翌朝。
リオードの宿、その二階にある一室には、朝の市場から届く喧騒が薄く響いていた。
荷車が石畳を軋ませる音。
隊商の荷獣につけられた鈴。
通りを行き交う商人たちの声。
窓を閉めても、オアシス交易都市の活気までは遮れない。
だが、部屋の中にいる三人は、誰も外を見ていなかった。
中央に置かれた机。
その上には、二つのものが並んでいる。
一つは、幾重にも布を巻かれた聖棍クレシューズ。
もう一つは、バンがエルソス遺跡から持ち帰った黒紫色の結晶だった。
人の頭ほどの大きさ。
全体は黒に近い紫色で、表面には鋭く割れたような箇所と、磨かれた宝石のように滑らかな箇所が混在している。
朝日を受けても、ほとんど光を返さない。
それでも、結晶の内部には淡い銀色の光が浮かんでいた。
暗い紫の底を、細い月明かりがゆっくりと巡っている。
時折、黒紫色の力が内側から脈打つ。
そのたびに銀色の光が強まり、禍々しい脈動を押し戻していた。
「触るな」
アルフィアが言った。
結晶へ伸びかけていたバンの指が止まる。
「まだ触ってねぇだろ」
「触ろうとした」
「昨日は素手で持って帰ってきたぞ」
「それを聞くたびに腹が立つ」
「何も起きなかったからいいじゃねぇか」
「結果だけで愚行を正当化するな」
バンは肩を竦め、椅子へ座り直した。
昨日まで布で吊っていた右腕は、もう自由に動いている。
肩を回しても。
拳を握っても。
深く裂けていた脇腹を捻っても、目立った痛みは残っていない。
煉獄を越えた肉体は、不死ではなくなった今も、人間の常識から大きく外れていた。
だが、赤いコートは別だ。
裾は裂け、脇腹には大きな穴が開き、乾いた血と泥が染みついている。
身体だけが先に元へ戻り、その上へ戦いの残骸を着ているような姿だった。
アルフィアはバンから視線を外し、結晶の上へ右手をかざした。
「少しだけ探る」
「割るなよ」
「お前と一緒にするな」
指先から、ごく細い魔力が伸びる。
結晶へ流し込むのではない。
表面へ触れるか触れないかの位置をなぞり、外側に残る力の性質だけを慎重に探っていく。
ザルドは机の反対側に立ち、腕を組んで見守っていた。
アルフィアの魔力が、黒紫色の表面へ触れる。
その瞬間。
結晶の奥で、暗い光が脈打った。
部屋の温度が僅かに下がる。
結晶の下にある机の木目が、中心から白く乾き始めた。
窓辺に置かれていた小さな花瓶。
そこに挿されていた花が、ゆっくりと項垂れる。
「アルフィア」
ザルドの声が低くなる。
「分かっている」
アルフィアは即座に魔力を引いた。
直後。
結晶の中心に漂っていた銀色の光が、一度だけ強く輝いた。
黒紫色の脈動が内側へ押し戻される。
机の乾燥も止まった。
萎れかけた花も、それ以上は変化しない。
部屋に満ちかけていた冷気が、少しずつ消えていく。
「今のは、アンタレスと同じ力か?」
バンが尋ねる。
「ああ」
アルフィアは結晶から手を離した。
「生命力を奪い、自分の糧へ変える性質がある。遺跡の地下に満ちていた力と近い」
「やっぱ、あのでけぇ蠍の残りか」
「アンタレスに由来するのは間違いない。だが、何の部位だったのかまでは分からない」
「核じゃねぇのか?」
「お前が破壊した核とは別物だろう。力を蓄積する器官か、核の周囲に形成されていた結晶の一部か」
ザルドが結晶の内側を覗き込む。
「銀色の方は?」
「分からない」
アルフィアは迷わず答えた。
「黒紫色の力を抑えている。それだけは確かだ」
「月みてぇな奴の力じゃねぇのか?」
バンの言葉に、アルフィアの視線が向いた。
「根拠は?」
「似てるからな」
「それだけか」
「十分だろ」
「足りない」
アルフィアは銀色の光へ顔を向ける。
「お前が遺跡で見た存在と関係する可能性はある。だが、似ているというだけで同じものと断定するな」
「消えかけてたから、少し力を分けたんだよ」
「その結果、これが生まれたのか?」
「さあな。こいつはアンタレスが崩れた後に残ってた。月みてぇな奴が消えた時には、もう光ってたと思うぜ」
「思う、では困る」
「戦いが終わったばっかで、細かいとこまで見てられっかよ」
「だから一人で行くなと言った」
「またそこへ戻るのか?」
「何度でも戻る」
バンは口元を上げる。
「元気そうで何よりだな」
「お前を殴れる程度にはな」
ザルドが低く笑う。
アルフィアは二人を無視し、厚手の布を広げた。
「銀色の力が抑えている間は、すぐに周囲へ害を及ぼすことはない」
「銀の方が消えたら?」
ザルドが尋ねる。
「アンタレスの力が外へ漏れ出す可能性がある」
「町へ置いていくのも危険か」
「誰かが拾えば同じだ。遺跡へ戻したところで、安全とは限らない」
一枚目の布。
二枚目の布。
その上から薄い革を巻き、革紐で固く縛っていく。
「正体が分かるまでは、直接触れるな。魔力も流すな」
「オレの拾ったもんなんだけどな」
「災厄の残骸を自慢するな」
「売ったら高そうだぞ」
「売るな」
即答だった。
「冗談だって」
「お前の場合、冗談で済まない」
包み終えた結晶を、アルフィアは机から離れた壁際へ移した。
その手が止まる。
机の上に残された、もう一つの包み。
聖棍クレシューズ。
バンの顔から、僅かに笑みが消えた。
「次はこいつか」
「ああ」
アルフィアはすぐには触れない。
「開けろ」
「慎重にな」
「それをお前が言うのか」
「こいつのことだからな」
バンは革紐へ指を掛けた。
一つずつ結び目を解く。
布を無理に引かず。
内部の鎖へ絡ませず。
いつもの雑な手つきからは想像できないほど、ゆっくりと包みを外していく。
やがて。
四つの棍と、それぞれを繋ぐ鎖が姿を現した。
両端の先端は鋭く尖り、殴打だけでなく、斬撃や刺突にも使える形をしている。
本来なら、バンの意思に従って鎖が伸び、四つの節が予測不能な軌道を描く。
遠く離れた敵へ。
死角へ。
視界の外へ。
持ち主の《強奪》を届けるための神器。
だが、今のクレシューズには、アンタレスとの戦いで受けた傷が深く残っていた。
一つの鎖が強く引き伸ばされ、環が細長く歪んでいる。
接続部も捻れ、正しい角度へ戻らない。
アンタレスの核を貫いた先端には、一本の深い亀裂。
表面だけではない。
ひびは先端から内部へ食い込み、棍の奥まで続いているように見えた。
ザルドが身体を屈める。
「昨日より、亀裂が広がっていないか」
「オレもそう思ってた」
「触れてもいいか」
「中央だけにしろ。鎖は引っ張るなよ」
「ああ」
ザルドは中央の棍を両手で支え、ほんの僅かに持ち上げた。
その重量は、彼にとって何の問題にもならない。
だが、角度が変わった瞬間。
ぎ、と。
接続部から、金属が軋む嫌な音が響いた。
ザルドは即座に動きを止め、元の位置へ戻す。
「悪い」
「いや」
バンは歪んだ鎖を見つめた。
「やっぱ、振るうのも無理か」
「今の状態で使えば、鎖が切れる」
ザルドは亀裂の入った先端へ目を向ける。
「こちらも次の衝撃には耐えられんだろう」
「簡単に壊れるような奴じゃねぇんだけどな」
「何をした」
ザルドの問いに、バンは視線を逸らした。
「ちょっと無茶した」
「具体的に言え」
「片腕で、神器解放したまま戦った」
部屋が静かになる。
アルフィアの眉が僅かに寄った。
「神器解放?」
「ああ」
「初めて聞く言葉だ」
「そうだったか?」
「お前が神器と呼ぶ武器については、以前に少し聞いた」
アルフィアはクレシューズを指す。
「だが、詳しい説明は後だと、お前自身が話を打ち切った」
「ああ。そんなこともあったな」
「忘れるな」
「酒飲んでたからな」
「言い訳にならない」
ザルドがクレシューズを見る。
「神器解放とは、この武器の技か?」
「こいつに秘められてる、本来の力を引き出すもんだ」
「本来の力?」
「クレシューズの場合は《超集中力》だ。意識も身体も力も、全部まとめて限界まで集中させる」
バンは歪んだ鎖の近くへ指を置く。
触れはしない。
「射程も、速さも、正確さも一気に上がる。アンタレスの子供が多すぎたから、まとめて片づけるのに使った」
「子供だけを選んで攻撃したのか」
「ああ。封印の柱や石板まで壊したら面倒だったからな。子供と黒い根だけ狙った」
「片腕でか」
「右はまだ使い物にならなかったからな」
「馬鹿か」
アルフィアの声が低くなる。
「今さらだろ」
「その後も、本体との戦いを続けた」
「ああ」
「神器解放を使い、武器へ負担をかけた状態で?」
「途中で止めたけどな」
「止めた時点で、損傷には気づいていたのか」
「鎖が引っかかり始めたのは分かってた」
「それでも使った」
「使わなきゃ、アンタレスを仕留められなかった」
アルフィアの目が鋭くなる。
「だから壊していいと?」
「言ってねぇよ」
バンの声から、軽さが消えた。
「こいつを壊したかったわけじゃねぇ。でも、あそこで止まったら、アンタレスが地上へ出てた」
「だから、自分も武器も使い潰すのか」
「使い潰してねぇ」
バンはクレシューズを見る。
「こいつはまだ生きてる」
アルフィアは何かを言い返しかけた。
だが、声にはしなかった。
バンが一人でエルソスへ向かったことには、今も腹を立てている。
傷ついて戻ったことも。
クレシューズを壊したことも。
それでも、アンタレスを放置すれば何が起きていたのかは、アルフィアにも理解できていた。
「神器についての詳しい話は?」
ザルドが尋ねる。
バンは頭を掻く。
「オラリオに着いてからでいいだろ」
「また後回しか」
「一度に話すと長ぇんだよ」
「酒を飲みながらなら話せるか?」
「いい酒があるならな」
「では、オラリオで用意させよう」
「話が分かるじゃねぇか」
「お前の話を聞くためではない。俺が飲むためだ」
「結局そっちかよ」
アルフィアが机を指で軽く叩く。
「話を逸らすな。今必要なのは、この武器を直せるかどうかだ」
「町の鍛冶屋じゃ無理か?」
「無理だろう」
ザルドが答えた。
「鎖だけを交換すれば済むような武器ではない」
「見ただけで分かるのか?」
「今の説明を聞けばな」
ザルドは四つの棍を見渡す。
「この武器は、お前の力を受け止め、正確に通すためのものだ。ならば棍、鎖、接続部、その全てが一つの仕組みとして作られている可能性が高い」
「別の鎖をつけたら、そこで力が止まるか」
「それで済めばいい」
アルフィアが続ける。
「流れが乱れ、無事な部分まで壊れる可能性もある。構造も分からずに外部から魔力を流し込むのも危険だ」
アルフィアは調査のためであっても、クレシューズへ自分の魔力を触れさせようとはしなかった。
「これを作った者は?」
「ダブズって鍛冶師だ」
「この世界にいるのか」
「いねぇよ。オレの世界の奴だ」
「人間か?」
「巨人族」
ザルドとアルフィアの視線が止まる。
「巨人族?」
アルフィアが聞き返した。
「聞いたことねぇのか?」
「ダンジョンには、巨人のような大型の魔物もいる」
ザルドが答える。
「だが、人の一種としての巨人族など知らん」
「魔物じゃねぇよ」
バンは椅子の背へ身体を預ける。
「オレの世界にいる種族だ。人間みてぇに喋って、町や国を作って暮らしてる。大抵は人間よりずっとでかくて、力も強ぇ」
「そのダブズも巨大なのか」
「いや。あいつは巨人族の中じゃ、かなり小柄だ」
「どの程度だ?」
「百七十から百八十くらいだったはずだな」
ザルドが、自分の巨体を見下ろす。
二メートルを大きく超える彼より、遥かに小さい。
「俺より小さいではないか」
「オレと大して変わらねぇぞ」
「それで巨人族なのか」
「生まれが巨人族なら、背が低くても巨人族だろ」
「名前と姿が一致しない」
「オレに言うなよ」
バンは笑い、クレシューズへ視線を戻した。
「身体は小せぇけど、鍛冶の腕はとんでもねぇ。こいつを同じように作れる奴は、たぶんほかにいねぇよ」
「修理できる者も、そのダブズだけか」
「元の世界なら、あいつか、知り合いの魔術師に頼んだだろうな」
「戻る手段は?」
「ねぇから困ってんだよ」
ザルドが腕を組み直す。
「ならば、オラリオへ持ち込むしかない」
「直せる奴がいるのか?」
「ヘファイストス」
アルフィアが名を口にした。
「鍛冶を司る女神だ」
「神が鍛冶屋をやってんのか?」
「下界では神威を封じている。だが、知識と技術まで失われるわけではない」
「腕は?」
「オラリオで、あれ以上の者はいない」
ザルドが続ける。
「直せると断言はできん。異世界の鍛冶師が作った、未知の構造を持つ武器だ」
「鍛冶神でも無理かもしれねぇのか」
「当然だ」
アルフィアは冷たく答える。
「神なら何でもできると思うな。下界で神威は使えない。それに、別の職人が作った武器を、構造も知らずに打ち直せば、本来の仕組みを壊す可能性がある」
「それでも見せる価値はある」
ザルドが言う。
「壊さずに状態を見極められる者がいるとすれば、まずヘファイストスだ」
「直す前に、触っていい武器なのか判断してもらうってことか」
「ああ」
バンはしばらくクレシューズを見つめた。
直せるとは限らない。
世界最高峰の鍛冶神であっても、手をつけられない可能性がある。
作り手は別の世界。
帰る方法もない。
それでも。
何もせず、壊れた相棒を眺め続けるよりはましだった。
「そいつ、オラリオにいるんだな?」
「いる」
「会わせてくれ」
「話を通す」
アルフィアは答えた。
「ただし、ヘファイストスが無理だと判断したなら、脅すな」
「しねぇよ」
「盗むな」
「何をだよ」
「炉、道具、素材、金」
「オレを何だと思ってんだ?」
「盗賊」
即答だった。
「否定できねぇな」
ザルドが壁際に置かれた包みを見る。
「名もない結晶も持っていくべきだろう」
「クレシューズに使うのか?」
「使えると決まったわけではない」
アルフィアが釘を刺す。
「二つの力が混在した正体不明の物体だ。むしろ武器へ近づけるべきではない可能性もある」
「じゃあ何で持ってく?」
「判断できる者へ見せるためだ」
「ヘファイストスなら、こいつのことも分かるか?」
「鍛冶素材としての性質なら、私より正確に見極めるだろう。銀色の力の正体まで分かるとは限らない」
「十分だ」
ザルドが顎へ手を当てる。
「強度を補う素材が必要なら、ベヒーモスの角も候補になる」
「あのでけぇ角か」
「ああ。討伐後に残った巨大角は、ゼウスとヘラの両ファミリアが回収している」
「オラリオまで運ぶのか?」
「加工や調査に使える部分はな。俺たちが着く頃には、保管場所へ届いているだろう」
「少しくらいもらえるか?」
「討伐者のお前が、自分の武器の修復へ使うなら、反対する者はいない」
ザルドはクレシューズの亀裂を見る。
「角の芯は外側より密度が高い。ベヒーモス自身の突進と力に耐えていた部分だ。補強材として使える可能性はある」
「名もない結晶と、ベヒーモスの角芯か」
「候補にすぎない」
アルフィアが言う。
「使うと決めるのはヘファイストスだ。お前が勝手に押しつけるな」
「そこまで馬鹿じゃねぇよ」
「お前は自分を過大評価しすぎている」
「ひでぇな」
「事実だ」
バンは小さく笑った。
それから、机の上に横たわるクレシューズへ手を伸ばす。
損傷した先端ではない。
歪んだ鎖でもない。
何度も握ってきた中央の柄。
指先で、そっと触れる。
「悪かったな」
神器は答えない。
いつものように手の中で踊ることもない。
「もう少し待ってろ」
バンの声は静かだった。
「必ず直してやる」
その瞬間。
亀裂の奥で、ほんの僅かな光が瞬いた。
バンだけではない。
アルフィアも。
ザルドも見ていた。
「今のは何だ」
アルフィアが問う。
「さあな」
「お前が触れた直後に光った」
「こいつも、直せって言ってんじゃねぇの?」
「武器が喋るか」
「声は出してねぇだろ」
「同じことだ」
ザルドがクレシューズを見つめる。
「少なくとも、完全に力を失ってはいない」
「ああ」
バンの口元が上がる。
「こいつは、そんな簡単にくたばらねぇよ」
アルフィアは深く息を吐き、布を広げた。
「今日はここまでだ。包み直す」
「もうちょっと見てもいいだろ」
「駄目だ。亀裂が広がる」
「触っただけだぞ」
「お前は触っただけで余計なことを起こす」
「信用ねぇなぁ」
「あると思ったのか?」
バンは反論せず、クレシューズから手を離した。
ザルドが中央を支え。
アルフィアが歪んだ鎖と先端を避けながら、厚い布を巻いていく。
一巻き。
二巻き。
三巻き。
最後に革紐で固定した。
「これを運ぶための背負い袋が必要だな」
ザルドが言った。
「布で括ればいいだろ」
「駄目だ」
アルフィアが即座に否定する。
「クレシューズを揺らすな。結晶とも接触させるな。内部を分けられる丈夫な袋を買う」
「高そうだな」
バンは赤いコートの内側へ手を入れ、残っていた硬貨を机へ並べた。
銅貨が数枚。
銀貨が一枚。
三人が黙って硬貨を見る。
「足りるか?」
「無理だ」
「即答かよ」
「俺が払う」
ザルドが言った。
「いいのか?」
「貸しだ」
「返す当てねぇぞ」
「オラリオで飯を奢れ」
「そんなんでいいのか?」
「お前の分は自分で払え」
「それ、オレが一番損してねぇ?」
「当然だ」
アルフィアの視線が、バンの赤いコートへ移る。
裂けた裾。
脇腹に開いた穴。
血と砂に汚れた布。
「袋だけではない」
「まだ何か買うのか?」
「その服を直せ」
「着られるぞ」
「みすぼらしい」
「風通しが良くなった」
「私たちの隣を歩くな」
「そこまで言うか?」
「オラリオへ入る前に修繕しろ」
「金ねぇぞ」
バンの視線がザルドへ向く。
「袋だけだ」
「じゃあ、アルフィア」
「なぜ私を見る」
「みすぼらしいんだろ?」
アルフィアはしばらく無言でバンを睨んだ。
「……私が払う」
「優しいじゃねぇか」
「取り消す」
「悪かった。頼む」
「謝罪が軽い」
「ちゃんと着るからよ」
「当たり前だ。お前のためではない。同行者として見苦しいから直させるだけだ」
ザルドが僅かに笑う。
「明日は忙しくなるな」
「仕立屋と旅道具店か」
「保存食も補充する」
「酒は?」
「不要だ」
アルフィアが言い切った。
「必要だろ」
「水を買え」
「酒も水分だぞ」
「違う」
机の上には、再び包まれたクレシューズ。
壁際には、名もない結晶。
直す方法は、まだ分からない。
ヘファイストスが手をつけられる保証もない。
黒紫色の結晶が何なのかも。
その内側で揺れる銀色の光が、いつまでアンタレスの力を抑えていられるのかも分からない。
それでも。
進むべき場所は決まった。
迷宮都市オラリオ。
鍛冶神ヘファイストスのいる都市。
バンはクレシューズの包みへ軽く手を置いた。
「もう少し我慢しろよ」
布の奥から。
ちり、と。
四つの棍を繋ぐ鎖が、小さく鳴った。
三人の視線が、同時に包みへ向く。
「今、動かしたか?」
ザルドが尋ねる。
「手を置いただけだ」
「開けるな」
アルフィアがすぐに言った。
「返事したのかもしれねぇぞ」
「馬鹿なことを言うな」
「相棒なんでな」
「相棒なら、二度と壊れるまで使うな」
「善処する」
「その答えは信用できない」
バンは笑う。
布の奥から、二度目の音は聞こえなかった。
だが、それで十分だった。
傷ついた相棒を背負い。
名もない結晶を携え。
三人は、遠いオラリオへ向かう。
クレシューズを救うための旅が、静かに始まろうとしていた。
今回は、アンタレスが残した名もない結晶と、損傷したクレシューズを三人で確認する回でした。
《神器解放》については損傷原因を理解するための最低限に留め、バンの過去や神器の詳しい話は、まだ語られない形にしています。