旅立ちを翌朝に控えたリオードは、いつもと変わらず騒がしかった。
朝から隊商の鈴が鳴り、荷車が石畳を軋ませ、商人たちの声が白い街並みの間を飛び交っている。
誰かが街へ入り。
誰かが街を離れる。
砂漠の中継地であるリオードにとって、それは毎日の風景だった。
宿の部屋では、ザルドが床へ荷物を並べていた。
水袋。
保存食。
薬草。
包帯。
火打石。
予備の革紐。
小鍋と木製の食器。
一つずつ手に取り、状態を確かめては、新しく買った背負い袋の周囲へ分けていく。
袋の内部には、すでに二つの大切な荷物が収められていた。
布で厳重に包まれた聖棍クレシューズ。
そして、黒紫色の名もない結晶。
二つは厚い革の仕切りで隔てられ、毛布と革紐で固定されている。
「水袋は三つか」
ザルドが呟く。
「多くねぇか?」
窓辺に寄りかかっていたバンが言った。
修繕された赤いコートは、肩と脇腹へ臙脂色の布が当てられ、以前より僅かに重くなっている。
だが、本人は気に入ったらしい。
朝から何度も襟を直し、袖を引き、動きにくくないか確かめていた。
「砂漠を抜けた後も、水場があるとは限らん」
「足りなくなったら、どっかで奪えばいいだろ」
「誰からだ」
「盗賊とか」
「お前が言うと説得力がない」
「悪い奴から奪うなら問題ねぇだろ」
「最初から奪う前提で旅をするな」
アルフィアは寝台へ腰掛け、購入した包帯を巻き直していた。
本人は必要ないと言い張っていたが、ザルドが旅道具店で追加したものだ。
「水は多い方がいい」
「お前もそう思う?」
「お前に任せれば、水袋の代わりに酒を入れる」
「それも悪くねぇな」
「水を飲め」
「酒にも水は入ってるぞ」
「その理屈をもう一度口にしたら、瓶ごと頭へ叩き込む」
バンは肩を竦めた。
「まだ買ってねぇだろ」
「買わせるな」
「昨日、小瓶一本ならいいって話になったじゃねぇか」
「ザルドが勝手に許可した」
「俺は一本と言った」
ザルドが荷物から顔を上げる。
「大瓶ではない。小瓶だ」
「分かってるよ」
「お前の小さいは信用できん」
「じゃあ一緒に選べばいいだろ」
「なぜ俺がお前の酒を選ぶ」
「酒に強いんだろ?」
「強いことと、選ぶことは別だ」
ザルドは水袋の栓を確認し、荷物の端へ置いた。
「必要な物はほぼ揃った。足りないのは、今夜と明朝の食料くらいだ」
「保存食は買っただろ」
「街を出る前から保存食を食う必要はない」
「じゃあ、最後にうまいもん食おうぜ」
「お前は毎日同じことを言っている」
「旅の楽しみなんて、飯と酒くらいだろ」
「景色は?」
アルフィアが尋ねる。
「腹は膨れねぇな」
「会話にならない」
ザルドは立ち上がった。
「市場へ行くぞ」
「何買うんだ?」
「今夜の食材。それと、明日の朝に持たせるものだ」
「オレは酒」
「小瓶だ」
「分かってるって」
アルフィアは包帯を荷物へ戻し、立ち上がる。
「私は行かない」
「何でだよ」
「昨日も市場を歩いた。必要な物はない」
「棗椰子の菓子は?」
アルフィアの動きが止まる。
「……必要ない」
「昨日食ってたじゃねぇか」
「あれは無駄にしないためだ」
「今日は買わなくても無駄にならねぇぞ」
「黙れ」
「じゃあ、オレが買ってくる」
「好きにしろ」
「蜂蜜多めの奴でいいか?」
アルフィアの視線が、ゆっくりとバンへ向いた。
「なぜ私に聞く」
「食うかもしれねぇだろ」
「食べない」
「じゃあ一つだけにするか」
「……日持ちする物を選べ」
「食う気じゃねぇか」
「旅の保存食としてだ」
「へいへい」
「返事は一度だ」
バンが笑い、ザルドと共に部屋を出る。
アルフィアは数秒その場に立っていた。
そして、小さく舌打ちをすると、二人の後を追った。
◇
昼前の市場は、人で溢れていた。
色鮮やかな天幕。
山積みにされた香辛料。
乾燥させた果物。
革製品。
金属器。
砂漠を越えて運ばれてきた織物や装飾品。
通りの両側から、様々な匂いが漂ってくる。
焼いた肉。
煮込んだ豆。
甘い蜜。
香草。
乾いた土。
水路から運ばれる冷たい水の匂い。
「まず肉だ」
ザルドは迷いなく食料品の並ぶ一角へ向かった。
「酒が先でもいいだろ」
「後だ」
「売り切れたらどうする」
「酒が売り切れる街ではない」
リオードの特産品の一つが、砂漠の霧酒だった。
市場のあちこちに酒屋があり、透明な酒を詰めた瓶が棚へずらりと並んでいる。
「オレの心配してくれてんのか?」
「お前が先に酒を買えば、そのまま飲み始める」
「歩きながらは飲まねぇよ」
「宿へ戻る前に飲む」
「一杯くらいなら」
「やはり後だ」
ザルドは肉屋の前で足を止めた。
吊るされているのは、羊肉と砂漠トカゲの肉。
皮を剥いだ小型のトカゲが数匹並べられ、その隣では白い肉が部位ごとに切り分けられている。
「今日はトカゲか?」
バンが尋ねる。
「保存には向かん」
「今夜食う分だろ?」
「それなら悪くない」
ザルドは肉を手に取り、指で弾いた。
弾力。
匂い。
脂の付き方。
骨との境目。
店主が黙って見守る中、次々と確かめていく。
「これと、羊の肩肉を少し」
「両方食うのか?」
「トカゲは焼く。羊は明朝まで持つ煮込みにする」
「朝から重くねぇか?」
「旅立つ日に腹を減らす方が悪い」
ザルドは肉の代金を払い、包みを受け取った。
次は野菜。
乾燥豆。
小さな玉葱。
香草。
干した柑橘の皮。
塩。
「また料理すんのか」
「宿の厨房を借りる」
「最後の夜くらい、店で食えばいいだろ」
「買った保存食に手を加える。ついでだ」
「料理人って働き者だな」
「お前が何もしないだけだ」
「オレは食う担当」
「最も不要な担当だ」
アルフィアは二人のやり取りを無視し、果物を並べた店へ目を向けた。
棗椰子。
干し葡萄。
薄く切って乾燥させた柑橘。
砂糖と蜜で固めた木の実。
その隣には、棗椰子の実へ砕いた木の実を詰め、表面へ蜂蜜を塗った菓子が並んでいる。
バンも気づいた。
「ほら、保存食」
「勝手にしろ」
「何個?」
「知らない」
「一つ?」
アルフィアは答えない。
「二つ?」
沈黙。
「三つにするか」
「多い」
「じゃあ二つだな」
「一つでいい」
「食うんじゃねぇか」
「保存食だと言った」
「はいはい」
バンは菓子を二つ購入した。
一つを旅用の包みへ。
もう一つをその場でアルフィアへ差し出す。
「何だ」
「試食」
「いらない」
「毒が入ってるかもしれねぇぞ」
「お前が食え」
「オレが食ったらなくなる」
「構わない」
「じゃあ、もらうぞ」
バンが口へ運ぼうとした瞬間。
アルフィアの手が伸びた。
菓子が消える。
「毒見する」
「素直じゃねぇな」
「雑音だ」
アルフィアは小さく一口齧った。
甘い蜜。
柔らかい棗椰子。
香ばしい木の実。
表情は変わらない。
だが、菓子をバンへ返すこともなかった。
「どうだ?」
「毒はない」
「味を聞いたんだけどな」
「問題ない」
「気に入ったんだろ」
「黙れ」
ザルドが店主へ向き直る。
「旅用にもう三つ包んでくれ」
「ザルド?」
アルフィアの声が僅かに低くなる。
「保存性が高い」
「余計なことをするな」
「俺も食う」
ザルドは平然と答えた。
バンが笑う。
「お前も好きなんじゃねぇか」
「食える物を買っているだけだ」
「似た者同士だな」
「一緒にするな」
アルフィアとザルドの声が重なった。
「息ぴったりじゃねぇか」
二人の視線が同時にバンへ向く。
バンは両手を上げ、先へ歩いた。
◇
昼を過ぎた頃。
三人は市場の外れにある酒屋へ入った。
木造の棚には、大小さまざまな瓶が並べられている。
透明なもの。
薄い琥珀色のもの。
香草を漬け込んだ緑がかったもの。
バンの目が輝いた。
「結構あるな」
「小瓶一本だ」
ザルドが念を押す。
「分かってる」
「その大瓶を見るな」
「見てるだけだよ」
「手を伸ばすな」
「見るだけならいいだろ」
「お前は目で酒を飲むのか」
アルフィアの言葉に、店主が笑った。
「旅用なら、こちらがいいですよ」
店主が差し出したのは、掌より少し大きい細長い瓶だった。
中身は透明。
栓は蝋で固められ、革紐で首を縛っている。
「砂漠の霧酒です。香草は強めですが、日持ちします。水で割れば少量でも香りが立つ」
「もうちょっと大きいのは?」
「ない」
ザルドが答えた。
「店主に聞いてんだよ」
「ありますが」
「ない」
今度はアルフィアが言った。
「二人して何なんだよ」
「小瓶一本という約束だ」
「じゃあ、これでいい」
バンはしぶしぶ小瓶を受け取った。
代金を払おうとして、手元の硬貨を見る。
銅貨数枚。
銀貨一枚。
酒代を払えば、ほとんど残らない。
「足りるのか?」
ザルドが尋ねる。
「ぎりぎりな」
「食事代は?」
「お前が作るんだろ?」
「材料費がかかっている」
「それは旅の経費だ」
「お前の酒も経費か?」
「当然」
「違う」
アルフィアが即座に否定した。
バンは銀貨を店主へ渡し、釣りを受け取る。
残ったのは、本当に僅かな銅貨だけだった。
「これで一文無しに近いな」
「オラリオに着いたら稼ぐ」
「どうやって?」
「盗賊捕まえたり、魔物倒したり」
「オラリオにはギルドの規則がある」
「じゃあ料理でも売るか」
「作るのは俺だ」
「オレが客を呼ぶ」
「お前が酒を飲んで利益を消す」
「うまくいかねぇな」
バンは小瓶をコートの内側へ入れた。
アルフィアが手を出す。
「寄越せ」
「何でだよ」
「背負い袋へ入れる」
「クレシューズや結晶と一緒にすんのか?」
「別の外袋だ。お前に持たせれば、今夜で空になる」
「今夜飲む分だろ?」
「旅用だ」
「全部飲むとは言ってねぇよ」
「半分残せ」
「少なすぎねぇ?」
「なら全部預かる」
「半分残す」
「最初からそう言え」
アルフィアは小瓶を受け取り、購入した食料と一緒に持った。
「信用ねぇなぁ」
「昨日までの行動を振り返れ」
「何かしたか?」
「一人で遺跡へ行った」
「それと酒は関係ねぇだろ」
「勝手な行動という点では同じだ」
反論できず、バンは頭を掻いた。
◇
市場を離れようとした時。
「兄ちゃん!」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、獣人の少年がこちらへ走ってくる。
第34話の朝市で、荷車の下へ転がった商品をバンが《強奪》で拾い上げて助けた少年だった。
その後ろから、同じ年頃の子供たちが数人ついてくる。
「何だ?」
少年は息を切らしながら、布の包みを差し出した。
「明日、街を出るんだろ?」
「誰に聞いた?」
「宿の人」
「話、広ぇな」
「これ、持ってって」
布の中には、薄く切った干し果物が入っていた。
柑橘。
棗椰子。
酸味の強い赤い実。
いずれも旅人向けに乾燥させたものだった。
「いいのか?」
「母ちゃんが、旅の人に渡せって」
「オレだけ?」
少年はザルドとアルフィアを見る。
「三人で食べて」
「そうか」
バンは包みを受け取った。
普段なら軽口の一つでも返すところだが、しばらく何も言わなかった。
「ありがとな」
「また来る?」
「さあな」
「来ないの?」
「旅人なんでな」
少年の顔が少し曇る。
バンはしゃがみ、少年と目線を合わせた。
「でも、また近くを通ったら寄るよ」
「本当?」
「たぶんな」
「たぶんじゃ駄目だよ」
「難しいこと言うなぁ」
バンは笑い、少年の頭を乱暴に撫でた。
「生きてりゃ、どっかで会うだろ」
少年は少し考えてから頷いた。
「兄ちゃんも死ぬなよ」
「オレが?」
「この前、腕怪我してたから」
「もう治った」
バンは両腕を広げて見せる。
「ほらな」
「でも、また怪我するだろ」
「お前、アルフィアみてぇなこと言うな」
少年が首を傾げる。
「誰?」
「そこの怖い姉ちゃん」
「聞こえているぞ」
背後から低い声が飛ぶ。
少年たちは一斉にアルフィアを見る。
数秒。
全員がバンの後ろへ隠れた。
「怖がらせんなよ」
「何もしていない」
「顔だろ」
「殺すぞ」
「ほらな」
子供たちがさらに身を縮める。
ザルドが喉の奥で笑い、干し果物の包みを受け取った。
「ありがたくもらう」
「でっかい兄ちゃん、全部食べないでよ」
「努力する」
「約束して」
「……分かった」
ザルドが珍しく押し切られた。
バンは声を上げて笑う。
「子供に弱ぇな」
「お前も同じだろう」
「オレは優しいからな」
「自分で言うな」
少年たちと別れ、三人は宿へ戻った。
◇
夕方。
宿の厨房から、香草と肉の匂いが漂っていた。
ザルドは大きな鍋の前に立っている。
羊の肩肉。
豆。
玉葱。
干した柑橘の皮。
香辛料。
水を少なめにし、弱火でじっくり煮込んでいた。
明朝まで傷まないよう、塩は少しだけ強め。
だが、喉が渇くほどではない。
隣では、砂漠トカゲの肉が串へ刺され、火の上で回されている。
表面から脂が落ち。
炭へ触れて煙が上がる。
白い肉の表面が、少しずつ黄金色へ変わっていく。
「いい匂いだな」
バンが厨房の入口から顔を出す。
「入るな」
「何でだよ」
「つまみ食いする」
「味見だ」
「不要だ」
「料理人一人じゃ、味の確認できねぇだろ」
「俺が食う」
「自分の味に甘くなるぞ」
「俺はならん」
ザルドは鍋を一度かき混ぜる。
「市場で買った干し果物を分けておけ。明日の分と、今夜食う分だ」
「へいへい」
「つまむな」
「分かってる」
バンは布の包みを開いた。
柑橘。
棗椰子。
赤い実。
三種類を均等に分けていく。
一つ。
二つ。
三つ。
柑橘を一枚、口へ放り込む。
「つまむなと言った」
「数が半端だった」
「見ていたぞ」
「目いいな」
「次に食えば、今夜の酒はなしだ」
「それは困る」
バンは急に真面目になり、干し果物を分け始めた。
厨房の隅では、アルフィアが椅子へ座り、本を読んでいる。
「何でここにいんだ?」
バンが尋ねる。
「部屋で待っていれば、お前が勝手に酒を開ける」
「信用なさすぎだろ」
「当然だ」
「本読んでるなら見てねぇじゃん」
「音で分かる」
「栓抜く音まで?」
「分かる」
「化け物だな」
「消すぞ」
バンは口を閉じた。
ザルドが串を火から外す。
「焼けたぞ」
「待ってました」
「皿を持て」
三人は宿の小さな食堂へ料理を運んだ。
窓の外では、夕日がオアシスの水面を赤く染めている。
白い建物の壁。
遠くの砂丘。
市場の天幕。
すべてが柔らかな橙色へ変わっていた。
机の中央へ、砂漠トカゲの丸焼き。
煮込んだ羊肉と豆。
平たいパン。
刻んだ香草と塩。
そして、小さな杯が三つ。
「三つ?」
バンがアルフィアを見る。
「飲まないぞ」
「水でも入れりゃいいだろ」
「私は水でいい」
バンはアルフィアから小瓶を返してもらう。
蝋で固められた栓を外す。
透明な酒。
強い香草の匂い。
薬のような香りの奥に、甘さと鋭さがある。
「半分だけだぞ」
アルフィアが言う。
「分かってる」
「線を引いておいた」
瓶を見ると、細い糸が中央へ巻かれていた。
「本当に信用ねぇな」
「早く注げ」
バンは自分とザルドの杯へ、少量ずつ酒を注ぐ。
アルフィアの杯には、冷たい井戸水。
バンが自分の酒へ、数滴だけ水を落とした。
透明だった酒が。
一瞬で、乳白色へ変わる。
「何度見ても面白ぇな」
「味は変わらん」
ザルドも水を落とす。
「香りが開く」
「お前、酒も詳しいな」
「食に関するものなら一通りは試す」
「悪食だけじゃなかったんだな」
「悪食を極めるなら、美食も知らねばならん」
「理屈がおかしいだろ」
「お前に言われたくない」
ザルドが杯を持ち上げる。
「何に乾杯する」
バンが尋ねる。
「必要か?」
アルフィアが冷たく言う。
「最後の夜だぞ」
「明日の朝もいる」
「細けぇな」
バンは少し考えた。
「じゃあ、リオードに」
ザルドが杯を上げる。
「悪くない」
アルフィアも、水の入った杯を僅かに持ち上げた。
「世話になった街にな」
三つの杯が、軽く触れた。
バンが酒を口へ運ぶ。
薬草のような香り。
舌を刺す鋭さ。
喉を焼く熱。
その後に、砂漠の乾いた空気を洗い流すような爽快感が残る。
「うまい」
「一気に飲むな」
アルフィアが言う。
「まだ一口だぞ」
「お前の一口は大きい」
ザルドがトカゲの肉を切り分ける。
皮は香ばしく焼け。
中の白い肉は、引き締まりながらも肉汁を保っている。
塩と香草を振り、平たいパンへ挟む。
「食え」
バンが受け取り、勢いよく齧る。
「うまっ」
「口へ物を入れたまま喋るな」
アルフィアが言う。
「お前も食えよ」
「自分で取る」
アルフィアは小さく切り分けた肉を口へ運ぶ。
噛む。
香草と脂の香り。
硬すぎず、柔らかすぎない肉質。
「どうだ?」
ザルドが尋ねる。
「悪くない」
「またそれか」
バンが笑う。
「うまい時くらいうまいって言えばいいだろ」
「言う必要がない」
「作った奴は聞きたいんじゃねぇの?」
ザルドがアルフィアを見る。
「……火の入れ方はいい」
「それで十分だ」
「通じ合ってんな」
「黙って食え」
次は羊肉と豆の煮込み。
肉は崩れるほど柔らかく。
豆には香辛料と肉の旨味が染み込んでいる。
干した柑橘の皮が、重さの中へ僅かな苦味と爽やかさを加えていた。
「これ、明日の朝の分残るか?」
バンが鍋を見る。
「お前が食い尽くさなければな」
「足りなくねぇ?」
「普通の三人なら十分だ」
「普通じゃねぇ奴が二人いるぞ」
バンは自分とザルドを指す。
「お前と一緒にするな」
「食う量は似たようなもんだろ」
「俺は必要だから食う」
「オレも必要だ」
「酒のためだろう」
「それもある」
夜が深まるまで、三人はゆっくりと食事を続けた。
砂漠トカゲの肉。
羊肉と豆。
平たいパン。
干し果物。
棗椰子の菓子。
霧酒。
冷たい井戸水。
大きな事件は起こらない。
魔物も現れない。
武器を振るう必要もない。
ただ食べ。
飲み。
くだらないことで言い争い。
時折、三人で笑う。
それだけの夜だった。
◇
食事を終えた後。
三人は最後にもう一度、夜市へ出た。
リオードの夜は、昼よりも色鮮やかだった。
天幕の下へ吊るされた灯り。
赤。
青。
橙。
香炉から立ち上る白い煙。
楽器の音。
踊り子の衣装についた小さな鈴。
砂漠の風が通り抜けるたびに、街全体が揺れているように見える。
「何か買うのか?」
ザルドが尋ねる。
「見て回るだけだ」
バンは答えた。
「珍しいな」
「金がねぇ」
「正直だな」
バンの財布には、銅貨がほんの数枚しか残っていない。
酒。
菓子。
細かな買い物。
それだけで、ほとんど使い果たしていた。
露店を覗く。
青い石の首飾り。
銀細工。
砂漠の獣を模した木彫り。
香油。
布。
小さな笛。
どれも手に取るだけで、買わない。
「本当に見るだけか」
アルフィアが言う。
「見るだけなら無料だろ」
「盗むな」
「盗らねぇよ」
「視線が怪しい」
「綺麗だなって見てるだけだ」
「どれが?」
「これ」
バンが指したのは、月を象った銀色の飾りだった。
細い鎖の先に、小さな三日月。
その中央へ、白い石が嵌め込まれている。
アンタレスの地下で見た、月明かりのような存在。
名もない結晶の中で揺れる銀色の光。
それらを思い出したのかもしれない。
「買うのか?」
ザルドが尋ねる。
「金がねぇって」
「貸さんぞ」
「分かってる」
バンは飾りから手を離した。
「見るだけでいい」
それ以上は何も言わず、先へ進む。
夜市の中央では、旅芸人たちが音楽を奏でていた。
弦を弾く音。
太鼓の低い響き。
笛の高い音色。
人々が輪になり、踊っている。
「踊るか?」
バンがアルフィアへ尋ねる。
「断る」
「即答かよ」
「お前と踊る理由がない」
「ザルドは?」
「俺が踊るように見えるか」
「意外とうまいかもしれねぇだろ」
「試すか?」
「やめとく」
バンは笑い、人々の輪へ目を向けた。
子供。
商人。
旅人。
獣人。
亜人。
皆が音楽に合わせ、足を鳴らしている。
誰が街の者で。
誰が明日去る旅人なのか。
外から見ただけでは分からない。
リオードは、誰かを迎え。
誰かを送り出す。
それを毎日繰り返す街だった。
「いい街だったな」
バンが何気なく言う。
ザルドが横目で見る。
「気に入ったか」
「ああ。飯もうまい。酒もうまい。人も悪くねぇ」
「お前は食い物ばかりだな」
アルフィアが言う。
「お前だって菓子気に入ってただろ」
「保存性を評価しただけだ」
「まだ言うか」
「事実だ」
「また来てもいいな」
バンは夜市の灯りを眺める。
「帰り道が同じとは限らん」
ザルドが答えた。
「なら、別の道から来ればいい」
「簡単に言う」
「旅なんて、そんなもんだろ」
どこへ行くか。
いつ戻るか。
そもそも戻れるのか。
分からない。
それでも、気に入った場所は覚えておけばいい。
腹が減った時。
酒が飲みたい時。
誰かとくだらない話をしたい時。
思い出せる場所が一つ増える。
それで十分だった。
「戻るぞ」
アルフィアが言った。
「もう?」
「明日は早い」
「夜市はこれからだぞ」
「寝不足で歩くつもりか」
「オレは平気だ」
「私たちが迷惑する」
「あと一周」
「駄目だ」
「一軒だけ」
「駄目だ」
「酒は買わねぇから」
「当然だ」
「じゃあ菓子」
「もう買った」
「見るだけ」
「さっき見ただろ」
バンは不満そうに口を尖らせた。
それでも、宿へ向かう二人の後を追う。
夜市の明かりが、少しずつ遠ざかる。
音楽も。
人々の笑い声も。
香草と焼いた肉の匂いも。
白い街並みの向こうへ薄れていく。
振り返れば、リオードはまだ明るい。
明日、三人が去った後も。
同じように市場が開き。
隊商が訪れ。
夜には灯りがともる。
街は、旅人を待たずに続いていく。
バンは一度だけ足を止めた。
「どうした」
ザルドが振り返る。
「いや」
バンは夜市へ背を向けた。
「行こうぜ」
三人は並んで宿へ戻る。
修繕された赤いコートが、夜風に揺れる。
部屋には、旅支度を終えた背負い袋。
傷ついたクレシューズ。
名もない結晶。
そして、明日のためにザルドが残した煮込み料理が待っている。
リオードで過ごす、最後の夜。
その夜は戦いもなく。
別れの言葉さえ、大げさには口にせず。
静かに更けていった。
今回は、リオードで過ごす最後の一日と夜を描きました。
特に、街の子供たちから干し果物を受け取り、バンが「生きてりゃ、どっかで会うだろ」と答える場面がお気に入りです。