第42話 帰ってきた馬鹿
森を抜けた先で、景色はゆっくりと色を失っていった。
背の高い木々はまばらになり、足元を覆っていた草も短くなる。
湿った土は乾いた荒野へ変わり、その向こうには朝日に照らされたカイオス砂漠が広がっていた。
バンは右腕を布で吊ったまま、砂の上を歩いていた。
赤いコートは裂け、脇腹の周囲は乾いた血で黒ずんでいる。
背中には、アンタレスが崩れた後に残った黒紫色の結晶を、破れていない布で括りつけていた。
腰にはクレシューズ。
ただし、いつものように四節をきれいに折り畳むことはできない。
伸びて歪んだ鎖と、動きの悪くなった接続部を庇うように布を巻き、身体の横へ固定していた。
「重ぇな、これ」
背中の結晶へ愚痴をこぼす。
持てないほどではない。
ベヒーモスの角や外殻骨に比べれば、片腕でも十分に運べる。
だが、傷だらけの身体で森と荒野を越えた後では、さすがに肩へ重さが溜まっていた。
水袋を持ち上げる。
最後の一滴を口へ流し込み、空になった袋を揺らした。
「水もねぇ。飯もねぇ。酒もねぇ」
アンタレスとの戦いより、今の状況の方が不満らしい。
腹が鳴った。
遺跡を出てから、森で見つけた木の実をいくつか食べただけだ。
獣を狩ろうにも、片腕が使えず、クレシューズにも無理をさせられない。
素手でも狩りはできる。
だが、血の匂いを増やして余計な魔物を呼び寄せるより、リオードへ戻る方が早かった。
「ザルド、肉焼いてるといいんだけどな」
バンは砂の向こうへ目を細めた。
遠くに、オアシスの木々と城壁が見え始めている。
交易都市リオード。
ほんの数日前までは、休むために立ち寄っただけの町だった。
今は、そこへ戻ろうとしている。
待っている者がいるから。
「……怒ってんだろうなぁ」
片方は呆れ。
もう片方は、間違いなく怒る。
それでも、バンの足取りは少しだけ軽くなった。
◇
昼を過ぎた頃。
リオードの城門周辺は、いつも以上に騒がしかった。
隊商の荷車。
荷獣を引く商人。
武器を持った護衛。
水を売る露店。
その間を、町の兵士たちが慌ただしく行き来している。
数日前から砂漠の外れに現れていた紫色の魔物が、今朝になって一斉に消えたためだ。
空を漂っていた小さな個体も。
地面を這っていた不気味な塊も。
目撃された大型個体も。
すべて、砂へ溶けるように消滅した。
兵士たちは周辺を調べていたが、理由は分かっていない。
「通行証を――」
門番の一人が、近づいてくる男へ声をかける。
途中で言葉が止まった。
赤いコート。
銀色の髪。
吊られた右腕。
血の滲んだ脇腹。
背中には、布の隙間から黒紫色の光を漏らす奇妙な結晶。
腰には、歪んだ棍。
門番は目を見開いた。
「あんた……数日前に町を出た……」
「戻ったぜ」
「その怪我はどうした?」
「ちょっとでけぇ蠍と喧嘩してな」
「蠍?」
「あと、紫色のふわふわした奴がいっぱい」
門番の顔が引きつる。
今朝、一斉に消えた魔物。
目の前の男の傷。
背中にある見たこともない結晶。
偶然とは思えなかった。
「まさか、あの魔物たちを……」
「腹減ってんだ。話は後でいいか?」
バンは門番の横を通り過ぎる。
兵士は呼び止めようとした。
だが、傷だらけの背中を見て、結局何も言えなかった。
城門を抜けると、乾いた香辛料と焼いた肉の匂いが鼻へ届いた。
バンの腹が、先ほどより大きく鳴る。
「いい町だな、やっぱ」
市場を歩く人々が、次々とバンを見る。
数日前、路地で子供を助けた赤い旅人。
巨大な荷物を運ぶのを手伝い、夜市で酒と料理を楽しんでいた男。
その男が、見る影もないほど傷ついて戻ってきた。
「兄ちゃん!」
市場の端から、小さな声が上がった。
以前、荷車の下敷きになりかけた獣人の子供だった。
母親の手を振りほどき、バンの前まで走ってくる。
「怪我してる!」
「見りゃ分かるだろ」
「大丈夫なの?」
「腹減ってる以外はな」
子供は心配そうに、吊られた右腕を見上げた。
バンは左手で、乱暴にならない程度にその頭を撫でる。
「そのうち治る」
「本当?」
「ああ。オレはしぶといからな」
母親が追いつき、深く頭を下げた。
「宿へ戻られるんですか?治療師を呼びましょうか」
「宿にうるせぇ奴がいる。そいつに見つかりゃ、嫌でも治療されるだろ」
「うるさい人?」
「静かな顔して、めちゃくちゃうるせぇ」
その瞬間。
市場を抜ける乾いた風よりも冷たい気配が、バンの背中を撫でた。
「誰がうるさい?」
声は後ろから聞こえた。
バンの動きが止まる。
獣人の子供が、バンの背後を見上げた。
銀灰色の髪。
整った顔立ち。
白を基調とした旅装。
アルフィアが、数歩離れた場所に立っていた。
表情はいつもと変わらない。
冷たく、静かで、感情を読み取りにくい。
だが、視線はバンの右腕から脇腹、裂けたコート、背中の結晶、最後に歪んだクレシューズへと順番に移っていく。
「よう」
バンが左手を上げる。
「帰ったぜ」
「見れば分かる」
「迎えに来てくれたのか?」
「町が騒がしいから確認に来ただけだ」
「心配してたんだろ」
「雑音だ」
アルフィアはバンの前まで歩く。
裂けた脇腹の布へ視線を向けた。
血は乾いているが、傷口はまだ完全には塞がっていない。
「異常を確認したら戻れと言ったはずだ」
「確認したぞ」
「そのまま戻れという意味だ」
「でけぇ蠍がいたんでな」
「だから?」
「ぶっ飛ばした」
アルフィアの眉が僅かに動く。
「説明になっていない」
「倒したなら十分だろ」
「十分なわけがあるか」
短い言葉。
静かな声。
だが、周囲の商人たちは一斉に距離を取った。
アルフィアはバンの左肩を掴む。
「歩け」
「腹減ってんだけど」
「先に傷を見せろ」
「飯食ってからでも――」
「口答えするな」
「へいへい」
バンは子供へ片手を振り、アルフィアに引かれるまま宿へ向かった。
◇
宿の部屋へ入った瞬間。
肉の匂いがした。
焼いた羊肉。
香辛料。
豆と野菜を煮込んだ濃いスープ。
平たいパン。
机の上には、三人分とは思えない量の料理が並んでいた。
ザルドが大鍋の前に立っている。
「遅かったな」
「おう。肉あるじゃねぇか」
「お前なら帰れば最初にそれを言うと思っていた」
「さすがだな」
バンが机へ向かおうとする。
アルフィアが襟首を掴んだ。
「座る場所が違う」
「飯はそっちだぞ」
「傷を見せろと言った」
「食いながらでいいだろ」
「駄目だ」
部屋の隅に置かれた椅子へ強引に座らされる。
アルフィアは治療用の箱を机から持ってきた。
その横で、ザルドが火を弱める。
「生きて戻っただけましだと思え」
「お前までそっち側かよ」
「その姿で飯を優先する方がおかしい」
「腹減ってんだから仕方ねぇだろ」
アルフィアが右腕を吊っていた布を外す。
バンの顔が僅かに歪んだ。
「痛むのか」
「触り方が雑なんだよ」
「黙れ」
右腕には、アンタレス戦以前からの傷が残っていた。
骨が砕けているわけではない。
だが筋肉と関節に強い負担がかかり、動かすたびに鈍い痛みが走る。
アンタレスとの戦いで衝撃を何度も受け、塞がりかけていた傷も開いていた。
アルフィアは指先で慎重に状態を確かめる。
「骨は問題ない」
「だろ?」
「筋と関節を傷めている。治りかけを無理に使ったせいで悪化した」
「でも動くだろ」
「動かすな」
バンが試しに右手を上げようとする。
アルフィアが手首を掴み、即座に止めた。
「次に勝手に動かしたら縛る」
「もう吊ってただろ」
「両腕をだ」
「飯食えねぇじゃねぇか」
「ザルドに食わせてもらえ」
「断る」
ザルドが即答する。
「冷てぇな」
「自業自得だ」
アルフィアは薬草を混ぜた軟膏を傷へ塗る。
脇腹も確認するため、裂けたコートとその下の服を捲った。
毒針が掠めた傷。
根に絡まれた痕。
咆哮と衝撃波でできた打撲。
身体狩りの反動による内側の負担。
普通の冒険者なら、歩いて帰るどころか意識を失っていてもおかしくない。
「これでよく森を歩いてきたな」
「歩かなきゃ帰れねぇだろ」
「その結晶を置いてくれば、多少は楽だった」
「珍しそうだったからな」
「命より優先するものか」
「死んでねぇだろ」
アルフィアの手が止まる。
ほんの一瞬。
冷たい表情の奥から、別の感情が覗いた。
「……お前は、死ななければ何をしてもいいと思っているのか」
バンは答えなかった。
アルフィアはすぐに視線を傷口へ戻す。
「馬鹿が」
小さな声だった。
バンは聞こえなかったふりをする。
ザルドも何も言わず、大鍋をかき混ぜていた。
治療が終わり、右腕を新しい布で固定する。
脇腹にも清潔な布が巻かれた。
「今日一日は動くな」
「飯は?」
「食べろ」
「酒は?」
「駄目だ」
「なんでだよ」
「傷が開く」
「一杯くらい――」
「駄目だ」
バンはザルドを見る。
「お前からも言ってくれよ」
「俺の料理を血まみれにされる方が困る」
「味方がいねぇ」
「無茶をする奴に味方する者はいない」
アルフィアが冷たく言い放つ。
それでも、バンの前へ料理の皿を置いたのは彼女だった。
◇
「うめぇ」
治療が終わると、バンは左手だけで肉を食べ始めた。
香辛料を擦り込んだ羊肉は、表面を強く焼き、中は柔らかく仕上げられている。
噛むたびに脂と肉汁が広がり、乾ききっていた身体へ染み込んでいく。
豆と野菜のスープには、羊の骨から取った濃い出汁が使われていた。
細かく刻まれた香草。
乾燥させた果実のほのかな甘み。
辛味の強い香辛料。
砂漠を歩いて失った塩分と水分が、一度に戻ってくるようだった。
「もっと寄こせ」
「まず飲み込め」
ザルドが追加の肉を切り分ける。
「お前が帰るまで、温め直すのは三度目だ」
「待ってたのか?」
「食材を無駄にしたくなかっただけだ」
「アルフィアと同じこと言うなよ」
「事実だ」
アルフィアは向かいの席へ座り、棗椰子を使った甘い菓子を一つだけ手に取った。
バンがそれを見る。
「それ好きだよな」
「何が悪い」
「別に。甘いもん好きなんだなって」
「黙って食べろ」
「図星か」
「次に喋れば、その肉を下げる」
バンはすぐに肉へ戻った。
ザルドが黒紫色の結晶へ視線を向ける。
部屋の壁際に、布へ包まれた状態で置かれていた。
「それが、あの魔物の残したものか」
「ああ」
「でけぇ蠍というのは?」
「アンタレスって呼ばれてた」
アルフィアの手が止まる。
「古本屋の日記にあった名か」
「そうだ」
「本当に存在していたのか」
「地下に封印されてた。蠍と木と結晶を無理やりくっつけたみてぇな奴だったな」
「紫色の魔物は?」
「子供らしい。数だけは多かった」
ザルドが眉を寄せる。
「今朝、町の外にいたものが一斉に消えた」
「親を倒したからじゃねぇか?」
バンは肉を噛みながら答える。
「核をぶっ壊したら、全部砂になった」
「簡単に言うな」
アルフィアの視線が、今度は布を巻かれたクレシューズへ向く。
「その代償があれか」
「ああ。無茶させちまった」
バンの声から、僅かに軽さが消えた。
ザルドが立ち上がり、クレシューズの前へしゃがむ。
布を外そうとするが、バンが止めた。
「今は触らねぇ方がいい」
「そこまで悪いのか」
「鎖が伸びてる。先っぽにもひびが入った」
ザルドは布越しに形を確かめる。
「お前の傷より、こちらの方が長引きそうだな」
「オレは飯食えば治るからな」
「馬鹿の理屈だ」
アルフィアが切り捨てる。
「けど、間違ってねぇだろ?」
「お前の場合は否定しきれないのが腹立たしい」
バンは笑い、再び皿へ手を伸ばした。
結局、用意されていた肉の大半を一人で食べた。
スープも三杯。
平たいパンも籠が空になるまで。
最後に水を大量に飲み、椅子の背へ身体を預ける。
「生き返った」
「一度も死んでいない」
「気分の話だよ」
腹が満たされると、途端に眠気が襲ってきた。
戦い。
森。
荒野。
砂漠。
身体は、本人が思う以上に疲れていた。
バンは目を閉じる。
「寝るなら寝台へ行け」
アルフィアの声が聞こえる。
「動くなって言ったの、お前だろ」
「椅子で寝ろとは言っていない」
「ここでいい……」
「よくない」
返事はもうなかった。
バンはそのまま眠りへ落ちていた。
アルフィアは眉間へ皺を寄せる。
「このまま放置するか」
「寝台へ運ぶぞ」
ザルドがバンの身体へ手を伸ばす。
アルフィアが先に左肩を支えた。
「右腕へ触れるな」
「分かっている」
「脇腹もだ」
「なら、お前が全部運べ」
「雑に扱うなと言っている」
「注文が多い」
二人がかりで、眠ったバンを寝台へ移す。
背中へ毛布をかける。
バンは起きない。
静かな寝息が、すぐにいびきへ変わった。
アルフィアの眉がさらに寄る。
「うるさい」
「戻ってきた証拠だ」
ザルドは料理の残りを片づけ始める。
アルフィアは寝台の横に立ったまま、眠るバンを見下ろしていた。
右腕。
脇腹。
裂けたコート。
壊れかけた神器。
生きて帰った。
それだけは、確かなことだった。
「本当に、馬鹿だ」
今度の声は、先ほどよりも小さかった。
◇
翌朝。
窓から差し込む日差しの中で、バンは目を覚ました。
「腹減った」
起きて最初の言葉だった。
寝台から身体を起こす。
右腕を吊る布が目に入る。
試しに指を動かした。
痛みはほとんどない。
手首。
肘。
肩。
ゆっくり動かしてみる。
昨日までの鈍い痛みが、嘘のように薄れていた。
バンは布を外す。
右腕を頭上まで持ち上げ、肩を回した。
「治ったな」
その瞬間。
部屋の扉が開いた。
水差しを持ったアルフィアが入ってくる。
持ち上げられた右腕を見て、足を止めた。
「……もう動くのか」
「腹いっぱい食って寝たからな」
「昨日より傷が塞がっている」
「だから言っただろ。飯食えば治るって」
アルフィアは近づき、右腕を掴む。
曲げる。
伸ばす。
肩の動きを確認する。
バンは抵抗せず、されるがままになっていた。
「骨も筋も問題ない」
「だろ?」
「化け物」
「お前に言われたくねぇな」
そこへザルドも入ってきた。
バンの右腕を見て、特に驚く様子もない。
「今さらだ」
「お前ら、オレの扱い雑じゃねぇか?」
「怪我人への扱いは昨日で終わった」
ザルドが朝食の入った籠を机へ置く。
焼いたパン。
薄く切った肉。
香草入りの卵料理。
冷たい井戸水。
バンは両手を使い、早速パンを取った。
右腕は完全に以前どおり動いている。
傷の痛みもない。
脇腹も、布を外せば薄い跡が残る程度まで塞がっていた。
バン自身は治った。
だが。
壁際に置かれたクレシューズは、昨日と何も変わっていない。
歪んだ鎖。
軋む接続部。
亀裂の入った先端。
バンはパンを噛みながら、相棒へ視線を向けた。
「オレは治っても、お前はそうはいかねぇか」
クレシューズは、布に包まれたまま沈黙している。
アルフィアもその視線を追う。
「食べ終えたら、それと結晶を調べる」
「ああ」
「勝手に触るな」
「オレの武器なんだけどな」
「だから壊れかけた」
「言い返せねぇ」
ザルドが鼻で笑う。
バンは残りのパンを口へ放り込み、朝食の皿へ手を伸ばした。
帰ってきた。
身体は治った。
腹も満たせる。
だが、旅を共にしてきた相棒だけは、まだ傷ついたままだった。
アンタレスとの戦いを終え、バンがリオードへ帰還する回でした。
特に、怒りながらバンの傷を確認し、生きて帰ったことへ密かに安堵するアルフィアがお気に入りです。