第36話 砂漠の向こうへ
朝のリオードには、砂と香辛料の匂いが満ちていた。
城壁の向こうから吹き込む乾いた風が、市場に吊るされた色鮮やかな布を揺らしている。
薄焼きパンを積み上げる店。
干した果実や香草を並べる商人。
朝早くから肉を焼き、通りへ香ばしい煙を流す屋台。
人々の呼び声が幾重にも重なり、オアシス交易都市は今日も目覚めと同時に動き始めていた。
市場から少し離れた宿屋の前。
軒下に置かれた長椅子へ腰を下ろし、バンは左手に持った肉串をかじっていた。
「朝からよく食えるな」
向かいに座っていたザルドが、低い声で言った。
大柄な身体には、今も何本もの包帯が巻かれている。
ベヒーモスとの戦いで受けた傷は、並の冒険者なら寝台から起き上がることすらできないほど深かった。
ザルドはすでに自分の足で歩いている。
だが、それは傷が治ったという意味ではない。
動けば脇腹が痛み、深く息を吸えば胸の奥が軋む。
酒も控え、食事と睡眠によって身体を戻している最中だった。
「腹減ってんだから仕方ねぇだろ」
バンは羊肉を噛み切った。
表面には赤い香辛料が擦り込まれ、強い火で余分な脂が落とされている。
辛味の後から肉の甘みが追いかけ、空腹の身体にはよく合った。
バンの右腕も、まだ布で吊られていた。
ベヒーモスとの戦いで負った傷は、完全には塞がっていない。
指は動く。
感覚も残っている。
だが、無理に力を込めれば、骨と筋肉の奥に鈍い痛みが走った。
「負傷者とは思えない食欲だ」
窓辺に立っていたアルフィアが言った。
声音は冷たく、視線には呆れが混じっている。
「お前も朝から甘いもん食ってただろ」
バンが顎で示す。
アルフィアの手元には、小さな皿があった。
干した棗椰子の実に蜜を塗り、砕いた木の実を詰めたリオードの菓子。
皿には一つだけ残っている。
「栄養補給だ。余計なことを言うな」
「甘いもん好きなだけじゃねぇのか?」
「雑音だ」
切り捨てるように言われ、バンは喉の奥で笑った。
アルフィアも、外見だけなら普段と大きく変わらない。
白い髪も、鋭い眼差しも、他者を寄せつけない冷たい雰囲気もそのままだ。
しかし、時折呼吸が浅くなる。
身体の内側に残った負担は、まだ消えていなかった。
三人とも生きている。
立って歩き、飯を食い、軽口を叩けるところまで戻ってきた。
それでも、次の大戦へ向かえる状態ではない。
だからこそ、リオードで足を止めていた。
「それで」
ザルドが腕を組んだ。
「朝から市場を眺めているだけではないだろう」
「あ?」
「先ほどから、南門ばかり見ている」
バンは串に残っていた最後の肉を口へ入れた。
市場の向こう。
人と荷馬車が行き交う通りの先に、リオードの南門が見える。
城門の周辺には、普段よりも多くの人間が集まっていた。
砂漠から戻ってきた隊商。
事情を聞こうとする商人たち。
城門を守る兵士。
その中心には、壊れた荷箱と、傷ついた駱駝が三頭いた。
「朝飯を買いに行った時、妙な話を聞いてな」
バンは串を近くの皿へ置いた。
「砂漠の向こうに、見たこともねぇ化け物が出てるらしい」
「どんな魔物だ?」
ザルドの目つきが変わる。
「紫色で、空をふわふわ漂ってるんだとよ。クラゲか、でけぇ胞子みてぇな姿らしい」
アルフィアが皿を窓枠へ置いた。
「砂漠にクラゲか。悪趣味だな」
「一匹ずつは大したことねぇみてぇだ。ただ、数がやたらと多い」
バンは南門を見たまま続ける。
「空を埋めるくらい群れてやがったって話だ」
「それだけではないのだろう」
「ああ。群れの中に、でけぇのが何匹か混ざってたらしい」
小型個体と同じく、紫色の半透明な身体。
クラゲと胞子を混ぜたような、不気味な形。
ただし、その身体は人間よりも大きく、表面には黒い殻や結晶のような突起が生えていたという。
数は少ない。
だが、大量の小型個体を引き連れるように移動していた。
「隊商は襲われたのか」
アルフィアが問う。
「ああ。小せぇのが荷にまとわりついたらしい」
「被害は?」
「食料が干からびた。積んでた果物も、肉も、木箱の中で水分を抜かれたみてぇになってたそうだ」
バンは吊られた右腕をわずかに動かした。
「水袋も何個かやられた。破れてねぇのに、中の水が濁って飲めなくなってたらしい」
「生命力か魔力を吸収している可能性があるな」
ザルドが低く言う。
「たぶんな」
バンの左手が、わずかに開く。
昨夜から感じていた。
リオードの外。
遥か砂漠の向こう。
何かが周囲へ細い手を伸ばしている。
直接バンを狙っているわけではない。
だが、《強奪》を使う時に似た感覚が、指先へわずかに引っかかっていた。
何かが何かを奪っている。
土地から。
生き物から。
力の届く範囲にあるものすべてから。
「どこから来た」
アルフィアが聞く。
「隊商の連中は、東の古い遺跡の方から流れてきたって言ってた」
「遺跡?」
「エルソス遺跡って名前らしい」
その名を口にした瞬間。
乾いた風が通りを抜けた。
細かな砂が石畳の上を走り、バンの赤いコートの裾を揺らす。
ザルドがしばらく黙り込む。
「調べに行くつもりか」
「その前に、もう少し話を拾ってくる」
「珍しく慎重だな」
「知らねぇ化け物を、知らねぇまま殴りに行くほど馬鹿じゃねぇよ」
アルフィアが冷たい視線を向けた。
「自覚があったのか」
「ひでぇな」
「事実だ」
バンは長椅子から立ち上がった。
「とりあえず、南門の連中にもう一度聞いてくる」
「一人で遺跡へ向かうな」
ザルドが言った。
「まだ行かねぇよ」
「まだ、か」
「細けぇな」
バンは軽く手を振り、人混みの中へ入っていった。
◇
南門へ戻ってきた隊商は、ひどい有様だった。
荷箱の多くは壊れ、布は紫色の液体で焼け焦げている。
駱駝の一頭は力なく地面へ伏せ、飼い主から水を与えられていた。
バンは群衆の外からしばらく様子を眺めた。
隊商を率いていたらしい中年の男が、兵士へ説明している。
「最初は砂煙だと思ったんだ」
男は震える手で水を飲んだ。
「だが、砂じゃなかった。紫色の、小さな何かが空いっぱいに浮かんでいた」
「どれほどの数だ」
「分からん。百や二百じゃない。向こうの砂丘が紫色に見えた」
「人間への被害は?」
「仲間が一人、腕へ取りつかれた。すぐに切り落としたが、触れられた場所だけ皮膚が乾いて、しばらく力が入らなかった」
バンの目が細くなる。
「魔物の名前に心当たりは?」
「知らない。あんなものは見たことがない」
「どこで遭遇した」
「エルソス遺跡へ続く旧街道だ。遺跡へ近づくほど数が増えていた」
兵士たちの間に、ざわめきが広がる。
「旧街道は封鎖する」
「すぐにだ。あれがリオードまで来たら、城壁があっても意味がない」
隊商の男は、そう言って頭を抱えた。
バンは近くに落ちていた壊れた果物箱を見た。
中に残っている果実は、皮だけを残して干からびている。
腐ってはいない。
熱で焼けた様子もない。
中身だけを抜き取られたような状態だった。
「本当に盗ってやがるな」
バンが呟く。
果物へ手を近づけると、薄い力の跡が残っていた。
だが、それが何者のものなのかまでは分からない。
名前も知らない。
性質も分からない。
分かるのは、エルソス遺跡の方向から来たことだけだった。
「兄ちゃん、あの遺跡へ行く気か?」
近くにいた老商人が声をかけてきた。
「まだ決めてねぇ」
「その顔は行く奴の顔だ」
「よく言われる」
老人は眉間へ皺を寄せた。
「エルソス遺跡に近づくなら、古い記録を調べた方がいい」
「記録?」
「この町は昔から砂漠の交易拠点だ。古い隊商や調査団の記録が残っている」
「どこにある」
「まともな書物なら商人組合だ。だが、あそこは金を取る」
「金なら少しある」
「その格好で組合へ行けば、まず身元を聞かれるぞ」
「面倒だな」
バンが露骨に顔をしかめると、老人は少し考えた。
「古本屋なら一軒ある」
「本屋?」
「南門から市場へ戻る途中、細い路地の奥だ。潰れかけの店だが、砂漠から拾われた古文書や、死んだ旅人の手記まで扱っている」
「怪しい店だな」
「だから、あんたには合うだろう」
「どういう意味だよ」
老人は答えず、路地の方向を指した。
◇
リオードの大通りは人と荷物で溢れている。
だが、一本路地へ入るだけで、喧騒は遠くなった。
建物と建物の間に挟まれた細い道。
日の光はほとんど入らず、古い布と壊れた木箱が壁際へ積まれている。
その奥に、傾いた看板があった。
文字は砂と風で削れ、半分ほど読めない。
残っているのは、本を開いたような絵だけだった。
「ここか」
バンは扉へ手をかけた。
ぎい、と嫌な音を立てて扉が開く。
中は暗かった。
古い紙。
埃。
乾燥させた防虫草。
そして、長い間動かされていない木の匂い。
天井近くまで積まれた本は、どれも色褪せ、表紙が剥がれかけている。
巻物。
破れた地図。
誰かの日記。
商人の帳簿。
読めるものもあれば、見たことのない文字で書かれたものもある。
「いらっしゃい」
店の奥から、しわがれた声がした。
本の山に隠れるように、小柄な老人が座っている。
「酒の本なら右。料理は左。金儲けの本なら売り切れだ」
「酒と飯も気になるけどな」
バンは店内を見回した。
「エルソス遺跡について書かれた本はあるか?」
老人の目が、わずかに細くなった。
「何を知りたい」
「紫色で、空に浮かぶ化け物が出たらしい」
「知らん」
「即答だな」
「知らんものは知らん」
老人はそう言ったが、その視線は一瞬だけ店の奥へ動いた。
バンはそれを見逃さなかった。
「何かあるみてぇだな」
「盗人か、お前は」
「昔はな」
「正直な盗人は嫌いではない」
老人は立ち上がり、杖をついて本の山の間へ入っていった。
しばらくして、手のひらほどの小さな冊子を持って戻ってくる。
表紙は革だったらしいが、ほとんど剥がれている。
紐で無理やり綴じ直され、端は砂に削られてぼろぼろだった。
「本というより、日記だ」
「誰のだ?」
「四十年ほど前、エルソス遺跡へ向かった調査団の荷物から出た」
「持ち主は?」
「戻らなかった」
老人は冊子を卓へ置いた。
「荷物だけが砂嵐の後に見つかった。この日記も、最初の数頁以外は読めん」
バンは片手で冊子を開いた。
文字は擦れ、所々が黒い染みで消えている。
バンにはこの世界の古い文字を完全には読めない。
だが、頁の中央へ描かれた絵は分かった。
巨大な蠍。
太いハサミ。
長く湾曲した尾。
身体から生えた、植物の根のようなもの。
背や甲殻を突き破る、禍々しい結晶。
その絵の横に、比較的新しい文字で名前が書き足されていた。
「アンタレス……?」
「ああ」
老人が低く答えた。
「日記の持ち主が、遺跡の壁画を写したらしい」
「こいつの名前か」
「そう書いてある」
次の頁には、小さな紫色のものが無数に描かれていた。
形はクラゲにも、植物の胞子にも見える。
巨大な蠍の周囲を取り囲み、地面や人間へ細い触手を伸ばしている。
その下にも、文字が残っていた。
老人が指でなぞる。
「アンタレスの子供」
「子供?」
「この巨大な魔獣から生じる分身体、と書かれている」
バンは頁をめくった。
いくつかの文章は読めた。
『子供は本体の眠りが浅くなると現れる』
『小さきものは弱い。だが数に限りがない』
『触れられた生命は枯れ、奪われた力は親へ運ばれる』
『大型の個体は、群れを導く』
『アンタレスはエルソスの地下に封じられた』
そこから先は、頁が破れていた。
「これだけか?」
「読めるのはな」
「封じた奴のことは?」
「次の頁に絵だけ残っている」
そこには、巨大な蠍を囲む人影と、光をまとった何者かが描かれていた。
月。
星。
光の鎖。
だが、説明部分は黒く焼け落ちている。
「誰が封じたかは分からん」
「じゃあ、まだ中にいるかどうかも分からねぇな」
「日記が正しければ、な」
老人はバンの顔を見た。
「その紫色の魔物が現れたのなら、封印に何かが起きている可能性はある」
「こいつらが盗った力は、親に戻るのか」
「そう書いてある」
「なるほどな」
バンは日記の絵を見つめた。
奪う魔獣。
生命を吸い、その力を自分へ戻す子供たち。
偶然とは思えなかった。
昨夜から《強奪》へ引っかかっていた感覚。
あれは、アンタレスが広げた奪う流れなのかもしれない。
「これ、いくらだ」
「銀貨三枚」
「ぼろぼろの紙切れに?」
「命に関わる紙切れだ」
「商売が汚ねぇな」
「古本屋なのでな」
バンは懐から銀貨を出し、卓へ置いた。
「買うのか」
「名前も知らねぇまま殴りに行くよりマシだろ」
「行くのか」
「まだ決めてねぇよ」
老人は鼻で笑った。
「それも、行く者の言葉だ」
バンは日記を赤いコートの内側へ入れた。
「エルソス遺跡へ行くなら、旧街道を東だ」
「道は分かる」
「日が沈む前に着けなければ、戻れ」
「考えとく」
「戻る気のない者は、皆そう言う」
「今日はよく言われるな」
バンは古本屋を出た。
◇
宿屋へ戻ると、ザルドとアルフィアは先ほどと同じ場所にいた。
ただし、ザルドの前には新しい料理が置かれている。
大きな平焼きパンへ、香辛料で焼いた肉と豆を挟んだものだった。
「戻ったか」
「飯増えてんな」
「お前が戻るまで待つ理由はない」
「一口くれよ」
「自分で買え」
バンは空いている長椅子へ腰を下ろし、古い日記を卓へ置いた。
アルフィアが表紙を見る。
「何だ、それは」
「エルソス遺跡へ行った調査団の日記らしい」
バンは巨大な蠍が描かれた頁を開いた。
「この化け物、アンタレスって名前らしい」
ザルドが日記を覗き込む。
巨大な蠍。
植物の根。
結晶。
絵だけでも、普通の魔物ではないことが分かる。
「紫色の魔物は?」
「アンタレスの子供。こいつの分身体みてぇなもんらしい」
バンは次の頁を見せた。
「小せぇのは数が多い。でけぇのは群れをまとめる。触れた生き物から力を吸って、親に送る」
「封印されているのか」
ザルドが絵を見ながら言う。
「ああ。エルソス遺跡の地下にな」
「古い日記一冊を信じるのか」
アルフィアが冷たく言う。
「全部は信じねぇよ」
バンは日記を閉じた。
「だから、自分の目で確かめに行く」
「結局そうなるか」
ザルドが息を吐いた。
「俺も行く」
「駄目だ」
アルフィアが即座に切り捨てた。
ザルドが鋭い視線を向ける。
「お前も同じ状態だろう」
「私は行くとは言っていない」
「珍しいな」
バンが口元を上げる。
アルフィアは冷たい目を向けた。
「万全でもない身体で、古代の魔獣が封じられた場所へ踏み込むなど愚行だ。自分の傷すら把握できない馬鹿と一緒にするな」
「言い方がきついな」
「事実だ」
ザルドは立ち上がろうとした。
その瞬間。
顔がわずかに歪み、太い手が脇腹へ伸びる。
「ほらな」
バンが言った。
「座ってろ。今のお前じゃ、砂漠を歩くだけで傷が開くぞ」
「お前も右腕を吊っているだろう」
「左は動く」
「そういう問題ではない」
「クレシューズもある」
バンは腰に下げた聖棍クレシューズを軽く叩いた。
「それに、あの子供って奴らが人や荷を襲い続けりゃ、いずれリオードにも来る」
「なら、一人で行くな」
「今のお前らを連れてく方が面倒だ」
「自分だけは問題ないと言いたいのか?」
「逃げ足ならオレが一番速い」
「逃げる気があるようには見えない」
アルフィアが言った。
「異常を確認したら戻れ。アンタレスが目覚めているなら、一人で戦うな」
「考えとく」
「戻れ」
「善処する」
「戻る気のない者の言葉だ」
バンは声を立てずに笑った。
「じゃあ、お前らはここで待ってろ」
「誰が待つか」
「帰ったら腹減ってると思うぞ。飯でも作っとけ」
ザルドの眉が動く。
「……何が食いたい」
「乗せられるな、ザルド」
アルフィアがすぐに言った。
「肉だな。酒に合うやつ」
「注文までつけるな」
そう言いながらも、ザルドは再び腰を下ろした。
自分が同行できる状態ではないことは、本人が一番よく分かっている。
アルフィアも、バンを言葉だけで止められないことを理解していた。
「バン」
「あ?」
「死ぬな」
短い言葉だった。
命令のようでありながら、声の奥にはわずかな重さがあった。
バンは一瞬だけ目を細める。
「誰に言ってんだよ」
「不死身ではなくなった馬鹿に言っている」
「そりゃごもっともだ」
バンは日記を懐へ戻し、立ち上がった。
「じゃ、行ってくるわ」
市場へ酒を買いに行くような軽い口調だった。
赤い背中が人混みの中へ消えていく。
しばらくして、ザルドが低く呟いた。
「あいつが異常を確認して、そのまま戻ってくると思うか?」
「思わない」
アルフィアは迷わず答えた。
「だろうな」
「だから早く身体を戻す」
アルフィアは皿に残っていた菓子を口へ運ぶ。
「あの馬鹿が古代の魔獣まで引きずって戻った時、殴れる程度にはな」
ザルドは喉の奥で笑った。
◇
リオードの城壁を出ると、空気が変わった。
街を満たしていた水と香辛料の匂いが遠ざかり、代わりに熱を含んだ砂の匂いが濃くなる。
バンは赤いコートの襟を軽く立て、東へ続く旧街道を歩いていた。
右腕はまだ布で吊られている。
腰には聖棍クレシューズ。
左肩には水袋と、小さな布包み。
懐には、古本屋で買ったぼろぼろの日記が入っていた。
最初のうちは、人や荷車が通った跡が残っていた。
人の足跡。
駱駝の蹄。
砂漠船の船底が砂を削った筋。
しかし、東へ進むにつれて、人の痕跡は少なくなっていく。
代わりに、見覚えのない跡が現れ始めた。
砂の上を何かが擦ったような線。
丸く焼け焦げた窪み。
色を失い、乾ききった草。
小動物の死骸。
バンは足を止めた。
砂の上には、小さな蜥蜴が横たわっている。
傷はない。
食われた跡もない。
だが、身体全体が異様なほど干からび、皮と骨だけになっていた。
「日記の通りか」
触れた生命は枯れる。
奪われた力は親へ運ばれる。
バンはしゃがみ込み、左手を近づけた。
わずかに残る、細い力の痕跡。
それは東へ向かって伸びている。
「本当に盗ってやがるな」
バンは立ち上がった。
陽が高くなるにつれ、砂漠の熱は強まっていく。
乾いた風が赤いコートを叩く。
時折水袋へ口をつけながら進むと、砂の上に紫色の染みが見つかった。
最初は一つ。
そこから先へ進むにつれ、二つ、三つと増えていく。
バンはクレシューズを抜き、その先端で染みへ触れた。
じゅっ、と小さな音が鳴る。
「生身で触るもんじゃねぇな」
その時。
風の音に混じって、奇妙な振動が聞こえた。
羽音ではない。
虫の翅とも違う。
濡れた膜を何枚も震わせるような、粘ついた音。
バンは顔を上げた。
砂丘の向こう。
紫色の何かが空中を漂っている。
一匹。
その後ろにもいる。
十匹。
二十匹。
さらに、その奥まで。
「……日記より多くねぇか?」
砂丘の向こうから、紫色の群れが次々と姿を現した。
人間の頭ほどの大きさ。
半透明の身体は、クラゲの傘にも、不気味な植物の胞子にも見える。
身体の下から、根や触手に似た細い器官を何本も垂らしている。
そして、その中央。
小型個体に囲まれるように、人間よりも大きな影が三体浮かんでいた。
半透明の表面へ黒い殻が重なり、紫黒い結晶が棘のように突き出している。
日記に書かれていた、大型の個体。
群れを導くもの。
「アンタレスの子供、だったか」
バンが呟く。
小型個体の一匹が、ゆっくりと身体を傾けた。
目らしいものはない。
それでも、バンを見つけたことだけは分かった。
次の瞬間。
群れ全体の動きが、ぴたりと止まる。
何百という小型個体。
三体の大型個体。
すべてが同時に、バンへ身体を向けた。
バンの中にある生命力へ、無数の細い指が触れようとする。
魔力。
身体能力。
血。
肉。
奪えるものなら、何でも吸い上げようとする飢えた感覚。
バンの左手が、聖棍クレシューズを握る。
節が小さく鳴った。
「なるほど」
こいつらは、ただ人を襲う魔物ではない。
他者の中にあるものを奪い、遺跡の地下にいるアンタレスへ運ぶ。
その力の奥。
さらに遠く。
エルソス遺跡の方角から、群れすべてへ繋がる一本の太い流れが伸びていた。
「オレから盗ろうってか」
群れの触手が一斉に持ち上がる。
紫色の身体が脈打つ。
小型個体が、砂丘の斜面を滑るように迫ってくる。
大型個体の殻に生えた結晶が、不気味な光を放った。
バンの口元が、ゆっくりと上がる。
「悪いけどな」
聖棍クレシューズがしなり、乾いた砂漠の空気を切った。
「奪うのは、オレの方が得意なんだよ」
次の瞬間。
アンタレスの子供たちが、一斉にバンへ襲いかかった。
第6部が始まりました。
今回は、バンが古本屋で見つけた古い調査日記から、アンタレスと「アンタレスの子供」の名前を知る流れへ修正しました。
現地の知識を持たないバンが、情報を集め、自分の目で確かめてから行動する形にしています。。