翌朝。
リオードの空には、薄い雲ひとつなかった。
白く乾いた街路へ朝日が差し込み、オアシスから運ばれてきた水が石造りの水路を静かに流れている。
市場へ続く大通りでは、すでに隊商たちが動き始めていた。
荷獣へ木箱を積む者。
水袋の口を確かめる者。
車輪へ油を塗る者。
出発前の慌ただしさが、街のあちこちに満ちている。
宿の一室でも、三人の旅支度が始まっていた。
「持ったか?」
「ああ」
ザルドの問いに、バンは背中を向けたまま答えた。
赤いコートの上から、布で包まれたクレシューズを背負っている。
ただし、いつものように革帯で雑に括りつけているわけではない。
厚手の布を何重にも巻き、歪んだ鎖と亀裂の入った先端へ負担がかからないよう、ザルドが紐の位置を細かく調整していた。
黒紫色の結晶は、別の革袋へ入れられている。
こちらはアルフィアが持っていた。
クレシューズと結晶を近づけないための、今日だけの応急処置だ。
「歩くぞ」
ザルドが言う。
「どこまで?」
「部屋の中を一周しろ」
「狭ぇだろ」
「いいから歩け」
バンは肩を竦め、机と寝台の間をゆっくり歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
背中の包みが僅かに揺れる。
そのたびに、布の奥から金属が触れ合うかすかな音がした。
「止まれ」
アルフィアの声が飛ぶ。
バンが足を止める。
「今、鳴ったな」
「少しくらい鳴るだろ」
「鳴らないように運ぶための袋を買う」
「布でも十分じゃねぇか?」
「不十分だ」
アルフィアは即答した。
「オラリオまで何日かかると思っている。街道だけを歩くとは限らない。雨も降る。獣に襲われる可能性もある。転ぶ可能性もある」
「オレが?」
「お前は平地でも余計なことをして転びそうだ」
「そんな間抜けじゃねぇよ」
「昨日、結晶を素手で持ち帰った男の言葉に説得力はない」
「まだ言うのか」
「一生言う」
バンは何かを返そうとしたが、ザルドに背中の包みを外された。
「今日は、まず仕立屋だ」
「袋が先じゃねぇの?」
「コートを預けている間に袋を選ぶ」
「手際いいな」
「お前に任せれば、入口にある一番安い袋を買って終わる」
「使えりゃいいだろ」
「神器と正体不明の結晶を、薄い布袋へ入れる気か?」
「中に毛布を詰めりゃ――」
「駄目だ」
アルフィアの声が重なる。
「まだ最後まで言ってねぇぞ」
「聞く価値がない」
バンは頭を掻いた。
「朝から元気だな、お前」
「お前のせいだ」
アルフィアは結晶の入った袋を持ち上げ、扉へ向かう。
「早く来い。市場が混む」
「へいへい」
「返事は一度だ」
「へい」
「馬鹿にしているのか」
「してねぇよ」
ザルドは二つの包みを抱え、二人の後を追った。
◇
仕立屋は、市場から一本外れた細い通りにあった。
店先には、砂よけの外套や頭布、革手袋が吊るされている。
扉を開けると、乾いた布と染料の匂いが鼻へ届いた。
「いらっしゃい」
店の奥から現れたのは、小柄な老女だった。
銀色の髪を後ろでまとめ、首から針山を下げている。
老女は三人を見回し、最後にバンの赤いコートへ目を留めた。
「まあ」
短い声。
それだけで、コートの状態をすべて理解したようだった。
「よくそこまで破いて、まだ着ているね」
「気に入ってんだよ」
「服の方は、あんたを気に入っていないかもしれないねぇ」
老女が裾を摘む。
アンタレスの根に裂かれた脇腹。
砕けた石の上を転がった時に擦れた肩。
乾いた血が染み込み、硬くなった布。
生命力を奪われた場所は、繊維そのものが脆くなっていた。
老女が軽く引くだけで、細い糸が何本か切れる。
「縫うだけじゃ駄目だね」
「新しいのを買えってことか?」
「全部捨てる必要はないさ。傷んだところを切り取って、別の布を当てる」
バンが眉を寄せた。
「色、変わるか?」
「まったく同じ赤は難しいね」
「なら、これでいい」
バンはコートを引き戻そうとする。
その手を、アルフィアが叩いた。
「直せ」
「色が変わるぞ」
「汚れと血で、すでに元の色ではない」
「味があるだろ」
「不潔なだけだ」
アルフィアは棚に並んだ布を見た。
明るい朱。
深い赤。
黒に近い臙脂。
砂漠用に織られた丈夫な布は、どれも目が細かく、触れると見た目以上に厚い。
アルフィアは臙脂色の一枚を取った。
「これを使え」
「勝手に決めんなよ」
「元の色に近い」
「こっちの方が派手でいいだろ」
バンは明るい朱色を指す。
「似合わない」
「着るのはオレだぞ」
「見るのは周囲だ」
「ひでぇ理屈だな」
老女は二人のやり取りを眺めながら笑っていた。
「臙脂の方がいいよ。古い赤にも馴染む」
「二対一かよ」
「俺も臙脂だな」
ザルドが言った。
「三対一になったぞ」
「お前まで入ってくんな」
「旅装は目立ちすぎない方がいい」
「この赤いコート着てる時点で今さらだろ」
老女は臙脂色の布と、薄い革を机へ置いた。
「肩と脇腹の内側に、革を仕込んでおこうか。表からは見えない。少し重くなるが、爪や小さな刃には強くなる」
「別にいらねぇよ」
「入れろ」
アルフィアが言った。
「金出すからって好き勝手すんなよ」
「次に破れば、また私が金を払うことになる」
「次は自分で払うって」
「今のお前に所持金はいくらある」
バンは黙った。
赤いコートの内側へ手を入れ、硬貨を数える。
銅貨が数枚。
銀貨が一枚。
昨日と変わっていない。
「……少しある」
「足りない」
「まだ値段聞いてねぇだろ」
「足りない顔をしている」
「顔で分かるのかよ」
「分かる」
アルフィアは老女へ修繕代を尋ね、その場で硬貨を渡した。
バンが横から覗き込む。
「結構するな」
「お前が破いた範囲が広いからだ」
「アンタレスに請求しろよ」
「倒したのはお前だ」
「じゃあ払えねぇな」
バンは赤いコートを脱いだ。
中に着ていた服も破れていたため、店に置かれていた簡素な上着を借りる。
老女はコートを机へ広げ、白い粉で切り取る範囲を示していった。
「裾は少し整えるよ」
「短くすんなよ」
「長さはなるべく残す。ただ、裂けたまま無理に縫うと、そこからまた破れる」
「古い傷は?」
「残すさ」
老女は、以前に修繕された継ぎ当てを指でなぞる。
「全部を新品みたいに消したら、これはもう別の服になる」
バンの目が、僅かに細くなる。
「分かってんじゃねぇか」
「長く仕立屋をやっているからね。服を直したい人と、服を作り直したい人の違いくらいは分かるよ」
「じゃあ頼む」
「夕方には仕上げる」
「早ぇな」
「急ぎの割増料金を、そこのお嬢さんが払ったからね」
バンがアルフィアを見る。
「急ぎじゃなくてもよかったぞ」
「明日もこの店へ来る手間が増える」
「一日くらい――」
「黙れ」
アルフィアは先に店を出た。
「機嫌悪いな」
「お前が礼を言わないからだろう」
ザルドが言う。
「後で言うよ」
「今言え」
バンは店の外へ顔を出す。
「アルフィア」
「何だ」
「ありがとな」
アルフィアは振り返らなかった。
「聞こえたか?」
「聞こえている」
「返事は?」
「必要ない」
「素直じゃねぇな」
「修繕代を取り消すぞ」
「悪かった」
老女の笑い声を背に、三人は旅道具店へ向かった。
◇
市場の中心部には、隊商向けの店がいくつも並んでいた。
水袋。
毛布。
天幕。
火打石。
折り畳み式の鍋。
荷獣用の鞍。
長旅に必要な品なら、ほとんど何でも揃う。
三人が入った店には、壁一面に背負い袋が掛けられていた。
「これでいいだろ」
バンが入口近くの袋を手に取る。
薄い麻布で作られた、小さな背負い袋だった。
アルフィアが縫い目を見る。
一呼吸。
「駄目だ」
「早すぎるだろ」
「底が薄い。縫い目も粗い。肩紐も細い」
「軽くていいじゃねぇか」
「中身ごと落としたいなら買え」
アルフィアは袋を棚へ戻した。
バンが別の革袋を取る。
「じゃあ、これ」
「小さい」
「こっちは?」
「仕切りがない」
「これなら?」
「金具が弱い」
「お前、買い物長いだろ」
「お前が雑すぎる」
ザルドは店の奥まで進み、縦長の背負い袋を下ろした。
砂色の厚い革。
底と四隅には、さらに濃い革が重ねられている。
身体へ触れる側には薄い木枠が入り、長い荷物を入れても背中へ直接当たらない。
内部は二つに分けられ、中央の仕切りは取り外しができる。
「これはどうだ」
アルフィアが中を確かめる。
片側は縦に長く、クレシューズを無理に折り畳まず収納できる。
反対側はやや幅が広く、結晶の包みを固定するための革紐が複数ついていた。
底には厚い毛織物を敷ける。
「悪くない」
「でけぇな」
バンが言う。
「必要な大きさだ」
「酒も入りそうだな」
「入れるな」
「空いた場所ならいいだろ」
「水と食料を入れろ」
「酒も食料みてぇなもんだぞ」
「違う」
店主が近づいてくる。
「長い武器を運ぶなら、こちらは隊商護衛にも人気があります。中の革紐で固定できますし、反対側は壊れ物用です」
「壊れ物か」
バンの目が、ザルドの抱える包みへ向く。
「今は間違っていない」
ザルドが答えた。
「試してもいいか?」
「どうぞ」
ザルドがクレシューズの包みを袋へ入れる。
四つの節を無理に曲げず、斜めにすれば収まった。
周囲へ丸めた布を入れ、革紐で三か所を固定する。
包みはほとんど動かない。
次に、反対側へ結晶を入れる。
底へ厚い毛布。
左右へ折り畳んだ革。
包みの上から革紐を交差させ、中央へ固定する。
クレシューズとの間には、革の仕切りと、さらに一枚の毛織物。
「これなら接触しない」
アルフィアが確認する。
「背負え」
ザルドが言った。
バンは肩紐へ腕を通した。
胸元の帯。
腰へ回す太い革帯。
すべてを締めると、重さが肩だけでなく、背中と腰へ分散される。
「思ったより軽いな」
「中身が軽いのではない。重さを逃がしている」
ザルドが肩紐の長さを調整する。
「歩いてみろ」
バンは店内をゆっくり進んだ。
一歩。
二歩。
方向を変える。
腰を捻る。
袋は身体へ沿って動き、中身が大きく揺れることはない。
「走ってみるか」
「やめろ」
アルフィアが言った。
「軽く飛ぶだけだ」
「やめろ」
「固定されてるか確認を――」
「やめろ」
三度目は、先ほどより低い声だった。
「分かったよ」
バンは大人しく戻ってくる。
ザルドが袋の側面を押し、中の包みが動いていないことを確かめた。
「これにしよう」
「値段は?」
店主が提示した額を聞き、バンの眉が上がる。
「高ぇな」
「安物を買って、途中で破れれば終わりだ」
ザルドが代金を払う。
バンはその横から、渡される硬貨を数えていた。
「随分払ったな」
「貸しだ」
「オラリオで飯を奢るんだったか」
「ああ」
「酒でもいいか?」
「飯だ」
「厳しいな」
「お前の酒代まで負担する気はない」
袋だけでは終わらなかった。
アルフィアは、小さな革袋を二つ選んだ。
一つは火打石や針、予備の革紐を入れるもの。
もう一つは包帯や薬草を入れるもの。
新しい水袋。
厚手の防水布。
予備の毛布。
小さな木製の箱。
「その箱は何だ?」
バンが尋ねる。
「結晶の周囲へ固定する」
「布だけでよくねぇか?」
「万が一、袋を落とした時のためだ」
「落とさねぇよ」
「お前の言葉は信用できない」
ザルドは調理用の小鍋と、保存食用の布袋を追加する。
バンは棚の端に吊るされた酒用の革袋へ手を伸ばした。
その手首を、左右から同時に掴まれる。
右はアルフィア。
左はザルド。
「何でだよ」
「不要だ」
「自分の金で買う」
「お前の金で買えば、飯代がなくなる」
「酒で腹を満たす」
「倒れるぞ」
「オレが?」
「普通の人間ならな」
ザルドが手を放し、酒袋を棚へ戻した。
「町を出る前に一本だけ買え。それ以上は持つな」
「一本?」
「小瓶だ」
「小さすぎるだろ」
「なら、なしだ」
「一本でいい」
「決まりだな」
ザルドの口元が僅かに上がった。
「嵌められた気がする」
「お前が単純なだけだ」
アルフィアも手を放す。
「必要なものは揃った。次へ行くぞ」
「まだ見るものあるのか?」
「食料だ」
「ザルドがいれば、その辺の魔物でも食えるだろ」
「旅の途中で毎日、食える魔物に出会うと思うな」
「出会ったら?」
「その時は食う」
ザルドの返事に、バンが笑った。
◇
昼過ぎ。
三人は市場の食料品店を巡っていた。
乾燥肉。
豆。
塩。
干した果物。
硬く焼いた旅用のパン。
薬草。
香辛料。
ザルドは一つひとつ手に取り、匂いを嗅ぎ、時には少量を口へ入れて確かめていた。
「これは駄目だ」
「何で?」
バンが乾燥肉を見る。
「塩が強すぎる。水を余計に使う」
「うまけりゃいいだろ」
「砂漠では、水の消費に直結する」
別の肉。
「これは?」
「脂が多い。長く持たん」
「じゃあ、これ」
「香辛料で古い臭いを誤魔化している」
「分かるのかよ」
「食えば分かる」
「食ってないだろ」
「匂いで分かる」
「料理人って面倒だな」
「お前が雑すぎる」
結局、ザルドが選んだのは、脂の少ない羊肉を塩と少量の香草で干したものだった。
豆は粒の揃ったもの。
パンは水で柔らかくして食べられる硬いもの。
干した果物は、棗椰子と薄く切った酸味の強い果実。
アルフィアは棗椰子の包みを一つ手に取る。
「それ、旅用か?」
バンが聞く。
「そうだ」
「甘い奴だろ」
「保存性が高い」
「蜂蜜も入ってるぞ」
「保存性が高い」
「好きなんだろ?」
「雑音だ」
アルフィアは包みを荷物へ入れた。
バンがにやついていると、別の棚へ押しやられる。
「邪魔だ」
「分かったって」
バンは店先に置かれた焼き菓子へ目を向けた。
小麦の生地に砕いた木の実を混ぜ、表面へ蜂蜜を塗って焼いたもの。
「これは旅用になるか?」
「今日中に食うならな」
ザルドが答える。
「じゃあ三つ」
「昼食を食べたばかりだろ」
「別腹だ」
「お前に別腹などあるのか。全部同じ場所へ入っているだろう」
アルフィアの言葉に、店主が吹き出した。
バンは気にせず菓子を三つ買い、一つをザルドへ投げる。
「食えよ」
「甘いな」
「食ってから言え」
ザルドは一口齧る。
少し考える。
「香ばしさは悪くない」
「だろ?」
「蜂蜜が多い」
「細けぇな」
残りの一つを、バンはアルフィアへ差し出した。
「いらない」
「旅用じゃなくて今日用だぞ」
「いらない」
「余ったらオレが食う」
アルフィアは少しだけ黙った。
それから、菓子を取り上げる。
「無駄にするな」
「食うなら無駄じゃねぇだろ」
「黙れ」
アルフィアは小さく一口齧った。
何も言わない。
だが、返そうともしなかった。
バンは満足そうに、自分の分を口へ放り込んだ。
◇
夕方。
三人は再び仕立屋を訪れた。
老女は、修繕を終えた赤いコートを両手で持っていた。
「できたよ」
バンは受け取る前に、全体を眺める。
元の赤い布は、可能な限り残されていた。
脇腹と肩の傷んだ部分には、臙脂色の布が当てられている。
内側には薄い革。
裂けた裾は形を整えられたが、長さはほとんど変わっていない。
古い継ぎ当て。
小さな傷。
長い旅の中で色の変わった場所。
それらも、消されずに残っている。
「着てみな」
バンは借りていた上着を脱ぎ、赤いコートへ腕を通した。
肩を回す。
腕を上げる。
身体を捻る。
革を入れた分、以前より僅かに硬い。
それでも動きを邪魔するほどではない。
むしろ重みが増したことで、身体へ落ち着くような感覚があった。
「どうだい?」
「いいな」
バンは袖を引き、襟を整える。
新品ではない。
戦いの跡も、古い傷も残っている。
それでも、また旅へ出られる姿に戻っていた。
「悪くない」
アルフィアが言った。
「それ、褒めてんのか?」
「みすぼらしくはなくなった」
「もう一声」
「黙れ」
「十分だろう」
ザルドがコートの肩を確かめる。
「前より丈夫になっている」
「次に蠍と戦っても平気か?」
「普通の蠍ならな」
「アンタレスみてぇなのは?」
「二度と行くな」
アルフィアの声が低くなる。
「もういねぇよ」
「別のものを見つけても、一人で行くな」
「約束はできねぇな」
「なら縛る」
「またそれかよ」
老女が笑う。
「随分と心配されているじゃないか」
「違う」
アルフィアは即座に否定した。
「同行者が勝手に死ぬと迷惑なだけだ」
「オレ、死んでねぇぞ」
「死にかけた」
「相手が悪かっただけだ」
「自分から会いに行った」
「日記に書いてあったら気になるだろ」
「普通は一人で遺跡へ潜らない」
「普通じゃねぇからな」
アルフィアは片手を上げる。
バンは一歩下がった。
「店の中で殴るなよ」
「外ならいいのか」
「よくねぇよ」
老女へ礼を言い、三人は店を出た。
◇
日が沈み始めた頃。
宿の部屋には、旅道具が整然と並べられていた。
新しい背負い袋。
水袋。
毛布。
保存食。
火打石。
包帯。
予備の革紐。
小鍋。
修繕された赤いコート。
ザルドとアルフィアは、持っていくものと置いていくものを分けている。
その横で、バンは新しい背負い袋へクレシューズを収めていた。
片側へ、損傷した相棒。
反対側へ、名もない結晶。
二つの間には厚い仕切り。
どちらも毛布と革紐で固定され、直接触れ合うことはない。
「動かすぞ」
バンが言う。
「ゆっくりだ」
ザルドが答える。
バンは袋を立てた。
肩へ背負う。
胸と腰の帯を締める。
その場で一度だけ身体を左右へ傾ける。
音はしない。
「どうだ?」
「さっきよりいい」
ザルドが背面を確認する。
「結晶も動いていない」
アルフィアが反対側へ手を当てた。
「明日まで、このまま置く。勝手に開けるな」
「夜中に光ったら?」
「起こせ」
「お前を?」
「ザルドを」
「私は寝る」
「ひでぇな」
「お前が持ち帰ったものだ。自分で見張れ」
「じゃあ酒飲みながら――」
「駄目だ」
「まだ買ってねぇぞ」
「買う前に言っている」
バンは袋を床へ下ろした。
布の奥にいるクレシューズへ、軽く手を置く。
「少しは楽になったか?」
「武器に聞くな」
アルフィアが言う。
「相棒だからな」
「返事はしない」
「分かってるよ」
その時。
袋の奥から、ちり、と小さな金属音が聞こえた。
三人が同時に動きを止める。
「今、揺らしたか?」
ザルドが問う。
「手を置いただけだ」
「開けるな」
アルフィアが即座に言った。
「分かってる」
「本当に?」
「今日はな」
「明日は?」
「その時にならねぇと分かんねぇ」
「やはり信用できない」
バンは笑いながら、新しく直ったコートの襟を指で整えた。
旅へ出るための準備は、ほとんど終わった。
あとは食料を袋へ詰め。
水を満たし。
リオードを出る日を決めるだけ。
オラリオまでは遠い。
クレシューズが直る保証もない。
名もない結晶が役に立つのか、それとも新たな災いになるのかも分からない。
それでも。
昨日までは、壊れた相棒を布で抱えることしかできなかった。
今は違う。
運ぶための袋がある。
向かう場所がある。
頼るべき鍛冶神の名も分かっている。
「もう少しだな」
バンが呟く。
「何がだ」
アルフィアが尋ねる。
「こいつを直せる奴に会うまでだよ」
「まだ何日もかかる」
「何日でもいいさ」
バンは背負い袋を見下ろした。
「着きゃいいんだろ」
窓の外では、夕日がリオードの白い建物を赤く染めていた。
三人が砂漠を越え。
草原と街道を進み。
迷宮都市オラリオへ向かうための旅支度。
その一日が、静かに終わろうとしていた。
今回は、オラリオへ向かうための旅支度を進める回でした。
特に、これまでの傷跡を消さず、旅の記憶を残したまま赤いコートが修繕される場面がお気に入りです。