強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第44話 旅支度

 

翌朝。

 

リオードの空には、薄い雲ひとつなかった。

 

白く乾いた街路へ朝日が差し込み、オアシスから運ばれてきた水が石造りの水路を静かに流れている。

 

市場へ続く大通りでは、すでに隊商たちが動き始めていた。

 

荷獣へ木箱を積む者。

 

水袋の口を確かめる者。

 

車輪へ油を塗る者。

 

出発前の慌ただしさが、街のあちこちに満ちている。

 

宿の一室でも、三人の旅支度が始まっていた。

 

「持ったか?」

 

「ああ」

 

ザルドの問いに、バンは背中を向けたまま答えた。

 

赤いコートの上から、布で包まれたクレシューズを背負っている。

 

ただし、いつものように革帯で雑に括りつけているわけではない。

 

厚手の布を何重にも巻き、歪んだ鎖と亀裂の入った先端へ負担がかからないよう、ザルドが紐の位置を細かく調整していた。

 

黒紫色の結晶は、別の革袋へ入れられている。

 

こちらはアルフィアが持っていた。

 

クレシューズと結晶を近づけないための、今日だけの応急処置だ。

 

「歩くぞ」

 

ザルドが言う。

 

「どこまで?」

 

「部屋の中を一周しろ」

 

「狭ぇだろ」

 

「いいから歩け」

 

バンは肩を竦め、机と寝台の間をゆっくり歩いた。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

背中の包みが僅かに揺れる。

 

そのたびに、布の奥から金属が触れ合うかすかな音がした。

 

「止まれ」

 

アルフィアの声が飛ぶ。

 

バンが足を止める。

 

「今、鳴ったな」

 

「少しくらい鳴るだろ」

 

「鳴らないように運ぶための袋を買う」

 

「布でも十分じゃねぇか?」

 

「不十分だ」

 

アルフィアは即答した。

 

「オラリオまで何日かかると思っている。街道だけを歩くとは限らない。雨も降る。獣に襲われる可能性もある。転ぶ可能性もある」

 

「オレが?」

 

「お前は平地でも余計なことをして転びそうだ」

 

「そんな間抜けじゃねぇよ」

 

「昨日、結晶を素手で持ち帰った男の言葉に説得力はない」

 

「まだ言うのか」

 

「一生言う」

 

バンは何かを返そうとしたが、ザルドに背中の包みを外された。

 

「今日は、まず仕立屋だ」

 

「袋が先じゃねぇの?」

 

「コートを預けている間に袋を選ぶ」

 

「手際いいな」

 

「お前に任せれば、入口にある一番安い袋を買って終わる」

 

「使えりゃいいだろ」

 

「神器と正体不明の結晶を、薄い布袋へ入れる気か?」

 

「中に毛布を詰めりゃ――」

 

「駄目だ」

 

アルフィアの声が重なる。

 

「まだ最後まで言ってねぇぞ」

 

「聞く価値がない」

 

バンは頭を掻いた。

 

「朝から元気だな、お前」

 

「お前のせいだ」

 

アルフィアは結晶の入った袋を持ち上げ、扉へ向かう。

 

「早く来い。市場が混む」

 

「へいへい」

 

「返事は一度だ」

 

「へい」

 

「馬鹿にしているのか」

 

「してねぇよ」

 

ザルドは二つの包みを抱え、二人の後を追った。

 

 

 

 

仕立屋は、市場から一本外れた細い通りにあった。

 

店先には、砂よけの外套や頭布、革手袋が吊るされている。

 

扉を開けると、乾いた布と染料の匂いが鼻へ届いた。

 

「いらっしゃい」

 

店の奥から現れたのは、小柄な老女だった。

 

銀色の髪を後ろでまとめ、首から針山を下げている。

 

老女は三人を見回し、最後にバンの赤いコートへ目を留めた。

 

「まあ」

 

短い声。

 

それだけで、コートの状態をすべて理解したようだった。

 

「よくそこまで破いて、まだ着ているね」

 

「気に入ってんだよ」

 

「服の方は、あんたを気に入っていないかもしれないねぇ」

 

老女が裾を摘む。

 

アンタレスの根に裂かれた脇腹。

 

砕けた石の上を転がった時に擦れた肩。

 

乾いた血が染み込み、硬くなった布。

 

生命力を奪われた場所は、繊維そのものが脆くなっていた。

 

老女が軽く引くだけで、細い糸が何本か切れる。

 

「縫うだけじゃ駄目だね」

 

「新しいのを買えってことか?」

 

「全部捨てる必要はないさ。傷んだところを切り取って、別の布を当てる」

 

バンが眉を寄せた。

 

「色、変わるか?」

 

「まったく同じ赤は難しいね」

 

「なら、これでいい」

 

バンはコートを引き戻そうとする。

 

その手を、アルフィアが叩いた。

 

「直せ」

 

「色が変わるぞ」

 

「汚れと血で、すでに元の色ではない」

 

「味があるだろ」

 

「不潔なだけだ」

 

アルフィアは棚に並んだ布を見た。

 

明るい朱。

 

深い赤。

 

黒に近い臙脂。

 

砂漠用に織られた丈夫な布は、どれも目が細かく、触れると見た目以上に厚い。

 

アルフィアは臙脂色の一枚を取った。

 

「これを使え」

 

「勝手に決めんなよ」

 

「元の色に近い」

 

「こっちの方が派手でいいだろ」

 

バンは明るい朱色を指す。

 

「似合わない」

 

「着るのはオレだぞ」

 

「見るのは周囲だ」

 

「ひでぇ理屈だな」

 

老女は二人のやり取りを眺めながら笑っていた。

 

「臙脂の方がいいよ。古い赤にも馴染む」

 

「二対一かよ」

 

「俺も臙脂だな」

 

ザルドが言った。

 

「三対一になったぞ」

 

「お前まで入ってくんな」

 

「旅装は目立ちすぎない方がいい」

 

「この赤いコート着てる時点で今さらだろ」

 

老女は臙脂色の布と、薄い革を机へ置いた。

 

「肩と脇腹の内側に、革を仕込んでおこうか。表からは見えない。少し重くなるが、爪や小さな刃には強くなる」

 

「別にいらねぇよ」

 

「入れろ」

 

アルフィアが言った。

 

「金出すからって好き勝手すんなよ」

 

「次に破れば、また私が金を払うことになる」

 

「次は自分で払うって」

 

「今のお前に所持金はいくらある」

 

バンは黙った。

 

赤いコートの内側へ手を入れ、硬貨を数える。

 

銅貨が数枚。

 

銀貨が一枚。

 

昨日と変わっていない。

 

「……少しある」

 

「足りない」

 

「まだ値段聞いてねぇだろ」

 

「足りない顔をしている」

 

「顔で分かるのかよ」

 

「分かる」

 

アルフィアは老女へ修繕代を尋ね、その場で硬貨を渡した。

 

バンが横から覗き込む。

 

「結構するな」

 

「お前が破いた範囲が広いからだ」

 

「アンタレスに請求しろよ」

 

「倒したのはお前だ」

 

「じゃあ払えねぇな」

 

バンは赤いコートを脱いだ。

 

中に着ていた服も破れていたため、店に置かれていた簡素な上着を借りる。

 

老女はコートを机へ広げ、白い粉で切り取る範囲を示していった。

 

「裾は少し整えるよ」

 

「短くすんなよ」

 

「長さはなるべく残す。ただ、裂けたまま無理に縫うと、そこからまた破れる」

 

「古い傷は?」

 

「残すさ」

 

老女は、以前に修繕された継ぎ当てを指でなぞる。

 

「全部を新品みたいに消したら、これはもう別の服になる」

 

バンの目が、僅かに細くなる。

 

「分かってんじゃねぇか」

 

「長く仕立屋をやっているからね。服を直したい人と、服を作り直したい人の違いくらいは分かるよ」

 

「じゃあ頼む」

 

「夕方には仕上げる」

 

「早ぇな」

 

「急ぎの割増料金を、そこのお嬢さんが払ったからね」

 

バンがアルフィアを見る。

 

「急ぎじゃなくてもよかったぞ」

 

「明日もこの店へ来る手間が増える」

 

「一日くらい――」

 

「黙れ」

 

アルフィアは先に店を出た。

 

「機嫌悪いな」

 

「お前が礼を言わないからだろう」

 

ザルドが言う。

 

「後で言うよ」

 

「今言え」

 

バンは店の外へ顔を出す。

 

「アルフィア」

 

「何だ」

 

「ありがとな」

 

アルフィアは振り返らなかった。

 

「聞こえたか?」

 

「聞こえている」

 

「返事は?」

 

「必要ない」

 

「素直じゃねぇな」

 

「修繕代を取り消すぞ」

 

「悪かった」

 

老女の笑い声を背に、三人は旅道具店へ向かった。

 

 

 

 

市場の中心部には、隊商向けの店がいくつも並んでいた。

 

水袋。

 

毛布。

 

天幕。

 

火打石。

 

折り畳み式の鍋。

 

荷獣用の鞍。

 

長旅に必要な品なら、ほとんど何でも揃う。

 

三人が入った店には、壁一面に背負い袋が掛けられていた。

 

「これでいいだろ」

 

バンが入口近くの袋を手に取る。

 

薄い麻布で作られた、小さな背負い袋だった。

 

アルフィアが縫い目を見る。

 

一呼吸。

 

「駄目だ」

 

「早すぎるだろ」

 

「底が薄い。縫い目も粗い。肩紐も細い」

 

「軽くていいじゃねぇか」

 

「中身ごと落としたいなら買え」

 

アルフィアは袋を棚へ戻した。

 

バンが別の革袋を取る。

 

「じゃあ、これ」

 

「小さい」

 

「こっちは?」

 

「仕切りがない」

 

「これなら?」

 

「金具が弱い」

 

「お前、買い物長いだろ」

 

「お前が雑すぎる」

 

ザルドは店の奥まで進み、縦長の背負い袋を下ろした。

 

砂色の厚い革。

 

底と四隅には、さらに濃い革が重ねられている。

 

身体へ触れる側には薄い木枠が入り、長い荷物を入れても背中へ直接当たらない。

 

内部は二つに分けられ、中央の仕切りは取り外しができる。

 

「これはどうだ」

 

アルフィアが中を確かめる。

 

片側は縦に長く、クレシューズを無理に折り畳まず収納できる。

 

反対側はやや幅が広く、結晶の包みを固定するための革紐が複数ついていた。

 

底には厚い毛織物を敷ける。

 

「悪くない」

 

「でけぇな」

 

バンが言う。

 

「必要な大きさだ」

 

「酒も入りそうだな」

 

「入れるな」

 

「空いた場所ならいいだろ」

 

「水と食料を入れろ」

 

「酒も食料みてぇなもんだぞ」

 

「違う」

 

店主が近づいてくる。

 

「長い武器を運ぶなら、こちらは隊商護衛にも人気があります。中の革紐で固定できますし、反対側は壊れ物用です」

 

「壊れ物か」

 

バンの目が、ザルドの抱える包みへ向く。

 

「今は間違っていない」

 

ザルドが答えた。

 

「試してもいいか?」

 

「どうぞ」

 

ザルドがクレシューズの包みを袋へ入れる。

 

四つの節を無理に曲げず、斜めにすれば収まった。

 

周囲へ丸めた布を入れ、革紐で三か所を固定する。

 

包みはほとんど動かない。

 

次に、反対側へ結晶を入れる。

 

底へ厚い毛布。

 

左右へ折り畳んだ革。

 

包みの上から革紐を交差させ、中央へ固定する。

 

クレシューズとの間には、革の仕切りと、さらに一枚の毛織物。

 

「これなら接触しない」

 

アルフィアが確認する。

 

「背負え」

 

ザルドが言った。

 

バンは肩紐へ腕を通した。

 

胸元の帯。

 

腰へ回す太い革帯。

 

すべてを締めると、重さが肩だけでなく、背中と腰へ分散される。

 

「思ったより軽いな」

 

「中身が軽いのではない。重さを逃がしている」

 

ザルドが肩紐の長さを調整する。

 

「歩いてみろ」

 

バンは店内をゆっくり進んだ。

 

一歩。

 

二歩。

 

方向を変える。

 

腰を捻る。

 

袋は身体へ沿って動き、中身が大きく揺れることはない。

 

「走ってみるか」

 

「やめろ」

 

アルフィアが言った。

 

「軽く飛ぶだけだ」

 

「やめろ」

 

「固定されてるか確認を――」

 

「やめろ」

 

三度目は、先ほどより低い声だった。

 

「分かったよ」

 

バンは大人しく戻ってくる。

 

ザルドが袋の側面を押し、中の包みが動いていないことを確かめた。

 

「これにしよう」

 

「値段は?」

 

店主が提示した額を聞き、バンの眉が上がる。

 

「高ぇな」

 

「安物を買って、途中で破れれば終わりだ」

 

ザルドが代金を払う。

 

バンはその横から、渡される硬貨を数えていた。

 

「随分払ったな」

 

「貸しだ」

 

「オラリオで飯を奢るんだったか」

 

「ああ」

 

「酒でもいいか?」

 

「飯だ」

 

「厳しいな」

 

「お前の酒代まで負担する気はない」

 

袋だけでは終わらなかった。

 

アルフィアは、小さな革袋を二つ選んだ。

 

一つは火打石や針、予備の革紐を入れるもの。

 

もう一つは包帯や薬草を入れるもの。

 

新しい水袋。

 

厚手の防水布。

 

予備の毛布。

 

小さな木製の箱。

 

「その箱は何だ?」

 

バンが尋ねる。

 

「結晶の周囲へ固定する」

 

「布だけでよくねぇか?」

 

「万が一、袋を落とした時のためだ」

 

「落とさねぇよ」

 

「お前の言葉は信用できない」

 

ザルドは調理用の小鍋と、保存食用の布袋を追加する。

 

バンは棚の端に吊るされた酒用の革袋へ手を伸ばした。

 

その手首を、左右から同時に掴まれる。

 

右はアルフィア。

 

左はザルド。

 

「何でだよ」

 

「不要だ」

 

「自分の金で買う」

 

「お前の金で買えば、飯代がなくなる」

 

「酒で腹を満たす」

 

「倒れるぞ」

 

「オレが?」

 

「普通の人間ならな」

 

ザルドが手を放し、酒袋を棚へ戻した。

 

「町を出る前に一本だけ買え。それ以上は持つな」

 

「一本?」

 

「小瓶だ」

 

「小さすぎるだろ」

 

「なら、なしだ」

 

「一本でいい」

 

「決まりだな」

 

ザルドの口元が僅かに上がった。

 

「嵌められた気がする」

 

「お前が単純なだけだ」

 

アルフィアも手を放す。

 

「必要なものは揃った。次へ行くぞ」

 

「まだ見るものあるのか?」

 

「食料だ」

 

「ザルドがいれば、その辺の魔物でも食えるだろ」

 

「旅の途中で毎日、食える魔物に出会うと思うな」

 

「出会ったら?」

 

「その時は食う」

 

ザルドの返事に、バンが笑った。

 

 

 

 

昼過ぎ。

 

三人は市場の食料品店を巡っていた。

 

乾燥肉。

 

豆。

 

塩。

 

干した果物。

 

硬く焼いた旅用のパン。

 

薬草。

 

香辛料。

 

ザルドは一つひとつ手に取り、匂いを嗅ぎ、時には少量を口へ入れて確かめていた。

 

「これは駄目だ」

 

「何で?」

 

バンが乾燥肉を見る。

 

「塩が強すぎる。水を余計に使う」

 

「うまけりゃいいだろ」

 

「砂漠では、水の消費に直結する」

 

別の肉。

 

「これは?」

 

「脂が多い。長く持たん」

 

「じゃあ、これ」

 

「香辛料で古い臭いを誤魔化している」

 

「分かるのかよ」

 

「食えば分かる」

 

「食ってないだろ」

 

「匂いで分かる」

 

「料理人って面倒だな」

 

「お前が雑すぎる」

 

結局、ザルドが選んだのは、脂の少ない羊肉を塩と少量の香草で干したものだった。

 

豆は粒の揃ったもの。

 

パンは水で柔らかくして食べられる硬いもの。

 

干した果物は、棗椰子と薄く切った酸味の強い果実。

 

アルフィアは棗椰子の包みを一つ手に取る。

 

「それ、旅用か?」

 

バンが聞く。

 

「そうだ」

 

「甘い奴だろ」

 

「保存性が高い」

 

「蜂蜜も入ってるぞ」

 

「保存性が高い」

 

「好きなんだろ?」

 

「雑音だ」

 

アルフィアは包みを荷物へ入れた。

 

バンがにやついていると、別の棚へ押しやられる。

 

「邪魔だ」

 

「分かったって」

 

バンは店先に置かれた焼き菓子へ目を向けた。

 

小麦の生地に砕いた木の実を混ぜ、表面へ蜂蜜を塗って焼いたもの。

 

「これは旅用になるか?」

 

「今日中に食うならな」

 

ザルドが答える。

 

「じゃあ三つ」

 

「昼食を食べたばかりだろ」

 

「別腹だ」

 

「お前に別腹などあるのか。全部同じ場所へ入っているだろう」

 

アルフィアの言葉に、店主が吹き出した。

 

バンは気にせず菓子を三つ買い、一つをザルドへ投げる。

 

「食えよ」

 

「甘いな」

 

「食ってから言え」

 

ザルドは一口齧る。

 

少し考える。

 

「香ばしさは悪くない」

 

「だろ?」

 

「蜂蜜が多い」

 

「細けぇな」

 

残りの一つを、バンはアルフィアへ差し出した。

 

「いらない」

 

「旅用じゃなくて今日用だぞ」

 

「いらない」

 

「余ったらオレが食う」

 

アルフィアは少しだけ黙った。

 

それから、菓子を取り上げる。

 

「無駄にするな」

 

「食うなら無駄じゃねぇだろ」

 

「黙れ」

 

アルフィアは小さく一口齧った。

 

何も言わない。

 

だが、返そうともしなかった。

 

バンは満足そうに、自分の分を口へ放り込んだ。

 

 

 

 

夕方。

 

三人は再び仕立屋を訪れた。

 

老女は、修繕を終えた赤いコートを両手で持っていた。

 

「できたよ」

 

バンは受け取る前に、全体を眺める。

 

元の赤い布は、可能な限り残されていた。

 

脇腹と肩の傷んだ部分には、臙脂色の布が当てられている。

 

内側には薄い革。

 

裂けた裾は形を整えられたが、長さはほとんど変わっていない。

 

古い継ぎ当て。

 

小さな傷。

 

長い旅の中で色の変わった場所。

 

それらも、消されずに残っている。

 

「着てみな」

 

バンは借りていた上着を脱ぎ、赤いコートへ腕を通した。

 

肩を回す。

 

腕を上げる。

 

身体を捻る。

 

革を入れた分、以前より僅かに硬い。

 

それでも動きを邪魔するほどではない。

 

むしろ重みが増したことで、身体へ落ち着くような感覚があった。

 

「どうだい?」

 

「いいな」

 

バンは袖を引き、襟を整える。

 

新品ではない。

 

戦いの跡も、古い傷も残っている。

 

それでも、また旅へ出られる姿に戻っていた。

 

「悪くない」

 

アルフィアが言った。

 

「それ、褒めてんのか?」

 

「みすぼらしくはなくなった」

 

「もう一声」

 

「黙れ」

 

「十分だろう」

 

ザルドがコートの肩を確かめる。

 

「前より丈夫になっている」

 

「次に蠍と戦っても平気か?」

 

「普通の蠍ならな」

 

「アンタレスみてぇなのは?」

 

「二度と行くな」

 

アルフィアの声が低くなる。

 

「もういねぇよ」

 

「別のものを見つけても、一人で行くな」

 

「約束はできねぇな」

 

「なら縛る」

 

「またそれかよ」

 

老女が笑う。

 

「随分と心配されているじゃないか」

 

「違う」

 

アルフィアは即座に否定した。

 

「同行者が勝手に死ぬと迷惑なだけだ」

 

「オレ、死んでねぇぞ」

 

「死にかけた」

 

「相手が悪かっただけだ」

 

「自分から会いに行った」

 

「日記に書いてあったら気になるだろ」

 

「普通は一人で遺跡へ潜らない」

 

「普通じゃねぇからな」

 

アルフィアは片手を上げる。

 

バンは一歩下がった。

 

「店の中で殴るなよ」

 

「外ならいいのか」

 

「よくねぇよ」

 

老女へ礼を言い、三人は店を出た。

 

 

 

 

日が沈み始めた頃。

 

宿の部屋には、旅道具が整然と並べられていた。

 

新しい背負い袋。

 

水袋。

 

毛布。

 

保存食。

 

火打石。

 

包帯。

 

予備の革紐。

 

小鍋。

 

修繕された赤いコート。

 

ザルドとアルフィアは、持っていくものと置いていくものを分けている。

 

その横で、バンは新しい背負い袋へクレシューズを収めていた。

 

片側へ、損傷した相棒。

 

反対側へ、名もない結晶。

 

二つの間には厚い仕切り。

 

どちらも毛布と革紐で固定され、直接触れ合うことはない。

 

「動かすぞ」

 

バンが言う。

 

「ゆっくりだ」

 

ザルドが答える。

 

バンは袋を立てた。

 

肩へ背負う。

 

胸と腰の帯を締める。

 

その場で一度だけ身体を左右へ傾ける。

 

音はしない。

 

「どうだ?」

 

「さっきよりいい」

 

ザルドが背面を確認する。

 

「結晶も動いていない」

 

アルフィアが反対側へ手を当てた。

 

「明日まで、このまま置く。勝手に開けるな」

 

「夜中に光ったら?」

 

「起こせ」

 

「お前を?」

 

「ザルドを」

 

「私は寝る」

 

「ひでぇな」

 

「お前が持ち帰ったものだ。自分で見張れ」

 

「じゃあ酒飲みながら――」

 

「駄目だ」

 

「まだ買ってねぇぞ」

 

「買う前に言っている」

 

バンは袋を床へ下ろした。

 

布の奥にいるクレシューズへ、軽く手を置く。

 

「少しは楽になったか?」

 

「武器に聞くな」

 

アルフィアが言う。

 

「相棒だからな」

 

「返事はしない」

 

「分かってるよ」

 

その時。

 

袋の奥から、ちり、と小さな金属音が聞こえた。

 

三人が同時に動きを止める。

 

「今、揺らしたか?」

 

ザルドが問う。

 

「手を置いただけだ」

 

「開けるな」

 

アルフィアが即座に言った。

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「今日はな」

 

「明日は?」

 

「その時にならねぇと分かんねぇ」

 

「やはり信用できない」

 

バンは笑いながら、新しく直ったコートの襟を指で整えた。

 

旅へ出るための準備は、ほとんど終わった。

 

あとは食料を袋へ詰め。

 

水を満たし。

 

リオードを出る日を決めるだけ。

 

オラリオまでは遠い。

 

クレシューズが直る保証もない。

 

名もない結晶が役に立つのか、それとも新たな災いになるのかも分からない。

 

それでも。

 

昨日までは、壊れた相棒を布で抱えることしかできなかった。

 

今は違う。

 

運ぶための袋がある。

 

向かう場所がある。

 

頼るべき鍛冶神の名も分かっている。

 

「もう少しだな」

 

バンが呟く。

 

「何がだ」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「こいつを直せる奴に会うまでだよ」

 

「まだ何日もかかる」

 

「何日でもいいさ」

 

バンは背負い袋を見下ろした。

 

「着きゃいいんだろ」

 

窓の外では、夕日がリオードの白い建物を赤く染めていた。

 

三人が砂漠を越え。

 

草原と街道を進み。

 

迷宮都市オラリオへ向かうための旅支度。

 

その一日が、静かに終わろうとしていた。




今回は、オラリオへ向かうための旅支度を進める回でした。

特に、これまでの傷跡を消さず、旅の記憶を残したまま赤いコートが修繕される場面がお気に入りです。
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