アンタレスの子供たちが、砂丘を覆うように押し寄せた。
数百。
いや、それ以上。
紫色の半透明な身体を脈打たせながら、空中を滑るように迫ってくる。
下から垂れた細い触手は、風に揺れているように見えた。
だが、違う。
すべてがバンへ向かって伸びている。
「日記じゃ、一匹ずつは弱いって話だったけどな」
バンは左手で聖棍クレシューズを振るった。
節が鳴る。
しなった棍が砂漠の空気を裂き、先頭の小型個体へ叩き込まれた。
紫色の身体が破裂する。
飛び散った液体が砂へ落ち、じゅっと音を立てた。
クレシューズの節は、そのまま軌道を変える。
二匹。
三匹。
四匹。
迫ってきた小型個体を連続して打ち抜き、砂の上へ叩き落とした。
一匹ごとの動きは遅い。
力も弱い。
バンの一撃へ耐えられるほど頑丈でもない。
しかし。
「減ってる気がしねぇな」
前の個体を潰しても、その隙間へ後ろの群れが流れ込んでくる。
左右から回り込むもの。
砂のすぐ上を漂い、足首へ触手を伸ばすもの。
バンの頭上へ集まり、真上から降りかかろうとするもの。
攻撃に技術はない。
獲物の周囲を埋め尽くし、逃げ場を消す。
あとは群れ全体で取りつき、少しずつ力を吸い上げる。
単純だが、数が多ければ厄介だった。
一本の触手が、バンの赤いコートへ触れる。
布越しに冷たい感覚が走った。
触れられた場所から、身体の熱がわずかに引かれる。
「本当に吸いやがる」
バンはクレシューズを引き戻した。
節が触手を絡め取り、そのまま引きちぎる。
小型個体が甲高い振動を発した。
耳障りな鳴き声というより、身体全体を震わせているような音だった。
奪われた力は、ほんのわずか。
バンにとっては無視できる程度だ。
だが、普通の人間なら話は違う。
一匹が少し。
十匹が少しずつ。
百匹が、獲物が倒れるまで吸い続ける。
隊商の荷物や小動物が、皮だけを残して干からびていた理由が分かった。
「面倒くせぇ食い方しやがる」
バンは左足を軸に身体を回した。
クレシューズが大きな円を描く。
周囲へ迫っていた小型個体がまとめて弾かれ、紫色の液体を撒き散らしながら砂へ落ちた。
右腕はまだ布で吊られている。
本来の速度と精度には及ばない。
それでも、この程度の敵を退けるには十分だった。
だが、群れの奥に浮かぶ三体の大型個体は動かなかった。
人間よりも大きな紫色の身体。
表面を覆う黒い殻。
殻の隙間から突き出す、紫黒い結晶。
ぼろぼろの日記には、大型個体が群れを導くと書かれていた。
「こいつらが頭か」
一体の大型個体が、身体を大きく膨らませた。
黒い殻の隙間から、紫色の光が漏れる。
次の瞬間。
垂れ下がっていた太い触手が、一斉に伸びた。
一本がバンの頭上を薙ぐ。
もう一本が、足元の砂を深く抉る。
バンは身体を沈め、頭上を通過する触手をかわした。
そのまま足元へ伸びてきた一本を踏みつける。
ぬるりとした表面。
だが、内部には筋肉か太い繊維のようなものが通っている。
「見た目より硬ぇな」
バンはクレシューズを振り下ろした。
棍が触手へ食い込み、内部を潰す。
紫色の液体が噴き出した。
大型個体が身体を大きく震わせる。
それに反応するように、周囲の小型個体が一斉に方向を変えた。
ばらばらに押し寄せていた群れが、三つに分かれる。
それぞれが大型個体の周囲へ集まり、渦を巻くように動き始めた。
正面。
右。
左。
三方向からバンを包囲する。
「日記は当たりみてぇだな」
大型個体が小型の群れを動かしている。
単純に同じ場所へ集まっているわけではない。
進路を塞ぐ群れ。
背後へ回る群れ。
砂の上に残る紫黒い液体へ、バンを追い込もうとする群れ。
先ほどまでより、はっきりと動きに意図があった。
バンは一歩下がる。
靴底が紫色の染みへ触れた。
じゅっ、と音がする。
「そこへ追い込むつもりか?」
大型個体の結晶が再び光った。
答える声はない。
だが、偶然ではなかった。
こいつらは弱い。
それでも、ただの獣ではない。
正確には、こいつら自身が考えているというより、別の何かから命令を受け取っている。
バンの指先へ、無数の細い流れが引っかかった。
小型個体から大型個体へ。
大型個体から、さらに遠くへ。
そのすべてが、東の同じ場所へ続いている。
エルソス遺跡。
日記に描かれていた巨大な蠍。
「やっぱ全部、同じもんに繋がってやがるな」
個別の生き物でありながら、同時に一体の巨大な魔獣の手足でもある。
外へ伸びた指。
獲物から力を奪い、本体へ送り返すための器官。
そう考えれば、子供と呼ばれていた理由も分かる。
「お前らを全部潰しても、親が残ってりゃ終わらねぇってことか」
正面の群れが一斉に襲いかかった。
バンはクレシューズを横薙ぎに振るう。
十数匹の小型個体がまとめて弾け飛ぶ。
その隙間を抜け、砂丘の斜面を駆け上がった。
右側の大型個体が触手を突き出す。
バンは身体をひねってかわし、その触手へクレシューズを巻きつけた。
節が絡む。
「少し借りるぞ」
左腕を引く。
大型個体の巨体がわずかに傾いた。
同時に、触手の中を流れる力の端へ《強奪》を引っかける。
「強奪《スナッチ》」
全部は必要ない。
浮遊を支えている力。
触手を動かしている筋力。
群れへ命令を流すための、奇妙な生命の流れ。
必要な部分だけを浅く盗る。
大型個体の身体が大きく沈んだ。
宙に浮いていた巨体が砂へ落ちる。
その周囲を飛んでいた小型個体も、一瞬だけ動きを乱した。
「やっぱ繋がってんな」
バンはクレシューズを引き抜いた。
奪った力が、左腕と両脚へ流れ込む。
量そのものは大したことがない。
だが、感触が妙だった。
冷たい。
湿っているわけでもないのに、皮膚の内側を何かが這うような不快さがある。
普通の生物から身体能力を奪った時とは違う。
力の中に、子供自身のものではない何かが混じっていた。
さらに奥。
もっと大きく、暗く、重いもの。
バンはすぐに《強奪》を止めた。
「気持ち悪ぃ力だな」
奪ったものを身体の中へ留めすぎないよう、必要な分だけ馴染ませる。
煉獄を越えた肉体なら、この程度でどうにかなることはない。
だが、無制限に吸い上げていい力ではなさそうだった。
砂へ落ちた大型個体が、太い触手を地面へ突き刺す。
巨体を起こそうとしている。
バンはその背へ飛び乗った。
クレシューズを短く持ち替える。
右腕は使えない。
左腕だけで、黒い殻から生えた結晶の根元へ棍を叩き込んだ。
一度。
二度。
三度。
硬い音が砂丘へ響く。
黒い殻に亀裂が走った。
「硬ぇだけなら、どうにでもなる」
四度目。
結晶の根元へ正確に打ち込む。
紫黒い結晶が砕けた。
大型個体の身体が大きく痙攣する。
膨らんでいた半透明の身体から力が抜け、急激に萎んでいった。
周囲の小型個体が、甲高い振動を発する。
統率を失ったように動きが乱れ、互いにぶつかりながら散り始める。
「そこが弱点か?」
結晶を失った大型個体は、砂の上で動かなくなった。
ただし、これがすべての大型個体に共通する弱点なのかは分からない。
結晶が命令を受け取る器官だったのか。
生命を保つ核だったのか。
あるいは、遺跡から力を受け取るためのものだったのか。
日記にはそこまで書かれていなかった。
残る二体の大型個体が距離を取る。
小型の群れも、バンへ飛びかかるのを止めた。
恐れた様子はない。
退くつもりもない。
何かを待っている。
「今度は何だ?」
二体の大型個体が、同時に身体を脈打たせた。
表面の結晶から、細い紫色の光が伸びる。
光は砂へ落ち、そのまま地面の下へ染み込んでいった。
次の瞬間。
砂丘が震えた。
地面のあちこちから、紫色の塊が浮き上がってくる。
最初は小さな袋のようだった。
それが空気を吸い込むように膨らみ、触手を伸ばしながら宙へ浮かぶ。
新たな小型個体。
一匹。
二匹。
十匹。
砂の下から、次々に生まれてくる。
「数に限りがないってのも本当かよ」
日記の文字を思い出す。
小さきものは弱い。
だが、数に限りがない。
大型個体が直接生み出しているのか。
それとも遺跡から送られた力が、砂を器にして形を作っているのか。
分からない。
だが、ここですべて倒そうとするのが無駄なのは分かった。
バンは東へ目を向ける。
砂丘の先。
遠くに、崩れた岩山のような影が見えていた。
人の手で積み上げられた巨大な石造建築。
あれがエルソス遺跡だろう。
子供たちへ繋がる力の流れも、そこから伸びている。
「元を確かめる方が早ぇな」
バンはクレシューズを肩へ乗せた。
新たに生まれた小型個体が、進路を塞ぐように広がっていく。
二体の大型個体も、左右へ分かれて回り込む。
バンを逃がさないためなのか。
それとも遺跡へ誘導するためなのか。
どちらとも取れる動きだった。
「悪いな」
バンは膝を曲げる。
「お前らと遊ぶの、ちょっと飽きた」
先ほど大型個体から奪った力を、両脚へ集める。
砂を強く蹴った。
地面が爆ぜる。
赤い影が、群れの頭上へ飛び上がった。
小型個体が一斉に触手を伸ばす。
だが、届かない。
バンはクレシューズを近くの岩へ巻きつける。
節を引き、一気に身体を引き寄せた。
空中で軌道を変える。
群れの包囲を越え、砂丘の向こう側へ着地する。
背後で大型個体が激しい振動を上げた。
紫色の群れが、一斉に追跡を始める。
「案内ご苦労さん」
バンは東へ走り出した。
アンタレスの子供たちが後を追う。
だが、速度が違う。
負傷しているとはいえ、バンの脚力へ追いつけるほど速くはない。
赤いコートが砂漠を横切る。
その後ろを、紫色の濁流が追いかける。
バンは時折背後を確認した。
子供たちは、一定以上には遅れない。
速さで追っているのではなかった。
進行方向の砂から、新たな個体が浮かび上がっている。
前から現れ、横から現れ、遺跡へ近づくほど数が増えていく。
「どっちが案内されてんのか分からねぇな」
敵はバンを止めたいのか。
それとも、遺跡の中へ連れていきたいのか。
まだ判断できなかった。
陽が傾き始めた頃。
エルソス遺跡の全貌が見えてきた。
砂に埋もれた巨大な石造建築。
崩れた柱。
半分以上を砂丘に呑み込まれた壁。
いくつもの建物が重なり、中央には神殿のような高い構造物が残っている。
かつては小さな遺跡ではなく、都市か大規模な聖域だったのかもしれない。
その正面には、巨大な門があった。
だが、扉は失われている。
入口の周囲には、黒い根のようなものが絡みついていた。
植物には見えない。
岩の隙間から伸び、壁を這い、遺跡の奥へ続いている。
表面には紫色の脈が浮かび、一定の間隔で明滅していた。
まるで、遺跡そのものが呼吸しているようだった。
「日記の絵と同じだな」
バンは足を止めた。
赤いコートの内側から、ぼろぼろの日記を取り出す。
片手で頁を開く。
巨大な蠍。
その身体から伸びる黒い根。
周囲を漂う無数の紫色の子供。
絵の中の根は、遺跡の入口へ絡みついているものとよく似ていた。
追ってきた子供たちも、遺跡の手前で止まった。
小型個体は入口の周囲へ広がる。
大型個体は少し離れた場所に浮かび、バンの様子を窺っていた。
先ほどまでのように襲ってこない。
バンが遺跡へ入るのを待っているようにも見える。
「中へ誘ってんのか?」
答えはない。
入口の奥から、冷たい風が吹いてきた。
砂漠の熱とは無縁の空気。
湿ってはいない。
だが、長い間、陽の光が届いていない場所の冷たさがあった。
その奥には、砂と石の匂いに混じって、紫色の液体と同じ不快な気配が漂っている。
バンは日記を閉じた。
そして。
――ドクン。
地面の奥から、重い音が響いた。
バンの足元がわずかに揺れる。
風でもない。
地震でもない。
巨大な何かが、遺跡の地下で脈打っている。
心音。
一度だけで、空気まで震わせるほど重い鼓動だった。
バンは日記の表紙を軽く叩く。
「本当にいるみてぇだな」
巨大な蠍。
アンタレス。
古い日記の内容が正しいなら、この遺跡の地下に封じられている。
バンは入口へ一歩踏み込んだ。
その瞬間。
壁面に刻まれていた古い文字が、弱々しく光った。
銀色。
月明かりに似た淡い光。
遺跡を覆う黒い根が、その光を隠そうとするように蠢く。
だが、銀色の光は消えなかった。
バンは足を止め、壁を見上げる。
そこには大きな壁画が残っていた。
月。
星。
光をまとった複数の人影。
中央に描かれた巨大な蠍。
何本もの光の鎖が、蠍のハサミや尾、胴体へ巻きついている。
その周囲を覆う黒い根。
古本屋で見つけた日記の絵は、この壁画を写したものだった。
「これを見た奴が、あの日記を書いたのか」
古代文字は読めない。
誰が封じたのか。
いつの時代なのか。
なぜアンタレスが現れたのか。
そこまでは分からない。
それでも、絵の意味は読み取れた。
複数の者たちが、光の力を使って巨大な蠍を封じた。
そして今、その封印は黒い根に侵されている。
バンは壁画へ左手を近づけた。
銀色の光が、わずかに強くなる。
触れてはいない。
それでも、壁の奥へ残っていた何かが、バンの存在へ反応した。
かすかな気配。
生きているとは言えない。
だが、完全に消えてもいない。
長い時間をかけて弱りながら、今もここへ残っているもの。
『……来るな……』
声が響いた。
耳から聞こえたものではない。
頭の奥へ直接届く、掠れた声。
男か女かも分からない。
ただ、ひどく疲れ、今にも消えそうな声だった。
バンは目を細める。
「今のは、お前か?」
返事はない。
銀色の文字が一度だけ明滅する。
その直後。
地下から二度目の鼓動が響いた。
――ドクン。
先ほどよりも大きい。
天井から砂と小石が落ちる。
壁へ絡みついていた黒い根が、一斉に蠢いた。
銀色の文字を覆い隠そうとするように、太い根が壁画へ伸びていく。
バンはクレシューズを振るった。
根の先端を打ち払い、壁画から引き離す。
黒い根の切断面から、紫色の液体が滴った。
「日記に書いてなかったことが多すぎんだろ」
遺跡の奥。
暗闇の中で、紫黒い光が灯った。
最初は、小さな結晶の光に見えた。
だが、違う。
巨大な眼だった。
離れた場所からでも分かるほど大きな眼球が、闇の奥で開いている。
紫黒い外縁。
縦に細い瞳孔。
冷たい視線が、真っ直ぐバンへ向けられた。
遺跡の外にいたアンタレスの子供たちが、一斉に激しい振動を上げる。
主へ獲物が到着したことを知らせているようだった。
バンは懐の日記へ軽く触れた。
「こいつらの親で間違いなさそうだな」
巨大な眼が、ゆっくりと閉じる。
直後。
遺跡のさらに奥から、石と金属が擦れ合うような音が響いた。
鎖。
何本もの鎖が引かれ、軋み、少しずつ千切れようとしている。
それに合わせ、地面の黒い根が脈打つ。
紫色の光が、遺跡の奥へ流れていった。
外にいる子供たちが奪った力。
今も、地下にいる本体へ送られている。
アンタレスは完全に目覚めてはいない。
だが、眠ったままでも周囲の生命を吸い、自分を縛る封印を弱らせている。
バンは暗闇を見据えた。
先ほどの声が、もう一度響く。
『……戻れ……』
引き返せ。
近づくな。
封印が残っているうちに逃げろ。
そう訴えている。
だが、バンは動かなかった。
外には、増え続けるアンタレスの子供がいる。
ここで戻れば、あの群れはいずれ砂漠全体へ広がる。
隊商を襲い。
集落を枯らし。
やがて、ザルドとアルフィアがいるリオードへも届く。
「悪いな」
バンは誰に向けるでもなく言った。
「来るなって言われると、入りたくなる性分なんだよ」
右腕は使えない。
傷も残っている。
日記に書かれていることも、壁画から読み取れることも、まだ断片だけだ。
それでも、目の前に気に入らないものがある。
なら、引き返す理由にはならない。
バンは聖棍クレシューズを左肩へ乗せた。
「それに、放っといたら飯も酒もまずくなりそうだ」
赤い旅人は、一人でエルソス遺跡の暗闇へ足を進めた。
今回は、アンタレスの子供との最初の戦闘と、エルソス遺跡への到着を描きました。
バンは入手した古い日記の情報と、実際に目の前で起きていることを照らし合わせながら、アンタレスや子供たちの性質を確かめています。