水辺の町リーヴァで、川魚と濁り酒、そして魚を食わせない魔物との遭遇です。
バンにとって「名物が食えない」は、わりと本気で許せない問題です。
荷馬車の旅は、思ったより悪くなかった。
車輪はよく軋み、道はところどころで荒れていた。荷台の木箱は硬く、寝心地は良いとは言えない。だが、歩くよりは楽だ。何より、ラドが道中で干し肉と黒パンを分けてくれた。
酒は薄かったが、ないよりはいい。
「これで魚がうまけりゃ、文句ねぇな」
荷台に寝転がったまま、バンは空を見上げて言った。
ラドが御者台から振り返る。
「リーヴァの魚は本当にうまいですよ。川の流れが速く、身が締まっている。特にリーヴァ大鱒は名物です」
「黒だれってのは?」
「この町独自のたれです。魚の骨、干した川海老、豆を発酵させたもの、香草、塩を煮詰めて作る。少し癖がありますが、焼き魚に塗ると香りが立つ」
「へぇ」
バンの目が細くなる。
「酒は?」
「濁り酒ですね。川沿いの麦で作る。酸味があって、魚の脂を流してくれる」
「悪くねぇ組み合わせだ」
バンは体を起こした。
遠くから、水の音が聞こえ始めていた。
草原の乾いた風に、湿った匂いが混ざる。土と水草、魚、薪の煙。村とは違う、人の暮らしの匂い。
やがて、街道の先に町が見えた。
リーヴァ。
大きな川に沿って広がる水辺の町だった。
石造りの橋が一本、川をまたいでいる。岸辺には小舟が何艘も並び、干し網が広げられていた。軒先には魚を干すための木枠が吊るされ、通りには魚屋、酒場、網職人、船大工の店が並んでいる。
ただ、町の空気は妙に沈んでいた。
魚の匂いが薄い。
バンは荷台から降りた瞬間、眉をひそめた。
「……魚の町なんだよな?」
「そのはずですが」
ラドも首をかしげる。
魚屋の店先に並んでいるのは、干物が少しと、小さな川魚が数匹だけ。大鱒どころか、まともな魚の山もない。酒場の前には客がいるが、にぎわいというより、ため息混じりの集まりに見えた。
バンは迷わず酒場へ向かった。
扉を開けると、焦げた麦と濁り酒の匂いがした。
中には漁師らしい男たちが何人も座っている。腕は太く、肌は日に焼けているが、表情は暗い。壁には大きな魚を描いた看板が飾られていた。
リーヴァ大鱒の黒だれ炭火焼き。
文字を読めないバンにも、絵だけで分かる。
でかい魚。香ばしそうな焼き目。たれ。酒。
バンは席に座る。
「大鱒と濁り酒」
店主の男が、気まずそうに顔を上げた。
「悪いな、旅の人。大鱒は出せねぇ」
バンの顔から表情が消えた。
「……何でだ」
「獲れねぇんだ」
「魚の町で魚が獲れねぇ?」
「ここ十日ほどな。川に化け物が出る。網を破る。舟をひっくり返す。下流の漁場も荒らされて、まともな漁ができねぇ」
漁師の一人が杯を叩きつけた。
「泥鱗大蛇だ。マッドサーペントって呼ばれてる。川底の泥に潜んで、舟が出ると襲ってくる。冒険者も呼んだが、川の中じゃ手に負えねぇってよ」
バンはしばらく黙った。
「つまり」
低い声で言う。
「大鱒は食えねぇのか」
店内が少し静かになった。
漁師たちは、この旅人が恐怖や危険ではなく、まず食えるかどうかを確認していることに気づいた。
店主が苦笑する。
「今あるのは小魚と干物くらいだ。黒だれは残ってるがな」
「濁り酒は?」
「ある」
「じゃあ、小魚と黒だれ。あと酒」
バンは一旦そう言った。
怒っても魚は出ない。まずは味を見るべきだ。
出された濁り酒は、昨日の村のものよりも濃かった。
酸味があり、舌にざらりとした麦の重みが残る。喉を落ちると、川風のような冷たさが後から来た。
「悪くねぇ」
次に、小魚の黒だれ焼き。
小さな魚に黒褐色のたれが塗られ、炭火で焼かれている。表面は少し焦げ、香りは強い。魚の脂は少ないが、たれの旨味がそれを補っていた。発酵した豆の塩気、干し海老の香ばしさ、骨の出汁の深み。癖はあるが、酒に合う。
バンは一口食べ、目を細めた。
「……うまいな」
店主の顔が少し明るくなる。
「だろう? 大鱒なら、もっと脂が乗ってる。黒だれが身に染みてな、皮はぱりっと焼けて、中はふわっとするんだ」
漁師が続ける。
「酒蒸しもうめぇぞ。香草と濁り酒で蒸す。腹の中まで香りが入る」
別の老人が言う。
「骨で取った白濁スープもいい。朝に飲むと身体が温まる」
バンは黙って聞いていた。
小魚はうまい。
黒だれもうまい。
濁り酒も悪くない。
つまり、本来の大鱒はもっと美味いということだ。
それが食えない。
バンは杯を置いた。
「そいつは、どこにいる」
店主がまばたきをした。
「そいつ?」
「マッドなんとかだ」
「泥鱗大蛇《マッドサーペント》か?」
「ああ。そいつをどかせば、大鱒が食えるんだろ」
漁師たちは顔を見合わせた。
「いや、簡単に言うがな。あいつは川の中にいる。泥に潜る。矢も通りにくい。近づけば舟ごとひっくり返される」
「食えるのか?」
「何がだ」
「その蛇」
また酒場が静かになった。
ラドが、少し離れた席で額を押さえた。
「バンさん……」
「いや、蛇は食えるだろ」
「魔物ですよ」
「灰になるやつか」
「たぶん、そうです」
「なら使えねぇな」
バンは心底残念そうに言った。
漁師の一人が、恐る恐る尋ねる。
「あんた、冒険者なのか?」
「違う。旅人だ」
「なら、なんでそこまで」
「魚が食えねぇのは困る」
「……それだけか?」
「大事だろ」
バンの声は真面目だった。
店主は口を開きかけ、やめた。
この男は危険を軽く見ているのではない。危険よりも飯の優先順位が高いだけだ。
それがまともなのかどうかは分からない。
だが、漁師たちにとって、魚が獲れないのは死活問題だった。
網は破られ、舟は壊され、町の名物は出せず、酒場から笑い声が消えている。
バンは濁り酒を飲み干すと、立ち上がった。
「案内しろ」
漁師たちは、しばらく迷った。
だが結局、バンを川辺へ連れていくことになった。
リーヴァの川は広かった。
流れは速く、水面は夕方の光を受けて鈍く光っている。岸辺には舟が何艘も繋がれていたが、そのうち二艘は底が裂け、ひっくり返されたまま修理を待っていた。
「出るのはあの辺りだ」
漁師が指さす。
川の中央より少し下流。水面が妙に濁っている場所があった。泥が巻き上がっている。川底に何かが動いているのだ。
バンは靴の先で岸の泥を踏む。
「泳ぐのは面倒だな」
「当たり前だ。入ったら食われるぞ」
「食えねぇ魔物に食われるのは癪だな」
バンは近くの壊れた舟へ目を向けた。
そこから長い綱を一本引き抜く。
「槍か何かあるか?」
「あるが、効かねぇぞ」
「魚を突くんじゃねぇ。釣るんだよ」
漁師たちは意味が分からない顔をした。
バンは折れた舟板を拾い、そこに大イノシシの干し肉を少し括りつけた。
さらに黒だれを少し塗る。
店主が叫んだ。
「おい、それは貴重な黒だれだぞ!」
「餌はうまい方がいいだろ」
「魚じゃないんだぞ!」
「蛇なら匂いに来るかもしれねぇ」
バンはそう言って、黒だれ付きの肉を川へ放り込んだ。
綱を手に持ち、岸に立つ。
水面が揺れた。
濁った泥の下で、何かが動く。
しばらく何も起きない。
漁師たちは息を殺して見守る。
そして、川が盛り上がった。
泥色の水柱が上がる。
その中から、巨大な蛇の頭が現れた。
長い。太い。鱗は泥を塗り込めたような黒褐色で、所々に硬い石のような突起がある。目は黄色く濁り、口には細かい牙が並んでいた。
泥鱗大蛇《マッドサーペント》。
それは黒だれの匂いに引かれたのか、肉を丸呑みにしようと顎を開いた。
その瞬間、バンが綱を引いた。
「よっと」
軽い声。
だが、綱にかかった力は軽くなかった。
大蛇の頭が水面からさらに引き上げられる。水が滝のように落ち、巨大な体がうねった。
漁師たちが悲鳴を上げる。
「引き上げる気か!?」
「川ん中じゃ面倒だろ」
バンは笑った。
大蛇が暴れる。
尾が水面を叩き、舟が大きく揺れる。水しぶきが岸まで飛び、漁師たちが後ずさった。
バンの足が泥に沈む。
綱が軋む。
普通の人間なら、腕ごと持っていかれている。
だが、バンは動かない。
「重てぇな。身はなさそうなのによ」
バンは綱を片手に持ち替え、もう片方の手を軽く伸ばした。
「ちょいと借りるぜ」
強奪《スナッチ》。
目には見えない何かが、大蛇の動きから抜けた。
暴れていた体が一瞬だけ鈍る。水を掻く力、泥へ潜ろうとする踏ん張り、その一部が失われる。
その一瞬で十分だった。
バンは綱を引き、泥鱗大蛇の上半身を岸へ叩きつけた。
地面が揺れる。
大蛇が牙を剥き、バンへ噛みつこうとする。
バンは半歩横へずれ、蛇の頭を蹴った。
鈍い音。
頭が横へ弾かれ、鱗が割れる。
「硬ぇな」
バンはそのまま大蛇の首元へ近づく。
牙が再び迫る。
バンは腕を出した。
牙がロングコートの袖を裂き、皮膚を浅く抉る。血がにじむ。
だが、バンは眉一つ動かさず、蛇の顎を掴んだ。
「口、臭ぇな」
バンは顎を上下に押し広げる。
大蛇が暴れた。
尾が岸を叩き、泥が飛ぶ。漁師たちは後ずさる。ラドは荷物を抱えて木の陰に隠れている。
バンは歯を見せて笑った。
「魚の邪魔してんじゃねぇよ」
顎を捻る。
骨が鳴った。
大蛇の口が不自然な方向へ曲がり、そのまま動きが止まる。
バンは首元へ拳を叩き込んだ。
一撃。
泥鱗大蛇の巨体が跳ね、川岸へ沈む。
しばらく、尾だけがびくびくと動いていた。
やがて、その体が崩れ始める。
灰だ。
泥のような鱗も、長い体も、牙も、骨も、すべてが乾いた灰になって崩れ、川風に流されていく。
残ったのは、大きめの魔石と、黒い鱗片が数枚だけだった。
バンは鱗片を見た。
「肉は?」
ラドが木陰から顔を出す。
「残ってませんね」
「使えねぇ蛇だな」
「魔石と鱗は高く売れますよ」
その言葉に、バンは魔石を拾った。
昨日までなら捨てていた。だが今は違う。
「酒代か」
「酒代です」
「なら拾う」
バンは魔石と鱗片をまとめて持った。
漁師たちは、まだ動けなかった。
川を荒らしていた魔物が、目の前で引きずり出され、殴られ、灰になった。
しかも、倒した男は最初に肉の有無を確認し、次に酒代として魔石を拾った。
常識が追いつかない。
最初に動いたのは、店主だった。
「……舟を出せ!」
彼の声で、漁師たちが我に返る。
「川底を確かめろ! 網も出せ! 今なら漁ができる!」
町が一気に動き出した。
舟が水へ押し出される。
網が広げられる。
若い漁師たちが声を掛け合い、老人たちは岸で道具を整える。
泥鱗大蛇がいなくなった川は、まだ濁っていた。
だが、流れは戻り始めている。
バンはその様子を見ながら、店主に言った。
「大鱒、獲れたら焼けよ」
「当たり前だ! あんた、逃げるなよ!」
「飯の前に逃げるかよ」
それから数時間後、リーヴァの町に歓声が上がった。
最初の網に、銀色の大きな魚がかかっていた。
リーヴァ大鱒。
人の腕ほどもある太い身。銀の鱗。腹は丸く、脂が乗っている。水から上げられた大鱒は、夕日を反射してきらきらと光った。
バンはそれを見て、満足そうに頷く。
「いい魚だ」
店主が胸を張る。
「これがリーヴァの自慢だ」
「早く焼け」
「分かってる!」
その夜、リーヴァの酒場は久しぶりに満席になった。
まず出されたのは、リーヴァ大鱒の黒だれ炭火焼き。
腹を開き、内臓を取り、表面に切れ目を入れる。そこへ黒だれを塗り、炭火でじっくり焼く。
たれが焦げる。香ばしい煙が立つ。皮はぱりぱりに焼け、身から脂が滴り落ちる。
バンは箸代わりの木串で身をほぐし、口へ運んだ。
ふわりとほどけた。
川魚特有の清い香り。
脂の甘み。
黒だれの塩気と発酵の旨味。
焦げた皮の苦み。
それを濁り酒が流していく。
バンは目を細めた。
「……うまい」
酒場にいた漁師たちが、ほっとしたように笑った。
次に出されたのは香草酒蒸し。
輪切りにした大鱒を鍋に並べ、濁り酒を注ぎ、香草を散らして蒸す。
蓋を開けた瞬間、白い湯気とともに香りが広がった。炭火焼きとは違い、身は柔らかく、酒の酸味が脂を軽くしている。
「こっちも悪くねぇ」
バンは濁り酒を飲む。
そして最後に、骨出汁の白濁スープ。
大鱒の頭と骨を叩き割り、長く煮たものだ。
白く濁った汁に、少しの塩と香草。余計なものは少ない。だが、一口飲むと、魚の旨味が深く広がる。
バンはしばらく黙っていた。
「……朝に飲みてぇな、これ」
店主が笑う。
「分かってるじゃねぇか」
「明日の朝も出せ」
「そのつもりだ。あんたの分はな」
漁師の一人が杯を掲げた。
「赤コートの兄ちゃんに!」
酒場中が杯を上げる。
バンは少し面倒くさそうにしながらも、濁り酒を持ち上げた。
「魚にだろ」
「魚と、兄ちゃんにだ!」
「じゃあ、魚多めで」
笑い声が弾けた。
酒が進む。
黒だれの香りが夜の酒場に満ちる。
漁師たちの声が戻る。店主の動きも軽い。ラドはちゃっかり魔石と鱗片の値段交渉を始めていた。
バンは炭火焼きの骨をしゃぶりながら、その様子を眺めていた。
魚が食えない町は、つまらない。
魚が戻れば、人も笑う。
分かりやすくていい。
夜が更けたころ、ラドがバンの隣に座った。
「魔石と鱗片、なかなかの値でしたよ」
「酒、どれくらい飲める」
「この店なら、数日は困りません」
「悪くねぇ蛇だったな」
「使えないと言っていたのに」
「酒になるなら話は別だ」
ラドは笑い、懐から小さな紙片を取り出した。
「それと、リオードの古道具屋について追加の話を聞きました」
バンの目が少しだけ変わる。
「クレシューズか」
「四つに折れた妙な棍。持ち主不明。古道具屋の主人は、武器というより珍品として扱っているそうです。砂漠へ向かう商隊の一つが、近いうちにリオードへ出ます」
「乗れるか?」
「交渉できます。酒代と魔石代がありますからね」
「なら決まりだな」
バンは最後の濁り酒を飲み干した。
リーヴァ大鱒。
黒だれ。
濁り酒。
魚の骨出汁。
この町には、また来る価値がある。
だが、相棒をいつまでも迷子にしておくのも気分が悪い。
バンは骨を皿に置き、椅子にもたれた。
「次は砂漠か」
ラドが頷く。
「オアシス都市リオード。水と商人と、砂漠の酒場の町です」
「酒場があるなら十分だ」
「ただし、砂漠は甘くありませんよ。魔物も盗賊も、暑さもあります」
「煉獄よりはマシだろ」
「れんごく?」
「気にすんな。飯が不味くなる話だ」
ラドは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
酒場の外では、川の音がしている。
泥鱗大蛇が消えた川は、まだ少し濁っているが、流れは確かに戻っていた。
明日の朝には、もっと多くの魚が獲れるだろう。
リーヴァの町は、また魚の匂いで目を覚ます。
バンは口の端を上げた。
「悪くねぇな」
神様が歩く世界。
魔物が石になる世界。
魚を邪魔する蛇がいて、倒せば酒代になる世界。
おかしな世界だ。
だが、川魚はうまかった。
それだけで、今夜の旅は十分だった。
第4話は、リーヴァの川魚と濁り酒の回でした。
次回はオアシス都市リオード。
いよいよ、迷子になっていた聖棍クレシューズとの再会です。