赤い旅人の続きになります。
朝のミーネ村は、思ったよりも賑やかだった。
鶏の鳴き声。
井戸の水を汲む音。
畑へ向かう者たちの足音。
薪を割る乾いた音。
鍋の中で粥が煮える匂い。
バンは納屋の干し草の上で目を開けた。
知らない天井。
知らない匂い。
知らない世界。
それでも、朝飯の匂いは分かる。
「……いい匂いだな」
上体を起こすと、身体のあちこちが少しだけ痛んだ。
混沌の裂け目に飲み込まれた影響か。
昨日の戦闘のせいか。
あるいは、慣れない世界の空気そのものが身体に合っていないのか。
不死身だった頃なら、気にする必要もなかった痛みだ。
今は違う。
傷は残る。
痛みも残る。
無茶をすれば、その分だけ身体に返ってくる。
バンは肩を回し、小さく息を吐いた。
「ま、動くなら問題ねぇか」
立ち上がり、納屋の扉を開ける。
朝の光が差し込んだ。
村の中央では、すでに湯気の立つ鍋が置かれていた。
昨日助けた少年、トマがバンを見つけて大きく手を振る。
「あ、起きた!」
「飯か?」
「はい!」
「いい村だな」
バンは即答した。
火のそばに座ると、トマの母親が木の椀に粥をよそってくれた。
麦と豆を煮た粥。
そこに、昨夜の黒背狼の肉を細かく裂いたものが混ざっている。
香草と塩で味を整えただけの素朴なものだったが、朝の腹にはちょうどいい。
バンは一口食べた。
「悪くねぇ」
「よかったです。昨日教えてもらった通り、肉は一度焼いてから入れました」
「その方が臭みが抜ける」
「本当に違いました。村の皆も驚いてましたよ」
「肉は扱い方で変わるからな」
バンは粥を食べながら、村を見回した。
昨日の騒ぎはまだ尾を引いている。
荷馬車は修理中。
ガルドは家の中で寝かされている。
村人たちは普段より少し緊張している。
それでも、朝飯を食う顔は悪くなかった。
トマが隣に座る。
「バンさんって、本当に旅人なんですか?」
「ああ」
「どこから来たんですか?」
「遠いとこ」
「どれくらい遠いんですか?」
「説明すんのが面倒なくらい」
「それ、すごく遠いってことですか?」
「たぶんな」
トマは不思議そうに首を傾げた。
バンは粥を食べ終え、椀を置く。
「なあ、坊主」
「トマです」
「トマ。昨日言ってたオラリオってのは、どんなとこだ?」
トマの目が少し輝いた。
「オラリオは、すごい都市です!世界で一番大きな冒険者の街で、地下にダンジョンがあるんです!」
「ダンジョンねぇ」
「地面の下に、ずっと続く迷宮があるって聞きました。そこから魔物が生まれて、冒険者たちが入って、魔石や素材を取ってくるんです」
「魔石って、昨日言ってたやつか」
「はい。魔物の中にある石です。道具を動かしたり、明かりに使ったり、色々できるって」
「肉より便利そうだな」
「普通はそう思うと思います」
トマは少し笑った。
バンは村の端に積まれている黒背狼の皮を見た。
「ここの魔物には、それがねぇ」
「地上の魔物は、ないやつが多いって聞きました。だから、肉とか皮とか牙を使います。でも、オラリオのダンジョンの魔物は魔石があって、倒すと灰になるものも多いって」
「灰になったら食えねぇじゃねぇか」
「でも、肉が残る魔物もいるらしいです。ドロップアイテムっていうんだって、父さんが言ってました」
「落とし物か」
「落とし物……なのかな?」
トマは困った顔をした。
バンは面白そうに笑う。
「そのダンジョンってのは、腹減ってる場所なのか?」
「え?」
「魔物を生んで、魔石を持たせて、人間に取りに来させるんだろ。腹減ってる奴みてぇだなって」
トマはきょとんとした。
その時、近くで聞いていた年配の男が低く笑った。
「変なことを言う旅人だな」
昨日、黒背狼の解体をしていた村人だった。
名はロッソというらしい。
顔に深い皺があり、右目の下に古い傷がある。
若い頃には、村の外で護衛仕事をしたこともあるという。
ロッソは木の杯を持って、バンの向かいに座った。
「だが、ダンジョンを腹の減った怪物と見るのは、あながち間違いでもないかもしれん」
「へぇ」
「オラリオのダンジョンは生きている、と言う者もいる。壁から魔物を生む。壊されれば直る。神の力にも反応する。あれは、ただの穴ではない」
「面白そうだな」
「普通は怖がるところだ」
「怖くても、面白いもんは面白いだろ」
ロッソは呆れたように笑った。
「お前さん、本当に変わっている」
「よく言われる」
バンは木の杯に残っていた水を飲んだ。
「で、そのオラリオには神様もいるって聞いたが」
「ああ。下界へ降りた神々がいる」
ロッソは少し声を落とした。
「神々はファミリアを作る。自分の眷族を集め、恩恵を与える。冒険者はその恩恵で強くなるんだ」
「恩恵」
「神の血、と言う者もいるな。背中に刻まれる力だ。能力値、スキル、魔法。戦い、経験を積み、偉業を成せば、器が上がる。レベルが上がる」
「背中に名前でも書かれんのか?」
「神の文字でな」
「へぇ」
バンは自分の背中を軽く叩いた。
「俺にはいらねぇな」
トマが驚いた顔をした。
「えっ!?神様の恩恵ですよ!?みんな欲しがるものですよ!」
「欲しい奴は貰えばいいだろ」
「バンさんはいらないんですか?」
「俺は俺のままで歩く」
バンはあっさり言った。
「誰かの背中に名前を書かれねぇと立てねぇわけじゃねぇしな」
ロッソは目を細めた。
馬鹿にしているような言い方ではなかった。
神を侮辱しているわけでもない。
ただ、本当に必要としていない。
そういう声だった。
「神に喧嘩を売るようなことを、村では言うなよ」
「売ってねぇよ。いらねぇってだけだ」
「それでも神によっては気にする」
「面倒くせぇな、神様ってのは」
「そこは否定せん」
ロッソは小さく笑った。
バンも笑った。
だが、その内側で、彼は少しだけ考えていた。
神の恩恵。
ステイタス。
レベル。
スキル。
魔法。
この世界では、神の恩恵を受けた者が、その力を引き出されて強くなる。
元の世界とは違う。
バンの力は、神から与えられたものではない。
妖精王の森の泉から始まり、盗賊としての経験を重ね、煉獄で鍛えられ、不死を失い、それでも残ったものだ。
強奪《スナッチ》。
奪う力。
そして、贈物《ギフト》。
与える力。
どちらも、神の背中に刻まれたものではない。
だが、昨日からその感覚は遠い。
この世界の生き物は、少し違う理で動いている。
魔物も、人間も、魔力も。
バンは右手を軽く握った。
ロッソがそれに気づく。
「どうした」
「いや」
バンは右手を開く。
「この世界、盗りづれぇなと思ってな」
「盗りづらい?」
「ああ」
ロッソは眉をひそめた。
「お前さん、盗賊か?」
「昔はな」
「今は?」
「旅人」
「答えになっているようで、なっていないな」
「よく言われる」
トマが興味津々で身を乗り出した。
「昨日、魔物の動きが変になったのって、バンさんが何かしたんですか?」
「少し盗った」
「何をですか?」
「勢い」
「勢いって盗めるんですか?」
「盗れる」
「すごい……」
「前はもっと盗れたんだけどな」
バンは何気なく言った。
トマは首を傾げる。
ロッソは、その言葉を聞き逃さなかった。
「前は、か」
「あ?」
「この世界に来てから、力がうまく使えんのか」
バンは少しだけ黙った。
それから、肩をすくめる。
「まあな。落ちたってより、指に引っかからねぇ感じだ。ここの魔力ってのか、命の流れってのか、そういうもんが妙に違う」
「それで、あれだけ戦えるのか」
「三匹くらいならな」
「普通は三匹も相手にせん」
「腹減ってたからな」
「それで済む話ではない」
ロッソは苦笑した。
しかし、目は真剣だった。
「オラリオに行くなら、覚えておけ。あそこでは強いだけでは足りん。神、ファミリア、ギルド、商人、鍛冶師、冒険者。力の流れが複雑だ」
「飯屋もあるか」
「ある」
「酒場は」
「山ほどある」
「なら行く価値はあるな」
トマが笑った。
「バンさん、本当に飯と酒なんですね」
「大事だろ」
「大事ですけど」
「腹が減ってると、人間ろくなこと考えねぇからな」
ロッソは頷いた。
「それは正しい」
バンは少し気をよくしたように椀を差し出した。
「粥、もう一杯」
「はい!」
トマが嬉しそうに椀を受け取り、母親の元へ走っていった。
その日の昼前、バンは村の手伝いをしていた。
正確には、飯の礼に働かされていた。
壊れた荷馬車を直す。
黒背狼の皮を干すための木枠を組む。
畑の端に倒れた柵を立て直す。
重い水桶を運ぶ。
村人たちは最初、バンに遠慮していた。
だが、バンが「飯の礼だろ」と言うと、だんだん普通に頼むようになった。
「赤い兄ちゃん、その丸太をこっちへ」
「あいよ」
「そこの杭を打ってくれ」
「これか?」
「力入れすぎるな!地面まで割れる!」
「注文が多いな」
バンが杭を打つたびに、村人たちは驚いたり笑ったりした。
彼の力は異常だった。
ステイタスも恩恵もないのに、普通の人間では到底できないことを平然とやる。
ロッソはその様子を遠くから見ていた。
トマが隣で言う。
「バンさん、神様の恩恵がないんですよね?」
「ああ言っていたな」
「なのに、あんなに強いんですか?」
「世の中には、神の物差しでは測れないものもある」
「神様よりすごいってことですか?」
「そういう意味ではない」
ロッソはトマの頭を軽く叩いた。
「神の恩恵は、下界の者を強くする仕組みだ。だが、世界にはその仕組みの外にいる者もいる。精霊に育てられた者、古代の英雄、異国の達人、神々がまだ知らぬ怪物。あの赤い旅人も、そういう類なのかもしれん」
「バンさん、怪物なんですか?」
「本人に聞くなよ。たぶん笑う」
その頃、バンは丸太を担ぎながら、くしゃみをした。
「誰か噂してんな」
午後になると、村に小さな行商人の荷馬車がやってきた。
昨日の騒ぎを聞いたのか、行商人は黒背狼の皮と牙を見て目を丸くした。
「これは上物だな。誰が狩った?」
村人たちが一斉にバンを見る。
行商人もバンを見た。
「……あんたが?」
「飯のついでにな」
「飯のついでで黒背狼を三匹?」
「腹減ってたからな」
行商人は何度か瞬きをした。
「変わった人だ」
「よく言われる」
行商人は皮と牙を買い取り、代わりに塩、少量の香辛料、布、そして麦酒の小樽を置いていった。
バンの目が小樽で止まる。
行商人はすぐに気づいた。
「飲むかい?」
「売り物だろ」
「一杯くらいなら。黒背狼を狩った人にケチはつけられない」
「いい奴だな」
木の杯に麦酒が注がれる。
バンはそれを飲んだ。
昨日の村の酒より少しだけ濃い。
麦の香りも強い。
ただし、まだ粗い。
「悪くねぇ」
行商人は嬉しそうに笑った。
「オラリオへ行けば、もっといい酒があるよ」
「らしいな」
「行くのかい?」
「飯と酒があるならな」
「それだけでオラリオへ?」
「あと、迷子を探す」
「迷子?」
「棒だ」
「棒?」
「大事な棒だ」
行商人はますます分からないという顔をした。
バンは説明する気がなかった。
クレシューズ。
混沌の裂け目で離れた相棒。
気配はまだ遠い。
この世界のどこかに落ちたのか、誰かに拾われたのか、あるいは別の場所へ飛ばされたのか。
だが、あれがただの武器で終わるようなものではないことを、バンはよく知っている。
自分がこの世界に来たなら、あれもどこかにある。
そんな気がした。
夕方、ロッソがバンに古い地図を見せた。
粗い地図だった。
村の位置。
街道。
近くの川。
森。
そして、遠くに書かれた大きな丸。
「これがオラリオだ」
「結構あるな」
「歩けば数日。途中に町もある。道を外れなければ、大きな危険は少ない」
「魔物は?」
「出る」
「少ないって言っただろ」
「大きな危険は少ないと言った」
「小さい危険はあるのか」
「旅に危険がないと思うな」
「そりゃそうだ」
バンは地図を見る。
オラリオ。
ダンジョンを抱える都市。
神々が歩く街。
冒険者が集まり、魔石が流れ、酒場が山ほどある場所。
この世界を知るなら、そこへ行くのが一番早い。
それに、クレシューズの手がかりも、物が集まる街なら見つかるかもしれない。
「この地図、もらっていいか」
「古いものでよければな」
「助かる」
「礼なら、もう十分働いてもらった」
「飯もうまかったしな」
ロッソは笑った。
「お前さんは、本当にそればかりだ」
「分かりやすくていいだろ」
「そうだな。分かりやすい旅人は嫌いではない」
夜、村では小さな食卓が囲まれた。
黒背狼の干し肉にする分を除き、残った肉は再び煮込みになった。
行商人から得た塩と香辛料を少しだけ使ったため、昨日より味が良い。
バンは満足そうに食べた。
トマが隣で聞く。
「バンさん、明日行っちゃうんですか?」
「ああ」
「もっといてもいいのに」
「飯はうまいけどな。ここにいても酒場は増えねぇ」
「オラリオには、たくさんあるんですよね」
「らしいな」
「神様にも会うんですか?」
「向こうから来たらな」
「ファミリアには入らないんですか?」
「入らねぇ」
「どうしても?」
「どうしても」
「神様に誘われても?」
「断る」
「すごいなぁ」
トマは本気で感心していた。
バンは苦笑する。
「すごいことじゃねぇよ。俺は俺のままがいいだけだ」
「僕も、いつかオラリオに行けますかね」
「行きたいのか」
「少しだけ。怖いけど、冒険者ってかっこいいから」
「怖いなら、まず飯食って身体作れ」
「そこからですか?」
「そこからだろ」
バンは椀の中の肉を一つ、トマの椀へ放り込んだ。
「食え。棒振るにも、逃げるにも、腹がいる」
「はい!」
トマは嬉しそうに肉を食べた。
その夜、バンは再び納屋で横になった。
地図は懐に入れてある。
少量の干し肉と、村人たちが持たせてくれた硬いパンもある。
行商人からは、小さな塩の袋も貰った。
旅の準備としては悪くない。
バンは右手を上げ、指を軽く動かした。
強奪《スナッチ》。
この世界では、まだ感覚が遠い。
だが、少し分かってきた。
地上の魔物は、魔石を持たず、肉体を残すものがいる。
ダンジョン産モンスターは、魔石を持ち、灰になるものが多い。
神の恩恵を受けた者たちは、ステイタスという理で強くなる。
世界の仕組みが違えば、盗り方も変えればいい。
バンはそう考えた。
「要は、慣れりゃいいんだろ」
天井を見上げ、笑う。
神様が歩く世界。
ダンジョンが魔物を生む世界。
人が背中に神の文字を刻まれ、強くなる世界。
そんな場所に、不死身ではない赤い旅人が一人。
神の恩恵もなく、ステイタスもなく、ファミリアにも属さず、飯と酒を求めて歩き出す。
「面白くなってきたな」
バンは目を閉じた。
明日は、オラリオへ向かう。
まずは酒場。
それから飯屋。
ついでに、迷子の神器探し。
神様とやらに会うのは、その後でいい。
第3話でした。
修正版では、神の恩恵、ファミリア、ステイタス、ダンジョン、魔石について、村人たちの会話を通して整理しました。
また、バンが神の恩恵を必要としない理由や、《強奪(スナッチ)》がこの世界の理にまだ馴染んでいないことも改めて描写しました。
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1日10話以上!
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ストックある限り全部!
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