強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第41話 月へ還るもの

聖棍クレシューズの鋭い先端が、最後の根へ深く食い込んだ。

 

紫黒い光が弾ける。

 

アンタレスの咆哮が、巨大な地下空間を揺さぶった。

 

核と大地を繋ぐ最後の根。

 

これを失えば、アンタレスはもう砂漠から力を吸い上げられない。

 

再生も。

 

子供たちの生成も。

 

長い年月をかけて封印を侵してきた、奪う力の循環も止まる。

 

だからこそ、根は切れなかった。

 

クレシューズの先端が半ばまで食い込んでも、黒い表皮の内側から新たな繊維が生まれ、傷口を縫い合わせようとする。

 

根を流れる紫黒い光が一層強くなる。

 

アンタレスは残った力を、すべてそこへ集め始めた。

 

「しつけぇな……!」

 

バンは左腕へ力を込めた。

 

右腕は布で吊られたまま。

 

脇腹から流れる血は止まらず、赤いコートをさらに濃く染めている。

 

神器解放を続けた左腕も限界へ近い。

 

指先の感覚は薄れ、肩から先が自分のものではないように重かった。

 

それでも、クレシューズを握る力だけは緩めない。

 

――ギギッ。

 

聞き慣れない音がした。

 

四つの棍を繋ぐ鎖が、張り詰めたまま震えている。

 

接続部が軋み、金属同士が噛み合う甲高い音が地下空間へ響いた。

 

「おいおい」

 

バンは一瞬だけ、手の中の神器へ視線を落とした。

 

クレシューズの鋭い先端。

 

根へ食い込んでいる部分に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。

 

神器とはいえ、壊れないわけではない。

 

片腕だけで無理に扱い。

 

神器解放を続け。

 

数百の敵を薙ぎ払い。

 

三大クエストにも匹敵する怪物の力を、正面から受け止め続けた。

 

武器だけが無事でいられるはずもなかった。

 

アンタレスが大鋏を持ち上げる。

 

最後の根を守るため、バンごと叩き潰そうとしている。

 

左右から迫る巨大な刃。

 

避ければ、根は再び核と大地を強く繋ぐ。

 

ここまで削った意味がなくなる。

 

「悪ぃな」

 

バンはクレシューズを握り直した。

 

「もう少しだけ付き合え、相棒」

 

神器は答えない。

 

だが、歪み始めていた鎖が、僅かに張り直された。

 

四つの節が一つの意思を持ったように並ぶ。

 

鋭い先端が、根の奥へもう一段深く食い込んだ。

 

バンの口元が上がる。

 

「そうこなくちゃな」

 

大鋏が閉じる。

 

その直前。

 

バンはアンタレスから奪った力を、左腕へ一気に流し込んだ。

 

「おらぁっ!」

 

聖棍を振り抜く。

 

根の内側で、何かが切れた。

 

最初は一本。

 

続けて十本。

 

何百もの繊維が連鎖するように弾けていく。

 

紫黒い光が暴れ、根の切断面から噴き出した。

 

クレシューズの先端が最後まで振り抜かれる。

 

巨大な根が、中央から断ち切られた。

 

次の瞬間。

 

地下空間を満たしていた鼓動が止まった。

 

 

       ◇

 

 

静寂は、一瞬だった。

 

核と大地を繋いでいた力が途切れる。

 

床を這っていた黒い根が一斉に跳ね上がり、苦しむ蛇のようにのたうち回った。

 

遺跡の外へ伸びていた力も逆流する。

 

砂漠の各地に残っていたアンタレスの子供たち。

 

まだ宙を漂っていた小型個体。

 

砂の下で形成されていた未成熟な個体。

 

そのすべてが紫色の光を失った。

 

半透明の身体が崩れ、乾いた砂へ溶けていく。

 

アンタレスの再生も止まった。

 

甲殻に走った亀裂は塞がらない。

 

砕かれた結晶も、もう光を取り戻さない。

 

胴体の奥で、完全に露出した巨大な結晶核だけが、激しく脈打っていた。

 

――ドクン。

 

――ドクン。

 

大地から切り離されてもなお、核には膨大な力が残っている。

 

アンタレスがこれまで奪い続けてきた、無数の生命。

 

怪物は、それらすべてを燃やすように巨体を持ち上げた。

 

銀色の鎖が張り詰める。

 

一本。

 

アンタレスの右脚を縛っていた鎖が砕けた。

 

続けて、左の大鋏。

 

尾。

 

胴体。

 

長い年月、怪物を地の底へ押さえ続けていた封印が、次々と引き千切られていく。

 

『……離れろ……』

 

掠れた声が響いた。

 

壁へ刻まれた銀色の文字が、激しく明滅する。

 

『……封印が……』

 

「もう保たねぇんだろ」

 

バンはクレシューズを引き戻した。

 

鎖の一部が伸び、僅かに歪んでいる。

 

それでも、四つの節は動いた。

 

最後の銀色の鎖が砕ける。

 

アンタレスの六本の脚が、初めて自らの力だけで石床を踏みしめた。

 

巨体が立ち上がる。

 

それだけで地下空間の天井近くまで届いた。

 

黒と暗紫色の甲殻。

 

人間を建物ごと挟み潰せる大鋏。

 

大きく湾曲した尾。

 

力を供給する結晶を失いながらも、毒針の鋭さそのものは残っている。

 

完全に解き放たれたアンタレスが、バンを見下ろした。

 

「やっと檻から出られたって顔だな」

 

アンタレスが咆哮する。

 

衝撃波が爆発した。

 

石床が剥がれ、砕けた柱や甲殻の破片が吹き飛ぶ。

 

バンはクレシューズを地面へ突き立てる。

 

左腕一本で身体を支えるが、足元の石ごと後方へ押し流された。

 

靴底が床を削る。

 

右腕の傷へ再び痛みが走る。

 

口の中へ血の味が広がった。

 

「元気余ってんじゃねぇか」

 

アンタレスの大鋏が振り下ろされる。

 

今までのような、鎖に制限された一撃ではない。

 

巨体の全重量を乗せた攻撃。

 

バンは左へ跳んだ。

 

石床へ叩きつけられた鋏が、地下空間の一部を陥没させる。

 

衝撃で浮き上がった岩の上へ、バンは足をつく。

 

そこからさらに跳ぶ。

 

二つ目の鋏が、空中にいるバンを挟もうと迫った。

 

クレシューズの先端を鋏の縁へ巻きつける。

 

左腕を引き、身体の軌道を強引に変えた。

 

大鋏が、赤いコートの裾を掠めて閉じる。

 

布の一部が切断された。

 

「服がぼろぼろじゃねぇか」

 

バンはアンタレスの腕へ着地した。

 

甲殻の上を駆ける。

 

アンタレスが身体を捻り、バンを振り落とそうとする。

 

その動きへ《強奪》を伸ばした。

 

「身体狩り《フィジカルハント》」

 

巨体全体から奪うのではない。

 

大鋏を持ち上げている筋力。

 

バンが走る一本の腕。

 

そこだけへ狙いを絞る。

 

アンタレスの動きが鈍った。

 

持ち上がりかけていた鋏が沈む。

 

バンの脚へ、奪った力が流れ込む。

 

だが、同時に左脚の筋肉が軋んだ。

 

「これ以上は、入りきらねぇか」

 

子供たち。

 

黒い根。

 

アンタレス。

 

戦いの中で奪った力が、すでにバンの身体へ過剰に蓄えられている。

 

肉体の強さとは別の問題だった。

 

器へ無理やり水を注ぎ続ければ、どれほど丈夫でも溢れる。

 

これ以上大量に奪えば、アンタレスを弱らせる前に、バン自身の身体が内側から壊れかねない。

 

「欲張ると碌なことにならねぇな」

 

アンタレスの頭部へ跳び移る。

 

露出した結晶核が見えた。

 

紫黒い光を放つ、巨大な結晶。

 

周囲の甲殻と根は剥がれ、今なら直接攻撃が届く。

 

だが。

 

アンタレスが六本の脚で石床を踏み鳴らした。

 

地下空間が跳ねる。

 

地面から衝撃波が広がり、バンの足場となっていた甲殻を激しく揺らした。

 

姿勢を崩したバンへ、尾が迫る。

 

毒針ではない。

 

巨大な尾そのものを鞭のように振るう一撃。

 

バンはクレシューズを盾のように構えた。

 

尾と聖棍が衝突する。

 

金属が軋んだ。

 

鎖の一か所が大きく歪む。

 

衝撃を受け切れず、バンの身体が弾き飛ばされた。

 

背中から石床へ叩きつけられる。

 

肺から空気が押し出された。

 

「がっ……!」

 

アンタレスは止まらない。

 

大鋏を開き、地面に倒れたバンへ突進する。

 

六本の脚が石床を砕き、巨大な身体が山崩れのように迫ってきた。

 

バンは起き上がらない。

 

左手だけを持ち上げる。

 

クレシューズの超集中力は、まだ途切れていなかった。

 

アンタレスの脚。

 

鋏。

 

尾。

 

露出した核。

 

すべての力が、どこから生まれ、どこへ流れているのかが見える。

 

全部を奪う必要はない。

 

今、この瞬間。

 

身体を前へ運んでいる二本の脚。

 

それだけでいい。

 

「身体狩り《フィジカルハント》」

 

アンタレスの右前脚から力が抜けた。

 

続けて左。

 

巨体の均衡が崩れる。

 

勢いを止められないまま、アンタレスは前方へ傾いた。

 

大鋏が石床へ突き刺さる。

 

巨体が転倒し、地下空間を震わせた。

 

「全部盗ろうとするから、足元すくわれんだよ」

 

バンは立ち上がる。

 

左腕が震えていた。

 

これ以上、身体狩りは使えない。

 

奪った力が身体の中で暴れ、筋肉と骨を内側から押し広げようとしている。

 

神器解放も限界。

 

クレシューズの鎖は歪み、接続部の動きも鈍くなっていた。

 

次が最後だ。

 

バンは大きく息を吐いた。

 

アンタレスが倒れたまま、巨大な眼をバンへ向ける。

 

核の光が膨れ上がった。

 

怪物は、自分がもう長く保たないことを理解したのだろう。

 

残された生命。

 

魔力。

 

奪ってきたすべての力。

 

それらを結晶核へ集め始める。

 

光が強くなる。

 

核の内側に、黒い亀裂が幾重にも走った。

 

『……破裂する……』

 

銀色の声が響く。

 

『……この地が……呑まれる……』

 

「最後まで迷惑な奴だな」

 

アンタレスは倒される前に、蓄えた力を暴発させるつもりだった。

 

核が破裂すれば、この地下空間だけでは済まない。

 

エルソス遺跡。

 

周辺の砂漠。

 

どこまで被害が及ぶか分からない。

 

バンは結晶核を見据えた。

 

巨大な核の全体を砕くだけでは駄目だ。

 

力が一気に解放される。

 

必要なのは、内部を巡る流れを断ちながら、暴発の中心だけを貫くこと。

 

無数の亀裂。

 

激しく動く力。

 

崩れ落ちる甲殻。

 

そのすべての中に、一つだけ。

 

核の力を支えながら、同時に破壊すれば全体の流れを内側へ崩せる一点がある。

 

普通なら見つけられない。

 

だが。

 

クレシューズの超集中力が、一本の道を示していた。

 

「そこか」

 

バンは聖棍を握る。

 

四つの節が動いた。

 

しかし、以前のような滑らかさはない。

 

歪んだ鎖が引っかかり、接続部から嫌な音がする。

 

先端に入った亀裂も、先ほどより広がっていた。

 

次の一撃に耐えられる保証はない。

 

バンは手の中の相棒へ目を落とした。

 

この世界へ来た時、クレシューズは姿を消した。

 

知らない土地。

 

知らない魔物。

 

知らない力。

 

その中を、枝や拳だけで歩いてきた。

 

ようやく再会し。

 

再び手に馴染み始めた相棒。

 

こんな場所で失う気はなかった。

 

「壊れんなよ」

 

バンは低く呟く。

 

「帰ったら休ませてやるからよ」

 

アンタレスの核が限界まで膨れ上がる。

 

紫黒い光が地下空間を塗り潰した。

 

大鋏が石床から引き抜かれる。

 

尾が持ち上がる。

 

力を奪われた脚を引きずりながら、それでも怪物はバンを止めようとした。

 

「行くぞ、相棒」

 

バンが石床を蹴る。

 

赤い影が走った。

 

アンタレスの大鋏が左右から迫る。

 

バンは正面から飛び込む。

 

クレシューズの一節を右の鋏へ巻きつけ、軌道を僅かに外側へ逸らす。

 

左の鋏が眼前へ迫る。

 

その上へ足をつく。

 

巨体の力を利用し、さらに高く跳んだ。

 

アンタレスが尾を振り下ろす。

 

バンは空中でクレシューズを伸ばした。

 

尖った一節が尾へ当たり、身体を横へ押し出す。

 

毒針が脇を通過した。

 

アンタレスの頭上。

 

露出した結晶核。

 

最後の道が開く。

 

バンは左腕を振りかぶった。

 

その瞬間。

 

クレシューズの鎖が、甲高い悲鳴を上げた。

 

接続部が歪む。

 

先端の亀裂が一気に広がる。

 

それでも、聖棍は止まらなかった。

 

四つの節が、バンの意思へ応えるように一直線へ並ぶ。

 

「欲張りすぎなんだよ、お前は」

 

クレシューズを突き出す。

 

鋭い先端が結晶核へ触れた。

 

表面を砕く。

 

紫黒い光の中へ潜り込む。

 

無数の力の流れを避けながら。

 

唯一の一点へ。

 

「他人のもんばっか盗ってるから――」

 

さらに深く。

 

「最後に自分のもんまで、全部失うんだよ!」

 

先端が核の中心を貫いた。

 

音が消えた。

 

アンタレスの動きが止まる。

 

巨大な眼が、初めて何も映さなくなった。

 

核の中心から、銀色の亀裂が走る。

 

一本。

 

二本。

 

無数。

 

紫黒い光が、外へ爆発するのではなく、砕けた中心へ吸い込まれていった。

 

アンタレスが奪い集めてきた力。

 

子供たちが運んだ生命。

 

大地から吸い上げた魔力。

 

そのすべてが、崩壊する核の内側へ呑み込まれる。

 

巨大な結晶核が砕けた。

 

アンタレスの大鋏が力なく落ちる。

 

六本の脚が崩れる。

 

尾が石床へ倒れ、最後の震動を残した。

 

黒い甲殻から色が抜けていく。

 

根が乾き。

 

結晶が砕け。

 

巨体そのものが、黒い砂となって崩れ始めた。

 

風もない地下空間で、砂が静かに舞う。

 

最後に残った巨大な眼が、バンを見た。

 

怒りも。

 

飢えも。

 

もう何もない。

 

やがて、それも細かな粒となって消えた。

 

 

       ◇

 

 

バンは石床へ着地した。

 

一歩目で膝が崩れる。

 

クレシューズを地面へ突き立て、どうにか倒れるのを防いだ。

 

「……終わったか」

 

返事はない。

 

アンタレスがいた場所には、黒い砂と砕けた甲殻だけが残っている。

 

地下空間を覆っていた黒い根も、すべて動きを止めていた。

 

紫黒い光が消える。

 

代わりに。

 

壁。

 

床。

 

天井。

 

長く黒い根に隠されていた銀色の文字が、一つずつ光り始めた。

 

淡い光が地下空間へ満ちていく。

 

冷たくはない。

 

砂漠の夜に差す月明かりのような、静かな光だった。

 

バンはクレシューズを引き抜こうとした。

 

だが、四つの節が上手く戻らない。

 

鎖の一部が伸び、僅かに捻れている。

 

接続部も歪み、動かすたびに金属が擦れる音がした。

 

鋭い先端には、はっきりと分かる亀裂が残っている。

 

「マジかよ」

 

バンは聖棍を持ち上げ、顔をしかめた。

 

完全に壊れてはいない。

 

通常の棍としてなら、まだ使える。

 

だが、もう一度神器解放を使えば。

 

あるいは、死神の一薙ぎのような大技を放てば。

 

今度こそ、鎖か接続部が耐えられない。

 

「マーリンがいねぇのに、無茶させちまったな……」

 

クレシューズは答えない。

 

バンは歪んだ節を無理に戻そうとはせず、慎重に折り畳んだ。

 

「悪かったよ」

 

腰へ戻す。

 

「しばらく休んでろ」

 

銀色の光が、地下空間の中央へ集まり始めた。

 

細かな粒。

 

月光の欠片。

 

それらが、ゆっくりと人の形を作っていく。

 

最初は輪郭だけだった。

 

長い髪。

 

細い腕。

 

薄い衣をまとった、人に似た姿。

 

だが、顔は見えない。

 

身体の向こう側が透け、今にも光の粒へ戻りそうだった。

 

『……終わった……』

 

これまでバンへ語りかけていた声。

 

「ああ」

 

バンは壁へ背を預けた。

 

「あのでけぇ蠍なら、砂になったぜ」

 

『……長かった……』

 

銀色の人影が、アンタレスの消えた場所を見つめる。

 

『……幾千の月を……数えた……』

 

「数えすぎだろ」

 

『……忘れて……しまった……』

 

声には、疲れが滲んでいた。

 

いつからここにいたのか。

 

誰とアンタレスを封じたのか。

 

自分の名さえ。

 

長い年月の中で、多くを失ったのだろう。

 

それでも最後まで、封印を守り続けた。

 

『……赤き旅人……』

 

「あ?」

 

『……礼を……』

 

「いらねぇよ」

 

バンは即座に答えた。

 

「気に入らねぇ奴をぶっ飛ばしただけだ」

 

銀色の人影が、僅かに揺れる。

 

笑ったのかもしれない。

 

だが、輪郭が薄すぎて表情までは見えなかった。

 

『……それでも……』

 

光が崩れ始める。

 

指先から。

 

髪から。

 

銀色の粒となり、空中へ消えていく。

 

役目を終えた。

 

もう、ここへ留まる理由はない。

 

だが、天へ還るための力さえ、ほとんど残っていないようだった。

 

人影は上へ昇ることもできず、その場で少しずつ薄れていく。

 

バンは自分の身体へ意識を向けた。

 

重い。

 

苦しい。

 

アンタレスや子供たちから奪った力が、今も身体の中で暴れている。

 

すべてがバン自身のものになったわけではない。

 

他者から盗った力。

 

いずれは抜けていく。

 

それでも、今の身体には多すぎた。

 

「ちょうどいいか」

 

バンは壁から背を離した。

 

消えかけた人影へ、左手を伸ばす。

 

『……何を……』

 

「余ってんだ」

 

手のひらを開く。

 

「少しくらい持ってけ」

 

バンの魔力が動いた。

 

奪うためではない。

 

自分の中にある力を、相手へ渡す。

 

「贈与《ギフト》」

 

淡い光が、バンの左手から流れ出した。

 

子供たちから奪った生命力。

 

アンタレスから奪った力。

 

混ざり合ったものの中から、精霊を傷つけない部分だけを選び取る。

 

生命の温かさ。

 

還るために必要な、僅かな力。

 

それが銀色の人影へ注がれた。

 

消えかけていた輪郭が戻る。

 

透けていた身体へ光が満ちる。

 

長い髪が、月光のような銀色を取り戻した。

 

閉じられていた瞼が開く。

 

淡く輝く瞳。

 

そして。

 

長い役目を終えた者の、穏やかな笑顔。

 

ほんの僅かな時間。

 

精霊は、かつての姿を取り戻していた。

 

『……優しい、盗人だ……』

 

「うるせぇ」

 

バンは顔を背ける。

 

「早く帰れ」

 

精霊の笑みが深くなる。

 

『……ありがとう……』

 

身体が銀色の粒へ変わる。

 

今度は消えるのではない。

 

月へ導かれるように、ゆっくりと上昇していく。

 

地下空間の天井。

 

厚い岩。

 

崩れた遺跡。

 

それらをすり抜け、光は夜空へ昇っていった。

 

最後の一粒が消える直前。

 

バンは、声を聞いた。

 

『……どうか……良き旅を……』

 

「言われなくてもな」

 

バンが答える。

 

月光は、空へ還った。

 

 

       ◇

 

 

遥か遠く。

 

月明かりに照らされた森で、狩りを終えた女神が足を止めた。

 

長い髪を夜風が揺らす。

 

仲間たちは先へ進んでいたが、女神アルテミスだけが空を見上げている。

 

胸の奥を。

 

ほんの一瞬。

 

懐かしい銀色の光が、静かにかすめた。

 

「……今のは」

 

夜空に異変はない。

 

月は、いつもと変わらず輝いている。

 

それでもアルテミスは、しばらくその場を動かなかった。

 

何かが終わった。

 

そして、何かが残された。

 

その意味を知るのは、まだ遠い未来のことだった。

 

 

 

 

精霊の光が消えた後。

 

地下空間は、静けさに包まれた。

 

バンはしばらく天井を見上げていた。

 

「帰ったか」

 

贈与で力を渡したことで、身体の内側にあった圧迫感は幾分軽くなっている。

 

だが、傷が治ったわけではない。

 

右腕。

 

脇腹。

 

左手。

 

全身が痛む。

 

「帰る前に、少し休むかね」

 

その場へ腰を下ろそうとした時。

 

黒い砂の中で、淡い光が瞬いた。

 

「あ?」

 

アンタレスが崩れた場所。

 

砕けた甲殻の下から、銀色の光が漏れている。

 

バンはクレシューズを使おうとして、途中で手を止めた。

 

「お前は休んでろ」

 

代わりに左手で甲殻を退かす。

 

その下に、一つの結晶が残っていた。

 

片腕でも抱えられる程度の大きさ。

 

表面は、夜そのものを固めたような黒紫色

 

だが、中心では月明かりに似た銀色の光が、静かに揺れている。

 

アンタレスの核にあった禍々しさは残っていた。

 

それでも、触れたものから生命を吸い取る感覚はない。

 

黒紫色の闇を、内側の銀色の光が鎮めているようだった。

 

「なんだ、これ」

 

バンは左手を触れさせた。

 

冷たい。

 

だが、不快ではない。

 

微かな温かさが、その奥にある。

 

先ほど天へ還った精霊。

 

その力の残響が混ざっているようにも感じられた。

 

名前は知らない。

 

価値も分からない。

 

何に使えるのかも分からない。

 

ただ、アンタレスが消えた後に残ったものなら、珍しい素材ではあるのだろう。

 

「ま、持って帰るか」

 

バンは赤いコートの裂けていない部分を使い、結晶を包んだ。

 

片腕で持ち続けるのは面倒だ。

 

細長く裂いた布で身体へ固定し、背中側へ回す。

 

重さはある。

 

だが、バンが運べないほどではない。

 

銀色の文字が、地下から出口へ続く道を照らした。

 

精霊が残した最後の手助けなのかもしれない。

 

「親切な奴だな」

 

バンはゆっくりと歩き始めた。

 

 

 

 

エルソス遺跡の外へ出た頃には、夜が明け始めていた。

 

東の空が薄く白んでいる。

 

砂漠を覆っていた紫色の魔物は、一体も残っていなかった。

 

空に漂っていた群れ。

 

砂の下に眠っていた未成熟な個体。

 

大型の子供。

 

すべてが消えている。

 

砂の上には、紫色の染みだけが残っていた。

 

だが、それも朝の風に晒され、少しずつ色を失っている。

 

大地から力を奪っていた流れは、完全に途切れていた。

 

遠く。

 

リオードの方角に、朝日が昇り始める。

 

バンは損傷したクレシューズへ目を落とした。

 

四節を繋ぐ鎖は歪んでいる。

 

接続部も滑らかには動かない。

 

先端の亀裂も消えていない。

 

普通の鍛冶師へ預けていいものではなさそうだった。

 

「どうすっかね」

 

マーリンはいない。

 

この世界で、異世界の神器を直せる者に心当たりもない。

 

ただ。

 

ザルドとアルフィアなら、この世界のことをバンより知っている。

 

聞けば、何か分かるかもしれない。

 

「帰るか」

 

腹が減った。

 

戦いの前に持ってきた肉は、とっくになくなっている。

 

水袋もほとんど空だった。

 

ザルドなら、約束どおり肉を焼いているかもしれない。

 

酒に合うやつを。

 

アルフィアは。

 

間違いなく怒るだろう。

 

異常を確認したら戻れと言われた。

 

善処すると答えた。

 

その結果が、右腕と脇腹の傷。

 

壊れかけたクレシューズ。

 

背中へ括りつけた、名前も知らない黒紫色の結晶。

 

「殴られるかもな」

 

バンは笑った。

 

それでも、足は自然とリオードへ向いている。

 

待っている者がいる。

 

飯を作る者がいる。

 

怒る者がいる。

 

帰る場所がある。

 

赤い旅人は傷ついた相棒と、名も知らない結晶を連れ、朝焼けの砂漠を歩き始めた。




アンタレス編の決着回です。

限界を迎えたバンとクレシューズが結晶核を破壊し、長い年月にわたって封印を守ってきた月の精霊を見送りました。

戦いの中で奪いすぎた力を、最後は贈与《ギフト》によって手向けとして渡しています。
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