強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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幕間 砂漠の向こうで

その夜。

 

オアシス交易都市リオードでは、まだ夜市の灯りが消えていなかった。

 

泉の水面には赤や金の光が揺れ、酒場からは笑い声が漏れている。

 

旅人たちは長い旅を忘れ、商人たちは明日の取引を語り、楽師たちは夜風に旋律を乗せていた。

 

その街から、遥か遠く。

 

人の営みが届かぬ砂漠の向こうでは、音のない夜が広がっていた。

 

月明かりに照らされた砂丘が、白い波のようにどこまでも続いている。

 

風が砂をさらう音だけが、乾いた大地を流れていた。

 

 

小さな隊商が、その夜の砂漠を進んでいた。

 

荷を背負った三頭の駱駝。

 

それを引く二人の商人と、一人の護衛。

 

本来ならば、夜の砂漠を移動することはない。

 

昼間の熱を避けられるとはいえ、暗闇には人を恐れぬ魔物が潜んでいる。

 

だが、彼らには急ぐ理由があった。

 

「夜が明ける前には岩場へ着きたい」

 

先頭を歩く商人が言った。

 

「昼の熱が来る前に休めれば、明日の夕方にはリオードへ入れる」

 

「この辺りは遠回りすべきだった」

 

護衛の男が低く答える。

 

日に焼けた顔。

 

使い込まれた曲刀。

 

砂漠を何度も渡った経験のある男だった。

 

「最近、妙な痕跡が増えている」

 

「蠍か?」

 

「普通の蠍なら気にしない」

 

護衛は足元を見た。

 

月明かりに照らされた砂の上に、大きな溝が残っている。

 

何本もの脚が地面をえぐり、重い身体を引きずったような痕跡。

 

それは荷車よりも幅が広かった。

 

「砂漠の魔物にしちゃ、大きすぎるな」

 

「だから早く抜けるんだ」

 

商人は声を落とした。

 

三人は歩みを速める。

 

駱駝たちも何かを感じているのか、しきりに首を振り、鼻を鳴らしていた。

 

やがて先頭の一頭が足を止める。

 

「どうした?」

 

商人が綱を引く。

 

駱駝は動かない。

 

震えていた。

 

大きな身体を小刻みに揺らし、暗闇の一点を見つめている。

 

護衛が曲刀へ手をかけた。

 

「火を消せ」

 

「何?」

 

「早くしろ」

 

商人たちは慌てて手にしていた灯りを布で覆った。

 

闇が濃くなる。

 

月だけが砂漠を白く照らしていた。

 

護衛は息を殺し、耳を澄ませる。

 

何も聞こえない。

 

風の音さえ、いつの間にか止んでいた。

 

それが、かえって不気味だった。

 

やがて。

 

砂丘の向こうで、何かが動いた。

 

黒い影が、ゆっくりと月の下へ姿を現す。

 

最初に見えたのは、巨大な鋏だった。

 

次に、甲冑のような硬い外殻。

 

何本もの脚。

 

長く反り返った尾。

 

先端には、人間の頭ほどもある毒針が生えていた。

 

「……何だ、あれは」

 

商人の声が震える。

 

巨大な蠍型の魔物。

 

だが、護衛が知るどの砂漠種とも違っていた。

 

その外殻は紫黒く、月明かりを吸い込むように鈍く光っている。

 

身体の隙間からは、赤い脈のような光が明滅していた。

 

魔物は隊商を見ていなかった。

 

三人の存在など、最初から眼中にないかのように砂丘の上で静止している。

 

頭を上げ、遠くを探っていた。

 

「気づいていない……?」

 

商人が囁く。

 

「違う」

 

護衛は曲刀を抜いた。

 

「あれは、俺たちを獲物だと思っていないだけだ」

 

砂が動いた。

 

一匹ではなかった。

 

巨大な蠍の背後。

 

砂丘の斜面。

 

隊商の左右。

 

砂の下から、同じ姿をした魔物が次々と這い出してくる。

 

一匹。

 

二匹。

 

十匹。

 

さらに、その後ろにも無数の影がある。

 

「逃げろ」

 

護衛が言った。

 

「荷は捨てろ。駱駝に乗れ」

 

「だが――」

 

「死にたいなら残れ!」

 

怒鳴られ、商人たちは駱駝へ飛び乗った。

 

その瞬間。

 

巨大な蠍たちが一斉に動いた。

 

だが、隊商へ向かってではない。

 

すべての個体が同じ方角へ身体を向ける。

 

遥か西。

 

オアシス交易都市リオードがある方角へ。

 

赤い目が、闇の中で一斉に光った。

 

空気を震わせるような低い音が、何十もの身体から漏れる。

 

それは鳴き声ではなかった。

 

遠くにある何かを探るための、呼びかけのようだった。

 

護衛は動けなかった。

 

自分たちが襲われなかった安堵よりも、魔物たちが何を感じ取ったのかという恐怖の方が大きかった。

 

一匹の蠍が砂丘を下り始める。

 

続いて、他の個体も動き出した。

 

群れは隊商のすぐ脇を通り過ぎていく。

 

砂が揺れた。

 

大地が震えた。

 

何十、何百という脚が乾いた地面を削り、巨大な黒い流れとなって西へ進んでいく。

 

三人は息を止めたまま、その光景を見送った。

 

最後の一匹が闇へ消えるまで、誰も声を出すことができなかった。

 

 

群れが現れた場所から、さらに東。

 

岩山と砂に埋もれた大地に、古い遺跡があった。

 

崩れた石柱。

 

砂に半ば呑まれた神殿。

 

人の手が入らなくなってから、どれほどの年月が流れたのか。

 

建物の壁面には、すでに意味を知る者のいない文字が刻まれていた。

 

月。

 

星。

 

弓を持つ人影。

 

そして、巨大な蠍を囲む無数の光。

 

遺跡の最奥。

 

地下深くへ続く大空洞には、闇よりも濃い何かが封じられていた。

 

幾重にも重ねられた石の鎖。

 

光を失いかけた精霊文字。

 

天井から床まで伸びる巨大な封印柱。

 

そのすべてが、一つの存在を押さえ込んでいる。

 

――ドクン。

 

暗闇の中で、音が響く。

 

心音。

 

大地そのものが脈打つような、重く濁った音。

 

――ドクン。

 

二度目の鼓動とともに、封印柱の表面に細い亀裂が走った。

 

古代の文字が、一瞬だけ銀色に光る。

 

亀裂の奥から、紫黒い魔力が煙のように漏れ出した。

 

空洞の壁に刻まれた月の紋様が、弱々しく明滅する。

 

その光の中に、淡い人影が浮かんだ。

 

長い髪。

 

細い腕。

 

月光を織ったような、透き通る身体。

 

精霊の残響。

 

長い年月、封印を守り続けてきた存在の欠片だった。

 

『まだ……』

 

声はかすれていた。

 

『まだ、目覚めてはならない……』

 

その言葉に応えるものはいない。

 

地下の奥で、巨大な何かが身じろぎする。

 

石の鎖が軋んだ。

 

一つ。

 

また一つ。

 

封印に刻まれた光が消えていく。

 

精霊の影は両手を伸ばし、砕けかけた紋様へ力を注いだ。

 

だが、指先はすでに透けている。

 

『どうか……』

 

祈るような声。

 

『この地へ、来るな……』

 

しかし、その願いは届かない。

 

遺跡の外。

 

砂漠を進む蠍の群れは、すでに一つの気配を捉えていた。

 

遠く離れた場所にある、強大な生命。

 

自分たちとは異なる。

 

だが同じように、他者の力へ手を伸ばす者。

 

その存在を求めるように、群れは西へ進み続ける。

 

砂漠の向こうで、古き怪物はまだ眠っていた。

 

だが、その眷属たちはすでに――新たな獲物の匂いを嗅ぎつけていた。

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