強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第43話 名もない結晶

翌朝。

 

リオードの宿、その二階にある一室には、朝の市場から届く喧騒が薄く響いていた。

 

荷車が石畳を軋ませる音。

 

隊商の荷獣につけられた鈴。

 

通りを行き交う商人たちの声。

 

窓を閉めても、オアシス交易都市の活気までは遮れない。

 

だが、部屋の中にいる三人は、誰も外を見ていなかった。

 

中央に置かれた机。

 

その上には、二つのものが並んでいる。

 

一つは、幾重にも布を巻かれた聖棍クレシューズ。

 

もう一つは、バンがエルソス遺跡から持ち帰った黒紫色の結晶だった。

 

人の頭ほどの大きさ。

 

全体は黒に近い紫色で、表面には鋭く割れたような箇所と、磨かれた宝石のように滑らかな箇所が混在している。

 

朝日を受けても、ほとんど光を返さない。

 

それでも、結晶の内部には淡い銀色の光が浮かんでいた。

 

暗い紫の底を、細い月明かりがゆっくりと巡っている。

 

時折、黒紫色の力が内側から脈打つ。

 

そのたびに銀色の光が強まり、禍々しい脈動を押し戻していた。

 

「触るな」

 

アルフィアが言った。

 

結晶へ伸びかけていたバンの指が止まる。

 

「まだ触ってねぇだろ」

 

「触ろうとした」

 

「昨日は素手で持って帰ってきたぞ」

 

「それを聞くたびに腹が立つ」

 

「何も起きなかったからいいじゃねぇか」

 

「結果だけで愚行を正当化するな」

 

バンは肩を竦め、椅子へ座り直した。

 

昨日まで布で吊っていた右腕は、もう自由に動いている。

 

肩を回しても。

 

拳を握っても。

 

深く裂けていた脇腹を捻っても、目立った痛みは残っていない。

 

煉獄を越えた肉体は、不死ではなくなった今も、人間の常識から大きく外れていた。

 

だが、赤いコートは別だ。

 

裾は裂け、脇腹には大きな穴が開き、乾いた血と泥が染みついている。

 

身体だけが先に元へ戻り、その上へ戦いの残骸を着ているような姿だった。

 

アルフィアはバンから視線を外し、結晶の上へ右手をかざした。

 

「少しだけ探る」

 

「割るなよ」

 

「お前と一緒にするな」

 

指先から、ごく細い魔力が伸びる。

 

結晶へ流し込むのではない。

 

表面へ触れるか触れないかの位置をなぞり、外側に残る力の性質だけを慎重に探っていく。

 

ザルドは机の反対側に立ち、腕を組んで見守っていた。

 

アルフィアの魔力が、黒紫色の表面へ触れる。

 

その瞬間。

 

結晶の奥で、暗い光が脈打った。

 

部屋の温度が僅かに下がる。

 

結晶の下にある机の木目が、中心から白く乾き始めた。

 

窓辺に置かれていた小さな花瓶。

 

そこに挿されていた花が、ゆっくりと項垂れる。

 

「アルフィア」

 

ザルドの声が低くなる。

 

「分かっている」

 

アルフィアは即座に魔力を引いた。

 

直後。

 

結晶の中心に漂っていた銀色の光が、一度だけ強く輝いた。

 

黒紫色の脈動が内側へ押し戻される。

 

机の乾燥も止まった。

 

萎れかけた花も、それ以上は変化しない。

 

部屋に満ちかけていた冷気が、少しずつ消えていく。

 

「今のは、アンタレスと同じ力か?」

 

バンが尋ねる。

 

「ああ」

 

アルフィアは結晶から手を離した。

 

「生命力を奪い、自分の糧へ変える性質がある。遺跡の地下に満ちていた力と近い」

 

「やっぱ、あのでけぇ蠍の残りか」

 

「アンタレスに由来するのは間違いない。だが、何の部位だったのかまでは分からない」

 

「核じゃねぇのか?」

 

「お前が破壊した核とは別物だろう。力を蓄積する器官か、核の周囲に形成されていた結晶の一部か」

 

ザルドが結晶の内側を覗き込む。

 

「銀色の方は?」

 

「分からない」

 

アルフィアは迷わず答えた。

 

「黒紫色の力を抑えている。それだけは確かだ」

 

「月みてぇな奴の力じゃねぇのか?」

 

バンの言葉に、アルフィアの視線が向いた。

 

「根拠は?」

 

「似てるからな」

 

「それだけか」

 

「十分だろ」

 

「足りない」

 

アルフィアは銀色の光へ顔を向ける。

 

「お前が遺跡で見た存在と関係する可能性はある。だが、似ているというだけで同じものと断定するな」

 

「消えかけてたから、少し力を分けたんだよ」

 

「その結果、これが生まれたのか?」

 

「さあな。こいつはアンタレスが崩れた後に残ってた。月みてぇな奴が消えた時には、もう光ってたと思うぜ」

 

「思う、では困る」

 

「戦いが終わったばっかで、細かいとこまで見てられっかよ」

 

「だから一人で行くなと言った」

 

「またそこへ戻るのか?」

 

「何度でも戻る」

 

バンは口元を上げる。

 

「元気そうで何よりだな」

 

「お前を殴れる程度にはな」

 

ザルドが低く笑う。

 

アルフィアは二人を無視し、厚手の布を広げた。

 

「銀色の力が抑えている間は、すぐに周囲へ害を及ぼすことはない」

 

「銀の方が消えたら?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「アンタレスの力が外へ漏れ出す可能性がある」

 

「町へ置いていくのも危険か」

 

「誰かが拾えば同じだ。遺跡へ戻したところで、安全とは限らない」

 

一枚目の布。

 

二枚目の布。

 

その上から薄い革を巻き、革紐で固く縛っていく。

 

「正体が分かるまでは、直接触れるな。魔力も流すな」

 

「オレの拾ったもんなんだけどな」

 

「災厄の残骸を自慢するな」

 

「売ったら高そうだぞ」

 

「売るな」

 

即答だった。

 

「冗談だって」

 

「お前の場合、冗談で済まない」

 

包み終えた結晶を、アルフィアは机から離れた壁際へ移した。

 

その手が止まる。

 

机の上に残された、もう一つの包み。

 

聖棍クレシューズ。

 

バンの顔から、僅かに笑みが消えた。

 

「次はこいつか」

 

「ああ」

 

アルフィアはすぐには触れない。

 

「開けろ」

 

「慎重にな」

 

「それをお前が言うのか」

 

「こいつのことだからな」

 

バンは革紐へ指を掛けた。

 

一つずつ結び目を解く。

 

布を無理に引かず。

 

内部の鎖へ絡ませず。

 

いつもの雑な手つきからは想像できないほど、ゆっくりと包みを外していく。

 

やがて。

 

四つの棍と、それぞれを繋ぐ鎖が姿を現した。

 

両端の先端は鋭く尖り、殴打だけでなく、斬撃や刺突にも使える形をしている。

 

本来なら、バンの意思に従って鎖が伸び、四つの節が予測不能な軌道を描く。

 

遠く離れた敵へ。

 

死角へ。

 

視界の外へ。

 

持ち主の《強奪》を届けるための神器。

 

だが、今のクレシューズには、アンタレスとの戦いで受けた傷が深く残っていた。

 

一つの鎖が強く引き伸ばされ、環が細長く歪んでいる。

 

接続部も捻れ、正しい角度へ戻らない。

 

アンタレスの核を貫いた先端には、一本の深い亀裂。

 

表面だけではない。

 

ひびは先端から内部へ食い込み、棍の奥まで続いているように見えた。

 

ザルドが身体を屈める。

 

「昨日より、亀裂が広がっていないか」

 

「オレもそう思ってた」

 

「触れてもいいか」

 

「中央だけにしろ。鎖は引っ張るなよ」

 

「ああ」

 

ザルドは中央の棍を両手で支え、ほんの僅かに持ち上げた。

 

その重量は、彼にとって何の問題にもならない。

 

だが、角度が変わった瞬間。

 

ぎ、と。

 

接続部から、金属が軋む嫌な音が響いた。

 

ザルドは即座に動きを止め、元の位置へ戻す。

 

「悪い」

 

「いや」

 

バンは歪んだ鎖を見つめた。

 

「やっぱ、振るうのも無理か」

 

「今の状態で使えば、鎖が切れる」

 

ザルドは亀裂の入った先端へ目を向ける。

 

「こちらも次の衝撃には耐えられんだろう」

 

「簡単に壊れるような奴じゃねぇんだけどな」

 

「何をした」

 

ザルドの問いに、バンは視線を逸らした。

 

「ちょっと無茶した」

 

「具体的に言え」

 

「片腕で、神器解放したまま戦った」

 

部屋が静かになる。

 

アルフィアの眉が僅かに寄った。

 

「神器解放?」

 

「ああ」

 

「初めて聞く言葉だ」

 

「そうだったか?」

 

「お前が神器と呼ぶ武器については、以前に少し聞いた」

 

アルフィアはクレシューズを指す。

 

「だが、詳しい説明は後だと、お前自身が話を打ち切った」

 

「ああ。そんなこともあったな」

 

「忘れるな」

 

「酒飲んでたからな」

 

「言い訳にならない」

 

ザルドがクレシューズを見る。

 

「神器解放とは、この武器の技か?」

 

「こいつに秘められてる、本来の力を引き出すもんだ」

 

「本来の力?」

 

「クレシューズの場合は《超集中力》だ。意識も身体も力も、全部まとめて限界まで集中させる」

 

バンは歪んだ鎖の近くへ指を置く。

 

触れはしない。

 

「射程も、速さも、正確さも一気に上がる。アンタレスの子供が多すぎたから、まとめて片づけるのに使った」

 

「子供だけを選んで攻撃したのか」

 

「ああ。封印の柱や石板まで壊したら面倒だったからな。子供と黒い根だけ狙った」

 

「片腕でか」

 

「右はまだ使い物にならなかったからな」

 

「馬鹿か」

 

アルフィアの声が低くなる。

 

「今さらだろ」

 

「その後も、本体との戦いを続けた」

 

「ああ」

 

「神器解放を使い、武器へ負担をかけた状態で?」

 

「途中で止めたけどな」

 

「止めた時点で、損傷には気づいていたのか」

 

「鎖が引っかかり始めたのは分かってた」

 

「それでも使った」

 

「使わなきゃ、アンタレスを仕留められなかった」

 

アルフィアの目が鋭くなる。

 

「だから壊していいと?」

 

「言ってねぇよ」

 

バンの声から、軽さが消えた。

 

「こいつを壊したかったわけじゃねぇ。でも、あそこで止まったら、アンタレスが地上へ出てた」

 

「だから、自分も武器も使い潰すのか」

 

「使い潰してねぇ」

 

バンはクレシューズを見る。

 

「こいつはまだ生きてる」

 

アルフィアは何かを言い返しかけた。

 

だが、声にはしなかった。

 

バンが一人でエルソスへ向かったことには、今も腹を立てている。

 

傷ついて戻ったことも。

 

クレシューズを壊したことも。

 

それでも、アンタレスを放置すれば何が起きていたのかは、アルフィアにも理解できていた。

 

「神器についての詳しい話は?」

 

ザルドが尋ねる。

 

バンは頭を掻く。

 

「オラリオに着いてからでいいだろ」

 

「また後回しか」

 

「一度に話すと長ぇんだよ」

 

「酒を飲みながらなら話せるか?」

 

「いい酒があるならな」

 

「では、オラリオで用意させよう」

 

「話が分かるじゃねぇか」

 

「お前の話を聞くためではない。俺が飲むためだ」

 

「結局そっちかよ」

 

アルフィアが机を指で軽く叩く。

 

「話を逸らすな。今必要なのは、この武器を直せるかどうかだ」

 

「町の鍛冶屋じゃ無理か?」

 

「無理だろう」

 

ザルドが答えた。

 

「鎖だけを交換すれば済むような武器ではない」

 

「見ただけで分かるのか?」

 

「今の説明を聞けばな」

 

ザルドは四つの棍を見渡す。

 

「この武器は、お前の力を受け止め、正確に通すためのものだ。ならば棍、鎖、接続部、その全てが一つの仕組みとして作られている可能性が高い」

 

「別の鎖をつけたら、そこで力が止まるか」

 

「それで済めばいい」

 

アルフィアが続ける。

 

「流れが乱れ、無事な部分まで壊れる可能性もある。構造も分からずに外部から魔力を流し込むのも危険だ」

 

アルフィアは調査のためであっても、クレシューズへ自分の魔力を触れさせようとはしなかった。

 

「これを作った者は?」

 

「ダブズって鍛冶師だ」

 

「この世界にいるのか」

 

「いねぇよ。オレの世界の奴だ」

 

「人間か?」

 

「巨人族」

 

ザルドとアルフィアの視線が止まる。

 

「巨人族?」

 

アルフィアが聞き返した。

 

「聞いたことねぇのか?」

 

「ダンジョンには、巨人のような大型の魔物もいる」

 

ザルドが答える。

 

「だが、人の一種としての巨人族など知らん」

 

「魔物じゃねぇよ」

 

バンは椅子の背へ身体を預ける。

 

「オレの世界にいる種族だ。人間みてぇに喋って、町や国を作って暮らしてる。大抵は人間よりずっとでかくて、力も強ぇ」

 

「そのダブズも巨大なのか」

 

「いや。あいつは巨人族の中じゃ、かなり小柄だ」

 

「どの程度だ?」

 

「百七十から百八十くらいだったはずだな」

 

ザルドが、自分の巨体を見下ろす。

 

二メートルを大きく超える彼より、遥かに小さい。

 

「俺より小さいではないか」

 

「オレと大して変わらねぇぞ」

 

「それで巨人族なのか」

 

「生まれが巨人族なら、背が低くても巨人族だろ」

 

「名前と姿が一致しない」

 

「オレに言うなよ」

 

バンは笑い、クレシューズへ視線を戻した。

 

「身体は小せぇけど、鍛冶の腕はとんでもねぇ。こいつを同じように作れる奴は、たぶんほかにいねぇよ」

 

「修理できる者も、そのダブズだけか」

 

「元の世界なら、あいつか、知り合いの魔術師に頼んだだろうな」

 

「戻る手段は?」

 

「ねぇから困ってんだよ」

 

ザルドが腕を組み直す。

 

「ならば、オラリオへ持ち込むしかない」

 

「直せる奴がいるのか?」

 

「ヘファイストス」

 

アルフィアが名を口にした。

 

「鍛冶を司る女神だ」

 

「神が鍛冶屋をやってんのか?」

 

「下界では神威を封じている。だが、知識と技術まで失われるわけではない」

 

「腕は?」

 

「オラリオで、あれ以上の者はいない」

 

ザルドが続ける。

 

「直せると断言はできん。異世界の鍛冶師が作った、未知の構造を持つ武器だ」

 

「鍛冶神でも無理かもしれねぇのか」

 

「当然だ」

 

アルフィアは冷たく答える。

 

「神なら何でもできると思うな。下界で神威は使えない。それに、別の職人が作った武器を、構造も知らずに打ち直せば、本来の仕組みを壊す可能性がある」

 

「それでも見せる価値はある」

 

ザルドが言う。

 

「壊さずに状態を見極められる者がいるとすれば、まずヘファイストスだ」

 

「直す前に、触っていい武器なのか判断してもらうってことか」

 

「ああ」

 

バンはしばらくクレシューズを見つめた。

 

直せるとは限らない。

 

世界最高峰の鍛冶神であっても、手をつけられない可能性がある。

 

作り手は別の世界。

 

帰る方法もない。

 

それでも。

 

何もせず、壊れた相棒を眺め続けるよりはましだった。

 

「そいつ、オラリオにいるんだな?」

 

「いる」

 

「会わせてくれ」

 

「話を通す」

 

アルフィアは答えた。

 

「ただし、ヘファイストスが無理だと判断したなら、脅すな」

 

「しねぇよ」

 

「盗むな」

 

「何をだよ」

 

「炉、道具、素材、金」

 

「オレを何だと思ってんだ?」

 

「盗賊」

 

即答だった。

 

「否定できねぇな」

 

ザルドが壁際に置かれた包みを見る。

 

「名もない結晶も持っていくべきだろう」

 

「クレシューズに使うのか?」

 

「使えると決まったわけではない」

 

アルフィアが釘を刺す。

 

「二つの力が混在した正体不明の物体だ。むしろ武器へ近づけるべきではない可能性もある」

 

「じゃあ何で持ってく?」

 

「判断できる者へ見せるためだ」

 

「ヘファイストスなら、こいつのことも分かるか?」

 

「鍛冶素材としての性質なら、私より正確に見極めるだろう。銀色の力の正体まで分かるとは限らない」

 

「十分だ」

 

ザルドが顎へ手を当てる。

 

「強度を補う素材が必要なら、ベヒーモスの角も候補になる」

 

「あのでけぇ角か」

 

「ああ。討伐後に残った巨大角は、ゼウスとヘラの両ファミリアが回収している」

 

「オラリオまで運ぶのか?」

 

「加工や調査に使える部分はな。俺たちが着く頃には、保管場所へ届いているだろう」

 

「少しくらいもらえるか?」

 

「討伐者のお前が、自分の武器の修復へ使うなら、反対する者はいない」

 

ザルドはクレシューズの亀裂を見る。

 

「角の芯は外側より密度が高い。ベヒーモス自身の突進と力に耐えていた部分だ。補強材として使える可能性はある」

 

「名もない結晶と、ベヒーモスの角芯か」

 

「候補にすぎない」

 

アルフィアが言う。

 

「使うと決めるのはヘファイストスだ。お前が勝手に押しつけるな」

 

「そこまで馬鹿じゃねぇよ」

 

「お前は自分を過大評価しすぎている」

 

「ひでぇな」

 

「事実だ」

 

バンは小さく笑った。

 

それから、机の上に横たわるクレシューズへ手を伸ばす。

 

損傷した先端ではない。

 

歪んだ鎖でもない。

 

何度も握ってきた中央の柄。

 

指先で、そっと触れる。

 

「悪かったな」

 

神器は答えない。

 

いつものように手の中で踊ることもない。

 

「もう少し待ってろ」

 

バンの声は静かだった。

 

「必ず直してやる」

 

その瞬間。

 

亀裂の奥で、ほんの僅かな光が瞬いた。

 

バンだけではない。

 

アルフィアも。

 

ザルドも見ていた。

 

「今のは何だ」

 

アルフィアが問う。

 

「さあな」

 

「お前が触れた直後に光った」

 

「こいつも、直せって言ってんじゃねぇの?」

 

「武器が喋るか」

 

「声は出してねぇだろ」

 

「同じことだ」

 

ザルドがクレシューズを見つめる。

 

「少なくとも、完全に力を失ってはいない」

 

「ああ」

 

バンの口元が上がる。

 

「こいつは、そんな簡単にくたばらねぇよ」

 

アルフィアは深く息を吐き、布を広げた。

 

「今日はここまでだ。包み直す」

 

「もうちょっと見てもいいだろ」

 

「駄目だ。亀裂が広がる」

 

「触っただけだぞ」

 

「お前は触っただけで余計なことを起こす」

 

「信用ねぇなぁ」

 

「あると思ったのか?」

 

バンは反論せず、クレシューズから手を離した。

 

ザルドが中央を支え。

 

アルフィアが歪んだ鎖と先端を避けながら、厚い布を巻いていく。

 

一巻き。

 

二巻き。

 

三巻き。

 

最後に革紐で固定した。

 

「これを運ぶための背負い袋が必要だな」

 

ザルドが言った。

 

「布で括ればいいだろ」

 

「駄目だ」

 

アルフィアが即座に否定する。

 

「クレシューズを揺らすな。結晶とも接触させるな。内部を分けられる丈夫な袋を買う」

 

「高そうだな」

 

バンは赤いコートの内側へ手を入れ、残っていた硬貨を机へ並べた。

 

銅貨が数枚。

 

銀貨が一枚。

 

三人が黙って硬貨を見る。

 

「足りるか?」

 

「無理だ」

 

「即答かよ」

 

「俺が払う」

 

ザルドが言った。

 

「いいのか?」

 

「貸しだ」

 

「返す当てねぇぞ」

 

「オラリオで飯を奢れ」

 

「そんなんでいいのか?」

 

「お前の分は自分で払え」

 

「それ、オレが一番損してねぇ?」

 

「当然だ」

 

アルフィアの視線が、バンの赤いコートへ移る。

 

裂けた裾。

 

脇腹に開いた穴。

 

血と砂に汚れた布。

 

「袋だけではない」

 

「まだ何か買うのか?」

 

「その服を直せ」

 

「着られるぞ」

 

「みすぼらしい」

 

「風通しが良くなった」

 

「私たちの隣を歩くな」

 

「そこまで言うか?」

 

「オラリオへ入る前に修繕しろ」

 

「金ねぇぞ」

 

バンの視線がザルドへ向く。

 

「袋だけだ」

 

「じゃあ、アルフィア」

 

「なぜ私を見る」

 

「みすぼらしいんだろ?」

 

アルフィアはしばらく無言でバンを睨んだ。

 

「……私が払う」

 

「優しいじゃねぇか」

 

「取り消す」

 

「悪かった。頼む」

 

「謝罪が軽い」

 

「ちゃんと着るからよ」

 

「当たり前だ。お前のためではない。同行者として見苦しいから直させるだけだ」

 

ザルドが僅かに笑う。

 

「明日は忙しくなるな」

 

「仕立屋と旅道具店か」

 

「保存食も補充する」

 

「酒は?」

 

「不要だ」

 

アルフィアが言い切った。

 

「必要だろ」

 

「水を買え」

 

「酒も水分だぞ」

 

「違う」

 

机の上には、再び包まれたクレシューズ。

 

壁際には、名もない結晶。

 

直す方法は、まだ分からない。

 

ヘファイストスが手をつけられる保証もない。

 

黒紫色の結晶が何なのかも。

 

その内側で揺れる銀色の光が、いつまでアンタレスの力を抑えていられるのかも分からない。

 

それでも。

 

進むべき場所は決まった。

 

迷宮都市オラリオ。

 

鍛冶神ヘファイストスのいる都市。

 

バンはクレシューズの包みへ軽く手を置いた。

 

「もう少し我慢しろよ」

 

布の奥から。

 

ちり、と。

 

四つの棍を繋ぐ鎖が、小さく鳴った。

 

三人の視線が、同時に包みへ向く。

 

「今、動かしたか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「手を置いただけだ」

 

「開けるな」

 

アルフィアがすぐに言った。

 

「返事したのかもしれねぇぞ」

 

「馬鹿なことを言うな」

 

「相棒なんでな」

 

「相棒なら、二度と壊れるまで使うな」

 

「善処する」

 

「その答えは信用できない」

 

バンは笑う。

 

布の奥から、二度目の音は聞こえなかった。

 

だが、それで十分だった。

 

傷ついた相棒を背負い。

 

名もない結晶を携え。

 

三人は、遠いオラリオへ向かう。

 

クレシューズを救うための旅が、静かに始まろうとしていた。




今回は、アンタレスが残した名もない結晶と、損傷したクレシューズを三人で確認する回でした。

《神器解放》については損傷原因を理解するための最低限に留め、バンの過去や神器の詳しい話は、まだ語られない形にしています。
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