部屋へ入る前、アルフィアが足を止める。

 

「バン」

 

「なんだ?」

 

「今夜の水は悪くなかった」

 

「酒の代わりのやつか?」

 

「ああ」

 

「また飲みてぇのか?」

 

「話を広げるな。ただの感想だ」

 

「じゃあ明日も買うか」

 

「好きにしろ」

 

「お前の分も?」

 

「……余るのなら、捨てる必要はない」

 

「はいはい」

 

「その返事をやめろ」

 

アルフィアは扉を閉めた。

 

バンは楽しそうに笑いながら、自分たちの部屋へ向かう。

 

ザルドがその背中へ声をかける。

 

「酒を飲まなかった点だけは褒めてやる」

 

「最初から飲まねぇつもりだったぜ」

 

「嘘をつけ」

 

「本当だって」

 

「店へ向かって三度歩きかけた」

 

「数えてたのかよ」

 

「監視役が二人も必要な理由が分かっただろう」

 

「まったく、信用ねぇなぁ」

 

そう言いながら、バンの表情はどこか楽しそうだった。

 

静寂を好む女と、食にうるさい大男。

 

そして、片腕を吊った元盗賊。

 

三人で歩くリオードの夜は、戦場より遥かに穏やかで――それでいて、決して静かではなかった。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回はリオードの夜市と、泉の広場で過ごす三人の時間を描きました。

酒を飲みたいバンと、それを止めるザルドとアルフィア。文句を言いながら甘い焼き菓子を受け取るアルフィアや、料理人としての腕を見せるザルドなど、戦いから離れた三人らしいやり取りを意識しています。

特に、喧騒を嫌うアルフィアが演奏を最後まで聞き、「悪くない」と認める場面がお気に入りです。
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