聖棍クレシューズの鋭い先端が、最後の根へ深く食い込んだ。
紫黒い光が弾ける。
アンタレスの咆哮が、巨大な地下空間を揺さぶった。
核と大地を繋ぐ最後の根。
これを失えば、アンタレスはもう砂漠から力を吸い上げられない。
再生も。
子供たちの生成も。
長い年月をかけて封印を侵してきた、奪う力の循環も止まる。
だからこそ、根は切れなかった。
クレシューズの先端が半ばまで食い込んでも、黒い表皮の内側から新たな繊維が生まれ、傷口を縫い合わせようとする。
根を流れる紫黒い光が一層強くなる。
アンタレスは残った力を、すべてそこへ集め始めた。
「しつけぇな……!」
バンは左腕へ力を込めた。
右腕は布で吊られたまま。
脇腹から流れる血は止まらず、赤いコートをさらに濃く染めている。
神器解放を続けた左腕も限界へ近い。
指先の感覚は薄れ、肩から先が自分のものではないように重かった。
それでも、クレシューズを握る力だけは緩めない。
――ギギッ。
聞き慣れない音がした。
四つの棍を繋ぐ鎖が、張り詰めたまま震えている。
接続部が軋み、金属同士が噛み合う甲高い音が地下空間へ響いた。
「おいおい」
バンは一瞬だけ、手の中の神器へ視線を落とした。
クレシューズの鋭い先端。
根へ食い込んでいる部分に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。
神器とはいえ、壊れないわけではない。
片腕だけで無理に扱い。
神器解放を続け。
数百の敵を薙ぎ払い。
三大クエストにも匹敵する怪物の力を、正面から受け止め続けた。
武器だけが無事でいられるはずもなかった。
アンタレスが大鋏を持ち上げる。
最後の根を守るため、バンごと叩き潰そうとしている。
左右から迫る巨大な刃。
避ければ、根は再び核と大地を強く繋ぐ。
ここまで削った意味がなくなる。
「悪ぃな」
バンはクレシューズを握り直した。
「もう少しだけ付き合え、相棒」
神器は答えない。
だが、歪み始めていた鎖が、僅かに張り直された。
四つの節が一つの意思を持ったように並ぶ。
鋭い先端が、根の奥へもう一段深く食い込んだ。
バンの口元が上がる。
「そうこなくちゃな」
大鋏が閉じる。
その直前。
バンはアンタレスから奪った力を、左腕へ一気に流し込んだ。
「おらぁっ!」
聖棍を振り抜く。
根の内側で、何かが切れた。
最初は一本。
続けて十本。
何百もの繊維が連鎖するように弾けていく。
紫黒い光が暴れ、根の切断面から噴き出した。
クレシューズの先端が最後まで振り抜かれる。
巨大な根が、中央から断ち切られた。
次の瞬間。
地下空間を満たしていた鼓動が止まった。
◇
静寂は、一瞬だった。
核と大地を繋いでいた力が途切れる。
床を這っていた黒い根が一斉に跳ね上がり、苦しむ蛇のようにのたうち回った。
遺跡の外へ伸びていた力も逆流する。
砂漠の各地に残っていたアンタレスの子供たち。
まだ宙を漂っていた小型個体。
砂の下で形成されていた未成熟な個体。
そのすべてが紫色の光を失った。
半透明の身体が崩れ、乾いた砂へ溶けていく。
アンタレスの再生も止まった。
甲殻に走った亀裂は塞がらない。
砕かれた結晶も、もう光を取り戻さない。
胴体の奥で、完全に露出した巨大な結晶核だけが、激しく脈打っていた。
――ドクン。
――ドクン。
大地から切り離されてもなお、核には膨大な力が残っている。
アンタレスがこれまで奪い続けてきた、無数の生命。
怪物は、それらすべてを燃やすように巨体を持ち上げた。
銀色の鎖が張り詰める。
一本。
アンタレスの右脚を縛っていた鎖が砕けた。
続けて、左の大鋏。
尾。
胴体。
長い年月、怪物を地の底へ押さえ続けていた封印が、次々と引き千切られていく。
『……離れろ……』
掠れた声が響いた。
壁へ刻まれた銀色の文字が、激しく明滅する。
『……封印が……』
「もう保たねぇんだろ」
バンはクレシューズを引き戻した。
鎖の一部が伸び、僅かに歪んでいる。
それでも、四つの節は動いた。
最後の銀色の鎖が砕ける。
アンタレスの六本の脚が、初めて自らの力だけで石床を踏みしめた。
巨体が立ち上がる。
それだけで地下空間の天井近くまで届いた。
黒と暗紫色の甲殻。
人間を建物ごと挟み潰せる大鋏。
大きく湾曲した尾。
力を供給する結晶を失いながらも、毒針の鋭さそのものは残っている。
完全に解き放たれたアンタレスが、バンを見下ろした。
「やっと檻から出られたって顔だな」
アンタレスが咆哮する。
衝撃波が爆発した。
石床が剥がれ、砕けた柱や甲殻の破片が吹き飛ぶ。
バンはクレシューズを地面へ突き立てる。
左腕一本で身体を支えるが、足元の石ごと後方へ押し流された。
靴底が床を削る。
右腕の傷へ再び痛みが走る。
口の中へ血の味が広がった。
「元気余ってんじゃねぇか」
アンタレスの大鋏が振り下ろされる。
今までのような、鎖に制限された一撃ではない。
巨体の全重量を乗せた攻撃。
バンは左へ跳んだ。
石床へ叩きつけられた鋏が、地下空間の一部を陥没させる。
衝撃で浮き上がった岩の上へ、バンは足をつく。
そこからさらに跳ぶ。
二つ目の鋏が、空中にいるバンを挟もうと迫った。
クレシューズの先端を鋏の縁へ巻きつける。
左腕を引き、身体の軌道を強引に変えた。
大鋏が、赤いコートの裾を掠めて閉じる。
布の一部が切断された。
「服がぼろぼろじゃねぇか」
バンはアンタレスの腕へ着地した。
甲殻の上を駆ける。
アンタレスが身体を捻り、バンを振り落とそうとする。
その動きへ《強奪》を伸ばした。
「身体狩り《フィジカルハント》」
巨体全体から奪うのではない。
大鋏を持ち上げている筋力。
バンが走る一本の腕。
そこだけへ狙いを絞る。
アンタレスの動きが鈍った。
持ち上がりかけていた鋏が沈む。
バンの脚へ、奪った力が流れ込む。
だが、同時に左脚の筋肉が軋んだ。
「これ以上は、入りきらねぇか」
子供たち。
黒い根。
アンタレス。
戦いの中で奪った力が、すでにバンの身体へ過剰に蓄えられている。
肉体の強さとは別の問題だった。
器へ無理やり水を注ぎ続ければ、どれほど丈夫でも溢れる。
これ以上大量に奪えば、アンタレスを弱らせる前に、バン自身の身体が内側から壊れかねない。
「欲張ると碌なことにならねぇな」
アンタレスの頭部へ跳び移る。
露出した結晶核が見えた。
紫黒い光を放つ、巨大な結晶。
周囲の甲殻と根は剥がれ、今なら直接攻撃が届く。
だが。
アンタレスが六本の脚で石床を踏み鳴らした。
地下空間が跳ねる。
地面から衝撃波が広がり、バンの足場となっていた甲殻を激しく揺らした。
姿勢を崩したバンへ、尾が迫る。
毒針ではない。
巨大な尾そのものを鞭のように振るう一撃。
バンはクレシューズを盾のように構えた。
尾と聖棍が衝突する。
金属が軋んだ。
鎖の一か所が大きく歪む。
衝撃を受け切れず、バンの身体が弾き飛ばされた。
背中から石床へ叩きつけられる。
肺から空気が押し出された。
「がっ……!」
アンタレスは止まらない。
大鋏を開き、地面に倒れたバンへ突進する。
六本の脚が石床を砕き、巨大な身体が山崩れのように迫ってきた。
バンは起き上がらない。
左手だけを持ち上げる。
クレシューズの超集中力は、まだ途切れていなかった。
アンタレスの脚。
鋏。
尾。
露出した核。
すべての力が、どこから生まれ、どこへ流れているのかが見える。
全部を奪う必要はない。
今、この瞬間。
身体を前へ運んでいる二本の脚。
それだけでいい。
「身体狩り《フィジカルハント》」
アンタレスの右前脚から力が抜けた。
続けて左。
巨体の均衡が崩れる。
勢いを止められないまま、アンタレスは前方へ傾いた。
大鋏が石床へ突き刺さる。
巨体が転倒し、地下空間を震わせた。
「全部盗ろうとするから、足元すくわれんだよ」
バンは立ち上がる。
左腕が震えていた。
これ以上、身体狩りは使えない。
奪った力が身体の中で暴れ、筋肉と骨を内側から押し広げようとしている。
神器解放も限界。
クレシューズの鎖は歪み、接続部の動きも鈍くなっていた。
次が最後だ。
バンは大きく息を吐いた。
アンタレスが倒れたまま、巨大な眼をバンへ向ける。
核の光が膨れ上がった。
怪物は、自分がもう長く保たないことを理解したのだろう。
残された生命。
魔力。
奪ってきたすべての力。
それらを結晶核へ集め始める。
光が強くなる。
核の内側に、黒い亀裂が幾重にも走った。
『……破裂する……』
銀色の声が響く。
『……この地が……呑まれる……』
「最後まで迷惑な奴だな」
アンタレスは倒される前に、蓄えた力を暴発させるつもりだった。
核が破裂すれば、この地下空間だけでは済まない。
エルソス遺跡。
周辺の砂漠。
どこまで被害が及ぶか分からない。
バンは結晶核を見据えた。
巨大な核の全体を砕くだけでは駄目だ。
力が一気に解放される。
必要なのは、内部を巡る流れを断ちながら、暴発の中心だけを貫くこと。
無数の亀裂。
激しく動く力。
崩れ落ちる甲殻。
そのすべての中に、一つだけ。
核の力を支えながら、同時に破壊すれば全体の流れを内側へ崩せる一点がある。
普通なら見つけられない。
だが。
クレシューズの超集中力が、一本の道を示していた。
「そこか」
バンは聖棍を握る。
四つの節が動いた。
しかし、以前のような滑らかさはない。
歪んだ鎖が引っかかり、接続部から嫌な音がする。
先端に入った亀裂も、先ほどより広がっていた。
次の一撃に耐えられる保証はない。
バンは手の中の相棒へ目を落とした。
この世界へ来た時、クレシューズは姿を消した。
知らない土地。
知らない魔物。
知らない力。
その中を、枝や拳だけで歩いてきた。
ようやく再会し。
再び手に馴染み始めた相棒。
こんな場所で失う気はなかった。
「壊れんなよ」
バンは低く呟く。
「帰ったら休ませてやるからよ」
アンタレスの核が限界まで膨れ上がる。
紫黒い光が地下空間を塗り潰した。
大鋏が石床から引き抜かれる。
尾が持ち上がる。
力を奪われた脚を引きずりながら、それでも怪物はバンを止めようとした。
「行くぞ、相棒」
バンが石床を蹴る。
赤い影が走った。
アンタレスの大鋏が左右から迫る。
バンは正面から飛び込む。
クレシューズの一節を右の鋏へ巻きつけ、軌道を僅かに外側へ逸らす。
左の鋏が眼前へ迫る。
その上へ足をつく。
巨体の力を利用し、さらに高く跳んだ。
アンタレスが尾を振り下ろす。
バンは空中でクレシューズを伸ばした。
尖った一節が尾へ当たり、身体を横へ押し出す。
毒針が脇を通過した。
アンタレスの頭上。
露出した結晶核。
最後の道が開く。
バンは左腕を振りかぶった。
その瞬間。
クレシューズの鎖が、甲高い悲鳴を上げた。
接続部が歪む。
先端の亀裂が一気に広がる。
それでも、聖棍は止まらなかった。
四つの節が、バンの意思へ応えるように一直線へ並ぶ。
「欲張りすぎなんだよ、お前は」
クレシューズを突き出す。
鋭い先端が結晶核へ触れた。
表面を砕く。
紫黒い光の中へ潜り込む。
無数の力の流れを避けながら。
唯一の一点へ。
「他人のもんばっか盗ってるから――」
さらに深く。
「最後に自分のもんまで、全部失うんだよ!」
先端が核の中心を貫いた。
音が消えた。
アンタレスの動きが止まる。
巨大な眼が、初めて何も映さなくなった。
核の中心から、銀色の亀裂が走る。
一本。
二本。
無数。
紫黒い光が、外へ爆発するのではなく、砕けた中心へ吸い込まれていった。
アンタレスが奪い集めてきた力。
子供たちが運んだ生命。
大地から吸い上げた魔力。
そのすべてが、崩壊する核の内側へ呑み込まれる。
巨大な結晶核が砕けた。
アンタレスの大鋏が力なく落ちる。
六本の脚が崩れる。
尾が石床へ倒れ、最後の震動を残した。
黒い甲殻から色が抜けていく。
根が乾き。
結晶が砕け。
巨体そのものが、黒い砂となって崩れ始めた。
風もない地下空間で、砂が静かに舞う。
最後に残った巨大な眼が、バンを見た。
怒りも。
飢えも。
もう何もない。
やがて、それも細かな粒となって消えた。
◇
バンは石床へ着地した。
一歩目で膝が崩れる。
クレシューズを地面へ突き立て、どうにか倒れるのを防いだ。
「……終わったか」
返事はない。
アンタレスがいた場所には、黒い砂と砕けた甲殻だけが残っている。
地下空間を覆っていた黒い根も、すべて動きを止めていた。
紫黒い光が消える。
代わりに。
壁。
床。
天井。
長く黒い根に隠されていた銀色の文字が、一つずつ光り始めた。
淡い光が地下空間へ満ちていく。
冷たくはない。
砂漠の夜に差す月明かりのような、静かな光だった。
バンはクレシューズを引き抜こうとした。
だが、四つの節が上手く戻らない。
鎖の一部が伸び、僅かに捻れている。
接続部も歪み、動かすたびに金属が擦れる音がした。
鋭い先端には、はっきりと分かる亀裂が残っている。
「マジかよ」
バンは聖棍を持ち上げ、顔をしかめた。
完全に壊れてはいない。
通常の棍としてなら、まだ使える。
だが、もう一度神器解放を使えば。
あるいは、死神の一薙ぎのような大技を放てば。
今度こそ、鎖か接続部が耐えられない。
「マーリンがいねぇのに、無茶させちまったな……」
クレシューズは答えない。
バンは歪んだ節を無理に戻そうとはせず、慎重に折り畳んだ。
「悪かったよ」
腰へ戻す。
「しばらく休んでろ」
銀色の光が、地下空間の中央へ集まり始めた。
細かな粒。
月光の欠片。
それらが、ゆっくりと人の形を作っていく。
最初は輪郭だけだった。
長い髪。
細い腕。
薄い衣をまとった、人に似た姿。
だが、顔は見えない。
身体の向こう側が透け、今にも光の粒へ戻りそうだった。
『……終わった……』
これまでバンへ語りかけていた声。
「ああ」
バンは壁へ背を預けた。
「あのでけぇ蠍なら、砂になったぜ」
『……長かった……』
銀色の人影が、アンタレスの消えた場所を見つめる。
『……幾千の月を……数えた……』
「数えすぎだろ」
『……忘れて……しまった……』
声には、疲れが滲んでいた。
いつからここにいたのか。
誰とアンタレスを封じたのか。
自分の名さえ。
長い年月の中で、多くを失ったのだろう。
それでも最後まで、封印を守り続けた。
『……赤き旅人……』
「あ?」
『……礼を……』
「いらねぇよ」
バンは即座に答えた。
「気に入らねぇ奴をぶっ飛ばしただけだ」
銀色の人影が、僅かに揺れる。
笑ったのかもしれない。
だが、輪郭が薄すぎて表情までは見えなかった。
『……それでも……』
光が崩れ始める。
指先から。
髪から。
銀色の粒となり、空中へ消えていく。
役目を終えた。
もう、ここへ留まる理由はない。
だが、天へ還るための力さえ、ほとんど残っていないようだった。
人影は上へ昇ることもできず、その場で少しずつ薄れていく。
バンは自分の身体へ意識を向けた。
重い。
苦しい。
アンタレスや子供たちから奪った力が、今も身体の中で暴れている。
すべてがバン自身のものになったわけではない。
他者から盗った力。
いずれは抜けていく。
それでも、今の身体には多すぎた。
「ちょうどいいか」
バンは壁から背を離した。
消えかけた人影へ、左手を伸ばす。
『……何を……』
「余ってんだ」
手のひらを開く。
「少しくらい持ってけ」
バンの魔力が動いた。
奪うためではない。
自分の中にある力を、相手へ渡す。
「贈与《ギフト》」
淡い光が、バンの左手から流れ出した。
子供たちから奪った生命力。
アンタレスから奪った力。
混ざり合ったものの中から、精霊を傷つけない部分だけを選び取る。
生命の温かさ。
還るために必要な、僅かな力。
それが銀色の人影へ注がれた。
消えかけていた輪郭が戻る。
透けていた身体へ光が満ちる。
長い髪が、月光のような銀色を取り戻した。
閉じられていた瞼が開く。
淡く輝く瞳。
そして。
長い役目を終えた者の、穏やかな笑顔。
ほんの僅かな時間。
精霊は、かつての姿を取り戻していた。
『……優しい、盗人だ……』
「うるせぇ」
バンは顔を背ける。
「早く帰れ」
精霊の笑みが深くなる。
『……ありがとう……』
身体が銀色の粒へ変わる。
今度は消えるのではない。
月へ導かれるように、ゆっくりと上昇していく。
地下空間の天井。
厚い岩。
崩れた遺跡。
それらをすり抜け、光は夜空へ昇っていった。
最後の一粒が消える直前。
バンは、声を聞いた。
『……どうか……良き旅を……』
「言われなくてもな」
バンが答える。
月光は、空へ還った。
◇
遥か遠く。
月明かりに照らされた森で、狩りを終えた女神が足を止めた。
長い髪を夜風が揺らす。
仲間たちは先へ進んでいたが、女神アルテミスだけが空を見上げている。
胸の奥を。
ほんの一瞬。
懐かしい銀色の光が、静かにかすめた。
「……今のは」
夜空に異変はない。
月は、いつもと変わらず輝いている。
それでもアルテミスは、しばらくその場を動かなかった。
何かが終わった。
そして、何かが残された。
その意味を知るのは、まだ遠い未来のことだった。
◇
精霊の光が消えた後。
地下空間は、静けさに包まれた。
バンはしばらく天井を見上げていた。
「帰ったか」
贈与で力を渡したことで、身体の内側にあった圧迫感は幾分軽くなっている。
だが、傷が治ったわけではない。
右腕。
脇腹。
左手。
全身が痛む。
「帰る前に、少し休むかね」
その場へ腰を下ろそうとした時。
黒い砂の中で、淡い光が瞬いた。
「あ?」
アンタレスが崩れた場所。
砕けた甲殻の下から、銀色の光が漏れている。
バンはクレシューズを使おうとして、途中で手を止めた。
「お前は休んでろ」
代わりに左手で甲殻を退かす。
その下に、一つの結晶が残っていた。
片腕でも抱えられる程度の大きさ。
表面は、夜そのものを固めたような黒紫色。
だが、中心では月明かりに似た銀色の光が、静かに揺れている。
アンタレスの核にあった禍々しさは残っていた。
それでも、触れたものから生命を吸い取る感覚はない。
黒紫色の闇を、内側の銀色の光が鎮めているようだった。
「なんだ、これ」
バンは左手を触れさせた。
冷たい。
だが、不快ではない。
微かな温かさが、その奥にある。
先ほど天へ還った精霊。
その力の残響が混ざっているようにも感じられた。
名前は知らない。
価値も分からない。
何に使えるのかも分からない。
ただ、アンタレスが消えた後に残ったものなら、珍しい素材ではあるのだろう。
「ま、持って帰るか」
バンは赤いコートの裂けていない部分を使い、結晶を包んだ。
片腕で持ち続けるのは面倒だ。
細長く裂いた布で身体へ固定し、背中側へ回す。
重さはある。
だが、バンが運べないほどではない。
銀色の文字が、地下から出口へ続く道を照らした。
精霊が残した最後の手助けなのかもしれない。
「親切な奴だな」
バンはゆっくりと歩き始めた。
◇
エルソス遺跡の外へ出た頃には、夜が明け始めていた。
東の空が薄く白んでいる。
砂漠を覆っていた紫色の魔物は、一体も残っていなかった。
空に漂っていた群れ。
砂の下に眠っていた未成熟な個体。
大型の子供。
すべてが消えている。
砂の上には、紫色の染みだけが残っていた。
だが、それも朝の風に晒され、少しずつ色を失っている。
大地から力を奪っていた流れは、完全に途切れていた。
遠く。
リオードの方角に、朝日が昇り始める。
バンは損傷したクレシューズへ目を落とした。
四節を繋ぐ鎖は歪んでいる。
接続部も滑らかには動かない。
先端の亀裂も消えていない。
普通の鍛冶師へ預けていいものではなさそうだった。
「どうすっかね」
マーリンはいない。
この世界で、異世界の神器を直せる者に心当たりもない。
ただ。
ザルドとアルフィアなら、この世界のことをバンより知っている。
聞けば、何か分かるかもしれない。
「帰るか」
腹が減った。
戦いの前に持ってきた肉は、とっくになくなっている。
水袋もほとんど空だった。
ザルドなら、約束どおり肉を焼いているかもしれない。
酒に合うやつを。
アルフィアは。
間違いなく怒るだろう。
異常を確認したら戻れと言われた。
善処すると答えた。
その結果が、右腕と脇腹の傷。
壊れかけたクレシューズ。
背中へ括りつけた、名前も知らない黒紫色の結晶。
「殴られるかもな」
バンは笑った。
それでも、足は自然とリオードへ向いている。
待っている者がいる。
飯を作る者がいる。
怒る者がいる。
帰る場所がある。
赤い旅人は傷ついた相棒と、名も知らない結晶を連れ、朝焼けの砂漠を歩き始めた。
アンタレス編の決着回です。
限界を迎えたバンとクレシューズが結晶核を破壊し、長い年月にわたって封印を守ってきた月の精霊を見送りました。
戦いの中で奪いすぎた力を、最後は贈与《ギフト》によって手向けとして渡しています。