強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

48 / 48
第45話 リオード最後の夜

旅立ちを翌朝に控えたリオードは、いつもと変わらず騒がしかった。

 

朝から隊商の鈴が鳴り、荷車が石畳を軋ませ、商人たちの声が白い街並みの間を飛び交っている。

 

誰かが街へ入り。

 

誰かが街を離れる。

 

砂漠の中継地であるリオードにとって、それは毎日の風景だった。

 

宿の部屋では、ザルドが床へ荷物を並べていた。

 

水袋。

 

保存食。

 

薬草。

 

包帯。

 

火打石。

 

予備の革紐。

 

小鍋と木製の食器。

 

一つずつ手に取り、状態を確かめては、新しく買った背負い袋の周囲へ分けていく。

 

袋の内部には、すでに二つの大切な荷物が収められていた。

 

布で厳重に包まれた聖棍クレシューズ。

 

そして、黒紫色の名もない結晶。

 

二つは厚い革の仕切りで隔てられ、毛布と革紐で固定されている。

 

「水袋は三つか」

 

ザルドが呟く。

 

「多くねぇか?」

 

窓辺に寄りかかっていたバンが言った。

 

修繕された赤いコートは、肩と脇腹へ臙脂色の布が当てられ、以前より僅かに重くなっている。

 

だが、本人は気に入ったらしい。

 

朝から何度も襟を直し、袖を引き、動きにくくないか確かめていた。

 

「砂漠を抜けた後も、水場があるとは限らん」

 

「足りなくなったら、どっかで奪えばいいだろ」

 

「誰からだ」

 

「盗賊とか」

 

「お前が言うと説得力がない」

 

「悪い奴から奪うなら問題ねぇだろ」

 

「最初から奪う前提で旅をするな」

 

アルフィアは寝台へ腰掛け、購入した包帯を巻き直していた。

 

本人は必要ないと言い張っていたが、ザルドが旅道具店で追加したものだ。

 

「水は多い方がいい」

 

「お前もそう思う?」

 

「お前に任せれば、水袋の代わりに酒を入れる」

 

「それも悪くねぇな」

 

「水を飲め」

 

「酒にも水は入ってるぞ」

 

「その理屈をもう一度口にしたら、瓶ごと頭へ叩き込む」

 

バンは肩を竦めた。

 

「まだ買ってねぇだろ」

 

「買わせるな」

 

「昨日、小瓶一本ならいいって話になったじゃねぇか」

 

「ザルドが勝手に許可した」

 

「俺は一本と言った」

 

ザルドが荷物から顔を上げる。

 

「大瓶ではない。小瓶だ」

 

「分かってるよ」

 

「お前の小さいは信用できん」

 

「じゃあ一緒に選べばいいだろ」

 

「なぜ俺がお前の酒を選ぶ」

 

「酒に強いんだろ?」

 

「強いことと、選ぶことは別だ」

 

ザルドは水袋の栓を確認し、荷物の端へ置いた。

 

「必要な物はほぼ揃った。足りないのは、今夜と明朝の食料くらいだ」

 

「保存食は買っただろ」

 

「街を出る前から保存食を食う必要はない」

 

「じゃあ、最後にうまいもん食おうぜ」

 

「お前は毎日同じことを言っている」

 

「旅の楽しみなんて、飯と酒くらいだろ」

 

「景色は?」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「腹は膨れねぇな」

 

「会話にならない」

 

ザルドは立ち上がった。

 

「市場へ行くぞ」

 

「何買うんだ?」

 

「今夜の食材。それと、明日の朝に持たせるものだ」

 

「オレは酒」

 

「小瓶だ」

 

「分かってるって」

 

アルフィアは包帯を荷物へ戻し、立ち上がる。

 

「私は行かない」

 

「何でだよ」

 

「昨日も市場を歩いた。必要な物はない」

 

「棗椰子の菓子は?」

 

アルフィアの動きが止まる。

 

「……必要ない」

 

「昨日食ってたじゃねぇか」

 

「あれは無駄にしないためだ」

 

「今日は買わなくても無駄にならねぇぞ」

 

「黙れ」

 

「じゃあ、オレが買ってくる」

 

「好きにしろ」

 

「蜂蜜多めの奴でいいか?」

 

アルフィアの視線が、ゆっくりとバンへ向いた。

 

「なぜ私に聞く」

 

「食うかもしれねぇだろ」

 

「食べない」

 

「じゃあ一つだけにするか」

 

「……日持ちする物を選べ」

 

「食う気じゃねぇか」

 

「旅の保存食としてだ」

 

「へいへい」

 

「返事は一度だ」

 

バンが笑い、ザルドと共に部屋を出る。

 

アルフィアは数秒その場に立っていた。

 

そして、小さく舌打ちをすると、二人の後を追った。

 

 

 

 

昼前の市場は、人で溢れていた。

 

色鮮やかな天幕。

 

山積みにされた香辛料。

 

乾燥させた果物。

 

革製品。

 

金属器。

 

砂漠を越えて運ばれてきた織物や装飾品。

 

通りの両側から、様々な匂いが漂ってくる。

 

焼いた肉。

 

煮込んだ豆。

 

甘い蜜。

 

香草。

 

乾いた土。

 

水路から運ばれる冷たい水の匂い。

 

「まず肉だ」

 

ザルドは迷いなく食料品の並ぶ一角へ向かった。

 

「酒が先でもいいだろ」

 

「後だ」

 

「売り切れたらどうする」

 

「酒が売り切れる街ではない」

 

リオードの特産品の一つが、砂漠の霧酒だった。

 

市場のあちこちに酒屋があり、透明な酒を詰めた瓶が棚へずらりと並んでいる。

 

「オレの心配してくれてんのか?」

 

「お前が先に酒を買えば、そのまま飲み始める」

 

「歩きながらは飲まねぇよ」

 

「宿へ戻る前に飲む」

 

「一杯くらいなら」

 

「やはり後だ」

 

ザルドは肉屋の前で足を止めた。

 

吊るされているのは、羊肉と砂漠トカゲの肉。

 

皮を剥いだ小型のトカゲが数匹並べられ、その隣では白い肉が部位ごとに切り分けられている。

 

「今日はトカゲか?」

 

バンが尋ねる。

 

「保存には向かん」

 

「今夜食う分だろ?」

 

「それなら悪くない」

 

ザルドは肉を手に取り、指で弾いた。

 

弾力。

 

匂い。

 

脂の付き方。

 

骨との境目。

 

店主が黙って見守る中、次々と確かめていく。

 

「これと、羊の肩肉を少し」

 

「両方食うのか?」

 

「トカゲは焼く。羊は明朝まで持つ煮込みにする」

 

「朝から重くねぇか?」

 

「旅立つ日に腹を減らす方が悪い」

 

ザルドは肉の代金を払い、包みを受け取った。

 

次は野菜。

 

乾燥豆。

 

小さな玉葱。

 

香草。

 

干した柑橘の皮。

 

塩。

 

「また料理すんのか」

 

「宿の厨房を借りる」

 

「最後の夜くらい、店で食えばいいだろ」

 

「買った保存食に手を加える。ついでだ」

 

「料理人って働き者だな」

 

「お前が何もしないだけだ」

 

「オレは食う担当」

 

「最も不要な担当だ」

 

アルフィアは二人のやり取りを無視し、果物を並べた店へ目を向けた。

 

棗椰子。

 

干し葡萄。

 

薄く切って乾燥させた柑橘。

 

砂糖と蜜で固めた木の実。

 

その隣には、棗椰子の実へ砕いた木の実を詰め、表面へ蜂蜜を塗った菓子が並んでいる。

 

バンも気づいた。

 

「ほら、保存食」

 

「勝手にしろ」

 

「何個?」

 

「知らない」

 

「一つ?」

 

アルフィアは答えない。

 

「二つ?」

 

沈黙。

 

「三つにするか」

 

「多い」

 

「じゃあ二つだな」

 

「一つでいい」

 

「食うんじゃねぇか」

 

「保存食だと言った」

 

「はいはい」

 

バンは菓子を二つ購入した。

 

一つを旅用の包みへ。

 

もう一つをその場でアルフィアへ差し出す。

 

「何だ」

 

「試食」

 

「いらない」

 

「毒が入ってるかもしれねぇぞ」

 

「お前が食え」

 

「オレが食ったらなくなる」

 

「構わない」

 

「じゃあ、もらうぞ」

 

バンが口へ運ぼうとした瞬間。

 

アルフィアの手が伸びた。

 

菓子が消える。

 

「毒見する」

 

「素直じゃねぇな」

 

「雑音だ」

 

アルフィアは小さく一口齧った。

 

甘い蜜。

 

柔らかい棗椰子。

 

香ばしい木の実。

 

表情は変わらない。

 

だが、菓子をバンへ返すこともなかった。

 

「どうだ?」

 

「毒はない」

 

「味を聞いたんだけどな」

 

「問題ない」

 

「気に入ったんだろ」

 

「黙れ」

 

ザルドが店主へ向き直る。

 

「旅用にもう三つ包んでくれ」

 

「ザルド?」

 

アルフィアの声が僅かに低くなる。

 

「保存性が高い」

 

「余計なことをするな」

 

「俺も食う」

 

ザルドは平然と答えた。

 

バンが笑う。

 

「お前も好きなんじゃねぇか」

 

「食える物を買っているだけだ」

 

「似た者同士だな」

 

「一緒にするな」

 

アルフィアとザルドの声が重なった。

 

「息ぴったりじゃねぇか」

 

二人の視線が同時にバンへ向く。

 

バンは両手を上げ、先へ歩いた。

 

 

 

 

昼を過ぎた頃。

 

三人は市場の外れにある酒屋へ入った。

 

木造の棚には、大小さまざまな瓶が並べられている。

 

透明なもの。

 

薄い琥珀色のもの。

 

香草を漬け込んだ緑がかったもの。

 

バンの目が輝いた。

 

「結構あるな」

 

「小瓶一本だ」

 

ザルドが念を押す。

 

「分かってる」

 

「その大瓶を見るな」

 

「見てるだけだよ」

 

「手を伸ばすな」

 

「見るだけならいいだろ」

 

「お前は目で酒を飲むのか」

 

アルフィアの言葉に、店主が笑った。

 

「旅用なら、こちらがいいですよ」

 

店主が差し出したのは、掌より少し大きい細長い瓶だった。

 

中身は透明。

 

栓は蝋で固められ、革紐で首を縛っている。

 

「砂漠の霧酒です。香草は強めですが、日持ちします。水で割れば少量でも香りが立つ」

 

「もうちょっと大きいのは?」

 

「ない」

 

ザルドが答えた。

 

「店主に聞いてんだよ」

 

「ありますが」

 

「ない」

 

今度はアルフィアが言った。

 

「二人して何なんだよ」

 

「小瓶一本という約束だ」

 

「じゃあ、これでいい」

 

バンはしぶしぶ小瓶を受け取った。

 

代金を払おうとして、手元の硬貨を見る。

 

銅貨数枚。

 

銀貨一枚。

 

酒代を払えば、ほとんど残らない。

 

「足りるのか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「ぎりぎりな」

 

「食事代は?」

 

「お前が作るんだろ?」

 

「材料費がかかっている」

 

「それは旅の経費だ」

 

「お前の酒も経費か?」

 

「当然」

 

「違う」

 

アルフィアが即座に否定した。

 

バンは銀貨を店主へ渡し、釣りを受け取る。

 

残ったのは、本当に僅かな銅貨だけだった。

 

「これで一文無しに近いな」

 

「オラリオに着いたら稼ぐ」

 

「どうやって?」

 

「盗賊捕まえたり、魔物倒したり」

 

「オラリオにはギルドの規則がある」

 

「じゃあ料理でも売るか」

 

「作るのは俺だ」

 

「オレが客を呼ぶ」

 

「お前が酒を飲んで利益を消す」

 

「うまくいかねぇな」

 

バンは小瓶をコートの内側へ入れた。

 

アルフィアが手を出す。

 

「寄越せ」

 

「何でだよ」

 

「背負い袋へ入れる」

 

「クレシューズや結晶と一緒にすんのか?」

 

「別の外袋だ。お前に持たせれば、今夜で空になる」

 

「今夜飲む分だろ?」

 

「旅用だ」

 

「全部飲むとは言ってねぇよ」

 

「半分残せ」

 

「少なすぎねぇ?」

 

「なら全部預かる」

 

「半分残す」

 

「最初からそう言え」

 

アルフィアは小瓶を受け取り、購入した食料と一緒に持った。

 

「信用ねぇなぁ」

 

「昨日までの行動を振り返れ」

 

「何かしたか?」

 

「一人で遺跡へ行った」

 

「それと酒は関係ねぇだろ」

 

「勝手な行動という点では同じだ」

 

反論できず、バンは頭を掻いた。

 

 

 

 

市場を離れようとした時。

 

「兄ちゃん!」

 

背後から声が飛んだ。

 

振り返ると、獣人の少年がこちらへ走ってくる。

 

第34話の朝市で、荷車の下へ転がった商品をバンが《強奪》で拾い上げて助けた少年だった。

 

その後ろから、同じ年頃の子供たちが数人ついてくる。

 

「何だ?」

 

少年は息を切らしながら、布の包みを差し出した。

 

「明日、街を出るんだろ?」

 

「誰に聞いた?」

 

「宿の人」

 

「話、広ぇな」

 

「これ、持ってって」

 

布の中には、薄く切った干し果物が入っていた。

 

柑橘。

 

棗椰子。

 

酸味の強い赤い実。

 

いずれも旅人向けに乾燥させたものだった。

 

「いいのか?」

 

「母ちゃんが、旅の人に渡せって」

 

「オレだけ?」

 

少年はザルドとアルフィアを見る。

 

「三人で食べて」

 

「そうか」

 

バンは包みを受け取った。

 

普段なら軽口の一つでも返すところだが、しばらく何も言わなかった。

 

「ありがとな」

 

「また来る?」

 

「さあな」

 

「来ないの?」

 

「旅人なんでな」

 

少年の顔が少し曇る。

 

バンはしゃがみ、少年と目線を合わせた。

 

「でも、また近くを通ったら寄るよ」

 

「本当?」

 

「たぶんな」

 

「たぶんじゃ駄目だよ」

 

「難しいこと言うなぁ」

 

バンは笑い、少年の頭を乱暴に撫でた。

 

「生きてりゃ、どっかで会うだろ」

 

少年は少し考えてから頷いた。

 

「兄ちゃんも死ぬなよ」

 

「オレが?」

 

「この前、腕怪我してたから」

 

「もう治った」

 

バンは両腕を広げて見せる。

 

「ほらな」

 

「でも、また怪我するだろ」

 

「お前、アルフィアみてぇなこと言うな」

 

少年が首を傾げる。

 

「誰?」

 

「そこの怖い姉ちゃん」

 

「聞こえているぞ」

 

背後から低い声が飛ぶ。

 

少年たちは一斉にアルフィアを見る。

 

数秒。

 

全員がバンの後ろへ隠れた。

 

「怖がらせんなよ」

 

「何もしていない」

 

「顔だろ」

 

「殺すぞ」

 

「ほらな」

 

子供たちがさらに身を縮める。

 

ザルドが喉の奥で笑い、干し果物の包みを受け取った。

 

「ありがたくもらう」

 

「でっかい兄ちゃん、全部食べないでよ」

 

「努力する」

 

「約束して」

 

「……分かった」

 

ザルドが珍しく押し切られた。

 

バンは声を上げて笑う。

 

「子供に弱ぇな」

 

「お前も同じだろう」

 

「オレは優しいからな」

 

「自分で言うな」

 

少年たちと別れ、三人は宿へ戻った。

 

 

 

 

夕方。

 

宿の厨房から、香草と肉の匂いが漂っていた。

 

ザルドは大きな鍋の前に立っている。

 

羊の肩肉。

 

豆。

 

玉葱。

 

干した柑橘の皮。

 

香辛料。

 

水を少なめにし、弱火でじっくり煮込んでいた。

 

明朝まで傷まないよう、塩は少しだけ強め。

 

だが、喉が渇くほどではない。

 

隣では、砂漠トカゲの肉が串へ刺され、火の上で回されている。

 

表面から脂が落ち。

 

炭へ触れて煙が上がる。

 

白い肉の表面が、少しずつ黄金色へ変わっていく。

 

「いい匂いだな」

 

バンが厨房の入口から顔を出す。

 

「入るな」

 

「何でだよ」

 

「つまみ食いする」

 

「味見だ」

 

「不要だ」

 

「料理人一人じゃ、味の確認できねぇだろ」

 

「俺が食う」

 

「自分の味に甘くなるぞ」

 

「俺はならん」

 

ザルドは鍋を一度かき混ぜる。

 

「市場で買った干し果物を分けておけ。明日の分と、今夜食う分だ」

 

「へいへい」

 

「つまむな」

 

「分かってる」

 

バンは布の包みを開いた。

 

柑橘。

 

棗椰子。

 

赤い実。

 

三種類を均等に分けていく。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

柑橘を一枚、口へ放り込む。

 

「つまむなと言った」

 

「数が半端だった」

 

「見ていたぞ」

 

「目いいな」

 

「次に食えば、今夜の酒はなしだ」

 

「それは困る」

 

バンは急に真面目になり、干し果物を分け始めた。

 

厨房の隅では、アルフィアが椅子へ座り、本を読んでいる。

 

「何でここにいんだ?」

 

バンが尋ねる。

 

「部屋で待っていれば、お前が勝手に酒を開ける」

 

「信用なさすぎだろ」

 

「当然だ」

 

「本読んでるなら見てねぇじゃん」

 

「音で分かる」

 

「栓抜く音まで?」

 

「分かる」

 

「化け物だな」

 

「消すぞ」

 

バンは口を閉じた。

 

ザルドが串を火から外す。

 

「焼けたぞ」

 

「待ってました」

 

「皿を持て」

 

三人は宿の小さな食堂へ料理を運んだ。

 

窓の外では、夕日がオアシスの水面を赤く染めている。

 

白い建物の壁。

 

遠くの砂丘。

 

市場の天幕。

 

すべてが柔らかな橙色へ変わっていた。

 

机の中央へ、砂漠トカゲの丸焼き。

 

煮込んだ羊肉と豆。

 

平たいパン。

 

刻んだ香草と塩。

 

そして、小さな杯が三つ。

 

「三つ?」

 

バンがアルフィアを見る。

 

「飲まないぞ」

 

「水でも入れりゃいいだろ」

 

「私は水でいい」

 

バンはアルフィアから小瓶を返してもらう。

 

蝋で固められた栓を外す。

 

透明な酒。

 

強い香草の匂い。

 

薬のような香りの奥に、甘さと鋭さがある。

 

「半分だけだぞ」

 

アルフィアが言う。

 

「分かってる」

 

「線を引いておいた」

 

瓶を見ると、細い糸が中央へ巻かれていた。

 

「本当に信用ねぇな」

 

「早く注げ」

 

バンは自分とザルドの杯へ、少量ずつ酒を注ぐ。

 

アルフィアの杯には、冷たい井戸水。

 

バンが自分の酒へ、数滴だけ水を落とした。

 

透明だった酒が。

 

一瞬で、乳白色へ変わる。

 

「何度見ても面白ぇな」

 

「味は変わらん」

 

ザルドも水を落とす。

 

「香りが開く」

 

「お前、酒も詳しいな」

 

「食に関するものなら一通りは試す」

 

「悪食だけじゃなかったんだな」

 

「悪食を極めるなら、美食も知らねばならん」

 

「理屈がおかしいだろ」

 

「お前に言われたくない」

 

ザルドが杯を持ち上げる。

 

「何に乾杯する」

 

バンが尋ねる。

 

「必要か?」

 

アルフィアが冷たく言う。

 

「最後の夜だぞ」

 

「明日の朝もいる」

 

「細けぇな」

 

バンは少し考えた。

 

「じゃあ、リオードに」

 

ザルドが杯を上げる。

 

「悪くない」

 

アルフィアも、水の入った杯を僅かに持ち上げた。

 

「世話になった街にな」

 

三つの杯が、軽く触れた。

 

バンが酒を口へ運ぶ。

 

薬草のような香り。

 

舌を刺す鋭さ。

 

喉を焼く熱。

 

その後に、砂漠の乾いた空気を洗い流すような爽快感が残る。

 

「うまい」

 

「一気に飲むな」

 

アルフィアが言う。

 

「まだ一口だぞ」

 

「お前の一口は大きい」

 

ザルドがトカゲの肉を切り分ける。

 

皮は香ばしく焼け。

 

中の白い肉は、引き締まりながらも肉汁を保っている。

 

塩と香草を振り、平たいパンへ挟む。

 

「食え」

 

バンが受け取り、勢いよく齧る。

 

「うまっ」

 

「口へ物を入れたまま喋るな」

 

アルフィアが言う。

 

「お前も食えよ」

 

「自分で取る」

 

アルフィアは小さく切り分けた肉を口へ運ぶ。

 

噛む。

 

香草と脂の香り。

 

硬すぎず、柔らかすぎない肉質。

 

「どうだ?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「悪くない」

 

「またそれか」

 

バンが笑う。

 

「うまい時くらいうまいって言えばいいだろ」

 

「言う必要がない」

 

「作った奴は聞きたいんじゃねぇの?」

 

ザルドがアルフィアを見る。

 

「……火の入れ方はいい」

 

「それで十分だ」

 

「通じ合ってんな」

 

「黙って食え」

 

次は羊肉と豆の煮込み。

 

肉は崩れるほど柔らかく。

 

豆には香辛料と肉の旨味が染み込んでいる。

 

干した柑橘の皮が、重さの中へ僅かな苦味と爽やかさを加えていた。

 

「これ、明日の朝の分残るか?」

 

バンが鍋を見る。

 

「お前が食い尽くさなければな」

 

「足りなくねぇ?」

 

「普通の三人なら十分だ」

 

「普通じゃねぇ奴が二人いるぞ」

 

バンは自分とザルドを指す。

 

「お前と一緒にするな」

 

「食う量は似たようなもんだろ」

 

「俺は必要だから食う」

 

「オレも必要だ」

 

「酒のためだろう」

 

「それもある」

 

夜が深まるまで、三人はゆっくりと食事を続けた。

 

砂漠トカゲの肉。

 

羊肉と豆。

 

平たいパン。

 

干し果物。

 

棗椰子の菓子。

 

霧酒。

 

冷たい井戸水。

 

大きな事件は起こらない。

 

魔物も現れない。

 

武器を振るう必要もない。

 

ただ食べ。

 

飲み。

 

くだらないことで言い争い。

 

時折、三人で笑う。

 

それだけの夜だった。

 

 

 

 

食事を終えた後。

 

三人は最後にもう一度、夜市へ出た。

 

リオードの夜は、昼よりも色鮮やかだった。

 

天幕の下へ吊るされた灯り。

 

赤。

 

青。

 

橙。

 

香炉から立ち上る白い煙。

 

楽器の音。

 

踊り子の衣装についた小さな鈴。

 

砂漠の風が通り抜けるたびに、街全体が揺れているように見える。

 

「何か買うのか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「見て回るだけだ」

 

バンは答えた。

 

「珍しいな」

 

「金がねぇ」

 

「正直だな」

 

バンの財布には、銅貨がほんの数枚しか残っていない。

 

酒。

 

菓子。

 

細かな買い物。

 

それだけで、ほとんど使い果たしていた。

 

露店を覗く。

 

青い石の首飾り。

 

銀細工。

 

砂漠の獣を模した木彫り。

 

香油。

 

布。

 

小さな笛。

 

どれも手に取るだけで、買わない。

 

「本当に見るだけか」

 

アルフィアが言う。

 

「見るだけなら無料だろ」

 

「盗むな」

 

「盗らねぇよ」

 

「視線が怪しい」

 

「綺麗だなって見てるだけだ」

 

「どれが?」

 

「これ」

 

バンが指したのは、月を象った銀色の飾りだった。

 

細い鎖の先に、小さな三日月。

 

その中央へ、白い石が嵌め込まれている。

 

アンタレスの地下で見た、月明かりのような存在。

 

名もない結晶の中で揺れる銀色の光。

 

それらを思い出したのかもしれない。

 

「買うのか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「金がねぇって」

 

「貸さんぞ」

 

「分かってる」

 

バンは飾りから手を離した。

 

「見るだけでいい」

 

それ以上は何も言わず、先へ進む。

 

夜市の中央では、旅芸人たちが音楽を奏でていた。

 

弦を弾く音。

 

太鼓の低い響き。

 

笛の高い音色。

 

人々が輪になり、踊っている。

 

「踊るか?」

 

バンがアルフィアへ尋ねる。

 

「断る」

 

「即答かよ」

 

「お前と踊る理由がない」

 

「ザルドは?」

 

「俺が踊るように見えるか」

 

「意外とうまいかもしれねぇだろ」

 

「試すか?」

 

「やめとく」

 

バンは笑い、人々の輪へ目を向けた。

 

子供。

 

商人。

 

旅人。

 

獣人。

 

亜人。

 

皆が音楽に合わせ、足を鳴らしている。

 

誰が街の者で。

 

誰が明日去る旅人なのか。

 

外から見ただけでは分からない。

 

リオードは、誰かを迎え。

 

誰かを送り出す。

 

それを毎日繰り返す街だった。

 

「いい街だったな」

 

バンが何気なく言う。

 

ザルドが横目で見る。

 

「気に入ったか」

 

「ああ。飯もうまい。酒もうまい。人も悪くねぇ」

 

「お前は食い物ばかりだな」

 

アルフィアが言う。

 

「お前だって菓子気に入ってただろ」

 

「保存性を評価しただけだ」

 

「まだ言うか」

 

「事実だ」

 

「また来てもいいな」

 

バンは夜市の灯りを眺める。

 

「帰り道が同じとは限らん」

 

ザルドが答えた。

 

「なら、別の道から来ればいい」

 

「簡単に言う」

 

「旅なんて、そんなもんだろ」

 

どこへ行くか。

 

いつ戻るか。

 

そもそも戻れるのか。

 

分からない。

 

それでも、気に入った場所は覚えておけばいい。

 

腹が減った時。

 

酒が飲みたい時。

 

誰かとくだらない話をしたい時。

 

思い出せる場所が一つ増える。

 

それで十分だった。

 

「戻るぞ」

 

アルフィアが言った。

 

「もう?」

 

「明日は早い」

 

「夜市はこれからだぞ」

 

「寝不足で歩くつもりか」

 

「オレは平気だ」

 

「私たちが迷惑する」

 

「あと一周」

 

「駄目だ」

 

「一軒だけ」

 

「駄目だ」

 

「酒は買わねぇから」

 

「当然だ」

 

「じゃあ菓子」

 

「もう買った」

 

「見るだけ」

 

「さっき見ただろ」

 

バンは不満そうに口を尖らせた。

 

それでも、宿へ向かう二人の後を追う。

 

夜市の明かりが、少しずつ遠ざかる。

 

音楽も。

 

人々の笑い声も。

 

香草と焼いた肉の匂いも。

 

白い街並みの向こうへ薄れていく。

 

振り返れば、リオードはまだ明るい。

 

明日、三人が去った後も。

 

同じように市場が開き。

 

隊商が訪れ。

 

夜には灯りがともる。

 

街は、旅人を待たずに続いていく。

 

バンは一度だけ足を止めた。

 

「どうした」

 

ザルドが振り返る。

 

「いや」

 

バンは夜市へ背を向けた。

 

「行こうぜ」

 

三人は並んで宿へ戻る。

 

修繕された赤いコートが、夜風に揺れる。

 

部屋には、旅支度を終えた背負い袋。

 

傷ついたクレシューズ。

 

名もない結晶。

 

そして、明日のためにザルドが残した煮込み料理が待っている。

 

リオードで過ごす、最後の夜。

 

その夜は戦いもなく。

 

別れの言葉さえ、大げさには口にせず。

 

静かに更けていった。




今回は、リオードで過ごす最後の一日と夜を描きました。

特に、街の子供たちから干し果物を受け取り、バンが「生きてりゃ、どっかで会うだろ」と答える場面がお気に入りです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ダンまち世界に闇の福音に転生して人類を導くのは間違っているだろうか(作者:魔法少女(偽))(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

令和を生きたアニメやマンガが好きで多少の武道の心得がある社会人がトラ転して前世の武術やアニメの技術を教えたりして色々やらかしたり助けたりして超有名人になっていく▼※他作品のキャラや武器が登場したりします


総合評価:1126/評価:7/連載:14話/更新日時:2026年07月16日(木) 09:45 小説情報

異常過ぎるのは間違っているだろうか?(作者:ダーク・シリウス)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

冒険者として生活をする事になったとある並行世界の兵藤一誠を知った神々と冒険者。▼色々無視できないことばかりするので・・・・・。▼「イッセー! ワシと覗きに行くぞ!」▼「お前はお前を愛する女を裏切らなきゃいいんだよ!」▼「なぁなぁ、なーんか楽しい事しようやー」▼「どんな手を使ってでもあなたは私のオーズにするわ」▼「炉の炎に照らされるあなた横顔と鎚の音を見聞きす…


総合評価:974/評価:7.5/連載:16話/更新日時:2026年06月13日(土) 00:00 小説情報

オラリオで娯楽革命を(作者:寝心地)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

オラリオでテレビゲームとか携帯ゲームとかカードゲームとか作って売っちゃう話。▼ダンまちにゲームキャラが転生とかゲームキャラで転生とかはあるけどゲームその物がオラリオにあるのって見ないなぁ〜と思って作りました。▼


総合評価:3101/評価:7.27/連載:119話/更新日時:2026年07月16日(木) 10:00 小説情報

騎士王は迷宮都市でひっそり暮らしたいけど、エクスカリバーのビームの撃ち方とかわかりません(作者:meiTo)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

▼・一般人の30代男性▼・Fateはネットや広告などで知ってる程度▼・ダンまちも殆ど知らない『にわか系』です。▼※勢いと創作意欲がある時だけ書きます


総合評価:1159/評価:6.44/連載:15話/更新日時:2026年03月29日(日) 16:17 小説情報

ドラクエ3の女賢者さんが、遊び人になってダンまち世界に転移してきたよ(作者:ポップ)(原作:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか)

ドラクエ3で勇者一行の一員だった女賢者さんが、大魔王ゾーマを倒した後に遊び人になって、お酒を飲んでいたらダンまち世界に転移してきた話。


総合評価:4865/評価:8/連載:53話/更新日時:2026年06月26日(金) 19:10 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>